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Annexation Japan and Korea 3

日韓併合百年─封印された合邦の理想③

裏切られた日韓合邦の理想

本誌編集長 坪内隆彦

日韓併合を批判した葦津耕次郎

 「併合はわが政府の失態だ」

 神道人として活躍していた葦津耕次郎は、熊本第六師団団長を務めていた明石元二郎を訪れ、そう声を張り上げた。日韓併合から五年余り経っていた。

 「なぜだ」と反発する明石に、葦津は続けた。

 「孟子にも、『これを取りて、燕の民喜べば、取るべし』とある。日韓併合で全道二千万の民が喜ぶのなら差し支えないが、日本の政治家は日本国民を喜ばせる方法さえ知っていない。ましてや韓国二千万の国民はみな悲憤慷慨している。にもかかわらず、あえてこれを併合し、わが国の馬鹿政治家に任せたぐらいでは、とても韓国の民を喜ばせ、信頼させることはできない」

 双方譲らず、激論は終夜におよんだという(斎藤吉久Webサイトより http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/index.html)。

 当時、日韓合邦の理想を求めた内田良平も挫折感を抱かざるをえない状況にあった。

 内田らが目指していたのは、日韓の対等な合邦であり、それはアジア全体の連携へと発展する土台となるべきはずの構想であった。

 内田らの興亜論者が思い描いた合邦構想の原点には、『大東合邦論』があった。同書は、金玉均の支援者でもあった樽井藤吉が明治十八年に書いたものである。この原稿は樽井の投獄によって没収されてしまったため、彼は明治二十三年に、朝鮮半島や中国でも読まれるようにと、漢文で再稿した。

 樽井は列強に対抗して、日本が同様の政策を採用することには反対であり、同書において「領土拡張方式」は見込みがないと明確に記していた。日韓合邦後の政体については、一種の連邦制を取り、日本、朝鮮の対等性が維持できるよう「大東」という新国名をつけようとしていた。日韓両国にとって「東」の一字が深遠な意味を持つと認識していたからこそ、樽井は「大東」という名称を冠したのである。

 彼は、〈日本〉の国号は〈東方〉の義に基づき、長く「東」の字を以て国の別号としてきたし、〈朝鮮〉もまた「東」の字を国号としてきたと理解している。そして、樽井の日韓合邦論は、日韓のみで完結するものではなく、日韓の連携を基盤にして、日中韓三国の連携へと進み、次にアジア全体の連帯、さらには人類全体への連帯へと進むという構想であった。影山正治は、「『大東合邦論』の根本主旨は、『世界連邦』実現の大理想を前提としての『アジア連邦』実現を考へ、その『アジア連邦』実現の前提として先づ『日韓連邦』の実現を念ずるところにあった」と書いている。

 葦津耕次郎の長男、葦津珍彦は、『大東合邦論』に示された東亜連帯論を次のように評している。

 「日韓両民族の同等親和、相互敬重の大切なことを力説してゐるが、それは決して政策的な駆引きや外交的儀礼から出たものではなく、熱烈な真情の流露であることを信じさせる力がある。著者は、清国や韓国の国民について、国家の現状について、遠慮のない批判も加へてゐる。かれは形式的な社交辞令を用ゐない。しかしそこには、決して人種的偏見がない。あくまでも親愛なる対等の兄弟としての真情をもつて語つてゐる」(葦津珍彦「『大東合邦論』と日韓合邦」『不二』第十八巻第三号、十六~十七頁)。

 内田とともに日韓合邦を推進することになる李容九は、明治三十四年に来日し、偶然にも『大東合邦論』と出会い、日韓の対等合邦の夢を膨らませていく。

 李容九は、明治元年二月十四日、韓国における両班階級中、最高位の門閥に生まれた。東学党第二世の教主・崔時享に師事することを決意したのは、彼が二十三歳になったときである。李容九は、閔族一派の専横に反発し、権力への抵抗を強める東学党の姿勢に共鳴していたのである。明治二十七年四月、ついに東学党は全琫準を指揮官として決起した。李容九らは明治三十一年に逮捕されたが、投獄中黙秘を続けた。そして、明治三十七年十二月に、親日路線の「維新会」を率いる宋秉畯と合流し、「一進会」を設立する。明治三十九年十月、内田良平は李容九と日韓合邦で協力する約束をし、一進会顧問に就く。日韓合邦運動の本格化である。

日韓満蒙の連盟国家建設構想

 樽井の構想同様、一進会の構想もまた、日韓合邦で完結するものではなく、アジア連邦に発展する壮大な構想だった。一進会財団を設立し、満州へ開拓移民を送り、日韓満の連邦をつくり、さらに支那を加えてアジア連邦を作ろうとしていた。一進会は、会員を満州に移住させ、殖産衣食の道を与え、早晩起こるであろう孫文の革命の機に乗じて、満州独立の旗を翻し、日韓満蒙の連盟国家を建設し、ヨーロッパのアジア侵略に対抗して、東洋平和の根幹となろうと考えていた。

 しかも、すでに当時一進会は、間島方面に多数の会員を移住させつつあった。間島は、豆満江の下流域左岸の地域、現在の吉林省延吉朝鮮族自治区を指す。この地域には李朝末期から朝鮮人農民の入境が増え、二〇世紀初頭には、朝鮮人が全人口の八割を占めるようになった。桂首相は一進会の構想に賛意を示し、一千万円の支援も辞さないと誓約していたという(大東国男『李容九の生涯』時事通信社、昭和三十五年、二十四頁)。

 一進会財団構想にも関わっていた権藤成卿は、合邦後の社稷(国民の生活)を守るために、支那の唐制、朝鮮の高麗令、日本の律令に共通する東洋的自治自存の大則を研究し、これに新しい制度文物を加味して、朝鮮の国情、民度にふさわしいものを作ろうと真剣に研究していた(前掲書六十六頁)。

 しかも、李容九は東洋思想に根ざした秩序構築を意識していたかに見える。侍天教を設立した李容九は、仏教、儒教、道教の三教帰一を説く

武田

範之との思想的結合を強めていたのである。

 

武田

は、久留米勤皇党の一人、沢之高の三男として生まれたが、同じ久留米勤皇党の同志で医師の

武田

貞祐の養子となった。十九歳になった

武田

は、医師を継がせようとする養父に背いて、放浪の旅に出る。彼は、熊本、大阪、東京などを転々としたが、やがて妙高山麓の関山町宝海寺に足を止め、大乗仏教の教義を要約した「大乗起信論」を読み、仏教に惹かれていく。そして明治十六年、

武田

は越後顕聖寺の玄道和尚により得度仏門に入り、修行を開始した。この修行時代の勉学ぶりはすさまじく、一冬の間、不動尊の洞窟に篭って、大蔵経を二回読破したという。

 

武田

は、明治四十年一月に李容九と対面、侍天教の宗旨内容の整備に取り組むことになった(西尾陽太郎『李容九小伝 : 裏切られた日韓合邦運動』葦書房、昭和五十三年、二十五頁)。

武田

の思想を取り入れた侍天教の教義には、「東洋に観るある者は、三教帰一の本原に観、以て我が東洋思想を統合し、東洋人族をして其の最高観念に安立せしめざるべからず」との内容が盛り込まれた。『興亜風雲譚』を著した井上右は、日韓合邦を、李容九、

武田

範之、内田良平等の三教帰一思想を基礎とする大東合邦亜細亜連盟論ととらえていた(井上右『興亞風雲譚』平凡社、昭和十七年、百十八頁)。

裏切られた日韓合邦

 だが、日韓併合後、満州移住の構想の予算は顧みられず、一進会解散手当てとして十五万円が支出されたのみである。

 精魂尽き果てた李容九は、明治四十四年五月に日本に渡り、兵庫県須磨の白砂青松の地で静養することとなった。李容九は結核に冒されていた。

武田

範之もまた、この年の春、東京根岸の養生院の医師から死の宣告を受けていた。

 李容九は、入退院を繰り返しながら、

武田

宛ての手紙で、「少時より平生の営む所は、一身上の禄々たる私利に在らずして、遠く国家の大利の為にするに在り」と日韓合邦に取り組んだ自らの志を語った。続けて、次のように苦境を綴っている。

 「不平党の人心を観れば、則之を目するに売国の賊を以てし、凶言悪説独り以て之を取り、生命保ち難し、禍を取り福を嫁する者は此物也。笑ふ可き者の一也」、「自ら身勢を顧みれば、帰る所の路無くして、而して黄泉の帰路適当す。然れども此れ亦地下に若し先去者の霊魂有らば、則或は羞愧無面の嘆有らんことを恐るる也」

 李容九は、さらに「杉山・内田の諸尊、彼れ人を欺く乎否乎。宋・李両人彼れ人を欺く乎否乎」と書いている。ここには、欺かれたのは自分たちだけだったのかと、内田に対してまでも疑念を抱かねばならない悲しい心境が示されていた。この手紙に対して、

武田

は次のような温情に満ちた返信をしている。

 「大丈夫志を行って一国之を非とするも而も顧みず、天下後世一人も其志を知るもの無きも而も悔いず。其志は則天地を一貫し日月と光を争ふ。我儕豈世の毀誉と浮沈して以て蜉蝣の徒に伍す可けん哉、諺に曰ふ、大象は兎径に遊ばずと、己業に幸に我大行を達す、寒怨炎咨の細節、聾と為り唖と為るを尊しとする也」

 明治四十四年六月二十三日、

武田

は死去、そのおよそ一年後の明治四十五年五月二十二日、李容九は「売国奴」の汚名を着せられたままその生涯を閉じた。たまたま大阪にいた内田はただちに須磨にかけつけ、葬儀にあたり、むしろ旗をつくり、「弔平民李容九」と大書し、これを仮住居の門前に立てた。六月五日に行われた本葬は、会葬者五千名以上という空前絶後の規模だったという。

 やがて、日韓併合後の統治の現実は、日韓合邦の理想とはほど遠いものになっていく。内田良平は、大正三年四月に「朝鮮統治制度に関する意見書」を起草、大隈重信首相をはじめ各大臣、元老、寺内朝鮮総督に提出した。

 その要綱は、(一)朝鮮の国情に適応する立法議院を設置し、朝鮮人に参政権を与えること。(二)地方議会を組織し、自治の権利を朝鮮人及び移住民に付与すること。(三)朝鮮人の戸籍法を制定して徴兵令を布き、国民皆兵主義を実行すること。(四)大いに文武官任用の門戸を開放し、朝鮮人指導の実を挙げること。(五)朝鮮大学を京城に設け、日鮮人思想の同化統一を図ること──等の五項目であった。元老山縣有朋、首相大隈重信等は、内田の意見に同感の意を表したものの、結局意見書は統治政策に生かされなかった(『国士内田良平伝』五百五十三)。

 内田は、大正九年二月には「民族的結合に依り、内鮮人間における徹底的渾融同和をはかる」ことを目標に、朝鮮における制度の改善、人種の平等擁護、教育の振興普及、朝鮮人功労者の表彰等を実現するために同光会を組織した。同光会は、憲政会の荒川五郎らの代議士とともに朝鮮を訪れ、朝鮮統治に関する要望を聞くなど、統治の改善を試みている。

朝鮮神宮に抵抗した神道人

 大正十四年十月に京城府南山に朝鮮神宮が創建されると、皇道思想家の今泉定助や靖国神社宮司賀茂百樹らの神道人が「朝鮮の国土にゆかりの深い祖神を祀るべきだ」と主張し始める。葦津耕次郎は、「皇祖および明治天皇を奉斎して、韓国建邦の神を無視するは人倫の常道を無視せる不道徳……必ず天罰と人怒を招来すべきものなり」と厳しく批判した。これに対して、朝鮮神宮に関する懇談会の席上、斎藤実総督は次のように弁明した。

 「朝鮮神宮に朝鮮人の祖先を祀らず、日本の神だけを祀ったことに対して、不穏な事件でも起こりはしないかと思っていたが、無事に鎮座式がすみ、幸いであった。朝鮮人の先祖とされる檀君の事蹟を学者に調べさせたが、実在の神かどうかが明確ではなかった。実在の神と判明すれば、時機を見て祀るつもりである。遷座の日、朝鮮人はみな浄衣を着て、神輿を沿道に迎えた。われわれの誠意を知り、日本人と朝鮮神宮に対して悪意を抱いていないという証拠である」

 この発言を葦津耕次郎は黙って聞いていられなかった。立ち上がると、

 「総督は恥を知る人なのか。政治とは何かを知る人なのか。学者というのは、耳目にふれるもの以上のことを考えられない馬鹿者である。学者の言葉に従って、どうして生きた政治ができるのか。数千万の朝鮮人が存在する以上、祖先が存在するのは動かせない事実だ。その祖神を大国魂として祀ればいいのだ。朝鮮政治の根本義として、ただちに祀るべきである」と主張した(斎藤吉久Webサイト)。

 朝鮮統治は、内田が望んだように改善されることはなかった。本誌六月号「出口王仁三郎」で書いた通り、日韓合邦の夢を再現しようと、内田の同志の末永節は肇国会を結成、「大高麗国」構想を進めようとした。また、内田は、出口王仁三郎、道院・世界紅卍字会と連携して、満蒙独立国家の樹立を試みるなど、アジアの道義的統一を目指した。

 しかし、一度狂った歯車は止めようもなかった。日本の興亜陣営の善意はアジアの民衆に届かないまま、反日、抗日運動は高揚していった。晩年、内田が夢野久作に概要次のように心情を明かしている。

 「日韓併合当時、当局者はしばらくすれば、善政の効果が表れ、朝鮮人を恭順させられると言っていたが、二十有余年経っても、当局者の所謂善政の感化は効果を示していない。内鮮人が融和されているように見えるのはほんの表面だけだ。満鮮人の悦服なくして、我々日本民族は亜細亜諸民族の盟主となり、皇道を世界に布くことなどできない」。

 そして、内田は「恥を知らず、義理を知らず、人情を知らぬ、文化的に不逞無智な官僚人種」の責任を痛烈に批判した(夢野久作『近世快人伝』)。昭和九年十一月二十九日、李容九らの功績を称えるため、内田良平は頭山満、杉山茂丸らとはかり、明治神宮表参道神宮橋畔に日韓合邦記念塔を建立した。正面の題字は頭山満の筆になる。この記念塔は戦後撤去されたが、一部は東京都青梅の大東神社に保管されている。(つづく)

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