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Kuroshio 26

天皇・皇后両陛下は、平成一七年にサイパンに慰霊の行幸をされた。黒潮の反流のことで南洋群島に触れたからには、森小弁(こべん) (明治二年、一八六九、一〇月一五日生)の事跡を顕彰しなければならない。現在の高知市仁井田に、土佐藩士の父可造と母可奈との間に生まれている。地元の板垣退助の自由民権運動に傾倒、一五歳で土佐を出立して大井憲太郎の書生となり、大阪事件で一年間投獄されたという。出獄後は、同郷の大江卓やその義理の父親である後藤象二郎を頼って上京、高輪の後藤宅の下足番となった。(後藤象二郎の邸宅跡が、プリンスホテルやパシフィックホテルである。このころ南進論が起こり、小弁は在学していた東京専門学校(現在の早稲田大学)を中退して、小さな南洋貿易商社の一屋商会に入社した。弱冠二二歳の明治二四年のことである。一二月には横浜港から帆船の天佑丸(田口卯吉が設立した南島商会所有の船)で同僚八人とともに、初めて南洋群島に渡っている。途中暴風に遭遇して水漏れをおこしながら、二月にポンペイ島に着き、乗客の一人を下船させ、数週間後に、帆船はトラック環礁の春島(現在のウエノ島)に着いて、小弁は一人上陸を果たした。途中小笠原の父島に寄港しているが、小笠原の日本併合を記念する碑があり、日本の南の入口、あるいは伊豆の列島の山並みが終わるとの表現となる二文字を鑿で削る事件があったという。

当時の南洋群島はスペイン統治下にあったが、治安が悪く部族闘争が頻発していた。小弁自身も部族の争いに加わり、春島のイライス村の酋長マヌッピスの応援をしている。赤山城三郎という横浜税関の元職員が惨殺されるという事件も発生している。小弁は火薬を詰めている際に銃が暴発して、右手の指を吹き飛ばしている。島には医者がいないので、治療をするために急遽東京に戻り、その間故郷の土佐を訪問している。再び南洋にもどった小弁は、イライス村に家(今は飛行場の滑走路となっている)を建て、酋長の一二歳の娘イサベルを娶っている。米西戦争で敗北したスペインは、パラオを含むカロリン群島をドイツに売却している。米国はフィリッピンとグアムを領有し、すぐさまハワイとサモアに手をつける。ドイツはトラック諸島からの日本人の追放を画策したが、小弁は奇策を講じて、何とか留まり続けた。追放の可能性を避けるために、環礁の中の大きな島に移住するなど目立たないようにして暮らした。米国がポーツマスで日露の和平を仲介したことは事実であるが、一方では日本がフィリピンやグァムに介入しないという密約を前提にしていたことは言うまでもない。カリフォルニア州では、日露戦争直後に、黄禍論など反日排日の機運が高まった。一九〇七年には、日本船が寄港するようになり、日本人が再びトラックに来るようになったが、目立たない程の少人数であった。日英同盟に基づいてという大義名分で、第一次世界大戦に参戦したのが、一九一四年の八月九日であるが、実際には、英国は日本の台頭を懸念して、日本の海軍力を極東に留めることが目的であることがはっきりしており、日英同盟の基盤は揺らいでいた。八月一二日に、英国はドイツ領の南洋群島を日本が占領しないように要請している。日本は八月一九日にドイツに宣戦布告を行なっており、南洋には、戦艦鞍馬を旗艦とし、巡洋艦二、駆逐艦二、輸送艦三隻の編成で部隊を出動させているが、英国に対する気遣いは相当なものであった。日本の台頭に対するアングロサクソン各国の反応は、日露戦争後の日本排斥事件を超えるもので、日本との将来の対決を想定したオレンジ計画が米国で策定されたのもこの頃である。一九一四年一〇月一二日に、戦艦鞍馬を旗艦とする日本の機動部隊が、初めてトラックに入港した際に、小弁は浜辺でついに南進が達成されたとして号泣したという。国際連盟では、ウィルソン大統領の主張した委任統治という新たな植民地統治方法の妥協が行なわれた。もちろん、フィリピンとグァムはすでに米国の植民地で、委任統治の対象ではなかったから、委任統治のいろいろな制約条件が課せられることはなかった。

昭和一五年に叙勲の栄誉を受けた森小弁が誇らかに燕尾服を着て直立する写真が残っている。大東亜戦争ならぬ太平洋戦争で日本が降伏した八日後の八月二三日、森小弁はポレ島で七六歳の生涯を終えた。イサとの間に生まれた六男五女の一族は大家族に成長して大活躍しており、現在のミクロネシア連邦大統領のマニー・モリは森小弁の曽孫にあたる。ちなみに、南洋群島には約五万人の沖縄人が移住していた。サイパン島などで玉砕した沖縄人は、一万二八二六人に昇る。ブッシュ政権下では、日本統治下の島々の米国化を誇示するかのように、ビザの発給制限など、グアムと同等の取扱いとすべく、信託統治の形骸化を進めている。沖縄の南洋群島帰還者の会はこれまで毎年チャーター機を飛ばして慰霊祭を挙行していたが、高齢化で昨年の第四〇回で最後の行事とした。今後は政府支援で南洋群島の戦没者等慰霊祭を継続すべきであろう。    (つづく)

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