構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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Market Fundamentalism is Dead 15

戒厳令が既に5月20日に出ていたが、天安門事件が起こったのは、1989年6月4日のことである。20年が経つ。周恩来が死去して、四人組が追悼の花輪を撤去したことから起きた、1976年4月5日の天安門事件と区別して、六四天安門事件という。
鄧小平は、人民解放軍を出動させ、徹底的に弾圧したが、戦車の前に立ちはだかる凄惨な写真や映像が全世界に配信され、共産主義の暴虐の先祖返りと糺弾された。文化大革命が終わって、その前の年までは北京の春とも呼ばれ、例えば日本の大晦日のテレビ番組で、行く年来る年の映像が、凍てつくような北京市内の天主教の教会で祈る人々が、国内の神社仏閣での行事と並んで実況中継されたこともあった。教会の売店では、毛布を着込んだような貧しき人々の群れのような信者に、香港印刷の聖書や、賛美歌の音楽テープが売られていた時代だ。上海の租界の日本人中学校を出て北京に残留した朝鮮民族の大学教員が、親しげに労働党の機関誌を見せ、日本の月刊雑誌をむさぼるように読んでいた。コーヒーを戦後初めて飲んだと、北京飯店のレストランで内心を明かした時代だ。党の世界信息の他に、海外の短波放送も、ラジカセで床の間の陰で聞いていた時代だ。日本の衛星放送も上海や北京では受信できるようになっていたから、目立つ大型のアンテナを建てても差し障りのない施設では、東欧のようには行かなくても、日本の衛星放送の漏洩電波を受信することができた。携帯電話は無かったが、ホテルで箸を投げてよこすサービス水準の低さはあっても、北国の春と言う演歌が、あたかも自国の歌のように流行した。高麗航空のスチュワーデスが、北京のホテルの売店で、ロシア製造のカメラの土産を買っていた時代だ。
天安門事件は、東欧の動乱とも連動している。奇しくも、6月4日は、ポーランドでは労働組合の「連帯」が、雪崩現象のように選挙に勝利した日である。ポーランドでは、経済混乱があったが、ローマ法王にポーランド人のヨハネス23世がが就任しているというヨーロッパの権威の世界が広がっていたことは大きな違いであったにせよ、戦車と銃口を自国民に向ける弾圧は起きなかった。鄧小平は、ポーランドの共産党の崩壊を見ながら、一党独裁の権力の維持をはかったことは間違いないから、天安門事件は、東欧の動乱とも関係しているから、比較してみることが大事だ。
ミルトン・フリードマンが北京と上海をを訪問したのは、1980年である。香港は、市場原理主義者の最も理想とする規制のない、英国植民地であったが、フリードマンは、共産党の幹部を前にして、香港には政治的な自由は無いにしても、経済的な規制が無いから、理想的な体制であると説いている。政治的な自由は無くとも、経済的に規制が無いという状況を褒めそやす市場原理主義の教祖の講義は、共産党幹部には、共産党独裁を維持するための「新思潮」であったに違いない。党幹部にとっては、国営企業を民営化して経営者として居残り、利益・財産を私物化できるとのご託宣は、魅力的なものであったに違いない。しかも、中国における市場開放は、先進国の民主主義の政治経済体制のすすめではなく、中南米のチリの独裁政権、ピノチェットをモデルとするようにとの勧めであるから都合がよかった。銃口よる従来通りの政治弾圧が伴い、一党独裁を継続するが、金儲けをする猫は白猫でも黒猫でも黄猫でもいいと、市場原理主義のミルトン・フリードマン教祖の託宣を鄧小平は受け入れた。毛沢東の文化大革命は残虐非道のものではあったが、大義名分は農民と労働者であって、鄧小平の開放政策のように、工場労働者の賃金を抑え、農村部からの盲流を促進するものではなかった。1983年に、鄧小平は、市場開放にあわせて、国内の不満分子を取り締まるために国家武装警察を発足させているが、ストライキや、抗議行動などの「経済犯罪」を取り締まるための、40万人規模の組織である。事実、開放政策で、労働者、農民の不満は高まり、その頂点に達したのが、六四天安門事件であった。
ミルトン・フリードマンが、ローズ夫人と共に、上海を再訪したのが、前年の1988年9月である。中国共産党が市場源主義の党に変貌したことを確かめる旅のようで、趙紫陽と会談し、上海の党委員会の書記長であった江沢民と面会して、民営化などの市場経済の政策継続を念押ししている。チリのピノチェットはフリードマン流の市場原理主義の政策のあまりの過激さに、多少の路線の逸脱と現実との妥協を見せていたから、フリードマンはこれに不満で、中国共産党に対しては、チリ以上の強硬な市場原理主義政策を実行するように求めている。中国共産党は、その勧めを、天安門事件は不可避であったとする米国のキッシンジャー氏などの支持も得て、忠実に実践している。
六四天安門事件後の鄧小平は、不満分子としての趙紫陽などを追放して、市場原理主義の政策の実践に狂奔する。人民に銃口を向けた解放軍を掌握する。全国各地に自由貿易地域が建設され、中国全土の香港化が促進された。鄧小平は南方視察を行い、外国からの直接投資を自画自賛して、瞬く間に外国資本の工場と化し、あらゆる低賃金労働の集約が行われた。一部の者に富が集中し、太子党の出現に見られるように、党幹部の子息は億万長者と化し、中南海は、人民解放軍が門番になって、高級自家用車の誰何に当たる地域になった。中華人民共和国は、市場原理主義を受け入れ、中・米は同盟国となった。ダボス会議で誉めそやされる新自由主義の優等生の国と成りはてている。六四天安門事件は、共産党の先祖返りの殺戮とされるが、誤りで、むしろ、中南米で起きた独裁、経済破壊、文化と伝統の破壊、殺戮と全く同質で、それ以上のカルトの実践の暴虐でしかないことが認識される。日本の郵政民営化など構造改「悪」の破壊も同根である。

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