構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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Time flies

ずいぶんと時間が経ったような気がする。4年前の2月6日は、日本郵政公社のロゴマークを発表した日だ。サンフランシスコ湾に浮かぶ外輪船を本社にしたランドール社の関係者がデザインしたとかで、日の丸をなお角張らせた朱の活字が鮮やかだった。国民的な大議論の結果発足した国営の公社であった。企業会計制度を導入したり、民間的な経営手法を導入して、単年度予算制度に縛られていた役所時代と訣別する儀式のような高揚感に包まれていた。前島密翁の縁戚の関係者も出席で明治の創業の式も斯くやとの賑わいであった。世界に拡がる郵政関係者からの祝辞も寄せられ、外国プレスも参加していたから、筆者はロゴマークの解説を即興で英語の解説にした。ヒマラヤの山並みや、アフリカの砂漠・密林、中東などの戦乱の中の、郵政の同業者に対する思いも込めた。職場の士気は大いに上がった。郵政はもともと公企業としての経営効率や、サービスの水準は、市中の金融機間とも遜色はなかった。五木寛之氏の原作になる映画『大河の一滴』が公開されたときも、金沢の町の郵便局長が算盤を使う場面には、最新鋭のコンピュータを使っているのにと現場のクレームがついた由で、世界最大のオンライン網としての郵便貯金システムなどの更改も公社になってから正月休みを返上して行われた。しかし、発足の初夏の頃には民営化の話が蒸し返され、一年を過ぎる頃からは、公社の中も民営化を前提とする話に迎合する向きが大勢となり、後の一年は、法の支配もなおざりの我慢比べ大会のような話で、公社を退任した。公社は民営化準備の推進団体に、総裁以下変質した。

 小泉政権では民営化が改革の処方箋とされ、高速道路の公団の民営化があり、郵政は『本丸』とされた。ノーベル賞授賞者のスティグリッツ教授も、他にやるべき重要なことを見逃すためではないかとの趣旨を、近刊の書の日本語版に書いているが劇場型のマスコミ動員型の政治が推し進められた。傑作だったのは有楽町の日劇前での『あすなろ村の郵便局』の紙芝居で選良の国会議員が集まって、ばら色の未来を喧伝した。バブル経済後の急激な信用収縮が大停滞の根幹だから、デフレ克服と景気回復を優先すべきだとの冷静な議論は熱狂にかき消された。内閣府の後輩が、官から民へ、中央から地方へ、小さな政府へとのマントラを唱えだすに至って、さて、郵政は官なのか、地方の郵便局長が官であるはずがない、地方へとは口ばかりで中央統制ではないのか、小さな政府と言うが、本当に大きな政府なのか、そもそも税金の投入のない郵政事業だから根拠のない話だと反論しても、民営化の呪文ばかりで、経済学の理論的な実証も他国の失敗の現実も省みられることはなかった。大正の頃の、天からお札が降って来たと警察署長が信じたような話が霞ヶ関に蔓延した。民営化の法案は、いったん参議院で否決されたが、憲政の常道に反して、解散総選挙を強行して、刺客選挙があり、得票数と議席が乖離するという小選挙区制の欠点がもろに出て、法案は無修正で成立した。参議院否決を報道した

フィナンシャルタイム紙は『独裁の匂い』との筆者のコメントを引用したし、衆議院再可決の日は、ニューヨークのジャパン・ソサイエティーでのシンポジウムに参加していたが、郵政民営化で本当に官から民への資金還流があるのか憂慮する意見のほうが圧倒的で、公社の形態の方が、地域社会での金融閉鎖を招かないですむし、むしろ巨額の郵貯と簡保の国民資産をどう活用するかが問題で、国が徴用してしまうのはおかしい、ハゲタカのお先棒を担ぐのは国益に反するとの議論も聞いた。在京のアメリカ商工会の報告書は、民営化がベストエフォ―トとのご託宣で、ネイティブの知人などは、英語自体が強圧的な命令口調の英語だ、美しい英語ではないと弁明したが、日本に強制したわけではない、政府がが受け入れたのだとの強弁で、その実際の背景は、80年代からの日米構造協議の内幕を描いた関岡英之氏のミリオンセラー『拒否できない日本』や、故吉川元忠先生の『マネー敗戦の政治経済学』が明らかにしているとおりだろう。日本の経済・社会制度をアメリカ型に改変してしまうドクトリンで、いみじくも『米営化』と呼ぶにふさわしい。カナダは、アフガニスタンでのタリバン掃討作戦には出兵したが、フランスやドイツと同じように、隣国でありながらイラクには参戦しなかった。首都オタワの空港には、グローバリズムの崩壊と題する単行本がベストセラーになって積み上げられていたが、ボストンの母校での卒業生のシンポジウムでは、国際政治の教授がブッシュの先制攻撃論や単独行動主義を称揚したときに、フランス人の卒業生が、自由の女神はフランスが寄付したと発言して、紛糾したのも、曲がり角であった。市場原理主

義は、富める者が先に富み、格差の発生は止むを得ないとして、経済が活性化すれば、いつか配分が起きて、世界は安定する、戦争がなくなり平和が世界を覆うと言う冷戦後の楽観論だがそういう事態にはならない。世界的にも貧富の差が拡大して、富める国と貧しい国との格差は拡大して、国境がなくなるなどの幻想のグローバリズムは退潮に向かっている。アジアの諸国でも資本の急激な膨張・収縮で、経済危機が頻発した。筆者が関心をよせる情報通信政策の分野でも、電波の配分方法を巡るオークションの制度などで同じような問題が生じた。欧米ではオ―クションが情報通信の発展を促すと考えられ採用されたが、実際には技術の革新の成果が発展を支えたのであって、そうした制度の採用は累々たる損失を残しただけであった。幸いにしてこの国では、その制度採用は、相当の圧力をかわして回避されたのは僥倖であるが、接続料、光インフラのことなど、影響は甚大であった。最近、その昔、ノーベル賞受賞者を多数輩出したアメリカ電話電信会社のベル研究所のOBに会ったが、AT&Tの分割は、全くの失敗であったし、米国の技術の優位が失われたと吐露して、もう故地に戻る気もしないと嘆いていた。カリフォルニアの電力危機を招いた、エンロンの粉飾をこの国でも賞賛する輩が、青森や山口で、発電所を建設して電力の解体・自由化を画策したが、その悲劇も幸いにして回避された。僥倖という以外に言葉を知らない。有楽町の外国特派員協会で、年金はいらないとか、天皇制よりも大統領のほうがいいとか、口走っても、マスコミにはとがめる者もいない有様だった。僅かに報じた夕刊紙のコピーが、刺客選挙の最中に回覧され、期せずして君が代の大合唱が起きたのは、9月10日の広島県府中市の市民会館の夕刻の光景であった。憂国の同志が、日本武道館の座席を埋め尽くしても、マスコミは無視を続けた。去年の春のことである。新古典派とよばれる経済理論や、ネオコンと呼ばれる全体主義崩れの政治思想が、拝金主義とむすびついた、この国の文化と伝統の根幹を破壊しようとした動きの中での現象だから、いずれはその背景が明らかになろうし、情報は針の穴からも染み出すもので、隠し通すことはできない。

 スイスに、ヌイシャテルと言う美しい湖畔の町がある。そこには、19世紀の末に、第一回の万国郵便連合の総会を開催した建物が残されている。四面の壁には、世界に広がる郵便のネットワークを意識した当時の国名が刻まれている。ちなみに、今のイランのペルシャ、インド、中国の次に東漸して、ジャポンと、刻印されている。首都ベルンの駅近くに、ベーレン・ベルン(ベルンの熊の意)と言うこじんまりとしたホテルがあって、日本の代表団の定宿となっている。イギリスや、豪州などの関者の部屋も決まっていて変わることがない。郵便の世界的なユニバーサルサービスを維持しようとの努力が、具体的に感じらられる土地柄だが、郵政公社発足後の公社幹部は、スイスの万国郵便連合の会合に出席して、もうユニバーサルサービスは通用しないと思ったようだ。もう新聞種になった国際物流の夢物語で、松本清張の『空の城』のような話となって掻き消えた。

世界の郵便秩序がぐらつく中で、日本は安定勢力としては機能せず、むしろ破壊する勢力に加担した。これまた僥倖の部類で、オランダの業者との陰謀は潰えたから、むしろ、スイスとの往還の中で経験した、EMSという郵政庁の共同になる国際急送便の伸長が伝えられている。携帯電話の伸長は世界でも顕著であるが、まだまだ、郵便のユニバーサルなネットワークにはかなわない。それを破壊することではなく、伸長させる側に組すことが国益にも合うことではないだろうか。

 韓国が竹島をモチーフにして切手を発行したときなども、対抗して発行するような気力はなかった。プリクラ切手と呼ばれた額面以外の余白に写真か何かを印刷して、領有権主張をしようとした民間の試みも、沙汰止みになった。美しいデザインかどうかは議論の余地はあるが、国の構成要素である領土の問題について、国際的な主張をすることは当然である。ちなみに、韓国の切手担当者は、日本のふるさと切手(ふるさとを題材にした美麗な切手の発行もいつの間にか発行されなくなったが)の美しさを意識して作成した由である。万国郵便連合が好ましくないとしているのは、ジェノサイドやその他の暴虐を題材にした切手の図案であるし、筆者も、アメリカ郵政が、第二次世会大戦の記念切手を発行しようとして、その中に、原爆投下の図案の切手発行予定があり、その阻止のために説得を行ない成功したことがあるが、単に波風を立てないために切手の領有権主張の図案も阻止すると言うのでは、切手発行件に内在する公的な意図、『小さな大使』の役割を捨ててしまうものであった。

郵便の民営化推進論者の構造は、中華人民郵政が、中国郵政と簡略化して、最近台湾で中華民国郵票の表現を台湾郵票と変える微妙さも、決して味わとうとしない粗雑さだと思う。

 昨年早々には、民営化準備の日本郵政株式会社が設立されている。郵政公社の評価も定まらない中で、今までの郵便貯金と簡易保険を廃止して、あらたに、銀行と保険会社をつくる過激さだ。旧勘定となる、巨額の郵貯と簡保の資金は、新設の独立行政法人が管理すると言う。地方の郵便局の収支赤字を、都会の収益で維持しているから、特に小さな郵便局の経費の七割は郵便貯金で支えてきたから、四つの会社に分社化するというのでは、地方の郵便局の維持には無理がある。収益を上げる民間企業が、不採算の地域でもサービスを維持すると言うのが二律背反で、矛盾した話である。郵便事業は、フローの経済原理で、いわば日銭の商売で、景気動向や、特に金融の景気に依存しているし、国際郵便であると、貿易の指数に連動する。貯金や保険はまさに、蓄積の世界で、保険は特に長い時間をかけて、国民の寿命に根幹を頼るところがある。デフレの政策の持続の結果で、この国の全体の資産が縮小し、あるいは海外に流出したが、景気回復になり、三つの事業が一体で経営されるのであれば、赤字基調の郵便を支えても、地域の郵便局の拠点を支える力は十分に残っているのではないだろうか。配達をする郵便局を大幅に減らして、窓口だけの郵便局にするというリストラ案が横行しているが、画期的な技術革新や、輸送力の向上などの機動化が伴うのであれば格別、サービスダウンが厳然として起きるのが実態であるから、説得力に乏しい。新聞が朝刊が当日

に届かず、配達中の局員が年寄りや子供に気配りする『ひまわりサービス』などは、民営化論者の眼中にはないようだ。新たな金融業務や損害保険分野に進出して『民業圧迫』になる事業計画などは、内外のしかし一部の資本家を除いて、誰も求めていないのではないだろうか。地域密着型の特定郵便局は、『改革?」の阻害要因とばかりに、廃止を迫られ、定年を縮めたり、よその土地に転勤を強制されたりとの対策が進行したが、不満がくすぶっている。失望は広がり、全国で多くの郵便局長が職場を去るという。明治以来、営々として築き上げてきた郵便局網を破壊して、ひいては、地域社会の没落に加担することは避けなければならない。田舎で食えなければ都会に出てくればいいなどとの、ニヒルの経営者の言に組することはできない。

 今だから話そう形式の郵政民営化を手がけた官僚組織の懐古談によれば、金融と非金融の分離が大目的であった由であるが、郵便局で集めた資金は、国の破綻に手を貸したのか。むしろ安全網としての役割を担ったのではないか。数年前、地方の金融機関が危機にさらされたとき、安定剤の役割をはたしたのではなかったのか。国鉄の負債を一兆円肩代わりしたのは、郵便局ではなかったのか。地方や全国から集めた零細な資金の集積を無駄遣いした責任をとがめる雰囲気もない。言い古されたことであるが、もともと郵便局の経営は税金で補填した歴史も事実もないから、行政改革としての人件費分の税金の節約にもならない。新しい事業の展望も見取り図もはっきりしない中で、地域切捨て策を先行させている。心臓が悪いのに、手足を手術して、患者の体力をいよいよ弱らせているのではないだろうか。

村上ファンド、ホリエモン、日銀総裁の利殖などに象徴される拝金の経済市場の腐敗を是正することのほうが先決ではないだろうか。郵政株式会社は、3000億円の資本金を受けて発足しているが、国債を買っている。さて、国庫に還流した資金はどのような政策経費に使われたのか。私有の郵便局舎を買い上げることを進めているという。その昔、国の財政力が弱かった時代にネットワークを拡張すべく、大規模な投資を民間活力で行った歴史は捨象されているかのようである。古びた郵便局は、過疎地であればなおのこと、もう二束三文にもならないが、国の通信事業に協力して、新局を落成させ、電柱を立てるために山から木を切り出した歴史もなおざりのままである。郵貯が2兆円を超える利益を出すのであれば、民営化のための自己資本の充実に汲々とするよりも、まずは、国民に利益をどう還元するか頭を悩ませるほうが順当で、その次に設備投資、もちろん職員の福利厚生のために配分を考えるのが公正なのではないだろうか。アルバイトの臨時職員で、首都圏であれば、300万円の年収がないと生活ができないことがわかっていながら、人材派遣業の対象分野とのみ考えて、コストダウンをのみ追及することが、優れた経営だろうか。郵政公社が発足して直後に支社を廃止する動きがあった。広域の管轄をやめてて、県単位の営業本部などを設けて経営を効率化しようとの発想であり、例えば、熊本の支社をやめて、都会地の福岡に拠点を据えるという考えで、もっともらしく聞こえるが単に代官組織の拡大にしかならず、効果を発揮しない。現在では、中央集権の度が過ぎ、メールで、直接現場に東京から指示するという手法が風靡しているようであるが、現場の実態との間に大きな乖離が見られ、むしろ人件費は増大し、中央の要員の数は肥大化している。

霞ヶ関の本社ビルでも手狭になり、武道場は不要として閉鎖したのは象徴である。市場原理主義は口はともかく、地方分権を大事にしない。郵政の経営は、いわば、道州制で行われてきた。

北海道

、東北、関東、最近では南関東に支社を置き、東京直轄であった沖縄に支社が新設されるという道州制に近似した経営体制で、中央官僚組織の支配の幣害が緩和される体制となっていた。現実の日々の業務運行の責任は、支社長に集中していたが、現場力よりも、内部統制を重視する手法への変更の中で、支社長の権限は形骸化してきている。地方間の競争と言うよりも、中央への忠誠で、起立して迎えるとかいった類の話になりつつある。執行役員制度も内部統制も、縦割りの強化であり、一握りの役員の権限強化であり、今までなかった官僚支配のシステムのが、郵政の組織で再現されつつあるようにも見える。日本の行政組織の中では珍しくも日銀や大蔵省からの人事を受け入れたことはなかった。公社発足の時に日銀出身者の人事受け入れがあり、国土交通省からの出向者は、先述の物流事業の導入の仕事で、受け入れられたが最近では、民間企業や、コンサルティング会社などから、大量の人材が参加しているようである。市中銀行の頭取が郵政会社の社長として起用され、利益相反の問題が話題となったが、自動車製造会社出身の副総裁の後任には、元金融庁の長官が就任する由であるが、天下りによる、事業組織の支配につながる話で、しかも、事業を承継する側と、される側との責任者が同一人物になると言うのでは、巨大な郵貯や、簡易保険の今までの集積された資産や利益の配分が、私益を離れて公正に行われることを重視する観点がなおざりにならないだろうか。国民資産の徴用になれば困るのである。財政赤字克服の基本は、西郷南洲の言ではないが、入るを図りて、出ずるを制するではなかったのか。景気を回復して税収を増加させると言う王道を見過ごして、急激な信用の収縮と、デフレ政策の温存で、国民の富を失ったために、根拠のない構造改革論を、市場原理主義のご託宣に従って振り回しただけではないのか。スイスの会合で出会った、アルゼンチンの郵政の関係者は、民営化論を賛美していたが、ニュージーランドで民営化した郵便ポストと同様に歴史のかなたに消えてしまった。

 日本は貧困層の比較で先進国中二番目の格差国家となった

格差の拡大は、社会の不安や、犯罪の頻発や治安の悪化を生み出すばかりでだ。郵政の民営化が成功した国もない。アメリカの郵便は国営の改革を高らかに謳いあげている。郵政民営化は国益を侵すと反対運動を先導され、昨年他界された故岡野加穂留明治大学元学長が好んで引用したイタリアの政治学者クローチェの名言であるが、『明日の天気は変えられないが、明日の政治は変えられる」。政策の良否で、国の盛衰も敏感に反応する。郵政民営化を含め、根拠なき構造改革政策の見直しをして、不要の混乱を回避しなければならない。地方に残された日本の伝統と文化の再生を期することが肝要であり、国益である。

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