構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

« Open Society | トップページ | Kuroshio Culture and Tradition »

Kuroshio 21

光兎山の残雪に光る雪兎

新潟県岩船郡関川村下関にある渡邉邸は江戸時代からの大庄屋の屋敷で、三千坪の宅地と五百坪の母屋からなる。昭和二十九年に国の重要文化財に指定され、母屋を修復中である。渡邉邸に、昭和四十二年の羽越水害の際の荒川流域の航空写真が残る。 羽越水害は、昭和四十二年八月二十六日から二十九日にかけて集中豪雨があり、特に飯豊山系を中心にした豪雨であったから、山形県南部とと新潟県下越地方の河川である、最上川(その支流の寒河江川、置賜白川、置賜野川などを含む)、三面川(村上市を貫流する川で、鮭の遡上で有名)、荒川、胎内川、加治川(東蒲原郡の川で、新発田市を流れる)が氾濫して、百人内外の死者を出す大災害となった水害である。航空写真を見ると、荒川の氾濫する部分が乳白色の泥となって映り、のたうち回る大蛇の姿のようである。降雨量は、関川村が最も激しく、二十八日明け方から二十九日までの三十時間で七百ミリの猛烈な豪雨を記録している。大庄屋の渡邉邸も床上浸水をしたから、床の柱を補修した跡があり、補強の修理工事を行うようである。関川村の中だけで、死者が三四人も出たというから、大水害で、川の名前が荒川と言うだけに、荒々しい過酷な災害であった。荒川は、大朝日岳(標高千八百区七〇㍍)を源に、飯豊山系からの支流を合わせて越後平野の北側を横断して新潟県胎内市で日本海に注いでいる。内陸の米沢と海岸部の関川村との往来が鉄道敷設以前から荒川を媒介して盛んに行われた。

 上杉鷹山公の米澤藩と渡邉家の関係は深く、渡邉家の三代善久は、財政難に苦しむ米沢藩に融資して、幕末までに総額十万両以上の用立てをしている。 渡邉家の初代は、村上藩主の松平大和守が姫路城主に国替えになったときに家督を譲って村上から現在地に転居して、二代目が廻船業と酒造業を開業している。船の事業は海を舞台にしており、酒は水と米を原料にして生業を発展させている。荒川に沿って鉄道が建設され、昭和一一年に米坂線が全通している。荒川の左岸下流にある坂町駅と山形県の米沢駅を結ぶ単線非電化の90.7キロの路線である米坂線は荒川を遡って、列島の背骨となる山岳を横断して山形南部の米沢に至る交通の便利を担ってきた。米坂線の北には、朝日連峰が大きく横たわっているから、海から山へ抜ける道で更に北にあるのは、酒田から月山の峠を越えて寒河江を通り、山形へ抜ける道しかない。今では山形から酒田に横断する高速道路があるにはあるが、月山の峠は地盤軟弱で建設工事が行われずに、途切れている。気候的には、日本海から吹き寄せる季節風が朝日連峰や月山を直撃して冬場は大量の降雪をもたらし、世界有数の豪雪地帯となる。関川村の山形側の隣町の小国町もまた日本有数の豪雪地帯である。夏場は豪雨地帯ともなり得る。大被害を出した昭和四十二年の羽越水害が教訓となって、各河川の治水事業が強化され、続々とダムが建設された。荒川も二級河川であったのが、一級河川として格上げされた対策が講じられて、実際、その後の水害の被害はくい止められている。関川村では、羽越水害の記憶を留めるために、地元の大蛇伝説を題材にして、昭和六三年から、「たいしたもん蛇まつり」を始めて、災害の起きた日の八月二八日にちなみ、長さ八二.八メートル、重さ二トンの大蛇を竹とわらで作り、練り歩く祭りを創作している。その大蛇は、関川村に五四の集落があるので、それぞれ分担して五四の胴体部を作り頭とつなぎ合わせている。ギネスブックにも登録する念の入れようだ。

 さて、関川村のある岩船郡の隣の蒲原郡新発田市にある総鎮守の諏訪神社が二〇〇一年一一月五日未明の火事で本殿などが焼失していたが、このたび本殿が再建された。本殿前に御柱が一本聳え立っている。これはもともと諏訪大社秋宮で平成十年に建てられていたものを、新発田の諏訪神社の再建を記念して、一本下賜されたものだという。新発田の諏訪神社は、渟足(現在の沼垂)磐舟(現在の岩船)の二柵を置いたために、大化四年(六四八)に信濃から移住してきた屯田兵が、諏訪大社の浄砂を携えてきて、現在のの市内諏訪山の地に神社を置いたと言う縁起である。
 諏訪大社のご神体も蛇であるから、関川村の新しい大蛇の祭りも、天と地、山と海とを結合する御柱を依りしろにする点で共通する。高く聳える山々は命の水の供給源でもあるが、山を蔑ろにした瞬間に、山と海とを繋いでいる川は氾濫を引き起こして災いを与えるかのようだ。のたうち回る大蛇が、氾濫原の紋様となって姿を表す。
 関川村の北方に光兎山(こうさぎさん)という九六六メートルの山がある。慈覚大師円仁が開いた修験道の山で、往古は女人禁制の山だった。残雪の頃には、頂上近くにうさぎの雪形が顕れる。光兎山の麓を女川が流れ荒川に注ぐが、羽越水害の航空写真でも、白く濁った氾濫原は確認できないほどの穏やかさの支流である。蛇喰と言う厄払いの名の集落もある。一昨年の年末に、佐渡の朱鷺が光兎山麓の上野新集落の郵便局近くの田圃に飛来する吉兆もあった。(つづく)

|

« Open Society | トップページ | Kuroshio Culture and Tradition »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/209267/47334437

この記事へのトラックバック一覧です: Kuroshio 21:

« Open Society | トップページ | Kuroshio Culture and Tradition »