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Annexation Japan and Korea 4

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日韓併合百年 ─封印された合邦の理想 [完]

日本ナショナリズムの分岐点

麗澤大学教授・思想史家 松本健一

分岐点になった日露戦争

── 日韓合邦の理想と日韓併合の現実についてどう評価するか。

松本 日韓併合百年にあたって考えるべきことは、明治日本の強国化によって日本のナショナリズムがどんな問題をかかえこみ、どう分岐していったかという点だ。これまでの評価は、日本のナショナリスト、右翼がすべて侵略的な帝国主義政策を牽引したというものだった。しかし、民族派陣営は決して一方向に流れていたわけではなかった。

 内田良平らの黒龍会には、朝鮮のナショナリズムへの理解があり、李容九らの一進会と協力し、対等の日韓合邦を目指した。ところが、明治四十三(一九一〇)年に日韓併合条約、実際には韓国併合の条約が結ばれることになった。ここで重要な点は、樽井藤吉が『大東合邦論』を書いた明治十八(一八八五)年の時点と、日清戦争、日露戦争を経た時点での日本のアジアでの立場が大きく変わっていたという点である。

 日露戦争に勝利した日本は、もはやアジアの弱小国ではなく、欧米帝国主義列強と同様に「帝国主義」の強国になっていたのだ。明治二十三(一八九〇)年に帝国憲法が施行されてから十四年経った明治三十七(一九〇四)年に、わが国は「国民国家の戦争」として日露戦争を戦い、勝利した。これにより、日本も欧米から文明国(=帝国主義国)として認められるようになった。岡倉天心は『茶の本』の中で、「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていたころは野蛮国とみなしていた。しかし日本が満州の戦場に大殺戮行動を起こしてからは文明国と呼んでいる」と書いている。

 明治十八年から四半世紀を経て、日本の国際的な地位が飛躍的に向上したという現実が、アジア主義者にどう認識されていたかという点が重要だ。

 『小川平吉関係文書』には、内田良平が明治四十二年十二月十日に書いた「合邦提議ノ真相」という文書が収められている。ここで内田は、日本と合邦しても構わないという一進会の考え方は韓国人一般の考え方であるとしている。しかし、実態はそれほど単純ではなく、私は伊藤博文の認識と同じように、韓国人一般の考え方と一進会の考え方とは異なっていたと考えている。一進会は、朝鮮の皇室が保全できれば統治権は日本に譲り渡してもいいと考えていた。しかし、日韓併合によって、結局李王朝は廃絶されることになった。

 実は、併合の三年前の明治四十年七月に「日韓併合建議」というものが出されていた。河野広中、大竹貫一、小川平吉、国友重章、五百木良三、頭山満の六名の連名で書かれたもので、政府ならびに伊藤博文統監に提出された。この建議には、二つの案が示されていた。第一案は「韓国皇帝に主権をわが国に禅譲させ、日韓両国を合併する」、第二案は「韓国皇帝にその位を皇太子に譲らせ、その統治権をわが国に委任させる」というものだ。前者は王朝もなくして日本に合併して植民地化するという考えであり、後者は、王朝自体は存続させて保護国化するという考えである。まさに、第一案は、弱小国は占領して植民地化してしまえばいいという、欧米の帝国主義と同様の考え方だ。これに対して、第二案は、朝鮮のナショナリズムを認め、王朝の伝統も維持させようという考え方である。

 この頭山満も加わった建議は、断然第一案を採るのが上策だと主張していた。つまり、この帝国主義的立場と、革新的ナショナリズムを唱えていた内田良平の考え方は明らかに異なる。

 ただし、当時の世界には、植民地を手に入れなければ「文明国」になれないという考え方が確かにあった。例えばベルギーのような小国でもコンゴを植民地にすれば国民国家を作れる、あるいはオランダでもインドネシアを植民地にすれば国民国家として繁栄できると考えられていた。だから、日本は日清戦争で勝利して台湾を領有し、アメリカは米西戦争でスペインに勝利してグアムやフィリピンを植民地にし、キューバを保護国化して、ともに文明国と認められるようになった。それは、二十世紀初めの常識であり、天皇、皇后もその常識と無縁ではいられなかった。例えば、明治四十三年の日韓併合成立に際し、美子皇后は、次のように詠まれている。

 「日の本の国ひろごるのみのりぶみ神もうれしとうけたまふらむ」

 「ひろごる」は「広がる」、「みのりぶみ」は「御告文」の意味だ。当時は、国が広がることはいいことだという感覚が普遍的に存在したと言っていい。ここに内田良平らナショナリストの苦悩もあった。

── 「日韓併合建議」には頭山満も名を連ねてはいるが、これを主導したのは政界に影響力のあった小川平吉のように見える。

松本 この建議を書いた六人が、日露戦争の講和条約に対する反対運動を推進した勢力であったことに注目すべきだ。明治三十八年に日露の講和条約が結ばれたが、委譲された領土は僅かに樺太の南半分のみであり、賠償金も得られなかった。そこで「大きな犠牲を払って勝利したにもかかわらず、その成果は何もないではないか。このような屈辱的な講和条約には反対だ」という世論が高まった。九月五日には、日比谷公園で講和条約反対の国民決起集会が開かれる。この大会の中心メンバーが小川平吉や河野広中らだったのだ。

 彼らは、もともと近衛篤麿の周囲に集まった対外硬(対外強硬派)の人々だ。その後、対外的な国家主義を主張する。彼らは、まず日露戦争の講和条約反対運動をやり、次に韓国併合を進め、そして大正時代になると対外的な帝国主義的政策を推進すべきだと主張した。例えば、彼らは大隈重信政権時代の「対華二一カ条の要求」を推し進める役割を担った。また、清朝の粛親王を満蒙に呼んで満蒙独立運動を展開しようとした。

 ところで最近、小川や五百木らとともに、満蒙独立運動に関わった工藤忠に関する非常に面白い本が出た。山田勝芳著『溥儀の忠臣・工藤忠 忘れられた日本人の満洲国』(朝日選書)だ。満洲国の侍衛処長として溥儀に付き添った工藤忠は、関東軍に疎まれながらも、満州国成立以前から清朝復辟運動を通じて溥儀を支えた人物である。この辺りの歴史を再度見直す必要があると思う。

 さて、小川・五百木らのグループが再度登場する歴史的局面は、田中義一内閣時代の昭和三年六月四日、関東軍参謀である河本大作の計画立案で引き起こされた張作霖爆殺事件だ。このとき関東軍が事件を起こしたことを国際的に知られるのを避けるため、事件をうやむやにすることを主張したのが、鉄道大臣の立場にあった小川平吉だ。それを、田中義一が採用し、昭和天皇の怒りを買った。それを外部から支援したのが、五百木良三らであった。

 宮沢喜一の外祖父である小川平吉は長野県出身の弁護士で、近代的な法律の知識だけではなく、漢詩をはじめ東洋的な教養も身に着けていた。昭和四年の私鉄疑獄事件で下獄し政界を引退したため、それ以降は政治の表舞台から退いたが、彼が近代の日本政治史において果たした役割に注目する必要がある。日本の学界は政治の主流になった人物しか取り上げようとせず、小川のような人物の研究に手をつけていない。危ない橋を渡りたくないからだ。五百木良三が果たした役割も重要だ。私はいま五百木の評伝を書いているが、彼が政治の裏面で実に面白い役割を果たしていたことがわかった。

帝国主義に反対した国学者や神道人たち

── 小川や五百木と玄洋社、黒龍会などの民族派陣営の関係は複雑だ。

松本 はっきりしていることは、内田良平が思想レベルでは小川らの帝国主義的政策の流れとは一歩距離を置いていたことだ。内田は、一進会の人たちを自分たちが裏切ってしまったのではないかという反省を持ち続けていた。そして、前回坪内さんが書いていたように、葦津耕次郎は熊本第六師団長を務めていた明石元二郎を訪れ、日韓併合はわが政府の失態だと批判していた。彼は「これを取りて、燕の民喜べば、取るべし」という『孟子』の言葉を引いて、韓国二千万の国民はみな喜んでいるのかと問いただし、日韓併合を考え直せと詰め寄っている(本誌七月号、五十頁)。

 国学者や神道人の中には、日本が平和で、豊かで、安定した状況で米づくりをし、天皇とともにわが国を安泰に導きたいという考え方を強く持っている人がいる。これは、日本浪曼派の保田與重郎らの考え方とも通ずる。保田は、日本は絶対平和の国であり、島国の中で米づくりをしながら、古事記や万葉集のような文学で日本の美しいあり方を追求してきた文化的な国であるととらえていた。

 帝国主義とは、西洋近代国家のナショナリズム、そして資本主義が己の利権を追求して最終的には世界の覇権を握ろうとする政策だ。葦津耕次郎のような神道人たちは、日本が軍事力を通して覇権国家になろうと主張することは帝国主義的発想だと批判していたのだ。

 辛亥革命に関わった北一輝の場合も、中国のナショナリストの独立願望、そして革命的パトスというものを引き受けている。彼はすでに大正五年に『支那革命外史』で、「対華二一カ条の要求」に反対の立場をとり、それは日米戦争の引金になると警告していた。

 北は、中国の土着的伝統に照らして、清朝が倒れて共和制になってもかまわないと考えていた。これに対して、日本の天皇制帝国主義政策を肯定する政府や一部のナショナリストは、日本の天皇制を守るためにも、清朝が廃絶されるようなことは避けなければならないと考えた。だから清朝復辟運動に加担していった。その代表が五百木良三や川島浪速だ。

── 大正十二年に、三宅雪嶺は『日本及日本人』を出していた政教社から離脱を余儀なくされる。その背景には、思想的対立があり、雪嶺の長女多美子と結婚した中野正剛の存在があった。雪嶺が去った後の『日本及日本人』を率いた代表が五百木良三だった。

松本 中野正剛もまた、帝国主義に対する批判的視点を持ち、孫文の「大アジア主義」講演の意味を正しく理解していた。彼は、「孫君は日本の所謂大亜細亜主義者とは、全然立論の根拠を異にして居る。日本の大亜細亜主義は亜細亜を連ね、人種的色彩によりて白人に応戦し、日本を中心として白人の帝国主義に対抗すべく、別個の帝国主義を高調せんとする傾向がある」と明確に指摘していた。かつて私は、二十六峰外史の筆名で、「孫文君の去来と亜細亜運動」と題して書かれたこの論文が中野正剛のものであることを明らかにした。ところが、日本の学者たちは、後に大東亜戦争を肯定する中野が、そんな立派なことを言うはずがないなどと言っていた。

 ここに日本のアカデミズムの大きな問題がある。つまり、大東亜戦争の失敗は民族派、右翼の責任だとする単純な思考から抜け出せず、個々の民族派の主張を正確に捉え、帝国主義者との峻別をしようとしてこなかった。

孟子の革命思想を評価した 松蔭・諭吉・北一輝

松本 ここで注目したいのが、孟子の思想だ。葦津耕次郎が「これを取りて、燕の民喜べば、取るべし」と孟子を引いて批判しているように、孟子の思想は孔子の支配的イデオロギーとは異なる。むしろ革命思想なのだ。すでにできあがっている社会で支配者が持つべき政治的道徳を説いた孔子の思想は、支配的イデオロギーだ。

 日本において、孔子以上に孟子を高く評価するのは、革命家たちなのだ。まず、吉田松陰を挙げることができる。野山獄に投獄された際、松陰は獄中で囚人達に孟子の講義を始める。これをまとめたのが、『講孟余話』だ。次に私が注目しているのが福沢諭吉だ。福沢は西洋の民主主義と同じような思想が東洋にもあり、それが孟子だと説いた。孟子は「民を貴しとなし、社稷これに次ぎ、君を軽しとする」と説いている。民を貴しとしないような政治はだめで、そのような政治はひっくり返されても仕方がないという考えだ。実際、孟子はこれに続けて、「民に得られて天子と為り」とも言っている。つまり、民の信用を手にすることができて初めて天子となれるという思想だ。そういう天子でないならば革命してもかまわないという考え方であり、これは革命思想だ。福沢は、この部分を『文明論之概略』で引用している。そして北一輝もまた孟子の思想に強い影響を受けていた。北の思想的影響を受け、二・二六事件を起こした磯部浅一は、その獄中日記で次のように、革命的クーデターへの思いを書いている。

 「日本は天皇の独裁国であってはなりません、重臣元老貴族の独裁国であるも断じて許せません、明治以後の日本は、天皇を政治的中心とした一君と万民との一体的立憲国であります、もっとワカリ易く申し上げると、天皇を政治的中心とせる近代的民主国であります、さようであらねばならない国体でありますから、何人の独裁をも許しません」

 内田良平、葦津耕次郎、北一輝らの主張とそれを支えていた思想を手掛かりとして、帝国主義に抵抗したナショナリストの考え方を再検討すべきときだ。ようやく、学界がマルクス主義的くびきから解放されて、日本のナショナリズム思想の中で何が起きていたのかを考え直すことができるような時代になった。日本のナショナリズムがどこで、どう分岐していったのか、ナショナリズムとアジア主義との関係はいかなるものであったのか、アジア主義はどのように軍部に利用されたのかといったことを明らかにしていく必要がある。

── 東アジア共同体構想についてどう考えるか。鳩山政権はこの構想に積極的だったが、自民党政権時代にも東アジア共同体は提唱されていた。

松本 小泉純一郎内閣時代の東アジア共同体は、外務省案に乗った経済至上主義の発想に過ぎなかった。その発想は、経済的観点、日本企業の利益のグローバリズムから考えられたものだった。日本がシンガポールと自由貿易協定を結び、最終的には中国を含めたアジア諸国と自由貿易協定を結べば、自然に東アジア共同体ができるという安易な考え方だ。小泉政権の東アジア共同体構想は、日本が戦後続けてきた経済至上主義のなれの果てに過ぎない。

 日本は戦後、経済至上主義を続けつつ、外交や安保はアメリカに依存し、独立の気概を示すことなくやってきた。アメリカに守ってもらうことを屈辱だとも感じなくなっていた。だから小泉氏は、東アジア共同体と言いつつ、対米追従を強め、わざわざアメリカまで行ってプレスリーの歌を歌った。あの姿は、占領下の日本人のメンタリティをそのまま表現したものだと言わざるを得ない。「我々もアメリカの占領のおかげで、プレスリーの歌をちゃんと歌えるようになりましたよ」という精神だ。

民族主義、アジア主義は侵略思想ではない!

松本 東アジア共同体を構想するからには理念が必要だ。我々日本人が誇りを取り戻すためには、ナショナル・アイデンティティを再構築しなければならない。それはある部分ではナショナリズムに繋がる。しかし、ナショナリズムは帝国主義的覇権主義に陥りやすい。日本はアジアの解放という理念を持っていたが、大東亜戦争に至る過程で、日本のナショナリストの多くは日本帝国主義の覇権によるアジア支配を肯定する役割を果たした。

 そしていま、中国は大国化、強国化の道を歩みつつある。一九九三年に改正された中国憲法の前文には「中国の国家目標は富強である」と書いてある。まさに富国強兵策だ。中国や韓国の状況は、日露戦争に勝利した後の日本の歩みと重なる部分がある。つまり、いずれ中国ナショナリズムが世界の覇権を握りたいという欲望にたどり着く恐れがある。

 一方、中国の公害問題は中国だけの問題ではなく、わが国の環境問題ともなっている。日本で三十八年間なかった光化学スモッグが山口県萩市や北九州各地で発生している。これは中国から飛んできた亜硫酸ガスが原因とされている。

 日本は自らの失敗の教訓を中国や韓国に示し、アジア・アイデンティティを持つことの重要性を説いていかねばならない。こうした主張に対して、「アジア共通のアイデンティティなどというものは存在しない」という反論があるだろう。中国の中にもそうした考えがある。二〇〇九年十一月に大連で行われた「第五回北京―東京フォーラム」の席上、オランダ大使などを務めた中国の有力な知識人、呉建民氏は、アジアのアイデンティティを確立することは難しいのではないかと懐疑的な立場をとった。

 そこで私は、孟子の民主思想などを例に挙げながら、アジアの伝統の中を探っていけば、共通の教養を発見することができると主張した。そして、「アジアにはヨーロッパやアラブ、イスラムと違い、宗教戦争がなかった。東アジアには儒教、仏教、神道、道教、シャーマニズムの伝統があり、そこにヒンズー教やキリスト教、イスラム教さえ浸透したが、宗教戦争は起きなかったことを考えるべきだ」と述べ、あらゆる宗教が共存できるというのがアジア的伝統ではないかと主張した。すると、呉氏も「それはその通りだ」と納得した。

 アジアの共通性、アジア・アイデンティティの上に立って、アジア共通の現実的課題を話し合う組織があっていいはずだ。アジアの環境をどうすべきか、アジア全体の安全保障、アジアの食糧問題、海賊問題をどうすべきかなどを具体的に考える機関をアジアが自ら設置していくべきだ。三十年先、五十年先という将来には、EUのように共同体ができる可能性はあるが、まずできるところから始めるべきだ。自国の利益が守れればいいのだという発想でアジア各国のナショナリズムが暴走することを抑えるためにも、アジア・アイデンティティに基づいた組織が必要なのだ。

── 近年、一部の保守派勢力の間で、排外主義的主張が強まっている。

松本 ナショナル・アイデンティティを再構築することは重要だが、同時にナショナリズムが排外主義、自民族中心主義に陥る危険性に注意しなければいけない。特に、ネット右翼と呼ばれている人たちには、「面白ければいい」、「相手が嫌がればますます面白い」というような傾向があり、まるでサッカーのゲームを楽しむように扇動的発言をしている。これは好ましい状況とは言えない。言論の責任を民族に負わなければならない。

 一方、いまの五十歳代、六十歳代の世代の多くは戦後民主主義の教育の影響を強く受けており、民族主義やアジア主義自体を予め侵略思想として拒絶してしまう。それと比較すると、いまの若い世代にはそうした先入観のくびきがなく、白紙の状態で歴史を考えることもできる。だからこそ、ナショナリズムが急速に高まっていった日露戦争後の日本において、日韓併合や対華二一カ条要求をめぐり、相手国のナショナリズムを認める形で、アジア全体の復興を目指す思想として、アジア主義が重要な役割を果たしたことの意味を、考え直す必要がある。

日本は独立自尊の精神を培い、アジアを興せ

── 対米自立の道筋についてどう考えるか。

松本 『東京新聞』(五月七日付)に掲載された、米軍基地に関する私の発言をきっかけに、『なぜ日本にアメリカ軍の基地があるのか』(牧野出版)という本をまとめ、いま刊行されている。詳しくはそこに書いてあるが、近代の国民国家であれば「独立国家を理想とすべきだ」という原点に日本は立ち返らなければいけないと思う。

 現在の日本は独立国家とは言えず、アメリカの従属国家といわれかねない。カーター政権で政策補佐官を務めたブレジンスキーは、一九九七年の論文で日本はアメリカの保護国だと主張し、「アメリッポン」とも表現した。

 日本が独立国家であるためには、当然自主防衛を考える必要があり、そのためには「戦力」の保持を禁止している憲法第九条第二項の見直しをあわせて考える必要がある。

 鳩山由紀夫氏には、祖父の鳩山一郎の考え方を引き継ぐ独立の理想があり、独立国家であるには、自主防衛を考えなくてはいけないと考え、それと不可分の課題として憲法改正が必要だと考えていた。ただ、首相になってからは、自主防衛も憲法改正もあまり言わなかった。

 日本が独立国であるためには、究極的にはアメリカ軍に出て行ってもらうことが必要になる。ただし、日米同盟の維持を考えるということであれば、有事駐留という考え方が理想となる。有事の際、いつでもアメリカが基地を使用できるようするのに必要な維持要員、保全係が駐留する形で済む。事実、鳩山氏は有事駐留という考え方を唱えていた。中曽根康弘元総理は、この鳩山氏の有事駐留論は独立した国の国家指導者として当然だと語っていた。

 鳩山政権は、自民党政権時代に合意した、普天間基地の辺野古への移設を見直そうとした。しかし、それを実現させるだけの力量が不足していた。とはいえ、普天間移設をめぐる鳩山政権の迷走は鳩山氏の力量不足だけが原因ではない。外務省が「別の移設案はアメリカが認めてくれませんよ」と抵抗したのが一因だ。日本の外務省は、アメリカ国防省、国務省の出先機関のような状態だ。占領下日本(オキュパイド・ジャパン)、保護国状態のままの精神だと言わねばならない。

 いまこそ、わが国は脱亜入欧路線から脱し、福沢諭吉のいう「一身独立して一国独立」した上で、独立国家として世界の平和を構築していく、つまり日本国民一人ひとりが独立自尊の精神を培いながら、アジアを重視し、共にアジアを興していくときだ。(おわり)

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