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Kuroshio 17

日向の神話と伝承を探る旅に出た。鵜戸神宮や潮神社といった黒潮直系のような場所はすでに立ち寄ったから、今回は神武東征の出立の湊、美々津を訪ねることにした。

 日本書紀によれば、神武天皇は四五歳の時に日向を発って東征に向かい、舟軍を率いて美々津を離れたと伝える。美々津は耳川の河口右岸にある。左岸の地名は幸脇で漁港となっている。廃藩置県の時に延岡藩、高鍋藩、砂土原藩を廃し、大淀川以北を美々津県とし、後に都城県の一部と合併して今の宮崎県になった。かつて美々津がいかに栄えた場所であるか、想像がつく。江戸の昔から鉄道日豊線が敷かれるまで殷賑を極めた廻船問屋の豪壮な家並みが今も保存されている。ちなみに、日豊線は最近まで、延岡までは大分の鉄道管理局で管轄し、それから南を鹿児島鉄道管理局で管轄するといった具合であった。都城は薩摩の島津氏が支配し、宮崎から砂土原に行くとまた島津の影響が強くなるという具合で、モザイク模様の群雄割拠の状況が絡む地勢があったのかも知れない。

 宮崎の地理を見ると、日南から、鬼の洗濯板のような海岸の崖が続くが、青島のあたりから北は磯浜で、美々津のあたりは玉砂利だ。清武川、大淀川、一ツ瀬川、小丸川、耳川、五十鈴川、五ヶ瀬川と、川が東西に流れて、その平野が小高い丘陵で仕切られているから、川の流域ごとに独立した共同体が形成されたものと思う。高台では灌漑の水が不足しただろうから、ずっと後世になってから開拓され、静岡の三方原同様に、明治になってからの開拓地の連続である。宮崎県北部は日本三大開拓地帯と呼ばれたこともあり、最近発展した地域である。それまでは日向の河川の下流に広がる平野とそれぞれの共同体を繋いだのは、陸上交通ではなく、舟であったことが容易に伺える。一ツ瀬川流域の西都原古墳群からは、舟の埴輪が出土している。しかも、板を剥いだ舟の形状から、単なる丸木舟の類ではなく、大型の舟が建造されていた可能性が高い。

 耳川河口の右岸には立磐神社があり、磐座がある。住吉三神が立磐神社の祭神であるが、そもそも、宮崎市の住吉神社が全国の住吉神社の大本であり、古代の海人の氏神の総元締めであるとする伝承もある。日向が初めて登場するのが、綿津見の神々が生まれる禊ぎの場面であるが、その禊ぎ池のある江田神社は住吉神社と父子の関係にあり、宮崎市の海岸の森の中にある。

 さて、美々津の社に戻ると、境内には神武天皇の腰掛岩がある。神武天皇の出港の日は、旧暦の八月一日であったとされるが、その日の朝は、起きよ、起きよと住民を起こして回る神事が伝わっている。急いで船出をしたらしい。耳川の上流から、木材を流し、河口で軍船を建造したものと考える。日向一宮は都農神社であるが、神武天皇は、東征の出立の際に航海安全、武運長久をここで祈願したと伝えられている。都農神社の後ろには一四〇〇メートルの尾鈴山があり矢研ぎの滝もあるから、当時の武器である弓矢や鏃の生産も行われていたと想像する。

 神武天皇の生誕の地を伝承している西諸県郡高原町の狭野神社も訪ねた。第五代の孝昭天皇が神武天皇が幼少の時代を過ごした皇子原に創建したと伝えられる。霧島山塊の噴火で現在地に遷座したのは慶長一五年、四百年前のことで、島津氏が琉球征伐に乗り出した翌年に当たる。神武天皇の幼名は「狭野尊」である。霧島の高千穂の峰はその昔、曽の峰と呼ばれていたようで、山麓は社頭に迫り、火山が噴火すれば、焼け石が飛んでくるような至近距離に感じる。峰は三角形に見える。薩摩半島の先端にある開聞岳を北側の枚聞神社から眺めた時と同じ眺めだ。開聞岳も南島に繋がる海の道の航海の目印となる秀麗な山であるが、高千穂も山が御神体であり、神社は遥拝所である。社殿の無いのが元始の信仰の姿で、海中の大きな岩が御神体であれば、立神とも呼ばれる。沖縄県の伊江島のタッチューなどは古代の溶岩が固まり山のように屹立して航海の目印となっている。

 楠の大木が狭野神社の境内に植えられている。楠は舟材となった。島津氏の軍船の船材も霧島や高千穂の原生林から切出した木材であったのだろう。神武天皇が鵜戸で生まれて、曽の峰の麓で育ったとすれば、当時の清武川や大淀川から川を遡って、霧島山麓の森と海との交易が行なわれたのであろう。 海幸彦と山幸彦の物語で、山幸彦が海神国に赴き海神の娘の豊玉姫を娶って生まれたのが鵜葺草葺不合命(うがやふきあへずのみこと)で、命が姨(おば)玉依姫(豊玉姫妹)を娶り狭野尊が生まれる。母方の祖先は黒潮の洗う海神国の出自であることが二重に強調されている。海幸と山幸の兄弟喧嘩があったが、大和朝廷で宮廷の護衛役を担った隼人は海幸彦を祖先とする由で、隼人舞という踊りは海に溺れる仕草であると古事記は伝えている。昭和三九年に平城宮址で発掘された隼人の盾には漁具としての釣針を表わす鉤形の紋様が刻まれるが、これは大陸の模様ではない。むしろ、わが南島からさらに南方の島々へと共通する、海潮と波の紋様であると考える。 (つづく)

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