構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

« Indecent Interval | トップページ | Market Fundamentalism is Over »

Kuroshio 10

吉野金峰山寺本堂は蔵王堂と呼ばれ、現在の建物は太閤秀吉が権勢を誇って「吉野の花見」を催す三年前一五九一年の建立である。蔵王堂の建物自体が偉大な国宝だが、その中に色鮮やかな蔵王権現の立像三体が秘仏として立ち並んでいる。本堂の東壁には万治四年(一六六一)一月に大和下市の商人が奉納した縦二八八センチ横四五五センチもある大きな絵馬が掛かっている。題して「廻船入港図額」という。当時の渡海船の周辺での荷役や艀の様子や船の甲板や船室の構図が分かり、後部の甲板だけで二〇人はゆったり座っているから相当大きな船である。船の艫には、大きな丸の印の旗が掲げられており、後醍醐天皇の官軍の旗を思い出させる。

 近畿地方の山村では、初夏の田植えのころ飛魚(とびうお)を食べる習慣があったそうだが、飛魚は黒潮に乗って瀬戸内海に入り、あるいは熊野の沖にも現れて、例えば瀬戸内海の広島の見島の沖で獲られた魚が渡海船で吉野に運び込まれたものと思う。吉野で、紀伊半島の中心部でもう海は見えないし、海と全く関係ないような山岳のお堂の中で、海との深い結縁を絵馬が語りかけている。平安時代の蔵王権現三尊像は鮮やかであるが、絵馬の方は時代が新しいのに、いずれは古来の白木の一木に朽ちていくのではないかとも思うほどに寂びてきているが、しかも神仏習合の脇に絵馬を献額することは本源的な海の伝統を思いださせるかのようである。蔵王堂の石碑の多くには、岩組という寄進元の名が刻まれているが、講の名前か紀伊半島の海を取り仕切って繁栄した廻船問屋の係累であろう。

 ちなみに、『ヤマト 古代祭祀の謎』(小川光三著、学生社、二〇〇九年)によれば、卑弥呼の陵墓に比定される箸墓、三輪山、室生寺のある室生山などを含め、東の伊勢から淡路島にある伊勢の森まで、東西の一直線上に太陽遺跡が点在して「太陽の道」をなしているとしているが、蔵王堂は紀伊半島の陸塊の太陽の道の中心に位置する。吉野は山間部ながら東へは伊勢の大湊へ抜けることができるし、西は金剛山を越えて河内の住吉や和泉の堺の浦へも容易につながるから、吉野から熊野詣でをするには困難な山道をたどるにせよ、三方の海への結節点でもある。反逆を企てた役行者小角(おづぬ)が、伊勢から伊豆の嶋に流されて伊豆山神社を開山してまた吉野に戻った話や、伊勢国司の北畠親房が筑波嶺の麓で神皇正統記を書いたことにも触れてきたが、月山の修験道など東国との海の往来も垣間見ることができる。役行者は最初海の熊野から入り縦走して吉野に入ったとの伝承があるが、山伏の奥駆け修行も、熊野から吉野への行を順峯(じゅんぷ)、吉野から熊野へ向かうのを逆峯(ぎゃくふ)と名付けて、海からの方向を正としている。

 第四〇代天武天皇の諱は大海人(おほしあま)で、凡海(おほしあま)氏の養育を受けたから即位するまで大海人皇子と呼ばれたのである。壬申の乱で吉野から挙兵したのも海人であることを宣明している。天武天皇は天文台を設置しているほどだから、当然海の潮の満ち干と月の引力の関係についても通暁していたに違いない。航海術には北極星の方向を定めることが必須だが、天武帝が天皇という天の支配者である北極星を意味する尊号を創始していることも意味深い。凡海氏は海部一族の統率者(伴造)で、壬申の乱では主力の軍事力となって、大友皇子の近江朝廷軍を撃破している。

 海部氏はその名前の通り漁業や操船航海術で朝廷に仕えた品部の一つで、現在も愛知県と徳島県に海部郡という郡が残り、佐渡島には海府なる地名が残っている。日本全国に「あま」の音に因む地名が残っているが、わが産土の奄美大島などはその典型であろう。海女も尼も「あま」と訓むが、いずれも女である。南島では「あじゃ」が父親で「あま」は母親である。信濃の安曇氏も海部の一つであるが、わが国最初の本格的都城である藤原京を設営するに当たって天武天皇が信濃の地形に強い関心を寄せたとされるのも、海洋民が内陸部に発展していく過程を見るために執心したものと考えられる。先述の「太陽の道」に擬えて見てみると、常陸の鹿嶋神宮と諏訪の大社、そして出雲大社とは東西一線上に並び、その中心に諏訪大社が位置する。

 海部氏の祖神は天火明命(あめのほあかりのみこと)であるが、夜空に燦めき航路の指針となった星々に由来する名前だろう。丹後の海部氏は丹後国司であり、海部一族の尾張氏も尾張の国司であり、熱田神宮は代々尾張氏から大宮司を迎える。住吉大社も、津守すなわち港を守る海部氏が、代々の宮司家である。宗像大社同様に、丹後の籠(この)神社の奥津宮は舞鶴湾の湾口にある冠島であり、今ではクバの木はいざ知らず、常緑樹林が全島を覆い、オオミズナギドリの繁殖地として天然記念物となっている。日向日南のクバの繁茂する島が、ウミスズメの繁殖地として天然記念物の島となっているのと同様である。

 かつて冠島は凡海嶋(おほしあまのしま)と呼ばれたという。壬申の乱は月と星空を愛で海を力の源泉とした人と陸封ゆえに外来の彩色文明に憧れ権力の源と仰いだ者との騒擾対立であったか。(つづく)

« Indecent Interval | トップページ | Market Fundamentalism is Over »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: Kuroshio 10:

« Indecent Interval | トップページ | Market Fundamentalism is Over »

2022年2月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28          

興味深いリンク