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Kuroshio 11

「シラス」と書くと、南九州の火山灰の台地の土で、梅雨の頃には泥状になって崖が崩落したりする。宅地造成地で道が排水路になってしまうぐらいに亀裂が入りやすく、土の粒子が水分を吸収しないからである。最近ではビニールの覆いを掛けたり、コンクリートを吹きかけたりして、災害防止をしている。白砂ではない。似て非なるからカタカナで書いてある。海砂の方は、わざわざ真砂(まさご)と呼んでいる。白州や、白洲もある。川の流れの中に、もっこりと砂が溜まって水面上に顔を出していれば、白洲である。地名の白子は、しらこと千葉では読んでいるし、伊勢湾ではしろこであるが、砂ではないようだ。白須の姓があるが、地名はほとんどない。新羅のしらに近いか。
 お白洲と「お」をつけると裁判・評定の場所となる。お白洲(おしらす)は、江戸時代の奉行所などで、被告が座る場所である。江戸南町奉行所の平面図によれば、最上段には奉行などが座る「公事場」と呼ばれる座敷が設けられ最下段には「砂利敷」が設置され、その上に敷かれた莚に原告・被告らが座ったという。奉行所のお白洲には屋根が架けられるか、屋内の土間に砂利を敷いてお白洲として用いていた。お白洲には、突棒、刺又、袖搦とかの怖い捕り物道具がおいてあったという。お白洲と言うからには、そこに撒かれた砂は、色が純白でなければならない。白は無実の前提であり、裁判の公平と、神聖さとを象徴している。お白洲のない時代には、浜辺の処刑場が首切り浜となった。岬の陰の湧き水があり、木陰があるような一見のどかな、しかし、冬場の寒風は遮るが照りつける夏の日差しを避けるための木陰があり、人気はなく、土間の茶色の土ではなく、砂地の浜が照り広がる崖の下が適地である。波頭が寄せては返す景色が遠くに望めるような場所で、納得がいく。
 神社の参道なども、土埃の立つような道ではなく、砂利を敷いてあるのは、海との往還の名残である。古い時代の様式をとどめておれば、鬼が一晩でつくったとかの伝承となり、玉石を山を駆け上がるようにして海岸から大量に運んで積み上げ、階段代わりにしてある参道などもあるが、洗練されるほどに、砂の形は、小さくそして細かくなり、色はどんどん白くなる。大量の白砂を調達することは難しいから、海の黒い石で、できれば玉砂利でとなるが、砂丘でも近くにあれば簡単であるが、それがかなわない場合には、大事な所だけに白砂は撒かれる。お白洲で、白砂が罪を清めていく。海辺の生と死の象徴であるが、社の柱が立てられる中心の場所などに、白砂が盛られる。白砂は、潮の結晶である塩の象徴でもある。冷蔵庫の氷室のないところが列島の大半であるから、塩で、塩蔵して腐敗を防いで、食を豊かさにしたわけであるから、海から遠くなった山の住人となっても、白砂を敷いて、塩の代わりの清浄を思い出し、そして、黒潮の大海の連なりの思い出をどこかに保存することも不思議ではなかった。
 現代のこの邦の裁判所のお白洲はどうだろうか。腐敗を防止する盛り塩や白砂が大切にされているだろうか。
 黒潮洗う列島の白砂はまず珊瑚礁がこなごなになって石灰のようになった砂もあれば、貝殻が砕けて砂になっている所もある。珊瑚礁の固まりの石であれば、水分を含ませて乾燥すれば、堅くなり、天然のセメントのようであるから、でこぼこ道の歩きやすさを改良するために、石灰石を割って入れた。貝殻の砂であれば、実際に星砂のように、星の形をした小さな粒子の集まりもある。掌に掬うと、指の間から、はらはらとこぼれてしまうような細い砂もある。南島では、人が死んで一定の年月が経てば、墓から取り出して骨を潮で洗い清めていた。もともとは風葬で、岬の陰で太陽の方向に向かった崖の下に葬屋を立て肉体が朽ちて行くのを待ったから、子が親を思い、生きた証の人骨が浜辺の風雨にさらされて、海辺の砂に戻っていくことを確認する儀式である。生と死の境をはっきりさせる、厳粛な儀式ではあったが、肉親の骨を洗うのは残酷であり、しかも専ら女がその作業をしなければならないから、泣女になるような苦労話である。
 浜は波が寄せるばかりではなく、海と人とが接する場所でもある。黒潮の力で巌が砕けて海の砂となり、大量に運ばれて堆積する場所である。ガラスの尖った欠片は肌に触れるとすべすべの状態になる。岩はそのうち丸まって玉石となる。ビーチロックにもなる。磯はいそごに砕け、砂は今もいさごである。黒潮の民にとって浜は入会の地であり、私物化することはなかった。明治の頃に陸奥の浜をプライベートビーチ化して、住民を寄せ付けないようにしたことがあった。異国の風俗が「浜に口を吸いあう者あり」などとからかわれたが、沖縄で外国軍が浦添の浜から住民を閉め出して六〇年が経ち、横浜の精油所や工業地帯にある海岸線も立入禁止になったままだ。皇居前広場には今も玉砂利が敷かれ、江戸湾の磯の香りを残して、常磐の松原の防風林の趣がある。海側の埋め立て地に乱立した拝金の楼閣からの風当たりを、白砂青松で遮蔽しているかのようである。

(つづく)

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