構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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L'esprit du Japon 2

大和ごころ入門については、紹介した。

「日本を改革する処方箋はひとつしかないと思う。日本に内在する「日本の善」の力によって、原価日本にあらわれている悪を排除するのである。外来思想の知識をいくら身につけても、それだけでは日本国家を危機から救い出すことはできない。過去の日本人の英知から虚心坦懐に学ぶことが、現在何よりも必要とされているのである。」(まえがきより)

第二章は、吉野の山で国体について考えるとあるが、南北朝時代にも、現在の日本と同じように国体が崩壊する危機があったとして、その時代の英知を学ぶ必要を訴えている。南朝の忠臣北畠親房が神皇正統記の冒頭で書いている、「大日本者神国也(おおやまとはかみのくになり)}という文言によって、時の権力と対峙しても、正当性を主張して、真の改革とは何かを考える英知を見つけ出そうとしている。

日本では、権威と権力が区分されているのが国体、国柄であるという。大東亜戦争に敗北して、仮に日本が協和濃い苦になっていたら、権力と権威を一針に体現した小泉大統領や、田中相当が生まれていて、絶対的な正義の名の下に、権力に反抗すれば縛り首になる恐れがあったかもしれないとも、前書きで書く。

法と掟とが矛盾するときどちらをとるかという問題があるが、法律は社会全体に及んでいるようであるが、法律を守らないということはまあ仕方がないという状況もあり、しかし、掟を守らない人は、全く相手にされない。一番の無法者が司法関係者である場合もある。単なる司法村の掟にしたがっているだけの場合もある。先輩後輩とか、ののしり方とか、秘伝のやり方とか、法が機能せず掟の世界もある。

命を賭けて筋を通すというのが日本の伝統、南北朝動乱の時代の死生観が日本のあるべき姿ではないか。後醍醐天皇は、天皇親政を実現しようとして、幕府と対立して結局京都を追われて、奈良の吉野に南朝をひらいた。三種の神器の正統性は、南朝にあり、志半ばで無念の生涯を終えた。

「玉骨はたとひ南山のコケにうずむるとも、魂魄は、常に北闕(ほっけつ)の天を望まんと思うなり」として、後醍醐天皇陵だけは、吉野から京都の方向の北を向いているとい無念をこめたつくりとなっている。

後醍醐天皇の崩御の後に天災地変が続き、後醍醐天皇の霊を鎮めるために足利尊氏は天龍寺を建てるがそれでも鎮まらず、動乱の時代のそれぞれの人の業績を性格に記すことで、つまり、歴史の真実を記することで、治まった。その記録が太平記である。

保守というのは、目に見えない世界、精神文化に心を向ける当、その霊域を失火に守れる考えだと思う。茶道における扇子のようなもので、茶道の世界ではただの扇子ではなく、ひとつの場を作る。扇子で客と主人の境界を示す。

保守思想は情緒が大切であるから、例えば、国旗国家を法律で縛ることには違和感がある。愛国心を法律で明文化することにも抵抗がある。伝統は法律で変えることはできないから。自然に伝えられるべき情緒的なものが、中途半端な権利意識や間違った歴史認識で、随分とゆがめられている。

日本の国体は現行憲法にも引き継がれている。権力と権威とを分けてあり、それを勝手に崩してはならない。

イエス・キリストは、捕まったときの態度は悪く、ローマ帝国のユダヤ総督のポンショ・ピラトの前に連行されて、「お前はユダヤ人の殴打といって、なんか扇動しているが、お前はユダヤ人の王なのかと尋問されると、それは、あんたが行っていることだと反論しそれ以降の尋問に答えない。法廷侮辱罪になったのではないか。当時は、死刑である。その後、役人がやってきて、服をはがして、つばを吐きかけ、お前はユダヤ人の王なのかと、侮辱しても、「この人たちはやっていることがわかっていない、だから、許してください」と神に祈る。役人たちはせせら笑い続ける。精神的なことがわからない。官僚の世界である。

本質的な価値の多様性、寛容の精神、そして再起への導きが奈良の吉野にはある。

日本の場合は、国家の概念自体が、近代国家ではなく、農村を忠臣とするみんなの共同体、社稷ではないかと。土地の神(社)と五穀(米麦粟豆黍もしくは稗)の神(稷)ではないかと。人知で何でもできるとなると非寛容の発想が忍び込む。

共存というのはヨーロッパ的な思想。人間の自己絶対化は、全体主義への危険がある。勝ち組、負け組みをも作り出す。北畠親房が神皇正統記で最も警戒したのは、自己絶対化の誘惑で、相対主義多元主義が必要であり、天皇や大臣は寛容の精神で多元性を担保すると説いている。

グローバリゼーションでないといけないという発想自体が、実は古い発想である。愚管抄の慈円が、中国の礼記を読んで、それが当時のグローバルスタンダードで、日本もそれに備えるべきだと主張したのと同じである。日本では、政権や体制の交代はあっても、王朝の交代はない。宇宙物理学者を長とする有識者会議が決める話ではない。

「小泉首相は宮中で行われた新嘗祭の神事のときに、御簾のうちで行われている一つ一つの所作が暗くてよく見えない。そこで傍らにいた三権の長のひとりに「よし、皇室は改革すべきだ!と小さな声で叫んだそうです。本当にね。そのひとことでわかりますね。今の政治家の薄っぺらさが、小泉改革とはなんだったのかと。悲しくなるよね。今の政治家は皇室の神事について何も知らない。無知なんですよ。」

新自由主義には、一人ひとりをばらばらにして、中心を破壊する傾向が内在している。

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