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Kuroshio 36

金剛蔵王権現と黒潮の関係

 吉野の金峰山寺(きんぷせんじ)の本尊で秘仏の金剛蔵王権現像のご開扉が行なわれている。蔵王堂では彩色も鮮やかに巨大な仏像三体がお姿を顕している。弥勒菩薩、釈迦如来、千手観音の三体である。権現(ごんげん)とは、日本の神々に仏教の仏が仮の姿で現れたものであるという本地垂迹思想に基づいて、権という文字が「臨時の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示している。写真雑誌で見ると、銅が緑青を吹いているような色の印刷になっているが、直に参拝すると、ご尊顔は、むしろ群青色の黒潮の色をしていることに気がつく。透明な光が当たれば、明智光秀の紋の桔梗の色にもなる。秘仏を太陽の光から遠ざけている大扉は、神代杉の一枚板でできている。計六枚の巨大な板が使われていることになる。神代杉の先端部が巨大な柱になったことが判るのは、枝の節が残っているからで、一本の幹は製材して板を切り出しているという。扉には、蓮の葉と華が描かれている。天正一四年に蔵王堂が消失した後に再興され、左の弥勒菩薩の像内に天正一八年の年紀が墨書されている。豊臣秀吉は吉野復興の寄進に励んでいるが、山伏がその天下取りに貢献したことは間違いない。天海僧正の像も堂内に陳列されているが、徳川幕府が金峰山寺を寛永寺の末寺とした絶頂期の名残である。比叡山か寛永寺の高僧が、「学頭」となり、地元から学頭代を務め、徳川家康の廟のある日光の東照宮も天海僧正の設計になるもので、それは緻密な天文・陰陽道・風水の配置を精緻に行なったにしても、権力に服従する栄達は修験道の権威の生命力の持続に及ばない。

 山形と宮城の県境の嶺に蔵王山があるが、吉野の蔵王権現にあやかってつけられた山並みである。白鳳八年(六七九)に、大和国の吉野山から役小角が蔵王権現を不忘山に奉還して、周辺の山々を修験道の修行の山としての「蔵王山」を称したことに由来する。蔵王連峰の主峰を熊野岳と呼ぶことからも、吉野から熊野への修行の道を想像させる。奥州の蔵王では、日本列島の分水嶺をなす中央分水界が交差しており、中央分水界の峰々の総称が「蔵王」である。戦争中には、B29爆撃機三機が不忘山に墜落している。

 金剛蔵王権現の顔の色は青黒色ではなく、紺碧の海の色であるが、もう一つの可能性は、鯨の皮膚が水中で見せる色の可能性を指摘して置きたい。水中では、青い色を示すが、水面に出た瞬間に色が変わる魚が多い。シーラは綺麗な尾の青い魚であるが、船に釣り上げた瞬間に黄色い魚になるし、赤うるめ等は、釣り上げた時には、青い魚である。サバや鰯の類も水中では青い魚であるが、鯨の背の色も水中では青みがかった色で、鯨のことをぐんじゃと呼ぶから、群青色は鯨色の可能性が高い。金剛蔵王権現三像のご尊顔の不思議で絶妙な色合いは黒潮の洗う太地の鯨と繋がる可能性がある。

 熊野から吉野へ向かって行をすることを順峯、熊野へ向かう行のことを、逆峯と呼ぶことを既に書いたが、熊野から先の南海のことを考えると補陀落渡海のことに触れないわけにはいかない。中世には、観音信仰に基づき、熊野灘や足摺岬などから小船に乗って補陀落を目指す「補陀落渡海」が行われた。補陀落の読みは、ポタはサンスクリットで、船の意味である。ラは集結するという意味であるから、ポタラとは、船が集まる場所、つまり、港の意味である。実際にスリランカには、パタラという港もあり、アラブの旅行家であるイブン・バツータは、シナモンなどの香料や香木の積み出すスリランカの港を引き合いに出して、その港の背後の山が到着する九日前からの陸地の目印となっていると記載している。ポタラは、光輝くとの意味のタミール語もあり、その場合は、日光は二荒山のふたら山で、「あらたふと青葉若葉の日の光」の東照大権現の聖地になる。

 玄奘法師は、インドの南方の海上に八角の形状をしたポタラ山が実在すると「大唐西域記」に書いている。支那では、浙江省の舟山群島の山を普陀山として信仰を集めた。アラブ商人は、季節風とダウ帆船を駆使して、ポタラ山と観音信仰とを東アジアに伝えた。

 さて、チベットのラサに、ポタラ宮殿がある。活仏であるダライラマの居城であり、チベット民族の精神的な燈台であるが、支那は博物館にしてしまった。衆生済度を果たす観音信仰がチベット、浙江、熊野と繋がっているから、支那帝国のチベット併合と言う暴虐に対して、いずれは弥勒菩薩や千手観世音菩薩の天罰が下る。

 
 熊野は、黒潮に乗る寄木や文明が海辺に寄りつく御崎である。伊弉冉尊が火之神カグツチを生んで火傷をして熊野有馬村に葬られたと日本書記は記録する。伊弉冉尊の墓と伝えられる花の窟という岩壁があり、熊野灘の海上から遠望される目印となっている。神武東征の軍は美々津から熊野に寄りつき、吉野の山を辿って大和に入る。熊野を六一歳の秋に出立した補陀落山寺の住職が沖縄に辿り着いた例もあるから、黒潮本流に運ばれて、天候次第にせよ、布哇(ハワイ)や墨西哥(メキシコ)への渡海が成功した可能性も十二分にある。  (つづく)

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