構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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Mr. Murai, Governor of Nagao-ken

長野県知事が勇退されるとの報道である。村井仁氏である。端正な政治家であった。郵政民営化に反対して、追われるようにして、永田町の世界を去られたが、その直後に、長野県民から嘱望されて県知事選挙に出られた。時代の人気の候補者を圧倒して当選した。人となりは、ご出身の小学校の50年記念の時の講演に現れている。

郵政民営化の虚妄が明らかになった今、そして、長野県知事を勇退する今、永田町での当時の小泉・竹中政治の暴虐の経験を語っていただけないものかと思う。

http://www.e-nagano.jp/PROFILE/ASAHI.HTM

母校旭町中学校50周年に寄せて--旭町中学校の生徒の皆さんに--
  一 私達の頃の旭町中学校


 旭町中学校が誕生して今年で五〇年になった。私は昭和二四年四月に新制中学校として創立されて二年目の旭町中学校に入学した。校舎は今の信州大学付属病院の建物の南外れのあたりにあり、旧陸軍の第五〇連隊の倉庫で、高いところに窓のある薄暗い建物だった。(「新制」という言葉が正式ではないが使われていたのは松本中学校(深志高校)、松本第二中学校(県ヶ丘高校)、松本市立中学校(美須々ヶ丘高校)などの「旧制」中学校と区別するためである。)同年生は、松本商業の中学校に進んだ人達が欠けただけで全て旭町小学校から持ち上がってきた友人達ばかりだったから、正直なところ余り興奮も無かったし、不安も無かった。私にはそれまで小学校にあった高等科が一年延長されて中学校と名が付けられただけのものに思えた。
 校舎は今述べたように連隊の建物を使っていたから、一部は兵舎だったところもあるようで、職員室などは教室より明るかったように思う。馬小屋だったところなど、私達の格好の遊び場だった。 ここで日本の学校制度の説明をして置くと、義務教育期間は明治の初め四年だったが、明治の末に六年にのび、さらに昭和一六年に国民学校(小学校)六年と高等科二年の合計八年になって、戦後昭和二二年の学制改革で小学校六年、中学校三年の九年になった。これは世界でもかなり長い義務教育期間である。

 小学校の高等科と同じではないかと思っていた私にとって中学校に入って一番刺激的だったのは英語の授業が始まったことである。初めはジャック・アンド・ベティーという教科書だったが、のちにゲート・トゥ・ザ・ワールド(世界への門)という教科書に変わった。この教科書の名前に示されるように、これまでと全く違う世界が開けるという思い、英語を覚えればこれまで知らなかった世界が開けるという思いに私は興奮を覚えたものである。 昭和二四年の暮れ、旭町中学校の新しい校舎が今のところに建てられた。木造の明るい大きな校舎で学べるというのはやはり嬉しいことだった。私達は新しい校舎までそれぞれ自分の椅子を持って引っ越しをした。今の校舎から運動場は少し低いところに位置しているが、前の校舎は私の記憶ではもう少し運動場と離れて建てられていたように思う。運動場は石ころだらけで、体操の時間は大部分石拾いに費やされたような気がする。暖房は薪で、当番は少し早く登校してストーブを焚き付けなくてはならなかった。皆が上手にそれをやったのは家でもお手伝いをすることが当然だったからだろう。クラスは五五人くらいで五クラスだった。掃除当番をさぼるのがいたのは、否定できない。
 ところで、私の頃は中学校を出たらもう一人前、働きに出るのが当たり前という時代であった。私たちの時は三年間持ち上がりだったが、そのまま昼間の高等学校に行ったのはクラスの半分もいなかったと思う。高等学校に行くのはお金が掛かったのだ。(実際、私が高校二年在学中父が亡くなった時に親戚がまず勧めてきたのは、私が夜間高校に転校して働きに出ることだった。不親切でも何でもなく、高校に通うことはお金が掛かって大変だったし、中学を出ていれば働くところがあったし、もう一度強調するが働くのが普通だったのだ。)
 M君という同級生がいた。旺文社の雑誌の懸賞作文で全国一位になるほどで、生徒会の副会長もやり、学年でもトップクラスの成績だったが、父上が亡くなられて母上と二人だけの家庭、結局高校には進まれず、卒業と同時に就職された。何十年か経って再会したとき、M君が社会人としても大成功されているのを見て本当に嬉しかったものである。私達の世代の高校進学率は夜間高校も含めて全国でも四十数%、昼間の高校に進めたのは三十%台だったことも付け加えて置きたい。なお、県立高校の授業料は月に五百円だったが、その頃大学出の国家公務員の初任給が月六千五百円だったのだから今の貨幣価値では一万五千円近くにあたろうか。
 当時の旭町中学は野球が強かった。私の一年上でやはり生徒会副会長をやり、野球は主将で四番で投手で、しかも勉強もできるというTさんというヒーローがいて、Tさんのワンマンチームの旭町は中学の対抗試合で優勝したものだ。Tさんは深志高校卒業とともに憧れの巨人軍に入って私達を大いに興奮させた。
 先生方は大変ユニークだった。小学校の校長先生を退職したあと講師として授業をされるベテランの先生は少なくなかったし、よその中学では旧制松本高校を卒業して上の学校に進まれる途中、中学教師として授業をされる先生などもいらっしゃった。 私は中学時代化学実験が好きで、暇があれば始終理科準備室に籠もって実験をしていたおとなしい生徒だったと思う。人の前で演説することなどは余り気が進まず、生徒会活動は熱心ではなかった。


  二 戦後五十年、日本はなぜ発展したか  


 私が高校生になったのは、昭和二七年、日本がサンフランシスコ平和条約を結んで独立を回復した年である。まだまだ物が不足し、食べ物さえも十分ではなかった。親戚を頼って、米などを買い出しに行くことも続いていた。戦争に負けたあと中国から引き揚げてきた私は、山口県の仙崎という港町に着き、下関、広島、神戸、大阪、そして名古屋を通って父母の郷里の長野県に帰り着いた。その僅か四年前、中国に渡るときに汽車の車窓から見た美しかった日本の代表的な大都市が全て瓦礫の山となり、焼け野が原となっているのを見たのは小学生の目にも衝撃だった。そのように崩壊した日本が本格的に復興し始めるのが私が高校生になったころ、そして日米安保条約の改定を巡って国論が二分されて、当時の岸信介総理の退陣と所得倍増論を引っ提げた池田勇人総理の登場で高度成長期が始まるのが私が社会人になった頃と一致する。
 
戦後の日本のめざましい復興がなぜ出来たのかと考えてみると、もちろん幾つかの理由があるが、基本的な事は日本が本当に平等な実力の世界だったこと、そして競争が激しかったことだと私は思う。財閥が解体され、農地解放が行われて地主と小作が消え、戦前の権威は無くなって、全てが同じスタートラインから走り出した。誰もが働かなくてはならなかった。戦前からの会社よりもソニーのように戦後優れた技術を基礎に発足した会社が成功して世界的な企業になり、田中角栄元総理のように何の背景もない政治家が総理にまで登り、美空ひばりをはじめ多くのスターが実力のゆえに生まれた。私だって近い親戚に村長などは別にして政治に関わった人はいない。 もともと、日本は基本的に実力の世界である。
 私が中学生の頃に読んで影響を受けた本に、戦前からの政治家・小説家で戦後厚生大臣にもなった鶴見祐輔先生が追放を受けているときに書いた「成城だより」という本がある。そこに出ているエピソードは印象的である。鶴見祐輔先生は明治の終わりに東大を出た。同級生で公爵の跡取り息子がいたが、この人が二度も外交官試験を受けて、失敗、諦めて貴族院議員になったという話を外国人にしたら信じて貰えなかったという。外国、特に英国では外交は貴族の仕事で、試験の成績の善し悪しで決めるのは理解できないというのである。明治の終わりに東大に学ぶのだからこの公爵氏はもとより大変な秀才だったろうが、それでも当時の外務省は名門の出身だからといって妥協せず、外交官にふさわしいと外務省が判断するそれなりの基準に合致しなければ採用しなかったのだ。もっと言えば日本はコネも権勢も利かない部分が厳然とある社会だったのだ。

 明治維新から八〇年経って社会が少し固定化してきた頃、つまり金持ちの子は金に恵まれ、権力者の子は権力を握るというような傾向が出てきたときに、戦争に負けた日本は財閥解体と公職追放、農地解放などによって再び同じスタートラインに着く競争社会を作った。その効果が大きく現れたのが戦後五〇年にわたる日本の高度成長であり、その結果、誰でも勉強をしたいと思えば高い教育を受けることが出来るほどに豊かになり、皆さんはその恩恵を思う存分に享受しているのだと思う。お金がないために行けなかった人が沢山いた高等学校は今では九七%の人が進学することになり、事実上、日本は十二年という世界で最も長い義務教育期間を実現してしまった。私の世代のようにお金がないから上の学校に行けないという同級生を持った経験のあるものには夢のようなことである。
 
 私は社会人になってからいろいろな経験をしたが、その中で忘れられないのは昭和四一年から三年間アフリカのナイジェリアという国に置かれた日本大使館で貿易経済を担当する外交官として仕事をしたことである。アフリカで一番人口の大きな国であるナイジェリアで部族(言葉が僅かに違うだけで、見たところの違いはほとんどない)の対立によって内戦が起こり、ビアフラ戦争と呼ばれるむごい戦争が三年間も続くのを外交官として見たのだ。その戦争の始まる前の平和なナイジェリアの頃のことだが、私の友人であったその国の大変優秀な官僚が私に言った、「日本はたった二〇年で戦争で何もなくなった廃墟のあとから今のような繁栄する日本を作り上げた。見ていて欲しい、あと二〇年すればナイジェリアは日本よりも豊かで繁栄する国になって見せるよ」と。私はその時思わず叫んだ、「それは違うよ、日本は戦争の前にも、そして明治維新の前にも既に高い文化を持っていたんだ。そういう基礎があったから戦後の廃墟の中からの復興があったのだ」と。私は、先ほどから平等な社会という特徴を強調したが、そればかりでなく、日本は随分長いこと、世界でも珍しい程に高い文化をはぐくんで来たことを私達は忘れてはならない。


  三 日本はどんな国だったのか

 
 日本は皆さんが歴史で教わっているように、大体二千年ないし三千年以上古い時代から人が住み、特に中国大陸や朝鮮半島から多くのことを学びながら上手にそれを消化して、早くから高い文化を築き上げてきた。源氏物語が世界で最も古い長編小説であることはよく知られたことだし、千五百年を越える歴史がほとんど文字で記録されているというのも中国を別にすると世界で余り例のない事だろう。これも中国という巨大な文明圏の外縁にある島国だったから出来たことだろうが、そのような島国は他にないわけでもないのに日本が特に際だって特徴を発揮したのはやはり何か特色があり、また幸運だったのかも知れない。

 歴史の本などに余り記されていない幾つかの驚くべき事を順序不同で述べてみたい。
 一つの国が三百年にわたって平和だったというのは、世界の歴史の中で江戸時代の日本を除いて余り例がない。江戸時代が身分制に縛られた暗い時代だというのも正しくない。下級武士から幕政の最高権力者になった柳沢吉保を例にあげるまでもなく、実力のある人が然るべき立場に登る実力主義は江戸時代でさえ続いていた。典型的なのは江戸幕府の最後の始末をした勝海舟である。彼の祖父は武士ではなく、盲目の、しかし裕福な検校だったのが、金でご家人の株を買って息子を下級武士にした、その子が勝海舟である。
 また、江戸は一八世紀の半ば、世界に三つといわれる巨大な百万都市の一つで上水道はもとより下水道も一部は整い、当時建物の中にはトイレが無かったロンドンよりも遙かに高い水準の都市だったという。なお、あとの百万都市はロンドンと北京の二つである。

 この江戸に高い文化の花が開いたことは言うまでもない。建前の世界は鎖国であったが、世界情勢も西洋文明のおおよそも的確に把握していたのが当時の江戸に代表される日本の姿だったということもどうしてか今は認識されていない。
 日本の優秀さはその前にもいろいろな形で現れている。一五四三年に種子島に漂着したポルトガル人が二丁の火縄銃をもたらしたことはよく知られたことだが、その三二年後に行われた長篠の戦いは三千丁の鉄砲を活用して織田信長、徳川家康の連合軍が武田勝頼の大軍を壊滅させ、戦国時代を終わらせるきっかけになった有名な戦いである。驚くべき事はこの鉄砲が全て日本人の鍛冶屋による手作りの製品であり、しかも三千丁もの鉄砲を使う戦いはそれまでの世界の歴史になかった事である。世界の歴史で最大の規模の鉄砲を使った戦闘が日本人によって戦われたのである。当時の日本が大変な技術を持っていたことが窺われる。(この高い技術で製造された火縄銃は松本城天守閣の鉄砲蔵で実物を見ることが出来る。)このような高い技術の水準は、鎖国後の江戸時代でも一層成熟していき、明治維新をきっかけに欧米の近代技術に触れると急速にそれを吸収消化する能力を高めることが出来たのである。

 江戸時代の終わりから明治の初めに掛けて欧米に旅行したり、留学した日本の役人や学生達の熱心な勉強振り、折り目正しい態度は当時の欧米の人達に大変な感銘を与えたことも触れておきたい。いつも清潔な衣服をまとい、毅然として高ぶらず卑屈にもならず堂々とした態度は、言葉が十分通じなくても人にある種の感銘を与える。 同じ幕末の頃、ある東洋の国(日本ではない)の貴族が米国に留学したが、その貴族が自分の連れてきた従者にことあるごとに殴る、蹴るの暴行を加えるのを見て米国人がすっかり嫌になったという話とは随分違う話である。
 私がもっと大切だと思うのは、江戸時代の日本人が大変に謙虚だったということだ。徳川将軍の交代の時など、朝鮮通信使と呼ばれる使者が将軍に祝いを述べるために朝鮮から対馬経由で派遣されたが、多くは当時の朝鮮を代表する学者であった。この使者を日本人がどれほど尊重したか。当時の支配階級であった武士はもとより豊かな商人が朝鮮通信使に面会し、さまざまの知識を学ぼうとした事績が各地に残っている。同じ事は当時の中国と交流のあった琉球国の使者が江戸に上るときに多くの人が宿を訪ねて漢詩を教わろうとしたり、漢文の講義を受けたり、掛け軸を書いて貰おうとしたことにも現れている。新しいこと、自分が及ばないことを学ぼうとする熱意がこれほどに謙虚に表されるというのは日本人の美点ではあるまいか。


  四 二十一世紀に向けて若い人々に期待すること


   終わりに近付きつつある二〇世紀を振り返ってみると、日本にとってはその前半は引き続く戦乱の時代であり、世界の中で武力でその地位を確保しようとした時代であった。後半は世界で引き続く混乱や戦争をよそにこの島々の上に五〇年を越える平和と繁栄を実現しその成果を享受し、世界でも有数の、また日本の歴史で未曽有の豊かな社会を実現した。
] 世界的な規模で観察すると、人類の無限の進歩に何の疑いも持たれず二〇世紀がさらなる人類進歩の理想の世紀になると期待されたのが一九世紀である。特に一九世紀半ばから強くなって約一五〇年続いた社会主義あるいは共産主義に対する期待が、二〇世紀の終わりに近くなってソ連の崩壊や中国の方向転換で裏切られたことは大きな事件であった。その意味で、二〇世紀が終わろうとするいまは、理想社会の姿は描かれていない。皆さんがおとなになろうとする時代はそういう世紀の転換の時代である。

 皆さんが社会の中堅になる二〇二五年頃はいわゆる高齢者の比率が日本の歴史の中で最も高くなる時期で働く世代の負担が最も高くなるとも予想されている。その時代に備えてどのような日本をつくっていったら良いのか、私にも考えはあるがやはり一番の負担を負う皆さんにいまの内から考えておいて欲しいと思う。  日本と日本人は恵まれた環境と優れた素質によっていま世界でも有数の豊かな社会を実現したが、この豊かさをどのようにしたら長続きさせることが出来るだろうか。平和を享受して来たがそれをどのようにしたら長続きさせることが出来るだろうか。皆さんも、皆さんのご両親も、お年から考えると戦争がどんなに悲惨なものかを直接には知らない。そして日本人は平和がどのような努力によって作られるものかを知らない。なぜなら日本はこの五〇年余りよその国々が作ってくれた環境の中で自分の国だけの平和を楽しんできたからだ。 おそらくこれから数年のうちに、おそらく遅くも一〇年のうちに、日本は国連の安全保障常任理事国になるに違いない。それが世界から求められているからだ。それは平和というものに対する日本人の考え方を根本から変えさせることになるだろう。 このような来るべき時代についての私の考えを述べた上で、この機会に皆さんにお願いしておきたいことが幾つかある。

 「身を修め家を斉え国を治め天下を平らぐ」という中国の昔の言葉がある。物事の順序を述べたものである。まず自分自身を磨き、そして家庭の中を円満にし、地域を秩序正しくし、始めて世の中が丸くおさまるとでも言い換えることが出来ようか。あまり言われなくなったことだが、学校に通っている若いうちに是非自分の人格を磨く努力をして欲しい。特に将来どのような職業に就くにせよ、社会公共のために役に立つという心掛けを持って欲しい。決して、自分だけ良ければという身勝手な生活態度を取らないで欲しい。
日本は豊かになった。その結果、食べるものも着るものも、そしてさまざまの生活に用いられる品も満ち満ちている。そのために、ものを粗末にすることが大変多い。食べ残しは当たり前だし、まだ使えるものが惜しげもなく捨てられていく。地球環境の問題を考えてみても大きな問題であることはいうまでもない。トルストイの「人にはどれほどの土地がいるか」という作品でパホームという主人公が一日の間に歩いて囲った土地を貰えると聞き、一日歩いて最後に出発点にたどり着いて血を吐いて死んでしまう寓話を引用するまでもなく、人の欲望は限りない。そうはいいながら欲望は向上心の源でもあるし、社会進歩の原動力でもある。そのことを認めつつも、一方では個人の消費生活を質素にすることは私は大切なことだと思う。
 「立って半畳寝て一畳、天下取っても四合半」という言葉がある。負け惜しみのようだが、味わいの深い言葉である。私はそれぞれ人の価値観に依ることだとは思うが、どうか、若い皆さんが物質や金銭のみに価値を見いだすのではなく、精神の高さを大切にして欲しいと思う。 広い知識を身につけるために本を読んだり、さまざまのニュースを追いかけたりする事は大切なことだが、出来れば人類の長い歴史の中で濾過されて今に残っている古典と呼ばれる本を読んで欲しい。汲めども尽きない先人の知恵がそこには凝縮されている。そして本を読んで知識を蓄えるのも大切だが、是非自分の頭で考える習慣を身につけて欲しい。知識を得るだけで自分の頭で考えることをしなければあまり意味のないことだ。単なる物知りに過ぎないし、ものを知っているというだけのことなら、極端なはなし、百科事典を引けば済むことになってしまう。人間の一番大切なことは自分の意見を持つことだ。さらに独りよがりにならないように、友人と意見を交わしあって、世の中にはいろいろな意見の持ち主があるということも判って欲しい。この私の話を読んでも、自分で納得できるかどうか、考えてみて欲しい。私はどうもこの頃、自分の頭で考えないで、書物や新聞に書いてあることをそのままオウム返しに口にする人が多いことが問題ではないかと思っている。

  さらに、皆さんには日本という国と日本人であることに自信と誇りを持って欲しいと心から願う。自分の国に誇りを覚えることが出来ない国民が、どうして外国人が持つ自分の国に対する誇りを認め、外国人を尊敬することが出来るだろうか。私はこれからの世界は間違いなく国際的な触れあいが今まで以上に増していくと思っている。とりわけて、長野冬季オリンピックの成功で長野は世界の長野になった。松本もその一部である。私は米国の議員と十年間にわたって日米議員交流という仕事をしているが、今年の五月米国に行って、初めて会った米国の議員に選挙区はどこだと訊ねられて、「長野」と答えたら、「あ、オリンピックをやったところだね」とすぐに判ってくれた。今までなら東京から西北の方向にある山の多い地域だというような説明をしたものだが、その必要も無くなったのだ。それから、外国人と付き合うのにむやみに外国人の真似をすることはない。私の経験では、外国人と当たり前に付き合っていくには、何よりも素晴らしい日本人であることが大切なのだということを強調しておきたい。

 私は皆さんの迎える時代が必ずしも安楽な時代ではないと感じている。しかし、皆さんが自信を持って日本の伝統を生かし、これまで培ってきたものを大切にしながら、積極的にチャレンジして行ってくれれば、日本はやはり世界にかけがえのない大切な存在として尊敬されていくに違いないと信じている。私は旭町中学を卒業するときに、国語の講師で「あららぎ」の歌人で良寛の研究家、書家でもいらっしゃった山田良春先生から先生の素晴らしい書で「ゲーテの言葉を記す」として記念の言葉を贈られた。それは次のようなものである。
いずこまで行く汝(いまし)ぞや 見よ良きものはいと近し ただそを握る術を知れ 幸(さち)とこしえにここにあり  同じ言葉を皆さんに贈りたい。

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コメント

 引退すれば全てで終わりよしか?
西松事件の発端は縊死した右近元秘書ではなかったのか。
 彼の死は犬死か
 故右近氏は、防衛大16期で航空自衛官になり空幕長の副官までした男でしたが縁あって村井氏の秘書官となるため自衛隊を退職し以後20年に及ぶ村井氏との一心同体生活でした。
 なぜ縊死を(責任感は防衛大から空自幹部として培われていました。)
 この疑問に答えて欲しいものです。

投稿: 妹尾 | 2010年5月13日 21時37分

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