Kuroshio 24
黒潮の民の彩りは鮮やかである。黒潮の流れに西日があたり、あらゆる色彩が表現される豊かさがある。天が黒で大地が黄色の、大陸の天地玄黄の世界とはかけ離れている。赤という言葉は、日本の最古の色の名前であるが、現代中国語にはない。赤旗はなく、紅旗であり、赤十字は紅十字である。白糸を茜の根で染めたから赤であり、緋色が茜で染めたもっとも鮮やかな色である。坐女は緋袴を着る。渡来の紅花で染めた色は、「くれない」と呼び、呉の藍との意である。真緋と書いて「あけ」と読むが、緋縅の鎧の色ともなる。朱色は鉱物性の顔料で赤色中の赤で、公私にわたって押す判子の色は権力の色である。朱印状の世界である。赤土に鉛丹を加えた丹塗りも黒ずんでしまうから、宇佐八幡のように三〇年ごとに塗り直さなければならないが、古色蒼然となって朽ちた白木になっても受け入れるのが、黒潮の民の美意識である。朝まだきの時を「あかつき」「あかとき」という。朝の日差しの色が赤であり、物事の始まる時が赤であり、赤児のことでもあり、夜が明ける始まりのハーがそもそもの赤色である。蘇芳も赤い色だが、原料はマレーなどの南方から渡来する染料である。
芭蕉布という沖縄の歌謡曲に、「海の青さに空の青」の歌詞がある。同じ「あを」でも紬の色合いのように浅地(あさぢ)から紺地(くんぢ)までの変化で、薄い「あを」から、濃紺の「あを」までの幅があるし、珊瑚礁の海面のように、光を受けて緑色に輝く紺碧の海と表現する「あを」もある。石坂洋次郎の青い山脈の「あを」は、そそり立つ白銀の山並みを背にして、春の萌えいずる青春の「あを」である。生気のないくすんだ蒼も「あを」としているから、黒潮の民の子孫は漢字の本家の藍という文字を避けて、青を多用する。朝鮮半島の美しい秋の空(プルンハヌル)は、天高く馬肥ゆる秋と騎馬民族の影響が入って、その色は海の深さと情けの深さを象徴する群青色と異なる。群青色は、天然に産出する場合に瑠璃といわれる貴重な石の色である。西洋に青の色がどんどん使われるようになる以前から、惜しみなく使われている。水や波が、空の色が、花菖蒲が、鮮やかに瑠璃色で表現される。日本古来の色が縹(はなだ)色(いろ)であるが、たで藍が大陸から伝わってくるまでは、山藍をそのまま染めて、その色を縹色と呼んだ。今の藍色は、黄色の原料である黄蘗で下染めをして、上から藍で染めたものであるというから、紛らわしい。浮世絵の版画の空や海に使われている紺色は、日本独特の特徴ある色で、西洋でジャパンブルーと呼んでいる。ジーンズも青色だが、これはもともと藍色が作業着に定着していた関係から、一般着に転用した。思えば、紺色が学生服や作業着の色になっているのも、黒潮の民と海の色との関係が深いことに根ざしている。
緑は草木の新芽の色に関係づけられていて、萌(もえ)葱(ぎ)色(いろ)あるいは萌木色というが、青色と紛らわしい。若武者の鎧は萌葱色である。確かに、緑色は草木の絞り汁から直接染めることができないのは、不思議なことである。藍に刈安というススキに似た植物性染料をかけて緑色が発現する。嬰児の言葉に象徴されるように、移ろう生命の色が緑であるが、これも「あを」と呼ぶ。青二才でもあり、緑信号などと誰も言わずに青信号と呼ぶ。藍瓶に白い糸を浸して、絞り上げると、その瞬間空気に触れた部分がエメラルドグリーンの、珊瑚礁の海の色、紺碧の緑色になるが、見る間に数秒間で色あせて縹色になる。赤と青とを交互において濃淡を作っていくと紫色が現れるのも不思議である。緑と紫とを混ぜると灰色になるが、並べると真珠の輝くような色になることも不思議である。黄色と青色との相性は、海の民にとっては当然のごとくになじみがあり、太平洋の島々では黄色の腰巻きをした人々が珊瑚礁の海で漁労にいそしんでいる姿を見ることは珍しくない。黒潮の湧き出す与那国島の作業着も黄色と黒の模様が入っているし、黄八丈と呼ばれる伊豆の島の代表的な織物も、海の青さと補色になってお互いを際立たせる。黄色と青とが隣にあると、紫の色が発色するようになる。紫草の根を揉み出して黒潮の花木である椿のあく汁で媒染すると、美しい紫色が得られる。それを六〇度以上に熱すると美しい紫が消えて、滅紫、「けしむらさき」になる。だから紫の色は、自然と人間とを併存させる尊い禁色の色と崇められる。
さらに「かいこ」を天の虫と書いて、生絹をすずしと読ませる。白無垢の色を、神衣の色として、祭司は白衣を身につける。熱田神宮に残る十襲御衣(とうがさねのおんぞ)も真白い衣である。白色は清浄無垢、潔白を表している。天皇の袍の色ももともと純白の白衣とされている。南島のユタもノロも白い衣をつける。紫よりも尊い色である。青い海に繋がる白い砂浜の色である。黒は漆黒の闇であり、全ての色は尽きるが、その狭間で鼠や茶色そのほかあらゆる色を楽しむ。真赤、真青、真白、真黒と少しの真黄色の要素で、南海の白砂を追憶して夜と昼とを織りなす世界を保つのだ。黒潮の民の色は植物の生命(いのち)の色である。(つづく)

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