構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

« The Russian Connection | トップページ | Kuroshio Culture and Tradition »

Kuroshio 37

委奴国の五葉の松と支那の妖怪

 那須の黒羽から西北二三キロばかりのところに那須温泉神社がある。元禄二年に、奥の細道を辿っていた芭蕉と随行の曽良が奥州街道を逸れて那須岳の山懐へ坂道を登っている。温泉神社は、平家物語が記録するように、那須与一宗隆が扇の的を射るときに祈願した神社である。その近くに、殺生石があり、謡曲の那須野で有名な九尾の狐の伝説が残る。那須には御用邸があり、先帝陛下が晩年を御静養なされたように、奈良時代から知られた霊泉が湧いている。芭蕉は旧暦四月の一八日から三日間滞在している。

 その温泉神社には、堂々たる五葉の松がある。日本の脊梁山脈にはまだまだ五葉松が残っていると聞いていたが、この目で確かめることができた。原生ではないが、朝鮮半島から黒竜江あたりの大平原の朝鮮五葉の松林の記憶を留めていることは間違いない。ロープウェイのかかる那須山塊のひとつの茶臼嶽も日本で一番多い名前の山であるが、ウラルアルタイ語族の故地であるチャムスの地名との関連が指摘されている。那須温泉神社の額は出雲大社の宮司が揮毫しており、伊勢の天津神ではなく、国津神であることがわかる。那須高原からは、那珂川が水戸と那珂湊に向けて流れており、その下流には大洗の磯前神社があるが、鹿島灘の少し先には、大和朝廷の最前線基地であった鹿嶋と香取の大神宮が控えている。香取の名も、百済(くだら)の発音に繋がる。

 那須与一が伝説の人物になったのは、治承・寿永の乱(治承四年一一八〇から元暦二年一一八五まで六年間にわたる内乱)である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に、平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が各地で起こり、平氏の崩壊により源頼朝を中心とした坂東平氏から構成される鎌倉幕府の樹立にいたる。那須与一は屋島の戦いで平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とした伝説の武将であるが、功績を挙げて源頼朝から、丹波・信濃など五カ国に荘園を賜った(丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘・信濃国角豆荘・備中国後月郡荏原荘)という。この大乱では敵味方が血縁による氏姓で分かれて闘うのではなく、地縁が優先したことが特徴である。半島の血縁優先の世界と隔絶している。

 東国はウラルアルタイ世界との交流の中で、藤原氏はもとより、平家自体も、朝鮮半島や大陸に共通する淵源を想像させる。伽耶や百済の王族が大勢逃れて、今の関東地方に入ったことは間違いない。那須には海から那珂川を遡って入ったに違いない。平氏は多羅氏から来ているとの説があり、確かに、江戸時代に志賀島で発見された金印の文字「漢委奴国王」は、素直に読めば、アイヌ国あるいは、犬国とも読める。高句麗の狗は、狼であるが、百済は狗多羅とも書ける。音読みすれば、博多も、伯太も百済(ペクチェ)と読むこともできる。そうすると、会津、岩手、岩戸、猪野、井戸、井上、伊都、犬、伊豆、伊能、上野、淀、小野、小渡、尾張等も倭奴と同じで、江戸などは発音からしてその最たる表現になる。

 実際、関東地方には、高麗からの渡来した豪族の社があちらこちらに残されている。多摩と埼玉の玉とは同根であるし、高麗神社は飯能にもあるし、湘南の大磯にも高麗神社がある。そもそも、大磯(おいそ)というのは古代朝鮮語で「いらっしゃい」という意味だと聞いた。高麗郡も新羅郡も秦野(はたの)もあり、朝鮮半島とのつながりが色濃く残っている。世田谷(せたがや)の瀬田はアイヌ語で狗という意味であり、近くの狛江は高麗犬の狛である。砧(きぬた)では、玉川で衣をさらして、洗濯しながら、砧を叩く音が聞こえる半島の風景が展開する。人が植えることでしか育たない彼岸花が奈良明日香村の石舞台の堀に咲き誇っていたのを記憶するが、那須高原の温泉神社の先のあぜ道の土手に満開の盛りであったことも忘れられない。

 壇君神話として残らなかったのは、やはり、大和朝廷の統一の過程で、血族が中心ではなく、出自が山であるか海であるかを問わずに八百万の神(やおよろずのかみ)として、大日本(おおやまと)統一が果たされていったことによると考えられる。

 那須に残る殺生石伝説は恐ろしい物の怪の代表「白面金毛九尾の狐(はくめんこんもうきゆうびのきつね)」、朝鮮半島で九尾狐(くみほ)と呼ぶ支那の妖怪の話である。殷の王妃を喰い殺してその身代わりとなり、残虐の限りを尽くしたから、殷は国が乱れて隣国の周に滅ぼされた。九尾の狐はインドへ渡り、班足(はんぞく)太子の妃の華陽夫人となって、また悪業の限りを尽くしたが、突然姿をくらませて、なんと日本に渡った。吉備真備(きびのまきび)が養老元年に遣唐使に任じられ、一五年勉強して帰朝するが、その時の船に九尾の狐が便乗したという。三六〇年間身を潜めていたが、京都の山科で、「藻女(みずくめ)」となって姿を表わす。やがて宮中に仕えるようになり、名を「玉藻の前(たまものまえ)」と改めて鳥羽院に仕えた。陰陽博士の阿部泰成が、「蟇目鳴絃(ひきめめいげん)」の祈祷をして、清涼殿から追い出す。飛び出した狐が那須野に落ち、牛馬を倒し人を攫う狼藉をする。那須の領主須藤権守貞信が八万の軍勢をもって巻き狩りを行ない、遂に狐は日本の神人一体の力に負けて倒れ毒石になった。その後三つに割れ、一つは那須に、二つは故地に飛び去った。(つづく)

|

« The Russian Connection | トップページ | Kuroshio Culture and Tradition »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/209267/49927393

この記事へのトラックバック一覧です: Kuroshio 37:

« The Russian Connection | トップページ | Kuroshio Culture and Tradition »