構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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2010年5月

Lacking strategic consideration

2月18日に脱稿したとある。普天間問題が燃えさかる前に書かれた優れた論考である。今頃になって新聞掲載されるのも不思議ではあるが、戦略思考のなさが露呈したから、ようやくあるいは渋々載せざるを得なくなったのであろう。http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100530/plc1005301052005-n1.htm ご参考まで。

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「柳澤協二前官房副長官補(安全保障・危機管理担当)は米軍普天間飛行場の移設問題について、産経新聞に「普天間問題・・・『海兵隊が沖縄にいる抑止力』を考える」と題する論文を寄稿した。内容は以下の通り。

 鳩山政権の下で普天間移設をめぐる迷走が続いている。私は、それは、前政権の対米約束と、選挙における県外移設の約束の間で生じた「政治的迷い」、と思っていた。だが、昨年末、鳩山由紀夫首相が初めて抑止力に言及し、「抑止力の観点から、すべてをグアムに移すことは困難」と発言したのを見て、迷走の原因は、首相の「戦略的無理解」にあると確信した。

 海兵隊は、いつでも、世界のどこでも出動するもので、予め特定地域の防衛に張り付くような軍種ではない。したがって、「沖縄かグアムか」という問いに軍事的正解はもともと存在しない。それを決めるのは、抑止力をいかにデザインするかという政治の意志にかかっているからだ。

 国の安全保障政策に長年携わってきた私自身の自戒を込めて言えば、抑止力とは何かの共通認識がなければ、「普天間」は永久に迷走せざるをえないだろう。

<抑止力とは何か>

 抑止とは、相手の敵対的軍事行動を拒否し、報復する能力と意志を認識させることによってそれを思いとどまらせることだ。わが国防衛の場合、大きく言って、拒否は日本の役割、報復は米国の役割とされてきた。

 冷戦期には、米ソの対峙の中で、小規模な紛争もやがては核報復に至るというエスカレーション・ラダーの中であらゆる紛争が抑止されると考えられていた。わが国は、本格的な侵略には米国の来援があることを前提に、その間を持ちこたえる防衛力を保有するという「基盤的防衛力」に立っていた。その来援兵力は、米本土やハワイから来る。それゆえシーレーン防衛が重要で、同時に、米軍駐留は米国の日本防衛の意志の証と位置付けていた。

 ここで、2つのことを指摘したい。

 (1)まず、防衛白書でわが国周辺の軍事態勢を見ると、日米の地上兵力は、中国に対して圧倒的に少ない。それでも軍事均衡が成立するのは、情報や海空軍力の質・量で優っているからだと認識されている。

 (2)つまり、抑止力とは、防衛態勢全体の効果であって、相手が当方の防衛の意志を疑わなければ、個別の部隊配置は2次的問題だということだ。

 ただし、速度の速い航空防衛力については、意志とは別に、能力としての東シナ海など、特定の地域におけるパリティが必要になる。ちなみに、抑止力を論じるなら、米軍嘉手納基地沖縄県)の戦闘機を米軍三沢基地(青森県)に移転する計画があることや、航空優勢の切り札であるF22の生産中止は、もっと議論されるべきだ。

 この事情は冷戦期も今も不変と言えよう。では、何が変わったのか。3つの点を指摘したい。

 (1)冷戦期の米ソは明確に敵対していた。だが今日、米・中・日は、その生存のためお互いを必要としている。経済の相互依存の深まりが抑止戦略をどう変化させるのか、検証が必要だ。平たく言えば、米・中・日は相互に相手を滅ぼす潜在的意図があるのかということだ。

 (2)冷戦終結後、米国は、中東と北東アジアという2つの主要な地域紛争に同時に対応する構想を打ち出していた。だが、今日、イラク、アフガニスタン戦争によってその構想は事実上崩壊している。一方、ポスト・イラクの米軍の海外展開の全体像は見えてこない。

 より大きく言えば、米国発の金融危機に象徴される米国の力の陰りがある。すでに米国一国では世界の問題に対処できない。能力もさることながら、オバマ政権は、その意志も否定している。

 (3)それではわが国は、同盟国として何を引き受けるのかという大きな課題がある。今まで通り基地を提供すればよいのか、自衛隊の兵力を出すのか、カネで貢献するのか。あるいは、そのすべてを出さなければ同盟は維持できないものなのか。

 それらを踏まえて、「今なぜ沖縄に海兵隊が必要か」が問われている。それは、日本側だけでなく、米国側の問題でもある。

<沖縄海兵隊は必要か>

 「抑止力のために海兵隊がいる」ということは、いざとなったら使うということだ。例えば、考えにくいシナリオだが、中国が台湾に進攻する。その時、台湾防衛に海兵隊を投入すれば、米中は本格的衝突になり、核に至るエスカレーション・ラダーが動き出すかも知れない。米国は、あえてそうする意志があるのか。また、日本政府は事前協議でイエスと言うのか。

 先日、「中国の一方的ガス田開発には対抗措置をとる」という岡田克也外相の発言が報じられたが、尖閣諸島も含め、東シナ海の問題で日中全面戦争はありえない。だが、お互い軍隊を出せばその危険は否定できない。一方、米国が2国間の領域問題に核戦争覚悟で介入するとも思えない。台湾や東シナ海の問題には、誰でも、「そうならないように政治・外交的な解決を考える」と言うはずだ。

 あるいは、専門家と称する人は、そういう具体的な議論をせずに曖昧にしておくことが抑止力だと言うかもしれない。だが、地元にとって基地は、曖昧では許されない現実の負担だ。

 そのほか、沖縄と周辺の離島防衛について言えば、それこそ自衛隊本来の役割と言えよう。また、韓半島有事の際の邦人保護なども、基本的には米韓合同軍の役割だ。海兵隊が沖縄にいればこうした作戦に初動から参加できるだろうが、そのニーズがどの程度あるのか、疑問が残る。

 ASEAN諸国にも海兵隊のプレゼンスを望む声がある。海兵隊がアジアに居続けることを否定する気はないが、沖縄でなければならない理由は見出せない。

 <政治の責任>

 抑止力は、敵対的軍事行動を抑止するのであって、軍拡や核開発そのものを防ぐことはできない。それゆえ、過度な抑止力はかえって相手の軍拡を促すという「安全保障のジレンマ」を計算しなければならない。相手がいる以上、抑止に100%はありえないのだ。

 この観点から、海兵隊を下地島に移駐させる案は、米中間に無用の緊張を招きかねず、成り立ちにくい発想だろう。

 それでは、100%でないリスクを誰が負うのか、といえば、言うまでもなく、一国の政治リーダーの責任だ。インド洋の補給部隊をねぎらったり、自衛隊広報を「事業仕分け」するだけでは、シビリアン・コントロール文民統制)は成り立たない。

 日米安保条約改定から半世紀が経過した。戦略的従属性と基地負担という二つの棘の解消が日米同盟における最大の課題であることを否定する人はいないだろう。「普天間」は、その双方を象徴するテーマと言える。

 妙な言い方をすれば、鳩山首相の姿勢によって折角「同盟の混乱」が生じたのだから、結論を急がず、米国と「対等な」戦略論を展開してもらいたい。それが、長期的には同盟の利益になるのだから。〈2月18日脱稿〉」

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Cherry Blossoms and fruits from Yamagata

満開になる前の桜花である。散る桜は見なかった。福島の友人から送られてきた、山形のさくらんぼである。Cimg6313 Cimg6316 Cimg6317 Cimg6319

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Postal Reform deliberations at the Diet

こんな暴挙を許してはならないなどと、マスコミがいかにも正義の味方風に書いている。与党が衆院総務委員会で郵政法案の採決を強行したことについてである。与党は野党の了解を得ずに審議日程を決定し、実質審議をわずか1日、約6時間で切り上げたと主張して、小泉・竹中政治が郵政民営化法案の審議に110時間を要したなどと主張しているが、憲法違反まがいの刺客解散をしたこと、行政改革基本法に当分の間郵政民営化を凍結した法文が無視されて、強行されたことなどは、一切書こうとしないマスコミがほとんどである。民主党の国対委員長は、国民生活に関わるから、早く優先しているとの解説であるが、慎重審議をすればするほど、野党の自民党の内部対立が表面化するから、強行採決で、喜んでいるのは、野党の自民党ではないのか。

 民主党の小沢幹事長は、全国郵便局長会の総会で今国会での成立を約束したが、実際、先回の総選挙は、国民の郵政民営化の虚妄についての怒りは相当なものであったことから、民主党が大勝することになったことを熟知している政治家の行動としては、当然のものである。単なる党利党略ではなく、実際に郵政民営化のその天文学的な巨額の国民資産の保全の問題でもあり、単に票目当ての問題ではなかったから、参院選で郵政票をあてにする動きなどとの解説は全くの的外れな報道である。

 「6月16日の会期末まで時間がない」というなら、会期延長を図って審議時間を確保すればいい話だ、なぜもっと早く審議入りしなかったのかとの主張があるが、長い審議時間になればなるほど、困るのは自民党の方かも知れない。

 郵貯と簡保への政府の関与を残し、「暗黙の政府保証」の下で預金や保険の受け入れ限度額を約2倍に引き上げると、郵便貯金が肥大化するとか、民業を圧迫して金融システムを歪(ゆが)める懸念があるとか主張する向きがあるが、そもそも郵貯も簡保も残念ながら制度としてはなくなったものであり、その点からは、現在の郵政改革法案が、至極妥協的な内容であることこそ指摘されるべきものである。民営化を通じて郵貯・簡保は、がたがたになっているのが実態であり、資金量も急激に縮小していることである。資金の流れを「官から民へ」との民営化の大号令も、市場原理主義の破綻とともに、実際の需要は公的分野であるから、その目的自体が誤ったものであった。民の金融の失敗は、更に巨額のものであり、日本の国富を急速に縮減させたことの反省を求めるべきである。

 与党は週明けにも、一刻も早く衆院本会議を通過させるべきであるが、郵政民営化をめぐる簡保の宿の売却事件や、いろいろな私物化、あるいは特別背任事件として戦後最大の疑獄事件に展開するような事例が指摘されているから、むしろ、郵政民営化の暗部をえぐり出すことを避けるために、拙速な国会運営となっている方が問題である。野党・自民党の責任は大きいが、小泉・竹中政治の残党がむしろ主導権を握っている現在、郵政民営化の暗部をまともに追求できる体制にないのは残念至極な話である。郵政民営化に反対して自民党に戻った十数人の議員が今回沈黙しているのも、見識のない、あるいは勇気のないことである。日本を破壊しようとした構造改革を押した元総理の子息が、差し替えで総務委員会に出席して、郵政民営化の見直しに反対するなどは、まったく茶番の政治劇である。民主党の内部にも、市場原理主義の残党が多数いて、バックチャンネルで、自民党の原理主義と繋がっている可能性もある。

そうした状況下で、1日でも早く、郵政改革法案を成立させようとすることは、国益にかなう政治判断である。郵政民営化法案を成立させて、政局を一気に流動化させる方が、これまた国民の期待するところであろう。

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Richard Sorge

五月九日に東京であったこと。対独戦勝記念日に、旧ソ連の各国大使が、集合したとの話である。いかなる意味があるのか。

http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100530/erp1005300121001-n1.htm

取調官の資料が、沖縄国際大学に寄贈されたとの報道。

http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100320/trd1003200022000-n1.htm

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Prejudiced News

グーグル日本のニュースに韓国の新聞の日本語版が、時々掲載されている。もちろん、韓国の見方で書いてあることは言うまでもない。中国共産党の宣伝機関である新華社の日本語版のネット記事が載っていることもある。日本語で書かれているからと言って、そのまま読めば、どの立場か分からないことで、政治宣伝としては、思うつぼである。ニュースの原産国を明らかにすべきだとの考えがあるし、日本語だからと言って、日本のニュースとして取り上げるのはおかしいとの意見もありうる。

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アンケートを収集することにした。いずれにしても、今のままでは、情報の選別が行われず、外国の情報機関が政治宣伝をする場所として使う可能性がありうる。グーグルは、是正すべきである。日本に対して仕掛けられる情報戦に荷担すべきではない。

Let us become more like a family?!

台湾を舞台にして映画である。もう一つの日本が見えるという台湾、もっと家族になろうと訴える。

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A Liar

時間がそれほど、経っていないが、一ヶ月も経っていない。前言を翻した政治家が官職に居座っている。その発言は、民主党のホームページにもっともらしく文章になって、掲載されている。県外、国外?いろいろ発言したが、何のことだったのか。沖縄をバカにした発言だ。沖縄の戦後は終わっていないと発言しつつ、騙したのだ。言霊を失った政治家は、日本を弱体化させるだけになる。外国勢力の手先を外務大臣がするようになっては、国もおしまいである。国の形が守れなくなる。政権交代とは何だったのか。小泉・竹中政治の属国化の延長だったのか。よくよく考えると、普天間の閉鎖とかを言わずに県外とだけ言うのもおかしい。徳之島などは、同じ琉球文化圏だから、アメリカの一部の連中の思うつぼだ。あれだけの激しい祖国復帰運動があって、奄美は日本に帰ったのだから、今度は何もしないで奄美の徳之島を手に入れられると思うだろう。日本の委任統治下にあった、南洋諸島を、国連の信託統治下と称して、自分の手に入れて、思うがままにしているのが、米国の実態である。ハワイも、どんどん収奪して、併合して、今では、米国の一州にしてしまった。原住民は見る影もない。日本全国に海兵隊を拡散しようとして、県外と言ってきたのだろうか。外国勢力におもねったうえで、嘘をついた点では、惰性に任せた自民党政治よりもたちがわるい。少なくとも内閣総辞職だ。外務大臣も辞任すべきだ。

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Okada

http://www.dpj.or.jp/news/?num=6198

[岡田克也代表は15日、沖縄県宜野湾市で開かれた「普天間基地包囲行動集会」に参加し、普天間基地の沖縄県外への早期移転を実現するよう訴えた。

 この中で岡田代表は、挨拶の冒頭に、昨年の参議院選挙での喜納昌吉議員の勝利に謝意を表した上で、「今日は沖縄復帰から33年、終戦から60年。33年前に沖縄が日本に復帰することが決まった時に、これで日本の戦後が終わったという声が上がったが、沖縄の戦後は終わっていない。その象徴が、普天間基地の問題だ。今、米軍基地の再編問題が議論されているが、日米両政府が普天間基地の返還を決めて何年が経ったのか。今こそ、心を一つにして普天間基地の沖縄県外への移転を実現していかなければならない。安全保障に対する考え方に違いはあるが、その違いを乗り越えて、気持ちを一つにして普天間基地の沖縄県外移転を実現していこう」などと力強く訴えた。

 なお、この日の集会には、岡田代表とともに、齋藤勁・喜納昌吉両参議院議員らも参加した。]とある。

Despair

失望を通り越して嘆きとなった。

http://okadome.cocolog-nifty.com/blog

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Japanese island territories in the midst of Pacific Ocean

「台湾は日本の生命線」からの引用である。沖ノ鳥島や、南鳥島など国土保全を図る整備法が成立した。全会一致で参議院で可決したのも良い。シナがやかましいが、やかましいのは、自分に非があるときである。日本人が黙ってしまうのとは逆の対応の仕方である。

ご参考まで

http://www.melma.com/backnumber_174014/

「沖ノ鳥島保全法」が成立―今や西太平洋は国防第一線

ブログでは関連写真も↓
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-1179.html

■島を「島」とアピールするのはなぜか  

日本最南端の沖ノ鳥島や最東端の南鳥島などの離島保全を図る「低潮線保全・拠点施設整備法案」が
五月二十六日、参院本会議で全会一致で可決、成立した。

同法は排他的経済水域(EEZ)の根拠となるこれら離島を、国が管理する「特定離島」と規定し、護岸工事や港湾などの整備を行うとする。そしてEEZの設定基準となる干潮時の海岸線(低潮線)保全も義務付ける。

とくに沖ノ鳥島には経済活動の拠点を設けることで、ここが「島」であることをアピールする狙いもあるが、それを行うのはなぜか。

実際にそこが島であることに疑いはない。満潮時の海抜は約七十センチに過ぎないが、国連海洋法条約にある「島とは、自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるものをいう」との規定を十分に満たしている。

そこでこの島を中心に国土面積の約十二倍にも当たる約四十万平方キロものEEZが設定されているわけだが、これに中国がEEZを有しない「岩」だと難癖をつけているのだ。

わざわざ「沖ノ鳥島」を「沖之鳥礁」とまで呼び変え、同条約にある「人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない」との規定を盾にしているのである。

かくして日本側はEEZ防衛に万全を期し、経済活動の拠点を設けようと努力しなければならなくなっているのだ。

■中国の軍事戦略を見よー西太平洋の波高し

ではなぜ中国は、本国から遠く離れたこの島の周辺海域を巡り、日本と争うのか。

それはここが、日本列島、台湾と結ぶ第一列島線と、小笠原諸島、グアム、サイパンとを結ぶ第二列島線との間の海域のほぼ中心に位置するからだ。

中国の軍事戦略は、二つの列島線間の海域に海軍力を伸張させることにある。

例えば台湾侵攻の際、グアムから救援に向かう米機動部隊を、この海域で阻止しなければならない。
そして台湾を併呑して第一列島線を突破し、東アジア諸国を影響下に置くとともに、この海域を米軍支配下から奪い取って「中国の海」に変え、自らの生存空間としなければならない。

もはや海洋への膨張を行わなければ政権を維持できない暴力国家としては、当然の戦略と言えるだろう。

そこで二〇〇一年ごろから沖ノ鳥島周辺で潜水艦戦略に基づいた海洋調査に乗り出しているが、この海域が日本のEEZ内であるかぎり、日本側の同意が必要となる。そこで主張し始めたのが「島ではなく岩だ」である。

昨年六月、そして今年三月、四月にはこの海域で艦隊演習を実施するまでに至っており、今や東支那海だけでなく西太平洋も日本の国防第一線となりつつある。

■国際社会における中国の「法律戦」を打破せよ

こうした情勢だからこそ、今回の法律の制定はEEZのみならず国家自体の防衛にも有効なのである


中国の反撥は必至と予測する報道も見られるが、すでに国会審議中から「冲之鳥礁を起点に広大な管轄水域を設定するやり方は国際海洋法条約に符合しない」とする一月の中国外交部の声明を繰り返し報じる中国御用メディアもある。

中国国際放送(二十七日)によれば中国社会科学院日本研究所の高洪副所長も次のように話している


「沖之鳥礁は軍事専門家の言うところの第一、第二列島線の間に位置し、中国の遠洋型海軍の発展も速いため、日本が警戒するのは当然だ。日米同盟に頼って中国の発展を阻止しようとすら考えている」

「もし日本の政治家が聡明なら、この問題を激化させ、中日間の焦点問題にしてはならない。大局を見、すべての国際情勢を見なければならない。具体的、個別的な企みで両国関係を悪化させてはならない」

そしてこうも言う。

「中国は国際海洋法条約に照らして処理するため、日本の立法は無視する。日本が過敏な反応を示し、両国間の問題とするなら、中国にはすでに準備はあるし、自信ある冷静な態度で事態の変化を見るだろう」

すでに中国は昨年、国連「大陸棚の限界に関する委員会」に「岩だ」と訴え、日本が導委員会に行う沖ノ鳥島の大陸棚拡張に関する正当な申請への妨害に出ているが、今後も国連を舞台に「法律戦」を展開し、各国を誘って日本の主張を押しつぶす構えのようだ。

これからも政府はEEZ防衛のため強固な意思表明を継続するべきだろう。「日中間の焦点にするな」「大局、国際情勢を見ろ」と訴える中国に対抗し、さらにいっそうひるむことなく、国際社会に自らの正当性、そして中国が軍事膨張の野心に基づき地理情報を捏造している事実を国際社会に訴えるべきだ。

「嘘も百回言えば真実となる」を情報戦の基礎とする中国側の武器は「声の大きさ」であり、まずは日本はそれに負けてはならない。海上覇権の争奪戦は今始まったばかりなのだ。

Slanted Google News

unruling LDP

自民党の、小泉元首相の子息である小泉進次郎小泉真二郎衆議院議員が衆院総務委員会の委員として郵政改革法案の審議に出席することが26日決まったというが、その代わり、山口俊一議員と、森山豊議員が委員を外れるとの報道である。自民党としては、郵政民営化を強行した小泉純一郎元首相を父に持つ進次郎氏を前面に押し出し、改革法案の早期成立を阻止しようアピールする考えだというが、全く世界情勢の移り変わりを知らないかのようなピンぼけの対応である。民営化などの市場原理主義は世界的に破綻したのだから、その破綻した日本の政治経済をどう修復するかを議論せず、マスコミ受けを狙った矮小化した仁川である。救いようもないような党になってしまったらしい。法案の採決で、造反者を出すことを避ける狙いがあるとのことであるが、差し替えの対象となった二人の議員も、唯々諾々として受け入れているところを見ると、もはや、郵政民営化の虚妄について、自民党の中で主張する気力も失せたのかも知れない。哀れなことである。なお、あとひとりの起用された議員は、山口議員と同じ徳島県の選出の後藤田正純議員である。山口議員の主張を何とか押しとどめようとの策らしいが、いずれにしても、自民党と言えば、戦後の日本の繁栄を支えてきた保守勢力であるが、すっかり、上げ潮派の連中にのっとられてしまっとうらしい。今回の差し替え人事は、党の再生の見通しが全くないことを明らかにして、旧態依然のマスコミ癒着の劇場政治を追求していることが分かった。

Freeway

著者山崎養世氏は、民主党が野党時代に陰の内閣の国土交通大臣もした、論客である。郵政民営化にも、今を見通して反対していた。郵便局を年金の窓口にすべきだとの提案もしている。高速道路無料化論を提案して、民主党のマニフェストにも採用されていた。しかし、新政権が登場して、却って反故にされた。怒りの文章である。国益を考えずに、利権政治に走る、国土交通大臣の実像に迫る。日本航空の再建の迷走の原因もおそらく同根であろう。

山崎氏の論説は次のリンクにある。ご参考まで。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/3347

Standing Army 2

下記の評論は、当方ブログの知人である、イタリア政治史の専門家が執筆した原稿である。映画の予告編へのリンクは、以前に掲載している。

 

Standing Army=常備軍。戦時・平時を問わず編成される軍隊であり、近代国家においては、戦時に大量動員する大衆軍の基幹としての役割を果たしてきた。第二次世界大戦を圧倒的な軍事力で勝利したアメリカ合衆国は、続く冷戦時代、ソ連を「封じ込」むため世界中に常備軍を配置し、その圧倒的な軍事的プレゼンスを背景に覇権国家への道を突き進む。一方、在外米軍を受け入れた国々では、米軍の存在が政治的・社会的・経済的なさまざまな問題を引き起こしている。そうした国の一つに、イタリアがある。ここでも例えばヴェネト州ヴィチェンツァにある米軍基地の拡張計画などは、地元の自治体や市民との摩擦を引き起こし、政治的・社会的な問題となっている。そのイタリアで、2010年、その名も『Standing Army』というタイトルのドキュメンタリーフィルムが発売された。制作はイタリア・ローマのEffendemfilmという無名のインディーズ系映像プロダクションであるが、在外米軍の典型例として、沖縄、ディエゴ・ガルシア、コソボなどを取材し、説得力のある映像で世界中に散らばる在外米軍の本質に迫る作品になっている。

折しも日本では、発足から半年余が経つ民主党政権が、普天間飛行場移設問題で揺れに揺れている。普天間は自民党政権時代から日米関係における懸案事項の一つであった。既に決定済みと見られていた辺野古(キャンプ・シュワブ沖)への移設案は、座り込み運動のみならず海上に櫓まで組んで抵抗する反対運動に遭い、環境アセス調査すら満足にできていない状況である。この辺野古移設案に伴うリーフの埋め立て工事は環境にも影響を与え、東アジアでは珍しいジュゴンを始めとした、付近の生態系を脅かす恐れがあることは、本作でも描かれている通りである。

とはいえ普天間飛行場は住宅密集地帯の真っただ中にあり、60年以上に亘って様々な問題を引き起こしてきた。2004年には沖縄国際大学へ米軍ヘリが墜落したが、それも氷山の一角でしかない。米軍に土地を奪われた元地主や辺野古沖及び高江ヘリパットで米軍反対運動を行っている人々へのインタビューからは、現地の人々を無視して米軍がいかに理不尽なことを行っているかがよくわかる。その一方で、米軍が使用する土地の地代を当てにしている地主[i]や新たな基地工事の受注を期待する地元沖縄の土建業者などもおり、沖縄全体が必ずしも米軍基地反対で統一されているわけではない。普天間飛行場移設問題は、地元の民意と利権に、後述する米軍再編問題が関わった複雑な問題であり、容易に解決がつきそうにない。

そうした現状を打破するため、民主党は2009年秋の衆院選以降、辺野古沖への移設案に反対し沖縄県外移設を主張し続けてきた。しかし現実に政権を獲得した鳩山政権は、自分たちが主張してきた「公約」と辻褄を合せるのに四苦八苦。土壇場で隣の鹿児島県への移設計画を持ちだしてきた。この鹿児島県への移設計画に関して、『サンデー毎日』3月28日号[ii]に興味深い記事が掲載されている。そこでは鹿児島県の種子島近くにある馬毛島という島が、移転先候補地として紹介されている。馬毛島は1950年代には500人以上の人口があったが現在は無人島となっており、島の現在のオーナーは馬毛島を「“第二のディエゴ・ガルシアにしたい」と述べているという。

本作でも取り上げられているディエゴ・ガルシアは、インド洋に浮かぶ環礁島であり、もともと英国領インド洋地域に属する英国の海外領土であった。冷戦最中の1966年、インド洋の抑えを重視した米国は50年期限の貸与契約を英国政府との間で締結。以来、島民は島から徐々に追い出され、冷戦終結後の現在では民間人は一人も住んでおらず、島全体が米軍専有の基地となっている。今ではディエゴ・ガルシアは、リゾート設備も完備した基地として米軍募集の宣伝にも使われる一方、元島民は英国やモーリシャスに強制移住させられ、帰還と補償を求めて英国政府に対して訴訟を起こしている。上述の馬毛島のオーナーは、島全体を米軍の専用に供するという意味で馬毛島を「“第二のディエゴ・ガルシア”にしたい」と言っているのだが、実際には馬毛島は「第二のディエゴ・ガルシア」にはなりえない。なぜなら、もともと無人島であるため、島民を立ち退かせて米軍を受け入れるという問題は起こりようがないからだ。対してディエゴ・ガルシアでは、島民が生活している場所に米軍基地という新たな要素を持ち込んできたことにより、米軍と島民との摩擦が生じた。そして島民の強制立ち退き、政府を相手取った訴訟、敗訴という、在沖米軍問題と似たような道筋を辿ることとなったのだ。

 ところで、ディエゴ・ガルシアの例からもわかるように、ソ連との軍拡競争にさらされた米国は、1960年代以降、かつてないペースで軍事力を増強していった。1991年には仮想敵国ソ連が消滅し冷戦が終結するが、これによって米国の敵が消滅し、際限なく軍事力を増やす必要がなくなったわけではなかった。実際、同年の湾岸戦争を契機に、米軍は中東にこれまで以上の常備軍を展開していったのである。そして2001年、米国本土を同時多発テロが襲う。米ブッシュ政権はテロリストという新たな敵に対処するため、翌2002年頃から「米軍再編」を打ち出すこととなる。米軍再編とは、世界中に散らばっている米軍をより効率よく、より機動的に活動できるように、コンパクトに編成し直すということであったが、本作でも指摘されているように、実際には米軍再編とともに在外米軍基地の数は増加の一途を辿り、米国の国防費自体も年々増加している状況である。2009年にオバマ政権が成立すると、ヒラリー・クリントン国務長官は就任早々沖縄を訪れ、日本政府との間でグアム移転協定を結んだが、これも「沖縄に関する特別行動委員会」(SACO)設置以来の沖縄県民の負担削減政策の一環というよりはむしろ、世界的な米軍再編の動きの一つに位置付けられているといえよう[iii]

それでは何が米国政府をそのような米軍再編へと突き動かしているのであろうか?その答えは本作『Standing Army』で明瞭に述べられている。即ち、new wars(新たな戦争)=military buildup(軍事力の強化)=standing army(常備軍)=military industrial complex(軍産複合体)=hidden power(闇の権力)=unbalanced interests(不均衡な利害関係)=popular disagreement(住民との不一致)=democratic deficit(民主主義の欠陥)=military power(軍事力)という構図が成り立ち、military powerは当然new warsへとつながっていく。1961年、アイゼンハワー大統領の退任演説で明らかにされた軍産複合体による米国支配の構造は、本作で指摘されている通り、冷戦後の今日においてはより強固になっているのだ。

それが最も顕著だったのは、前ブッシュ政権時代であろう。同政権では、チェイニーやラムズフェルトといった軍産複合体を体現するような人物が、常に中枢を占めていた。「最強の副大統領」と言われたチェイニーの前職は、石油関連業の多国籍企業ハリバートン社の取締役であり、コソボのボンドスティール基地関係の建設を一手に引き受けていたKBRは、このハリバートン社の子会社であったことは、本作でも描かれている通りである。同基地は、実質的に1999年から始まる米軍のセルビア空爆の拠点とするために作られたものだが、当時から、その目的に比べて、基地の規模が大きすぎる上、設備が豪華すぎると非難されていた。さらに、本作でもインタビューを受けているチョムスキーなどが指摘しているように[iv]、セルビア空爆は民族浄化の危機にあるコソボ系アルバニア人を救うために行われたとされているが、実際、それは空爆後に後付けで付けられた理由であり、空爆の目的ではなかったとも言われている。つまり、空爆のため必要だったから基地を建設したのではなく、軍産複合体の需要を生み出すためにボンドスティール基地を建設すること自体が目的となっていた、という可能性も否定できないというのだ。

それは2003年のイラク戦争についても当てはまる。イラクの大量破壊兵器は、イラク戦争の原因ではなく結果であり(もっともこの場合は大量破壊兵器が発見されず、結果にすらならなかったのだが)、ハリバートン社を始めとする軍産複合体の重要を満たすために戦争が行われたことは、マイケル・ムーアのドキュメンタリーフィルム『華氏911』(2004)などで指摘されている通りである。なぜ経済危機の時期に軍事費が増え続けているのか?という本作冒頭の問いかけには、軍産複合体の存在抜きには答えられないであろう

 さて、イタリアで制作された本作『Standing Army』は、当然のことながら、イタリアでの米軍基地問題も取り上げている。街中に米軍基地のあるヴィチェンツァでは、20083月、米軍基地へ石油を供給するパイプラインから石油が漏れたことにより、付近の農業などが多大な被害を被った。それに加えて、民間のヴィチェンツァ空港を米軍の使用に供する契約を、現地の自治体の頭ごなしにイタリア政府と米国政府が結んだことに対して、ヴィチェンツァ市民が反発。大規模なデモも行われた。街中にあるヴィチェンツァ空港に米軍を受け入れるということは、既にエダール基地という米軍兵舎があるヴィチェンツァ市内にもう一つ米軍基地を作ることと同じことであり、人口わずか11万人の都市の街中に、欧州最大の米軍駐屯地が誕生することとなる。米軍基地反対派の票を得て20084月に市長に当選したアキッレ・ヴァリアーティは、公約通りに、ヴィチェンツァ空港の米軍使用の是非を問う住民投票を行おうとするが、イタリア最高裁によって住民投票が差し止められてしまう。このように米軍に虐げられているヴィチェンツァ市民はインタビューに答える。「我々はファシズムとナチズムとの戦いに勝利したのだろう。とはいえ、たとえ勝利したとはいえ、その代償がこれ(米軍基地の反永久的な存在)なら、まったく馬鹿げたことだ」。ここではpopular disagreement(住民との不一致)=democratic deficit(民主主義の欠陥)=military power(軍事力)という構図に、イタリア政府まで加わり、住民との間で政治的・社会的問題を引き起こしているという。

 2009年、戦争と単独外交に象徴されるブッシュ政権が終わり、オバマ大統領が誕生した。オバマとともに平和と協調外交の時代が到来することを期待されているが、米国以外の世界中の国すべての軍事費を合わせても、米国一国に及ばないという現状は相変わらず続き、オバマ政権下の2010年度軍事費はブッシュ政権であった前年度よりも増えている。これは、いかに意志と能力を持つ人物であろうと、一人の人間に全てを託すには限界があり、個人一人ひとりが問題意識を持たなければ何も変わらない、ということの証しではないかと、本作『Standing Army』は主張する。そしてそれは、アジアで最大規模の米軍を受け入れている沖縄の米軍基地問題に関しても言えることなのかもしれない。


[i] Standing Army』では米軍に土地を接収されて虐げられた元地主にインタビューをしているが、実際は、米軍に賛成し米軍の普天間飛行場使用による地代を当てにしていると見られる地主は、地主総数の約7割の2328人に達するという。詳しくは『月刊日本』20103月号「振り出しに戻った普天間基地移設問題」参照。

[ii] 『サンデー毎日』2010328日号、「小鳩政権土壇場の「普天間移設」-有力候補 鹿児島・馬毛島オーナー76歳 独占告白「この島を“米軍3万人の街”にしたい」」

[iii] 1995に発生した沖縄米兵少女暴行事件に端を発して米軍駐在に対する反対運動が起きたことを受けて、同年11月に駐沖米軍施設に関する協議の場として日米間でSACOが設置される。翌1996年には橋本首相がモンデール駐日大使との間で、普天間飛行場の条件付き返還で合意した。一方、2009年のグアム移転協定では、米海兵隊のグアム移転のための資金及びグアム基地の設備費の一部を日本が肩代わりすることと、日本国内に普天間飛行場に代わる基地を作ることがセットになっており、沖縄の負担削減には直結していない。例えば「琉球新報」2009129日付けの記事を参照(http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-140324-storytopic-11.html)。

[iv] 例えば、ノーム・チョムスキー『お節介なアメリカ』、大塚まい訳、ちくま新書、2007年、228頁(Noam Chomsky, Interventions, 2007)参照。

Standing Army

米国の海外軍事基地の実態についての映画が、イタリアで制作された。その予告編のサイトである。http://standingarmy.jimdo.com/trailer/

Iwojima

ジェイムズ・ブラッドリー氏の話である。ご参考まで。生き残っているのは英雄ではない。

戦争は、美化された話ではない。

http://www.snopes.com/military/sixboys.asp

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Hot pursuit

郵政改革で、郵政民営化で甘い汁を吸った連中が、どんどん隠れようとしています。事実は検証しなければなりません。たった一人の悪党も、何のおとがめもないという不思議な状況です。

閑話休題のようなことですが、郵政民営化の巨大な闇を捜査すべきかどうか設問しまして、応じていただければ幸いです。2千人以上の方が参加して頂きました。数千人の意見になれば、力が籠もりますが。さて、そうなりますか。ブログをお持ちの方は、リンクも貼っていただければ幸いです。知人友人にご紹介いただければ幸いです。読者の皆様、どんどん泣き寝入りをして、何もなかったかのように振る舞うことは、日本を滅ぼすことになりはしないでしょうか。

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Diego Garcia

Diego Garciaの島がどんなところか、見てみよう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%82%B4%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2%E5%B3%B6

英語の方が詳しく書いてある。

http://en.wikipedia.org/wiki/Diego_Garcia

Postal Reform

自民党の姑息なやり方はやめて、むしろ、市場原理主義の政策のリトマス試験紙となった、郵政改革法案について、党内分裂をはっきりさせて、政界再編を加速する方が、国益になるのではないのか。http://octhan.blog62.fc2.com/blog-entry-1446.html

Thai Monarchy Revered

http://www.google.com/hostednews/ap/article/ALeqM5jXV-krE0IWwjzFVbUEZne-iTU1IwD9FTLAT00

AP通信のデニス・グレイ氏によるタイ情勢の解説記事である。

Micronesia

基礎知識。留学生が書いている。

http://glovoicesjp.com/politics/diplomacy/%e6%97%a5%e7%b1%b3%e5%9b%bd%e9%98%b2%e4%ba%8b%e6%83%85%e3%80%81%e6%8f%ba%e3%82%8c%e3%82%8b%e3%83%9f%e3%82%af%e3%83%ad%e3%83%8d%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%81%ae%e5%b3%b6%e3%80%85.html?lang=ja

Return whole Okinawa

Cardinal Principles

Kokutai no Hongi has been compiled in view of the our pressing need of the hour to clarify our naitonal entity and to cultivate and awaken national sentiment and consciousness.

Our national entity is vast and boundless, so that  it is feared the book has fallen short in the penning of its true significance.

In quoting passages from Kojiki and the Nihon shoki, we have followed in the main the texts of teh Kokun Kojiki and Nihon shoki Tsushaku, and in the case of teh names of the deities the Nihon-shoki.

Introduction

Present day Japan and her ideolologies

Our country faces a very bright futute, blessed with a well-being that is indeed magnificent and with a very lively development abroad. Her industries are lively, her way of life has grown richiier, and the progress made in the cultural fields merits attention. From of old, Oriental culture, which fuinds its origi in in China and India, found its way into our country and was sublimated and fused into our"god-handed" national structure.

And since the days of Meiji and Taisho, the various phases fo our civilization have made remarkable strides through the introduction of modern European and American civilization. If one were to bring bakc to life today a Mannyo poest, whose culture was  well-ordered, whose scholarship  had made tremendous strides, adn whose ideology and culture had reached the highest peak in richness, he would very likey sing again:

How consicous am I of being alive--

    A loyal subject of my Lord!

  To think I live, when heaven and earth

   Are full of glory!

(Continued)

   

Cardinal Principles of the National Entity of Japan

It was December 15, 1945, immediately after the surrender of Japan, General Douglas MacArthur, Supreme commnader for the Allied Powers forwarded to teh Imeperial Japanese Governmet his Directive, AG000.3. It was called Shinto Directive and formal title was "Abolition of Governmeal Sponsorship, support, perpetuation, control, and dissemination of State Shinto." It was more than the separation of Church and State, and it was attack on the very essence of the national official philosophy. Paragraph 1h forbade the circulation of the Kokutai no Hongi.

The Kokutai no Hongi is one of the most significant document. It was banned because the book was regarded blatant official propaganda but true picture was that the book precicely wrote the Japanese national character  and it was very open minded and to combat the intellectual conflicts which sprang from the western philosophy's intrusion and to encourage the devotion to preserve the national entity of Japan. The book is  in that sense trulypuzzling and contadictory. The book was regarded a cult oriented puzzling and contradictory even after the War, but it was illuminating the norm preserved through the centuries tradition and culture of Japan.

Why to fobid the superb analysis of Japan's culture was only to march military conquest and to collapse and destroy Japanese essential spiritual backbone. and bring total victory of the manifest destiny.

I do not know whether the book of national entitiy is well publicized over the Internet or not, but it may be worthy to jot down the translation of the Kokutai no Hongi, especially for foreign readers because the book will assist the better understanding of Japan.

(Continued). 

   

Misleading Joint Statement

Western countries' business organization branches in Tokyo announced 'Joint Statement on Japan Post Reform' on May 10th. But its contents are totally misleading and against the intentions of the New Postal Reform bill which was set to rectify the situation of fake postal privatizaion in Japan. Japanese Postal services provide three major services nation wide service even to the remostest corner of the country  but the privatazation of the one of most efficient and dedication national service was being degraded.

The statement says that the Postal Reform harms competition but it is not true. As was disclosed in the series of the Kampo Inn scandals, a massive assetts were sold out to a handful number of business tycoons and now it is apparent that foreign financial companies were also inovolved in the grey zone economic transactions

The announcement claims that the Japan government is  placing Japanese consumers at a great disadvantage but it is totally unfounded. Koizumi-Takenaka government which was subdued by the foreing pressure including the international financial groups almost destroyed the Japan Post and its business performance was sharply degraded in recent years.

The announcement also claims that there is a GATS obligation but it is now clear that the Japan Post is not state enterprise and definitely not subsidized by tax payer's money even though it provides the universal service; meanig it can provide the universal posatal service without any subsidy from the state and government.

Why there should be no new product? It is the true core of the unfair practices of the foreign insurance companies in Japan, which were protected in the so called the third area of the insurance industry. If there is a insurance companies getto especially of those foreing companies in New York city, what do you think that the Americans may feel!

Astronomical profit was already rendered in the series of financial scandals involving the foreign companies in Tokyo, for instance was described, for instance, in a book "Fool's Gold' or 'Saving the Sun' authoured by Gilian Tett, former Tokyo bureau chief of Financial Times. and it may be high time to stop for thouse foreign business interest group to stop preaching how Japanese should behave. It is almost arrogant to refer to the internaitonal best performance in the midst of financial turmoils in the rest of the world.

Regulatory exemption refered in the statement is to streamline the heavy burden works of the small post offices scattering the archipelago country and it is a wisdom to bring out the efficient management and it is not at all to give privileges to the Japan Post.

As you might have noticed, the expression in English language of the Joint Statement is written in a style of command to its subordinate as if the Statement is a target of worship. It lacks sense of respect to the Japan's culture and tradition. The draft writer should have known that the Koizumi-Takenaka privatization put the Japan Post into the detrimental manner and the new Reform is to rectify the situation(repeat).

Japan Post is a national mechanizm and assetts to bring out the equibirium in the nation, to fill the socio-economic gap. Japan is a coutry where socio economic gap is conciously squeezed. All citizens can be benefited by the national medicare and sufficed by the Postal life insurance and Postal savings bank. If you have a Postal card you can withdraw any where in Japan, and even abroad, without any extra cost. Japanese postal bank perfomance was far better than the private banks and there was no official debt burden and Japan could massively finance the public works such as railroads and high ways and now for the new generation investments to boost the economy.  It is well known that the Japan Post announced to add the new 100000 employees, promoting the temporary staffs of the post office to more secure job status of full employment.

This blog storongl believe that the Statement is a kind of domestic intervention by the foreign business people representing only a fraction of business interests and we all now know what the foreign insurance companies did in their home countries, for instance by the Michael Moore Moviesl

Japan is striving to maintian its internaitonal standing but it cannot be ordered and it should not subdue the arrogant voices of some economi tycoons or market fundamentalist which are now totally collapsed in the Western countries but only some remnants may be remained in Tokyo.

It is well known that teh Koizumi-Takenaka government was heavily influenced by the neocons and villains from the Wall street but now new government is formed and there is a strong support to respect the national interests of Japan which was somewhato brought out of this country and wasted.

This blog  respectfully urge those Tokyo based organizations to refrain from meddling into the domestic affairs of Japan and to respect to protect the Japanese citizens decision to revive the Japanese best performance postal services.

This blog sincerely wishes that the rest the world will know that some foreign business branch organizations in Tokyo are doing rampant activities and still clings to the norms of the money first principles without fair distribution of national wealths. Tehre is a saying that there is always a cowardic in the unnanimity. The narrow minded views expressed in the Joint Statement will not be supported in their home countries and it is only workable as a propaganda paper to influence the ailing mass media in Tokyo.

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For your reference, the problematic statement reads as follows,

「Joint Statement on Japan Post Reform

American Chamber of Commerce in Japan
American Council of Life Insurers
America's Health Insurance Plans
American Insurance Association
Association of Bermuda Insurers and Reinsurers
Canadian Life and Health Insurance Association
Coalition of Service Industries
Conference of Asia Pacific Express Carriers
European Business Council in Japan
Foreign Non-Life Insurance Association of Japan
European Insurance and Reinsurance Federation
Property Casualty Insurance Association of America
U.S. Chamber of Commerce
U.S. - Japan Business Council

Washington, DC (May 10, 2010) – “Putting Peoples Lives First” requires a careful balancing
of citizens’ interests as consumers, taxpayers, workers and investors. Restricting fair and
productive competition never benefits consumers and harms the economy. The government of
Japan is placing Japanese consumers at a great disadvantage by ignoring the concerns raised by
the above coalition of international groups about creating the equivalent conditions of
competition that benefit Japanese consumers and businesses. We regret that the postal reform
legislation approved by the Japanese Cabinet on April 30, 2010, does not appear to reflect
concerns repeatedly expressed by this coalition and, in fact, raises new and serious questions
regarding Japan’s commitment to fulfilling its international GATS obligations.
We have long expressed the view that there should be no new or modified products or services
introduced by Japan Post until a level playing field is established between Japan Post and private
companies. The draft legislation does not adequately address this concern. The proposal also
disregards international best practices designed to ensure equal competitive conditions among
the Japan Post entities and private banks, insurers, and delivery companies.
For example, the draft legislation would:
• Provide Japan Post Bank, Japan Post Insurance, and Japan Post Services special legal and
regulatory exemptions, including from provisions of the Banking Law and Insurance
Business Law;
• Permit the Japan Post entities to enter new business areas by changing the current approval
process, already unique to Japan Post, to one that requires only “notification;”
• Allow the per-person deposit and coverage limits currently imposed on Japan Post Bank and
Japan Post Insurance’s businesses to be raised to 20 million and 25 million yen, respectively;
• Provide Japan Post Bank, Japan Post Insurance, and Japan Post Services special tax
exemptions, and;
• Allow Japan Post to compete against private sector express delivery companies on a playing
field heavily tilted in Japan Post’s favor.
Granting new competitive advantages to Japan Post will not improve citizens’ lives; instead, it
will harm the employees, sales agents, contractors, and investors of Japan Post’s private sector
competitors; reduce consumer choice; distort Japan’s economy in a detrimental manner; and
reduce opportunities for economic growth. This sends exactly the wrong message about
regulation to other major insurance markets, that could result in harm to insurance companies
regardless of where based, including Japan.
Moreover, by calling Japan’s commitment to honor its obligations under the GATS further into
question, the draft legislation could harm Japan’s international interests. Japanese companies
and consumers have an important stake in the international trading system, and measures such as
these are highly objectionable, particularly when proposed by one of the world’s trading giants.
We believe this must be addressed promptly and decisively.
The organizations listed above -- representing a broad and diverse group of stakeholders -- have
a critical interest in any restructuring of Japan Post. We respectfully urge, in the best interests
of Japan and its citizens, and to avoid non fulfillment of its international GATS obligations
which in turn could harm Japan's international standing as a major global economic power, the
Government of Japan to use the time remaining before the postal legislation is finalized as an
opportunity to ensure equivalent conditions of competition with private sector banks, insurers,
and delivery companies is enforced.
In addition, we urge our respective governments to help Japan find a solution that ensures that it
can fulfill its international trade commitments.」

Culture and Tradition is Japan's Power

Imperial Cruise A Book Review for Japan's True Independence

今こそ、自立・自尊の日本を

米軍再編問題に翻弄される沖縄

第二次世界大戦を圧倒的な軍事力で勝利したアメリカ合衆国は、続く冷戦時代、ソ連を抑え込み「封じ込」むため、世界中に常備軍を配置した。常備軍Standing Armyとは、平時から編成されている専門的な軍隊であり、近代国家においては、戦時に大量動員する大衆軍の基幹としての役割を果たしていた。第二次世界大戦後の米国は常備軍を世界的に展開することで、その圧倒的な軍事的プレゼンスを背景に派遣国家への道を突き進むことになる。その一方で、そうした在外米軍を受け入れた国々にとっては、冷戦終結後の今日においても、米軍の存在が政治的、社会的、及び経済的問題として残ることになる。

 折しも日本では、発足から半年余が経つ民主党政権が、米軍再編というグローバルな問題と在沖米軍問題という地域の特殊な問題が複雑に絡まる、普天間基地移設問題で揺れに揺れている。既に決定済みと見られていたキャンプ・シュワブ沖(辺野古)への移設案は、座り込みだけでなく海上に櫓まで組んで抵抗する反対運動に遭って環境アセス調査すら満足にできない状況である。14年余に亘る辺野古を巡る係争は容易に決着が付きそうにない。2009年秋の衆院選以降、沖縄県外移転を主張し続けてきた鳩山政権は、「公約」と辻褄を合せるためか、ここにきて同じ琉球文化圏の奄美の徳之島への一部移転を持ち出して来た。

 少し古いが興味深い記事なのでここに挙げたいのだが、沖縄県外の移設先として注目を浴びている場所として、『サンデー毎日』3月28日号の記事で鹿児島県の馬毛島が紹介されている。種子島の近くにあるこの島の人口は1950年代のピーク時には500人以上であったが、現在は無人島である。記事によると、島の現在のオーナーの立石氏は、島には3万人規模の街を作ることも可能であり、この島を「第二のディエゴ・ガルシアにしたい」と述べているという。

ディエゴ・ガルシアはインド洋上の島であり、日本ではそれほどなじみがないかもしれない。一連の普天間基地移設問題を世界中に展開する米軍基地問題自体とつなげる報道はほとんど見られず、ディエゴ・ガルシアの名前をマスメディアが取り上げることもほとんどない。この島はもともとイギリス領インド洋地域に属するイギリスの海外領であったが、1966年にアメリカ合衆国が50年期限で借り受けて以来、徐々に島民を追い出し、現在では島全体が米軍の基地になっている。移住させられた元島民は、イギリス政府を相手に同島への帰還と補償等を求めて訴訟を起こしている。上述の立石氏は島全体を米軍の専用に供するという意味で、「第二のディエゴ・ガルシア」と言っているようである。

 だが実際は、本当に移転先として検討されているかはともかく、馬毛島は「第二のディエゴ・ガルシア」にはなりえない。なぜなら、もともと無人島であるため、島民を立ち退かせて米軍を受け入れるという問題は起こりようがないのだ。ディエゴ・ガルシアでは島民が生活している場所に米軍基地という新たな要素を持ち込んできたことにより、米軍と島民との摩擦、島民の立ち退き、そして訴訟という、60年以上も続く在沖米軍問題と同じような問題が生じた。ディエゴ・ガルシアの問題とは、まさに在沖米軍の問題そのものでもあると言えるのかもしれない。

そういう意味では、候補地として挙げられた徳之島の方が、同様の問題を孕んでいると言えよう。以前から、この島の名は普天間基地移設先の候補地として挙げられてはいたものの、これまで鳩山政権が公式に徳之島について言及することはなかった。それが4月20日になって一転、平野官房長官が徳之島の3町長に会いたいと打診する。これに対して、当事者である島民は猛反発。事前に何の議論もなく、徳之島案を否定までしていながら、突然、移設の話が公にされたことから、徳之島の、伊仙、天城、徳之島の3町長は、一連の政府の対応は誠実でないとして、平野官房長官に門前払いを食らわせた。実際のところ、徳之島移設案では普天間基地移設問題の、ひいては在沖米軍問題の解決にはならず、交渉が暗礁に乗り上げているのも当然だと言えよう。

 そもそも普天間基地移設問題の根本には、アメリカ合衆国という国の存在理由そのものが密接に関わっている。米国が第二次世界大戦後、世界各国に常備軍を配備していくのは先に述べた通りだが、特に1960年頃からは、米国防省が肥大化していくに従い世界中に際限なく軍事力を展開し、まさに覇権国家としての道を歩んでいくことになる。ところが、1990年代に入ると、ソ連という仮想敵国自体が消滅してしまい、冷戦構造が崩れ去る。爾後、テロリストという見えない敵を相手にした戦略を余儀なくされた米国は、世界に展開する米軍の再編を進めることになる。2009年にはオバマ政権が成立、ヒラリー・クリントンは国務長官就任早々沖縄を訪れ、グアム移転協定を結ぶことになったが、これは沖縄に関する特別行動委員会(SACO)設置に代表される島民との摩擦を解消する政策の延長線上に位置付けられるというよりもむしろ、世界的な米軍再編の動きの一つであった。普天間基地移設問題には、土地と工事をめぐる問題等、現地沖縄の利権が関わり、米軍再編には主にネオコンが支配するアメリカの軍需産業の利権が関わっている。米軍再編とは何かというと、世界中に散らばっている米軍をより効率よく機動的に活動できるように再編するということであり、実際は、冷戦終結とともに世界中にある米軍基地の数は減少するどころか、むしろ増加の一途を辿り、米国の国防費も年々増加している。ソ連の崩壊はアメリカの敵が消滅したことを意味するものではなく、アフガニスタン、イラク、イランと新たな敵国は次々と生まれてくる。米軍が存在するためには仮想敵国は不可欠であり、それこそがまさにアメリカ合衆国という国の存在理由の一つであると言っても過言でない。さらに、米軍の重要性は相対的に低下しているとはいえ、その軍事的プレゼンスは日本やNATO加盟国では圧倒的な重要性を保っており、太平洋はアメリカの海と化している現状では、米軍最大の第七艦隊がある日本及び太平洋から米軍自体が立ち退くことはほとんど考えられない。そうした米軍再編の問題に、地元の利権が複雑に絡み合っているのが、普天間基地移設問題なのであろう。

「インペリアル・クルーズ」が暴いたもの

 

 それでは、アメリカ軍がいかに太平洋に進出していくようになったのであろうか?また、常に新たな敵を探し求めざるを得ない米国の内在的論理とは一体何だったのか?グアム移転協定が結ばれたのと同じ2009年に、そうした問いに対する答えの一つを、簡潔な文体ながら詳細且つ興味深く描き出した本が出版された。Little, Brown and Company社から上梓された『The Imperial Cruise』である。

著者のジェームズ・ブラッドリーは、2006年に公開された映画『父親たちの星条旗』の原作者でもある。この作品は硫黄島二部作のうちの一つであり、米国兵の視点から硫黄島の戦いが描かれている(ちなみに日本側の視点で描かれたのが『硫黄島からの手紙』である)。硫黄島の戦いと言えば、壮絶な戦いの後、硫黄島の摺鉢山に星条旗を掲げようとしている6人の兵士の写真が、ピューリッツァー賞を受賞したこともあって有名だが、このうちの一人ジョン・ブラッドリーが、ジェームズの父親であった。ジェームズは上智大学に1年間留学していたこともあり、また、米国の高校生を日本及び中国に派遣することによりアメリカとアジアの相互理解を深めることを目的としたジェームズ・ブラッドリー平和財団を設立、そこの理事長も務めている。一貫してアメリカの太平洋への関わりをテーマにした作品を発表してきたブラッドリーは、太平洋戦争の歴史について研究しているうちに、そもそも何でアメリカが太平洋地域に積極的に進出していくようになったのかについて興味を持ち始め、新作『インペリアル・クルーズ』Imperial Cruise を執筆したという。

アメリカ合衆国は、建国以来、西へ西へとフロンティアを拡大していき、太平洋に到達しフロンティアの消滅を宣言した1890年代以降は、海軍力を強化して、さらに西へと積極的に海外へと進出していく。まさにそうしたアメリカの帝国主義時代を最も象徴する大統領が、1901年にマッキンリー大統領暗殺に従って副大統領から大統領へと昇格したセオドア・ルーズベルトであろう。セオドア(テディ)・ルーズベルトは、テディ・ベアの生みの親として、また日露戦争の講和条約、ポーツマス条約の立役者としても有名である。そして、そのセオドア・ルーズベルトが1905年に派遣したアジア視察団の航海が、本作のタイトルである「インペリアル・クルーズ」Imperial Cruiseと呼ばれていたのである。尚、「インペリアル・クルーズ」の船はマンチュリア(満州)号という名前である。後の満州国建国への布石となるポーツマス条約締結のわずか2カ月前に東洋へと旅たった船の名が満州というのは、偶然とはいえ、どこか象徴的でもある。

さて、ルーズベルトは陸軍長官タフト以下、上院議員7名、下院議員23名、その他大勢の文官、武官をインペリアル・クルーズで派遣した。後にアメリカ大統領となりドル外交を展開するタフトは、ルーズベルトの特命使節として、また、後のジャクリーン・ケネディのようにマスメディアに愛された、ルーズベルトの愛娘アリスのお目付け役として、マンチュリア号に乗り込んでいた。19057月5日にサンフランシスコを出港したマンチュリア号は、ハワイを皮切りに、日本、フィリピン、香港、中国へ寄港する。この航海の最大の目的は、わずか6年前に植民地となったフィリピンを始めとする。太平洋地域での米国の地位を確固たるものとするために、日本と交渉することであった。ルーズベルトは合衆国憲法に違反していることを承知の上で、必要ならば秘密協定を結ぶことも容認していた。かくして、タフトは日本の桂太郎首相との間で、桂タフト協定を結ぶこととなる。

米国は極端な白人至上主義の国であった。彼らにとっては、世界中で最も優秀な民族であるアーリア人の中でも、混血という間違いを犯さずに純潔を保ち続けているのがアメリカ人であり、そのように選ばれた人種であるアメリカ人には、太陽が昇るところに文明があるという考えのもと、西へ西へと文明を伝えていく使命が与えられていると考えていた。こうして、自分たちが築き上げた民主主義を広めることが、アメリカ合衆国という国の存在理由になっていった。その考えは西部開拓時代からイラク戦争に至るまで、歴代のアメリカ政府の考え方に綿々と受け継がれている。そのような米国にとって、アジアはキリスト教も知らない未開の地域であり、アジアの国々は交渉相手ではなく、優秀なアメリカ人が慈悲深く教える対象であった。さらに、当時の新聞の挿絵を見ればよくわかるが、アメリカ人の大半はフィリピン人とアフリカ人の区別がついていなかったようである。アメリカ人にとっては、アジア人が白人でないということが重要なのであり、白人でなければ、黄色人種でも黒人でもどちらも同じ様なものだったのだ。

しかし、明治維新以降、急速に西欧文化を取り入れて日清戦争に勝利した日本に対して、米国は他のアジア諸国と少しばかり違う接し方をしていた。米西戦争以後、ハワイ、グアム、フィリピンと、太平洋を西へと進出していったアメリカであったが、中国やアジアへの進出に関しては、他の西洋列強に大きく立ち遅れていた。そこで目を付けたのが、旭日の勢いのように見えた日本である。アジア地域においては、日本と手を打つことで、西洋列強諸国を牽制しようとした。米国のこうした政策には、ルーズベルト大統領個人の趣向も影響していたのであろう。ルーズベルトは、後に日露戦争講和条約でルーズベルトを引き出すことに成功した金子堅太郎とハーバード大学の同窓会で知り合って以来親交を交わしていたし、金子から贈られた新渡戸稲造の『武士道』を読んで深い感銘を受けていた。ルーズベルトは日本贔屓であった。

もちろん、アジアにおいて米国が日本と手を結んだ理由はルーズベルト個人の嗜好に集約されるだけではない。独立以来、米国は孤立主義を取っていた。それを端的に表しているのが、1823年に米大統領モンローが提唱した、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の相互不干渉政策、いわゆるモンロー主義である。これはもともと、南北アメリカの各国家は、主権国家としてヨーロッパ諸国の干渉を受けるべきではないという考え方であり、常にイギリスを始めとする大西洋の彼方のヨーロッパからの介入に悩まされていた米国にとっては、必要不可欠な政策であった。ところが、フロンティアが消滅した1890年頃になると、米西戦争でスペインを破ったことを皮切りに、力をつけた米国はモンロー主義を捨てて太平洋に進出して行くことになる。しかし、既にアジアの分割競争においては、完全に他の西洋列強の後塵を拝し、新たに入る余地がほとんどなかった。そこで、門戸開放政策なるものを掲げ、中国を列強諸国間で分割するのではなく経済的な機会均等を図るべきだと主張し、アジアの勢力均衡を望むべく日本と手を結ぶようになったのだ。

この時点で、米国はかつての仇敵イギリスと、ある点では利害が一致するようになる。実際、三国干渉により満州を抑えたロシアを防ぐために英国は日本と日英同盟を結び、米国は門戸開放政策に反するとロシアを非難する。そしてルーズベルトは、日本が積極的にアジアに進出して植民地を持つように唆す。日露戦争に辛くも勝利した日本は、「インペリアル・クルーズ」の10年後、第一次世界大戦がはじまると南洋諸島に進出、駐在していたドイツ軍を追い払い、植民地化しようと企てる。そして戦後、ウィルソンが提唱した国際連合の規定に従い、南洋諸島は日本の委任統治領となるのである。朝鮮、満州、南洋諸島と続く日本の帝国主義政策は、米国と歩調を合わせ、米国の同意のもと行われたものであった。これはルーズベルトが個人的に日本を信頼していたこととも関係があったが、ルーズベルトの死後、アメリカは日本を特別視しなくなっていった。それはパリ講和会議で日本は五大国の一つに数えられながら、牧野伸顕が人種差別撤廃案を主張した際に、米国の横やりで採択されなかったことからも伺える。進歩的自由主義を主張していたウィルソンも、その主張は白人のみを対象としたものであったのかもしれない。

もっともルーズベルトは、他のどの大統領よりも典型的な白人至上主義者であり、日本はかつての南アフリカのアパルトヘイトのように、「名誉白人」と見做されていたに過ぎないとも見て取れる。彼の外交政策は、まさにアメリカの伝統を汲んだ白人優越主義の延長でもあった。米西戦争以後、ハワイ、グアム、フィリピンとスペインを追い出していったアメリカは、帝国主義への道をまっしぐらに進んで行く。この米西戦争の指揮により、ルーズベルトの名が一躍有名になったのは、象徴的とも言えよう。そのようなルーズベルトにとって白人は常にナンバーワンであり、アジアにおける日本はアングロサクソンに忠実な追従者として、白人を助ける役割を期待されていた。

 それでは、大韓帝国ではどうであったかというと、アングロサクソンの追従者としての役割さえ期待されていなかったようである。韓国の皇帝高宗は米国の口約束を信じ切っていたが、いざ韓国に日本軍が干渉して来た際に米国に泣きつくと、「東京を通して話を持ってきて欲しい」と言われてしまう。このエピソードにはアメリカのアジア政策の基本スタンスが端的に示されている。インペリアル・クルーズの最大の目的であった日本との密約、いわゆる桂・タフト協定では、米国は韓国が日本の影響下に置かれることに合意しており、米国にとって韓国はしょせん取引の材料でしかなかったことがよくわかる。

日本の力を恐れたルーズベルト

ルーズベルトは、白人ではなく、故に民主化されていない民族でありながら、急速に西洋文明を取り入れ、日本海海戦では白人のロシアを打ち破った日本を恐れていた。正確には、日本が南へ矛先を向け、手に入れたばかりの植民地フィリピンが脅かされるのを恐れていた。そこで彼は、フィリピン視察のための「インペリアル・クルーズ」という名の下、タフトを日本に派遣し首相兼外相の桂太郎との間で密かに協定を結ばせることとなる。

この桂・タフト協定の要点は、以下の3点に収斂される。

1.日本は、既にアメリカの植民地となっていたフィリピンに対するアメリカの支配を認め、それを歓迎する。

2.アメリカは、日本が韓国に対して指導的地位にあり、独占的な権限をもつことを承認する。

3.極東の平和は、日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。

折しも日本海海戦には勝利したものの日露戦争は膠着状態となり、日本側の働きかけでルーズベルトによる日露講和条約の斡旋工作が佳境に入っていた時期であったため、日本に立ち寄った「インペリアル・クルーズ」のタフト一行は、天皇陛下を始めとする日本の人々に熱烈な歓迎を受ける。タフトと交渉に入った桂は、日露戦争の直接の原因は韓国であり、韓国政府を日本の統治下に置くことがアジアの勢力均衡へとつながると主張。ポーツマス条約に先立ってアメリカに日本の韓国支配を承認させ、代わりにアメリカのフィリピン領有を日本は積極的に支持することを約束する。時を前後してイギリスは日本と第二次日英同盟を締結し、インドと韓国というお互いの勢力範囲を保障しあう。こうして、韓国もフィリピンも、そしてインドも蚊帳の外におかれた状態で、東洋の平和は日米英で維持するという3極構造が取り入れられ、日本はアジアにおける新たな役割を果たすこととなる。

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 ルーズベルトは金子堅太郎の頼みに応じて、この桂・タフト条約の約1カ月後に日露戦争を終結させるポーツマス条約を仲介することになるが、日本を贔屓し、アジアにおけるアメリカの番犬代わりにしようと考えていたルーズベルトも、この時期から日本に対して警戒を抱き始める。さらにこの後、中国にも変化が生じる。当時の清帝国は「眠れる獅子」言われていたが、大陸横断鉄道建設に来た中国人を見なれていたアメリカ人は、黄色人種である中国人を、白人である自分立ちよりも劣る文明化されていない人種と見做していた。彼らはそんな清の国内で、ナショナリズム運動が現れるとは夢にも思っていなかったのだが、孫文が登場し中華民国が誕生すると、米国は衝撃を受ける。

こうした、自分たちとは違う黄色人種であり力もなく中性的と見做されていた日本人や中国人の興隆は、彼らとアメリカ人との間に摩擦を生み出していく。特に、日本が日清戦争日露戦争で勝利し、欧米列強に匹敵するほどの国力を持つようになると、アメリカ人の間では、黄色人種に対する警戒感・恐怖感が高まり、災禍をもたらす黄色人種といういわゆる「黄禍論」が語られるようになる。その矛先は移民の多かった日本人と中国人に向けられ、米国内における中国人排斥法や排日移民法など露骨な立法として具現化された。一連の排日移民法が最初に施行されたのはルーズベルトの時代であったが、ルーズベルト個人は排日移民法的な法律を撤回させるなど、まだ日本を擁護していた。しかしルーズベルトの後を継いだタフト以後は、黄色人種をあからさまに差別し始める。先にも述べたが、第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本が提唱した人種差別撤退法案が、米英の反対で否決されたのは象徴的であった。お互いに協定を結び、3国でアジアの平和を維持すると言っていた日米英の3国だが、日本はしょせん「アングロサクソンに忠実な追従者」に過ぎなかったのであろう。

米国の本質は白人優越主義にあり

この白人優越主義こそが、アメリカ合衆国の根源となっている思想の一つであり、これが太平洋戦争の遠因になったことは各所で指摘されている。また、太平洋戦争末期、アメリカは日本に原爆を落としたが、これはどう言い訳しようと、これは日本が白人の国家でなかったからであろう。さらに、ビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行った際には、日本の第五福竜丸が「偶然」通りかかって船員が被ばくした。ちなみに、ビキニ環礁は日本の元委任統治領であったマーシャル諸島に属し、高齢者の島民には日本語を解すものもいる。また現在でも、こうした白人優越主義は欧米中に色濃く残っている。例えば、ビルダバーグ会議には白人以外は入ることはできないし、ユダヤ人であるロックフェラーは財団への日本人の参加を認めるようにオランダ女王に進言したが、白人ではなかったため受け入れられなかったという。

ところで『インペリアル・クルーズ』では、米国によるフィリピン人の虐殺についても言及されている。フィリピンは米国がスペインから奪った植民地であり、フィリピン統治は血塗られた歴史でもあった。ブラッドリーは、アメリカのフィリピン植民はインディアン虐殺と同じ構図であることを浮き上がらせている。フィリピンでのアメリカ人行動原理を端的に示すキーワードはbenivolentという言葉である。日本語では「慈悲」とも訳されるが、本来の意味は「言うことを聞く者には慈悲が与えられる」という意味でもあり、それは、言うことは聞けばキリスト教を伝えて文明を教えるが、ダメなら殺しても問題ないという考え方につながる。実際、フィリピンのアメリカ支配以来10年余にもおよぶ米比戦争では、少なくとも30万人以上のフィリピン人が虐殺されたという。フィリピン独立政府を作ったアギナルドは、韓国の高宗と同様、アメリカの口約束を信じて文書を交わさなかったがゆえに、結局はアメリカとの戦争へと突入し、逮捕される。タフトはフィリピン総督でもあったのだが、フィリピン人が独自に政府を作るにはあと100年はかかると見做していた。また、「I shall return」と言い残してフィリピンを去った後、日本に復讐を果たし厚木に降り立ったGHQ司令官ダグラス・マッカーサーの父、アーサー・マッカーサー・ジュニアもフィリピン初代総督を務めたことがあったが、フィリピン人に対してタフトと同様な見解を抱いていた。それはハワイ支配でも同じで、米国に賛同する連中を集めて王朝を倒して共和制を樹立したのち、ハワイ人だけでは自治をする能力がないと判断して米国が結局合衆国に併合してしまう。ハワイを皮切りに、グアム、フィリピンへという米国の植民地政策は、フロンティアを西へ西へと広げていった西部開拓史の流れに位置付けることができる。そして、米国の歴史そのものでもある西部開拓史自体が、ネイティブアメリカン虐殺の血塗られた歴史でもあったのだ。

これからの日米関係を考えるには、アメリカという国家の内在的論理を詳細に研究し分析する必要があるだろう。それは政治問題だけにとどまらず、経済、社会など対象とすべき分野は多岐に亘る。言わずとしれたことだが、今年の初めから突如噴出したトヨタのリコール問題にしても、対応のまずさ云々よりも、米国内における内在的論理を熟知していれば、防げはせずともそれが広がるのを最小限に抑えることができたかもしれない。ただしそれは、アメリカの大学院に留学しMBAを取得し、「アメリカンスタンダード」なるものを日本に適応し市場原理主義を推し進めるという意味ではない。日本を否定しアメリカの常識を取り入れるのではなく、真摯に且つありのままにアメリカという国家を観察すること、そしてアメリカ人の考え方を日本に適用するのではなく、その内在的論理を分析することが、これからの日本には必要となるのではないか。ちょうどセオドア及びフランクリンの2人のルーズベルトの時代に、アメリカ人が日本を研究しつくしたように。そしてそれは、グローバル化の波にさらされている日本企業にとっても、最優先で取り組むべき課題であると言えよう。

ジェームズ・ブラッドリー氏にメールで連絡したところ、その返信には、「私は、米軍が日本を離れることを推奨する。沖縄を日本に返す時期だと思う」とあった。同感だ。奄美大島弥徳之島は、昭和28年に返還したが、沖縄は基地付きで、全面返還していないのだ。

大東亜共栄圏、名誉白人の役割などに、思いを致して、明治以来の日米関係を再考して、自立・自尊の日本を実現する好機である。片務条約を同盟と呼ぶ主従関係はいらないのだ。

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Postal Reform

政権交代の意味があったことを分からせる映像である。

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Foot and Mouth Disease

口蹄疫の原因はなにか。諸説あるだろう。牛のえさの稲藁が、どこから来ていたのか。

安部桂司先生のサイトである。農林省は、輸入先で何をしていたのか。ちゃんと消毒していたのか。「むろん原因を支那からの稲藁輸入だと農林省は認めないであろう」と書いてある。

http://www.pyongyangology.com/index.php?option=com_content&task=view&id=687&Itemid=1

ご参考まで。

Farang Lawer is behind Thaksin

タクシンの新しい外人弁護士である。市場原理主義は、世界的な動きであるから、それを守る為の弁護士も世界的なネットワークになっている。タイの争乱の首謀者と目される、タクシン元首相に、新しい弁護士が登場したとの記事である。http://www.bangkokpost.com/news/politics/178883/thaksin-new-legal-muscl

Superb comments

当方ブログが頂戴するコメントには、時々、誹謗中傷にわたるものがあったり、多くは機械で自動的に発生させた文章で、何か怪しい物品の売り込みを内容とするものがあったりで、削除してしまうコメントの方が多いのですが、最近うれしいことがありました。

tatsuo様からのコメントです。当方の拙文に、的確なコメントを頂戴しました。感謝。

「戦時中海軍航空隊の有名な戦闘機乗りだった坂井三郎中尉が戦後、御自身の体験を綴った著書を何冊も出されていますが、その中で特に小生覚えているのが、要するに現場の事を何にも知らない高級将校と称する海軍兵学校出の連中が戦争指揮を取ったことが、米国に勝てなかった理由の大きな要因の一つだったと書かれています、六十年以上過ぎても貴重な現場上がりの知恵に眼を向かない悪しき非効率な風習は根強く残り、益々現代社会でも増殖し続けているのではないかと危惧してなません。英米国の優れた風習としてエリート教育を受けたものは、進んで社会の弱者に対し貢献をすることが、必要実践と聞いていますが、日本國の今有るその意識と絡み合わせてみると全く本来のエリートという言葉の持つ意味合いに大きな誤りが存在、馬鹿な指導者の実践が大きな災禍を生み出しながらその責任が追及されていないという事自体、これからの日本社会が是正を行っていく風潮を是非吾々が作り出すべきと小生思っています。

投稿: tatsuo | 2010年5月23日 08時33分」

小生も日本国発祥の武術をこつこつ修行していますが、フランス國で小生が学んでいる同じ武術・兵法の修行をしている人々は数千人を超え、日本国内の修行者数はその十分の一にも満たない故先年帰幽した小生の八十歳を超えた師匠などは、いずれフランスからこの武術が逆輸入されるだろうと嘆きとも又皮肉とも取れる言葉を良く云っていました。もっともそういう師匠もかの国にこの武術・兵法を教えていた一人には違いなく、その言葉にはかなり自慢の想ひが有ったなあと懐かしく回想する昨今です、天真正傳香取神道流と云い、奈良時代より今の茨城・千葉県のあたりに居住していた土着の防人達が伝えていた戦闘時の格闘技を室町時代・飯笹伊賀守家直公という千葉氏に仕えていた武将が主家滅亡後、今の香取神宮内に道場を建てられ、そこで三年間潔斎精進し開いた武術・兵法と伝えられています。無駄な戦いを好まず、修験道にも通じていた飯笹開祖は、試合を申し込んで来た武術修行者に庭にあったハスの葉に上にさらりと乗られ妙技を見せられいつも無駄な戦いを言下に否定されていたという逸話が残されています、剣術・棒術・長刀術・手裏剣術・居合術・柔術等が今も伝えられ、神道流川崎唯心館の杉野嘉男師範が三船敏郎さん主演の三匹の侍の映画撮影においての戦闘場面の殺陣の指導を行い、それが香取神道流の具体的術儀が世界に紹介される事になり、昭和五十年頃よりロシア、欧州各国、カナダ・米国、豪州に居住するアーリア人種の子孫白人達に、杉野師範とその高弟達が渡航し教導した故に熱心な修行者を盛んに今も輩出する事になりました、柔道・剣道等の試合を修行の中心とするスポーツとは異なり、現象的には型稽古による技の研鑽ですがその型の練磨に無限の味わいが感じらる様になり、それが日常生活にも通じる精神性を生み出す事にもなるのかも知れません。アーリア人・白人文明文化には見られない精神性が感じられる故に修行される人達が多いのでしょう。植芝盛平師範が創始された合気道も白人の人々が熱心に稽古されています、もちろん盛平先生も日本傳武道を極められた方であり皇道大本教の熱心な信者だったことは有名な話です。

投稿: tatsuo | 2010年5月22日 16時53分」

約二十年前泰國の勤務を開始した頃、日本文化のルーツを感じる何だか慕わしい南国の風情をまず味わえた事は鮮明に今も思い出せます、それでも赴任直後の現地の人達との付き合いは楽では有りませんでした、小生タイ語が全く分かりません、初めてこの古代インド語を起源とする表記文字を見た時の驚きは世界の広さを味あわせてくれました、当時は英語しか話せず盛んに工場で使っていましたが、タイ人従業員数千人居て英語で交流出来得るのは十人以下であり、バンコックから離れ地方に出てしまった小生にとり本当に言葉の分からない状況に陥ってしまった初めての体験になりました、でも凄い暑さ、何しろ泰正月の時期は当時家の中で夜中冷房を効かしても全く約立たず暑さで寝ていられませんでしたが、しだいに彼等との付き合いに慣れてくると、もの凄く伸縮自在の生活術を取っている人達なのだなあと分かって来ました、何しろ適当にこちらの面子を立てるように対応しますが、自分達の利害特に不利になるような局面になると実にあっさり嘘はつく、さっさとその場から消えてしまふ等の面従腹背行為は日常茶飯時であり、その都度小生などはあいつらは同じ人間なのかなあと憤慨やるせなかったものでしたが、共に仕事をしながらもいったん信用してくれると実にあっさり西洋流の契約文書等のやり取りなど全く意に解せず、かなりの金額になるような取引事案でもそのまま小生達の提案・やり取りを認めてくれる様に成ってきました。タイ国民は政治の達人なのだと前タイ國大使だった岡崎久彦氏は語っていますが、一般庶民から政府の高官に至るまで可能な限り、自分の生活を楽しむ処世術には感心させられる事しきりです。世情を騒がしている赤シャツ隊と政府側とのやり取りも外人には伺いしれない旨い交渉を今後も密かに重ねていくのではないでしょうか。微笑みの國というフレーズは何とも合畜のある表現と思われます。

投稿: tatsuo | 2010年5月23日 07時31分

コメントありがとうございます。

読者の皆様のご一読をおすすめします。

読者の皆様、コメントをお寄せ下さい。日本は転換期です。自立・自尊の日本を創る好機、チャンスではないでしょうか。

Who sunk the warship?

事実のみを検証することが大切である。情報戦を闘っている。一つの報道である。http://www.japanfocus.org/-Tanaka-Sakai/3361

http://www.tanakanews.com/100507korea.htm

大量破壊兵器が、イラクにあるから、戦争だと主張したが、実際にはなかった。それを信じて、派兵した国が日本である。小泉・竹中政治の時代だ。今度は、間違えてはならない。

Fake Privatization, an Illusion

わずかに昔の話だが、遠い昔の話のようにも聞こえる。年賀状が遅れて配達された事件があった。

そのときの話。http://www.j-cast.com/2007/01/18004973.html?ly=cm&p=1

生田日本郵政公社総裁(当時)が嘘をついているとのコメントもある。トヨタ生産性向上を持ち込んで、大失敗をした、トヨタからのコンサルタントの連中はいったいどうしているのだろうか。責任追及が行われてしかるべきである。

[

都内の郵便局員です。

一昨年より、トヨタ方式の効率化ということで、それまで、立ち作業の区分が終わって、配達順に並べる時は座らせていたアルバイトに「立ったり座ったりする時間が短縮できる」と、一日中立ち作業をさせるようになりました。一年目は、現場の判断で座って作業させたりしたのですが、昨年「絶対に立ってやらせろ」と中央の通達が。また、スペース効率を上げるということで、それまで使用していた年賀専用区分棚の利用を取りやめ、通常郵便の区分棚を(組立作業が終わってから)使用するようにしたため、どうしても作業が遅れがちになりました。
そして今年。立ち作業を敬遠したのでしょう、常連だったアルバイトも来てくれず「キツくなった」という噂が広まったのか新規の応募も低調で、作業は完全にパンクしてしまいました。えらい人は、机上の理想論を振りかざすだけで、現場を何も分かっていない…]

[

郵便事業職員です。トヨタから天下ってきて法外な給料をせしめている林が始めたJPS(ジャパンポストシステム)という経費節減策がまったく機能せず、数百億に及ぶコストアップになったのが直接の原因です。
職員を退職に追いやりバイトに変えて言ったのも事実で、しかもそのバイトも必要数が集まらず、郵便をさばき切れていないのも事実です。
しかしながら、根本は林が提唱しいまなお行われ続けている、JPSという名の、煩雑かつ非効率的なシステムこそが、遅延の理由です。

その証拠に、通常郵便も三年前に比べ遅延しています。遅出しとはまったく関係のないことなのです。総裁は嘘を言っています。]

[JPS担当者と連中に媚びた管理者が、変える必要の無いことを思い付きで変えて、現場が「それはおかしい」と言っても聞く耳を持たず、上手く行かなければ「下の連中の改革へ向けての努力が足りない」ことにされる…ここ3年はその繰り返しでした。結果は、2日に年賀状配達をしても、このありさま]

[

とある局にいますが、基本的に公務員は官僚的で自分の仕事以外のことはあまり頭にありません。
内部のことですが、年々年末になるとパレットはなくなり、どこかのパレットをレンタルし、かなり使いにくい。パレットに載せるパレットケースも年末には不足が常態化し、郵袋で対処する始末。これでは大昔のやり方に逆戻りです。人が足りない上に効率が下がっています。みんなイライラして仕事をしています。管理者の現場の人への配慮が全然感じません。上層部は足りているはずと言っていますが、それは現場を見ていないから「はず」なんていう言葉が出てくるのでしょう。足りているなら、なぜ郵袋を使うはめになるのか。
毎年パレットやケースが足りなくなるのなら、なぜ対策をとらないのか。対策をとっているという人がいれば、それは対策をとっているつもり。つもりで給料をもらっているのだから、給料泥棒と民間なら言われます。

みんな仕事をしているつもり。

そんな人の集まりが郵便局の一面です。年賀状ばかり遅配と言われていますが、この年末は普通郵便の遅配の方がきっと深刻のはずです。ただ目立っていないだけでしょう。]

[何よりも不思議なことは、トヨタ方式の効率化を訴え、現場に数々の無理難題を押し付けながら、官僚の天下り先となる関連事業は温存されたまま、これ以上縮小する気配の無いこと。そちらを切り捨て、浮いた金で現場の人員・環境を強化する方が、今後何十年のコスト削減・効率アップに繋がるでしょうに。どうして、天下りの連中を食わせるため、魅力の無いふるさとゆうパックを、末端の職員が自腹で買い支えたりしなければならないのか。「国民の皆さんへ、遅滞無く郵便を配達する」本来の業務に専念させて欲しいものです。]

[

年賀状の遅配は郵政公社の責任でしかありません。
「遅出し傾向だから」って解っているなら、それに対応しないといけないんです。
「人を減らしたから遅くなった。」普通の会社では言い訳にもなりません。
郵政公社の不思議な所は現場の声は無視で、上部組織へは「西部戦線異常無し」といかなる状況でも管理者は報告します。その結果、トップは裸の王様状態です。(労組には期待しておりません)ですから、このような失態が起きるのではないかと思っております。

また上記のために、お客様からの日本郵政公社に「配達が遅い」という苦情が、2,750件に達しているとのことですが、これに近くの郵便局に対しての同様の苦情を合わせると、ものすごい数になると思われる事を把握しているのかさえも疑問です。(全国的に遅れているんですから当然なんですが)
お客様に信頼されない、会社の体質は変わらない、今のままの郵便事業ではお先真っ暗です。
何とかしたいと思いいつつ只今転職検討中・・・]・

Postal Crime

  • 外国では、ガバメントサックスとよばれるほど、権勢を誇った金融会社が、政府の追及と糾弾を受けている。日本では、何事も、過去の悪事が忘れ去られたかのようだ。
  • ご参考までに。http://www.asyura2.com/09/senkyo65/msg/139.html
  • ネットは便利である。蓄積機能もある。わずかに数年前のことが今日か昨日の悪夢のようによみがえる。

All seeing eye

ロンドンで開催する予定のマスコットが発表されたが、ああ、なんと、All seeing eyeではないか。北京のオリンピックでも、ワンワールドの標語が使われたが、同根であろう。NHKのニュース番組で紹介していたが、全くの的外れの解説であった。

http://www.google.co.jp/images?hl=ja&q=All+seeing+eye&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=BVP2S5v3KY3Rcb-YufcL&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=4&ved=0CD0QsAQwAw

http://en.wikipedia.org/wiki/Eye_of_Providence

Harsh Resistance

ありがたい記事である。記録にとどめて起きたい。ご参考まで。

http://toguchiakira.ti-da.net/e2730463.html

Kyudo Japanese Archery

http://mainichi.jp/enta/cinema/news/20100511k0000e050058000c.html

初の世界弓道大会が、明治神宮で開催され、十八カ国からの参加があったが、フランスチームが優勝した。優勝を期待された日本は、敗退した。海外では精神修養と去れ、日本ではスポーツになる不思議である。そのうち、柔道のように、劣化しなければ良いが。相撲も同様で精神がなくなると、単なる格闘技になってしまう例があるが、弓道は、フランス人に継承されているようである。また、日本を情けなく感じることである。

[The French team has become the first-ever world champions of Japanese archery after the squad overwhelmed their rivals with their outstanding shooting skills.

The First Sekai Kyudo Taikai (First World Championship of Japanese Archery) was held at Tokyo's Meiji Shrine with teams and individuals from 18 countries and regions taking part.

The French team won the inaugural tournament to become the first world champions of kyudo, or Japanese archery, while Japan lost in the qualifying round despite expectations that it would dominate the competition.

Kyudo is popular in Europe, the U.S. and other countries. Japanese expatriates and non-Japanese citizens who used to live in Japan and have experienced the art of Japanese archery have contributed to the promotion of kyudo, and helped establish the International Kyudo Federation about four years ago. Currently, it has 16 member countries besides Japan.

During the team competition, national and regional groups consisting of three players, male or female, competed on the number of arrows that hit the target, with each archer shooting four times. The French national team received a standing ovation from the audience when all the members hit the target on all 12 rounds during the semifinal.

The members of the winning team, who had won the preliminary contests in their own country and made the national squad, were Michel Dupont, Marc Bertin, and Patricia Stalder.

Dupont, a 50-year-old truck driver who was captivated by the art of kyudo, which he saw in Akira Kurosawa's Seven Samurai at the age of 18, started the sport about 30 years ago. He explains its attraction, saying "Kyudo is the pursuit of spiritual, technical and physical perfection."

Bertin, a 35-year-old computer engineer who has been doing archery since 2006, is a former karate fighter and says he started practicing kyudo because he "wanted to further enhance his inner strength," while Stalder, who started kyudo in 1994 and is the only female player on the team, says she thinks the discipline of kyudo is beautiful.

Meanwhile, the Japanese team suffered a crushing loss in the qualifying round, contrary to expectations.

Commenting on Japan's defeat, one of the executive board members of the All Nippon Kyudo Federation said, "In foreign countries, Kyudo is regarded not as sport but as a discipline. Japanese team members might have been distracted by the pressure that they must serve as an example to other teams. It feels like we have been taught what kyudo is about by foreign participants."

The competition will be held every four years」.

Solid View or One Issue Party?

http://www.cafeglobe.com/news/hama2/hm100518.html

郵政民営化についての興味深い見方である。ご参考まで。

Asymetrical Alliance

http://gendai.net/articles/view/syakai/123903

自公政権がした、外国への大盤振る舞いを新政権が是正するのが役割だ。新たな基地を作って差し上げることではない。同盟と言うが、単なる主従関係になっているのではないのか。

【普天間報道を疑え】2兆円も差し出す日本は占領地なのか

【政治・経済】

2010年5月18日 掲載

利子までブン捕る厚かましさ

 消費税アップが民主党内で話し合われるほど、日本の財政危機は深刻といわれているが、本当なのか。普天間基地移転をめぐっては、気前のいい話ばかりだ。
 2014年までに沖縄海兵隊の大部分がグアムに移転することが決まっているが、移転経費の6割は日本の負担だ。
「当初、日本の負担分は7200億円程度と見積もられていたが、なんだかんだと要求されて、1兆円から1兆5000億円に膨らみそうです」(防衛省事情通)
 その一端として、1軒7000万円もする豪華宿舎を3000戸も建ててやるデタラメがかつて国会でも問題になった。だが、それだけじゃない。米国は、経費の日本負担分の利子までブン捕ろうとしているからア然だ。
 麻生政権時代の昨年2月17日、東京において中曽根外相(当時)とヒラリー国務長官の間で、海兵隊とその家族のグアム移転に関する日米政府の「協定」が結ばれた。その第4条は、こんな文章になっている。
〈アメリカ合衆国政府は、日本国が提供した資金及び当該資金から生じた利子を、グアムにおける施設及び基盤を整備する移転のための事業にのみ使用する〉
 いやはや、利子まで巻き上げようとは悪徳金融業者も真っ青だが、驚くのは早い。
 国内には「米軍が沖縄から出ていってくれるのなら、1兆円も仕方ない」「カネでケリがつけば」という声もあるが、それは違う。米軍は、出ていくどころか、沖縄の辺野古の新基地もいただく算段だ。軍事ジャーナリストの神浦元彰氏が言う。
「米軍にとって最善の案が、自民党政権時代に合意した辺野古移設案です。日本が1兆円もかけて海を埋め立て、V字滑走路ばかりか軍港もこしらえてくれる。至れり尽くせりで、小型空母の接岸も可能です。米軍は沖縄の第3海兵隊を4年後までにグアムに移転させるが、アクシデントに備えて、この辺野古の豪華基地も欲しがっている。第2のグアム基地として使用する方針です」
 鳩山首相は、この豪華辺野古基地の建設に抵抗して、安く済ませようとしたから、米国の怒りを買い、米国の手先のような日本の大マスコミに潰されようとしている。
 だが、1兆円のグアム移転と1兆円の辺野古基地、さらに利子まで全部いただこうなんて、異常も異常。虫がよすぎる。だれの税金だと思っているのか。日本国民を植民地か占領地の言いなり住民とみている証拠だ。しかし、もちろん、鳩山潰しに忙しい大マスコミは、そんな不条理は一行も報じない。」

Tourism Scandal

国家間の動きは、相互主義が必要なときがある。相互主義とは、弱い立場にあるものが主張するのが普通であるが、観光の通訳の時には、日本が主張すればよい。観光庁という組織自体が、小泉・竹中政治の産物であるが、なにか、おかしな動きをする行政組織になっているのではないか。外国勢力の介入を許してはならない。観光が、外国人の潜りの入国の便法になっているのではないか。外国留学と称して、労働で日本人の職を奪っているのを助けているだけではないのか。

リンク: 中国は認定ガイドなのに!無資格を追認する動きに日本の正規ガイドは涙…―観光庁検討会 - 速報:@niftyニュース.

Nenes, Koganeno Hana or Flowers of Fool's Gold

黄金の花である。アルゼンチンで録画したらしい。アルゼンチンというと、シカゴボーイズが、市場原理主義を実験して、国家を破壊したところである。政治的な弾圧で、数万人が殺されたとの説もある。

Postal Crimes should be punished

当ブログは、郵政民営化の闇を、司法当局が捜査すべきであるとかねがね主張している。5月20日の夕刊紙、日刊現代が、ようやく総務省の検証委員会の内容を報道した。郵政民営化という魔物の手先のカラス天狗は、逃げ切ったつもりになっているかも知れないが、きっと天罰が下る。天網恢々疎にして漏らさずであるが。大マスコミは報道しない不思議である。

http://gendai.net/articles/view/syakai/123963

2010年5月20日 掲載

日本郵政 検証報告が断罪 なぜ検察は捜査しない

●「自らの利害と譲渡先の利害を重視」
 刑事事件の「起訴状」のような内容だった。日本郵政の旧経営陣らによる企業統治(ガバナンス)を検証した、総務省の最終報告書のことだ。鳩山叩きに忙しい大マスコミは詳しく報じていないが、読めば読むほど西川善文前社長らの経営手法がデタラメだったことが分かる。

●西川善文執行部のデタラメ次々発覚
「業務の公正さ、手続きの適正さに問題がある」――。報告書は、西川らの責任を断罪する文言のオンパレード。中でも「かんぽの宿」の売却や、土地処分に関する「不動産事業」について厳しく批判している。
「日本郵政が保有していた不動産は当時、土地と建物で計約2.8兆円。これは大手不動産をはるかに上回る規模で、郵政民営化の成否は、この不動産事業をいかに活用するかにかかっていました。しかし、旧経営陣は、アドバイザーの外資系証券の忠告を無視して安売りに奔走。『かんぽの宿』は07年8月、3社の不動産鑑定評価会社が約221億円(70施設)と評価したのに、日本郵政側が『買い手が付くのか』とゴネたため、1週間後に約125億円と再評価。それでも日本郵政が納得せず、結局、3回目に当初の半値以下の約97億円と評価しています。売り手が自ら資産価値を下げるなんて、通常の企業活動ではあり得ない話です。会計検査院も今年3月、こうした評価額に対し『本来の価格より相当低く算定され、資産価値を適切に反映していない可能性もある』と指摘しています」(総務省担当記者)
 上場企業なら間違いなく株主訴訟が起きる。経営者は背任罪で逮捕されてもおかしくない。一体なぜ、こんなメチャクチャをやったのか。
「『かんぽの宿』の売却を主導した宿泊部の関係者の多くが売却後、売却先に移籍する計画だったことが背景にあるでしょう。最終報告書でも『宿泊部の者は、処分方法、譲渡先の選定について、日本郵政の利益よりも自らの利害、譲渡先の利害を重視してもおかしくない立場にあった』と指摘している。その証拠に『かんぽの宿』の譲渡に関わる新会社の副社長には、宿泊部長の起用方針が示されていました」(経済ジャーナリスト)
 検証委員会委員のひとりで、前衆院議員の保坂展人氏がこう言う。
「不動産事業は民営化のハイライトだったにもかかわらず、どのような経営判断に基づいて行われたのかが全く分からない。資料は残っておらず、関わったとみられる社員が一斉に退社しているからです。この抜け落ちた部分を明らかにしなければ郵政問題は終わりません」
 西川は検証委の再三の聴取要請にも全く応じず、ダンマリを決め込んだ。しかし、すでに与党の国会議員から「特別背任未遂」などの容疑で告発されている身だ。検察は一刻も早く捜査するべきだ。

Tokunoshima

何か恐ろしい話が載っている。世の中がカネでどうにでもなると思っているらしい、寂しいい話でもある。また、仕掛けが透けて見える稚拙さである。属国になるとは、こんなことかも知れないと考え込んでしまう。

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100520ddm001010036000c.html

平野官房長官が、16日に鹿児島市で、徳之島の基地移設賛成派と会合したときに、徳之島の三地方公共団体の借金の棒引きなどを提案したという。「移設と振興策は別だが、何項目は全てのむ」と言い切ったという。7項目は(1)徳之島3町合計で約250億円の借金(公債)棒引き(2)航路・航空運賃を沖縄並みに抑制(3)燃料価格を沖縄・本土並みに引き下げ(4)沖縄県が対象の黒糖製造工場への交付金を鹿児島県にも適用(5)医療・福祉・経済特区の新設(健康保険税の免除)(6)奄美群島振興開発特別措置法の所管省庁を国土交通省から内閣府へ移す(7)看護学校、専門学校の設置だった。

 平野氏は会談で、奄美群島向けの10年度政府予算(奄美群島振興開発事業予算)が前年度比29%の大幅減となったことを謝罪しているが、算編成で意図的に削ったのではないか疑念が残る。医療福祉の特区の親切で、健康保険税の免除とか、看護学校の話が出ているが、徳之島出身の医療法人の理事長に、鳩山総理がわざわざ会いに行ったことがあったが、その背景を推測させるものである。平野長官は会談内容について出席者に固く口止めし、住民側は記者団に平野氏から振興策の話はなかったと口をそろえたという。

航路航空運賃、燃料価格が、沖縄より高くなっている点は、奄美全体が、沖縄と鹿児島本土の狭間になっており、基地問題を抜きにして是正されるべき問題である。国土交通省の単純な怠慢である。航空路線を鹿児島からではなく、那覇をハブにして弾き直せばいいだけの話である。燃料価格も、沖縄の石油会社の営業を認めればいい話であるが、薩摩藩の支配以来の鹿児島本土の会社の利権が残っているのを排除すればよい。業者の縄張りがあるのだろうか。黒糖製造工場への交付金は疑問である。沖縄で本当に必要な交付金なのか議論のあるところだ。数ヶ月しか操業しない工場に交付金を出せば、遊んで暮らすことになりはしないか。それこそ、サトウキビのモノカルチャーの植民地になりはしないだろうか。

しかし、こうした話が、事実であれば、品格のない政治であって、安全保障の問題でもなく国を守る話でもない。品格のない政治家が官職に就くのは非常にまずいことである。

Thailand situation

 タクシン元首相が、毛沢東型の戦術を採用していることを、先のブログで、言及したが、今朝タイ政府は反政府側を制圧した、反政府デモの指導者が投降したと発表したが、予想通り、タクシン側は、ゲリラ戦を展開する動きのようである。しかし、バンコクの市内でゲリラ戦ができるほど支持があるとは考えられないし、地方の県庁あたりを襲撃したりしているが、それが鎮圧されるのも時間の問題である。事実、タイの観光産業の落ち込みは予想されても、全体の経済の落ち込みはそれほどでもない。反政府派は、証券取引所あたりを襲撃したり、狙い撃ちにしているが、銀行あたりは早々に業務を辞めて、臨時休業にしている。外国の介入があれば、尚更混乱したところであったが、タイ政府は、外国の介入を回避することに成功している。タクシン派は、しきりに国際連合の調停などを要請したが、独立を守る国、タイの面目を施した。死者は70人を超える可能性があり、負傷者は、数千人に達すると言われる。市場原理主義が、伝統と文化に反乱を起こしたのであるが、タイでも、まもなく、拝金のイデオロギーが終わる。

 西欧のマスコミは、社会格差の拡大、地方と都市との格差などが、今回の争乱の原因とかいた向きが多かったが、実は、そうした社会格差は、タクシンなどの、市場原理主義者が、世界的な金融陰謀の連携の中で作り出されたものである。その中の被害者を煽動組織して、内戦に向かわせようとした嫌いがある。映像でも見られたように、単純なデモではない、明らかに軍事部門があるかのように、見られる。タクシンは、元々タイ北部のチェンマイを地盤とする華僑の出身であるが、タイには、潮州系の華僑を中心に、海南系の華僑など、微妙な勢力の違いがあり、華僑の中でもタクシンを支持するものばかりではない。テレビの報道によれば、ルンピニ公園近くのドゥしたニーホテルが、反政府デモに襲われたとの話であるが、タイの大方の華僑からすれば、考えられないことである。

 タイの大方の華僑からすれば、世界的な金融バブルを利用して、また、IT革命の成果で通信の自由化から巨万の富を得て、濡れ手に粟の利益を上げて、海外の資本家に貢いだように見えるだろう。巨万の富をあげたから、タイの国体をもないがしろにしてしまった方が、なお、経済的には儲かると判断したに違いないが、それは、大いなる誤算であった。土壇場で、反政府派は、王室の調停を求めたが、白々しいことである。王室を亡き者にしようとしたところに問題の重大性があったのであり、海外勢力との結びつきが明らかにした上で、大義名分を得て、鎮圧に踏み切った。ネパールで成功したかに見えた、王室への攻撃は、タイでは見事に失敗した。その点、こうした争乱のさなかに、カンボジア国王が来日して、歓迎があったのは、市場原理主義に対する日本の潮流も変わったとの兆しだろうか。

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Thaksin Foreign Connection

タイの混乱が続いているが、その首謀者であるタクシン元首相の実態についていよいよ情報が出つつある。ご参考まで。タクシンは、市場原理主義者で、ブッシュなどと、カーライル社の顧問をしていたことが知られている。

http://www.infowars.com/thailands-thaksin-shinwatra-marxists-and-the-nwo/

タイで混乱が続いているが、その背後には、元総理大臣のタクシン・シナワトラが、いることは間違いない。ドバイで亡命生活を続けているとも言われている。去年の10月にはサウジアラビアに旅行していたことも伝えられている。タクシンは、米国の金融機関である、カーライル社のアジア顧問を務めており、総理大臣就任後もその職を続けていたものと見られており、外国の投資家との橋渡しの役割をしていた。

タイは、アジアで、日本と並んでただ二つの西欧の植民地にならなかった国であるが、そうした国で、声高に、グローバリズムを主張して、自由貿易などの新自由主義的な考え方を支持していた。首相に就任するや、地方と田舎を基礎にする権力基盤を作ることとして、農村飢饉を作ったり、低い利子の貸し出しをしたり、健康保険と称して、本当は買収に近いものであるが、30バーツで医療にかかれる制度などを編み出した。陰では、後に赤シャツタイとなる、地方での、集団組織を組成した。その組織では、タクシンが、新しいタイ国家の指導者となるということが、情緒をあおる形で、吹き込まれた。この政治宣伝の手法は、毛沢東の手法である。タクシンは、一党独裁を目指したが、2006年に軍のクーデタがあって、その野望は中止の憂き目になった。タクシンは、市場原理主義という経済ファシズムをタイに導入して、アジアの自由貿易の共同体を作る考えが頓挫した。

タクシンは、ロンドンのエコノミスト誌のサム・ムン氏などという、政治宣伝の専門家の助けも得ているが、イギリスの陰が深くつきまとっている。毛沢東に見習った支持団体は、その後赤シャツ隊と呼ばれるようになったが、公式には、UDDとか、独裁に反対する民主主義の国家統一戦線などと呼んでいるが、UDDには、多くの共産主義者が含まれている。

現在のデモは、単に地方からバンコクに出てきて、地方の疲弊を訴えているわけではない。タイの社会階層を破壊して、タクシンの元で、共和国を作ろうという、毛沢東の蜂起である。もちろん、西欧の市場原理主義者が荷担していることは、すでに記したとおりであるから、タイの運命は危うしというところである。タイの共産化を画しているとの見方もできる。http://2bangkok.com/10/RedPublicationsCommunist.shtml

そうすると、背後にいる大きな力は、なにか、やはり、北京であろう。タクシンの組成した政党の機関誌などは、赤い革命を主張していたが、西欧のマスコミは、赤シャツタイの肩を持つかのように、そうした事実は報道されなかった。イギリスのBBC放送も、CNNも反政府側の被害と、銃を撃つ軍の映像を流すばかりで、背後関係についての言及は行わなかった。タクシン派の政党の機関誌などの写真が、ネットで説明をつけて公開されている。ご参考まで。http://2bangkok.com/09/RedPublications.shtml 

タイとは、そもそも自由という意味であるが、自由は、独立がなければ達成できないし、独立とは、誰からも支配されないで、知識を持つことである。タイは、米国のモンサントの遺伝子操作の種苗が売買されるのに抵抗している国である。映画情報産業が、外国流の法律を立法しろとの圧力に抵抗している国である。外国の製薬会社の搾取に抵抗している国である。タイを市場原理主義の国家に改変しようとする、市場原理主義の陰謀に抵抗している。

タクシーが海外逃亡をしてから、二年になるが、人民戦争論が言われたのは、タクシンの配下の連中である。戦車や、兵士が出動すれば、人民が出動して革命になると、海外から電話をした気配もある。が、実際は、デモ隊が暴れて、それを鎮圧するために、軍隊が出動したという逆の構図が真実である。赤シャツタイに反対するバンコク市民が、通りの障害物をどけようとするのを、阻止することも見られた。

タクシンと今回の赤シャツ隊の、バンコックにおける争乱が、海外のロビーストや、宣伝会社が介在しながら引き起こされている可能性は高い。特に米国政府に近い、宣伝会社である可能性がある。(赤シャツ隊の指導者は、逆の言い方をしているが。)ロンドンエコノミストの、サム・ムン氏を、タクシンが宣伝顧問として採用してからは、タイ政府と、タイの王制を批判する記事がどんどんでるようになったのが、その傍証である。ちなみに、どこの広告宣伝会社と言えば、バルフォアとか、グリフィスとか、ロバーツの名前があげられる。ワシントンのもっとも影響力のあるロビー会社であるBGR社が、タクシンという新しい顧客の為に記者会見を用意している可能性が高い。

以上、ご参考まで。

http://thanong.tripod.com/03072001.htm

以下は、六年前の記事である。アナンとはだれか。WTOの事務局長?ブッシュ元大統領との三十年来の知己。カーライル社の顧問。カーライル社は、レーガン政権の時の国防長官の作った、金融投資会社である。

Anand outlines ties to group of giants

March 7, 2001

FORMER prime minister Anand Panyarachun and current prime minister, telecom tycoon Thaksin Shinawatra, feature among the likes of George Bush, James Baker III, John Major and Fidel Ramos as noted advisers to the Washington-based Carlyle Group, a US$12 billion (Bt522 billion) private equity firm.

Anand told The Nation yesterday that he joined the Carlyle Group about two years ago at the invitation of former US President George Bush, whom he has known for about 30 years since the time they both served as ambassadors to the United Nations.

Anand still sits on the Carlyle Group's advisory board for Asia-Pacific, formed two years ago to advise the firm about political, economic and business prospects in this part of the world, while Thaksin is understood to have tendered his resignation from the same board upon becoming prime minister.

"As a member of the advisory board, I am not supposed to get involved in operations. I just give out advice when we meet to discuss about the economic or business opportunities in the region," Anand said.

Formed in 1987, the Carlyle Group, chaired by Frank Carlucci, secretary of defence in former President Ronald Reagan's administration, has invested more than $5.3 billion of equity in 200 corporate and real estate transactions with an aggregate acquisition value of more than $14 billion. As of December last year, the firm had more than $12 billion of capital under management.

The advisory board meets only once a year. The first parley, which Bush also attended, was held in Bangkok at the Oriental Hotel in 1999. Last year, the advisory board members assembled in Seoul. The board meets next in May in Hong Kong.

"I understand that the Carlyle Group has not yet made any investments in Thailand. But I heard that they have invested in a bank in Korea and a telecom firm in Taiwan," Anand said.

In its March 6 edition, the International Herald Tribune played up the political connections of the Carlyle Group in a front-page article, reporting that the firm has benefited from extensive contacts with numerous former government officials, principally in the Reagan and the senior Bush administrations.

Leslie Wayne of the New York Times, which together with the Washington Post publishes the Tribune, wrote the report, investigating how top-level government officials have helped turn Carlyle Group into a moneymaking machine. "In a new spin on Washington's revolving door between business and government, where lobbying by former officials is restricted but soliciting investments is not, Carlyle has upped the ante and taken the practice global," the reporter wrote.

Referring to Bush and Baker as the star powers of Carlyle Group, Wayne added: "With door-openers of this calibre, along with shrewd investment skills, Carlyle has gone from an unknown in the world of private equity to one of its biggest players."

Bush helped Carlyle Group win a deal for control of KorAm Bank, one of the few healthy banks in Korea.

In April 1998, while Thailand was still mired in a deep economic morass, Thaksin tried to use his American connections to boost his political image just as he was forming his Thai Rak Thai Party. He invited Bush senior to visit Bangkok and his home, saying his own mission was to act as a "national matchmaker" between the US equity fund and Thai businesses. In March, he also played host to James Baker III, the US secretary of state in the senior Bush administration, on his sojourn in Thailand.

"I'm just trying to be a matchmaker for those who want to invest in Thailand," Thaksin said in the April 24, 1998 edition of The Nation. "Every company needs to increase capital now and what our country needs most is capital and we want to sell our products."

At the first meeting of the advisory board, Asia-Pacific, in Bangkok on May 30, 1999, Bush gushed reassuring remarks about the promising prospects of the Thai economic recovery. "South Korea has recovered. Thailand is going to make it, I am sure," Bush said.

At the time, the Carlyle Group said it planned to create a $1-billion fund to invest in Southeast Asia, hoping to ride on the crest of the economic recovery. Its fund managers were busy holding talks with a number of Thai companies over possible investments. It was reported then that the Carlyle Group was looking towards investing $500 million in the steel, services and energy industries in Thailand.

Thaksin was quoted then as saying that the main obstacle to the Thai recovery was "the Thai owners' reluctance to part with their equity holdings in spite of the financial crisis".

In May 1999 the Carlyle Group joined five other companies, including Hongkong and Shanghai Banking Corporation, General Electric Capital Services, Newbridge Asia and American Asset Acquisition Corp, to bid for troubled Siam City Bank. The group backed off after of SCIB's assets had deteriorated appreciably.

BY THANONG KHANTHONG

An introduction to Yoshino gathering

Yoshinobennkyoukai_2 吉野で、勉強会がある。今週であるから、紹介するのが遅きに失したかも知れない。村上正邦先生が主宰する、日本再生 一滴の会の勉強会であり、講師は、佐藤優氏である。

Sexual Harrassment

市場原理主義を謳歌したジャーナリストが、大学教授となったが、解職されたとのニュースがある。上げ潮派にとっては、不都合な真実だろうから、そのニュース社以外には報道がないという不思議である。4月8日付けの記事である。新潮社の雑誌で、先月廃刊になったが、フォアサイトという雑誌などによく寄稿して、郵政民営化などをよいしょしていた。外国資本をほめあげることに荷担していたが、自ら破綻したようである。

「日経の客員コラムニストとして知られる早大大学院客員教授の田勢康弘氏(65)が、セクハラ問題で早大を「解職」になったことが分かった。週刊誌にも報道され、早大が調査してセクハラと認めたためだ。田勢氏は、「セクハラではない」と反論している模様だ。

   田勢康弘氏は、日本経済新聞では、政治部記者、ワシントン支局長などとして活躍し、現在も同紙の客員コラムニストとして定期的に寄稿している。テレビ出演も多く、現在はテレ東の番組「田勢康弘の週刊ニュース新書」を受け持っているほどだ。

女子学生が早大に被害申し立て

セクハラ問題があった早大
セクハラ問題があった早大

   その田勢氏が、セクハラ問題でクローズアップされたのは、週刊誌報道だった。週刊文春が2010年1月21日号で、客員教授をしている早稲田大学で、女子学生にセクハラをしていた疑惑を取り上げたのだ。

   それによると、田勢氏は、大学院公共経営研究科の修士課程で学ぶ女子学生を授業で教え、08年4月からティーチングアシスタントも任せていた。ところが、09年7月になって、女子学生を1泊2日の長崎出張に同行しないか誘った。女子学生は2人だけの旅行に抵抗があったが、田勢氏が修士論文の審査をしていることを考え、承諾した。

   そして、田勢氏は旅行中、小説家志望の女子学生にいきなり不倫小説を共作しようと持ち出したという。さらに、同8月になって、田勢氏から小説のリアリティーを出すため、女子学生が脱ぐようにお願いするメールが送られたとしている。

   これに対し、女子学生は、修士課程を修了した同9月、早大のハラスメント防止委員会にセクハラ被害を申し立てた。

   文春の記事で書かれているのはここまでだが、田勢氏が所属する政治経済学術院の教授会に出席した1人が、J-CASTニュースの取材にその後の経緯を明かした。

「重大なセクハラ行為」と認定

   それによると、早大のハラスメント防止委員会は、女子学生からの申し立てを受けて調査を行い、その結果、「重大なセクハラ行為」と認定して政治経済学術院の教授会に報告した。田勢康弘氏は教授会で、セクハラを否認して「女子学生にも非がある」などと弁明したものの、その後、辞表を提出した。

   しかし、教授会はこれを認めず、2010年3月31日の会合で田勢氏の「解職」を決めた。田勢氏は、不服申し立てをしたが、認められなかった。田勢氏のセクハラ否認に正当な理由がなく、「反省がない」とみなされたという。

   早大の広報課では、取材に対し、田勢氏が2010年3月で客員教授を辞めていることは認めた。しかし、何らかの処分があったかについては、「公表できる懲戒処分の基準でなければ、辞職した事実しかお答えできません」と話す。その基準とは、刑事事件など社会的責任が問われるケースだという。ハラスメント防止委員会の案件も、関係者を守るため、外に言うことはできないとしている。

   文春によると、田勢氏は、同誌の取材に対し、旅行やメールの事実は認めた。その一方で、セクハラは否定し、女子学生に脱ぐことを依頼するメールについては、メールに書いたのと同様に、小説のリアリティーを出すためと強調したという。

   J-CASTニュースでは、セクハラ問題について、田勢氏に取材を申し込んでいる。」

Hot Pursuit 3

郵政改革で、郵政民営化で甘い汁を吸った連中が、どんどん隠れようとしています。事実は検証しなければなりません。たった一人の悪党も、何のおとがめもないという不思議な状況です。

閑話休題のようなことですが、郵政民営化の巨大な闇を捜査すべきかどうか設問しまして、応じていただければ幸いです。2千人以上の方が参加して頂きました。数千人の意見になれば、力が籠もりますが。さて、そうなりますか。ブログをお持ちの方は、リンクも貼っていただければ幸いです。知人友人にご紹介いただければ幸いです。読者の皆様、どんどん泣き寝入りをして、何もなかったかのように振る舞うことは、日本を滅ぼすことになりはしないでしょうか。

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Postal Reform

5月19日、NHKの午前0時9分のニュースが報道した。

18日夜に開かれた衆議院本会議で、郵政改革法案が、野党側が退席するなか審議入りし、亀井郵政改革・金融担当大臣は、郵政事業を抜本的に改革し、地域や国家のために思い切った事業展開ができるようにすることが必要だとして、法案の早期成立を求めました。

18日の衆議院本会議は、政治とカネの問題などをテーマにした予算委員会の集中審議の開催などをめぐって与野党の協議が断続的に続いたことから、予定より7時間以上遅れて午後8時半すぎに始まりました。はじめに、自民党が提出した樽床伸二環境委員長の解任決議案が、与党側の反対多数で否決されました。このあと、野党側が与党側の国会運営は強引だなどとして退席するなか、日本郵政グループを現在の5社体制から3社に再編するなど、これまでの郵政民営化を見直す郵政改革法案が審議入りしました。この中で、亀井郵政改革・金融担当大臣は「小泉内閣の民営化によりサービスが低下した郵政事業を抜本的に改革する。地域や国家などに貢献していくため、日本郵政が思い切った事業展開をできるようにする」と述べ、法案の早期成立を求めました。また、原口総務大臣は、郵便貯金の預け入れ限度額の引き上げなどが民業圧迫につながるという批判があることについて、「政府保証があるということはなく、批判は当たらない」と述べました。

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Wall Street Reform

Wall Street Reformとよぶらしい。ウォールとリートのいかさま金融会社をリフォームするというのである。日本でも、市場原理主義が吹き荒れた。市場を大事にするようで、実際には、不正や、賭博のようなものであった。天文学的な高給が支払われた。資本主義の権化のような米国で、規制が強化されている。オバマ大統領の演説である。アメリカ国民に話しかけるかのようであり、アメリカの会社が外国で、荒らし回ったことをはんせいしているかのようでもある。まだ、一部の団体は、何もなかったかのように振る舞っており、例えば、日本では、商工会議所などが、郵政民営化に文句をつけているが、そうした内政干渉めいたことは、もうやめるべきである。Wall street reform should also consider the rampant activities of the Wall street subsidiaries overseas. For instance the activities of the Sachs Government in Japan should be thoroughly surveyed to bring out international confidence.

Tokunoshima

在郷の徳之島出身者の、米軍基地反対のデモが行われた。田中龍作氏が取材している。

ご参考まで。http://tanakaryusaku.seesaa.net/article/150050596.html

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Postal Crimes

総務省が開催していた、郵政民営化検証委員会の報告書が掲載されている。

http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/02ryutsu13_000022.html

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Anti-Japan

反日の系譜がどう作られるかというと、教育に尽きる。歴史問題でもあるが、実は、事実誤認で、歴史上の事実がねじ曲げられている場合もある。

こんなサイトがあるので、ご参考まで。http://peachy.xii.jp/korea/index.html

Postal Corruption in Osaka

またぞろの話である。

局舎保存問題が持ち上がっている大阪中央郵便局で、日本郵政とJR西日本が建て替えを延期し、当初予定していた平成24年開業を先送りすることが18日、わかったという。郵政民営化の過程で、不透明な事業がいろいろと行われたが、そのひとつである。JR西日本がかんでいるとは、当ブログは初耳であるが、大阪を中心とした住友銀行系列の不動産事業の色が強かったことが、言われていたが、事実関係が明らかになることを期待する。 日本郵政は19年10月の郵政民営化に伴い建て替えを計画。同社とJR西日本が共同事業者として、平成24年開業予定で延べ床面積約21万平方メートル、地上40階地下3階建ての複合高層ビルを建設することになっていたが、24年完成が難しくなった。また、大阪駅では23年春には、百貨店やオフィスが入居するJR西の大阪駅ビル開業も予定されており、大阪駅周辺部でオフィスビルの供給過剰も懸念されることから、先送りを決定したという都合のいい話になっているが、 夢物語の計画をした者の責任はどうなるのだろうか。オリエンタルランドが、日本郵政から受託する予定であったとの、計画も白紙に戻るとの報道である。さて、さて、劇場契約などがあったのか、カナダのサーカスが入るなどと気前のいい噂があったが、そうした、公開された場所での契約ではなくて、出来レースの可能性があるとすれば、それは、公的な資産の有効活用方法ではない。東京中央郵便局、名古屋中央郵便局、大阪の中央郵便局、福岡の博多駅の近くの郵便局などの再開発の決定が適正な手続きで行われたのか再検証すべきである。郵政民営化は、国民資産を、財閥系の不動産企業で山分けすることではなかったはずだ。東京中央郵便局の再開発後のガラスのビルには、国土交通省の観光の団体が入るという、前約束があったとの話を聞いたが、ビルが建てられる前から、どうしてそういう話があるのだろうか。小泉総理の時に、ようこそジャパンと、外国からの観光促進で絶叫する番組が、各地で放映されたが、それとの関係もあるのだろうか。いずれにしても、三井、三菱、住友の大財閥の不動産部門と、郵政民営化の闇の部分とが深く繋がっているような気がしてならない。しかも、その動きは、民営化される以前から始まっていた可能性もある。組織的な、国民資産の簒奪である可能性もある。

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Postal Reform

郵政改革法案をめぐっては、米国通商代表部(USTR)などが「民間との競争条件が不公平」などとし反発しているという。。世界貿易機関(WTO)大使級協議が21日にスイスのジュネーブで開かれる予定だというが、欧米側は、WTO提訴も辞さない厳しい姿勢で、日本に改善を迫るなどとの報道であるが、しばし、冷静に考えてほしい。当事者の米国では、銀行の倒産回避の為に、国が税金をつぎ込み、あれほど、日本の簡易保険をつぶせと主張していた会社が、破産寸前になると、国有化かした。それに、日本が難癖をつけたことはない。そろそろ、内政干渉はやめるべきであるし、日本の外交当局もちゃんと日本の主張をするべきだ。日本は、WTOの場所に参加していても、日本の国内問題に干渉されるべきではない。

Thailand braces violence

アメリカの保守系のテレビのニュース映像である。ご参考まで。タイの反政府勢力は、もはや単なるデモをやっているわけではないことがよく分かる映像である。手製の銃器もあり、銃器も使用している。軍隊が出動しなければ、抑えられないだろうことが理解できる。

 背後で、糸を引いているのは、だれか。そして、王制を廃止しようというタクシンや、外国勢力の動きはないのか。その、肝心のタクシンの声が聞こえなくなったのも気にかかる。タクシンを散々持ち上げてきた、外国勢力がタクシンの財産を凍結したとか群がっているのも気にかかる。タクシン派は外国の介入を求めたが、さすがに、タイ政府は拒否している。単なる反政府デモであったものを、政府の妥協を拒否して武力闘争に踏み切り、軍隊の出動を招いたのは、タクシン派であり、拳を振り下ろしたが、下げる機会を失ったのではないか。タイの争乱が激化するにつれて、タイの権威が国王陛下にあることを、タイの国民はもちろん、外国も知ることになるだろう。拝金の市場原理主義は、タイに政治的な混乱を引き起こして、一儲けを企てたのかも知れないが、その結末は、そろそろ、予想できる状況に立ち至ったようである。

Kuroshio 27

南洋諸島と黒潮民族日本の責任という見出しにする。

普天間基地の海兵隊の基地問題で日本とアメリカとの戦後の関係を再定義する動きが出た。沖縄を占領して、ベリー提督以来の野心を満足させた米国は、三軍がそれぞれに基地を作り、特殊な外征の軍隊である海兵隊も 普天間基地を作った。沖縄返還と言っても、太平洋の要石と呼んでいたから、世紀の末にハワイを併合して、その先の飛び石としてフィリピンを考えていたが、いつまで経っても国内の争乱はなくならず、香港と広東経由で、門戸開放政策の要となるはずで国が汚職と寡頭政治となるばかりの政情不安で、火山の噴火をこれ幸いと航空基地と海軍基地を閉鎖した。その分、沖縄の基地はアジアの地勢からも扇の要のようになって重要になった。米中国交回復の時の取引も、渡嘉敷島の中距離弾道弾のメースBであったことが記憶に残る。「県外」移設と言って、同じ琉球の黒潮の流れで切り取られ、奄美の島のひとつの徳之島に海兵隊の一部の機能を移すとのことであるが、県外の定義に徳之島も含まれるとなると、せっかく去年が、一六○九年の薩摩の琉球征伐400周年で、恨み辛みを時の沙汰として、仲直りの儀式や会合をした甲斐がなくなる。教養や、情念や歴史への畏敬が政策立案者に欠けているようで、ペリー提督も、沖縄で海兵隊をまず上陸させ、武力を誇示して、意固地なところを見せつけて脅してから琉米で和親条約を結び、江戸湾に乗りんだ歴史など、頭の隅にもないようだ。しかも、海兵隊の機能を全国に分散・展開するなど言われても、外征の軍隊で宣戦布告をしないで、大統領命令だけで外国に乗り込み、要人を捕まえたりする連中が闊歩することになることは、隷従になるから、納得する日本人はよもやいまい。外国の大統領の前で、エレキを弾く真似をして媚びた総理大臣がいたが、それよりも屈辱的で、質(たち)が悪い。 沖縄の米国総領事館は、那覇にはなく琉球王朝の墳墓のある浦添にあるが、徳之島を含む奄美の島々も元は琉球の版図であるから管轄しており、昭和28年の奄美群島の祖国復帰があっても、変えていない。領事館員が、ダイビングの趣味と称して、沖縄よりも手づかずの奄美の海岸で、北朝鮮からの不審船の形跡を調べて神経をとがらせる可能性も不思議ではない。 

 南洋諸島も、東京から飛行機で行けば近いのであるが、日本の外交組織は、領事館を置いても担当者が一人二人で、なおざりにしている気配で、国連の信託統治と称して、日本の敗戦で、南洋群島を事実上領有してしまった国の首都の大使館を経由する情報交換を正式にするというばかげた現実である。浦添の米国総領事館が、奄美まで兼館している歴史の認識とは大違いではないだろうか。
 北マリアナのテニアン島から、普天間の代替になってもいいという話がある。テニアンから、広島に投下する原爆を乗せたエノラゲイが飛び立ったことを知っているのだろうか。テニアンは産業がないので、基地移転も、そうした生き残りの為の経済手段であり、他にカジノを誘致はしたが、客は少ない。日本領土であったところに、しかも日系人が残っているところ、そこを「海外」に仕立て上げて、カネをばらまいて、外国の海兵隊の基地を引っ越しさせるというのは見識のない話である。日本の思いやり予算など移転費用の負担が大盤振る舞いで、移転に期待を持たせ、かつ助長しているのではないか。北マリアナに続き、パラオ共和国のアンガウルが普天間代替基地に手を挙げて、四月下旬に議会で決議を採択したという。アンガウルは、日本統治の時代に四百五十万トンもの燐鉱石を採掘して、戦後も肥料の原料を供給し続けた。ペリリュー玉砕の足場となった約三千メートルの滑走路が米軍によって建設され本土爆撃の拠点となったが、使用されていないし、もう人口も三百人になってしまったから、米軍基地に転用できないかとのカネの思惑が出た。燐鉱石採掘による被害賠償請求が日本に対し出されているとの話もある。世界的な根拠のない市場原理主義のグローバリゼーションで、島のわずかな産業も壊滅的になったから、グァムのように米国直轄地ではなく、より自治権の強い立場から、連島化ならぬ連邦化が進められる中で、沖縄の海兵隊移設は、ミクロネシア大統領サミット等でも毎回議案に取り上げて、経済波及効果と環境への影響を議論している。島嶼経済が逼迫する中での苦渋に満ちた議論である。日本は、南洋諸島を、戦争に負けたことを理由にして、置き去りにしたのである。

 基地移転の現実的な可能性だが、島に水があるかどうかが鍵だとすると、グアムには水があるが、テニアンはない。アンガウルでは、水はあるのか。栃木の部隊が玉砕している。 米国はいつまで、支那と日本とを天秤にかけるのか。日本はいつまで、依存を続けるのか。黒潮の民の日本が大陸に無理に進出したのは、名誉白人として米国の先導役をしたのではないのか。そろそろ、普天間基地を閉鎖し沖縄を全面返還して、日本から撤退する。日本の自主防衛強化こそ、日米の安定と共通の利益の為に必要である。片務的な主従関係などやめよう。(つづく)

True Governance

郵政改革で、郵政民営化で甘い汁を吸った連中が、どんどん隠れようとしています。事実は検証しなければなりません。総務省の郵政民営化の検証委員会の最終報告書が、17日に発表されたとの報道ですが、たった一人の悪党も、何のおとがめもないという不思議な状況です。

閑話休題のようなことですが、郵政民営化の巨大な闇を捜査すべきかどうか設問しまして、応じていただければ幸いです。2千人以上の方が参加して頂きました。数千人の意見になれば、力が籠もります。ブログをお持ちの方は、リンクも貼っていただければ幸いです。知人友人にご紹介いただければ幸いです。読者の皆様、どんどん泣き寝入りをして、何もなかったかのように振る舞うことは、日本を滅ぼすことになります。あれほど、市場原理主義の連中が礼賛した米国でも、すっかり流れが変わり、不正な取引をした金融機関の訴追が始まっています。

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Corrupt Postal Privatization

日本郵政の企業統治のあり方について検討していた総務省の検証委員会(座長は郷原信郎・名城大教授)が、17日、最終報告書を原口一博総務相に提出したとの報道である。現在の「委員会設置会社」の経営形態を再考するよう提言したという。

 委員会設置会社では、社外取締役を中心とした委員会が役員指名や報酬決定など経営の重要事項を監督する。日本郵政は、政権交代に伴う経営陣刷新後も、委員会設置会社の形態を続けている。

 この委員会設置会社、つまり、執行役員制度を導入して、組織を縦割りにして、横の相互の協力連絡体制を無力化すると同時に、情報流通の機能を制約することによって、総裁、副総裁などの一部の経営陣のオールマイティー化とそれ以外の経営幹部の無力化、つまり、ある種の組織独裁を図るやり方である。最近では、あの新生銀行が、委員会設置会社を見直すということを発表した茶番劇があったが、この会社を一部の者で支配しやすくする、また、会社を細分化分断するやり方を、導入したのは、郵政公社時代の初代総裁である。もちろん、当時は郵政公社は、理事職があったが、それを有名無実化するために、はやりの委員会設置会社めいた執行役員制度を率先して導入したことを想像する。執行役員という、法律の裏付けのない、単なる執行役が手先となって、法的な地位の裏付けのある理事の仕事とその権限を無力化する役割を果たしたのである。委員会設置会社のやり方は、組織的に伝授され、わざわざ、こうした米国伝授の経営手法を教授する財団法人なども組成されていたから、巨大な陰謀が背景に存在する可能性が高い。

 例外もあるが、社外取締役も、いわば、同じ穴の狢とでも言うべき、経営者ばかりで、郵政公社、民営化後の日本郵政の社外取締役の顔ぶれを見れば、大同小異の市場原理主義を謳歌する経営者のオンパレードであった。わずかに、毎月数時間出席して意見を述べて、それでまともな経営が分かるわけがない。小泉・竹中政治を主導した御用学者も社外重役に起用されていたことも記憶に新しいし、ましてや、巨額の社員教育を受注していた女性経営者のことも記憶に新しい。外資のコンピュータ会社の会長も、多額の取引がありながら参加していたし、マッキンゼーのOBも、大学教授の肩書きながら入り込んでいた。

 ところで、この報告書は、そうした経営の基本問題に着いて、是正することは当然であるが、郵政民営化にともなう不正を追及するはずではなかったのか、あるいは、委員会が不正を追及しなくとも、今後の不正追及はどうなるのか。甘い汁を吸って、国民の財産を食い散らかした外国勢力と、日本の中の闇の勢力を野放しにするのか。米国では、金融機関の訴追が始まっている。日本でも、構造改革と称する日本破壊の中で行われた、数々の不正、私物化などを追求して法の支配の下に、引き出すことが必要である。西川前社長が、検証委員会の要請に応じないで出頭しなかったから、事情が分からなかったですむ話ではない。

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Corrupt Postal Privatization is rectified

明日18日13:00から衆議院本会議で郵政改革3法案の趣旨説明と質疑が行われることが17日夕方の衆議院の議院運営員会で決まった。いろいろな妨害や、政治宣伝が予想される。どのような勢力が動いているのか、そうした妨害が出たときに表面化するので、監視しておく必要がある。外国勢力も動いている。一部のマスコミが動く可能性もある。しかし、米国では、金融機関の規制がどんどん強化されてきており、数年前のようにわが世の春を謳歌するような情勢でないことは確かだ。日本の郵政民営化が虚妄であったことは、実は、世界中に知れ渡って来ている。国連の関係者なども、郵便貯金の廃止を、ばかげたことだ、むしろ公的な金融機関がある方が、市場が正常に機能することを主張している。わかりきったことが、民間金融機関のたがの外れたモラルのなさが、世界経済の破壊の元凶だったことは、明らかになったのだ。むしろ、郵政改革法案の議論を通じて、日本の金融の不正、あるいは外国勢力と結託した闇の部分が明らかにすることが必要である。外資の関係者も、そろそろ、内政干渉めいた脅しやすかしや、余計なお節介はやめて貰いたいものである。

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Cambodia

カンボジアの国王の来日で、晩餐会が開かれるが、それに関連した話題の報道があった。ちょっといい話。中身はすばらしい話である。すばらしい人々が、日本の国籍をとって日本人になっている。元々の日本人が誇りに思う。http://mainichi.jp/select/world/news/20100517dde041040051000c.html

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Irregular Google News

グーグルニュースで、何が起きているかを検索することがあるが、最近、韓国のマスコミの日本語版が、日本の新聞などと並列に表示されて戸惑うときがある。論調も違うし、もちろん、見方が違うのは当然であるが、もし、それが、プロパガンダの色彩があれば大問題である。

どこの国の新聞なのかを明示した方がいい。食品が原産国を表示しているとの同じである。

グーグルニュースの場合には、下部に日本と表示しているだけに、韓国や中国の新聞の日本語版であれば、それは、誤った表示であろう。

グーグル社には何度か指摘しているが、直そうという気がないらしい。国境を超えた情報流通であるから、どうでも良いと思っているかも知れないが、情報でも厳然として国境がある。それを超える場合には、政治宣伝だと思った方がわかりやすい。韓国や中国が巨額のカネを使って日本語版を出しているのはそれなりの理由があるのだ。日本の読者に影響を与えたいのである。特に国営の通信社の報道の日本語版は、国益が絡むだけに、ちゃんと識別されてしかるべきである。

グーグル日本版のニュースの欄の改善を求める。

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Marine Corps and Okinawa

海兵隊の簡単な解説が、時事通信のサイトにあった。お勉強の?為には役に立つか。単にご参考までか。

http://www.jiji.com/jc/v2?id=20100424us_marine_corps_in_okinawa&rel=j&g=ph

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Prosecution

アメリカでは、ゴールドマン・サックスの訴追が決定された。さて、日本では、ほとんど、全てがやり逃げ。郵政民営化など、濡れ手に粟の連中が逃げ切った気配である。検察は、刑事告発もあるのだから、ちゃんと捜査をすべきだ。そして、訴追すべきではないのか。http://jp.wsj.com/Finance-Markets/Finance/node_60920

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Postal Reform

あれだけ、郵政民営化を礼賛した朝日新聞が、最近変節したかのように、時期遅れのかんぽの宿の問題を記事にした異例があるが、英文の記事の方でも、国民新党の亀井静香代表の意見を、載せている。英文であるから、海外にもその主張が伝わることが前提であるが、今まで、郵政民営化反対の主張をまったく無視してきた朝日新聞にしてはこれまた、異例の動きである。ご参考まで。

Kamei: Japan must keep its traditions

BY KATSUYUKI YAKUSHIJI ASAHI SHIMBUN SENIOR STAFF WRITER

2010/04/29

photoShizuka Kamei (YOSHIYUKI SUZUKI/ THE ASAHI SHIMBUN)

Shizuka Kamei is known for his straight talk, hawkish views and no-nonsense way of getting things done. As head of the People's New Party (PNP), a junior partner in the ruling coalition, Kamei has rattled the Cabinet of Prime Minister Yukio Hatoyama by pushing his own agenda for postal reform and other policy issues.

This begs the question: What is his goal in teaming up with the Democratic Party of Japan--given that not so subtle differences exist between the two parties--and throwing his weight around?

Ousted from the Liberal Democratic Party for resisting postal privatization in 2005, the 73-year-old politician now serves as a state minister in charge of financial services and postal reform.

In a recent interview, The Asahi Shimbun asked him what he thinks about a state, how Japan can embrace globalization and the prospects for the current coalition government. Excerpts follow:

* * *

Question: The PNP, a small party with nine Diet members, is shaking the far larger DPJ. Doesn't that strike you as unnatural and unreasonable in a parliamentary democracy?

Answer: That view is wrong. Our arguments make better sense. That is why the DPJ has changed its policies one after another. If they (the party) don't agree, they should simply say no. In that case, we would naturally leave the coalition.

Q: Won't such bargaining end up distorting policies?

A: Not at all. It will change them for the better.

Q: As for policy goals, what do you believe is most important?

A: Conservatism, while cherishing the traditions and the soul of each community, tries to adopt what is good in the culture and the life of other regions and assimilating it. The role of politics is to make that possible. But that does not mean adopting and imitating everything; it would destroy the original community.

Q: Are your postal reform policies an extension of this way of thinking?

A: The postal privatization carried out by former Prime Minister Junichiro Koizumi was a form of politics that makes Japan no longer what it is. It was politics that destroys Japan's culture, life and traditions and instead allows U.S.-style best-always-wins and free-market principles to go unchallenged in any corner of society. As a result, rural, mountainous farming areas were discarded, leaving a society centering only on urban cities.

Q: Incidentally, is it true that you hold Ernesto Che Guevara, the leader of the Cuban Revolution, in great esteem?

A: Yes, I respect him. Guevara toppled Cuba's corrupt (Batista) government that exploited the people. He continued his fight against similar forms of corruption in neighboring countries until he was killed in Bolivia. I think his awareness of problems has universality in it.

Q: Are you sympathetic toward communism and socialism?

A: The collapse of the Cold War structure spelled the denial of socialism and communism. That led the way of thinking to gain strength that a state should not restrict individuals so free economic activities will be the norm. In Japan, Koizumi espoused that idea. It denies the Japanese way of thinking that seeks happiness for all. That led to the Lehman shock of 2008. I think the election of President Barack Obama in the United States and the birth of the Hatoyama administration in Japan were brought about by the "invisible hand of God."

Q: If Japan sticks too much to its own traditions, won't it be able to compete in the age of globalization?

A: It can. Japan has built its own social and economic systems, having a greater momentum than the United States during the era of high economic growth. Japanese-style corporate management, such as the lifetime employment system, led to success. Is it all right to just brush aside such know-how as being outdated?

Q: Won't Japan become isolated in the international community if it only looks to the past, not at reality?

A: Indeed, it is difficult to compete with countries with low labor costs. If Japan tries to curb wages to those levels, it inevitably will have to slash regular employees and increase the number of part-timers. But then Japan will no longer be Japan. While we cannot sever economic ties with other countries, it is also the role of a state to protect (jobs) with tariffs and by other means to cushion shocks from low wages abroad. Pursuing free trade agreements may be necessary, but I am against pushing them in the extreme.

Q: But wouldn't such steps go against international rules?

A: It's not good to rush to build trade barriers, but I do not think it is a civilized way of behaving to expose everything to competition. Just as Washington would often press Japan to open its market, it is natural for countries to clash over such issues.

Q: What is your view about accepting foreign laborers?

A: We should accept many more. It is wrong to close the door for security and other reasons. It would be better if people from various countries, regardless of race, work in Japan, marry Japanese and assimilate in society. Japan will not achieve growth unless it is an open country.

Q: Why, then, are you opposed to granting voting rights in local elections to permanent foreign residents?

A: In elections, voters get excited, giving rise to ethnic confrontation in communities. I'd rather they would be naturalized if they want suffrage.

Q: What if the DPJ says it no longer needs the PNP after the Upper House election this summer?

A: It's all right. If they no longer need us, let us dissolve the coalition. We have nothing to lose. We rose from the bottom of hell by forming a new party with only five members. That's our energy source. We will continue to push our own policies. That's our sole priority.

Independent Thailand

タイ政府の報道官は、日曜日のテレビ番組で、タイ政府は、今の争乱は国内問題であるから、国際連合を含手、国際機関の介入を求めないと言明した。

一方で、タクシン派は、国際連合を調整役として、政府側と話し合いに応じるとの声明を発表したばかりであった。

タイの外交のすごさは、独立を守り抜くために、外国の干渉を嫌うことである。この一点からみても、 タクシン派の動きは、外国勢力と連動していることを伺わせる。すでに明らかになっているが、タクシン氏は、モンテネグロの旅券を使って、世界を移動していることが明らかになっているし、また、アラブ首長国連邦のドバイを拠点にしているとも言われている。最近、米国の国務次官補が、バンコクを往訪した際に、タクシン派と接触したことについて、タイ外務大臣が駐タイ大使を喚問して、注意喚起したこともあった。世界的な市場原理主義の陰謀が背景にある可能性があり、タイの国体とも深く関わる事態である。ネパールで王政が廃止されたが、同様な動きを応用した可能性もある。タクシン政権は、民主主義を標榜していたが、実際は、放送局の私物化、新聞マスコミの弾圧など、タイの国民財産の私物化であったことは、すでに、タイのジャーナリストが激しく批判してきたとおりである。タイの貧困の格差は、実は、市場原理主義によってより拡大した可能性があり、構造改革が実は、構造改革であったことは日本の、小泉・竹中政治が、日本の国富を収縮させたと同様なことである。劇場政治で、国民の不満を、別のはけ口を作ったのも同じような政治宣伝のやり方である。

日本政府は、西洋の諸国の一部や北京のように、一方のタクシンの肩を持つことは避けるべきである。独立を保ったのは、タイと日本だけであり、また同盟国であった事実を噛みしめて、タイの独立保全の為にむしろ、外国からの干渉を妨げる貢献をすべきである。

最近のWTOの問題のように、西欧の誤った市場原理主義の使い走りをするような日本外交であってはならない。(郵政民営化法について、外国の外交官が口出しして、協議に応じるような愚を犯す動きが見られるが、国内問題だと一蹴すべきものである)タイの争乱は、そういう意味では市場原理主義が終焉を迎えた世界の中で、また日本が新たな自立・自尊の外交を取り戻す良い機会と考えられる。

日本は、国内の安定があったために、タイのように、国内の争乱を引き起こすだけの力は、外国勢力にはなかった。

Suthichai Yoon 3

タイの新進の若手小説家の、プラープダー・ユンは、スティチャイ・ユン氏の子息である。これまたご参考まで。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%B3

同氏の著作は、いくつか邦訳されている。日本を深く理解するタイ人が出現したことを喜ぶ。

Suthichai Yoon 2

海外の新聞に寄稿した、スティチャイ・ユーン氏の5月14日付けの記事である。実に興味深い記事である。タイを、構造改革で一世を風靡したが、マスコミの自由を奪い、中身のない劇場政治で、タイの国民をたぶらかして、東南アジアにおけるタイの安定を反故にしようとしているタクシンの罪状は重い。しかし、誰が真のボスなのかは分からないともしている。

市場原理主義の闇は深い。しかし、いつか、霧は晴れる。

ご参考まで。

[Suthichai Yoon] The moderates versus the hardcore

2010-05-14 16:44

Ask anyone behind the Red Shirt stage at the Rajprasong intersection why the protesters have failed to call off the rally despite growing signs pointing in that direction, the most frequent answer you get is: The hardcore elements won’t let us.

Ask critics of the Red Shirts why the protest leaders appear lately to have been in disarray, you will most likely be told: The hardcore elements are behind all the trouble. If you press for a more specific answer, your Red Shirt contact will only say: They won’t appear in public, won’t speak to the public and don’t want to be identified in any form.

So, is the hardcore the real “third hand” in this case? And what is the “softcore” doing about such major disruption?

It is, of course, difficult to say what really constitutes a hardcore element in the protest movement. If the whole purpose of the rally is to pressure Premier Abhisit Vejjajiva to dissolve the House to call a new election, are you a softcore or hardcore protester if you agree it’s time to call off the rally.

And by “hardcore” the analysts don’t necessarily refer to the armed Black Shirts who fired on protesters and soldiers -- or even rabble-rouser Seh Daeng who, with his ubiquitous army uniform, goes beyond the normal kind of hardcore politics. They belong to the militant arm of the movement.

In strictly political terms, just take the three Red Shirt leaders -- Veera Musigapong, Jatuporn Promphan and Natthawut Saikua -- as examples.

I have heard that within the inner circle, Veera is seen as a softcore leader. And don’t forget that he is officially the chairman of the Democratic Alliance against Dictatorship. He is seen to be too compromising in negotiations with the government.

Why the DAAD named him the movement’s chairman despite the fact that he is considered soft is beyond my limited comprehension. But if you ask some senior government negotiators, Veera may be the most reasonable man in the Red ranks. That means that someone considered soft by the Red s may be judged reasonable and mature by non-Red s.

Jatuporn, on the other hand, has been described as being too aggressive in trying to bring the rally to a fruitful conclusion. But I haven’t heard anyone among the Red Shirts or the multi-coloreds call him hardcore. That means he may just be somewhere between soft and hard -- or still indescribable as at this stage of the protest.

Then you have Natthawut who, according to several sources, is considered the most popular leader in the eyes of the Red crowd. That means he isn’t as compromising as Veera and not as hard-hitting as Jatuporn. But that doesn’t mean he is wishy-washy. In fact, my sources say that when crunch time came for some real negotiation with the government, Natthawut was dispatched to the scene instead of Veera and Jatuporn.

Nattawut is therefore not a hardcore leader for a very simple reason: He isn’t being blamed for any failure on the part of the Red Shirts. Not yet anyway.

It’s when rumors spread that Thaksin Shinawatra was thinking about naming a team of “second-generation” Red leaders to replace the present trio that the meaning of “hardcore” elements became clearer to me.

The speculation puts Arisman Pongruangrong, Supon Attawong and Kwanchai Praipana on the new leadership list. I am not sure whether you can call them hardcore operators. But their names have become known not because of their negotiation skills. Rather, they have been invariably identified as the roughnecks of the protest, assigned mostly to missions that require confrontational tactics.

Are they the rumored “hardcore” elements reputed to be derailing the negotiation process? Not really. Kwanchai quietly told one reporter that he was ready to pack up and go back to his Udon Thani base. Arisman, despite his tough talk, was uncharacteristically quiet when the crucial decision of whether to climb down or to fight on was being discussed.

And the man on whom hope of a settlement to end the rally was pinned throughout the past week -- Natthawut -- was the one who went on stage on Tuesday to announce that the fight was far from over.

Therefore, my conclusion is: The real hardcore elements aren’t up on stage keeping the crowd awake throughout the rally. They are the invisible, third hands who report directly to the Big Boss.

Yes, Thaksin Shinawatra may end up being the super hardcore element who is doing everything possible to subvert the peace process.

His main question: What’s in it for me?

Suthichai Yoon

タイのもっと著名なジャーナリストは、スティチャイ・ユン氏であろう。日刊紙のネイションの編集者として、活躍してきた。ブログがあるので。ご参考まで。

http://suthichaiyoon.blogspot.com/

次は、ハーバード大学にある、ジャーナリスト育成をしているニーマン財団の報告である。

http://www.nieman.harvard.edu/reportsitem.aspx?id=101381

スティチャイ・ユーンしが、1980年に、ニーマン財団の研究員をしていたことが分かる。

内容は、当時のタクシン首相が、いかに言論の自由を抑圧、弾圧しているかという主張である。タイの放送局を私物化していること、政府批判の拠点である新聞メディアを次々と圧力をかけて、タクシン政府に協力しない新聞を閉鎖するように圧力をかけていると指摘している。2002年の2月に、ファーイースタンエコノミックレビュー誌の特派員二人が、警察の捜査を受けて、国外追放になりかけた事件があったが、その際の内幕、つまり、タクシンと王室との間に諍いがあったのではないかと書いている。また、ロンドンのエコノミスト誌が、タイで発売禁止になったのも、タクシン批判があったからだと解説している。

タクシンのやり方は、9.11の後に、ブッシュ大統領がした問題発言と同じで、味方でなければ敵だ」との黒白の単純に文化論であると指摘している。(日本でも、小泉政治の中で、黒しか白かの選択が、刺客選挙となって行われたが、同様な現象である。)ましてや、ジャーナリストが、ジャーナリストとして普通の行動をして、政府批判をすれば、直ちに国家の敵にされた。

確かにタクシンの政府は、ポピュリズムで圧倒的に支持を得ていたが、それは、総理大臣が、新しいビジネスを大事にするというイメージが振りまかれ、徹底した改革を行うと言う約束が人気を博したのである。(日本の劇場型政治の小泉の手法と同様である。もし、世界的に、市場原理主義がアジアの政治に組織的に介入して、こうした同じような政治宣伝の手法を背後で操っていた可能性もある。)そのうちに、タクシンは、自分たちに批判的なマスコミ報道を射撃するようになったという。記者が攻撃目標となり、広告が引き上げられた。

「.

By Suthichai Yoon

The paradox is highly disturbing for a country that boasts an enviable free press in Southeast Asia. Thailand is supposed to be on the road of political reform under one of the most liberal constitutions. For the first time, protection for professional journalists in pursuit of their investigative reporting is clearly spelled out in the Constitution. And ownership of the broadcast media is to be privatized to ensure the sanctity of the public’s right to know and access to information. The country’s broadcast frequencies are going to be deregulated and laws enacted to break the tightly held monopoly.

But doubts are growing as to whether the government is serious about reform. In fact, there have been clear signs that the press reform agenda has been derailed. And the populist prime minister has placed himself right in the middle of the controversy.

Recently, the Thai Journalists Association felt compelled to issue a statement to protest against what the Thai journalists considered to be the government’s most glaring intimidation of the free press in more than a decade. Generally known to be one of the freest in Southeast Asia, the press in Thailand is under threat, and this time the source of the clampdown isn’t military dictators. It’s from an elected civilian government whose leader, the country’s richest businessman, interprets an overwhelming electorate majority as a license to silence all critics.

Prime Minister Thaksin Shinawatra has virtually complete control over the broadcast media. All television and radio stations are, by law, government-owned and state-run. The only privately owned TV station, iTV, was acquired by the prime minister’s family just before the January 2001 general election. Soon after Thaksin took office in February 2001, a number of television and radio programs containing independent political commentaries were taken off the air, replaced by pro-government news slots. Existing radio program hosts got telephone calls from “people close to the government” reminding them that they were supposed to help the government solve the country’s problems and that critical remarks about the powers-that-be, including interviews with members of the opposition parties, would be considered unpatriotic. This has dealt a fatal blow to the fledging attempt to inject lively debates on TV and radio about the country’s attempt to bring about political, economic and social reforms. The hope for these discussions was to avoid repetition of the 1997 Asian economic crisis that originated in Thailand.

The Thai print media, which have been the traditional bastion against censorship and press muzzling, have come under a more subtle kind of press manipulation. Newspapers considered “critical” of the government have had their advertisements pulled, first by the advertising agency owned by the prime minister’s family, then later by state enterprises under government control. Toeing the government line brings financial rewards. “Friendly” newspapers have been pleasantly surprised by the increased advertisements from business concerns related to the country’s CEO’s empire.

It would, of course, have been much easier for a leader who brooks no criticism to just close down a newspaper that refuses to be “cooperative.” But a vigorous campaign by the local reporters a decade ago had resulted in the abrogation of a law that gave the powers that be such all-embracing control over the print media. But power-hungry politicians will always search for legal loopholes and hidden tools to scare off those they can’t get onto their side with money and other rewards. They have resorted to underground methods to discredit and intimidate journalists who insist on performing the task of being the society’s faithful watchdogs. The Anti-Money Laundering Office, which comes under the prime minister’s office, dispatched “confidential orders” to the country’s top commercial banks to hand over the bank statements of certain prominent journalists and their family members. It was, of course, no coincidence that the targeted journalists in this “secret operation” were those who had consistently criticized the prime minister and his cabinet members’ performance.

This happened in February 2002. The timing of this incident was duly noted. The Thai police had, in that same week, just threatened to deport two reporters from the Far Eastern Economic Review for having written an “intelligence” item suggesting tension between Prime Minister Thaksin and the royal palace. This, it seemed, was the culmination of the prime minister’s displeasure with the foreign press that had generally been critical of the Thai government’s overall performance and had cast probing questions about the blatant cases of clear “conflicts of interest” related to Thaksin and some of the businessmen he had named as cabinet members. A special report published by The Economist, offering a critical review of the government’s performance, was also banned from distribution.

The foreign press was castigated for being “ignorant” and “biased.” For the first time in a long while, foreign correspondents who had enjoyed a reasonable degree of freedom reporting from Thailand came under the government’s suspicion of “colluding with foreign business interests” to undermine the Thaksin government. The conspiracy theory did not end there. Local newspapers considered “uncooperative” with the government have been accused of “accepting money from foreign interests” to subvert the current government.

Soon, it was clear that the Thaksin government was paraphrasing George W. Bush’s controversial declaration in the wake of the September 11 terrorist attack: “If you are not on our side, you are with the enemy.” It was also obvious that any reporter carrying out his or her normal duties as a professional journalist would be considered an “enemy of the state.” Editorial independence is frowned upon by editors closely linked to the government.

Thaksin’s party was elected with a staggering majority in the House of Representatives reflecting an unprecedented public support for his populist platform. He rode the wave of a slogan promising sweeping change and reform. The Thai press in general, sensing a major shift in the public mood clamoring for a “new business-oriented manager” in the political arena, gave him the benefit of the doubt for the first few months in office.

But responsible journalists were also posing tough questions about broken promises and underperformance in some glaring areas, especially in the crucial area of economic and political reform. Instead of promoting a national discourse on why some of the major planks in the election platform are beginning to unravel, the Thaksin government chose to shoot the messengers delivering the bad news that some of these grand plans just aren’t working out as promised.

The ongoing clampdown on the Thai press has effectively dimmed one of Thailand’s few bright spots in the wake of a desperate attempt to restore confidence in the future of a country determined never to return to the dark age of “money politics” and press censorship again.

The Thai press has gone on full alert over the revival of government attempts to curtail the public’s freedom of expression and intimidate those who report, analyze and interpret events affecting every vibrant society. This latest episode has taught Thai journalists another valuable lesson: We can never take press freedom for granted, and constant, effective vigilance is the only answer to making sure that the right to disagree with the establishment will always be with us.

Suthichai Yoon, a 1980 Nieman Fellow, is group editor in chief of Nation Multimedia Group in Thailand.

Barbarian death penalty

新聞を余り読まないが、ネットで驚くべき記事に出くわした。北京政府が日本人四人に死刑を執行したというのである。しかも、それが国内問題だと主張した由であるが、日本政府は日本人を、守る義務がある。シナは法治国家ではないことはよく知られているし、冤罪の可能性すらある。問題を起こさないようにして、日本人が死刑にされることを見逃してしまおうとすることは、国の体をなしていないのではないか。総理の発言も事実であれば、驚くべき軽さである。http://sankei.jp.msn.com/world/china/100410/chn1004100331000-n1.htm

事実、中国は怖い国なのである。

世界中の各国の監獄に、いろいろな事情で日本人が捕まっていると思うが、外交当局はちゃんと法人の保護をしているのであろうか。おそらく余りしていない可能性がある。犯罪者であると予見して、釈放させる努力がどのくらい行われているのか、まったく疑問を感じるようになった。情けないことである。当ブログは不勉強で知らないが、政府がこうしたていたらくであれば、弁護士の団体などで、日本人救出に当たっている団体があるのだろうか。

Competitive Power

国際競争力ランキングというのがある。根拠がないランキングで、市場原理主義に都合がよいように操作しているランキングである。それをみて、構造改革しないから国際競争力が落ちたなどという具合に使われた。例えば、ニュージーランドなどは、構造改革をして国を一時期潰したが、そのときには、世界一の競争力であった。日本の経済新聞などは、ニュージーランドを褒めそやしたものだ。郵政民営化などは、あっという間に失敗した。

国際競争力なる概念のおぞましさについて、論考がネットにある。ご参考まで。http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/a408fb7648d00bd499bda1db2969d3ed

Asahi reports Postal Privatization Scandal

あれほど、社説をあげて郵政民営化を推奨していた朝日新聞が、今頃になって、郵政民営化のスキャンダルの一部である、かんぽの宿の売却のいかさまについて報道している。そんな内容は、先刻承知のことであり、大マスコミが報道して今更の話であるから、むしろ、朝日新聞が報道することがなぜだろうとの疑問の方が先に立つ。郵政改革法案が、国会で議論されようとするときに、外国勢力の介入も伝えられ、また、日本の省庁の中にも、外国勢力におもねっている向きもあるとつたえられるおり、なにか、陰謀でも隠れているのかと身構えてしまうような記事である。ご参考まで。西川民営化後が話題になっているが、生田正治氏が郵政公社総裁であったときの不正についても、光りが当てられてしかるべきである。ゆうちょリゾートの超格安売り払いについても、報道されてしかるべきである。Photo Photo_2

http://www.asahi.com/national/update/0515/TKY201005150343.html

Foreign educational infiltration

最近気がついたことであるが、外国の大学の日本キャンパスと称して、また、生涯教育のプログラムなどとうたって、いろいろな分野での、土曜日や、日曜日の若い社会人向けなどの授業を英語で行うということが行われている。そこでは、外国人の講師がおり、外国語で授業を行っている由であるが、さて、さて、反日的な、あるいは、市場原理主義的な主張が一方的に行われている可能性はないだろうか。特に、外国語を教授することはいざ知らず、日本語を使用しないで、日本のまっただなかで、日本人から授業料を聴取して、自分たちが優れているかのように教授するのは、いかにも了見の狭いことではないだろうか。むしろ、日本を訪れた外国人に対して、日本理解の教育をするならともかく、日本人の外国崇拝の風潮を利用して、この際と言わんばかりに、日本語をも捨てた授業を行うことが、高等教育機関としてはあるべき姿ではない。こうした外国の影響を強く受けた教育機関を野放しにしてはならない。自立・自尊の日本の観点から適切な規制を行う必要がある。

事実、そうした外国大学の日本キャンパスの教授を名乗る者が、東京だけがコスモポリタンの首都になっていないのは残念などと発言しているのを聞いたことがあるし、そこの経営幹部が、外国商工会議所で、日本の経済構造改悪をどうのこうのと指図する報告書の執筆者となっていることを発見したもある。外国政府の間接的な支援を受けている可能性もある。要注意な現象である。また、最近では、ネットで、あちらこちらに広告も出しつつあり、公然活動に踏み切っている気配である。まさか、文部省あたりが、補助金などを出していないとは思うが、調べてみる必要がある。外国人学校の、国や地方の支援の問題があったが、それよりも、内容は深刻な問題である。

Thailand summons Ambassadors

興味深いニュースです。日本とは普天間問題のことで、よく知られている名前のアメリカの国務次官補が来タイして、タクシン派の政治家と会合したことを不満として、タイの外務大臣は、在バンコックの米国大使を呼び出して抗議したとの話である。今回のタイの争乱の背後には、中国やイギリスなどの市場原理主義の動きが感じられるが、米国の動きの片鱗が感じられるところである。米国は民主主義という言葉に弱いが、赤シャツのデモが英語で看板を書いて、民主主義擁護を主張しているのは、英語を話す外国のメディア向けの主張である。タイは、3月頃に、アラブ首長国連邦の大使を外務省に呼んで、タクシンが、ドバイを反対政府運動の拠点にしないように、表明している。また、最近では、タクシンが、モンテネグロの旅券を使って旅行をしているが、モンテネグロを政治活動の拠点としないように、モンテネグロの外交当局が忠言したとの報道があった。(旅券をどんどん発行するのは日本では考えられないのであるが、一部の国では、カネでどうにでもなるらしい)。いずれにしても、タイには、自立・自尊のタイを求める伝統が根付いている。タイは、日本と同じように、植民地にならなかった世界の国のひとつである。外国からの干渉を嫌い、綱渡りの得意な、外交の教科書になるような国である。外国からの陰謀の鎮圧を期待したい。

BANGKOK, May 10 (TNA) - Thailand's Minister of Foreign Affairs has summoned US Ambassador to Thailand to protest and express the Thai government's disappointment after the meeting between US Assistant Secretary of State for East Asian and Pacific Affairs Kurt Campbell and Thai politicians having close ties with convicted former prime minister Thaksin Shinawatra and involved with the anti-government protest, according to secretary to the foreign minister, Chawanon Intharakomansut.

Mr Campbell on Sunday met Chaturon Chaisang, former acting leader of the now disbanded Thai Rak Thai Party which was founded by fugitive ex-premier Thaksin, and former foreign minister Noppadon Pattama who is legal advisor to Mr Thaksin to discuss the political situation.

Mr Chaturon had often appeared on stage of the anti-government 'Red Shirt' United Front for Democracy against Dictatorship (UDD) at Ratchaprasong intersection to attack the government.

Mr Campbell stopped over in Bangkok on his way to Myanmar to meet detained democracy icon Aung San Suu Kyi.

Mr Chawanon said Foreign Minister Kasit Piromya had met US ambassador Eric G John for 45 minutes when Mr Kasit expressed uneasiness with the move as he feared that the meeting could be drawn into the political conflict.

He urged the US to understand and realise the sensitive nature of Thai politics, particularly after the peaceful demonstration had changed after the April 10 incident when a still unidentified armed group mingled with the protesters and used military weapons to attack Army troops and protesters alike.

Mr Chawanon said that Mr Kasit had asked the US to exercise caution before meeting with any group as it could be used and claimed to benefit such groups.

Mr John told Mr Kasit that the US government fully backed Prime Minister Abhisit Vejjajiva's five-point road map for national reconciliation and restore normalcy to the country.

Mr Chawanon said he also urged the government to avoid using force to control the protesters.

Tokunosima

東京で、五月15日に行われた、徳之島に米軍基地を移転することに反対するデモの様子です。

American trade practice is unfair.

There is a news report that Ambassadors at the World Trade Organization in Geneva is going to convene to lodge a complaint about surrounding the Postal reform. Toward the end of March there was also a repost that the US Trade representative in Washington D.C. are especially complianing the Japan's Postal reform to raise the deposit cap at the Postal Savings Bank citing citing an unidentified U.S. official at the Office of the Trade Representative.

And further news reported that a trilateral meeting involving the ambasssdor level officials from EU, US and Japan will convene consultative meeing in Geneva.

The news reported that the US Trade representative office is concerned raising the cap at Japan Post’s banking unit would give it an unfair advantage over foreign companies.

Postal Privatization in Japan was heavily influenced by the villains of the Wall Street including the financial sharks including the Government Sachs and the dark side of the transactions of the foreign interests should be revealed out. At the momoent when the Fool's Gold are no more existend and it is ridiculous for the foreing trade negotiators to preach and support the neo-liberal economy when Obama government maintains the state enterprise of the United States Postal Service and there are strong voices to establish the simiolar post bank in the country for the universal financial services for all walks of life.

Japanese ambasasdors should not participate in the conspiracy meetings and refrain from the tyranny of the market fundamentalism.

Japanese Post Office is not any more state enterprise and it is not adequate to be regulated under the WTO rules and regulations. Japan Post is not totally supported by the tax payers money and no subsidy from the Governmet, it should be only left under the healthy and well balanced principles of economy.

Financial scandals involving American companies should be investigated. For instance the memorandum or records of discussions between Mr Zoelick, former USTR and then Minister, reportedly met more than thirty times, should be disclosed. Those governments should pay attention to the Shinsei bank and other financial take over scandals.

Intervention into the domestic affairs such as the Postal reform should be stopped. Pretending to be a superior business models in Europe and US were not necessarily a productive one. Trade negotiators should not represent only a handful minority businessmen and rather shoud represent the stabilizing factor of the world economy.

An introduction to the Imperial Cruise

ジェイムズ・ブラッドレー氏の著者、インペリアル・クルーズを、二回読んだ。読み尾としたところもあると思うが、その概要をまとめてみた。何かのご参考になればと思う。日米関係が揺れ動く中で、長期的な安定をどうするか、自立・自尊の日本を作り上げて行くにはどうするかを、考えるきっかけになればとも思う。もちろん、大それたことでなくとも、気楽に読んでいただければありがたい。間違いもあることと思うので、その際は指摘していただけるとありがたい。

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日米関係史を書き換えるような本が出版された。ジェイムズ・ブラッドレー氏による「インペリアル・クルーズ」である。 同氏の最初の著作は、「父親たちの星条旗」(文藝春秋から邦訳が刊行され、クリントイーストウッドによって映画化される)で、

二作目が日本に撃墜された戦闘機乗員を描いた「フライヤーズ」(なんと、父島で撃墜されたジョージ・ブッシュ元大統領をふくめてと硫黄島を訪れている)で、第三作である。日本の真珠湾攻撃があり、アメリカが太平洋戦争に加わって行く過程を調査しているうち、火の手が上がる前の煙がどこから出ているのか、たきつけ元がどこであったかに関心を寄せたという。

1905年の夏に、テオドア・ルーズベルト大統領は、アメリカ史上最大の外交使節団をハワイ、日本、フィリピン、シナ、朝鮮に派遣する。ハワードタフト戦争省長官(今の国防長官に相当か)を団長にして、7人の上院議員、23人の下院議員と政府職員、議員の配偶者など総勢80人で構成される大外交使節団である。ルーズベルト大統領の一人娘でじゃじゃ馬娘のアリス嬢が参加して、 一方では「アリス姫」として新聞のゴシップ記事を賑わす役割を果たしていく。

この外交使節団は、大統領に代わって、アメリカが太平洋に進出する基本となるような秘密の協定を各国と次々と結んでいく。ブラッドレーによれば、このルーズベルトが結んだ、アメリカ憲法に違反する秘密の協定が、太平洋戦争の遠因となり、シナにおける中国共産党の勝利を生み出し、朝鮮戦争の引き金となったと解説する。つまり、テオドアルーズベルトの秘密のアジア政策と協定が存在したことは、大統領が死ぬまで知られることがなく、また、歴史の教科書からは抹殺されてきたのではないかと主張する。この代表団のアジア巡航をアメリカ帝国の巡航、インペリアルクルーズと題して、アメリカの太平洋政策の真実と世界を震撼させた結果を再発見しようとする。

代表団が乗った船は、マンチュリア号27千トン、幅65フィートの大型船である。

単行本の最初に、代表団を乗せたマンチュリア号の航跡が掲げられている。サンフランシスコを出港して、ホノルルに寄港して、そこから横浜に向かう。横浜から長崎経由でマニラに向かい、マニラから、フィリピン南部のザンボアンガを経てマニラに戻り、そこから、香港、翌日には広東、上海、タフト団長は上海から横浜経由で、本国に戻っている。アリス姫は、北京に向かい、そこから、朝鮮のソウルを経て、下関経由で東京に戻っている。

東京からの帰国は、なんと十三日間でサンフランシスコに戻るという、太平洋横断の快速船の話題作りもしている。

さて、第一章は、百年後と題して、1900年10月9日付けのルーズベルトの発言、「米国が太平洋の両岸で優越的な大国となることを希望する。」を引用している。さらに、「我々の将来の歴史は、ヨーロッパに面する大西洋における米国の地位よりも、中国に面する太平洋における米国の地位の如何で命運を決する」と述べている。ハワイは、1898年に併合したばかりであるし、フィリピンはシナへの橋頭堡と考えられていた。ルーズベルトは、外交を、棍棒を抱えながら、柔らかく話をすることと、と警句を頻繁に述べているが、この2005年のインペリアルクルーズは、大きな船の棍棒であった。この大代表団の巡航が太平洋戦争、中国共産党革命、朝鮮戦争、そのほかの緊張の遠因となったのである。ンが日本2005年の夏に、著者のブラッドレー氏は、巡航の跡をたどる。桂・タフト協定が結ばれ、日本の朝鮮半島進出を許した。同時に、日露戦争の仲介者として、ポーツマス条約を結ばせることになる。実に1906年には、ノーベル平和賞を受賞することになる。日米間の秘密の電報の往来の内容が明らかになったのは、ルーズベルトの死後のことである。ブラッドレー氏は、フィリッピンのザンボアンガも、ボディーガードを付けての旅行で訪れる。1902年7月4日に、フィリピンにおける米国の戦争は終わったはずなのに、百年が経っても、当時のタフト長官の演説を受け入れていないことを知る。アメリカ軍は、百年後の今も、平定された筈の町の近くで戦闘を続けていることを知る。

1905年の巡航の際には、シナ大陸では米国製品のボイコット運動があり、来訪したタフト長官に抗議をして、貿易が中断されている。1905年の米貨ボイコットが、シナの民族主義を刺激して最後に革命をもたらし、1949年の中米断交をもたらした原因であるとする。

アリス姫が、朝鮮皇帝と乾杯をしたソウルを訪れる。朝鮮は1882年に開国して、最初の和親条約を米国と結んでおり、アメリカは我々にとって年上の兄のようだと皇帝は語っている。ルーズベルト大統領は、日本が朝鮮を保有することを希望すると考えていたことを知らなかったようだ。アリス姫が訪れた二ヶ月後に、アメリカはソウルの大使館を閉鎖して、日本軍のてにゆだねた。アメリカは、沈みゆく船から慌てて逃げる鼠のように朝鮮を脱出したのである。日本の拡張政策に了解したが、数十年後に、もう一人の、フランクリン・ルーズベルトは、テオドア・ルーズベルト大統領の秘密外交を血であがなう行動に出るのである。1905年以来、米国はアジアで4回の大戦争を闘っているが、多くの命が失われた。ルーズベルト大統領の秘密外交は、歴史に埋もれて、アメリカ人のベニボランスという、とても日本語にはならない、神話のせいで、大統領はほとんど間違いがなく、男性的であるとの受け止め方であるが、100年も経ったからには、崖から突き落としたのは誰なのかをはっきりさせる必要があろう。ブラッドレー氏は、インペリアルクルーズと呼ぶ、米国史上最大の外交団のアジア諸国巡航を跡づけることで、一冊の単行本ができあがった。

第二章は、文明は太陽を追い求めると題する。

アリス姫は、ルーズベルトの最初の妻である、アリス・リーとの子供で、アリス姫の生まれた1884年2月12日の二日後に死んでいる。ルーズベルトは、最初の妻を忘れるかのようで、アリス姫と後妻となったエディス・ルーズベルトととの関係はよくなかった。大統領は後妻との間に、5人の子供が生まれている。さらに、ルーズベルトがもともとはベストセラー作家で、宣伝の学徒であったとしているが、そのやんちゃなアリス姫を、カリブ海の植民地や、キューバ、プエルトリコ等に派遣している。アリス姫は家族を離れたいとしたようで、後に姫が結婚することになる、オハイオ選出のロングワース・下院議員も乗船している。巡航団の団長のタフト長官は、フィリピン総督の発令を受けている。タフトがフィリピンをアメリカインディアン、原住民と同じような地位にあると解釈していることが、フィリピンをWardと読んでいる事から分かる。1898年にフィリピンの自由を求める人々は、スペインの植民地から解放されて、アメリカが支援して独立できる期待していたが、アメリカは、フィリピン人25万人を殺戮して、自分の植民地にしてしまった。

タフト総督は、フィリピン人が独立する能力がないと言い続けている。ルーズベルト統領が、ベストセラー作家として、自分がライフル銃で、白人キリスト教徒が、劣った人種を文明化することが、男らしいとのイメージ作りに躍起になったことも書かれている。

   

白人至上主義の淵源について触れている。アーリア人が、今のイランあたりのコーカサス地方から発して、アーリア人の血統を維持しながら西漸するという神話である。チュートン民族が純血のままドイツの森に居残って、太陽を追って西漸するという、白人の神話である。アングロ・サクソンの登場である。文明の三原則があり、それは、白人が全ての文明を創ったこと、白人が純血を保つときに文明は維持され、混血によって文明が失われるとされた。アングロ・サクソンが大西洋を渡り、北アメリカに達して、アメリカの白人は原住民の人口をプリマスからサンフランシスコ湾に至るまで抹殺、虐殺したのである。アメリカの建国に歴史の中での白人至上主義の残存についても解説する。十三州で建国したアメリカが、西へ西へと大陸を横断して、アメリカ原住民の殺戮を続けながら拡大していく血塗られた歴史を詩人や学者の主張で跡づけていく。1800年代に認識された社会科学も、白人至上主義を追認するものでしかなかった。二グロは従者にしか過ぎず、アメリカ原住民は殲滅を運命づけられているとしている。ルーズベルト大統領は、白人至上主義の先例を受けており、公式写真もライフル銃を片手に馬に乗った写真などを撮らせて、例えば、ホワイトハウスの中でテニスをすることなどは、軟弱なこととして公式写真など撮らせようとはしなかった。ルーズベルト大統領は、多少ひ弱な感じすらある青年時代であったが、白人至上主義の男らしさのイメージを出すために、西部の牧場で狩りをする話を全面に出している。1884年から86年まで、15ヶ月間を西部の牧場で過ごしただけで、しかも厳冬は避けて、マンハッタンと行き来していたのであるが、西部で過ごすというのは、ルーズベルト大統領の政治家としての出世の為の政治宣伝でしかなかった。コロラド州のアスペンが金持ちの子息のたまり場になっているように、当時は、ダコタテリトリーが、そうしたルーズベルトのような、金持ちの御曹司の生活場所であった。1886年、西部の男としてのイメージを作り出した後に、ニューヨーク市長選に出馬する。なんと、ダコタのカウボーイという触れ込みである。アメリカ人のアーリア人が、大陸を文明化したことを美化する本を4冊出版している。その4冊目を出版してから丁度4年後に大統領に就任することになった。

第三章は、ベニボレントな意図と題されている。

米国陸軍の基地が町になっていったが、同様に海軍力が太平洋に展開したのが、マッキンレー大統領の時代で、海軍長官補を務めたのが、ルーズベルトであった。

1844年にジェイムズ・ポークが大統領になった頃はまだ、小国で、ミシシッピー川までの領域であった。「太平洋に直行せよ、それが白人の運命であり、アングロ・サクソン人種の天命である」として、ポークはメキシコに出兵して、メキシコから、テキサス、ニューメキシコ、コロラド、ユタ、ネバダ、そしてカリフォルニアを奪取する。ミシガン州選出のルイス・キャス上院議員は、メキシコ人はいらない、領土がほしいのだと、発言している。

1890年のウーンデッド・ニーの虐殺の写真も掲げられている。アメリカの原住民が滅ぼされた証拠写真である。原住民が殺されて穴に放り込まれている写真である。すなわち、アメリカのフロンティアが消滅したことになったが、1893年には、大不況に陥っている。

19世紀末に、イギリスは50の植民地を持ち、フランスは、33,ドイツは13,ポリネシアの98%は植民地となり、アフリカの九割、アジアの56%が植民地となり、ただの七カ国が独立国であった。アメリカ陸軍が、大陸を横断して、海軍に引き継いだ。マハン大佐の出番である。アメリカの海軍は国境防衛を任務としていたが、攻撃任務を強調するようになる。マハン海軍大佐は、太平洋をつなぐリンクを造り、中央アメリカに運河を開鑿して、カリブ海をアメリカの湖とすることを提唱した。マハンの著書、海軍力の歴史に与える影響について、ルーズベルトが絶賛する書評を、アトランティックマンスリーに書いている。

マッキンレー大統領の写真が掲げられ、米国の軍隊が外国を侵略したときに、ベニボレントな意図で行ったという考え方を広めた大統領であるとしている。マッキンレーの時にルーズベルトは海軍長官補に就任するが、ワシントンの一大事は、ハワイ併合の問題と、キューバ侵攻を行うか否かの問題であった。ルーズベルトは、スペインに対する主戦派であり、カリブ海地域での戦闘の他に、海軍力でのフィリピン攻撃を提唱した。

アギナルド将軍の悲劇についても語る。アギナルド将軍は白人ではないが故にフィリピンという国家を統治するのにふさわしくないとの烙印を押される。アギナルドの最大の間違いは、アメリカが非白人の独立を認める可能性があると信じたことである。アギナルドは、米国憲法を詳しく読んで、植民地支配に権限がないことを知っているので、怖くはないと、短命のフィリピン共和国の閣議で発言したことがある。

1898年2月15日にハバナ港で、200人の海軍水兵が死亡するメイン号の沈没事件が発生して、スペイン側に責任は見当たらなかったが、マスコミは、対スペインの開戦を大々的に書き連ね、渋るマッキンレー大統領を非難した。ルーズベルトは海軍長官補として、主戦論を主張した。ルーズベルトは、キューバ侵攻に参加しているが、志望するという、メイン号キューバの兵が、黒人で構成されているのが気にいらないことの最大要因であった。ルーズベルトは、アメリカ白人の生きた広告塔としての役割も果たした。更には、スペイン人は白人の片割れであるから、キューバ人の参加は認めなかった。グァンタナモ湾が海軍基地として割譲されたのもこのときである。キューバの独立を認めることはなかった。ルーズベルトが、ワシントンで太鼓をたたき、香港駐在のジョージ・デューイ海軍元帥がマニラ攻略の作戦を練った。アギナルドは、フィリピン独立を書面で確約するように求めているが、アメリカは約束を守ると言い含めるが、後の歴史は、決して約束を履行しない事を明らかにしている。デューイは、マニラ湾に出撃したが、マニラ湾を米海軍が支配しただけで、他のフィリピンは、アギナルド将軍を長とするフィリピン革命軍が支配していた。フィリピンの初めての独立記念の祝賀が、1898年1月12日にあったが、その後に祝われたのは、なんと64年後であった。マニラの領事は、アギナルドの政府が、つまり、太平洋の二グロが800万人の人口を統治できるわけがないと書いている。ニューヨークタイムズなどは、アギナルド酋長などと読んでいる。マニラにおいても、ハバナの場合と同様、白人であるスペインとの妥協が、秘密の内に行われ、首都をフィリピンの原住民である、フィリピンの二グロに渡さないようにとの出来レースが行われた。ルーズベルトは、マニラがシナとの中継貿易港になるとの判断であったが、単に香港にアメリカの倉庫を借用すればいいだけの話であったのかもしれないが、アメリカがフィリピンで犯した過ちを身にしみて知るのは、ずっと後の事であった。

アメリカの対外行動の原理を端的に示す言葉は、ベニボレント(benivolent)という言葉である。日本語では「慈悲」とも訳されるが、本来の意味は「言うことを聞く者には慈悲が与えられる」という意味でもあり、それは、言うことは聞けばキリスト教を伝えて文明を教えるが、ダメなら抹殺しても問題ないという考え方である。

第四章は、太平洋の二グロと題する。つまり、フィリピンの物語である。

フィリピンを植民地化すべきか否かの議論があったように、教科書は書いているが、1832年に、すでに最高裁判所は、はくじんのキリスト教徒の男性を、アメリカ原住民のwardとの決定を行っていた。確かに、アメリカ反帝国主義者連盟が組成されて、フィリピンの併合に反対する動きも見られたが、「適者生存の法則で、弱い人種が強い人種に支配されるのは当然で、アメリカの人種が地上でもっとも強力であるから、致し方ない」との見解が圧倒的であった。マッキンレー大統領の論理は、帝国主義という言葉を使わずに、他の人種に哀れみを感じるのであれば、キリスト教徒として援助する義務があるという論理を採用した。イギリスの詩人、キプリングは、白人の重荷と題する誌があるが、副題にはアメリカとフィリピンという副題が付けられている。アギナルド将軍の統治が機能している事をも隠してしまった。1899年の2月4日、突然米軍はアギナルド政府を攻撃して、24時間で三千人のフィリピン人を殺戮している。西部のアメリカ原住民が虐殺された、ウーンディドニーの事件と同じように、円形の溝が掘られて、アパッチ族やシウク族と同様に屍体が投げ込まれた。フィリピンは、スペインから、太平洋の二グロ一人あたり二ドル、つまり二千万ドルでスペインから割譲されたとの論理で、アメリカ人はいい買い物をしたと信じていたが、百年後にバグダッドを制圧すれば、イラク全土を支配できると誤算したのと同様に、デューイ提督は高い買い物になると指摘していた。米軍のフィリピンにおける狼藉は目を覆うものであったが、時の3代目の総督アーサー・マッカーサーは、米国上院で、アメリカはアーリア人の末裔であり、軍事力を使って、西漸していると発言したが、とがめた上院議員は誰もいなかった。水攻めの拷問も日常的に行われている。水治療と名付けている。天井から逆さにぶら下げることを、ロープ治療と呼んでいる。米軍は、フィリピン人を傷つける数の4倍を殺した。1899年の随筆で、ルーズベルトは、平和は戦争を等してのみ達成されると書いている。1900年になって、軍人のマッカーサーに代えて、文民のタフトを登用したのが、マッキンレー大統領であった。タフトがマニラに総督として赴任したときには、誰も歓迎する人の姿はなかったという。マッキンレーは、大統領選挙に、ルーズベルトを副大統領として、選挙に打って出る。ルーズベルトは、41歳である。1901年3月23日には、米陸軍はアギナルドを逮捕する。アギナルドは敗北宣言を行う。1901年に軍政から民政に変わり、タフト総督はマラカニアン宮殿に居住する。カラバオと呼ばれる水牛に乗るタフトの写真も残る。米軍によってカラバオの九割が殺されたため、フィリピンの列島で飢饉が発生した。タフト総督は、アメリカに協力するフィリピン人としか交流せず、高等教育をする可能性すら考えた気配はない。1901年には、ルーズベルト大統領が就任したが、フィリピンではサマール島で島民が反乱を起こして51人の米国人が殺される事件が発生して、ジェイク・スミス将軍の元で鎮圧作戦が行われる。海兵隊のウオーラー少佐に対して発出したスミス将軍の命令は、「捕虜などいらない、徹底的に焼き払って殺す事だ」との指令で、10歳以上は兵器を持つことができるから、10歳以上のサマール島民を殺戮することうんとなった。さすがに、残虐な米軍の話がワシントンにも伝わり、野蛮な米国統治について質疑を求める下院議員も現れたが、ルーズベルトの反論はいつもの白人至上主義のフィリピン人がアーリア人の西漸に追いついていないと言い訳するだけであった。しかし、真実の姿がどうであれ、ベニボレントな意図という考え方が染みついたアメリカ人にとっては、フィリピン人が文明化していないと主張するだけで十分であった。1902年に至って、フィリピン統治の内情が知れ渡るようになったが、それを糊塗するために、モロの住民以外は平定したとの宣言を行った。歴史の本によれば、米軍は、20万人から30万人のフィリピン人を殺害したとする。しかも、41 ヶ月間30万人のフィリピン人を殺害したわけで、第二次世界大戦中、米軍は56ヶ月で40万人の死者を出している。1902年に平定されたはずのフィリピンでは、南部のザンボアンガでは100年後の今でも平定作戦が継続している。

ベストセラー作家としてのルーズベルトが大統領になり、白人至上主義を適用したフィリピン統治が野蛮ではないかとの批判が高まった。ライフマガジンの1902年5月22日号は、フィリピンで、アメリカ兵がフィリピン人に水攻めの拷問を加えている絵を表紙にしている。政治宣伝に長けたルーズベルトは、190年にセントルイスで開催された万国博覧会で、フィリピンがいかにアメリカ統治の下で急速に文明開化したかの大宣伝を行う。フィリピン人を鏃と弓矢を片手にした猿人として描いており、その絵にミッシング・リンクと題を付けている。そうした猿人がアメリカの学校に通い歌を歌得るようになったことを、ルーズベルトは、すばらしいことだ、かくも短期間に進歩したと述べている。

第五章は、ハワイの併合の物語である。

大代表団を乗せた満州号がホノルル港に入港したのは、1905年の7月14日である。七年前に米国併合が行われ、ハワイ王国は、廃止されていた。ハワイは、5000人しかいないHaole、 ハオーレと呼ぶ、白人キリスト教徒の持ち物になっていた。歓迎会に出席するハワイの原住民はいなかった。1778年にクックがハワイを‘発見した’とするが、ハワイ人の寿命はヨーロッパ人よりも長命であったが、クックの持ち込んだ結核などの病気が蔓延した。米国捕鯨船が寄港するようになり、キリスト教の布教が行われた。ハワイの文化が敵視され、100万人の人口が、1832年にはたったの13万人となった。ハワイでは、布教と砂糖の植え付けとが同義語であった。1875年の互恵条約で砂糖の関税をなくしたあげくに、ハワイの軍事基地をアメリカのみが保有するという規定を入れている。もちろん、ハワイには反対の声が合ったが、150人の海兵隊を出動させて鎮圧している。1887年7月6日、ホノルルライフル協会という、白人至上主義の団体が宮殿を襲い、新しい憲法を強制した。1893年2月14日にハワイ併合条約が、白人の羽合住民の署名で結ばれた。当時のクリーブランド大統領を含め、併合に批判的な意見も見られたが、ハワイの併合が決定された。1898年8月12日にホノルルでハワイ併合の式典が行われたが、パイナップルや熱帯果実で有名なドールが大統領となった式典には、当然のことながら、リリオカラニ女王は出席しなかった。

いよいよ、第六章は、名誉のアーリア人と題している。日本人のことである。

タフト団長は、ルーズベルト大統領の秘密の指令を受けていた。横浜に到着した満州号の歓迎ぶりは、至りつく競りで、万歳の声が響き渡ったという。日露の海戦で勝利したばかりの日本は、アメリカが中立を保つことの意味を承知していた。アメリカのアジア進出を認める代わりに、日本が朝鮮を保護国化することをみとめるという秘密の合意を知るものは、明治天皇を含め、少数のもに限られていた。ペリー提督の下に、大艦隊を派遣して、日本に船の燃料の補給基地を求め、開国を迫った。友好条約をまず結ぶやり方は、アメリカ原住民とのやり方と同じであった。1853年7月8日、江戸湾にはいり、最初の領事となったタウンゼンド・ハリスはが、日米和親条約を締結している。日本の富国強兵の政策は、白人国家が、アジア人を人種的に劣等である考えてるとと見抜いて、それに対抗しようとしたものである。日本人はちょんまげを切って、洋服と山高帽を被るようにした。アメリカ人にとっては、極東のヤンキー、又は名誉白人と考えるようになった。琉球処分、日清戦争、と続くが、その中で、米国公使のチャールズ・デ・ロングが、台湾征伐などを後押ししているのは興味深い。1872年にいたって、チャールズ・LeGendreが、初のお雇い外国人として、日本のアジア進出の理屈付けとしての国際法を教えた。アメリカのモンロー宣言についても、説明して、日本版のアジアモンロー宣言を提唱している。大東亜共栄圏の考え方にも繋がっていった。日本がアングロサクソンのやり方をまねて、アジアを未開の地から文明の地に引き上げることが必要であると主張した。と年の台湾侵攻に当たっては、米国の軍事顧問も参加している。日本の朝鮮に対するやり方は、ペリー提督のやり方を踏襲するものであったと指摘する。

第七章のはじめに、1904年のルーズベルトの言葉として、「日本の勝利を心から喜んでいるが、それは、日本がアメリカの試合をしているからである」と引用している。日清戦争に勝利した日本に対しては、他の白人国家である、ロシア、フランス、とドイツの三国によって三国干渉が行われた。ルーズベルトが大統領となり、モンロー宣言も防衛的なものではなく、攻撃的な内容に変質した。米国軍隊が、国際警察ともなった。ロシアの大陸国家の当方進出をアングロサクソンが抑えるためには、名誉白人である日本の力が必要であると考え、日本の朝鮮支配は、進歩的な社会実験であると考えた。旅順港の、日本海軍による奇襲攻撃も歓迎されるもので、日露戦争の勃発で、米国は、日本の肩を持つものであった。

第八章は、日本のアジア版モンロー宣言と題している。

ハーバード大学出身の金子堅太郎男爵の縦横無尽の活躍が紹介される。金子男爵は全米各地で講演を行い、日本は黄色人種ではあるが、心は欧米人と同様に白いと発言する。金子男爵の演説は小冊子となって販売されるほどの人気であった。金子男爵は、白人至上主義の神話にも詳しく、逆手をとったような説明を行った。明治政府の外交宣伝は優れており、アメリカの日露戦争に対するマスコミは、ほとんどが日本の味方をしていた。もちろん、日本に対する疑いの念もあったが、柔術とレスリングの試合をして、柔術が勝ったとの話も書いてある。新渡戸稲造の武士道を、ルーズベルトが読んでおり、また、柔術の練習をしたなどとの記述もある。ルーズベルトは、1905年3月には、大統領として二期目になる。救済と題するアングロサクソンとアメリカ原住民の闘いを表現した彫刻の前で、就任の制約を行う。この彫刻は、今では、政府の倉庫にしまわれているが、100年にわたって大統領の宣誓式が、このアメリカ原住民を虐殺月には、コロラド州で、熊狩りをして、自分の政治家としてのイメージを強化している。コロラドでマラリアにかかっているが、これは秘密にされた。熊狩りの獲物の熊は、後に明治天皇に献上されている。

金子男爵は、ルーズベルトの夏の別荘に宿泊したことがあるが、大統領が蝋燭二本を片手にして、また、夜の寒さを気遣って、てづから毛布を運んだ話なども紹介している。そこで、金子男爵は、ルーズベルトが、日本のアジア版のモンロー宣言を支持したとする。1905年7月26日、訪日したアリス姫は、明治天皇との私的な食事会に招かれている。1905年7月27日には、ルーズベルト大統領は、公式に、金子男爵、小村外務大臣、

高平大使を、大統領専用ヨットのメイフラワー号に招待している。東京では、タフト団長と、桂首相との間に、秘密協定が合意される。会話記録は残らず、会談が行われた芝の宮殿は後に火事でもえてしまった。アメリカは、日本との間に同盟の条約があたかも存在するかのように、日本のかたをもった。日本人は、秘密を守る能力にも優れているとの見立てで、タフト団長は、大山巌元帥夫人が、まったく軍事機密に及ぶような話をしないことに驚いてほめている。日本国民は、こうした動きを知らされることなく、日露戦争の賠償金の問題のみに関心を寄せて、日比谷焼き討ち事件となったことはよく知られている。

第九章は、満州号に乗った代表団が、横浜から長崎を経て、マニラへの航海をたどる。代表団は、マニラに九日間、島々を13日間陸軍のローガン号で周り、マニラに再度5日間いて、香港に向かう。一枚のレセプションの写真が残るが、アリス姫は、フィリピン人の客と話をしようともしていない。フィリピン人の独立可能だとの意見には耳を傾ける事がなく、むしろ失笑を漏らしたという。

第十章は、代表団が、香港と広東を訪れた事を記録する。アメリカ製品のボイコット運動についてのべるとともに、アヘン貿易などについて解説する。キリスト教徒がアヘンを持ち込んだので、シナ人は「イエスのアヘン」と呼んだという。大陸横断鉄道の建設に従事した広東からのシナ人の事についても詳細に紹介する。黒人とシナ人は出て行けとの主張を掲げるハーパー週刊誌の写真も紹介されている。米国国内では、シナを排斥して、シナ本土では、門戸開放を求めるという矛盾であった。

フランクリン・ルーズベルトが、ボストンのアヘンで財をなしたデラーノ家の相続人であったことにも言及している。

アリス姫は、タフト団長と別れて陸路北京に赴き、清の皇后陛下に面会している。

第十一章は、日露戦争のポーツマス条約による戦争処理が、日本国内では不評で、アリス姫は、北京からソウル、下関を経て、再度日本に戻ってくるが、その間すっかり、親米の雰囲気が薄れて、アリス姫は、何人かと問われるとイギリス人だと答えるようにと言われている。ソウルでは、アリス姫は、高宗帝に迎えられている。仁川からソウルまでは、皇帝差し回しの特別列車である。アリス姫はシベリア号という名前の汽船で太平洋を渡るが、世界記録の13日間で横断する。

第十二章は、アメリカを兄と慕う朝鮮を切り捨てて、日本が朝鮮を支配することを認めるアメリカを描く。1905年11月28日、米国は、ソウルの外交施設を閉鎖する。

1941年12月8日、パールハーバーの奇襲攻撃を受けたフランクリン・ルーズベルト大統領は、国会議事堂に車いすで入り、日本の攻撃を非難したが、真の理由について触れることはなかった。日本のアジア版モンロー宣言を支持するというテオドア・ルーズベルトの約束は守られなかった。そもそも真珠湾攻撃には、米国本土攻撃の意図もなかったし、日露戦争の旅順港奇襲と同様に、アジアの戦争に、米艦隊が出撃できないようにした作戦に過ぎなかったのではないのか。1932年、金子堅太郎男爵は、フォーリンアフェアズに論文を掲載しているが、日本の満州政策が批判されているが、日本のモンロードクトリンを実行しているまでであると、ルーズベルトは公言しないで逝去したと、書いている。大東亜共栄圏の考え方が、40年代に入り急速に支持を集めるが、これも、ル・ジャンドル将軍とルーズベルト大統領が日本に植え込んだ考え方であった。日本は、自分たちの太陽を追い求め始めていたのである。

最終章は、太陽を追い求めてという題である。

タフト団長は、清の米貨排斥の意味合いも、アリス姫がなぜポスターで侮辱されなければならないのか、広東でも闇に紛れての視察にしかならなかったのか、歓迎の晩餐会が拒否されるのか、理由が分からなかったようである。1906年3月には、米国陸軍は、1000人のイスラム教徒を惨殺している。マーク・トウェインは、キリスト教徒によるとさつ行為としたが、ルーズベルトは、アメリカの旗の名誉を守る為の優れた兵器の行使、としている。ルーズベルトイエスマンであるタフトは、1908年に大統領に就任したが、12年の選挙では、ルーズベルトは心変わりをしてタフトとの関係がまずくなり、民主党のウィルソン大統領が誕生することになった。ルーズベルトは、徐々にフィリピンの重要性がないことに気づくが、第二次大戦後のフィリピンを見ても分かるように、民主主義の演劇を教え込まれた一部の連中が支配する国として残っているだけである。

白人のクリスチャンに執っていいことは、世界にとってよいことだとの信念が揺らぐことはなかった。

日本は、アメリカがシナの市場に入ることを支援するとしきりに主張したが、日露戦争が終わると、日露は再度の交渉をして、満州を分割してしまった。満州になだれ込んだ日本の外交官や、軍人は、日本のアジア版モンロー宣言を口にした。フランクリン・ルーズベルトは、日本がテオドア・ルーズベルト大統領の勧めに従ったことを批判したのである。

テオドア・ルーズベルトは、ベストセラー作家で、大衆のイメージ操作に長けていた。ルーズベルトは、平和は戦争によってのみ達成される、と主張したが、20世紀に米国はアジアに軍事力を展開して、その平和を達成するために巨万の軍事費を出費した。「未だに、米国には、白人至上主義で、「太陽を追い求める」ものが多い」と締めくくっている。

ちなみに、今、日本で米国海兵隊のことが話題になっているが、海兵隊は唯一、海外展開に関して議会承認が不要で、大統領命令だけで可能である。もともと、抑止力や防衛を任務とする軍隊ではなく、一貫して、米国人の保護の為に、攻撃又は外征を目的にした軍隊であることを、このインペリアル・クルーズからも読み取ることができることを補足しておきたい。

A Debate on Futenma

http://www.qab.co.jp/asanama/

昨日夜の沖縄のテレビ番組。全国放送にした方がいいような番組である。ご参考まで。

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Opinion survey

リンク: 内閣支持率19%まで下落 時事通信調べ - 速報:@niftyニュース.

Mr Packard

ジョージ・パッカード氏が来日して講演したとの話である。講演要旨がある。ご参考まで。

http://www.twitlonger.com/show/19ebn2

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米国内の考え方は、このあたりが正当であって、沖縄の基地利権にたむろするような連中は、それほどの勢力ではないのではないのか。

「何が何でも辺野古の現行案しか認めないという、カート・キャンベルのようなごり押しのジャパン・ハンドラーだけが、米国の「国家意思」なのではない。今日、来日したジョージ・パッカードは、そうしたハンドラーズに懸念を表明する米国の代表的な戦略問題の専門家の一人である。

 パッカードは、ジョンズ・ホプキンズ大学高等国際問題大学院前学長。米日財団会長。権威ある外交問題専門誌「フォーリン・アフェアーズ」3・4月号に、「日米安全保障条約50周年」という論文を書き、波紋を広げた。「日本国内の米軍基地縮小の交渉に、米国は応じるべき」というもの。

 彼は、ジョセフ・ナイやアイケンベリーら、米国の対日政策に大きな影響をもたらすエスタブリッシュメントの一角をなす。3週間ほど前にも、米議会の外交政策委員会に招かれて意見を述べている。彼の主張の最も重要なポイントは、日米関係のこじれの原因は主に米国の軍部にある、というもの。

 「米国の軍部は、沖縄を封建時代の領土のように思っている」とパッカードは批判する。「『自分たちの血で勝ち取った』という思い入れが、日米関係に現在のような混乱を招いた」と。「米国は日本の新しい政権を、まず祝福すべきだった。なのに普天間の基地を守れと。それがこじれの一番の原因」。

 今日のパッカードの講演は、衆議院の院内で行われた。第一に「普天間問題は、日米関係の中ではきわめて小さな問題で、これで日米関係がおかしくなるのは、そもそも問題であること」。第二に、「海兵隊がなぜ必要か、考える必要がある」。

 第3に「海兵隊の移動に当たっては、抑止力を低下させるものだという印象を与えないようにすること。つまり、米軍が出て行ったという印象を与えないようにし、マイナスになることを避けるべきである」。第4に、「日米関係は、双方に利益があること」。第5に「在日米軍は基地を縮小するべき」

 第6に、「在日米軍が撤退していく代わりに、日本は集団的自衛権の問題に前向きになるべき。ただし、国連憲章の即した形で」。第7に「オバマと鳩山、両首脳は、本来ならうまが合うはず。ともに高学歴で、軍縮に前向き。本来ならうまくいくべきものが、そうなっていないのは残念なこと」。

 粗野なキャンベルの恫喝に恐れをなして、いいなりになってきたのは、外務省と防衛省、追随するマスコミだが、パッカードの主張には、民主党だけでなく、防衛省も耳を傾ける。パッカードの「沖縄を封建領土のようにみなすべきではない」という言葉には、古き良き米国の理性を感じさせる。

 内閣では、前原、岡田、平野、北澤の「四人組」によって、鳩山首相が包囲され、県外移転断念の形になっているが、それに抗するような動きが加速。社民党、国民新党が、5月末解決を焦る必要なしと先送りを申し入れ、民主党内部でも政局にしようとする枝野、仙谷らの動きが鈍ってきている。

 あとは小沢幹事長への事情聴取の後、東京地検がどう出るか。起訴するのかしないのか。米国からわざわざ来日してまで、「撃ち方やめ」という警告を発しに来たとも思える知性に、日米の安保マフィアと治安マフィアがどう応答するか。

(以上引用終了)」

Foreign interests and WTO

http://journal.mycom.co.jp/news/2010/05/14/033/?rt=na

亀井静香金融担当大臣は14日、金融庁の大臣室において、雑誌やインターネット、フリー記者らを対象とした定例の記者会見を開いた。郵政改革法案に関し外務省が"圧力"をかけてきたという件に対し、「外務省は日本の国益を外国に説明する義務がある。外国の脅迫に加担するなら、いくらでもけんかしてやる」と述べた。

亀井大臣は、新聞・テレビなどが加盟する金融庁記者クラブでの会見とは別に、雑誌やインターネット、フリー記者ら記者クラブに加盟していない媒体記者らを対象とした記者会見を開いている。

14日の会見では、閣議の報告は特にないとした後、2010年3月期の決算発表で銀行の業績が回復傾向にあると述べた上で、「税金を払っていないところも相当で、ちゃんと税金が払えるよう業績回復・社会的責任をきっちりと果たしていくべき。かってのバブル時代で荒稼ぎをし、結果として大損して税金を払えなくなった。金融界は反省をしながら、今期(の業績)良かったからと言って、おごることなく努力してもらいたい」と話した。

また、二期連続で最終赤字となる見通しの新生銀行については、「金融庁として適切な監督・指導をやりなさいと強く言っときました。外資からの経営者が、1億5,000万円とか、そういう報酬をずらーっととっている。政府が25%出資しているのだから、日本国民に遠慮しながら(という)、そういう視点を欠いた経営をやっちゃだめだね」と、赤字の中での高額報酬を批判。「そういうことが、一つの遠因となって、業績がうまくいってないのではないか」とも話した。

今後の保険監督行政に関する記者からの質問には、「保険業界というのは、自分たちの利益追求ではあるけれども、ある意味では、社会保障の一端を担っている。契約者からこんなはずじゃなかったということが実際の支払いになって起きてくる、請求しないと頬かむりしているというのは、恥ずかしい話。国民に対して誠実でなければ、保険業界だって未来がなくなると思います」と述べた。

さらに、前回(11日)の会見で亀井大臣が述べたという、4月30日に閣議決定した郵政改革関連法案に関して外務省の条約局長が「米欧がWTO違反ではないかと言っている」という趣旨の"圧力"をかけてきたという件については、「(WTOに)提訴もされていないのに、何を言っているか。WTO違反だといって脅すのは常套手段で、違反するかしないかは、個々のケースによって違うもので、それぞれの政府がせめぎあうもの」と外務省の対応を批判。

「(郵政改革法案策定においては)いろんな根回しをずーっとして、各省庁に対して異論が出ないように説明した。国民の目線で妙な民業圧迫が起きないように、第三者委員会もつくった。それをアメリカが一本調子で(批判して)、外務省の条約局長までやってきて、脅しの片棒担ぐなんてのは許せない」と強調した。

さらに、「(外務省は)米国国務省の日本支局であると、私は前から言っている。外務省というのは、外国の日本に対する要求を伝えるのも大事だけれども、日本の国益を外国に説明していく義務がある。外国の国益を損なわないようにしようとは、どこの国の外務省だ。外国の脅迫に唯々諾々と加担するなら、いくらでもけんかしてやるから。鈴木宗男じゃないけれども(笑)」と、ユーモアも交えながらも、激しい調子で怒りを表現していた。

Chicago Conspiracies

シカゴ・ボーイズがやったことが映像として残されている。生々しい。市場原理主義の狂信である。あらゆることを民営化と称して私物化して、国を破壊した。ご参考まで。

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http://vimeo.com/2127661

Berkeley Mafia

シカゴボーイズと並んで、有名なのが、バークレーマフィアと呼ばれた、インドネシア人の、カリフォルニア大学バークレイに留学して帰国して経済政策に当たった一団である。インドネシアの経済をめちゃくちゃにしてしまった、市場原理主義の一団である。

これまた、ウィキに記述が出た。ご参考まで。

http://en.wikipedia.org/wiki/Berkeley_Mafia

日本でも同様に、外国の手先となった留学生経験者が出たようである。新自由主義と、市場原理主義にとりつかれたように、日本なりの伝統と文化に涵養された手法をうち捨てて、拝金の道にはしったが、結果的には国力を毀損した。日本では、経営者の一部にそうした外国崇拝が蔓延して、外国の経営手法を推進する団体が雨後の竹の子のように発生した。経済団体などでも、そうした経営者や学者が発言権を強化して、日本型経営を捨て去ることを推進したが、現実には成功せず、最近ではそうした外来の手法を見直す機運が高まっている。

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Chicago boys

ミルトンフリードマンのいた、シカゴ大学教育学部で、中南米の経済破壊工作のために訓練・研修を受けた学者の一団を、シカゴボーイズとよんでいるが、それについて、ウィキに記述が出た。わかりやすく書いてある。ご参考まで。市場原理主義のカルトの手先を養成したわけであるが、対日戦略としても、そうしたやり方が採用された可能性もある。留学生工作の一環である。

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http://en.wikipedia.org/wiki/Chicago_Boys

Fake Governance

外国通信社の日本語の記事であるが、おもしろいというかあきれた記事が載っていた。

「新生銀は、ガバナンスを強化するため、委員会設置会社から監査役会設置会社に経営体制を移行する。従来は、業務執行を執行役が担い、取締役が業務執行の監督に当たったが、取締役会に業務執行の権限・責任を集中させ監査役会に監査・監督機能を担わせることで、機動的な経営判断やチェック・アンド・バランスを重視したガバナンス体制を作る、としている。」

という、記事だ。委員会設置会社が、流行り物のようになり、執行役員制度がどんどん導入されて、取締役をお飾りにして、一部の社外重役なる無責任な連中が会社を、私物化した。郵政民営化などは、この典型であるが、監査役会に監督機能をおわせ、業務執行を取締役会にさせるのは何のことはない、市場原理主義の外国型の経営の蔓延する前の経営手法に戻せばいいという話なのだろうか。

あきれた話である。外国人が来て、外国語で、日本の中に租界を作ったような傲慢な経営をする会社もいくつか見られた。しかし、そうした、浮薄な拝金の時代が終わったが、まだまだ海外では日本人はなめられていることは間違いない。

あきれた話である。税金を食い尽くした銀行であるから、情け容赦をしない方がいい。のど元過ぎれば、また、刃向かい、だましてくるような連中である。世界の潮流は変わったのだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9F%8E%E6%94%BF%E5%9F%BA

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Saving the Sun

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新生銀行は、日本長期信用銀行が、外資に乗っ取られつぶされて、瑕疵担保付き責任とやらの、本来は立法しなければならないところを、当時の財務省が行政命令にして、大やけどをしたときの後継銀行である。外国の大物が日本に来て記者会見などをした。その内幕については、日本のマスコミはほとんど書かなかったが、さすがに、アングロサクソンの記者は見逃すはずもなく、例えば、当時のフィナンシャルタイムズの東京支局長であったテット女史は大部の著作として、「セイビング・ザ・サン」を出版した。日本経済新聞社から翻訳もでているので、読んだ方も多いだろうと思うが、ようやくにして、日本の金融庁が外資の横暴に介入するようになったのは慶賀すべきことである。あおぞら銀行、これは、昔の朝鮮銀行以来の、日本不動産銀行以来の財産であるが、同じような手口で、外資の傘下に落ちたのであるが、そのときには、いつも名前が出てくるような外資の手先の連中が暗躍したことはほぼ、間違いが、ない。新生銀行の大株主については、ドイツあたりは、もう数年前から、追求を開始していたのであるが、日本の当局の介入は遅きに失したとはいえ、亀井静香という、優れた救国の政治家が金融担当に座ったことにより、ようやく、その横暴さが、抑制される端緒となったようである。新生銀行の、高額報酬の外資系役員の名前を公表すべきである。特に脱税がなかったかどうかなどを徹底的に調査してしかるべきである。

戦後の大きなスキャンダルの闇が、明るみに出されることを期待するものである。

ご関心の向きには、テット女史の著作のご一読をおすすめする。

「亀井静香金融・郵政担当相は14日の閣議後会見で、2期連続で最終赤字を計上する新生銀行の役員報酬について、「赤字が出ているにもかかわらず、一部の外資系役員の報酬が1億円を超えている。べらぼうな報酬だ」と批判した。

 また、亀井担当相は「公的資金を注入している国も監督責任が果たせていなかった」と述べ、新生銀行に対する指導・監督を強化するよう金融庁に指示したことを明らかにした」

http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-15304320100514

Nagano route

長野県知事の勇退が報道される中で、考えさせられる記事である。

http://aoyamateiichi.blog64.fc2.com/blog-entry-23.html

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Japan should have said No 2

Japan should have said No 1

Government Sachs

フィナンシャル・タイムズから便利なリンク先のアドレスが送られてきた。ギリシアの財政危機の背後にもいたと報道されている、ゴールドマン・サックスの諸問題についてまとめて読めるサイトのリンクである。日本でも、日本長期信用銀行の破綻から始まって、郵政民営化に至るまで、ゴールドマンが、陰で?関与したことが想像されるが、まだまだ明らかになっていない部分が多い。それにしても、日本のマスコミは、外資の行儀の悪さをほとんど書かないですね。日本でもうけた連中が、ニューヨークのセントラルパークの億ションで、宴会をやっている話も最近聞いたのですが。

ご参考まで

http://www.ft.com/cms/9c094c2a-d8f3-11de-99ce-00144feabdc0.htm?ftcamp=Late_graphic2/NL/APMay2010/Vanilla_gsachs/0/

Imperial Cruise, the Author's explanation

著者のジェイムス・ブラッドレー氏が、最新刊のインペリアル・クルーズについて、解説する。

Visit msnbc.com for breaking news, world news, and news about the economy

Interview with Mr James Bradley, author of Imperial Cruise

ラジオの、インタビューである。保守系のフォックスニュースのインタビューである。ジェイムス・ブラッドレー氏の、新著、インペリアル・クルーズの解説である。音声であるから、画面のボタンを押して下さい。音量の調節もお願いします。

Africa

アフリカについて、当ブログは知見が全くない。おもしろい意見があったので、紹介するのみである

「2010年は、アフリカにとって記念すべき年です。「アフリカの年」から、ちょうど50年に当たります。ナイジェリアやカメルーンなどアフリカ17カ国が独立、世界の歴史に「アフリカ新時代」を刻印したのが1960年の「アフリカの年」でした。そして、いよいよ6月には世界の一大イベントとも言えるサッカーの「FIFAワールドカップ」が、史上初めてアフリカ大陸で開催されることになりました

 日本でも変化が起こりつつあります。2008年秋のリーマンショック以降、日本企業も「新興国」「途上国」に熱い視線を注ぐようになりました。その“視線リスト”にアフリカが加わりつつあります。ここに来て、テレビや経済誌などで「アフリカ特集」が組まれるようになりました。アフリカを見る目が、大きく変わろうとしているのは間違いないでしょう。

 一方で、首をかしげる人もまだ多いのではないでしょうか。「アフリカでビジネス?」と。1960年代に鉱山企業の経営者としてシエラレオネで2年間仕事をされた麻生太郎・前総理大臣のような人もいらっしゃいますが、鉱山など一部の業界を除いては、日本では「アフリカ」と「ビジネス」を結びつける発想はほとんどなかったのではないかと思います。

アフリカのイメージは人それぞれ

 私が働いているNGO(非政府組織)の「アフリカ日本協議会」は、アフリカと日本のNGOのネットワーキングを中心に取り組んでいます。アフリカ日本協議会は、1994年に設立されたNGOで、日本とアフリカの市民の対等なパートナーシップの構築を目的に活動しています。アフリカのHIV/エイズなど感染症、保健分野と食料安全保障の課題を中心に、調査研究と政策提言を行っています。また、日本に住むアフリカの人々やその家族との連携・サポートなども手掛けています。

 私は20歳の時から、横浜の日雇労働者の街・寿町で労働組合や住民グループなどとともに医療活動に従事しました。その後、日本のレズビアン・ゲイ・性的少数者の人権問題やHIV/エイズ問題などに取り組む中で、アフリカのHIV/エイズ問題の深刻さに触れる機会がありました。アフリカの人々の取り組みの真剣さにうたれ、2002年以降、アフリカを取り巻く様々な課題に携わるようになりました。

 さて、みなさんは「アフリカ」と聞いた時に、どんなイメージが頭に浮かびますか。ライオンやキリン、ゴリラなどに代表される手つかずの豊かな自然という「野生の王国」でしょうか。はたまた、深刻な貧困、飢餓、紛争に代表される悲惨な光景でしょうか。

 では、「アフリカの人」。こうなると、イメージが少し変わりませんか。ナイジェリア出身のボビー・オロゴンさんやベナン出身のゾフマンさんをはじめ、アフリカ人のテレビタレントは日本でも人気を博しています。ほかに、マラソンやサッカー、バスケットボールなどで活躍するアフリカのスポーツ選手を挙げる人もいるでしょう。

 要するに、「アフリカは遠くて、よく分からない」。これが今のところ、多くの日本人のアフリカに関する「相場観」だと言えます。本コラムでは、アフリカに関するいろいろなイメージをうまく結びつけ、2010年の日本における新しい「アフリカの相場観」を編み出してみたいと考えています。

アフリカの運転手は日本をベタ褒め

 アフリカを理解する第一歩として、アフリカの人々を身近に感じることができるエピソードを取り上げましょう。

 日本人がアフリカ人に自己紹介をすると、不思議な顔をされることがあります。例えば私の名前はローマ字で書くと「Inaba Masaki」ですが、この響きがアフリカの地元の言葉とよく似ているというのです。逆に相手の名刺をもらって、住所を読んでみると「発音上手だね」と言われます。

 お世辞かと思うとそうではなく、アフリカの言葉と日本語には不思議な共通点があるのです。それは、ほとんどの子音に母音がつくということ。日本で暮らすアフリカの人たちには、日本語が達者な方が多いのですが、彼らは欧米人と違って、発音の面ではほとんど苦労がないようです。実際、日本語をローマ字で書くと、なんとなくアフリカの言葉のようにも見えてきます。

 言葉の雰囲気が似ているのは偶然でしょうが、アフリカで日本はとても人気のある国です。その理由は、日本車にあります。東アフリカに行くと、見かける車の9割は日本の中古車。地元の人たちが普段から利用しているミニバスの多くはトヨタ自動車や日産自動車のバンが使われているのです。このタイプの車を「ニッサン」と呼ぶ人もいるぐらい、というほどの浸透度です。トラックや長距離バスはドイツのマンやスウェーデンのスカニアなどのシェアが高くなるので、日本車は押されてしまいますが。

 ミニバスやタクシーの運転手に聞くと、みんな日本をベタ褒めです。なぜこんなに日本の中古車が走っているのでしょうか。実は、これらの日本の中古車の部品をアフリカに供給するために、ウガンダ人やナイジェリア人、カメルーン人などの商売上手が、日本で中古車解体・輸出の会社を立ち上げているのです。埼玉県や茨城県などの中古車解体業には、パキスタン人などと混じって、アフリカ人社長がかなり名前を連ねています。

 日本車と比べて、アフリカでは日本の「人」が格段に少ないのが残念なところです。最近は、東洋人と言えば中国人。私たちを見かけると「ニイハオ」という声がかかることが多く、時には中国語の発音をからかって「チュアンチュエンチュオン」などと挑発してくる連中もいます。

 確かにアフリカは日本からは「遠い」。行こうと思うと、首都レベルでも2日ないし3日はかかります。それでも、以前に比べれば航空網が整備されて、ずいぶんと便利になりました。

 まず、東アフリカのケニア・ウガンダ・タンザニア。エミレーツ航空やカタール航空のおかげで、これらの国々には中東経由で1日で着けるようになりました。エミレーツ航空はナイジェリアのラゴス、ガーナのアクラ、コートジボアールのアビジャンなど西アフリカの主要都市にも航空網を伸ばしています。

 南部アフリカの国々は、南アフリカ共和国の最大都市ヨハネスブルグ経由です。ヨハネスブルグまでは、香港、マレーシア、シンガポールなどで飛行機を乗り換えて約20時間。インド洋上空は風が強いので、結構揺れますが。日本から最も遠いのは西・中央アフリカのフランス語圏諸国です。これらの国々の首都には、エール・フランス航空が航空網を張っており、パリ経由で1~2日で行けます。

 入国するにはビザが必要なので面倒かもしれませんが、実際に旅してみると、思ったよりは近いと感じることでしょう。残念ながら、日本とアフリカを結ぶ直行便は、エジプト航空を除いて、今のところありません。大陸間路線を持つ南アフリカ航空やケニア航空、エチオピア航空は香港、バンコク、北京などに直行便を飛ばしています。日本との直行便開設が待たれるところです。

室町時代後期からつき合いがあった

 歴史を振り返ると、日本とアフリカの関係は意外と古く、室町時代後期までさかのぼります。この時代は、ポルトガルやオランダなどによってインド洋を介したアジア交易が活発化した「第1次グローバリゼーション」の時代で、多くの日本人が豊富に産出される金銀などを売り物として、タイやフィリピン、マレー半島などに移住して日本人町を作っていました。

 ポルトガルの船が、多くのアフリカ人奴隷を日本に連れてきたのがこの時代で、桃山時代に描かれた狩野内膳筆の「南蛮屏風」には、日本にやってきたアフリカ人奴隷がはっきりと描かれています。織田信長にアフリカ人の家来がいたことは、ご存じの方も多いでしょう。

 もともとはイタリア人宣教師ヴァリニャーノが連れていた奴隷でしたが、「弥介」という名前をもらって織田信長の家来となり、本能寺の変まで行動を共にしたと言われています。その後、明智光秀に捕らえられた弥介は、外国人ということで放免となりましたが、その後は行方知れずになっています。

 一方、この時代、日本からもアフリカの地を踏んだ人たちがいました。天正の遣欧少年使節団はローマへの行き帰りに、世界遺産にもなっている南部アフリカのモザンビーク島のポルトガルの城砦に寄航。嵐のせいで半年もそこにとどまっていたとのことです(藤田みどり著『アフリカ「発見」』[岩波書店]に詳しい)。

 その後、江戸時代の鎖国政策によって関係は薄くなりますが、明治期に入ると、今度は遠洋漁業で多くの人々がアフリカに寄航するようになります。それを追いかけて、日本人女性たちが「からゆきさん」としてシンガポールを経由してアフリカに渡りました。白石顕二氏のルポルタージュ『ザンジバルの娘子軍(からゆきさん)』(社会思想社現代教養文庫)には、明治時代に東アフリカのザンジバル島に渡った日本人女性たちやその子孫の歴史が克明に記されています。

 さらに、明治期の日本軍は、英国をはじめ、ヨーロッパが植民地で展開した戦争について克明に調査しました。そこには、南アフリカでズールー人が英国軍に勝った「イサンドルワナの戦い」なども調査対象に入っていたそうです。

 こうしてみると、さすがに地球も1つの星、まるで関係がなかったかのようなアフリカと日本にも、実は多くの接点があったことがわかります。航空網とIT(情報技術)の発達で世界が“狭くなったグローバリゼーション”の時代、アフリカと日本は、もっとしっかり結びついてもいいと私は思うのです。

与え続けた結果としての飢餓や紛争

 最後に「アフリカとビジネス」を考えてみましょう。私たち日本人にとって、アフリカはごく最近まで「援助」の場ではあっても「ビジネス」の場というイメージはなかったと思います。

 しかし、中国人やインド人の目からは、同じアフリカが「人生の成功」を賭けた機会の場として映っています。近代以降、英国の支配の下でたくさんのインド人がアフリカの東や南に渡り、小さな商店から大企業まで様々な産業を育て、インドとアフリカを結ぶ経済網を作るに至りました。

 今、大量の中国人がアフリカに渡り、安価な製品を販売して経済基盤を作りつつあります。能力ある人材がひしめき、極端に競争過多な本国では、出世や成功もなかなかたいへんです。意を決してアフリカに渡ってしまえば自分の才覚でチャンスはどうとでも切り開ける、と彼らは考えているでしょう。

 歴史的に見れば、ヨーロッパにとってアフリカは「儲け話の宝庫」のような場所でした。欧米が先進国になることができたのは、アフリカと新大陸を結んで、奴隷貿易という名の不等価交換を軸に、自分に極めて有利な貿易を続け、十分に資本を蓄積して産業革命を達成したことによるものです。その後、欧州はアフリカのほぼ全土を植民地化して、経営の出費もさることながら、多くの利益を上げました。この点から考えれば、欧米の発展はまさに「アフリカのおかげ」です。

 アフリカにしてみれば、歴史的に「惜しみなく与え」続けた結果として、飢餓や紛争の相次ぐ場所になってしまいました。私たち日本人がアフリカに対して持つ「悲惨」なイメージは、欧米をはじめとする他地域がアフリカで「儲けてきた」最終決算としてのアフリカの姿であるとも言えます。

 つまり、アフリカの悲惨は、「アフリカは儲かる場所である」という事実とコインの裏表であるわけですが、私たち日本人は、アフリカとの関係が少なかった分、コインの「裏」だけを見せられ、そのイメージが強く残ってしまったわけです。

 アフリカは「儲かるところ」、しかし、私たちは、これまでと同じようなやり方を続けることはできません。アフリカが惜しみなく与え、他国は当然のように受け取る関係は、もう持続性がなくなっています。

 そこで注目を集めているキーワードが、BOP(ボトム・オブ・ピラミッド)です。先進国の所得水準から見るとまだまだ所得が低い新興国の人々を、消費者と位置づけし直すことで生活環境を向上させる取り組み――。アフリカが豊かさと多様性を回復し、ほかの世界とWin-Win(ウィン-ウィン)の関係を構築できるように誰かが取り持たなければなりません。

 そのカギは、誰が持っているのか。実は、奴隷貿易や植民地支配に手を染めておらず、また、インドや中国などのように新たな利権関係にも組み込まれていない、新たなアクターが求められています。つまり、日本。再びアフリカと近しくなるべきタイミングが訪れているのです。にもかかわらず、あまりに私たちはアフリカを知りません。

 「アフリカの年」から50周年。私たちにとってのアフリカの「相場観」はどの辺にあるのか。次回から、アフリカを対象にする研究者や実業家などの話を通じて、一緒に探っていきましょう。

稲場 雅紀(いなば・まさき)

NGO(非政府組織)であるアフリカ日本協議会職員。横浜の日雇い労働者の街、寿町で医療活動をする「寿医療班」事務局責任者、「(特活)動くゲイとレズビアンの会」副代表理事を経て2002年よりアフリカ日本協議会の国際保健部門ディレクター。著書に『流儀=アフリカと世界に向かい我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』(生活書院、山田真・立岩真也と共著)、『「対テロ戦争」と現代世界』(御茶の水書房、共著、木戸衛一編)などがある」

Mr. Murai, Governor of Nagao-ken

長野県知事が勇退されるとの報道である。村井仁氏である。端正な政治家であった。郵政民営化に反対して、追われるようにして、永田町の世界を去られたが、その直後に、長野県民から嘱望されて県知事選挙に出られた。時代の人気の候補者を圧倒して当選した。人となりは、ご出身の小学校の50年記念の時の講演に現れている。

郵政民営化の虚妄が明らかになった今、そして、長野県知事を勇退する今、永田町での当時の小泉・竹中政治の暴虐の経験を語っていただけないものかと思う。

http://www.e-nagano.jp/PROFILE/ASAHI.HTM

母校旭町中学校50周年に寄せて--旭町中学校の生徒の皆さんに--
  一 私達の頃の旭町中学校


 旭町中学校が誕生して今年で五〇年になった。私は昭和二四年四月に新制中学校として創立されて二年目の旭町中学校に入学した。校舎は今の信州大学付属病院の建物の南外れのあたりにあり、旧陸軍の第五〇連隊の倉庫で、高いところに窓のある薄暗い建物だった。(「新制」という言葉が正式ではないが使われていたのは松本中学校(深志高校)、松本第二中学校(県ヶ丘高校)、松本市立中学校(美須々ヶ丘高校)などの「旧制」中学校と区別するためである。)同年生は、松本商業の中学校に進んだ人達が欠けただけで全て旭町小学校から持ち上がってきた友人達ばかりだったから、正直なところ余り興奮も無かったし、不安も無かった。私にはそれまで小学校にあった高等科が一年延長されて中学校と名が付けられただけのものに思えた。
 校舎は今述べたように連隊の建物を使っていたから、一部は兵舎だったところもあるようで、職員室などは教室より明るかったように思う。馬小屋だったところなど、私達の格好の遊び場だった。 ここで日本の学校制度の説明をして置くと、義務教育期間は明治の初め四年だったが、明治の末に六年にのび、さらに昭和一六年に国民学校(小学校)六年と高等科二年の合計八年になって、戦後昭和二二年の学制改革で小学校六年、中学校三年の九年になった。これは世界でもかなり長い義務教育期間である。

 小学校の高等科と同じではないかと思っていた私にとって中学校に入って一番刺激的だったのは英語の授業が始まったことである。初めはジャック・アンド・ベティーという教科書だったが、のちにゲート・トゥ・ザ・ワールド(世界への門)という教科書に変わった。この教科書の名前に示されるように、これまでと全く違う世界が開けるという思い、英語を覚えればこれまで知らなかった世界が開けるという思いに私は興奮を覚えたものである。 昭和二四年の暮れ、旭町中学校の新しい校舎が今のところに建てられた。木造の明るい大きな校舎で学べるというのはやはり嬉しいことだった。私達は新しい校舎までそれぞれ自分の椅子を持って引っ越しをした。今の校舎から運動場は少し低いところに位置しているが、前の校舎は私の記憶ではもう少し運動場と離れて建てられていたように思う。運動場は石ころだらけで、体操の時間は大部分石拾いに費やされたような気がする。暖房は薪で、当番は少し早く登校してストーブを焚き付けなくてはならなかった。皆が上手にそれをやったのは家でもお手伝いをすることが当然だったからだろう。クラスは五五人くらいで五クラスだった。掃除当番をさぼるのがいたのは、否定できない。
 ところで、私の頃は中学校を出たらもう一人前、働きに出るのが当たり前という時代であった。私たちの時は三年間持ち上がりだったが、そのまま昼間の高等学校に行ったのはクラスの半分もいなかったと思う。高等学校に行くのはお金が掛かったのだ。(実際、私が高校二年在学中父が亡くなった時に親戚がまず勧めてきたのは、私が夜間高校に転校して働きに出ることだった。不親切でも何でもなく、高校に通うことはお金が掛かって大変だったし、中学を出ていれば働くところがあったし、もう一度強調するが働くのが普通だったのだ。)
 M君という同級生がいた。旺文社の雑誌の懸賞作文で全国一位になるほどで、生徒会の副会長もやり、学年でもトップクラスの成績だったが、父上が亡くなられて母上と二人だけの家庭、結局高校には進まれず、卒業と同時に就職された。何十年か経って再会したとき、M君が社会人としても大成功されているのを見て本当に嬉しかったものである。私達の世代の高校進学率は夜間高校も含めて全国でも四十数%、昼間の高校に進めたのは三十%台だったことも付け加えて置きたい。なお、県立高校の授業料は月に五百円だったが、その頃大学出の国家公務員の初任給が月六千五百円だったのだから今の貨幣価値では一万五千円近くにあたろうか。
 当時の旭町中学は野球が強かった。私の一年上でやはり生徒会副会長をやり、野球は主将で四番で投手で、しかも勉強もできるというTさんというヒーローがいて、Tさんのワンマンチームの旭町は中学の対抗試合で優勝したものだ。Tさんは深志高校卒業とともに憧れの巨人軍に入って私達を大いに興奮させた。
 先生方は大変ユニークだった。小学校の校長先生を退職したあと講師として授業をされるベテランの先生は少なくなかったし、よその中学では旧制松本高校を卒業して上の学校に進まれる途中、中学教師として授業をされる先生などもいらっしゃった。 私は中学時代化学実験が好きで、暇があれば始終理科準備室に籠もって実験をしていたおとなしい生徒だったと思う。人の前で演説することなどは余り気が進まず、生徒会活動は熱心ではなかった。


  二 戦後五十年、日本はなぜ発展したか  


 私が高校生になったのは、昭和二七年、日本がサンフランシスコ平和条約を結んで独立を回復した年である。まだまだ物が不足し、食べ物さえも十分ではなかった。親戚を頼って、米などを買い出しに行くことも続いていた。戦争に負けたあと中国から引き揚げてきた私は、山口県の仙崎という港町に着き、下関、広島、神戸、大阪、そして名古屋を通って父母の郷里の長野県に帰り着いた。その僅か四年前、中国に渡るときに汽車の車窓から見た美しかった日本の代表的な大都市が全て瓦礫の山となり、焼け野が原となっているのを見たのは小学生の目にも衝撃だった。そのように崩壊した日本が本格的に復興し始めるのが私が高校生になったころ、そして日米安保条約の改定を巡って国論が二分されて、当時の岸信介総理の退陣と所得倍増論を引っ提げた池田勇人総理の登場で高度成長期が始まるのが私が社会人になった頃と一致する。
 
戦後の日本のめざましい復興がなぜ出来たのかと考えてみると、もちろん幾つかの理由があるが、基本的な事は日本が本当に平等な実力の世界だったこと、そして競争が激しかったことだと私は思う。財閥が解体され、農地解放が行われて地主と小作が消え、戦前の権威は無くなって、全てが同じスタートラインから走り出した。誰もが働かなくてはならなかった。戦前からの会社よりもソニーのように戦後優れた技術を基礎に発足した会社が成功して世界的な企業になり、田中角栄元総理のように何の背景もない政治家が総理にまで登り、美空ひばりをはじめ多くのスターが実力のゆえに生まれた。私だって近い親戚に村長などは別にして政治に関わった人はいない。 もともと、日本は基本的に実力の世界である。
 私が中学生の頃に読んで影響を受けた本に、戦前からの政治家・小説家で戦後厚生大臣にもなった鶴見祐輔先生が追放を受けているときに書いた「成城だより」という本がある。そこに出ているエピソードは印象的である。鶴見祐輔先生は明治の終わりに東大を出た。同級生で公爵の跡取り息子がいたが、この人が二度も外交官試験を受けて、失敗、諦めて貴族院議員になったという話を外国人にしたら信じて貰えなかったという。外国、特に英国では外交は貴族の仕事で、試験の成績の善し悪しで決めるのは理解できないというのである。明治の終わりに東大に学ぶのだからこの公爵氏はもとより大変な秀才だったろうが、それでも当時の外務省は名門の出身だからといって妥協せず、外交官にふさわしいと外務省が判断するそれなりの基準に合致しなければ採用しなかったのだ。もっと言えば日本はコネも権勢も利かない部分が厳然とある社会だったのだ。

 明治維新から八〇年経って社会が少し固定化してきた頃、つまり金持ちの子は金に恵まれ、権力者の子は権力を握るというような傾向が出てきたときに、戦争に負けた日本は財閥解体と公職追放、農地解放などによって再び同じスタートラインに着く競争社会を作った。その効果が大きく現れたのが戦後五〇年にわたる日本の高度成長であり、その結果、誰でも勉強をしたいと思えば高い教育を受けることが出来るほどに豊かになり、皆さんはその恩恵を思う存分に享受しているのだと思う。お金がないために行けなかった人が沢山いた高等学校は今では九七%の人が進学することになり、事実上、日本は十二年という世界で最も長い義務教育期間を実現してしまった。私の世代のようにお金がないから上の学校に行けないという同級生を持った経験のあるものには夢のようなことである。
 
 私は社会人になってからいろいろな経験をしたが、その中で忘れられないのは昭和四一年から三年間アフリカのナイジェリアという国に置かれた日本大使館で貿易経済を担当する外交官として仕事をしたことである。アフリカで一番人口の大きな国であるナイジェリアで部族(言葉が僅かに違うだけで、見たところの違いはほとんどない)の対立によって内戦が起こり、ビアフラ戦争と呼ばれるむごい戦争が三年間も続くのを外交官として見たのだ。その戦争の始まる前の平和なナイジェリアの頃のことだが、私の友人であったその国の大変優秀な官僚が私に言った、「日本はたった二〇年で戦争で何もなくなった廃墟のあとから今のような繁栄する日本を作り上げた。見ていて欲しい、あと二〇年すればナイジェリアは日本よりも豊かで繁栄する国になって見せるよ」と。私はその時思わず叫んだ、「それは違うよ、日本は戦争の前にも、そして明治維新の前にも既に高い文化を持っていたんだ。そういう基礎があったから戦後の廃墟の中からの復興があったのだ」と。私は、先ほどから平等な社会という特徴を強調したが、そればかりでなく、日本は随分長いこと、世界でも珍しい程に高い文化をはぐくんで来たことを私達は忘れてはならない。


  三 日本はどんな国だったのか

 
 日本は皆さんが歴史で教わっているように、大体二千年ないし三千年以上古い時代から人が住み、特に中国大陸や朝鮮半島から多くのことを学びながら上手にそれを消化して、早くから高い文化を築き上げてきた。源氏物語が世界で最も古い長編小説であることはよく知られたことだし、千五百年を越える歴史がほとんど文字で記録されているというのも中国を別にすると世界で余り例のない事だろう。これも中国という巨大な文明圏の外縁にある島国だったから出来たことだろうが、そのような島国は他にないわけでもないのに日本が特に際だって特徴を発揮したのはやはり何か特色があり、また幸運だったのかも知れない。

 歴史の本などに余り記されていない幾つかの驚くべき事を順序不同で述べてみたい。
 一つの国が三百年にわたって平和だったというのは、世界の歴史の中で江戸時代の日本を除いて余り例がない。江戸時代が身分制に縛られた暗い時代だというのも正しくない。下級武士から幕政の最高権力者になった柳沢吉保を例にあげるまでもなく、実力のある人が然るべき立場に登る実力主義は江戸時代でさえ続いていた。典型的なのは江戸幕府の最後の始末をした勝海舟である。彼の祖父は武士ではなく、盲目の、しかし裕福な検校だったのが、金でご家人の株を買って息子を下級武士にした、その子が勝海舟である。
 また、江戸は一八世紀の半ば、世界に三つといわれる巨大な百万都市の一つで上水道はもとより下水道も一部は整い、当時建物の中にはトイレが無かったロンドンよりも遙かに高い水準の都市だったという。なお、あとの百万都市はロンドンと北京の二つである。

 この江戸に高い文化の花が開いたことは言うまでもない。建前の世界は鎖国であったが、世界情勢も西洋文明のおおよそも的確に把握していたのが当時の江戸に代表される日本の姿だったということもどうしてか今は認識されていない。
 日本の優秀さはその前にもいろいろな形で現れている。一五四三年に種子島に漂着したポルトガル人が二丁の火縄銃をもたらしたことはよく知られたことだが、その三二年後に行われた長篠の戦いは三千丁の鉄砲を活用して織田信長、徳川家康の連合軍が武田勝頼の大軍を壊滅させ、戦国時代を終わらせるきっかけになった有名な戦いである。驚くべき事はこの鉄砲が全て日本人の鍛冶屋による手作りの製品であり、しかも三千丁もの鉄砲を使う戦いはそれまでの世界の歴史になかった事である。世界の歴史で最大の規模の鉄砲を使った戦闘が日本人によって戦われたのである。当時の日本が大変な技術を持っていたことが窺われる。(この高い技術で製造された火縄銃は松本城天守閣の鉄砲蔵で実物を見ることが出来る。)このような高い技術の水準は、鎖国後の江戸時代でも一層成熟していき、明治維新をきっかけに欧米の近代技術に触れると急速にそれを吸収消化する能力を高めることが出来たのである。

 江戸時代の終わりから明治の初めに掛けて欧米に旅行したり、留学した日本の役人や学生達の熱心な勉強振り、折り目正しい態度は当時の欧米の人達に大変な感銘を与えたことも触れておきたい。いつも清潔な衣服をまとい、毅然として高ぶらず卑屈にもならず堂々とした態度は、言葉が十分通じなくても人にある種の感銘を与える。 同じ幕末の頃、ある東洋の国(日本ではない)の貴族が米国に留学したが、その貴族が自分の連れてきた従者にことあるごとに殴る、蹴るの暴行を加えるのを見て米国人がすっかり嫌になったという話とは随分違う話である。
 私がもっと大切だと思うのは、江戸時代の日本人が大変に謙虚だったということだ。徳川将軍の交代の時など、朝鮮通信使と呼ばれる使者が将軍に祝いを述べるために朝鮮から対馬経由で派遣されたが、多くは当時の朝鮮を代表する学者であった。この使者を日本人がどれほど尊重したか。当時の支配階級であった武士はもとより豊かな商人が朝鮮通信使に面会し、さまざまの知識を学ぼうとした事績が各地に残っている。同じ事は当時の中国と交流のあった琉球国の使者が江戸に上るときに多くの人が宿を訪ねて漢詩を教わろうとしたり、漢文の講義を受けたり、掛け軸を書いて貰おうとしたことにも現れている。新しいこと、自分が及ばないことを学ぼうとする熱意がこれほどに謙虚に表されるというのは日本人の美点ではあるまいか。


  四 二十一世紀に向けて若い人々に期待すること


   終わりに近付きつつある二〇世紀を振り返ってみると、日本にとってはその前半は引き続く戦乱の時代であり、世界の中で武力でその地位を確保しようとした時代であった。後半は世界で引き続く混乱や戦争をよそにこの島々の上に五〇年を越える平和と繁栄を実現しその成果を享受し、世界でも有数の、また日本の歴史で未曽有の豊かな社会を実現した。
] 世界的な規模で観察すると、人類の無限の進歩に何の疑いも持たれず二〇世紀がさらなる人類進歩の理想の世紀になると期待されたのが一九世紀である。特に一九世紀半ばから強くなって約一五〇年続いた社会主義あるいは共産主義に対する期待が、二〇世紀の終わりに近くなってソ連の崩壊や中国の方向転換で裏切られたことは大きな事件であった。その意味で、二〇世紀が終わろうとするいまは、理想社会の姿は描かれていない。皆さんがおとなになろうとする時代はそういう世紀の転換の時代である。

 皆さんが社会の中堅になる二〇二五年頃はいわゆる高齢者の比率が日本の歴史の中で最も高くなる時期で働く世代の負担が最も高くなるとも予想されている。その時代に備えてどのような日本をつくっていったら良いのか、私にも考えはあるがやはり一番の負担を負う皆さんにいまの内から考えておいて欲しいと思う。  日本と日本人は恵まれた環境と優れた素質によっていま世界でも有数の豊かな社会を実現したが、この豊かさをどのようにしたら長続きさせることが出来るだろうか。平和を享受して来たがそれをどのようにしたら長続きさせることが出来るだろうか。皆さんも、皆さんのご両親も、お年から考えると戦争がどんなに悲惨なものかを直接には知らない。そして日本人は平和がどのような努力によって作られるものかを知らない。なぜなら日本はこの五〇年余りよその国々が作ってくれた環境の中で自分の国だけの平和を楽しんできたからだ。 おそらくこれから数年のうちに、おそらく遅くも一〇年のうちに、日本は国連の安全保障常任理事国になるに違いない。それが世界から求められているからだ。それは平和というものに対する日本人の考え方を根本から変えさせることになるだろう。 このような来るべき時代についての私の考えを述べた上で、この機会に皆さんにお願いしておきたいことが幾つかある。

 「身を修め家を斉え国を治め天下を平らぐ」という中国の昔の言葉がある。物事の順序を述べたものである。まず自分自身を磨き、そして家庭の中を円満にし、地域を秩序正しくし、始めて世の中が丸くおさまるとでも言い換えることが出来ようか。あまり言われなくなったことだが、学校に通っている若いうちに是非自分の人格を磨く努力をして欲しい。特に将来どのような職業に就くにせよ、社会公共のために役に立つという心掛けを持って欲しい。決して、自分だけ良ければという身勝手な生活態度を取らないで欲しい。
日本は豊かになった。その結果、食べるものも着るものも、そしてさまざまの生活に用いられる品も満ち満ちている。そのために、ものを粗末にすることが大変多い。食べ残しは当たり前だし、まだ使えるものが惜しげもなく捨てられていく。地球環境の問題を考えてみても大きな問題であることはいうまでもない。トルストイの「人にはどれほどの土地がいるか」という作品でパホームという主人公が一日の間に歩いて囲った土地を貰えると聞き、一日歩いて最後に出発点にたどり着いて血を吐いて死んでしまう寓話を引用するまでもなく、人の欲望は限りない。そうはいいながら欲望は向上心の源でもあるし、社会進歩の原動力でもある。そのことを認めつつも、一方では個人の消費生活を質素にすることは私は大切なことだと思う。
 「立って半畳寝て一畳、天下取っても四合半」という言葉がある。負け惜しみのようだが、味わいの深い言葉である。私はそれぞれ人の価値観に依ることだとは思うが、どうか、若い皆さんが物質や金銭のみに価値を見いだすのではなく、精神の高さを大切にして欲しいと思う。 広い知識を身につけるために本を読んだり、さまざまのニュースを追いかけたりする事は大切なことだが、出来れば人類の長い歴史の中で濾過されて今に残っている古典と呼ばれる本を読んで欲しい。汲めども尽きない先人の知恵がそこには凝縮されている。そして本を読んで知識を蓄えるのも大切だが、是非自分の頭で考える習慣を身につけて欲しい。知識を得るだけで自分の頭で考えることをしなければあまり意味のないことだ。単なる物知りに過ぎないし、ものを知っているというだけのことなら、極端なはなし、百科事典を引けば済むことになってしまう。人間の一番大切なことは自分の意見を持つことだ。さらに独りよがりにならないように、友人と意見を交わしあって、世の中にはいろいろな意見の持ち主があるということも判って欲しい。この私の話を読んでも、自分で納得できるかどうか、考えてみて欲しい。私はどうもこの頃、自分の頭で考えないで、書物や新聞に書いてあることをそのままオウム返しに口にする人が多いことが問題ではないかと思っている。

  さらに、皆さんには日本という国と日本人であることに自信と誇りを持って欲しいと心から願う。自分の国に誇りを覚えることが出来ない国民が、どうして外国人が持つ自分の国に対する誇りを認め、外国人を尊敬することが出来るだろうか。私はこれからの世界は間違いなく国際的な触れあいが今まで以上に増していくと思っている。とりわけて、長野冬季オリンピックの成功で長野は世界の長野になった。松本もその一部である。私は米国の議員と十年間にわたって日米議員交流という仕事をしているが、今年の五月米国に行って、初めて会った米国の議員に選挙区はどこだと訊ねられて、「長野」と答えたら、「あ、オリンピックをやったところだね」とすぐに判ってくれた。今までなら東京から西北の方向にある山の多い地域だというような説明をしたものだが、その必要も無くなったのだ。それから、外国人と付き合うのにむやみに外国人の真似をすることはない。私の経験では、外国人と当たり前に付き合っていくには、何よりも素晴らしい日本人であることが大切なのだということを強調しておきたい。

 私は皆さんの迎える時代が必ずしも安楽な時代ではないと感じている。しかし、皆さんが自信を持って日本の伝統を生かし、これまで培ってきたものを大切にしながら、積極的にチャレンジして行ってくれれば、日本はやはり世界にかけがえのない大切な存在として尊敬されていくに違いないと信じている。私は旭町中学を卒業するときに、国語の講師で「あららぎ」の歌人で良寛の研究家、書家でもいらっしゃった山田良春先生から先生の素晴らしい書で「ゲーテの言葉を記す」として記念の言葉を贈られた。それは次のようなものである。
いずこまで行く汝(いまし)ぞや 見よ良きものはいと近し ただそを握る術を知れ 幸(さち)とこしえにここにあり  同じ言葉を皆さんに贈りたい。

Unmanned Battle Aircraft

無人の戦闘爆撃機である。ネバダのラスベガスから30分以内にある基地から、操縦するという。飛行機は地球の裏側を飛んでいて、画面を見ながら、操縦する。ラスベガスの自宅に帰る自動車の運転の危険性の方が高い。CNNの映像である。画面は見せていない。

http://wiredvision.jp/news/200908/2009080419.html

新兵器の現実を直視したい。

Japan US security treaty at 50

米国外交評議会の機関誌、フォーリンアフェアズに、日米安保条約50周年についての記事が掲載されている。ジョージ・パッカード氏の論文の一部が、ネットにもある。パッカード氏は、ジョンズ・ホプキンス大学のSAISの学院長を務めたりしたが、ライシャワー教授が駐日大使の時に、東京の大使館にある、CIAの東京支局長を努めていた。

回想録も出版している。http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/packard.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89ご参考まで。

http://www.foreignaffairs.com/articles/66150/george-r-packard/the-united-states-japan-security-treaty-at-50

http://www.foreignaffairsj.co.jp/essay/201004/Packard.htm#1

いずれにしても、50年が過ぎた。日米関係を再定義すべきなのである。フォーリンアフェアズは、米国外交の方向を占う上で有力な機関誌であることは言うまでもない。http://www.infowars.com/council-on-foreign-relations-propaganda/

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Deepwater Horizon

四月の末に、メキシコ湾の石油掘削施設で火災があり、大問題となっている。日本ではほとんど報道がないという奇妙さが続いているが、英語版のウィキでは、すでに一定の説明文がでた。ブッシュ政権時代に権勢を極めた、ハリバートンや、施設を製造した、韓国の現代重工業の名前も出ている。さらには、この巨大な掘削施設が、マーシャル群島に登録されているというのも、何かきな臭いものがある。船で言えば、便宜置籍船みたいなもので、普通のやり方になっているのかもしれないが。

http://en.wikipedia.org/wiki/Deepwater_Horizon

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Minister Kamei

記者会見の模様の動画像が、ネットに掲載されるようになった。しかも本音の発言であり、小泉・竹中政治の市場原理主義の、弱肉強食の政策の修正が、基本にあることが分かる。

郵政改革をめぐって、外国勢力が、内政干渉に近いような形で、ぎりぎりまで圧力をかけており、外務省がその手先となっている構図を明らかにしている。閣僚としては、激しい言葉を使って批判している。このことだけに限らないが、条約局長まで、そうした根回しに参加しているとは恐れ入る。外国に対して、主張せず、外国の利益の代弁者となる。明治の頃の、外交高官の爪のアカでも煎じて飲ませたいものである。

それにしても、大マスコミは、その実態をちゃんと報道しない、有力閣僚がちゃんと報道して下さいと懇願しても書かない。おかしな日本になってしまった。

http://news.livedoor.com/article/detail/4762979/

Uncredited Journalism

反市場原理主義を貫いてこられている、内橋克人氏の、ラジオ番組。現在の混迷する、マスコミの現状に対する批判である。ご参考まで。http://www.nhk.or.jp/r1/asa/businesswm4/5b2.asx

Tokunoshima people say No

Tokunoshimano

Hot pursuit 2

どなたが書いたのか知らないが、総務省の検証委員会が、腰折れになった経過を書いている。ご参考まで。http://udonenogure.iza.ne.jp/blog/entry/1528839/

ところで、厚生省の女性局長の逮捕まであった、郵便不正事件の報道が低調ですね。裁判が始まる前から、無実だというのが分かり、真犯人が分かるのも、ずさんな捜査のせいです。

悪い人を捕まえずに、善良な者を犠牲にすることは、おかしいことは誰にも分かることです。腐敗した国になりましたね。日本は。係長は、どなたから差配を受けたのでしょうか。これまたちょっと調べれば分かることです。それにしても、村木局長の弁護人が、政治犯罪の専門家で良かったですね。

Hon Mr Muneo Suzuki

鈴木宗男議員は、優れた立派な政治家である。月刊日本の主催の講演会の画像がある。

ご参考まで。

掲載されているサイトは、mahoroba japanである。リンクは、ご参考までに、http://www.youtube.com/user/mahorobajapan

である。

Bases in Okinawa--an inside story

アルジャジーラの番組である。岡目八目で、よくできている。日本が負けたから、米軍の大半が沖縄にいることも事実であるが、最近は、駐留経費の負担を日本が大盤振る舞いしているから、居座っているのではないかとの見方もある。さすれば、外国軍隊に、経費負担をしなければいいのだ。合意があれば、中止を通告すればいいだけ話だ。海兵隊の訓練施設であることを明らかにしている。訓練した後に世界各地に外征させているのだ。自立・自尊の日本を作らなければならない。日米関係を、従属関係ではなく、平等の、長続きのする関係にしなければならない。南西諸島の防衛を自力で増強するときである。

Structural destrunction

「始まっている未来──新しい経済学は可
能か──」抜き書きがネットに掲載されていた。抜き書きは、結構労力を要するが、その分転載する。日本の財政赤字なるものの、原因が日米構造協議にあることを指摘している。

米国は、日本を収奪しようとしたのだ。日本が貧しくなってからも、なお、それを継続しようとしたが、天佑があって、リーマンショックが起きた。そして、生き馬の目を抜く連中の多くが去ったが、まだまだ、残党は東京に残っている。あるいは、上げ潮だと思い込んで、カジノ経済で、スってしまった連中かもしれないが。

http://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/f55fa4a4aae98d431ec0663fcb362b93

◇次に地方自治体に関するものをこの単行本より抜き書きしてみる。

◆日本の植民地化と日米構造協議(P41~P43)

宇沢

 日本の場合、占領政策のひずみが戦後六〇年以上残っている。アメリカの日
本占領の基本政策は、日本を植民地化することだった。そのために、まず官僚
を公職追放で徹底的に脅し、占領軍の意のままに動く官僚を育てる。同時に二
つの基本政策があった。一つはアメリカの自動車産業が戦争中に自らの利益を
度外視して国のために協力したという名目をつくって、戦後、日本のマーケッ
トをアメリカの自動車産業に褒美として差し出す。もう一つは農業で、日本の
農村を当時余剰農産物に困っていたアメリカとは競争できない形にする。
 ポスト・ベトナムの非常に混乱した時代を通じて、アメリカは経常赤字、財
政赤字、インフレーションの三重苦に苦しんでいたが、とくに対日貿易赤字の
解消に焦点を当てて、円安ドル高是正を迫ったのが、一九八五年のプラザ合意
でした。しかし、その後も、日本の企業は、徹底した合理化、工場の海外移転
などによって高い国際競争力を維持しつづけて、アメリカの対日貿易赤字は膨
らむ一方だった。そこでアメリカ議会は「新貿易法・スーパー三〇一条」を制
定した。これは、もっぱら日本に焦点を当てて、強力な報復・制裁措置を含む
保護政策の最たるものです。それを受けて、一九八九年七月に開かれた日米首
脳会談で、パパ・ブッシュ大統領が宇野首相に迫ったのが「日米構造協議」の
開催でした。それは、アメリカの対日貿易赤字の根本的な原因は、日本市場の
閉鎖性、特異性にあるとし、経済的、商業的側面をはるかに超えて、社会、文
化など含めて日本の国のあり方全般にわたって「改革」を迫るものでした。
 日米構造協議の核心は、日本のGNPの一〇%を公共投資に当てろという要
求でした。しかもその公共投資は決して日本経済の生産性を上げるために使っ
てはいけない、全く無駄なことに使えという信じられない要求でした。それを
受けて、海部政権の下で、一〇年間で四三〇兆円の公共投資が、日本経済の生
産性を高めないような形で実行に移されることになったわけです。その後、ア
メリカから、それでは不十分だという強い要求が出て、一九九四年にさらに二
〇〇兆円追加して、最終的には六三〇兆円の公共投資を経済生産性を高めない
ように行うことを政府として公的に約束したのです。まさに、日本の植民地化
を象徴するものです。
 ところが、国は財政節度を守るという理由の下に地方自治体に全部押し付け
たのです。地方自治体は地方独自で、レジャーランド建設のような形で、生産
性を上げない全く無駄なことに計六三〇兆円を使う。そのために地方債を発行
し、その利息の返済は地方交付税交付金でカバーするという。
 ところが、小泉政権になって地方交付税を大幅に削減してしまったため、地
方自治体が第三セクターでつくったものは多く不良債権化して、それが自治体
の負債となって残ってしまったわけです。六三〇兆円ですからものすごい負担
です。その結果、地方自治体の多くが、厳しい財政状況にあって苦しんでいま
す。日本が現在置かれている苦悩に満ちた状況をつくり出した最大の原因で
す。

内橋

 押しつけられた地方財政の赤字、それを住民への行政サービスの削ぎ落とし
によって埋めさせる。「みせしめの夕張」が必要だったわけですね。

宇沢

 そういう政策を見ていると、日本は完全に植民地というか……属国ならまだ
いいのです。属国なら一部ですから。植民地は完全に搾取するだけのもので
す。それがいま大きな負担になっていて、救いようのない状況に陥っているわ
けです。(後略)

◆自治体行政への市場原理の導入(P53~P55)

(前略)

内橋

 先に触れました「地方分権21ビジョン懇談会」の提案を読むと、現代を「グ
ローバル都市間競争の時代」と定義づけ、「自治体破産制度を含めた市場原理
を導入した自治体づくり」を目指すべき、としています。これが政府の骨太の
方針に反映されて法律化され、二〇〇九年四月から適用された。それが「自治
体財政健全化法」です。重要なのは、本体の財政状況とレジャーランド、病
院、その他第三セクターといった、全く次元の異なったものを連結決算して評
価すること。連結ですから、例えば公立病院が赤字だと財政再建団体に指定さ
れるおそれが出てくる。施行を目前にして、レッドカードをつきつけられてい
るのがすでに四自治体、イエローカードの危険性のある自治体も四〇ある。懇
談会の答申は、自治体も経営に失敗すれば破産という事態に立ち至るという危
機感を持つことが、地方財政の規律の回復のために必要である、などと指摘
し、市場原理による自治体間競争こそ「あるべき二一世紀ビジョン」だと結論
づけています。
 宇沢さんがご指摘になったように、自治体財政の赤字はそもそも一〇年間で
四三〇兆円プラス二〇〇兆円、計六三〇兆円を生産性向上に結びつかない分野
に使えというアメリカからの要求があったため、国民の暮らしを豊かにする投
資には使えず、レジャーランドぐらいにしか使い途がないわけで、そこから出
てきた第三セクターなどの赤字が中心です。住民が飲み食いして消尽したわけ
ではない。
 これに対応してできたと思われるのがリゾート法で、非常に無残な結果を招
いた。私もリゾート法の跡地をNHKの『ETV特集』などで随分回りました
が、ひどいものです。中央からやってきたゼネコンが、ちょっとうまくいかな
いと引き揚げてしまう。夕張の松下興産もそうですね。夕張の場合は、その前
に閉鎖炭鉱の土地、住宅、病院から浴場まで引き継ぎ、五八三億円もの借金を
背負ってしまった。
 二一世紀ビジョンをいうのなら、まず不当なアメリカの対日要求の全貌、自
治体財政窮乏の由来を明らかにし、国が地方に迫ってきた過去のサイクルを断
ち切って、真に地域の内発的な力をいかに蘇らせていくのか、提案すべきで
す。
 それを十把一からげで市場原理だと。しかも、地方債の発行を、税負担=交
付税交付金で面倒見ると言っておきながら、御破算にするという非道徳性。そ
ういう形で地方を追い詰め、結局、行政サービスを削ぎ落とし赤字病院を遺棄
していく。「市場原理を導入した自治体づくり」などという提言をまとめた宮
脇淳・北海道大学教授をはじめとする方々は、いったい何を研究なさっておら
れる方々なのか。
 かくも愚かな提言が、審議会なり私的懇談会から出されて、それが骨太の方
針とか、改革工程表などに組み込まれた。これは民主主義ではありませんね。
民主国家ではそんなことはあり得ない。今日、可視化されるようになって多く
の人が気づき始めたけれども、たくさんの許せないことが平然と行われてき
た、と私は考えます。

◆本当の学究者とは(P67~P68)

内橋

 前回の地方債発行の話に戻りますが、実際には、地方が勝手気ままに地方債
を発行できたわけではありません。全国の地方債発行のグランドデザインを描
いているのは総務省であって、その財源についての地方財政計画も総務省がつ
くっています。つまり国が決めているのであって、地方自治体が勝手に飲み食
いしたり、地域住民が食いつぶして赤字を積み重ねていったわけではない。国
が決めたことのツケを地方自治体に押しつけ、結局、いま地方自治体は行政サ
ービスを削らざるを得ない瀬戸際に追い込まれてしまった。
 竹中平蔵総務相の私的懇談会に本物の学究者がいたならば、赤字の由来につ
いて情報公開を国に迫ったでしょう。合計で六三〇兆円を生産性向上に結びつ
かないようように、という条件つきで地方にばらまき、借りろ、借りろと借金
を強要したのはなぜだったのか、と。なぜいま各地の地方自治体にかくも巨額
の赤字が積もったのか、その真因をこそ解明すべきでした。今日、最大の政治
テーマである公共投資のあり方、日本型利益誘導政治の淵源がそこに発してい
るとみることができますね。
 それが、そもそもの原因に触れないまま、「自治体破産制度を含む市場原理
を導入した自治体づくり」などと自治体間市場競争論をひねり出し、政府の骨
太の方針に反映させ、工程改革表に乗せてしまった。再建団体に指定されたら
大変だ、と、その前に赤字の病院を切り捨てる。住民生活が窮迫の度を加える
道理です。(後略)

Imperial Cruise 5

父親たちの硫黄島、インペリアル・クルーズの著者のジェイムス・ブラッドレー氏のホームページである。ご参考まで。http://www.jamesbradley.com/

Why Okinawa? 4

Why Okinawa? 3

Why Okinawa? 2

Why Okinawa?

Fool's Gold Flowers

沖縄のネーネーズの歌。

黄金の花は散る、のですが、困ったことです。戦後史をまったく理解しない政権の指導者が権力をもっています。

Imperial Cruiese 4

昨年の12月の日米開戦の記念日の前の、ニューヨークタイムズの記事である。
インペリアル・クルーズ、父親たちの星条旗の著者の、ジェイムス・ブラッドレー氏の寄稿である。
December 6, 2009
Op-Ed Contributor

Diplomacy That Will Live in Infamy

Rye, N.Y.

SIXTY-EIGHT years ago tomorrow, Japan attacked the American naval base at Pearl Harbor. In the brutal Pacific war that would follow, millions of soldiers and civilians were killed. My father — one of the famous flag raisers on Iwo Jima — was among the young men who went off to the Pacific to fight for his country. So the war naturally fascinated me. But I always wondered, why did we fight in the Pacific? Yes, there was Pearl Harbor, but why did the Japanese attack us in the first place?

In search of an answer, I read deeply into the diplomatic history of the 1930s, about President Franklin D. Roosevelt’s policy on Asia, and his preparation — or lack thereof — for a major conflict there. But I discovered that I was studying the wrong President Roosevelt. The one who had the greater effect on Japan’s behavior was Theodore Roosevelt — whose efforts to end the war between Japan and Russia earned him the Nobel Peace Prize.

When Theodore Roosevelt was president, three decades before World War II, the world was focused on the bloody Russo-Japanese War, a contest for control of North Asia. President Roosevelt was no fan of the Russians: “No human beings, black, yellow or white, could be quite as untruthful, as insincere, as arrogant — in short, as untrustworthy in every way — as the Russians,” he wrote in August 1905, near the end of the Russo-Japanese War. The Japanese, on the other hand, were “a wonderful and civilized people,” Roosevelt wrote, “entitled to stand on an absolute equality with all the other peoples of the civilized world.”

Roosevelt knew that Japan coveted the Korean Peninsula as a springboard to its Asian expansion. Back in 1900, Roosevelt had written, “I should like to see Japan have Korea.” When, in February 1904, Japan broke off relations with Russia, President Roosevelt said publicly that he would “maintain the strictest neutrality,” but privately he wrote, “The sympathies of the United States are entirely on Japan’s side.”

In June 1905, Roosevelt made world headlines when — apparently on his own initiative — he invited the two nations to negotiate an end to their war. Roosevelt’s private letter to his son told another story: “I have of course concealed from everyone — literally everyone — the fact that I acted in the first place on Japan’s suggestion ... . Remember that you are to let no one know that in this matter of the peace negotiations I have acted at the request of Japan and that each step has been taken with Japan’s foreknowledge, and not merely with her approval but with her expressed desire.”

Years later, a Japanese emissary to Roosevelt paraphrased the president’s comments to him: “All the Asiatic nations are now faced with the urgent necessity of adjusting themselves to the present age. Japan should be their natural leader in that process, and their protector during the transition stage, much as the United States assumed the leadership of the American continent many years ago, and by means of the Monroe Doctrine, preserved the Latin American nations from European interference. The future policy of Japan towards Asiatic countries should be similar to that of the United States towards their neighbors on the American continent.”

In a secret presidential cable to Tokyo, in July 1905, Roosevelt approved the Japanese annexation of Korea and agreed to an “understanding or alliance” among Japan, the United States and Britain “as if the United States were under treaty obligations.” The “as if” was key: Congress was much less interested in North Asia than Roosevelt was, so he came to his agreement with Japan in secret, an unconstitutional act.

To signal his commitment to Tokyo, Roosevelt cut off relations with Korea, turned the American legation in Seoul over to the Japanese military and deleted the word “Korea” from the State Department’s Record of Foreign Relations and placed it under the heading of “Japan.”

Roosevelt had assumed that the Japanese would stop at Korea and leave the rest of North Asia to the Americans and the British. But such a wish clashed with his notion that the Japanese should base their foreign policy on the American model of expansion across North America and, with the taking of Hawaii and the Philippines, into the Pacific. It did not take long for the Japanese to tire of the territorial restrictions placed upon them by their Anglo-American partners.

Japan’s declaration of war, in December 1941, explained its position quite clearly: “It is a fact of history that the countries of East Asia for the past hundred years or more have been compelled to observe the status quo under the Anglo-American policy of imperialistic exploitation and to sacrifice themselves to the prosperity of the two nations. The Japanese government cannot tolerate the perpetuation of such a situation.”

In planning the attack on Pearl Harbor, Adm. Isoroku Yamamoto was specifically thinking of how, 37 years earlier, the Japanese had surprised the Russian Navy at Port Arthur in Manchuria and, as he wrote, “favorable opportunities were gained by opening the war with a sudden attack on the main enemy fleet.” At the time, the indignant Russians called it a violation of international law. But Theodore Roosevelt, confident that he could influence events in North Asia from afar, wrote to his son, “I was thoroughly well pleased with the Japanese victory, for Japan is playing our game.”

It was for his efforts to broker the peace deal between Russia and Japan that a year and a half later Roosevelt became the first American to win the Nobel Peace Prize — and one of only three presidents to do so while in office (the other two are Woodrow Wilson and President Obama, who will accept his prize this week). No one in Oslo, or in the United States Congress, knew the truth then.

But the Japanese did. And the American president’s support emboldened them to increase their military might — and their imperial ambitions. In December 1941, the consequence of Theodore Roosevelt’s recklessness would become clear to those few who knew of the secret dealings. No one else — including my dad on Iwo Jima — realized just how well Japan had indeed played “our game.”

James Bradley is the author of “Flags of Our Fathers” and “The Imperial Cruise.”

Imperial Cruise 3

インペリアル・クルーズの著者のジェイムズ・ブラッドレー氏に、拙文を書いて、同書の書評を書く準備をしていると連絡したら、早速返事を、当ブログは頂戴した。慧眼である。

返事は、短いメールで、「読んでいただいてありがとう。先月、東京の何カ所かで講演をした。米軍が日本を撤退することを勧める。沖縄を日本に返還する、その時が来た」、と書いてあった。

さてさて、日本政府の指導者は、米軍を日本全土に拡散しようとする売国政策を実行しようとしている。歴史を検証しようとする態度のない政治は、滅びてしかるべきであるが、日本が滅びる前に、そうした政治指導者が滅びる必要がある。小泉・竹中政治以上のたちの悪さを感じるが、読者の皆様いかがでしょうか。

ブラッドレー氏に激励を受けた思いで感謝する。

Another battle of Okinawa

Another battle of Okinawa

By CHALMERS JOHNSON
Los Angeles Times

The United States is on the verge of permanently damaging its alliance with Japan in a dispute over a military base in Okinawa. This island prefecture hosts three-quarters of all U.S. military facilities in Japan. Washington wants to build one more base there, in an ecologically sensitive area. The Okinawans vehemently oppose it, and tens of thousands gathered last month to protest the base. Tokyo is caught in the middle, and it looks as if Japan's prime minister has just caved in to the U.S. demands.

In the globe-girdling array of overseas military bases that the United States has acquired since World War II - more than 700 in 130 countries - few have a sadder history than those we planted in Okinawa.

In 1945, Japan was of course a defeated enemy and therefore given no say in where and how these bases would be distributed. On the main islands of Japan, we simply took over their military bases. But Okinawa was an independent kingdom until Japan annexed it in 1879, and the Japanese continue to regard it somewhat as the U.S. does Puerto Rico. The island was devastated in the last major battle in the Pacific, and the U.S. simply bulldozed the land it wanted, expropriated villagers or forcibly relocated them to Bolivia.

From 1950 to 1953, the American bases in Okinawa were used to fight the Korean War, and from the 1960s until 1973, they were used during the Vietnam War. Not only did they serve as supply depots and airfields, but the bases were where soldiers went for rest and recreation, creating a subculture of bars, prostitutes and racism. Around several bases fights between black and white American soldiers were so frequent and deadly that separate areas were developed to cater to the two groups.

The U.S. occupation of Japan ended with the peace treaty of 1952, but Okinawa remained a U.S. military colony until 1972. For 20 years, Okinawans were essentially stateless people, not entitled to either Japanese or U.S. passports or civil rights. Even after Japan regained sovereignty over Okinawa, the American military retained control over what occurs on its numerous bases and over Okinawan airspace.

Since 1972, the Japanese government and the American military have colluded in denying Okinawans much say over their future, but this has been slowly changing. In 1995, for example, there were huge demonstrations against the bases after two Marines and a sailor were charged with abducting and raping a 12-year-old girl. In 1996, the U.S. agreed that it would be willing to give back Futenma, which is entirely surrounded by the town of Ginowan, but only if the Japanese would build another base to replace it elsewhere on the island.

So was born the Nago option in 1996 (not formalized until 2006, in a U.S.-Japan agreement). Nago is a small fishing village in the northeastern part of Okinawa's main island and the site of a coral reef that is home to the dugong, an endangered marine mammal similar to Florida's manatee. In order to build a large U.S. Marine base there, a runway would have to be constructed on either pilings or landfill, killing the coral reef. Environmentalists have been protesting ever since, and in early 2010, Nago elected a mayor who ran on a platform of resisting any American base in his town.

Yukio Hatoyama, the Japanese prime minister who came to power in 2009, won partly on a platform that he would ask the United States to relinquish the Futenma Marine Corps Air Station and move its Marines entirely off the island. But on Tuesday, he visited Okinawa, bowed deeply and essentially asked its residents to suck it up.

I find Hatoyama's behavior craven and despicable, but I deplore even more the U.S. government's arrogance in forcing the Japanese to this deeply humiliating impasse. The U.S. has become obsessed with maintaining our empire of military bases, which we cannot afford and which an increasing number of so-called host countries no longer want. I would strongly suggest that the United States climb off its high horse, move the Futenma Marines back to a base in the United States (such as Camp Pendleton, near where I live) and thank the Okinawans for their 65 years of forbearance.

ABOUT THE WRITER

Chalmers Johnson is the author of several books, including "Blowback" and the forthcoming "Dismantling the Empire: America's Last, Best Hope." He wrote this for the Los Angeles Times.

Imperial Cruise 2

Amami group of islands including Tokunoshima

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/japan/amami.html

奄美の戦後史について相当のネット資料がある。ご参考まで。ちなみに、復帰運動は、日本にまれに見られる民族運動であることは特記しておきたい。左であれ、右であれわが祖国の話であった。琉球の占領がマニラの司令部から発出された話も興味深い。植民地フィリピンの統治のやり方の延長でとらえていたのでしょうか。

徳之島に「県外」移設というのもおかしな話で、相手からすれば、同じ「琉球」内の移設です。日本の中央の指導者は、そんな歴史も知らなくなったようです。奄美の復帰50周年に、外務大臣も行かず、米国大使もこないので、失笑を買ったのと同じです。復帰して振興費をたくさん出したととの趣旨を発言した大臣は危なく罵声を浴びせられそうになりましたが、今の新政権の対応も同じような漢字です。ちなみに、浦添にある米国の総領事館は、今でも、奄美を管轄区域にしています。相手は、ペリー提督以来考えを変えていないようです。奄美を1953年に変換したのは、復帰運動で、手を焼きそうになったからです。

Out of order

いよいよ迷走を始めたらしい。沖縄にある、米軍の機能を全国に分散移転させる方向だという。日本の植民地化である。日本の武装解除の完成のような話をしている。今やるべきことは、沖縄の痛みを全国にばらまくことではない。沖縄の過度の基地集中が本当に必要かどうかを検討してそうでなければ、軍縮ならぬ、普天間基地ないらないのではないかと、米国に対して主張することだ。実際、ヨーロッパでもそうした声は起きている。シナが間隙を縫った示威行動をしているが、これには、外交、自衛力をもって対処すべきであるし、そもそも日米同盟が機能するかどうかの試金石でもある。日本全国に散らかして分散移転するのは愚の骨頂である。いよいよ迷走を始めた感で、鳩山内閣の民意を尊重しないことが明らかになったのかもしれない。米国の新政権も、日本の新政権が、武装解除で、独立を放棄するとでも言わんばかりの話をされると、面食らっているのが実態かもしれないし、また、普天間利権、米軍関東軍の連中にとっては、新たな甘い汁の吸いどころと考えるのも当然であろう。政権の命運が尽きたような話である。屈辱的な話でもある。

「政府は8日、沖縄県の米軍普天間飛行場移設問題で、同飛行場や米軍嘉手納基地の飛行訓練を鹿児島県・徳之島のほかにも全国各地に分散移転させる方向で調整に入った。

 同飛行場の県外移設が困難となる中、沖縄の負担軽減策の柱としたい考えだ。しかし、米側がどこまで応じるかは不明な上、沖縄側や移転先自治体が納得する見通しも立っておらず、実現性は不透明だ。

 北沢防衛相は8日夜、長野市での会合で「沖縄で活動している(米軍の)ヘリコプターや飛行機の訓練を日本全国へ散らし、『半分になった』『4割方減った』と沖縄の皆さんに実感してもらえるような案を今作っている」と明らかにした。その上で、17日以降で調整している鳩山首相の沖縄再訪問時を念頭に「沖縄県知事に示して納得していただく」と述べた。一部訓練を青森県の米軍三沢基地に移転している嘉手納基地についても「本土の方へ訓練をどんどん出す」として、さらに分散移転を進める考えを示した。

 首相は8日午後、首相公邸で平野官房長官らと今後の対応を協議した。週明けにも関係閣僚会議を開き、負担軽減策を含む政府案を詰める方針だ。

 政府関係者は8日夜、「訓練を沖縄県外に出すことを米側にある程度のんでもらえれば、それは一つの政治的決着だ」と指摘し、訓練移転で米側と調整がつけば「5月末決着」とみなす意向を示唆した。」


Commodore Perry and Stubborn negotiator

ご参考まで。明快な主張である。 http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-3410.html 民意を鳩山政権は尊重せよ。さもなくば、脅されている臆病者にしかならず、交渉力が上がるはずもない。鳩山政権が、フィリピンのアギナルドのように統治能力がないとして、退陣させられるだけの話である。自立・自尊の日本を追求すべきである。

Morgan Stanley

長々しい会社の名前だ。ホームページを見ると、この5月に発足した会社のようである。挨拶を下記に引用した。小泉・竹中政治を通じて、あるいは、新政権が登場してからも仕分けの会議の委員に潜り込んだ関係者がいたが、モルガンスタンレーの関係者が、上げ潮だとシェイクスピアのジュリアスシーザーの場面の言葉を引用して、あらゆる構造改革をあおったことが記憶に新しい。シンガポールの会合では、日本代表の挨拶原稿を書いたとの噂も飛び交った。日本にいる、モルガンスタンレーの関係者の本質は何者なのかhttp://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20091115/1258242811、岩崎弥太郎以来の三菱財閥との関連はどういうことにあるのか、20世紀以来の日米関係の中で、プラスに働くのか、マイナスに働くのか、興味深いことである。長銀や不動産銀行(元朝鮮銀行)の後継銀行のことなども気になる。ギリシアの財政危機なども、Government Sachsとの揶揄が思い出される。それにしても長々しい、証券会社の名前だ。小泉・竹中政治を通じて金融機関の統合が行われて、ずいぶんと数が少なくなった、あるいは寡占化が行われたが、一体全体本当に、国益になったのだろうか、との検証が必要に思われる。モルガンだけではなく、引き金を引いた、リーマンのことなども忘れてはならない。今頃、黄金を日本で巻き上げた連中は、ニューヨークのセントラルパーク沿いの高級アパートで、未だに忘れ得ぬ極東の、東京の一攫千金の思い出話のパーティーを繰り広げている話を聞くこの頃ではある。

「平成22年5月1日をもちまして、三菱UFJ証券株式会社とモルガン・スタンレー証券株式会社のインベストメントバンキング業務が統合し、三菱UFJモルガン・スタンレー証券株式会社が誕生いたしました。

三菱UFJモルガン・スタンレー証券は、三菱UFJフィナンシャル・グループが60%、モルガン・スタンレーが40%を出資し、個人・法人のお客さま向け業務、市場商品業務、投資銀行業務、リサーチ業務を大きな柱として、これまで両社が築いてきた強みを活かし、国内外のさまざまな企業や投資家の皆さまに幅広いサービスをご提供してまいります。

これまでの三菱UFJ証券のお客さまには、モルガン・スタンレーが有するグローバル・ネットワークと投資銀行業務におけるノウハウを最大限に活用し、先進的なサービスおよび質の高い商品をご提供いたします。
モルガン・スタンレー証券のインベストメントバンキングのお客さまには、日本国内で長年にわたって培われたリレーションシップや三菱UFJフィナンシャル・グループのブランドとネットワークをベースとして、幅広い企業や投資家の皆さまへのアクセスをご提供いたします。

金融機関を取り巻く経営環境が大きく変化しているなか、三菱UFJモルガン・スタンレー証券は、三菱UFJフィナンシャル・グループとモルガン・スタンレー両社の総合力の下、健全な財務と強固なコンプライアンス機能によって、お客さまに安定したサービスと安心をお届けしてまいります。

三菱UFJ証券とモルガン・スタンレー証券が有する企業文化を互いに尊重し、理解しあうことから、新たなリーディング・カンパニーが誕生します。」

Shanghai Expo without our Flag

上海万博で国旗掲げぬ日本館―「反日」恐れるなら閉館せよ

ごもっともな意見です。反日の運動が過激になるのは、支配に対する不満が鬱積していることも最近では明らかになってきました。堂々と、日本の国の旗を掲げるべきです。恐れるなら、閉館せよという主張も分かります。軍国主義化する中国にも、日本のことをよく知る人々が増えています。そうした人々を見捨ててはなりません。堂々と、日本の国旗を掲げるべきでしょう。

台湾は日本の生命線からの転載です。ご参考まで。

本稿は5月2日記。ブログでは関連写真も↓
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-1151.html

上海万博開幕初日の五月一日、日本の官民が共同出展した日本館には長蛇の列ができる人気ぶりだっ
たそうだが、いったい同館はいかなるメッセージを中国に発しようとしているのか。

この日の開館式で仙谷由人国家戦略担当相は、「多くの人に『こころの和、わざの和』をキーコンセ
プトとする日本館を訪れてもらい、先進的な技術と、自然と共生する文化、さまざまな問題を国境を
越えて解決しようと言う日本人の心に触れてほしい」と挨拶しているが、これなどは中国人への懇願
のメッセージに見える。

つまり「日中間が抱える様々な摩擦問題の解決に向け、日本側は『和の精神』で臨んでいる。中国に
皆さん、どうか日本に悪意なきことをご理解下さい」と言ったように受け取れる。

しかし他国不信の戦国思考から脱しない中国側に軽々しく「和の精神」を強調しても誤解を招くだけ
だろう。弱者、敗者が強者、勝者に対して行う恭順の意思表示と受け取られる恐れが充分にある(あ
るいは相手に油断を与えるため策略とも)。

ところでこの日、多くの外国館が自国旗を掲揚する中、日本館がそれを見送っている。読売、産経な
どは、中国の「反日感情への配慮」ではないかと報じているが、これも所謂「和の精神」の発露のつ
もりか。

読売によれば、「中国では抗日戦争を題材にしたテレビ番組が頻繁に放映されており、日の丸が軍国
主義の象徴と受け止められる傾向が強い」(読売)と言う。

しかしそう言うものなのだろうか。たしかに日本人が日章旗を「軍国主義の象徴」と批判しているた
め、そうした認識が中国に伝わるようになっているとの状況も見られるが、ただある中国ウォッチャ
ーに聞くと、日章旗をそのようにと捉えるのはあくまで日本人であって、中国人にとってそれは「た
だの日本の旗」。

そして「日本アレルギー」はあっても、「日の丸」だけにアレルギーを持っているわけではないと言
う。と言うことは日本館は、日章旗のみならず、「日本館」の看板も外さなければならなくなる。

いや反日感情を煽ることだけは避けたいと思うなら、いっそ閉館にして万博から撤退するべきである


しかしそれができないと言うのなら、堂々と国旗は掲揚するべきだ。もし国旗が汚される恐れなしと
言えないのなら、警備員を動員して厳重な警護を行う以外にない。

このように見ると、日本館が言うところの「和の精神」など、ひたすら摩擦だけを恐れる弱者、敗者
の「怯懦な性格」を自ら美化したものではないかと本当に思えてくる。

だが日本館関係者は、反日感情への配慮ではないと否定している。「これまでもハノーバー万博(ド
イツ)など、外国開催でのパビリオンには国旗を掲げないケースがあった」と話しているそうだ(産
経)。

私は昭和六十年の筑波万博会期中、日本政府が出展したテーマ館で警備員のアルバイトをやったこと
がある。当時そこでは毎朝、二人の警備員が白手袋をはめ、厳粛に国旗掲揚を行っていたものだが、
近年の万博ではそれを取り止めていると言うのか。

万博と言う国際舞台において国旗は国家の尊厳を表すものである。その尊厳を解さぬ政府であるなら
、国際社会に顔など出してはならない。

そしてここで浮上する一つの疑惑が、国旗の不掲揚はもしや自国民の反日を恐れる中国側からの要請
を受けてのものではないかと言うことだ。

仮に要請が出たならば、国家の尊厳を忘れた日本館がそれに応じたとしても何の不思議もない。しか
しそれでは中国に対し、「日本が貴国の属国である」と言ったに等しくなる。

日本館は国旗を掲げよ。もし「軍国主義」の旗だとの批判が出たら、「この美しい旗こそが『和の精
神』を尊ぶ国家の象徴である」と説明し、納得させよ。それが国の代表者としての、国際舞台におけ
る使命と言うものである。

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上海万博の日本館は国旗を掲揚して国家の尊厳を守れ

要求先 日本館広報管理センター
Eメール:info@expo2010japanpavilion.com

Tokunoshima

BBCの報道である。イギリスの見方。最後の二つの文章のコメントが興味深い。

「Okinawa is the focal point of the security treaty between the US and Japan which has balanced military power in north-east Asia since World War II. 第二次世界大戦後、北東アジアの軍事力の均衡を保ってきた、日米安全保障条約の焦点となる場所が沖縄である。

日米の条約の下では、日本は、憲法によって、戦争を準備する兵力を持つことを放棄しているために、アメリカが日本の安全を保障するために、米国軍が駐留することを認めてほじょする、と書かれている。

Under the pact, Japan - which is prevented from maintaining a war-ready army by its constitution - subsidises the US military presence while the US guarantees Japan's security. 」

さて、さて、憲法九条は、そうすると、アングロサクソンの見方では、却って米軍の駐留を認める論理を補強することになる。日本を守る為に駐留していて、それを日本が助けると書いている。本当にそうだろうか、第二次大戦直後の状況とも、朝鮮戦争の時とも、あるいは冷戦崩壊後とも異なっているのではないのか。もし、それなりの戦力を、実際には自衛隊として保有しているのだから、その分、米軍は縮小すべきではないのか。普天間はもういらないのではないのか。日本は自衛力を増強すべきではないのか。むしろ、その方が日米関係を強化するために必要ではないのか。 米国は、いつも、中国との関係で揺れる。経済同盟は、ほぼ、中米同盟になりつつあるが、本当に日本の安全保障を確保する力があるのか。日本を無力にする装置ではないのか。莫大な、思いやり予算を、外国軍隊に払い続けることは、独立国家としておかしいのではないのか。アメリカ国民にそうした実態はまったく知らされていないように見えるがどうか。

当ブログは、自立・自尊の平和を求める日本を追求したい。

以下は、ロンドンのBBCの報道である。簡潔な文章であるが、明快である。もう、イギリスは、米国と特殊な関係を維持していないような客観的な報道である。

Japan PM rebuffed over base plan

Officials from a Japanese island have rejected the prime minister's proposal that they host US troops relocated from an unpopular base in Okinawa.

The move by the mayors of Tokunoshima is a further blow to PM Yukio Hatoyama's effort to deal with the controversial Futenma US marine base.

Earlier this week, he conceded that his election pledge to close the facility completely was "unfeasible".

Okinawa is home to more than half the 47,000 American troops based in Japan.

Mr Hatoyama told the three mayors from Tokunoshima he would be "grateful" if they would accept some of the facilities he wishes to be relocated from Okinawa.

But one of the mayors, Kosuke Ohisa, told him the island was "categorically opposed to the relocation".

When he asked whether he could visit the island to negotiate further, Mr Hatoyama was told: "We cannot meet you."

Poll risk

The prime minister had initially said he wanted to close the Futenma base entirely, and had given himself until the end of May to resolve the issue.

OKINAWA
  • Located off the south coast of the Japanese mainland
  • Home to several US bases and more than 20,000 troops
  • Island administered by the US from 1945 until 1972
  • Many residents blame US bases for crime and noise pollution
  • But on Tuesday, he conceded that it was impossible to close it completely on the grounds of national security, prompting angry reactions.

    The BBC's Roland Buerk in Tokyo says time is running out for Mr Hatoyama and his options are narrowing.

    His apparent dithering could cost him his job, with elections for Japan's upper house of parliament due in July, says our correspondent.

    Mr Hatoyama's approval ratings have plummeted in recent weeks and support for his centre-left government has been undermined.

    Last month, nearly 100,000 people staged a protest on the southern island, demanding that the Futenma base be removed.

    Islanders have been angered by incidents involving US troops based there, including the 1995 rape of a 12-year-old Japanese girl and a helicopter crash in 2004.

    Other complaints have focused on noise levels and objections to the US military use of Japanese land.

    The row has also damaged Tokyo's relationship with the US.

    Okinawa is the focal point of the security treaty between the US and Japan which has balanced military power in north-east Asia since World War II.

    Under the pact, Japan - which is prevented from maintaining a war-ready army by its constitution - subsidises the US military presence while the US guarantees Japan's security.

    Governor Itoh Yuichiro

    当ブログは、伊藤祐一郎鹿児島県知事に心からの敬意を表する。優れた政治判断である。滝野官房副長官と同じく、旧自治省出身の知事であるが、昨年も、薩摩の琉球征伐400周年で奄美を、沖縄県知事とともに訪れており、歴史を踏まえた対処であり、敬意を表する。それにしても、鹿児島の民主党は、徳之島の基地にも反対しない勢力と化しているのか。集会を農協が主催するのも、興味深い異例である。国家の安全保障は、小さな政局ではない。(そもそも、奄美の戦後の米国占領からの復帰運動は、日本では珍しい民族運動であったが、そうした歴史的な運動があったことなど、鳩山政権はまったく無知のようで劣化している。単なる対米追随で、旧自民党政権、小泉・竹中政治よりもたちが悪いのかもしれない。)

    China

    興味深い議論である。少数民族に弾圧を加え続ける国家の美称を言うわけには行くまい。

    http://blog.ohtan.net/archives/50955539.html

    議論の余地があるが、地理的な呼称としては説得力としても無理がない。

    Japan Connection

    日米の開戦を回避しようとしたアメリカ側の外交関係者の物語である。

    http://vcas.wlu.edu/VRAS/2005/Rickman.pdf

    ご参考まで。

    グルー大使などの日記は、現在、ハーバード大学にあるという。戦後出版されたグルー日記をネットに転載しようとしているサイトを見つけたのでこれまたご参考まで。

    http://daioh.iza.ne.jp/blog/entry/156978/

    Biology

    何かおかしなことが起きているようだ。

    京都大学さんよ、しっかりして下さいよ。海外企業と契約をしてはいけないと行っているのではないが、国益を大事にして下さいとの意見です。

    その昔、日本で発明されたある衛星通信の技術が日本の学者が外国に無償で提供して、世界的に普及したのはよかったのですが、いっこうに日本では使われなかったことがありましたし、今回は、無償提供ではなくて、カネが絡んでいますから、外国の企業が潤って、日本が滅ぶのではどうしようもなくなるという、老婆心ながらの心配です。外国の企業は本当に、カネカネの世界で生き馬の目を抜くような連中が多いですから申し上げているだけです。本当は、

    国立大学ですから、ちゃんと政府が規制すべきなのですが、構造改革とやらで、もう政府の法も審査能力も国を守る意識も失せてしまったいるのかもしれませんが。金儲けではなく、だけではなく、日本の国民の福祉の為にまずは、第一にして、それから、やはり人間の為に活用されることと言う崇高な目的を忘れると、恐ろしいことになる。つまり、細胞の民間独占が起きてしまうことになります。

    格言がありますが、Good inventions will soon be exploited by malicious people, どんなによい発明も、そのうちすぐに、よこしまな連中に悪用されてしまう、というのがありますが、どうでしょうか。

    「京都大が設立したiPS細胞(新型万能細胞)の特許管理会社「iPSアカデミアジャパン」(京都市)は7日、米バイオ企業「セルラー・ダイナミクス・インターナショナル(CDI)」に特許使用を認める契約を結んだと発表した。

     海外企業との契約締結は初めて。

     CDI社は、山中伸弥・京大教授のライバルであるトムソン・米ウィスコンシン大教授らによって設立され、山中教授とは異なる方法で作ったiPS細胞由来の心筋細胞を商品化した。今後1年半以内に肝臓や神経などの細胞も発売予定で、その作製に山中教授の方法も取り入れる意向という。特許料などは明らかにしていない」とある。

    英文の記事もある。

    外国の会社は日本に子会社を作って、いろいろな活動をしているようである。

    http://www.news-medical.net/news/20100507/CDI-iPS-Academia-Japan-announce-licensing-agreement-for-seminal-iPSC-patent-portfolio.aspx

    Chalmer Johnson's view on Okinawa

    http://www.tomdispatch.com/post/1112/johnson_chalmers_three_rapes

    アメリカ人によって批判的に書かれた沖縄の問題。

    2003年の文章であるが、最近になって、何か先祖返り、いや、昔より悪くなっているように思うがどうだろうか。

    Who waged the War? Japan trapped by China and ?

    茂木先生の、海外向けの論文です。所々読みにくいところがありますが、その際は、元々のサイトをご覧いただければ幸いです。 http://www.sdh-fact.com/CL02_1/69_S4.pdf

    The Second Sino–Japanese War Was Caused by China
    — A Criticism of the ―Japan-as-Aggressor

    ‖ View —
    by Moteki Hiromichi, deputy chair,
    Society for the Dissemination of Historical Fact

    Introduction

    The Marco Polo Bridge Incident is usually considered to have been the start of the
    Second Sino–Japanese War. It is no mistake that this incident served as the trigger for
    the Sino–Japanese conflict, but the incident itself was only a small conflict and it
    should not be called the start of a full-blown war. What must officially be considered
    to have been the start of the Second Sino–Japanese War was the concerted full-scale
    attack that was the general mobilization on Aug. 13, 1937, of 30,000 regulars under
    the Chiang Kai-shek government in Shanghai in opposition to the Japanese navy landing
    force stationed there for the protection of Japanese residents.
    Who, then, caused the actual war between China and Japan?
    In an Aug. 31, 1937, article in The New York Times by Shanghai correspondent
    Hallett Abend, we find the following:
    Foreigners Support Japan
    Official foreign observers and officials of various foreign governments who participated in various
    conferences here in seeking to avoid the outbreak of local hostilities, agree that the Japanese
    exhibited the utmost restraint under provocation, even for several days keeping all of the Japanese
    landed force off the streets and strictly within their own barracks, although the move somewhat
    endangered Japanese lives and properties.
    ―Opinions may differ regarding the responsibility for the opening of hostilities in the vicinity of
    Peiping early in July,‖ said one foreign official who was a participant in the conferences held
    here before Aug. 13, ―but concerning the Shanghai hostilities the records will justify only one
    decision. The Japanese did not want a repetition of the fighting here and exhibited forbearance
    and patience and did everything possible to avoid aggravating the situation. But they were literally
    pushed into the clash by the Chinese, who seemed intent on involving the foreign area and foreign
    interests in this clash.‖
    The tenor of the article in The New York Times followed the general trend of the
    time to be critical of Japan and sympathetic toward China. The article still states that
    the start of the fighting in Shanghai was due to a one-sided strike by the Chinese army.
    Some 30,000 Japanese were living in the Shanghai concession and working in
    manufacturing or trade. Stationed to protect the residents was a 2,200-man landing
    force from the navy. The Chinese army violated a cease-fire agreement1 in sneaking a
    large number of soldiers into the demilitarized zone outside the concession, so reinforcements
    numbering 2,000 were hurriedly gathered. The ―all of the Japanese landed
    force‖ mentioned in the Shanghai article are those some 2,000 landing-force troops.
    On Aug. 9, the Chinese army murdered Sublieutenant Ôyama Isao and Seaman
    First Class Saitô Yozô, who were in their automobile and carrying out an inspection.
    1 The Shanghai Ceasefire Agreement, agreed to between Japan and China on May 5, 1932, after the
    first Shanghai Incident. A committee was formed of American, British, French, and Italian members
    working alongside Chinese and Japanese members to observe that the terms of the treaty were carried
    out. The location for stationing troops of both Japan and China was decided by the agreement.
    2
    The Chinese obstinately insisted that they had been attacked and returned fire, bringing
    out the body of a Chinese Peace Preservation Corps soldier as evidence, but the
    bullet damage indicated clearly their deaths had not been because of the Japanese.
    The book Mao (by Jung Chang and Jon Halliday, Anchor Books, 2005) explains that
    the incident was orchestrated by Gen. Zhang Zhizhong, the defensive commander of
    Nanking and Shanghai and a Communist Party member who had infiltrated Chiang‘s
    high command, to force Chiang Kai-shek to decide to attack the Japanese forces.2
    The Chinese regulars surrounding the concession numbered more than 30,000, the
    core of which was the elite 88th Division. On the 13th the offensive began, and on the
    14th the Chinese began simultaneous aerial bombardment as well. I will show how
    these attacks led to the outbreak of full-scale war later.
    In any case, it was clearly the Chinese who were the ones who set the course for
    war. It is distinct truth that Japan was dragged into a war she did not want. The
    launching of a concentrated attack by regular army troops against civilians and soldiers
    stationed in accordance to treaty is, speaking in terms of international law,
    committing ―acts of aggression‖ — regardless of whether they are inside their own
    country.
    The Marco Polo Bridge Incident was also orchestrated by China
    The article in The New York Times said, ―Opinions may differ regarding the responsibility
    for the opening of hostilities in the vicinity of Peiping early In July.‖ It
    was a conflict that became the impetus for what followed, but in point of truth, this,
    too, was clearly a conflict that had been orchestrated by the Chinese.
    This is clearly written in the local cease-fire agreement3 that was concluded on July
    11, four days after the actual shooting incident. The first item on the three-item
    cease-fire agreement says: ―The representative of the 29th Route Army expresses his
    regrets to the Japanese forces, and declares that those formerly responsible will be
    punished, and those who will in future be responsible will take precautions to never
    again provoke such an incident.‖ China clearly assumed the responsibility. The 29th
    Route Army was a force of approximately 150,000 controlling northern China under
    the command of Gen. Song Zheyuan. The opposing Japanese forces stationed there4
    were no more than 5,600, so is impossible to say they were an overwhelming force in
    position to press for an unreasonable cease-fire deal. Afterward, China made out as if
    to say it did not exist, but that is preposterous. First of all, the document exists. The
    third item on the agreement says, ―In light of the incident resulting from guidance
    from the so-called Blue Shirts Society, the Communist Party, and all manner of other
    anti-Japanese organizations, we will in future undertake counter-measures against
    them and supervise them thoroughly.‖ The work of putting the particulars of the
    2 ―But on 9 August, at Shanghai airport, an army unit hand-picked by ZZZ [=Zhang Zhizhong] killed a
    Japanese marine [sic.] lieutenant and a private [sic.]. A Chinese prisoner under sentence of death was
    then dressed in a Chinese uniform and shot dead at the airport gate, to make it seem that the Japanese
    had fired first. The Japanese gave every sign of wishing to defuse the incident, but ZZZ still bombarded
    Chiang with requests to launch an offensive, which Chiang vetoed.‖ Mao, p. 198.
    3 Agreed to by Qin Dechun, acting commander of China‘s 29th Route Army, and Matsui Kyûtarô, head
    of the Japanese Army Beijing Special Military Agency.
    4 According to the Boxer Protocol, agreed upon by eight nations, including Japan, Great Britain, America,
    and France, in 1901 after the Boxer Rebellion was put down, stationing troops for the defense of
    the residents in the Beijing and Tianjin areas was allowed. At the time, America stationed 1,200 and
    France 1,800, while Japan stationed 5,600. This was because the Japanese living in the Beijing area
    were more populous — some 33,000. Looking at the civilian-to-military ratio, Japan was 6:1, America
    2:1, and France was 1:3. Proportionally speaking, Japan had far and away the smallest military force.
    3
    agreement into operation went forward, and later, on July 19, the pact was concluded.
    It is true that, for her part, Japan labored to that point to observe the terms of the
    agreement even while acts in violation of it frequently took place. Nothing could be
    done about China‘s repudiation of the existence of the agreement. In other words, not
    only did the Japanese military not set the course, the responsibility rests entirely on
    the shoulders of the Chinese.
    There was a need for a Chinese attack
    In the first place, there was absolutely no reason for Japan to make an attack. It
    goes without saying that it would be insane if the only 5,600 troops stationed there
    were to plan an attack on the 150,000-man 29th Route Army. Moreover, if one were
    to speak of the full might of the Japanese army — in Japan, in Manchuria, in Korea,
    and in China — it would have been roughly 250,000 men. Compared to this, China
    had 2.1 million. Of that number, 500,000 had received training in modern tactics and
    equipment from leadership under German military advisors. In addition, Japan‘s
    greatest potential enemy was the Soviet Union, and the Soviets had a large military
    force of 1.6 million, 400,000 of which had been dispatched to the Soviet Far East.
    Given all these conditions, it would have been foolish for Japan to open hostilities in
    northern China, and there were no plans for any such thing.
    In China at that time, however, there was an overwhelming predominance of those
    advocating war against Japan. Excluding the peasantry, the urban residents of China
    had a burning desire for war and were confident of victory. One could look at all of
    the newspapers published in China at the time, and the situation would be obvious.
    The book Nitchû Sensô: Sensô o nozonda Chûgoku, sensô o nozomanakatta Nihon
    (―The Second Sino–Japanese War: The China that wanted war, and the Japan that did
    not want war‖)5 provides a detailed account of this. Those advocating war at the time
    can be broadly broken down into three groups. First were the radical intellectuals,
    students, and urban citizens; second were members of the Chinese Communist Party;
    third were the provincial military cliques. As supporters of the radical public opinions
    of the leaders of the intellectuals and others, the Communist Party and the military
    cliques used their opposition to the stance of the government of Chiang Kai-shek and
    advocated war as a more profitable goal.
    The Communist Party in particular used the anti-Japanese stance as their most
    powerful political weapon. The Chinese Soviet Republic, established in November,
    1931, in Ruijin in Jiangxi province, issued a proclamation of war against Japan in the
    name of the Central Government on Apr. 26, 1932. (On Sept. 18, they also issued an
    ―official‖ proclamation of war by telegram.) In addition, in August of 1935, in accordance
    with the Comintern‘s ―Anti-Fascist United Front‖ directive, they issued a declaration
    of anti-Japanese patriotism. Then, in December of 1936, the Xian Incident
    took place. Chiang Kai-shek, setting out to urge his soldiers to fight more vigorously
    in the subjugation of the Communist Party, was kidnapped by Marshal Zhang Xueliang,
    who was the north-eastern commander in charge of those activities. Chiang
    was pressured into working with the Communist Party to put anti-Japanese conflict
    into practice. The Nationalist Party‘s confrontational line toward the Communist Party
    was diverted, and the anti-Japanese sentiment swelled all the more.
    And then, the Marco Polo Bridge Incident occurred
    5 Kitamura Minoru and Lin Siyun, Nitchû Sensô: Sensô o nozonda Chûgoku, sensô o nozomanakatta
    Nihon (The Second Sino–Japanese War: The China that wanted war, and the Japan that did not want
    war) (Tokyo: PHP Kenkyûjo, 2008), pp. 3, 72–90.
    4
    Given the circumstances, it was only a matter of when and where that a not unexpected
    strike on the Japanese would happen. On July 7, 1937 the Marco Polo Bridge
    Incident took place.
    The 135 men of the Japanese army‘s 8th Company, having given prior notice to
    the 29th Route Army, conducted maneuvers on the dry riverbed near the Marco Polo
    Bridge. As the map (attachment 1) shows, the maneuvers began in front of the bridge
    at a position about 400 meters distant from the Marco Polo Bridge wall (the Wanping
    Fortress wall) and the embankments that were the Chinese army bunkers, and at about
    10:40 PM, just before the maneuvers were to end after a 400-meter advance, several
    shots were fired into the Japanese positions. After that, ten-odd shots were fired from
    the direction of the embankments. A few hours later at 3:25 AM, there were three
    more shots; and at 5:30, after taking fire a fourth time, the Japanese forces finally responded
    with their own fire. This was seven hours after the first shots had been fired.
    It was therefore only natural that the 29th Route Army would admit total culpability
    in the cease-fire agreement signed on the 11th.
    As I have already shown, it said, ―In light of the Incident resulting from guidance
    from the so-called Blue Shirts Society, the Communist Party, and all manner of other
    anti-Japanese organizations, we will in future undertake counter-measures against
    them and supervise them thoroughly.‖ The commanders of the 29th Route Army, too,
    weren‘t completely certain who it had been that had fired the shots, but they certainly
    inferred that their suspicions were that it had been members of the Communist Party.
    It was natural that the Chinese Communist Party, who continued to cry for total
    anti-Japanese action, would try to continue causing clashes, but the truth was that at
    the time the Communist Party found itself facing a serious predicament. To be sure,
    with the Xian Incident, Chiang Kai-shek had ceased attacking the Communists and he
    promised to forge cooperation and connections with the Communist Party; but he
    thrust strict conditions one after another at the Communist Party, and half a year later,
    around June of 1937, relations between the Nationalist and Communist parties were
    on the verge of a breakdown. Edgar Snow wrote,
    But by June 1937. Chiang Kai-shek had scattered and demoralized the once-powerful Tungpei
    Army, moved his own forces into Shensi, and again was blockading the Reds---Once
    more they now seemed to face the choice of total surrender or encirclement and disaster, or
    retreat to the northern desert.6
    The Communist Party was launching itself upon an enormous gamble to break the
    predicament. A large number of Communist Party members had slipped into the ranks
    of the 29th Route Army7 and fanned anti-Japanese sentiment, and those caught up in
    that fervor caused the shooting incident of 10:40 PM on July 7.
    Immovable proof that the Communist
    Party planned it: the 7-8 circular telegram
    6 Edgar Snow, Random notes on Red China, 1936-1945, Harvard University Press, Cambridge, 1957.
    Preface.
    7 Thanks to Chinese publications it is now clearly known that a large number of Communist Party
    members had slipped into place in the 29th Route Amy, including four staff officers (one of whom was
    the deputy chief of staff, Zhang Kexia), the local deputy propaganda chief, the intelligence bureau chief,
    battalion commanders, and others. Wang Jianying, ed., Zhonggong zuzhi ziliao bian [Compiled documents
    on the Chinese Communist Party organization] (Hongqi Publishers, 1983); He Husheng et al.,
    ed., Zhonghua renmin gongheguo zhi guan zhi [People‘s Republic of China workers‘ and officials‘
    aspirations] (Zhongguo Shehui Publishers, 1993).
    5
    It is now 100 percent clear that it was the Communist Party who had caused these
    incidents. On the 8th, the day after the shooting incident, the Communist Party sent a
    long telegram from Yan‘an in the name of the Central Committee to all the powerful
    people in China (starting with Chiang Kai-shek), the newspapers, those affiliated with
    the Nationalist government, the army, and other organizations and associations. In
    official Communist Party histories, it is given special mention as ―the 7-8 circular
    telegram.‖ Moreover, on the same day, the same kind of telegram was sent under the
    names of Mao Zedong and six other military leaders to Chiang Kai-shek, Gen. Song
    Zheyuan, and others.
    As I mentioned before, the Japanese army first began to return fire at 5:30 on the
    morning of the 8th. It follows from circumstances of transmission at the time that
    though the counter-offensive began on the 8th, for this intelligence to be in-hand on
    the 8th to comprise what had transpired and to create the long text, and to gain the
    approval of the Central Committee, then draw it up as an official telegram and to send
    it all over the country, etc., is totally impossible. The only possibility is that it had
    been prepared in advance.
    In point of fact, it had been prepared in advance. Evidence to that exists today.
    The chief of the China Expeditionary Force Intelligence Department Beiping (Beijing)
    Office, Col. Akitomi Jûjirô, said: ―Late at night immediately following the incident,
    the Tianjin Special Intelligence Section radio operator intercepted an urgent
    wireless transmission from a transmitter we believe to be on the grounds of Beijing
    University to the Communist military headquarters in Yan‘an. It repeated ‗Chenggong-
    le [success!]‘ three times.‖ (Sankei Shinbun, Sept. 8, 1994, evening edition.) He
    said that at the time they had no idea what it meant. It is clear now. They were relaying
    to Yan‘an that their stratagem at the Marco Polo Bridge had succeeded. The creation
    of that telegram was carried out immediately in Yan‘an. Then, on the morning of
    the 8th, after having confirmed that Japan had begun firing back, they sent the long
    telegram in great numbers all over the place. The criminals who started the war were
    the Chinese Communist Party.
    Edgar Snow wrote about the Marco Polo Bridge Incident as if the Japanese Army
    had caused it, which rescued the Communist Party from their great predicament of
    June. He wrote:
    Now a second stroke of luck opened up the broadest and most fertile opportunities for them.
    For it was in the following month that they were extricated from their precarious position
    only by Japan‘s ―providential‖ major invasion of China, which gave Chiang no choice but
    to shelve any and all plans for another annihilation drive.8
    While they planned it themselves, they repeatedly said that the Japanese attack
    had been a Godsend. As I have already presented, it was the Chinese who caused the
    incident. Above all, there is no way a Japanese force numbering merely 5,600 would
    have launched an attack, and that is not what happened. There was the cease-fire
    agreement on the 11th, but there were repeated violations of that agreement on the
    Chinese side — whether by the army itself, or by persons unknown. There were also
    large-scale cease-fire violations by the Chinese army such as the Langfang Incident
    and the Guang‘anmen Incident. On July 27, the Japanese government, which had consistently
    followed a policy of non-expansion of the conflicts since the incidents occurred,
    finally determined to dispatch three army divisions into the Chinese interior,
    and on the 28th sent notice to the 29th Route Army that it was war.
    8 Snow, op. cit., Preface.
    6
    The Communist Party that planned on
    escalating the Marco Polo Bridge Incident
    While it is untrue that there was a concerted attack by the Japanese military, Snow,
    in his writings, let slip that the Chinese had desired exactly that. They were delighted
    that Chiang Kai-shek had had no choice but to abandon his operations to wipe out the
    Communists, but their true goal was going on and forcing him to fight the Japanese.
    Two of the items on a Comintern order issued after the Marco Polo Bridge Incident
    said:
    1) You must stubbornly avoid localized resolutions and instead lead the way to full-scale
    conflict between China and Japan.
    2) You must use every possible measure to accomplish the above goal and you must obliterate
    important people who betray the liberation of China with their localized resolutions
    and compromises toward the Japanese.9
    We can clearly understand that in addition to aiming directly at breaking the deadlock
    of the Communist Party‘s predicament, the true goal of the Marco Polo Bridge
    Incident was to create a full-scale outbreak of hostilities between Japan and China.
    The Communists called for opposition against Japan, but rather than directly engaging
    the Japanese military themselves, their true goal was to cause a full-scale war between
    the Japanese army and the army of Chiang Kai-shek. With this, they could achieve
    their objective of guaranteeing the security of the Soviet Union; and bringing about
    the exhaustion and mutual destruction of both China and Japan was their long-term
    strategy for realizing a Communist Party victory. It goes without saying that 1949 was
    the realization of the ultimate goal of the Chinese Communist Party, which had implemented
    this global strategy.
    The North China Incident and the Tongzhou Massacre
    The conflict expanded in keeping with the Communist Party‘s goal, and the Nanking
    government of Chiang Kai-shek also went forward with plans to send the army
    north. As I have already said, Japan was forced to change her policy of non-expansion
    and localizing the conflict, and decided to dispatch three divisions on July 27 and notified
    the 29th Route Army on the 28th that a state of war existed. It was an outnumbered
    military force, but with support from the Kwantung Army in Manchuria and the
    troops stationed in Korea, the Japanese army quickly gained total control of the Pingjin
    area (i.e., the Beijing and Tianjin areas).
    Chinese Peace Preservation troops, taking advantage of an opening left by the
    movement of the outnumbered Japanese army, carried out a massacre of Japanese residents
    of the city. There were about 420 Japanese living in the town of Tongzhou,
    some 12 km east of Beijing. On July 29, the Japanese defensive garrison numbered
    merely 110 as their forces had made for an offensive in nearby Nanyuan. Peace Preservation
    Troops of the autonomous government of pro-Japanese Yin Jukeng were
    stationed in the town, but seeing the situation, they suddenly swooped down and attacked
    the small remaining garrison and the ordinary townsfolk. A barbarous act of
    mass slaughter unfolded. It was later established that First Unit commander Zhang
    9 Comintern Order (Directions to the Chinese Communist Party), July, 1937. All five items appear in:
    Political Affairs Bureau, Ministry of Asian Development, Kominterun ni kansuru kihon shiryô (―Fundamental
    documents concerning the Comintern‖).
    7
    Qingyu and Second Unit commander Zhang Yantian had been in contact with the Nationalist
    Party beforehand.
    All manner of brutalities such as looting, acts of violence, indignities, and slaughter
    were directed toward a great number of innocent people, including the old, the
    young, and women. The number of the slain totaled 250.
    In Asahiken (a Japanese restaurant) were seven or eight women, all of whom had been
    raped. They were shot dead, naked, with their privates exposed. Four or five had been stabbed
    in their privates with bayonets. Most of the Japanese men‘s bodies showed signs of having
    been strangled with ropes. Blood spattered the walls. It beggars description. (Testimony given
    at the Tokyo Trials by the witness Kayajima Takashi, commander of the 2nd Regiment, who
    rushed to the site on the 30th to rescue the town.)
    At the entrance to Kinsuiro (an inn), I saw the body of a woman who looked to have been
    the proprietress. Her legs were facing the entrance, and she was covered only on her face by a
    newspaper. I remember that it seemed as if she had resisted considerably; the upper and lower
    parts of her body were exposed, and there were signs of four or five bayonet thrusts. It looked
    like her privates had been gouged out with an edged weapon, and there was blood everywhere.
    ... In the house of a Japanese family behind, two people — a parent and child — had
    been slaughtered. All the fingers of the child had been cut off. At the store of a Japanese citizen
    near the South Gate, the body of what seemed to have been the proprietor had been left in
    the street, his ribs exposed and his organs scattered. (Testimony given at the Tokyo Trials by
    acting 2nd Regiment Infantry Commander Katsura Shizuo.)
    The cruel atrocities went on and on, and there are no words to describe them.
    The Nanking Massacre and the Tongzhou Massacre
    These witness statements do not speak of the Nanking Massacre, but it is possible
    that there are those who misapprehend that they do. To be sure, in the tale told by
    Chinese afterward purporting a Nanking Massacre, stories exactly like these, the
    manner in which things were done, examples of brutality and so forth, were common.
    I will write about the Nanking Incident later, but although no Nanking Massacre ever
    existed, it is an undeniable truth that there was a massacre in Tongzhou. An incident
    of brutality the like of which had never happened in Japan happened in China. In investigating
    the history of China, however, we find that such brutal incidents were not
    uncommon.
    In reading the book Chûgoku daigyakusatsu shi: Naze Chûgokujin wa hitogoroshi
    ga suki na no ka? (A history of massacres in China: Why do the Chinese like killing?)
    10 by Shi Ping, a graduate of Beijing University, we learn that in China excessive
    by far massacres were repeated occurrences in ancient, medieval, and modern times,
    and even in the present day under the Communist Party rule. Particularly interesting is
    the fact that there was a Nanking Massacre. It was not in 1937, however, but in 1864
    during the Taiping Rebellion, when Nanking, then the capital of the Taiping Heavenly
    Kingdom, was attacked and entered by an army commanded by Zeng Guofan. After
    Zeng Guofan‘s death, one of his staff officers, Zhao Liewen, wrote Neng jin ju shi riji
    (Diary of a capable, quiet gentleman):
    Children, too, were the object of the slaughter, and many of the rank and file soldiery
    quite nearly made a game of the killing of the children and appeared to delight in it. As far as
    women were concerned, those under 40 were made instruments to slake the lust of the sol-
    10 Shi Ping. Chûgoku daigyakusatsu shi: Naze Chûgokujin wa hitogoroshi ga suki na no ka? (A history
    of massacres in China: Why do the Chinese like killing?) (Tokyo: Business-sha, 2007).
    8
    diery, while those over 40 or those with unattractive faces were cut down indiscriminately
    with whatever came to hand.11
    Notorious mass killings — a million slaughtered at the massacres in Sichuan, the
    massacre at Yangzhou, the massacres at Jiading, and on and on — fill the pages. Shi
    Ping‘s book is a must-read.
    To repeat, no such incident ever took place in the entire history of Japan. Something
    with which the Japanese were totally unacquainted, and which the Chinese were
    vehemently saying had been the work of the Japanese, was the ―Nanking Massacre.‖
    In other words, the ―Nanking Massacre‖ was fabricated to indict the Japanese army; it
    was a tale made-up in imitation of the accounts of the mass killings that had occurred
    time and again in China as well in imitation of the recent massacre in Tongzhou
    which they had perpetrated. That is why it was a story that so closely resembled the
    conditions of the Tongzhou Incident.
    I will later present evidence to show why there was no ―Nanking Massacre,‖ and
    why there could not have been one.
    The Funatsu peace initiative and the murder of Lt. Ôyama
    The Japanese army had gained total control of the Beijing-Tianjin district and its
    northern environs, but the general staff headquarters issued an order that the limit for
    their forces‘ advance should be retained at about 100 km south of Beijing. That was a
    point some 1,000 km away from Shanghai. The Japanese government‘s objective was
    to end the ―North China Incident‖ and keep the conflict from spreading.
    The Japanese people were enraged at the news of the Tongzhou Massacre. All the
    newspaper headlines were full of demands to ―chastise the violent Chinese.‖ Public
    opinion seethed against the unforgivable Chinese atrocity and voices grew louder demanding
    the government take resolute measures. There is one note that must be added
    here. Namely, the murder of Chinese workers, merchants, and businessmen by angry,
    rioting Koreans at the time of the Wanpaoshan Incident.12 In contrast, there were Chinese
    workers, merchants, and businessmen in Kobe and Yokohama, but there were no
    incidences of attacks on the those in Japan. There was fury, but there was nothing resembling
    any retributive attacks.
    The government, however, sticking with its non-expansion policy despite such
    atrocities and such an outraged public opinion, went along with the emperor‘s suggestions
    and drew up a peace plan13 on Aug. 1, and receiving the assent of the foreign
    and army and navy ministers five days later, made the proposal to the Chinese. This
    peace proposal was a momentous, conciliatory document wherein most of the pending
    issues between China and Japan to that point (and in particular vested rights in north
    China) were renounced.
    11 Ibid., p. 182.
    12 In May of 1931, over 200 Korean farmers settled in the town of Wanpaoshan. In July, more than 400
    Chinese farmers attacked them with the backing of Chinese authorities. Japanese authorities set out to
    protect the Koreans. Furious at this incident, Koreans attacked Chinese merchants in Seoul, Sinuiju,
    and Pyongyang, killing 109.
    13 Draft of cease-fire negotiations: (1) The Tanggu Truce, the He–Umezu Agreement, the Qin–Doihara
    Agreement, and any other extant military agreements in North China are cancelled. (2) Special areas
    will be established as demilitarized zones. (3) The administrations of Ji Dong and Ji Cha are to be terminated.
    (4) The strength of the Japanese forces stationed shall return to their status quo ante bellum.
    Draft of diplomatic relations: (1) China must recognize or accept(acquiesce) [the existence of the state
    of] Manchuria. (2) China and Japan will enter into an anti-Communist pact. (3) Repeal of the free flight
    of Japanese aircraft, etc. .....
    9
    Funatsu Tatsuichirô, formerly Japan‘s consul general in Shanghai and at that time
    the chairman of the board of the Spinning Association in China, was named to be the
    person responsible for the negotiations, so it came to be called the ―Funatsu peace initiative‖.
    Aug. 9, the day of the first meeting between Ambassador Kawagoe Shigeru and
    Gao Songwu, head of the Asia Office, was the day that Lt. Ôyama was killed. As I
    mentioned already, this was an act perpetrated by the Nanking and Shanghai Defensive
    Forces under the command of the crypto-Communist Zhang Zhizong to get
    Chiang Kai-shek‘s to fight the Japanese. It was also meant to be an obstruction to the
    peace process. As intended, then, peace negotiations collapsed.
    The secret Sino–Soviet non-aggression pact
    Chiang Kai-shek moved forward with preparations for war with Japan. While
    creating a central Chinese army and modernizing the equipment and training of fifty
    divisions under the direction of a corps of German military advisors led by Gen. Alexander
    von Falkenhausen, the Chinese prepared for war with the Japanese by building
    a solid defensive network in the Shanghai suburbs consisting of 20,000 bunkers
    which came to be called the ―Seeckt Line‖ (named after Gen. Hans von Seeckt, the
    fourth leader of the German advisors). Chiang Kai-shek was cautious about starting a
    real war. He was not very much in sympathy with the jingoism of Zhang Zhizong and
    his ilk, but anti-Japanese sentiment was growing and the murder of Lt. Ôyama being a
    fait accompli added to the situation, so at last he decided to go to war.
    The premier scholar of the recent history of the Republic of China, the late Prof.
    Lloyd E. Eastman of the University of Illinois, surmised that it was on Aug. 7, at a
    meeting where the top brass were assembled, that Chiang Kai-shek made the decision.
    ―Chiang Kai-shek was setting out on a great gamble, one which later would be argued
    as the greatest in his life.‖14
    Something that may be considered a greater gamble than the one Chiang Kai-shek
    made then was China‘s secret agreement attached to the non-aggression pact,15 concluded
    with the Soviet Union on Aug. 21. With this treaty, the following support was
    to be provided by the end of 1937: 360 planes, 200 tanks, 1,500 trucks, 150,000 rifles,
    120,000 artillery shells, 60 million rounds of ammunition; and in addition, engineers
    and technical experts in each of these fields were to be sent to China. Negotiations for
    this treaty began swiftly, and it is assumed that the secret items were set in early August
    at the latest. This promise of military supplies from the Soviet Union had to have
    been reassuring to China, who, though they had a large army of 2.1 million, lacked
    the ability to manufacture aircraft and tanks and the like themselves. Setting aside the
    beginning of the hostilities, if the fighting were to be drawn out even a little longer,
    such supplies would become absolutely essential. Without them, Chiang Kai-shek
    would probably not have been able make the decision to go to war.
    Indeed, it would seem that the Soviet Union had been pushing China toward war.
    As we can see from the Comintern orders, that was exactly in accordance with the
    goals of the Soviet strategy.
    The actual situation in the Second Sino–Japanese War was that China relied entirely
    on Soviet military aid for first half of the war, and for the second half on British
    and American military aid to continue fighting. It was not because mainland China
    14 Lloyd E. Eastman, Seeds of Destruction: Nationalist China in War and Revolution, 1937–1949
    (NYC: Stanford University Press, 1984), quoted in Suzuki Akira, Shin “Nankin daigyakusatsu” no
    maboroshi (New illusions of the ―Nanking Massacre‖) (Tokyo: Asuka Shinsha, 1999).
    15 Source: The Lowdown (New York: January, 1939), p. 18.
    10
    was so huge that the conflict went on and on and became a quagmire, but rather because
    of the vast military assistance and intervention from the great powers. Still less
    was it because of Japanese aggression.
    The naval landing force’s struggle,
    and the dispatch of two army divisions
    On Aug. 13, the 30,000-strong elite Chinese force encircling the concession began
    its attack on the 4,200-man naval landing force stationed there. It is often said that the
    fighting leapt like a flame from northern China to Shanghai, but this is a manner of
    speaking that is considerably far removed from the truth. The Japanese forces in
    northern China did not move southward beyond their holding line, which was 1,000
    km away from Shanghai. They were therefore no manner of threat in Shanghai at all.
    The battle in Shanghai was entirely the design of the Chinese who unilaterally started
    it, as The New York Times described it. On the 15th, Chiang Kai-shek ordered a nation-
    wide general mobilization, established a supreme command headquarters, and
    assumed the rank of commander-in-chief of all three branches of the military — the
    army, the navy, and the air force — for waging all-out war against Japan.
    Since 4,200 troops could not protect 30,000 residents, Japan decided to dispatch
    two divisions to China on the 13th, and on the 15th the Shanghai Expeditionary Force
    under the command of Gen. Matsui Iwane was formed. Mobilization and transportation
    took almost ten days before they disembarked at Shanghai, however. Until then,
    the naval landing force in Shanghai had to hold out against attacks from an elite force
    nearly ten times their size. What might have happened if they had been beaten down
    and allowed a Chinese force to penetrate the concession had already been proven in
    Tongzhou. It would have been a second Tongzhou Massacre. There was a possibility
    that thousands — or even tens of thousands — of civilians might have been slaughtered.
    One army division finally landed in Wusong near Shanghai on the 23rd. In those
    ten days, the small landing force had defended their position well. They fought amazingly
    bravely, and thereby were able to prevent a massacre in Shanghai. Due to the
    over 20,000 bunkers and defensive positions, the army forces that landed on the mainland
    became embroiled in a desperate campaign against nearly 300,000 Chinese soldiers.
    With the gradual drive forward by the reinforcement of three divisions, the Japanese
    couldn‘t avoid enduring heavy losses. Casualties ultimately totaled more that
    41,000 killed and injured — the heaviest losses Japan had sustained since the campaign
    for Port Arthur during the Russo–Japanese War. On Nov. 5, the Japanese 10th
    Army Corps landed at Hangzhou Bay in a surprise assault planning to cut the Chinese
    army off from behind. The Chinese army immediately collapsed and made for Nanking
    in a rout.
    Chiang Kai-shek was not receptive to peace negotiations through the intermediation
    of German ambassador Oskar Trautmann and continued the resistance, so to
    bring the war to an end it was going to be necessary to occupy the strategic base that
    was Nanking. On Dec. 1, Gen. Matsui, now commander of the Central Chinese Area
    Army (the Japanese Central Chinese Area Army having been formed by combining
    the Shanghai Expeditionary Force and the 10th Army), was ordered to take Nanking.
    He pursued the fleeing Chinese army and on Dec. 9, after achieving the encirclement
    of Nanking, issued demands for the city to surrender.
    The capture of Nanking and the so-called massacre
    1 1
    After confirming that the 24-hour deadline for a reply had passed, the Japanese
    army commenced its attack. At the peak of the hard fighting on the 12th, Japanese
    forces were on the verge of breaking into the city. Despite not having given withdrawal
    orders to his subordinates, Tang Shengzhi, the commander of Nanking‘s defenses,
    fled the city on the night of the 12th, abandoning it and his men. There was a
    great deal of chaos inside the city with the defending forces making their confused
    escapes, ―friendly fire‖ going on at the Yijiang Gate (the shooting deaths of fleeing
    Chinese soldiers by their supervising unit), etc. When the Japanese forces entered
    Nanking on the 13th, most of the defenders had fled so there was virtually no fighting
    inside the city. Those soldiers who had been too late to escape fled into to the Safety
    Zone, later becoming the seeds of the problem.
    The entire Japanese force did not enter the city. Rather, a selected portion of each
    unit entered Nanking, so there was absolutely no disorder in the city. This is what was
    reported by the more than 100 journalists and cameramen who entered the city at the
    same time.
    Instead, what the soldiers of the units that entered Nanking were concerned about
    was that the city was silent as a graveyard and there wasn‘t a soul in sight. This is all
    written in the soldiers‘ diaries and so on. This was as it had to be, as virtually all of
    townsfolk of Nanking — totaling 200,000 — had assembled in the ―Safety Zone,‖
    which was overseen by the International Committee. There were no townsfolk anywhere
    outside the Safety Zone.
    The International Safety Zone Committee left an English-language record of their
    activities. An agency of the Guomindang edited it and published it as Documents of
    the Nanking Safety Zone by Kelly & Walsh Co. in Shanghai.
    As the International Committee (headed by the German John Rabe) had American
    missionaries as its core, anti-Japanese sentiment was thick, but the following things,
    which they wrote in the Documents, are extremely important:
    1) The population of Nanking at its fall was 200,000. Afterward throughout the
    month of December it remained 200,000, but a month after the city‘s fall, on
    Jan. 14, the number is recorded as 250,000. This is absolute proof that there
    had been no massacre of any sort.
    2) In a list of the complaints of the townsfolk, twenty-six instances of murder
    were brought up. Only one of those, however, had an eyewitness, and that one
    had a deliberately appended note stating that it had been a lawful killing. The
    Safety Zone was about the same size as New York‘s Central Park, and
    200,000 people were gathered there. If there had been a massacre it could not
    have happened without being seen, but there were no eyewitnesses to any
    massacre.
    Exactly how false the so-called massacre was can be explained with just these two
    points. For those who need more, to add another thing, there is a document bearing a
    ―top-secret‖ stamp titled An Overview of Propaganda Operations of the International
    Information Division of the Central Propaganda Bureau of the Nationalist Party:
    from 1938 to April 1941, that was discovered in the Guomindang Historical Documents
    Archive in Taipei.16 This was an internal document of the Guomindang, so any
    hints of propaganda within it are slim. It says that the International Propaganda Office
    invited foreign correspondents in Hankou to press conferences 300 times during the
    eleven months encompassing the Battle for Nanking. In the press conferences, called
    16 Higashinakano Shudô, Nankin jiken: Kokumintô gokuhi bunsho kara yomitoku (The Nanking Incident:
    Decoding it from the top-secret documents of the Guomindang) (Tokyo: Sôshisha, 2006).
    12
    to criticize the Japanese forces, not even one time was there any talk of a massacre of
    civilians or the unlawful execution of prisoners in Nanking. If there had in truth been
    a massacre, would they really have said nothing about it? It is, of course, impossible.
    In short, the Nanking Massacre was nothing more than a trumped-up lie put forth
    when Japan were unable to substantially resist the American military occupation. It is
    simply pathetic and stupid that with such a lie as this people still talk as if the massacre
    was a given. To put a stop to such foolishness, the Committee for the Examination
    of the Facts about Nanking (Kase Hideaki, chair; Fujioka Nobukatsu, secretary general)
    presented an open letter of inquiry to President Hu Jintao of China when he came
    to Japan. It was disseminated to the world via press conferences and the Internet. (It
    appears on the website for the Society for the Dissemination of Historical Fact in Japanese,
    Chinese, and English. The English version is available at http://www.sdh-fact.
    com/CL02_3/17_S1.pdf) It comes as no surprise that Hu Jintao has yet to respond to
    it. That is because he cannot respond to it. With this, the issue of Nanking has been
    settled.
    Peace conditions after the Nanking occupation
    and Japan’s posture toward China
    On Dec. 22, after Nanking was occupied, the Japanese government decided once
    again to try for terms of peace mediated through the good offices of Germany‘s ambassador
    to China, Oskar Troutmann. The following four points were the basic terms:
    1) China would renounce pro-Communist, anti-Japanese, and anti-Manchurian
    policies, and would cooperate with Japan and Manchuria‘s anti-Communist
    policies.
    2) Demilitarized zones will be established in required regions, and special organizations
    will be established.
    3) Close economic agreement will be executed among the three countries of China,
    Japan, and Manchuria.
    4) China would pay reparations to Japan.
    The clause on reparations was not included in the peace talks before the occupation
    of Nanking, but it was included after taking into account the demands for it by
    the Japanese people. Even so, one cannot say that these are particularly severe conditions.
    These are not demands for a piece of territory or for certain special rights or interests.
    Instead, it mentions formalizing a relationship of economic cooperation. It also
    speaks of collaborative anti-Communism; but since Chiang Kai-shek was anti-
    Communist from the start, this item can hardly be said to be a harsh one. It was just
    that there was no way the Soviet Union (China‘s greatest supporter) and the Communist
    Party would accept this one.
    Chiang Kai-shek didn‘t go for the agreement probably out of concerns with his relationship
    with the Soviet Union and the Communist Party, as well as his relationship
    with America and Great Britain. Even when the deadline for his reply, Jan. 12, was
    reached, he did not respond. China‘s actions were apparently intended to just prolong
    the process, however, and the leaders of Japan‘s government — prime minster, Konoe
    Fumimaro, foreign minister, Hirota Kôki, and others, facing down strong opposition
    from the army‘s general staff headquarters — declared on the 16th, ―We will no
    longer deal with the government of Chiang Kai-shek,‖ and cut off negotiations. It is
    possible that there was some influence here by one of Konoe‘s close associates, Ozaki
    Hotsumi, who was a covert operative of the Comintern. It is also possible, however,
    that this decision was made to curry favor with a public who viewed China as insolent.
    1 3
    As a result, Japan was pulled into a protracted war against the government of
    Chiang Kai-shek, but calling this Japan‘s aggressive war is a total injustice. First, the
    Marco Polo Bridge Incident had been an event orchestrated by the Communist Party,
    and it had also been the Communists who expanded the conflict, based on the directive
    to ―stubbornly avoid localized resolutions and instead lead the way to full-scale
    conflict between China and Japan.‖ It had been Chiang Kai-shek‘s government who
    rebuffed the Japanese peace proposals amidst growing anti-Japanese sentiment and
    set the course for full scale war in Shanghai. The war was something that had been
    entirely caused by China. Afterward, Japan again proposed peace, but had been flatly
    refused. The onus for this is primarily on the Chinese. The result was that the war
    went on. No matter how one looks at it, calling that aggression is undeserved. According
    to international law the aggressor is the one making lawless attacks — even if
    it is within China‘s territory.
    There was Konoe‘s declaration, ―We will no longer deal with the government of
    Chiang Kai-shek,‖ but in November that year came the second Konoe declaration,
    and in December yet a third Konoe declaration appealing for peace.
    1) Second Konoe declaration ―The establishment of a new order in East Asia‖
    (Nov. 3, 1938)
    Calling for international justice, joint anti-Communism, and economic cooperation
    with the three countries of Japan, Manchuria, and China.
    2) Third Konoe declaration (Dec. 22, 1938)
    Three necessary fundamentals: good neighborly friendship, joint defense, and
    economic cooperation.
    It may be fair to say that the declaration was belated. Still, where in these declarations
    can one find any aggression toward China, or any intention to control China?
    Was not the problem in fact Chiang Kai-shek‘s stubbornness in not taking peace and
    instead choosing to rely on support from powerful nations — first the Soviet Union,
    and then America and Great Britain?
    Because of this obstinacy, ultimately, he was undone by the Communists and
    faced with having to flee to Taiwan. The Second Sino–Japanese was not a war of Japanese
    aggression.
    c. 300 m
    c. 200 m
    c. 100 m
    c. 300 m
    50m 50m
    c. 400 m
    Rest & dinner position
    Initial position of maneuvers
    Movement
    1 2
    3
    (platoon)
    Co. Cdr.
    Shimizu
    Co. Cdr.
    Shimizu
    1
    (platoon) 3 2
    Bunkers
    Yongding River
    29th Army trenches
    Temple
    of the
    Dragon King

    GGaass zzoonnee
    Bunkers
    Final position of maneuvers:
    Site prepared for dawn assault
    Dusk attack (observation forces)
    exterminate the enemy front line
    Preparations to support the
    opening of the sterilization route
    Sterilization route
    Lookouts (in support)
    Disruption gap
    Guards until company
    has passed through
    Paper tape
    Walls
    of
    Wanping
    (Walls of
    Marco Polo
    Bridge)
    Position of the hypothetical enemy
    Barbed wire
    entanglements
    Rough map of the night-time maneuvers of the 8th Company on 7 July, 1937
    Attachment 1
    Attachment 2.
    OPEN QUESTIONS FOR HIS EXCELLENCY HU JINTAO,
    PRESIDENT OF THE PEOPLE’S REPUBLIC OF CHINA
    May 5, 2008
    As enthusiastic supporters of friendly relations between Japan and the PRC, we would like to
    extend the warmest of welcomes to President Hu Jintao on the occasion of Your Excellency’s
    visit to Japan.
    For some years, our organization has been engaged in an investigation into the events that
    transpired in Nanking in connection with the Battle of Nanking, which took place in
    December 1937. We are profoundly concerned about the PRC’s position on and approach to
    these events. Additionally, we are exceedingly uncomfortable with the duplicity of the PRC in
    its pursuit of friendship with Japan on the one hand, and actions that are most unfriendly in
    nature — the expansion and renovation of the Nanjing Massacre Memorial Hall in 2007 — on
    the other. Recent research has proven that there is absolutely no basis for the claim that there
    was a massacre in that city. We respectfully request Your Excellency’s responses to five
    important questions, which follow.
    1. Chinese Communist Party Chairman Mao Zedong never referred to a massacre in
    Nanking. He made exactly one mention of the Battle of Nanking during a lecture
    delivered at Yan’an six months after the conflict, reproduced in On Protracted War.
    Chairman Mao criticized the Japanese for failing to annihilate Chinese troops after having
    surrounded them. If there had been slaughter in Nanking of a magnitude so great (300,000
    civilian victims) as to prompt the description “holocaust of the century,” there is not the
    slightest chance that he would have been silent on the matter. What are Your Excellency’s
    thoughts on the facts presented here?
    2. In November 1937, during the Second United Front and prior to the Battle of Nanking, the
    Nationalist Party established a new section at the Central Propaganda Bureau — the
    International Propaganda Section. We would like to direct Your Excellency’s attention to
    a top-secret document entitled “Outline of International Propaganda Operations,” which
    states that the International Propaganda Section held 300 press conferences in Hankou
    between December 1, 1937 and October 24, 1938 (a period that includes the Battle of
    Nanking); they were attended by 35 foreign journalists and diplomats, on the average.
    How does Your Excellency explain the fact that not once during any of these 300
    conferences was a statement or announcement made to the effect that a massacre had been
    perpetrated, or that prisoners of war had been unlawfully killed in Nanking? Does Your
    Excellency, too, find these circumstances extraordinary?
    3. The International Committee administered to the civilians remaining in Nanking, who
    were gathered in the Safety Zone. Records of the International Committee’s activities
    were published in 1939 as Documents of the Nanking Safety Zone by a British company in
    Shanghai, under the auspices of the Nationalist Government’s Council of International
    Affairs. According to those records, the population of Nanking prior to its occupation by
    the Japanese was 200,000. That figure remained unchanged, at 200,000, throughout the
    remainder of 1937. By the end of January, it had increased to 250,000. These statistics
    completely and utterly destroy the credibility of any accusation of a massacre that claimed
    300,000 victims. What are Your Excellency’s views on this matter?
    4. Among the records in the aforementioned Documents of the Nanking Safety Zone are
    detailed complaints about misconduct attributed to Japanese military personnel. They
    include a total of 26 murders, only one of which was witnessed (to that account is
    appended a note describing the “murder” as a lawful execution). Can Your Excellency
    reconcile these records with the PRC’s claim of a massacre with 300,000 victims?
    5. Photographs purported to be evidence of a massacre in Nanking are on display at the
    Nanjing Massacre Memorial Hall, at other exhibitions, and in printed publications.
    However, Analyzing Photographic “Evidence” of the Nanking Massacre by
    Higashinakano Shudo (Soshisha, 2005) and other recent scientific research reveal that
    there are no photographs attesting to a massacre in Nanking. If Your Excellency is aware
    of photographic evidence of a massacre, please have it forwarded to us so that we may
    examine it.
    On the basis of the factual information contained in these five questions, we are completely
    and totally convinced that there was no massacre in Nanking. We would greatly appreciate
    Your Excellency’s responses to our questions. Please note that we have selected the
    open-question format precisely because the matter at hand is clearly one of the prime
    concerns of many citizens of Japan and the PRC. Our hopes for friendly relations between our
    two nations, for all generations to come, rest in Your Excellency’s hands.
    COMMITTEE FOR THE EXAMINATION OF THE FACTS ABOUT NANKING
    Chairman: KASE Hideaki
    Secretary-General: FUJIOKA Nobukatsu
    Auditor : TOMIZAWA Shigenobu, MOTEKI Hiromichi
    Members: ARA Kenichi, UESUGI Chitoshi, KOBAYASHI Taigan,
    SUGIHARA Seishiro SUGIYAMA Kouichi, TAKAIKE Katsuhiko,
    TAKAYAMA Masayuki, HANAOKA Nobuaki,
    HIGASHINAKANO Shudo, NISHIMURA Kohyu,
    MIZOGUCHI Ikuo, MIYAZAKI Masahiro

    Closing the Base

    シャルマー・ジョンソン教授ののインタビュー記事が載った。

    http://diamond.jp/articles/-/8060 ご参考まで。

    自立・自尊の日本を求める好機である。日本はれっきとした独立した国家でなければならない。自立・自尊の防衛論と、政策がいよいよ必要ではないのか。ジョンソン先生も、日本の雑誌のインタビューに対しての発言ばかりでなく、自国の中でちゃんと主張してもらいたいものだ。それにしても、大国の思惑に従うかのように右往左往する日本の政治指導者の情けなさにはあきれかえる。

    Imperial Cruise

    以下、未定稿で、不十分な記事ですが、激動する日米関係、あるいは、海兵隊施設の移転問題など紛糾する情勢の中で、ご参考までに、ネットに掲載することに致しました。

    第二次世界大戦を圧倒的な軍事力で勝利したアメリカ合衆国は、続く冷戦時代、ソ連を抑え込み「封じ込」むため、世界中に常備軍を配置した。常備軍Standing Armyとは、平時から編成されている専門的な軍隊であり、近代国家においては、戦時に大量動員する大衆軍の基幹としての役割を果たしていた。第二次世界大戦後の米国は常備軍を世界的に展開することで、その圧倒的な軍事的プレゼンスを背景に覇権国家への道を突き進むことになる。その一方で、そうした在外米軍を受け入れた国々にとっては、冷戦終結後の今日においても、米軍の存在が政治的、社会的、及び経済的問題として残ることになる。

     折しも日本では、発足から半年余が経つ民主党政権が、米軍再編というグローバルな問題と在沖米軍問題という地域の特殊な問題が複雑に絡まる、普天間基地移設問題で揺れに揺れている。既に決定済みと見られていたキャンプ・シュワブ沖(辺野古)への移設案は、座り込みだけでなく海上に櫓まで組んで抵抗する反対運動に遭って環境アセス調査すら満足にできない状況である。14年余に亘る辺野古を巡る係争は容易に決着が付きそうにない。2009年秋の衆院選以降、沖縄県外移転を主張し続けてきた鳩山政権は、「公約」と辻褄を合せるためか、ここにきて沖縄の隣県、鹿児島県への移設計画を持ちだしてきた(しかも、徳之島の所属する奄美は、もともとは琉球の文化圏であり、琉球文化圏の中で、基地問題を処理しようとする陰謀が感じられる。)(ペリー提督は、琉球と和親条約を結んだ後に、江戸湾に乗り込んだことを想起されたい。現在沖縄県浦添市にあるアメリカ総領事館は奄美を管轄にしていることも事実であり、米国から見て県内、県外の区別はあり得ない。)

    以下、未定稿。何ら、ご参考まで。

     少し古いが興味深い記事なのでここに挙げたいのだが、沖縄県外の移設先として注目を浴びている場所として、『サンデー毎日』3月28日号の記事で鹿児島県の馬毛島が紹介されている。種子島の近くにあるこの島の人口は1950年代のピーク時には500人以上であったが、現在は無人島である。記事によると、島の現在のオーナーの立石氏は、島には3万人規模の街を作ることも可能であり、この島を「第二のディエゴ・ガルシアにしたい」と述べているという。

    ディエゴ・ガルシアはインド洋上の島であり、日本ではそれほどなじみがないかもしれない。一連の普天間基地移設問題を世界中に展開する米軍基地問題自体とつなげる報道はほとんど見られず、ディエゴ・ガルシアの名前をマスメディアが取り上げることもほとんどない。この島はもともとイギリス領インド洋地域に属するイギリスの海外領であったが、1966年にアメリカ合衆国が50年期限で借り受けて以来、徐々に島民を追い出し、現在では島全体が米軍の基地になっている。移住させられた元島民は、イギリス政府を相手に同島への帰還と補償等を求めて訴訟を起こしている。上述の立石氏は島全体を米軍の専用に供するという意味で、「第二のディエゴ・ガルシア」と言っているようである。

     だが実際は、本当に移転先として検討されているかはともかく、馬毛島は「第二のディエゴ・ガルシア」にはなりえない。なぜなら、もともと無人島であるため、島民を立ち退かせて米軍を受け入れるという問題は起こりようがないのだ。ディエゴ・ガルシアでは島民が生活している場所に米軍基地という新たな要素を持ち込んできたことにより、米軍と島民との摩擦、島民の立ち退き、そして訴訟という、60年以上も続く在沖米軍問題と同じような問題が生じた。ディエゴ・ガルシアの問題とは、まさに在沖米軍の問題そのものでもあると言えるのかもしれない。

    そういう意味では、むしろ同じ鹿児島県内の候補地として挙げられた徳之島の方が、同様の問題を孕んでいると言えよう。以前から、この島の名は普天間基地移設先の候補地として挙げられてはいたものの、これまで鳩山政権が公式に徳之島について言及することはなかった。それが4月20日になって一転、平野官房長官が徳之島の3町長に会いたいと打診する。これに対して、当事者である島民は猛反発。事前に何の議論もなく、徳之島案を否定までしていながら、突然、移設の話が公にされたことから、徳之島の、伊仙、天城、徳之島の3町長は、一連の政府の対応は誠実でないとして、平野官房長官に門前払いを食らわせた。実際のところ、徳之島移設案では普天間基地移設問題の、ひいては在沖米軍問題の解決にはならず、交渉が暗礁に乗り上げているのも当然だと言えるのかもしれない。

     そもそも普天間基地移設問題の根本には、アメリカ合衆国という国の存在理由そのものが密接に関わっている。米国が第二次世界大戦後、世界各国に常備軍を配備していくのは先に述べた通りだが、特に1960年頃からは、米国防省が肥大化していくに従い世界中に際限なく軍事力を展開し、まさに覇権国家としての道を歩んでいくことになる。ところが、1990年代に入ると、ソ連という仮想敵国自体が消滅してしまい、冷戦構造が崩れ去る。爾後、テロリストという見えない敵を相手にした戦略を余儀なくされた米国は、世界に展開する米軍の再編を進めることになる。2009年にはオバマ政権が成立、ヒラリー・クリントンは国務長官就任早々沖縄を訪れ、グアム移転協定を結ぶことになったが、これは沖縄に関する特別行動委員会(SACO)設置に代表される島民との摩擦を解消する政策の延長線上に位置付けられるというよりもむしろ、世界的な米軍再編の動きの一つであった。

    普天間基地移設問題には、土地と工事をめぐる問題等、現地沖縄の利権が関わり、米軍再編には主にネオコンが支配するアメリカの軍需産業の利権が関わっている。米軍再編とは何かというと、世界中に散らばっている米軍をより効率よく機動的に活動できるように再編するということであり、実際は、冷戦終結とともに世界中にある米軍基地の数は減少するどころか、むしろ増加の一途を辿り、米国の国防費も年々増加している。ソ連の崩壊はアメリカの敵が消滅したことを意味するものではなく、アフガニスタン、イラク、イランと新たな敵国は次々と生まれてくる。米軍が存在するためには仮想敵国は不可欠であり、それこそがまさにアメリカ合衆国という国の存在理由の一つであると言っても過言でない。さらに、米軍の重要性は相対的に低下しているとはいえ、その軍事的プレゼンスは日本やNATO加盟国では圧倒的な重要性を保っており、太平洋はアメリカの海と化している現状では、米軍最大の第七艦隊がある日本及び太平洋から米軍自体が立ち退くことはほとんど考えられない。そうした米軍再編の問題に、地元の利権が複雑に絡み合っているのが、普天間基地移設問題なのであろう。

     

     それでは、アメリカ軍がいかに太平洋に進出していくようになったのであろうか?また、常に新たな敵を探し求めざるを得ない米国のバックグラウンドとなる内在的論理とは一体何だったのか?グアム移転協定が結ばれたのと同じ2009年に、そうした問いに対する答えの一つを、簡潔な文体ながら詳細且つ興味深く描き出した本が出版された。Little, Brown and Company社から上梓された『The Imperial Cruise』である。Imperial_cruise

    著者のジェームズ・ブラッドリーは、2006年に公開された映画『父親たちの星条旗』の原作者でもある。Flags_of_our_fathers この作品は硫黄島二部作のうちの一つであり、米国兵の視点から硫黄島の戦いが描かれている(ちなみに日本側の視点で描かれたのが『硫黄島からの手紙』である)。硫黄島の戦いと言えば、壮絶な戦いの後、硫黄島の摺鉢山に星条旗を掲げようとしている6人の兵士の写真が、ピューリッツァー賞を受賞したこともあって有名だが、このうちの一人ジョン・ブラッドリーが、ジェームズの父親であった。ジェームズは上智大学に1年間留学していたこともあり、また、米国の高校生を日本及び中国に派遣することによりアメリカとアジアの相互理解を深めることを目的としたジェームズ・ブラッドリー平和財団を設立、そこの理事長も務めている。一貫してアメリカの太平洋への関わりをテーマにした作品を発表してきたブラッドリーは、太平洋戦争の歴史について研究しているうちに、そもそも何でアメリカが太平洋地域に積極的に進出していくようになったのかについて興味を持ち始め、新作『インペリアル・クルーズ』Imperial Cruise を執筆したという。

    アメリカ合衆国は、建国以来、西へ西へとフロンティアを拡大していき、太平洋に到達しフロンティアの消滅を宣言した1890年代以降は、海軍力を強化して、さらに西へと積極的に海外へと進出していく。まさにそうしたアメリカの帝国主義時代を最も象徴する大統領が、1901年にマッキンリー大統領暗殺に従って副大統領から大統領へと昇格したセオドア・ルーズベルトであろう。セオドア(テディ)・ルーズベルトは、テディ・ベアの生みの親として、また日露戦争の講和条約、ポーツマス条約の立役者としても有名である。余談であるが、太平洋戦争時の大統領フランクリン・ルーズベルトはテディの従兄である。そして、そのセオドア・ルーズベルトが1905年に派遣したアジア視察団の航海が、本作のタイトルである「インペリアル・クルーズ」Imperial Cruiseと呼ばれていたのである。尚、「インペリアル・クルーズ」の船はマンチュリア(満州)号という名前である。後の満州国建国への布石となるポーツマス条約締結のわずか2カ月前に東洋へと旅たった船の名が満州というのは、偶然とはいえ、どこか象徴的でもある。

    さて、ルーズベルトは陸軍長官タフト以下、上院議員7名、下院議員23名、その他大勢の文官、武官をインペリアル・クルーズで派遣した。後にアメリカ大統領となりドル外交を展開するタフトは、ルーズベルトの特命使節として、また、後のジャクリーン・ケネディのようにマスメディアに愛された、ルーズベルトの愛娘アリスのお目付け役として、マンチュリア号に乗り込んでいた。19057月5日にサンフランシスコを出港したマンチュリア号は、ハワイを皮切りに、日本、フィリピン、香港、中国へ寄港する。この航海の最大の目的は、わずか6年前に植民地となったフィリピンを始めとする。太平洋地域での米国の地位を確固たるものとするために、日本と交渉することであった。ルーズベルトは合衆国憲法に違反していることを承知の上で、必要ならば秘密協定を結ぶことも容認していた。かくして、タフトは日本の桂太郎首相との間で、桂タフト協定を結ぶこととなる。

    米国は極端な白人至上主義の国であった。彼らにとっては、世界中で最も優秀な民族であるアーリア人の中でも、混血という間違いを犯さずに純潔を保ち続けているのがアメリカ人であり、そのように選ばれた人種であるアメリカ人には、太陽が昇るところに文明があるという考えのもと、西へ西へと文明を伝えていく使命が与えられていると考えていた。こうして、自分たちが築き上げた民主主義を広めることが、アメリカ合衆国という国の存在理由になっていった。その考えは西部開拓時代からイラク戦争に至るまで、歴代のアメリカ政府の考え方に綿々と受け継がれている。そのような米国にとって、アジアはキリスト教も知らない未開の地域であり、アジアの国々は交渉相手ではなく、優秀なアメリカ人が慈悲深く教える対象であった。さらに、当時の新聞の挿絵を見ればよくわかるが、アメリカ人の大半はフィリピン人とアフリカ人の区別がついていなかったようである。アメリカ人にとっては、アジア人が白人でないということが重要なのであり、白人でなければ、黄色人種でも黒人でもどちらも同じ様なものだったのだ。

    しかし、明治維新以降、急速に西欧文化を取り入れて日清戦争に勝利した日本に対して、米国は他のアジア諸国と少しばかり違う接し方をしていた。米西戦争以後、ハワイ、グアム、フィリピンと、太平洋を西へと進出していったアメリカであったが、中国やアジアへの進出に関しては、他の西洋列強に大きく立ち遅れていた。そこで目を付けたのが、旭日の勢いのように見えた日本である。アジア地域においては、日本と手を打つことで、西洋列強諸国を牽制しようとした。米国のこうした政策には、ルーズベルト大統領個人の趣向も影響していたのであろう。ルーズベルトは、後に日露戦争講和条約でルーズベルトを引き出すことに成功した金子堅太郎とハーバード大学の同窓会で知り合って以来親交を交わしていたし、金子から贈られた新渡戸稲造の『武士道』を読んで深い感銘を受けていた。ルーズベルトは日本贔屓であり、且つ日本を恐れていた。

    もちろん、アジアにおいて米国が日本と手を結んだ理由はルーズベルト個人の嗜好に集約されるだけではない。独立以来、米国は孤立主義を取っていた。それを端的に表しているのが、1823年に米大統領モンローが提唱した、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の相互不干渉政策、いわゆるモンロー主義である。これはもともと、南北アメリカの各国家は、主権国家としてヨーロッパ諸国の干渉を受けるべきではないという考え方であり、常にイギリスを始めとする大西洋の彼方のヨーロッパからの介入に悩まされていた米国にとっては、必要不可欠な政策であった。ところが、フロンティアが消滅した1890年頃になると、米西戦争でスペインを破ったことを皮切りに、力をつけた米国はモンロー主義を捨てて太平洋に進出して行くことになる。しかし、既にアジアの分割競争においては、完全に他の西洋列強の後塵を拝し、新たに入る余地がほとんどなかった。そこで、門戸開放政策なるものを掲げ、中国を列強諸国間で分割するのではなく経済的な機会均等を図るべきだと主張し、アジアの勢力均衡を望むべく日本と手を結ぶようになったのだ。

    この時点で、米国はかつての仇敵イギリスと、ある点では利害が一致するようになる。実際、三国干渉により満州を抑えたロシアを防ぐために英国は日本と日英同盟を結び、米国は門戸開放政策に反するとロシアを非難する。そしてルーズベルトは、日本が積極的にアジアに進出して植民地を持つように唆す。日露戦争に辛くも勝利した日本は、「インペリアル・クルーズ」の10年後、第一次世界大戦がはじまると南洋諸島に進出、駐在していたドイツ軍を追い払い、植民地化しようと企てる。そして戦後、ウィルソンが提唱した国際連合の規定に従い、南洋諸島は日本の委任統治領となるのである。朝鮮、満州、南洋諸島と続く日本の帝国主義政策は、米国と歩調を合わせ、米国の同意のもと行われたものであった。これはルーズベルトが個人的に日本を信頼していたこととも関係があり、ルーズベルトの死後、アメリカは日本を特別視しなくなっていった。それはパリ講和会議で日本は五大国の一つに数えられながら、牧野伸顕が人種差別撤廃案を主張した際に、米国の横やりで採択されなかったことからも伺える。進歩的自由主義を主張していたウィルソンも、その主張は白人のみを対象としたものであったのかもしれない。

    もっともルーズベルトは、他のどの大統領よりも典型的な白人至上主義者であり、日本はかつての南アフリカのアパルトヘイトのように、「名誉白人」と見做されていたに過ぎないとも見て取れる。彼の外交政策は、まさにアメリカの伝統を汲んだ白人優越主義の延長でもあった。米西戦争以後、ハワイ、グアム、フィリピンとスペインを追い出していったアメリカは、帝国主義への道をまっしぐらに進んで行く。この米西戦争の指揮により、ルーズベルトの名が一躍有名になったのは、象徴的とも言えよう。そのようなルーズベルトにとって白人は常にナンバーワンであり、アジアにおける日本はアングロサクソンに忠実な追従者として、白人を助ける役割を期待されていた。

     それでは、韓国(大韓帝国)ではどうであったかというと、アングロサクソンの追従者としての役割さえ期待されていなかったようである。韓国の皇帝高宗は米国の口約束を信じ切っていたが、いざ韓国に日本軍が干渉して来た際に米国に泣きつくと、「東京を通して話を持ってきて欲しい」と言われてしまう。このエピソードにはアメリカのアジア政策の基本スタンスが端的に示されている。インペリアル・クルーズの最大の目的であった日本との密約、いわゆる桂・タフト協定では、米国は韓国が日本の影響下に置かれることに合意しており、米国にとって韓国はしょせん取引の材料でしかなかったことがよくわかる。

    ルーズベルトは、白人ではなく、故に民主化されていない民族でありながら、急速に西洋文明を取り入れ、日本海海戦では白人のロシアを打ち破った日本を恐れていた。正確には、日本が南へ矛先を向け、手に入れたばかりの植民地フィリピンが脅かされるのを恐れていた。そこで彼は、フィリピン視察のための「インペリアル・クルーズ」という名の下、タフトを日本に派遣し首相兼外相の桂太郎との間で密かに協定を結ばせることとなる。

    この桂・タフト協定の要点は、以下の3点に収斂される。

    1.日本は、既にアメリカの植民地となっていたフィリピンに対するアメリカの支配を認め、それを歓迎する。

    2.アメリカは、日本が韓国に対して指導的地位にあり、独占的な権限をもつことを承認する。

    3.極東の平和は、日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。

    折しも日本海海戦には勝利したものの日露戦争は膠着状態となり、日本側の働きかけでルーズベルトによる日露講和条約の斡旋工作が佳境に入っていた時期であったため、日本に立ち寄った「インペリアル・クルーズ」のタフト一行は、天皇陛下を始めとする日本の人々に熱烈な歓迎を受ける。タフトと交渉に入った桂は、日露戦争の直接の原因は韓国であり、韓国政府を日本の統治下に置くことがアジアの勢力均衡へとつながると主張。ポーツマス条約に先立ってアメリカに日本の韓国支配を承認させ、代わりにアメリカのフィリピン領有を日本は積極的に支持することを約束する。時を前後してイギリスは日本と第二次日英同盟を締結し、インドと韓国というお互いの勢力範囲を保障しあう。こうして、韓国もフィリピンも、そしてインドも蚊帳の外におかれた状態で、東洋の平和は日米英で維持するという3極構造が取り入れられ、日本はアジアにおける新たな役割を果たすこととなる。

     ルーズベルトは金子堅太郎の頼みに応じて、この桂・タフト条約の約1カ月後に日露戦争を終結させるポーツマス条約を仲介することになるが、日本を贔屓し、アジアにおけるアメリカの番犬代わりにしようと考えていたルーズベルトも、この時期から日本に対して警戒を抱き始める。さらにこの後、中国にも変化が生じる。当時の清帝国は「眠れる獅子」言われていたが、大陸横断鉄道建設に来た中国人を見なれていたアメリカ人は、黄色人種である中国人を、白人である自分立ちよりも劣る文明化されていない人種と見做していた。彼らはそんな清の国内で、ナショナリズム運動が現れるとは夢にも思っていなかったのだが、孫文が登場し中華民国が誕生すると、米国は衝撃を受ける。

    こうした、自分たちとは違う黄色人種であり力もなく中性的と見做されていた日本人や中国人の興隆は、彼らとアメリカ人との間に摩擦を生み出していく。特に、日本日清戦争日露戦争で勝利し、欧米列強に匹敵するほどの国力を持つようになると、アメリカ人の間では、黄色人種に対する警戒感・恐怖感が高まり、災禍をもたらす黄色人種といういわゆる「黄禍論」が語られるようになる。その矛先は移民の多かった日本人と中国人に向けられ、米国内における中国人排斥法や排日移民法など露骨な立法として具現化された。一連の排日移民法が最初に施行されたのはルーズベルトの時代であったが、ルーズベルト個人は排日移民法的な法律を撤回させるなど、まだ日本を擁護していた。しかしルーズベルトの後を継いだタフト以後は、黄色人種をあからさまに差別し始める。先にも述べたが、第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本が提唱した人種差別撤退法案が、米英の反対で否決されたのは象徴的であった。お互いに協定を結び、3国でアジアの平和を維持すると言っていた日米英の3国だが、日本はしょせん「アングロサクソンに忠実な追従者」に過ぎなかったのであろう。

    この白人優越主義こそが、アメリカ合衆国の根源となっている思想の一つであり、これが太平洋戦争の遠因になったことは各所で指摘されている。また、太平洋戦争末期、アメリカは日本に原爆を落としたが、これはどう言い訳しようと、これは日本が白人の国家でなかったからであろう。さらに、ビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行った際には、日本の第五福竜丸が「偶然」通りかかって船員が被ばくした。ちなみに、ビキニ環礁は日本の元委任統治領であったマーシャル諸島に属し、高齢者の島民には日本語を解すものもいる。また現在でも、こうした白人優越主義は欧米中に色濃く残っている。例えば、ビルダバーグクラブには白人以外は入ることはできないし、ユダヤ人であるロックフェラーは財団への日本人の参加を認めるようにオランダ女王に進言したが、白人ではなかったため受け入れられなかったという。

    ところで『インペリアル・クルーズ』では、米国によるフィリピン人の虐殺についても言及されている。フィリピンは米国がスペインから奪った植民地であり、フィリピン統治は血塗られた歴史でもあった。ブラッドリーは、アメリカのフィリピン植民はインディアン虐殺と同じ構図であることを浮き上がらせている。フィリピンでのアメリカ人行動原理を端的に示すキーワードはbenivolentという言葉である。日本語では「慈悲」とも訳されるが、本来の意味は「言うことを聞く者には慈悲が与えられる」という意味でもあり、それは、言うことは聞けばキリスト教を伝えて文明を教えるが、ダメなら殺しても問題ないという考え方につながる。実際、フィリピンのアメリカ支配以来10年余にもおよぶ米比戦争では、少なくとも30万人以上のフィリピン人が虐殺されたという。フィリピン独立政府を作ったアギナルドは、韓国の高宗と同様、アメリカの口約束を信じて文書を交わさなかったがゆえに、結局はアメリカとの戦争へと突入し、逮捕される。タフトはフィリピン総督でもあったのだが、フィリピン人が独自に政府を作るにはあと100年はかかると見做していた。また、「I shall return」と言い残してフィリピンを去った後、日本に復讐を果たし厚木に降り立ったGHQ司令官ダグラス・マッカーサーの父のマッカーサーもフィリピン初代総督を務めたことがあったが、フィリピン人に対してタフトと同様な見解を抱いていた。それはハワイ支配でも同じで、米国に賛同する連中を集めて王朝を倒して共和制を樹立したのち、ハワイ人だけでは自治をする能力がないと判断して米国が結局合衆国に併合してしまう。ハワイを皮切りに、グアム、フィリピンへという米国の植民地政策は、フロンティアを西へ西へと広げていった西部開拓史の流れに位置付けることができる。そして、米国の歴史そのものでもある西部開拓史自体が、ネイティブアメリカン虐殺の血塗られた歴史でもあったのだ。

    アメリカという国家の本質は、建国以来何がかわったのであろうか。これからの日米関係を考えるには、アメリカという国家の内在的論理を詳細に研究し分析する必要があるだろう。それは政治問題だけにとどまらず、経済、社会など対象とすべき分野は多岐に亘る。言わずとしれたことだが、今年の初めから突如噴出したトヨタのリコール問題にしても、対応のまずさ云々よりも、米国内における内在的論理を熟知していれば、防げはせずともそれが広がるのを最小限に抑えることができたかもしれない。ただしそれは、アメリカの大学院に留学しMBAを取得し、「アメリカンスタンダード」なるものを日本に適応し市場原理主義を推し進めるという意味ではない。日本を否定しアメリカの常識を取り入れるのではなく、真摯に且つありのままにアメリカという国家を観察すること、そしてアメリカ人の考え方を日本に適用するのではなく、その内在的論理を分析することが、これからの日本には必要となるのではないか。ちょうどセオドア及びフランクリンの2人のルーズベルトの時代に、アメリカ人が日本を研究しつくしたように。そしてそれは、グローバル化の波にさらされている日本にとっても、安全保障の観点から最優先で取り組むべき課題であると言えよう。それにしても、明治の外交官のすばらしさは驚くべき能力である。

    Postal Crime

    会計検査院による、かんぽの宿の一括売却などの問題についての検査報告書。

    リンク先は、http://www.jbaudit.go.jp/effort/zuiji/demand/22.html

    である。

    「減損の兆候の判定理由には疑義があり、また、減損損失額の算定根拠となった不動産鑑定評価額については、資産の価額が適切に評価されていない可能性もあることから、減損会計の適用に当たっては、その実施過程において適切な資料に基づく十分つ慎重な検討を行うとともに、適切な鑑定評価を徴する事に努めるなどして、適切に行う必要があったと思料される。」

    かんぽの宿が事業としては、全然駄目で、バルク売りでオリックスに売る以外に選択肢がなかったなどという主張は、まったくデタラメの、嘘であったことがはっきりした。

    American Forces

    沖縄の渡久地明氏の普天間基地や、沖縄の辺野古の基地の問題についての優れた論考です。

    リンクは、http://www.sokuhou.co.jp/library/COLUMN/787-COLUMN.html

    変質したとの見方です。沖縄や南西諸島に外国軍隊が居座り続けることになります。そうすると国益は、海外移転しかありません。その方が、沖縄の経済発展にも貢献します。

    Heart Attack

    危ないところであった。市場原理主義の悪魔に食い殺されるところであった。それにしても怒り過ぎたのかもしれない。政府の検証委員会があって、たったの一人の告発もなく、糾弾もなく、野放しになったいたから。

    http://www.pjnews.net/news/490/20100429_11

    1ヶ月間の入院を経て、5月2日に退院しました。急性の心筋梗塞で、腎臓が壊れるかと思いましたが、人工腎臓を直結したお医者さんのおかげで助かりました。これからリハビりです。週三回は病院がよいです。手足の筋肉がすっかり退化してまずは、歩く練習から。桜の満開になる直前に倒れましたから、桜はみずじまい。退院で、5月の花々が咲き乱れていて、生き返った証です。食事と水の制限があり、却って、新鮮です。例えば、水などは、文字通りの甘露水になりますし、ミカン一個が、おいしくなります。一度死んだようで、救急車に乗るときには、天の声で、人生はどうだったかと聞かれ、思い残すことはないと答え、取り乱すことがなかったのは、幸いでした。

     読者の皆様、市場原理主義の虚妄を体感しています。カネで何ともならないこと、してはいけないことがたくさんあります。小生の命を助けてくれた、医療制度など、押しつけの外国の制度などより遙かに優れています。国民皆医療保険制度はなんとありがたいことでしょう。当方のように金銭的にそれほどの金持ちでない者にも、お金がいくらだせるかと 医療機関が聞くことはありませんでした。マイケルムーアのシッコの世界の方がおかしいのです。外国の真似などしてはいけません。

    いくら何でも、郵政民営化でくいちらかしたカラス天狗どもを野放しにしてはいけません。日本という近代国家のしかも法治国家が成り立たなくなります。郵政民営化だけではなく、他の多くの政策で、市場原理主義の破壊が行われましたが、ぼちぼちと、微力をつくして検証できればと思います。立派な組織や会社を駄目だ駄目だと破壊しておいて、内外の勢力に安くで転売する、あるいは、株式にして外国資本の餌食にするのが手口ですから、個別の検証が必要です。市町村合併なども全くの失敗でしたね。中央から地方へ等と嘘ばっかり。小さな政府をと、一部の連中が野放しになる政府をとの、政治宣伝の横行、外国勢力の暗躍。読者の皆様、お力を貸して下さいますよう。

    Kuroshio Culture and Tradition

    飛び飛びに、一ヶ月に二回の割合で、黒潮文明論と題して定期的に書いている。リンクも飛び飛びになり、検索するのも面倒であるから、一挙にリンクを公開して、読みやすくすることにした。

    http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/kuroshio-1.html

    http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/kuroshio-2.html

    http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/kuroshio-3.html

    http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/kuroshio-4.html

    http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/kuroshio-5.html

    http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/kuroshio-6.html

    http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/kuroshio-7.html

    ⑧ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/kuroshio-8.html

    ⑨ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/kuroshio-9.html

    ⑩ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/kuroshio-10.html

    ⑪ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/kuroshio-11.html

    ⑫ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/kuroshio-12.html

    ⑬ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/kuroshio-13.html

    http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/kuroshio-14.html

    ⑮  http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/kuroshio-15.html

    ⑯ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/kuroshio-16.html

    ⑰ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/kuroshio-17.html

    ⑱ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/kuroshio-18.html

    ⑲ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/kuroshio-19.html

    ⑳ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/kuroshio-20.html

    ⑳① http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/kuroshio-21.html

    ⑳② http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/kuroshio-22.html

    ⑳③ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/kuroshio-23.html

    ⑳④ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/kuroshio-24.html

    ⑳⑤ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/kuroshio-25.html

    ⑳⑥ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/kuroshio-26.html

    続き物であるから、ネタが尽きるまで書かなければならないが、以上26回までのリストになっている。番号が○に数字を入れていたが、コンピュータでどう数字を出せるのか分からないので、例えば、21を⑳と①とをふたつで表現している。月に2回のペースであるから、書き始めて一年を超えた。

     黒潮の流れに着想を得た、ある種の民族文化論を書こうとしているが、学者の検証ではないので、黒潮が洗う列島の岸辺の人々の生活について、過去、現在、未来と想像しながら、自由奔放に書くことが大切と心得ている。読者のご叱正なり、あるいは、黒潮文明に関して、こんなことをテーマにしたらという提案や発見などをご教示いただければ幸いである。

    今回の記事は実に一月ぶりの掲載である。危なくのところ、遺稿となりかねないところであった。太平洋の西の岸を、米国の力が徘徊している。大陸にも拡張主義の帝国があるが、黒潮の悠久の流れを極めてはいない。だんだんと国際政治の世界に入って行くような気がするが、そこはご容赦願いたい。また、読者のご意見もここらで拝聴したいところである。

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    Kuroshio 26

    天皇・皇后両陛下は、平成一七年にサイパンに慰霊の行幸をされた。黒潮の反流のことで南洋群島に触れたからには、森小弁(こべん) (明治二年、一八六九、一〇月一五日生)の事跡を顕彰しなければならない。現在の高知市仁井田に、土佐藩士の父可造と母可奈との間に生まれている。地元の板垣退助の自由民権運動に傾倒、一五歳で土佐を出立して大井憲太郎の書生となり、大阪事件で一年間投獄されたという。出獄後は、同郷の大江卓やその義理の父親である後藤象二郎を頼って上京、高輪の後藤宅の下足番となった。(後藤象二郎の邸宅跡が、プリンスホテルやパシフィックホテルである。このころ南進論が起こり、小弁は在学していた東京専門学校(現在の早稲田大学)を中退して、小さな南洋貿易商社の一屋商会に入社した。弱冠二二歳の明治二四年のことである。一二月には横浜港から帆船の天佑丸(田口卯吉が設立した南島商会所有の船)で同僚八人とともに、初めて南洋群島に渡っている。途中暴風に遭遇して水漏れをおこしながら、二月にポンペイ島に着き、乗客の一人を下船させ、数週間後に、帆船はトラック環礁の春島(現在のウエノ島)に着いて、小弁は一人上陸を果たした。途中小笠原の父島に寄港しているが、小笠原の日本併合を記念する碑があり、日本の南の入口、あるいは伊豆の列島の山並みが終わるとの表現となる二文字を鑿で削る事件があったという。

    当時の南洋群島はスペイン統治下にあったが、治安が悪く部族闘争が頻発していた。小弁自身も部族の争いに加わり、春島のイライス村の酋長マヌッピスの応援をしている。赤山城三郎という横浜税関の元職員が惨殺されるという事件も発生している。小弁は火薬を詰めている際に銃が暴発して、右手の指を吹き飛ばしている。島には医者がいないので、治療をするために急遽東京に戻り、その間故郷の土佐を訪問している。再び南洋にもどった小弁は、イライス村に家(今は飛行場の滑走路となっている)を建て、酋長の一二歳の娘イサベルを娶っている。米西戦争で敗北したスペインは、パラオを含むカロリン群島をドイツに売却している。米国はフィリッピンとグアムを領有し、すぐさまハワイとサモアに手をつける。ドイツはトラック諸島からの日本人の追放を画策したが、小弁は奇策を講じて、何とか留まり続けた。追放の可能性を避けるために、環礁の中の大きな島に移住するなど目立たないようにして暮らした。米国がポーツマスで日露の和平を仲介したことは事実であるが、一方では日本がフィリピンやグァムに介入しないという密約を前提にしていたことは言うまでもない。カリフォルニア州では、日露戦争直後に、黄禍論など反日排日の機運が高まった。一九〇七年には、日本船が寄港するようになり、日本人が再びトラックに来るようになったが、目立たない程の少人数であった。日英同盟に基づいてという大義名分で、第一次世界大戦に参戦したのが、一九一四年の八月九日であるが、実際には、英国は日本の台頭を懸念して、日本の海軍力を極東に留めることが目的であることがはっきりしており、日英同盟の基盤は揺らいでいた。八月一二日に、英国はドイツ領の南洋群島を日本が占領しないように要請している。日本は八月一九日にドイツに宣戦布告を行なっており、南洋には、戦艦鞍馬を旗艦とし、巡洋艦二、駆逐艦二、輸送艦三隻の編成で部隊を出動させているが、英国に対する気遣いは相当なものであった。日本の台頭に対するアングロサクソン各国の反応は、日露戦争後の日本排斥事件を超えるもので、日本との将来の対決を想定したオレンジ計画が米国で策定されたのもこの頃である。一九一四年一〇月一二日に、戦艦鞍馬を旗艦とする日本の機動部隊が、初めてトラックに入港した際に、小弁は浜辺でついに南進が達成されたとして号泣したという。国際連盟では、ウィルソン大統領の主張した委任統治という新たな植民地統治方法の妥協が行なわれた。もちろん、フィリピンとグァムはすでに米国の植民地で、委任統治の対象ではなかったから、委任統治のいろいろな制約条件が課せられることはなかった。

    昭和一五年に叙勲の栄誉を受けた森小弁が誇らかに燕尾服を着て直立する写真が残っている。大東亜戦争ならぬ太平洋戦争で日本が降伏した八日後の八月二三日、森小弁はポレ島で七六歳の生涯を終えた。イサとの間に生まれた六男五女の一族は大家族に成長して大活躍しており、現在のミクロネシア連邦大統領のマニー・モリは森小弁の曽孫にあたる。ちなみに、南洋群島には約五万人の沖縄人が移住していた。サイパン島などで玉砕した沖縄人は、一万二八二六人に昇る。ブッシュ政権下では、日本統治下の島々の米国化を誇示するかのように、ビザの発給制限など、グアムと同等の取扱いとすべく、信託統治の形骸化を進めている。沖縄の南洋群島帰還者の会はこれまで毎年チャーター機を飛ばして慰霊祭を挙行していたが、高齢化で昨年の第四〇回で最後の行事とした。今後は政府支援で南洋群島の戦没者等慰霊祭を継続すべきであろう。    (つづく)

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