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Africa

アフリカについて、当ブログは知見が全くない。おもしろい意見があったので、紹介するのみである

「2010年は、アフリカにとって記念すべき年です。「アフリカの年」から、ちょうど50年に当たります。ナイジェリアやカメルーンなどアフリカ17カ国が独立、世界の歴史に「アフリカ新時代」を刻印したのが1960年の「アフリカの年」でした。そして、いよいよ6月には世界の一大イベントとも言えるサッカーの「FIFAワールドカップ」が、史上初めてアフリカ大陸で開催されることになりました

 日本でも変化が起こりつつあります。2008年秋のリーマンショック以降、日本企業も「新興国」「途上国」に熱い視線を注ぐようになりました。その“視線リスト”にアフリカが加わりつつあります。ここに来て、テレビや経済誌などで「アフリカ特集」が組まれるようになりました。アフリカを見る目が、大きく変わろうとしているのは間違いないでしょう。

 一方で、首をかしげる人もまだ多いのではないでしょうか。「アフリカでビジネス?」と。1960年代に鉱山企業の経営者としてシエラレオネで2年間仕事をされた麻生太郎・前総理大臣のような人もいらっしゃいますが、鉱山など一部の業界を除いては、日本では「アフリカ」と「ビジネス」を結びつける発想はほとんどなかったのではないかと思います。

アフリカのイメージは人それぞれ

 私が働いているNGO(非政府組織)の「アフリカ日本協議会」は、アフリカと日本のNGOのネットワーキングを中心に取り組んでいます。アフリカ日本協議会は、1994年に設立されたNGOで、日本とアフリカの市民の対等なパートナーシップの構築を目的に活動しています。アフリカのHIV/エイズなど感染症、保健分野と食料安全保障の課題を中心に、調査研究と政策提言を行っています。また、日本に住むアフリカの人々やその家族との連携・サポートなども手掛けています。

 私は20歳の時から、横浜の日雇労働者の街・寿町で労働組合や住民グループなどとともに医療活動に従事しました。その後、日本のレズビアン・ゲイ・性的少数者の人権問題やHIV/エイズ問題などに取り組む中で、アフリカのHIV/エイズ問題の深刻さに触れる機会がありました。アフリカの人々の取り組みの真剣さにうたれ、2002年以降、アフリカを取り巻く様々な課題に携わるようになりました。

 さて、みなさんは「アフリカ」と聞いた時に、どんなイメージが頭に浮かびますか。ライオンやキリン、ゴリラなどに代表される手つかずの豊かな自然という「野生の王国」でしょうか。はたまた、深刻な貧困、飢餓、紛争に代表される悲惨な光景でしょうか。

 では、「アフリカの人」。こうなると、イメージが少し変わりませんか。ナイジェリア出身のボビー・オロゴンさんやベナン出身のゾフマンさんをはじめ、アフリカ人のテレビタレントは日本でも人気を博しています。ほかに、マラソンやサッカー、バスケットボールなどで活躍するアフリカのスポーツ選手を挙げる人もいるでしょう。

 要するに、「アフリカは遠くて、よく分からない」。これが今のところ、多くの日本人のアフリカに関する「相場観」だと言えます。本コラムでは、アフリカに関するいろいろなイメージをうまく結びつけ、2010年の日本における新しい「アフリカの相場観」を編み出してみたいと考えています。

アフリカの運転手は日本をベタ褒め

 アフリカを理解する第一歩として、アフリカの人々を身近に感じることができるエピソードを取り上げましょう。

 日本人がアフリカ人に自己紹介をすると、不思議な顔をされることがあります。例えば私の名前はローマ字で書くと「Inaba Masaki」ですが、この響きがアフリカの地元の言葉とよく似ているというのです。逆に相手の名刺をもらって、住所を読んでみると「発音上手だね」と言われます。

 お世辞かと思うとそうではなく、アフリカの言葉と日本語には不思議な共通点があるのです。それは、ほとんどの子音に母音がつくということ。日本で暮らすアフリカの人たちには、日本語が達者な方が多いのですが、彼らは欧米人と違って、発音の面ではほとんど苦労がないようです。実際、日本語をローマ字で書くと、なんとなくアフリカの言葉のようにも見えてきます。

 言葉の雰囲気が似ているのは偶然でしょうが、アフリカで日本はとても人気のある国です。その理由は、日本車にあります。東アフリカに行くと、見かける車の9割は日本の中古車。地元の人たちが普段から利用しているミニバスの多くはトヨタ自動車や日産自動車のバンが使われているのです。このタイプの車を「ニッサン」と呼ぶ人もいるぐらい、というほどの浸透度です。トラックや長距離バスはドイツのマンやスウェーデンのスカニアなどのシェアが高くなるので、日本車は押されてしまいますが。

 ミニバスやタクシーの運転手に聞くと、みんな日本をベタ褒めです。なぜこんなに日本の中古車が走っているのでしょうか。実は、これらの日本の中古車の部品をアフリカに供給するために、ウガンダ人やナイジェリア人、カメルーン人などの商売上手が、日本で中古車解体・輸出の会社を立ち上げているのです。埼玉県や茨城県などの中古車解体業には、パキスタン人などと混じって、アフリカ人社長がかなり名前を連ねています。

 日本車と比べて、アフリカでは日本の「人」が格段に少ないのが残念なところです。最近は、東洋人と言えば中国人。私たちを見かけると「ニイハオ」という声がかかることが多く、時には中国語の発音をからかって「チュアンチュエンチュオン」などと挑発してくる連中もいます。

 確かにアフリカは日本からは「遠い」。行こうと思うと、首都レベルでも2日ないし3日はかかります。それでも、以前に比べれば航空網が整備されて、ずいぶんと便利になりました。

 まず、東アフリカのケニア・ウガンダ・タンザニア。エミレーツ航空やカタール航空のおかげで、これらの国々には中東経由で1日で着けるようになりました。エミレーツ航空はナイジェリアのラゴス、ガーナのアクラ、コートジボアールのアビジャンなど西アフリカの主要都市にも航空網を伸ばしています。

 南部アフリカの国々は、南アフリカ共和国の最大都市ヨハネスブルグ経由です。ヨハネスブルグまでは、香港、マレーシア、シンガポールなどで飛行機を乗り換えて約20時間。インド洋上空は風が強いので、結構揺れますが。日本から最も遠いのは西・中央アフリカのフランス語圏諸国です。これらの国々の首都には、エール・フランス航空が航空網を張っており、パリ経由で1~2日で行けます。

 入国するにはビザが必要なので面倒かもしれませんが、実際に旅してみると、思ったよりは近いと感じることでしょう。残念ながら、日本とアフリカを結ぶ直行便は、エジプト航空を除いて、今のところありません。大陸間路線を持つ南アフリカ航空やケニア航空、エチオピア航空は香港、バンコク、北京などに直行便を飛ばしています。日本との直行便開設が待たれるところです。

室町時代後期からつき合いがあった

 歴史を振り返ると、日本とアフリカの関係は意外と古く、室町時代後期までさかのぼります。この時代は、ポルトガルやオランダなどによってインド洋を介したアジア交易が活発化した「第1次グローバリゼーション」の時代で、多くの日本人が豊富に産出される金銀などを売り物として、タイやフィリピン、マレー半島などに移住して日本人町を作っていました。

 ポルトガルの船が、多くのアフリカ人奴隷を日本に連れてきたのがこの時代で、桃山時代に描かれた狩野内膳筆の「南蛮屏風」には、日本にやってきたアフリカ人奴隷がはっきりと描かれています。織田信長にアフリカ人の家来がいたことは、ご存じの方も多いでしょう。

 もともとはイタリア人宣教師ヴァリニャーノが連れていた奴隷でしたが、「弥介」という名前をもらって織田信長の家来となり、本能寺の変まで行動を共にしたと言われています。その後、明智光秀に捕らえられた弥介は、外国人ということで放免となりましたが、その後は行方知れずになっています。

 一方、この時代、日本からもアフリカの地を踏んだ人たちがいました。天正の遣欧少年使節団はローマへの行き帰りに、世界遺産にもなっている南部アフリカのモザンビーク島のポルトガルの城砦に寄航。嵐のせいで半年もそこにとどまっていたとのことです(藤田みどり著『アフリカ「発見」』[岩波書店]に詳しい)。

 その後、江戸時代の鎖国政策によって関係は薄くなりますが、明治期に入ると、今度は遠洋漁業で多くの人々がアフリカに寄航するようになります。それを追いかけて、日本人女性たちが「からゆきさん」としてシンガポールを経由してアフリカに渡りました。白石顕二氏のルポルタージュ『ザンジバルの娘子軍(からゆきさん)』(社会思想社現代教養文庫)には、明治時代に東アフリカのザンジバル島に渡った日本人女性たちやその子孫の歴史が克明に記されています。

 さらに、明治期の日本軍は、英国をはじめ、ヨーロッパが植民地で展開した戦争について克明に調査しました。そこには、南アフリカでズールー人が英国軍に勝った「イサンドルワナの戦い」なども調査対象に入っていたそうです。

 こうしてみると、さすがに地球も1つの星、まるで関係がなかったかのようなアフリカと日本にも、実は多くの接点があったことがわかります。航空網とIT(情報技術)の発達で世界が“狭くなったグローバリゼーション”の時代、アフリカと日本は、もっとしっかり結びついてもいいと私は思うのです。

与え続けた結果としての飢餓や紛争

 最後に「アフリカとビジネス」を考えてみましょう。私たち日本人にとって、アフリカはごく最近まで「援助」の場ではあっても「ビジネス」の場というイメージはなかったと思います。

 しかし、中国人やインド人の目からは、同じアフリカが「人生の成功」を賭けた機会の場として映っています。近代以降、英国の支配の下でたくさんのインド人がアフリカの東や南に渡り、小さな商店から大企業まで様々な産業を育て、インドとアフリカを結ぶ経済網を作るに至りました。

 今、大量の中国人がアフリカに渡り、安価な製品を販売して経済基盤を作りつつあります。能力ある人材がひしめき、極端に競争過多な本国では、出世や成功もなかなかたいへんです。意を決してアフリカに渡ってしまえば自分の才覚でチャンスはどうとでも切り開ける、と彼らは考えているでしょう。

 歴史的に見れば、ヨーロッパにとってアフリカは「儲け話の宝庫」のような場所でした。欧米が先進国になることができたのは、アフリカと新大陸を結んで、奴隷貿易という名の不等価交換を軸に、自分に極めて有利な貿易を続け、十分に資本を蓄積して産業革命を達成したことによるものです。その後、欧州はアフリカのほぼ全土を植民地化して、経営の出費もさることながら、多くの利益を上げました。この点から考えれば、欧米の発展はまさに「アフリカのおかげ」です。

 アフリカにしてみれば、歴史的に「惜しみなく与え」続けた結果として、飢餓や紛争の相次ぐ場所になってしまいました。私たち日本人がアフリカに対して持つ「悲惨」なイメージは、欧米をはじめとする他地域がアフリカで「儲けてきた」最終決算としてのアフリカの姿であるとも言えます。

 つまり、アフリカの悲惨は、「アフリカは儲かる場所である」という事実とコインの裏表であるわけですが、私たち日本人は、アフリカとの関係が少なかった分、コインの「裏」だけを見せられ、そのイメージが強く残ってしまったわけです。

 アフリカは「儲かるところ」、しかし、私たちは、これまでと同じようなやり方を続けることはできません。アフリカが惜しみなく与え、他国は当然のように受け取る関係は、もう持続性がなくなっています。

 そこで注目を集めているキーワードが、BOP(ボトム・オブ・ピラミッド)です。先進国の所得水準から見るとまだまだ所得が低い新興国の人々を、消費者と位置づけし直すことで生活環境を向上させる取り組み――。アフリカが豊かさと多様性を回復し、ほかの世界とWin-Win(ウィン-ウィン)の関係を構築できるように誰かが取り持たなければなりません。

 そのカギは、誰が持っているのか。実は、奴隷貿易や植民地支配に手を染めておらず、また、インドや中国などのように新たな利権関係にも組み込まれていない、新たなアクターが求められています。つまり、日本。再びアフリカと近しくなるべきタイミングが訪れているのです。にもかかわらず、あまりに私たちはアフリカを知りません。

 「アフリカの年」から50周年。私たちにとってのアフリカの「相場観」はどの辺にあるのか。次回から、アフリカを対象にする研究者や実業家などの話を通じて、一緒に探っていきましょう。

稲場 雅紀(いなば・まさき)

NGO(非政府組織)であるアフリカ日本協議会職員。横浜の日雇い労働者の街、寿町で医療活動をする「寿医療班」事務局責任者、「(特活)動くゲイとレズビアンの会」副代表理事を経て2002年よりアフリカ日本協議会の国際保健部門ディレクター。著書に『流儀=アフリカと世界に向かい我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』(生活書院、山田真・立岩真也と共著)、『「対テロ戦争」と現代世界』(御茶の水書房、共著、木戸衛一編)などがある」

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