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Annexation Japan and Korea 2

日韓併合百年─封印された合邦の理想 

「南洲=征韓論」説の誤謬と興亜の理想

本誌編集長 坪内隆彦

「南洲=征韓論」説を否定した勝海舟

 黒龍会の日韓合邦論に強い影響を与えた『大東合邦論』の著者樽井藤吉は、西郷南洲に弟子入りする予定だった。彼は嘉永三(一八五〇)年四月十四日、奈良県五條市の材木商の家に生まれ、青年期には天誅組の変の理論的指導者、森田節斎らに学び、明治六年五月に上京に踏み切った。このとき、同郷の先輩、保中富之助は、樽井を南洲の書生に推薦しようとしていたが「明治六年の政変」によって、樽井の希望は叶はなかった。

 樽井が上京した明治六年五月、大日本公館駐在の外務省出仕広津弘信は、外務少輔上野景範に宛てて報告書を送達、日本に対する朝鮮側の侮蔑的な批判を伝えていた。朝鮮が修交交渉を頑なに拒絶する中で、明治五年九月、外務省は旧対馬藩が管理していた草梁倭館を接収し、「大日本公館」と改称、外務省の管轄下に置いた。草梁倭館の敷地は朝鮮政府の所有で、対馬藩が伝統的に使用を許されてきたものであった。このため、外務省の措置は朝鮮側の強い反発をもたらしていたのである。事態を重く見た上野は、太政大臣三条実美に太政官での審議を求めた。

 岩倉具視や大久保利通は、明治四年十一月から、岩倉使節団として外遊中であり、朝鮮問題は留守政府に預けられていた。結局数度にわたる閣議の結果、八月十七日に南洲を朝鮮に派遣することが決定された。ところが、帰国した岩倉や大久保はこれに反対、十月二十四日、南洲の派遣は無期延期された。南洲は辞職、翌二十五日には、板垣退助、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平らの参議も辞職した。

 未だに歴史学界には、当時の南洲の主張を、武力行使を前提とした征韓論だとする立場がある。しかし、南洲の主張は、まず相手を説得するために自ら朝鮮に赴くという遣韓論だったのではなかろうか。

 ところが、対外的な武力行使を主張する南洲に対して、岩倉や大久保は内政優先を唱えて反対したという歴史観が定着していった。伊牟田比呂多氏は、それは明治政府内の権力闘争に勝利した岩倉具視、大久保利通、伊藤博文の功績礼賛に力を入れた顕彰史観が広がったからだと指摘している。

 南洲下野から一年半後の明治八年四月十四日、修史局が開設され、初代総裁には大久保の腹心だった堀次郎(伊地知貞馨)が就いた。明治十三年五月以降は、三条実美が総裁、堀が副総裁であった。中央教育審議会委員などを務めた勝部真長氏は「それ以来、明治二十年頃までに時の薩長政府に都合のよいように史料が書き替えられた形跡は皆無ではないのである」と書いている(勝部真長『西郷隆盛』PHP研究所、平成二年、百五十四頁)。

 一方、明治八年六月には新聞紙条例・讒謗律を公布するなど、南洲下野後の政権は厳しい言論統制をしいた。南洲没後十三年後の明治二十三年になって、ようやく突破口を開いたのは勝海舟であった。彼は、『追賛一話』を刊行し、次のように南洲は征韓論者ではないと説いた。

 「世、君を以て征韓論の張本人となし、十年の乱を以て征韓論の相背馳したるに源由すとなす。是れ未だ公の心を識らざる者なり。夫れ君が征韓論の張本人たるの大誤なるを明かにするを得ば、之より端摩盲測せる臆断の誤謬たるは、刀を下さずして自ら解すべし。予、明治八年十月君が篠原国幹に贈られし書簡を蔵す。之れを一読せば、其疑を霽すに足る」

 さらに日清戦争が勃発した明治二十七年、評論家で、女子教育の発展に尽力した巌本善治が、海舟の次のような談話を『女学雑誌』に掲載している。

 「其れから、西郷先生の征韓論の事を尋ねた所が、海舟先生は同じ調子で、『ナニが征韓論ダ、いつ迄、馬鹿を見てるのだ。あの時、己は海軍に居つたよ。もし西郷が戦かふつもりなら、何とか話があらふジヤアないか。一言も打合はないよ。あとで、己が西郷に聞いてやつた。お前さんどふする積りだつたと言ったら、西郷メ、あなたに分つてましよふと言って、アハアハ笑つて居たよ。其に、ナンダイ、今時分まで、西郷の遺志を継ぐなどゝ馬鹿なことを言つてる奴があるかエ。朝鮮を征伐して、西郷の志を継ぐなどゝ云ふことが、何処にあるエ』と言ふことで、丁度日清戦争の頃、烈しいお話があったことがある」(松浦玲『明治の海舟とアジア』岩波書店、昭和六十二年、九十六、九十七頁)

 ところが、海舟の主張は顧みられないまま、「南洲=征韓論」説が定着してきたのである。

 海舟が『追賛一話』を刊行した明治二十三年、金子賢太郎は国史編纂局設置を提案したが、宮中顧問官伊藤博文が強く反対して実現を阻んだ。海舟は、明治三十年に「幕府が倒れてからわずか三十年しか経たないのに、この幕府の歴史すら完全に伝える者が一人もいないのではないか」と批判している。ようやく維新史料編纂会が開設されたのは明治四十四年五月のことである。

江華島事件を批判した篠原国幹宛て書簡

 戦後の歴史学界で、南洲が征韓論を唱えたという通説に正面から異を唱えたのが、毛利敏彦氏である。彼は『明治六年政変』において「朝鮮への使節派遣を強力に唱えた西郷の真意は、むしろ交渉によって朝鮮国との修交を期すことであったと推論するのが合理的であるように思われる」と明確に主張している(『明治六年政変』中央公論社、昭和五十四年、百二十八頁)。

 通説の根拠とされてきたのが、明治六年七月二十九日に南洲が板垣退助に宛てた手紙の中の「暴殺は致すべき儀と相察せられ候」という表現である。しかし、この手紙には、次のように「朝鮮に対する説得」と「朝鮮との戦闘」という論理が複雑に絡み合っている。

 「……兵隊を先に御遣わし相成り候儀は、如何に御座候や。兵隊を御繰り込み相成り候わば、必ず彼方よりは引き揚げ候様申し立て候には相違これなく、其の節は此方より引き取らざる旨答え候わば、此より兵端を開き候わん。左候わば初めよりの御趣意とは大いに相変じ、戦いを醸成候場に相当り申すべきやと愚考仕り候間、断然使節を先に差し立てられ候方御宜敷はこれある間敷や。左候えば決って彼より暴挙の事は差し見え候に付、討つべきの名も慥かに相立ち候事と存じ奉り候。兵隊を先に繰り込み候訳に相成り候わば、樺太の如きは、最早魯(ロシア)より兵隊を以て保護を備え、度々暴挙も之れ有り恨事ゆえ、朝鮮よりは先に保護の兵を御繰り込み相成るべくと相考え申し候間、旁往き先の処故障出来候わん。夫よりは公然と使節を差し向けられ候わば、暴殺は致すべき儀と相察せられ候に付、何卒私を御遣わし下され候処、伏して願い奉り候」

 ここに、自ら使節として朝鮮に赴き、自ら謀殺されることによって、開戦に持ち込むという決意を読み取ることは可能である。しかし、同時にこの手紙には、派兵よりも使節を先に出すべきとの主張、朝鮮より樺太に派兵するのが順序だという主張が含まれている。

 毛利氏は、南洲の板垣宛て書簡の論理の錯綜に着目し、南洲が使節として赴くという決定に持ち込むために、板垣の支持を必要とした状況について考察する。まず、朝鮮に使節を出すとすれば、清国との交渉で成果をあげた外務卿副島種臣が行くのが順当であった。それでも、副島ではなく、南洲が赴くと決定するために、南洲は副島と同じ肥前出身の大隈重信、大木喬任、江藤新平以外に、有力な後援者を必要としていたと考える。それが板垣だったのである。ところが、征韓論に傾いていた板垣の同意を得るには、自己の遣韓論をそのまま提示したのでは、うまくいかない。毛利氏は、そこで「使節謀殺」云々の議論を敢えて展開したのだと主張している(前掲百十九頁)。つまり、「使節謀殺」云々は板垣説得のためのテクニックとして用いられた表現だったというのだ。

 南洲が最終的な見解を表した、三条宛ての「朝鮮国御交際決定始末書」には、「いまだ十分尽くさざるものを以て、彼の非をのみ責め候ては、其の罪を真に知る所これなく、彼我とも疑惑致し候ゆえ、討つ人も怒らず、討たるるものも服せず候につき、是非曲直判然と相定め候、肝要の事と見居建言いたし候ところ、御伺いのうえ使節私へ仰せ付けられ候」とあり、遣韓論が示されている。

 南洲は征韓論を唱えたという通説に対する、もう一つの有力な反論の根拠は、南洲が下野した後の明治八年に、大久保らが主導した江華島事件を南洲が厳しく批判していたことである。江華島事件とは、日本海軍が韓国に無断で測量していたため韓国軍から砲撃を浴びせられ、これに直ちに応戦して韓国軍を制圧した事件である。

 南洲は、篠原国幹への書簡の中で、朝鮮は永い交際の国であるが、御一新以来すでに数年外交的紛糾を重ねて来たのであるが、今回のように人事を尽くさないで戦端を開くようなことになったのは「遺憾千万」であると痛烈に批判している。南洲は、初めに測量の話を申し入れて、韓国がそれを認めた後に発砲して来たのであれば敵対交戦するのも道理だが、それでもまず談判を試み抗議すべきであると説き、ただ彼を軽蔑して、彼が発砲したからこちらも応戦するなどというのは、これまでの数百年の友好関係の歴史に鑑みても「実に天理に於て、恥づべきの所為」だとした(黒龍会編『西南記伝 上巻二』原書房、昭和四十三年、三百七十三頁)。

 まさに、この篠原宛て書簡は、勝海舟が明治二十三年に南洲は征韓論者ではないと主張した際の根拠として挙げたものである。

敬天愛人の思想と道義外交

 毛利説は、南洲像の見直しに重要な役割を果たした。在日の評論家安宇植氏は橋川文三との対談の中で、毛利説に同意し、南洲の遣韓使節が実現していれば、双方が納得する形で朝鮮開国にもっていくことができたと語っている。

 ただし、毛利説は、学界においては未だ決着がついていないように見える。南洲が残した遣韓論に関わる実証研究だけからは断定的な事が言えないからである。例えば、田村貞雄氏は、「『征韓論』政変の史料批判─毛利敏彦説批判」『歴史学研究』(平成三年一月)、「『征韓論』政変をめぐって─毛利敏彦氏に答える」『日本史研究』(平成四年二月)などで、毛利説に反論している。

 しかし、私たちは敬天愛人に象徴される南洲の思想を捉えた上で、明治六年の発言も考えるべきである。桶谷秀昭氏が「南洲の文明観を踏まえた上で、南洲の征韓論を政策論として見るべきではなく、思想の次元でみる必要がある」と指摘する通りである(桶谷秀昭「草花の匂ふ国家〈七〉征韓論」『日本及日本人』平成八年十月、九十一頁)。南洲は「道は天地自然のものにして、人は之を行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人、我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以って人を愛するなり」という立場に立ち、次のように独自の文明観を語っていた。 

 「文明とは、道の普く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うには非ず。世人の唱うるところ、何が文明やら、何が野蛮やらちっとも分からぬぞ。予、かって或る人と議論せしこと有り。西洋は野蛮じゃと云いしかば、否な文明ぞと争う。否な否な野蛮じゃと畳みかけしに、何とてそれほどに申すやと推せしゆえ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきに、左様には無くして未開蒙昧の国に対するほどむごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮じゃ、と申せしかば、その人口をつぼめて言無かりきとて笑われける」

 南洲は、欧米的な覇道に対する道義外交を唱えていた。この南洲の基本姿勢自体が、大久保らの路線とは相いれないものであったことが、「明治六年政変」の底流にあったのではなかろうか。伊牟田比呂多氏は、「朝鮮使節派遣問題を政治工作に利用しようとしたのが策士の伊藤であり、その政治工作に乗って留守内閣打倒の手段にしたのが大久保と岩倉だった」と書いているほどである(伊牟田比呂多『征韓論政変の謎』海鳥社、平成十六年、六十三頁)。

 大久保らが、列強のアジア支配に対する道義的抵抗よりも、国家の生存と繁栄のために欧米列強との協調を優先したとすれば、それは現実主義として一定の評価はできる。しかし、そこには南洲が重視した道義と、深い文明観はない。野島嘉晌は、次のように明確に書いている。

 「…大久保と西郷の対立は、ただの政策論争ではなくて、文明の本質についての認識のちがいという政治哲学の対立に根基があるといわなければならない。そして、西郷の主張に道義的優位をあたえていたものは、彼が尊皇攘夷という維新の正統な精神をついでいたことであり、大久保らの政府主流が、維新の達成と同時にはやくも維新の精神を裏切るものとみえたことである」(『明治・大正・昭和にわたる本流ナショナリズムの証言』原書房、昭和五十六年、十頁)。

興亜の原型としての南洲の思想

 南洲は、維新の精神を堅持するとともに、ロシアに対する日本、清国、朝鮮の共同防衛という島津斉彬の構想を継承し、その視線を朝鮮のみならず、広くアジアに向けていた。だからこそ、南洲は興亜策のために周到な準備をしていた。例えば、明治六年以前に別府晋介、北村重頼を韓国に、池上四郎、武市熊吉を満洲に派し、韓支露三国関係を精査させていたのである。

 こうした南洲の考え方を正しくとらえ、そのアジア政策を引き継いだのが頭山満らの興亜陣営である。頭山は、「大西郷は征韓論に敗れたと一口にいうが、そういう訳ではない。あの頃、日本政府が欧米諸国に脅されているのを見て、韓国では日本を西洋の奴隷のように心得、西洋の奴隷に韓国の国土を汚させる訳には行かんといって大院君などが『日本人は洋人と交通し、夷狭の民と化しているので、自今、日本人と交わるものは死刑に処す』というような無礼な政令を出し、その上に在韓全邦人の引き上げを要求した。そこで南洲が出かけて行って判るようにすると意気込んだのじゃ」と語り、まず説得という南洲の遣韓論の側面を強調していた(『アジア主義者たちの声 上巻』書肆心水、平成二十年、五十頁)。

 さらに、頭山は「明治の初年すでに大東亜の建設を志し韓清と親善して露国の南下を抑えようとしたのが南洲一派だ」と語り、南洲が三条太政大臣に出した意見書の一節を引いている。

 そこには、「……日本を昔ながらの日本に置くも、大神宮の神勅通り大小広狭の各国を引き寄せて、天孫のしろしめし給うところとするも皆おはんの双肩にかかって居り申すでごわす。日本もこのままでは何時までも島国日本の形態を脱することは出来申さぬ。今は好機会でごわすので、ヨーロッパの六倍もあるアジア大陸に足を踏み入れて置かんと、後日、大なる憂患に遭い申すぞ……」とある。

 この発言は、南洲の「天職としての興亜」が確実に頭山に引き継がれていたことを示しているのではなかろうか。

 一方、福岡では板垣退助の立志社に倣い、明治八年に矯志社、強忍社、堅志社が組織されている。西南戦争に敢えて呼応したのも、矯志社の武部小四郎や強忍社の越智彦四郎らの志士である。南洲と志をともにし、玄洋社の精神的基盤を築き上げた越智らに連なる志士たちは、道義を貫き、アジアに志した。例えば、越智に師事した本城安太郎は、北清事変に通訳官として従軍した際には中国人保護に尽力している。彼の視野は広くイスラムにも及んでいた(拙稿「イスラーム世界から見た日露戦争」平間洋一編著『日露戦争を世界はどう報じたか』芙蓉書房出版、平成二十二年)。

 これに対して、大久保がレールを敷き、伊藤博文が制度化した支配体制は、欧米に阿るだけではなく、アジアに対しては、欧米型の植民地政策で臨んだように見える。南洲が求めたものは、敬天愛人の思想に基づく道義的アジア外交であり、そこには文明史的視点が伴っていた。この違いこそが、日韓合邦の理想と日韓併合の現実という対立として顕れ、興亜策の大前提であるアジアとの信頼関係を破壊することになった。頭山が晩年に語った、次の言葉を噛みしめるべきである。

 「南洲の主張通りに日本の大陸進出が行なわれていたならば、今少しくわが犠牲を少なくして日本の大飛躍の機会を早めていたに違いない。大東亜建設も半世紀前に緒に就いていたことと思う。殊に南洲の経綸が用いられなかったため、その最後を早めたことを思えば惜しみてもなお余りあることじゃ」(つづく)

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