構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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2009年8月

General Election

General Election

 茶碗を手に取り、まわす。茶渋が模様をつくり、釉薬の凹凸を確かめる。款を覗くようにして一服する楽しみがあるが、道具の真贋を確かめることは容易ではない。プロパンガダが入ると、ただ一面を強調して、全体像を見せない。茶道のようにゆったりとした雰囲気の中ではないから、人間を思考停止に追い込み、判断能力をなくして、徹底的に一方的な情報を注入する。独裁者の常套手段として、思考力の低下する夕方に、聴衆がいらいらするほど待たせたあげくに大演説を打てば、腹を空かせた動物を手名づけるのと同様に、オーウェルの動物農場がいつの間にか現出してしまう。

 前の総選挙の時には、ミカン箱の上に乗るだけで候補者の人気が上がったし、レーニンの演説のように血の色のカーテンの前で獅子吼すれば、憲法違反の解散も問答無用になった。B級と分類される視聴者を対象に大量のテレビ広告宣伝が行われれば、いつの間にか、人間が羊を通り越して、あひるか、チワワのようになってしまっていた。柳の下にドジョウは二匹は居ないが、今回はどんな手法があるのだろうか。選挙までの期間が長いので、じっくりと奇策が検討されているのだろうか。札付きのワグナーの音楽祭にドイツ首相を伴って出席した元総理は、ユーゲントをもじったかのチルドレンも大流行させたし、子供達のことで、正常な時代にはマイナスのイメージの追従をプラスに転化するという操作を成功させたが、今回も綿密なプロパガンダ作戦が立てられるのだろうか。

 市場原理主義のショックドクトリンは、相手を一瞬思考停止にするほどに威圧して、一挙に制圧する。イラクのバグダッドを巡航ミサイルで攻撃して、花火大会のような光景にして、全世界に放映した軍事作戦が典型である。単なるサプライズではなく、AWEオー、ぽかんと口を開けるだけの表情を失ってしまったユングの絵にするやり方である。遊園地などで、部屋を真っ暗にして映像を投射して、手が込んでいれば、椅子ごと揺らすと宇宙船にでも乗っているような錯覚を覚える仕掛けがあるが、どんなに怖い思いをしても、何のことはない、足下を懐中電灯で照らせば、ただの劇場の椅子に座っている現実が分かるのであるが、映像を見続ける限りは、宇宙船の乗組員にしてします手法である。外国の国際放送の規制に、自国民にはできるだけ聞かせないようにするという条項があるが、総選挙が、自国民を対象にプロパガンダの応酬をすることではなく、茶の湯のように、香華が立つなかで、茶碗の真贋を見抜くように政策の当否を縦横斜めに検証して、国の方向を定める機会にすべきだと思う。

 筆者は、科学者でもないから、真贋を見抜く力はないが、週刊ダイヤモンド誌の7月25日号に掲載された、アラスカ大学国際北極圏研究センター名誉教授の赤祖父俊一氏の「炭酸ガスの地球温暖化説は誤り 排出権取引は日本を衰退させる」という寄稿論文に注意を喚起したい。気候変動に関する政府間パネルが主張している、温暖化は人類活動により放出される炭酸ガスが原因という主張が、誤っているという指摘である。温暖化は、炭酸ガスが急激に放出されるようになった1946年から始まった現象ではなく、1800年~50年頃から始まっており、自然変動によるものであるという主張である。また、自然変動が重要であるとの証拠もあり、2000年頃から地球温暖化が止まっているという。政府間パネルの予測に反して太平洋の海水温度も全海洋の水温も上昇が止まっているという。観測事実をモデル化して、そのモデルで再現できるか、また、予測してそれが観測に合うかどうかで決まるが、2000年の最初から予測が大きく外れるようになったと指摘する。

 赤祖父教授の論文は、気候変動の問題が政治に利用され、気候変動を自動車業界支援と原子力発電の選択に利用されているのではないかとも指摘している。日本では国民の不安と恐怖を煽るための手段として使われており、ゴア副大統領の不都合な真実は、娯楽映画で、英国では小学校で見せることについて、裁判所が注意事項を示して守ることを義務づけていることを紹介している。炭酸ガスの急増による大災害は起きておらず、むしろエネルギーの無駄遣いを抑えることで十分であるとする。しかも、日本はカモにされ、温暖化を口実に自国の利益を先進国から引き出そうとする途上国と身を守ることに必死の西欧諸国との狭間で、「おだてられ、はめられ、たかられて」いるだけではないか、排出権取引という炭酸ガス削減に国民の血税が無駄金として使われるだけの話であると警告する。排出権の議論は温暖化が止まっているので、学者に研究してもらって、中止すべきだとの日本の立場を国際会議で取るべきであり、不可能に近い炭酸ガス削減を強いられ、企業そして日本が衰退して良いのか、「この問題における人道的“正義”とは、国際的に不当な要求を退け日本を守ることである」と結論づけている。

 氷河の末端が轟音を立てて崩壊する場面を見せ、ホッキョクグマが絶滅すると騒ぎ、エスキモーの海岸の浸食が激しくなったとの映像を見せつけて、温暖化は炭酸ガスの増加が原因だとするプロパガンダに過ぎないのではないのかという、警世の論文である。 

 グローバリズムの熱狂が終わり、市場原理主義の民営化、規制緩和、公共政策の削減という三大虚妄が一瞬にして崩壊した直後に行われる総選挙である。改革の予測が現実の改悪となった以上、失われた日本を事実で検証して回復させる好機である。プロパガンダに惑わされる追従の大国をやめ、自立自尊の、八紘為宇の日本を整える好機である。救国の総選挙である。維新・復古をめざす、草もう崛起の総選挙である。

Defeated

大東亜戦争が終わった日である。鎮魂の日でもある。当ブログの先輩からのメールに、亡き父のセピアの写真夏深し と一句が添えられていた。

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National interests vs Corporate interests

オバマ大統領の就任後、半年が過ぎた。市場原理主義との激しい対立が依然として続いている。ワシントンの政治ブログ、Washingtonnoteが、新政権の金融政策をめぐる政治状況について書いている。政治基盤の弱い新政権を批判しながら、処方箋をコメントしている。ちなみに、当ブログの名前である、Tokyonotesは、Washingtonnoteに匹敵する内容を目指しているが、ご覧のとおり、依然としてささやかなものに留まっている。

http://www.thewashingtonnote.com/archives/2009/08/obama_white_hou/

Medical Reform

去年書いた文章が残っていた。マイケル・ムーアの映画シッコが日本で封切りになったときに、外国向けに書いたものだ。世界が変わった。オバマ新政権は、国民皆医療制度を導入しようとしている。日本では、その破壊が行われていたことである。医療制度の補完である簡易保険などを廃ししたのは、誰か。保険会社の私的な利益が、国益を失わせたことである。

Sicko

Now Michael Moore's movie 'Sicko' is released in Japan. this writer watchedaw the movie in a moviehouse downtown Tokyo on Saturday, a staff told me that the house was filled for  a whole day and evening.

While enjoying the movie, this writer deeply sympathize with the Ameican citizens who are suffering under the yoke of tyrannical medical insurance system.

It is clear that the American diplomats and negotiators who demanded the privitization of the postal life insurance system and introduction of non-insured advanced technology treatment and privitized hospital system by the stock owned corporations in Japan does not respresnt the American national intersts but the spoke only for the interestes of the private life insurance companies.

Dear American friends, if any, amongst the readers of this humble blog, I have to confess that I was overwhelmed by the high standards of medical care system in Europe, even though Japanese system is also system for everybody, I mean, universal medical care system and disappointed by the system, to me, it was just like the system in the totalitarian society.

For the past fifty years, Japan reached modestly high standard life style comaparable to Europeans, for instance, two day off in a week, medical care for all, but American business interests are going to destroy the success story. American people should be informed that the negotiators are acting not for the national interests but for the interests of vested business corporations.

The movie clearly showed that the medical care situation is the 37th in the World Health Organizations ranking. This writer sincerely wish that the situation should be rectified, and the Japan US tade negotiations in the recent decade, that market fundamentalists oriented negotiations should also be suspended immediatly. Those governmental negotiations are weakening the bilateral relations and does not contribute to the security in the Pacific, even if it will definitely contribute to the interests of the small number of business corporations.

Freeway

当ブログにおいて、高速道路無料化論を主張してきたが、過去の記事をまとめてみた。

単に、グーグルで検索した結果を示すだけであるので、そのリンクを貼ることにした。ご参考まで。http://blogsearch.google.co.jp/blogsearch?hl=ja&ie=UTF-8&q=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E3%80%80%E9%AB%98%E9%80%9F%E9%81%93%E8%B7%AF%E3%80%80%E7%84%A1%E6%96%99%E5%8C%96+blogurl:http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/&lr=lang_ja

Market Fundamentalism is over

何らご参考まで。http://www.pjnews.net/news/490/20090806_11

Farewell to Arms--a prayer

絶望の中で祈る。

Market Fundamentalism is over

日の蔭りの中で、と言う美しい表現の題をつけて、京都大学の佐伯啓思教授が、政治評論を発表している。

http://sankei.jp.msn.com/politics/election/090809/elc0908090244001-n1.htm

「政策マニフェストも、一定の意味をもつが、政策が本当に必要なのかどうかという検討も不十分なまま、なにやら世論の支持をえるために、もっといえば世論にこびて、既定化してしまうのは困る。

 最大の出来事は世界経済危機であった。日本もこの大波に翻弄(ほんろう)され、この大波に翻弄された理由の少なくともひとつは、構造改革にある。経済構造改革は、基本的に、グローバル経済、とりわけ、金融グローバリズムを支持し、日本を積極的にその中へと投げ込む政策だったからである。

 だとすれば、構造改革の是非が今回の選挙の大きな争点たるべきものだろう。小泉構造改革は、郵政選挙で大きな亀裂をもたらした。 構造改革の評価なしには、次のステージには移れない。」と佐伯教授の主張をまとめてみた。

Corrupt Postal Privatization 156

郵政民営化が失敗である又一つの例が明らかになった。読売新聞の報道である。

「日本郵政グループの郵便事業会社(通称「日本郵便」)が、全日本空輸との航空貨物分野での提携を解消する方針を固めたことが8日、明らかになった。旧日本郵政公社時代に全日空と設立した合弁会社「ANA&JPエクスプレス」の持ち株33・3%分をすべて全日空側へ譲渡する方向で、近く全日空側と調整に入る。日本郵便は、自前の輸送網を使った国際物流事業を成長分野と位置付けてきたが、当面あきらめた格好だ。国内郵便市場の縮小が進む中、2007年10月の民営化から2年近くがたっても成長の柱が見つからない状態が続いている。 「ANA&JPエクスプレス」は06年2月に設立された。資本金は8000万円で、日本郵便のほか全日空が51・7%、日本通運が10%、商船三井が5%をそれぞれ出資し、現在は日本と韓国などを結ぶ貨物便を運航している。 合弁会社の取り扱う荷物を増やすため、旧郵政公社時代にオランダの国際物流大手TNTとの包括提携交渉を進めたが、06年6月に早々と頓挫。民営化後も日本郵便は国際市場への参入機会を模索してきたが、昨秋からの世界的な景気後退もあって貨物量は伸び悩み、合弁会社の業績も低迷したままだ。一方、合弁相手の全日空は08年4月、日通、近鉄エクスプレスとの提携で、新たな国際物流事業会社を設立。アジアを中心に航空貨物を含む物流事業の再構築に乗り出しており、日本郵便との提携を続ける意義が薄れている。」

もともと、国際物流事業を立ち上げようとすること自体が夢物語ではなかったのか。オランダの国際物流会社との提携交渉の過程などもかなり早い時期に頓挫していたのではないのか。全日空との合弁の失敗も早い段階で見通せていたのではないのか。夢を振りまき蜃気楼が消えただけの話ではないだろうか。そうした夢物語を振りまいた国土交通省や元日本郵政公社の物流担当の責任追及が行われてしかるべきと考えるが、どうだろうか。

Market Fundamentalism is over

人材育成についてのコメントが興味深い‥ご参考まで。

http://www.pjnews.net/news/490/20090806_9

Apollon's Island

静岡県の藤枝市に立ち寄った。小説家小川国夫氏のことを思った。去年4月に逝去されていた。享年80歳であった。文学記念館が設立されているそうである。又、機会があれば尋ねることとしたい。その昔、記憶では、黄色い箱入りの本で、装丁のよい、アポロンの島を読んだ。ギリシアのエーゲ海の島の風景が書かれていた。文章で彫刻をしているような幹事であった。スクーターで、小島の丘から港にカーブしておりるような感じも残るし、乾いているようだが、抜けるような青い空も想像できた。出発はついにおとずれず を書いた、島尾敏雄氏が絶賛していた文学者だという。何冊かを読んだ‥いずれも、装丁がきれいであった‥本自体が、芸術を意識していたようだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%9B%BD%E5%A4%AB

Market Fundamentalism is now over

市場原理主義の終焉を思わせる記事であるが、まだ、日本には残党がいるとの指摘である。ご参考まで。

http://news.livedoor.com/article/detail/4288122/

Restoration of Japan

当方のブログが、pdf化されてダウンロードできるようにしていただいた。感謝。

http://chalaza.net/CCP037.html

Market Fundamentalism is Over

植草一秀氏に対する判決があった。同氏のブログに、選挙情勢についてのコメントが掲載されている。http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-4cbe.html ご参考まで。

Market Fundamentalism is Over

歴史や公共性を崩壊させる新自由主義

 日本の国力は急激に低下しつつある。我が国経済が全体的に収縮し、国民一人ひとりへの配分自体が減少し、未曾有の格差社会を増殖させている。
 世界情勢においては、偶然は存在しない。特に経済政策は、一見経済理論と現実には隔たりが見えるようでありながらも、必ず因果関係がある。確かに、自然災害など、偶然が経済に干渉することはある。だが、強力な経済理論はそうした偶然さえ必然として絡め取ってしまう。

 ここで念頭に置いているのは、今世界を席巻している新自由主義、あるいは市場原理主義という経済理論だ。新自由主義の三本柱は「規制緩和・民営化・公共予算の削減」である。新自由主義はこの三本柱によって、国家の市場への介入を最小化し、市場に任せておけば経済はうまく回るという、「レッセ・フェール」(市場放任)の立場をとっている。
 しかし、それが現実政治に適用されるとき、アダム・スミス流のレッセ・フェールとは、似ても似つかぬ新自由主義のカルト性が姿を現すのだ。

 ここに一冊の本がある。カナダのジャーナリストであるナオミ・クライン女史が書いた『The shock Doctrine』である。同書は、ニユーヨーク・タイムズのベストセラー欄の上位を長らく独占していた。日本ではまだ翻訳は出ていないが、アメリカ本国でこの衝撃的な「新自由主義の本質」に鋭く迫った本が出版され、しかもベストセラーになっているというのは、一つの時代の転機といえるだろう。

 彼女によれば、新自由主義とは結局、破壊と衝撃を与えることによって歴史性や公共性を崩壊させ、強引に更地(さらち)にして全てを私物化していく手法だ。
 
 フリードマンという教祖 

  この新自由主義の教祖はミルトン・フリードマンである。彼が教鞭を執ったシカゴ大学経済学部の入り口には「経済とは測定だ」と、銅版に記してある。ここからも、このシカゴ学派が工学的発想に基づいた、人為によって社会を構築できるという思想を蔵していることがわかるだろう。
 フリードマンは、1912年生まれのハンガリー系ユダヤ人移民の子供である。彼は、新自由主義こそが完璧なシステムであり、市場を政府の介入から救い、汚染されていない資本主義へ回帰することによって、ユートピアを実現できると考えた。
 彼の提唱した新自由主義とは、政府のあらゆる規制を撤廃し、政府財産を全て売却し、社会政策の予算を大幅に削減し、税率も最小限かつ貧富の格差に関係なく一律とすることである。ここにおいては、全ての価格は賃金も含めて市場が決めるのであり、医療保険、郵便局、教育、年金といった公共の福祉に関するものもすべて民営化すべきだ、と説いた。

 フリードマンによると、政府が持つのは警察と軍隊で十分ということになるのだ。
 では、この理論は現実にどのように適用されたのだろうか。
 一番良い例が、2005年にルイジアナ州を直撃したハリケーン「カトリーナ」の災害復興だ。当時93歳のフリードマンは、いわば人生最後の政策提言として、『ウォールストリート・ジャーナル』に寄稿している。
 それによると、ニュー・オーリンズの学校が破壊されたことは悲劇ではあるが、これは教育制度をラディカルに改革する機会である。公共の学校を復興するのでなく、この災害を奇禍として、バウチャー(引換券)を各家庭に配布し、私立の教育機関(チャータースクール)を設立し、このバウチャーを活用することによって教育の民営化を促すべきだとした。

 このフリードマンの提言を受けて、ブッシュ政権は学校を民営化するための資金を数千万ドルにわたって投入した。
 ところが、現在アメリカにおいてはチャータースクールによって教育が二極分化しており、教育の低下が社会階層の固定化に結びつき、かつて公民権運動で勝ち取られた成果が無に帰しつつある。ニュー・オーリンズではカトリーナ前に123校あった公立学校はわずが4つになり、7つしかながった私立学校が31にまで増えた。こうしてニュー・オーリンズは私立教育機関設置の実験場とされた。「公共」の制度を潰して、「私」の制度に置き換えていったのだ。

 これは日本にとって対岸の火事ではない。
 途中で潰えたものの、安倍政権がやはり教育バウチャー制度を導入しようとしたことを思い出すべきだ。起訴休職外務事務官・佐藤優氏が、保守主義と新自由主義の間で股裂きになったのが安倍政権の自壊という現象だ、と指摘したが、まさに現下の日本の格差社会・貧困社会化には新自由主義の影響がある。こうした事態に対して無自覚であることは、政治家にとっては許されない怠慢である。
 ここで、急激な民営化に「カトリーナ」という災害が巧妙に利用されたことに注目して、クライン女史はこれを“Disaster Capitalism”、すなわち「災害資本主義」と名づけている。
 
 新自由主義は共同体を根こそぎ壊滅させる危険思想 

 フリードマンは「危機のみが真の変化をもたらす。危機が起きれば、現在ある政策の肩代わりを提案して、政治的に不可能であったことを、政治的に不可避なことにしてしまう」と述べている。
 いわば、災害に備えて缶詰や水を備蓄しておくのと同様に、災害に備えて新自由主義政策を一気に進めるべく、政策を準備しておくというのだ。
 このような発案の元には、フリードマン自身の経験が影響していると見られる。

70年代中ごろに彼はチリの独裁者ピノチェト政権の顧問をしていた。ピノチェト政権にはシカゴ大学経済学部の出身者が大量に登用されており、「シカゴ学派の革命」とも呼ばれた。事実、ピノチェト政権においては減税、自由貿易、民営化、社会政策予算の削減、規制緩和が、急激に行われたのである。これらは、スピードが大事であるとして、1度に全てを変えてしまうという方法が採用された。

 ここから、”ショック療法”という概念が、新自由主義に滑り込んできたのである。独裁政権下においては、それは経済的ショックと同時に、拷問という肉体的ショックとも併用されて新自由主義改革が進められた。
 「敵の意思、考え方、あるいは理解力を制御して、敵を文字通りに、行動あるいは対応する能力を失わせる」という”ショック・ドクトリン”が、生まれたのである。

 クライン女史は実証的に、新自由主義がこの”ショック・ドクトリン”によって推進されてきたことを明らかにしている。たとえば、スリランカにおけるスマトラ沖地震による津波被害の復興である。そこでは、被災者をパニック状態に落とし込む一方で、海岸線をリゾート化する計画が進められていた。ニュー・オーリンズでもやはり、住民の土地・家屋を修復することもなく、ただ更地にすることだけが進められたのである。

 新自由主義にとって邪魔なのは、市場原理主義に反するような非資本主義的行動や集団である。そうした非資本主義的集団として、地域共同体や、歴史や伝統に根ざした「共同体」が存在するが、新自由主義はこうした集団を徹底的に除去する。災害復興の名目で公共性、共同体を奪い、被災者が自らを組織して主張を始める前に、一気に私有化を進めるのである。

 これは、日本で行われた新自由主義改革とも一致している。
 郵政民営化は公共財産である郵政事業を民営化するという、典型的な新自由主義政策であった。民営化後、郵便局にはテレビカメラが取り付けられ、『郵政百年史』といったような郵政の歴史と文化を記した本も撤去している。
 ショージ・オーウェルが『1984年』で書いたような、極めて不自然で、歴史性を欠いた組織に一気に改変されている。オーウェルは「我々はあなたを完全に空っぽにし、その体に我々を注入する」と不気味な予言をしている。  
“ショック・ドクトリン”から見えてくる世界 

 衝撃を与え、一気に新自由主義改革を進めるという”ショック・ドクトリン”から世界を見ると、世界は今までとは異なる姿で立ち現れてくる。「改革」のために、平然と人権侵害が行われてきたことに気づくのだ。アルゼンチンでは3万人を抹殺して、シカゴ学派の提唱する政策を実現した。1993年にはエリツィン政権下のロシアで国会放火事件が起き、その後、国有資産は投売りされ、「オリガルヒア」という新興の超資本家が生まれた。
 1982年のフォークランド紛争も、炭鉱労働者のストライキを破壊して、西洋で最初の民営化を強行する結果になった。1999年のNATOによるベオグラード空爆も、結局旧ユーゴでの民営化に結びついたのである。アジアでは1998年にアジア通貨危機が仕掛けられたが、これによってIMFが介入し、民営化するか、さもなくは国家破綻か、が迫られた。

 その結果、国民の意思ではなく、日本の経済財政諮問会議のような1部の「経済専門家」と称する新自由主義者によって、国の政策が支配されることになったのである。
 また、天安門事件の大虐殺も”ショック・ドクトリン”の一環と見ることもできる。事件の前年9月、フリードマンが北京と上海を訪問している。中国が中国流の”ショック・ドクトリン”を利用して、開放路線を発動したと考えられるのだ。今年の四川大地震では、現地は復興特需に経済が活発化しているという話も聞こえてくるのだが、中国版災害資本主義が発動されている可能性は高い。
 かつて、アイゼンハワー時代には、アメリカ国内ではこの”ショック・ドクトリン”は適用されていなかった。おそらく、軍産複合体の行き過ぎを懸念したのである。しかし、レーガノミックスを経た95年ごろから、ネオコンが中心になってショック療法型の経済政策が本格化する。

 そして、「9・11」のとき、大統領府はフリードマンの弟子たちで埋め尽くされる。★ラムズフェルド国防長官(当時)はフリードマンの親友である。「テロとの戦い」が叫ばれ、恐怖が煽られた。そして何が変わったか。軍隊の民営化、戦争の私有化である。戦地を含む治安維持関連の民間外注が2003年には3512件、2006年には11万5000件にまで増えた。
 現代の新自由主義下においては、戦争の経済的役割が全く違ったものになった。かつては、戦争によって門戸を関放し、その後の平和な時代に経済的に干渉するという手法であったが、いまや、戦争自体が民営化され、市場化されているのである。だから、確実に儲かる。

 クライン女史によると、現にイラクではPMC(プライベート・ミリタリー・カンパニー)が米正規軍13万人に対して40万人を派遣しており、ハリバートン社は2007年には200億ドルの売り上げをあげ、アメリカ資本のみならずイギリスやカナダ資本も戦争ビジネスで潤っているという。カナダのある会社は、プレハブを戦場に売ることで儲け、危険な戦場で働く人のために保険会社が莫大な売り上げをあげているとのことである。

 このように見てきたとおり、新自由主義は、その「リベラル」で柔らかいイメージとは裏腹に、政治的自由とは一切関係なく、それどころか、災害がないならば災害を起こせばよい、ショックを与えて一気に改革を進め、共同体も歴史性も破壊し、市場原理主義というのっぺりとした原則だけで動く世界を構築しようという危険な思想である。

 新自由主義者にとっては、そのような共同体も歴史も存在せず、無機質で根無し草的な、ただ市場原理だけで説明ができる世界というのは、ユートピアに見えているのかもしれない。だが、人間はそのように合理性だけで生きている存在ではない。非合理的感情や共同体意識、歴史性があってこそ人間であり、そうした矛盾も非合理も抱え込んだ人間存在の幸福を図るのが「政道」である。 

 新自由主義という名のカルト的危険思想 

 新自由主義が達成する世界観は、脳に電気刺激を与える人体実験の思想に酷似している。1950年代に、CIAがカナダのモントリオールの精神科医とともに人体実験を行ったことが情報開示によって明らかになった。人間の心を人為的に制御することができるかという実験を行っていたのである。1988年には9人の元患者から提訴され、アメリカ政府は75万ドルの賠償金を支払い、カナダ政府は1人10万ドルの賠償を行った。
 1940年代、ヨーロッパと北アメリカでは脳に電気刺激を与えるという療法が流行した。脳の切除を行うロボトミー手術よりも永久的なダメージが少ないとされたが、このショック療法においては記憶喪失が起こり、幼児に戻るような後退現象が見られた。この後退現象にCIAが目をつけ、1953年には2500万ドルの予算で人体実験を行った。

 これこそが新自由主義のアレゴリーである。記憶を抹消し、まっさらなところに新しい記憶を与えること、これこそが新自由主義の本質であり、危険なのである。

新自由主義は支出を削減し、あらゆる部門を民営化し、意図的に景気後退を生み出す。こうしてショックを与え、さらに新自由主義改革を推し進め、共同体、公共圈を破壊する。そして、歴史性も共同体も失われたところに、市場原理主義を植えつけていく。
 こうした新自由主義十字軍ともいうべきカルト的危険思想に、遅まきながらも、世界はようやく気づきだした。ピノチェトですら、政権後期にはシカゴ学派の言うことを聞かなくなった。民営化した鉱山会社はアメリカ資本の傘下に置かれ、国の収入源は民営化しなかった銅山会社だけになってしまい、国民の45%が貧困層になったからである。現代の中南米は明らかに、新自由主義と決別する方向に動いている。
 
 今こそ新自由主義に抵抗する救国勢力の結束を! 

 こうした一連の新自由主義の動きは、ここまで過激ではないにしろ、着実に日本の中でも起きている。確かに、「9・11」や拷問といったような過激な手段は、未だとられてはいない。しかし、新自由主義に反対する政治家が国策捜査によって政治から追放され、刺客選挙が行われ、郵政民営化をはじめとする、小泉・竹中による新自由主義改革によって我が国経済・社会は着実に後退した。幸い、日本は中間層が厚く、一気に貧困社会となることはなかったが、非正規雇用、ニートといった潜在的失業率はかつてないほど高まっている。中産階級は劣化し、地方と東京都の格差は拡大の一途をたどっている。

 もはや限界は明らかだ。「過ちを改めざるを過ち」と言う。信念の人であれば思い改めることも可能であろうが、カルト相手には、決然と戦いを挑まねばならない。新自由主義は将来の発展のために「今は痛みに耐えよ」と言う。だが、その将来とはいつなのか。その間に、我が国の共同体、同胞意識は次々に破壊されていく。このままでは、もはや回復不能なまでに破壊されるだろう。

 新自由主義に反対の声をあげる者は、旧態依然の「抵抗勢力」と呼ばれる。
 だが、市場が原理主義である必然性などない。公共の学校があっても良いではないか。国営の石油会社が存在して、エネルギーを安定供給することは悪いことなのか。郵便局が国営で何か悪いのか。世の中には自らの責任ならずとも不遇の立場に置かれている人もいる。それらをすべて自己責任であると切って捨てるのが政道なのか。経済的な不平等を解消するために税を徴収し、再配分することは許しがたいことなのか。

 我々は今こそ、新自由主義に対して決然と、「否」、を突きつけるべきである。我々は記憶を抹消され、ロボトミー化されて、市場原理主義しか考えられないような存在となることを望まないからである。新自由主義に対する戦いは、人間らしい生存を回復する戦いである。我々は抵抗しなければならない。

 「抵抗勢力と呼ばば呼べ」。我々は人間性を抑圧する市場原理主義にあくまで抵抗するのである。
 来るべき政界再編は、自民党か民主党かなどというレベルのものであってはならない。それは、新自由主義に抵抗する救国勢力の結束による政界再編でなければならないのだ。

Medical Reform

時間の経つのは早いものだ。一昨年の9月に書いた文章である‥ご参考まで。その間にアメリカでは新政権が登場して、国民皆健康保険制度を目指している。何という変わり様だ‥それにつけても、まだ、この国では、市場原理主義者の残党が跋扈している。

《医療の市場化、郵政民営化は亡国の改悪だ
 マイケル・ムーア監督の新作ドキュメンタリー映画『シッコ(Sicko)』が日本でも封切りになった。
「シッコ」とは、お病気という俗語だが、アメリカの医療保険制度の欠陥を追及した話題の映画だ。
 アメリカでは、保険に未加入の人口が約5000万人あり、病院にも行けないで死亡する人が、毎年約1万8000人もいるという。
 世界保健機構の順位では、アメリカの医療保険の充実度は、世界第37位。一昔前でも歯科治療の法外な値投は有名で、出張や留学する場合には、海外旅行保険をかけていくのが常識だった。
 ニューヨークでは、盲腸炎の手術するのに200万円はかかるとの調査で(日本では33万とか)、保険がなければ、大変なことになる。
 医者にかかるには、いちいち保険会社にお伺いをたてる制度で、どの病院を使えとか、保険の適用・不適用を指図する。その団体の審査医が、とにかく10%ぐらいの保険の申請は拒否しろ、そうすれば、給料が上がり、昇進する、成果主義?の医療体制になっている。
 電気ノコで中指と薬指とを切断したときに、どちらの指をつなぐかを保険会社が指図する(筆者の知人がベトナムで五本の指を落とす事件があったが、合気道の名人で、あわてず騒がず指を病院に待ち込み、縫合手術に成功した。アメリカだったら、機転はきかなかったか)。
 費用が払えなくなった入院患者には、タクシー券を渡して、路頭に放り出す。もちろん救急車は有料だ。アメリカの病院の周りにはホテルがあるが、これは入院費が高いので入院しないためで、退院を急ぐのは、料金が高いからである。
 カナダは国民皆保険制度だから、車で国境を越えて病院に行くほうが格安で、医療費用捻出のための偽装結婚すらある。
 世界貿易センターのテロの後の瓦礫の中で英雄的な仕事をした消防士に呼吸器に障害が出て、1本125ドルの薬を保険会社が認めないので治療を控えていたが、テロリスト収容所のあるキューバにまで行って、ようやくまともな治療が無料で受けられた。同じ薬が1ドルもしない。
 イギリスは、租税負担の国立病院では無料診療で、病院までの交通費すら払い戻す。日本にもまだないのだが、パリには24時間の医者の往診サービスがある。さすが、国境なき医師団の発祥の地だ。子供が生まれると、週2回、ベビーシッターのサービスもある。夕食の用意もする。出生率が上がるわけだ。
 フランスは、食料の自給率も100%を越えている。フランスの航空会社を、なぜ民営化しないのだと聞いたら、世界で一番おいしい機内食を出しているのに、何でそういうことを聞くのか、と逆に食ってかかられた。 『シッコ』は、日米構造協議とやらで圧力をかける側の医療制度が劣悪であることを天下に明らかにした映画である。
 アメリカの業界の意見は、アメリカ人の声を代表しているわけではない。ヨーロッパの医療制度が発達したものであることを見せつける。
 もちろん、タダより高いものはないような話もあった。
 モスクワの暖房は無料だったが、暖房を止められると凍死するから、政治的な主張をする活動家は携帯の白金カイロをうらやましいと思うのが本音だったし、病院も格安ではあったが、注射針も使いまわしして、家畜用の麦をパンにして食べさせた共産主義国の話も多々あった。一党独裁の中国の医療は、現金前払いでなければ、医者に診てもらえない制度になってしまった。
 イギリスやフランスやイタリアでは、無料だからといって医療水準が低いわけではない。アメリカのように一部の医療水準は高くても、多数の国民が医者にかかれない国は先進国といえるだろうか。
 日本は、昭和36年にやっと国民皆保険の国となったが、映 画『シッコ』では日本の例は残念ながら紹介されていない。
 「医療改革」と称して、自己負担の割合が増えたり、企業の保険組合が赤字になったりして、財政赤字を理由にどんどん改悪を進めて、世界の医療保険優良国の地位から外れてしまったのかもしれない。
 日本の国民皆保険は、一朝一タに成り立ったわけではない。
 国民の医療費の重圧から解放するために、医療の社会化を目指した、鈴木梅四郎のような人物の思想と行動が結実したものである(1928年に『医業国営論』を著し、衛生省を頂点とする医療国営を提唱している。同書は戦後原書房から再刊されている)。
 郵便局の簡易保険なども、大正の時代に、国民の医療費を補うために設計された無審査の、どこでも、誰でも入れる、画期的な文字通りのユニバーサルな制度であった(現在でも危険な職業の、例えば自動車レースの運転者などが入れるのは簡易保険だけであった。

 小泉・竹中劇場政治の日本では、「規制改革」を掲げる市場原理主義を追従する連中が、病院の株式会社化とか、介護の民営化とか、混合医療の解禁とか、人間の病をネタに金儲けするアメリカ保険業界の手法を、次々と強気で提案してきた。
 郵政民営化でも簡易保険を廃止せよと拍迫られて、米国の保険業界のロビイストが暗躍した。
 郵政民営化が10月1日に実施されれば、簡易保険は大正以来の社会政策の歴史を閉じる。郵政民営化自体が、アメリカ保険業界の陰謀が作用したことは、もはや明らかである以上、早急に凍結、見直しを図り、不要の混乱と破壊を回避しなければならない。
 この映画を見れば、日本がアメリカを真似して導入した色々な分野の構造「改革」が、亡国の改悪にしか過ぎないことが容易に想像できる。
 市場原理主義は、同胞・はらからの安寧と幸せを四方に念じる、日本の国体にはなじまない拝金の無思想である。
 百聞は一見にしかずの映画です。ぜひ見てください。

Political Issue

郵政民営化の問題は、小さな争点のように見えるが、実は、小泉・竹中政治で、先の選挙の時に、本丸としたように、今回の選挙においても、実質的には最大の争点である。わかりやすく書かれたサイトがあるので、リンクを貼る。

http://blog.goo.ne.jp/akiko_019/e/358c8cdc740e1caec8b8c104a00c44ac

ご参考まで。

Bridge

閑話休題 静岡県の島田市に行く機会があり、大井川を初めて見た。鉄道の橋をは、往来するたびに渡っているわけであるから、初めて見たことにはならないが、大井川の堤防に立って見たとわいう意味で初めてである。昔の大井川の渡しのあった場所も車で通りすぎた。昔風の川を渡す人々の家が昔風に立ち並んでいるところがあった。江戸時代の家並みが残っているのである。それから、蓬莱橋という、大井川にかかっている世界最長という木造の橋をみた。橋柱は、コンクリートになっていて、昔の橋ではないが、復元?していた。大井川は激流であり、南アルプスの梅雨を集めて濁流となっていた。

http://hoshin-k.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2008/05/14/c_dsc01510_7.jpg

解説には、「1869年(明治2年)7月、最後の将軍慶喜を護衛してきた幕臣達が大井川右岸になる牧ノ原を開拓し、お茶造りを始めました。東証は大変厳しい環境の中で筆舌には尽くせない苦労の連続でしたが、その階があって順調となり、生活が安定するに従って島田の方へ生活用品や食料品を買いに出かけるようになってきました。又島田の方からも初倉に山林、原野の開墾のためで欠けるようになりmしあが、大井川を小舟で綿ら苗kればならず、底辺危険なことでした。そこで、島田宿の開墾人総代達は、時の静岡県令(現在の知事)に橋を架けるネガイを出し許可され、1879年(明治12年)1月23日に完成しました。しかし、木橋のため、大井川の増水のたびに被害を受けてきましたので、1965年4月にコンクリートの橋脚に替え、今の姿となりました。現在の蓬莱橋は、全長897.4m、通行幅2.7mであり、大井川の自然と一体となった木橋として全国にも有名なところとなり、1997年12月30日「世界一の木造歩道橋」としてイギリスのギネス社に認定されました。橋の名称は、静岡藩主となった徳川亀千代(後の家達)が、1870(明治3年)4月に牧之原を開拓しているばく進を激励するために訪れ、「ここは宝の山だ。」と仰せになったのがそのいわれと伝えられています。蓬莱橋土地改良区」

Kuroshio 12

地質ニュース』五六三号(二〇〇一年七月)の三六~四五頁に東京杉並区在住の隅田実氏が「日本列島における地形擁護としての谷と沢の分布」という題の論文を掲載、副題を「古代民族の文化圏との接点を探る」としている。谷、沢という基本語に着目し、地形図、各種の道路マップ、登山ガイドブックなどを駆使して分類したものである。
 谷と沢の地名の分布を本州、四国、九州の山岳地帯にプロットしていくと、飛騨山脈を境として、西側は谷、東側は沢にほぼ統一され、地名のくっきりとした分水嶺がある。詳しく見ると、飛騨山脈の中央部と北部、東京・埼玉・山梨の境界付近と新潟県全域で谷と沢とが混じり合っている。北海道では、アイヌ語から来る河川を意味する内と、別が多く、沢も多く見られるが、谷はない。奥秩父や奥武蔵の東京西部では、地形的には谷と沢と変わらないのに、入(ニュー)という地名がついている由である。八世紀の初めに高麗郡がおかれたことから、先住民を征服しても、文化全体の制服まではできずに言葉は被征服社会の言語に征服されたのではないかと隅田氏は指摘する。「さわ」はアイヌ語の滝あるいは断崖を意味するサーとの繋がりもあるという。筑波の語源もアイヌ語で二つのッ、弓のク、頭のパで、筑波山の特徴を表しているそうだ。谷は、朝鮮半島では、旦、頓、呑の地名になっているが、富山でも谷をタン、ダンと発音するという。中央地溝帶の東側の境界に沿って、谷と沢の地名が分かれることを野外調査を通じて発見している。さて、議論を黒潮の流れを見る立場からすれば、南島では、木を削って窪みをつくった、例えば、家畜の餌箱の丸太のことをトー二(豚の餌を入れるくり抜きの丸太は、ワントー二)と言うから、意外に朝鮮半島沿岸から、フォッサマグナの南半分がタニあるいはタンになっていて、黒潮文化圏の影響であるのかも知れない。谷の宛字をしてあっても、千葉の谷津ではないが、谷内のようにやちあるいは渋谷、雑司ヶ谷、阿佐ヶ谷、熊谷のように、やで発音するところは、北方の言語の系統であろう。川は、与那国では、井戸のことをカと言い、奄美では井戸と小川を含めてコーと言う。屋久島あたりも最近では登山の沢登りから、沢の地名をつけているところもあるが、もともとは、川の意味のコーが、水の流れを表す地名である。横河と書いてよっごと読ませる渓谷の地名もある。沖エラブ島あたりの鍾乳洞の水源をくらゴー(暗河)と呼んでいることと共通している。
 先号で白砂青松のことを書いたが、白い砂は別にして、青い松は江戸時代の新田開拓に伴って植えられた新しい時代の景色ではないかとの指摘があった。最近、麗澤大学の松本健一氏が「海岸線の歴史」という単行本を書かれて、その中で、白砂青松は昔からあったのかと小節を設けて議論をしており、江戸時代につくられた日本の風景であると断じているので、筆者も言訳がましいがことさらに議論を進めると、水田を潮風から守るために松の木を一生懸命植えたから、確かに新しい時代の風景である。琉球では、福建あたりから移植した福木や、木魔王あたりの木が防風林となっているところもあるが、海辺と人の住む里との仕切りで松並木にしたことも考えられるので、必ずしも列島の黒潮の流れに必然的な植生ではないことも指摘しておきたい。長良川の治水工事で、薩摩藩が植生した千本松原なども特に古代の松の延長線上でもないから、常磐の松と言えば、言い過ぎになることもあるかも知れない。唐津の虹の松原などもその類であるし、ともあれ、稲作が入ってきて、漁労や貝の採集だけに頼らないことになってからの新たな景色であり、大陸の風水を元にしてできた内陸の都から、江戸城という、海辺の都に移転したということで、もともとの黒潮の匂いがすることで、現在の皇居前広場が古に戻った面もあることを書いたわけであるから、誤解を避けるためにも、浜辺の松林の歴史が比較的に新しいことは認める。与那国島あたりには胃薬にもなる浜松という岩場でも生える植物があるが、潮風にも強い松が黒潮の嶋山に強く生えて生き抜いてきたことは事実である。文明開化の鉄道の枕木にもなったし、長い間、闇を照らす篝火の松明でもあった。戦争中は松から油を取ったほどであったし、高層建築でも基礎に打ち込むのは、やはり松の木が自然の防腐剤を含んでいるためか未だに使われている。「羽衣伝説」で天女が衣を掛けるのもやはり松の木である。
 黒潮洗う列島の川は澄んだ水の川である。大陸の黄河や揚子江や黒竜江は、その名前が示すように色がついている。つまり、濁流である。チャオプラヤー河などの南東アジアの大河を見ても分かるとおり、植物やその他の有機物を多く含んでいるせいか、川の色は暗く濁っているが、日本の川は山から急流となって一気に駆け下り、海に出るまで途中の距離が短いせいか、瀬で水を叩くかのように清流がもともとである。だから、海岸の白砂に泥や赤土が溜まる風景は、最近の治水政策の怠慢が齎したものである。   (つづく)

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