Kuroshio 38
黒潮の民 オー島上陸より稲作始まる
私達の祖先は、北方から入る、半島から入る、そして南の島々からと、色々な経路で列島に上陸した。沖縄には、アマミキヨとシネリキヨという創世の神が登場して、天に上って土石草木を給わって島を造ったとの神話がある。
琉球の島々では、稲作の出来る湿地帯をターブクという。黒潮が島々の西側を北上していることもあって、夕日の入る方角の方が色鮮やかであり、南側は、湿気と暑さがなだれ込んでくる方角である。島の貴重な水源である川が流れて、真水があたる珊瑚礁の切れ目に、往古の人は船を進めて上陸したに違いない。川を遡った突き当たりのところには、間違いなく森があり、そこに石組みが成して、城の字を当てるグスクがある。グスクの南側には、神が天降る杜を成す御嶽(うたき)があり、神祭りが営まれる。元々は祖先神を拝む場所であるから、拝み山(うがみやま)と名付けても良い。
更に、川を遡ると、創生の神々が稲作を伝授したターブクが広がる。泉も近くに湧き出る。海岸沿いの井戸水は塩気が抜けきれないが、グスクの上の泉は真水になっているから、朝な夕な、水汲みで賑わい、サギや鴫といった渡り鳥の繁殖の場所にもなる。珊瑚礁の切れ目の両側には、イノーが広がる。
イノーとは、珊瑚礁の遠浅の海で、魚、貝、海草などを採集する、いわば海の畑である。徳之島には、井之川という地名もあるが、海の畑と山の畑とが出会う場所であり、一番高い山の名前が井之川岳という名前になっている。珊瑚礁が深海に崖となってなだれ込む境には、イビがいる。伊勢海老である。殻の色は、北に行くに従ってえび茶の袴の色がどんどん濃くなるような気配で、伊勢志摩の海老と、南島の海老(イビ)とを比べると、南の海老は海の色で染めたような明るさである。年賀状の伊勢海老の色は地方ごとに異なり、全国版で統一することが出来ない。一致するのは、偕老同穴と言う海老の習性だけだ。
浜は、陸地と珊瑚礁の海との境界である。珊瑚がバラバラになって砂となっているからカルシウムが溶けて固まり、光の当たり具合では、貝殻の腹のピンク色がかっているようにも見えるが、直射日光の下では純白なさざれ石になる。
さて、往古の人々はマラリアの怖さもあったから川を遡るにしても注意深く、近くに小さな島でもあれば、そこを橋頭堡にして上陸の可否の様子見をした。日本全国に島の名前で、大島、青島、青ヶ島、雄島、飫宇、尾島、渡島、男島、淡島、粟島、阿波、安房、意宇と当てた漢字は異なる島があるが、オーは、逢う、遭うという意味だ。伊勢志摩には、紀伊大島、和具大島、伊雑宮(いざわのみや)の東海岸の大島、熊野灘の大島と、オー島がたくさんある。大王島、大王崎は、オー島、オー崎の尊称である。
京都府の集落が海中にせり出して、家の中に船をしまっておける二階建ての舟屋で有名な伊根町にも、大島がある。若狭湾の口にある、冠島もオー島と呼ばれている。凡海(おうしあま)となると、天武天皇の世界が広がる。大瀬崎、大瀬川、大井川も日本全国にたくさんある。鳥羽市と磯部町の間にある青峰(おうのみね)山、海からの目印として、信仰された。修験道の山が、大峰山と呼ばれるのも、やはり海と山との出会いを示している。
出雲の国の郡名として、意宇(いう)、飫宇、於保、於友は、元々は、オーである。山口の仙崎湾の阿武川河口にも大島がある。仙崎湾には、青海島(おうみじま)、相島(あいしま)がある。闘牛のことを牛とろしと言い、牛を闘わせることであるが、牛オーシと言えば、とつぜん優しくなって、貝あわせのように、牛に牛を会わせる語感である。古語の「そこひ」は、きわまりなく遠いところであるが、海鳴りの底であっても、垂直な底ではなく、水平線の果てから来航して、出会う最初の場所が、オー島である。沖縄に、奥武島という小島があるが、その往古の出会いと上陸する島の姿をとどめる典型である。近くには、珊瑚礁の変化したトラバーチンに封じ込められた古代の原人の骨格が発掘された場所があるから、よっぽど古い時代から人が住んだ形跡が残る。沖縄本島各地の沿岸に同名の島があり、共通しているのは、稲作のできる湿地帯への寄りつきとなる海岸にある小さな島である。
城(ぐすく)のスクは、遙かに遠いところからやってきた神々を祭る聖域である。古事記の伝える少名毘古那神(すくなひこなのかみ)は、それこそ、海の彼方から渡来した海神であるが、スクの名前を残している。四国の宿毛(すくも)なども、海神とのゆかりを創造させる。南島には、スクという春先に大量にとれる小魚を塩漬けにして辛くしたスクガラスという発酵食品があるが、スクの魚の硬い骨を喉に引っかけないでご飯を食べられるようになることが、少年が大人になる元服の証拠でもあった。
大和朝廷は、海人部(あまべ)を紀伊、尾張、隠岐、豊後に置いているが、豊後の海人部の根拠地は、勿論、豊前の国の宇佐であり宇佐神宮があるが、神武東征では、美々津を船出し臼杵の半島を回って瀬戸内海に入る。臼杵の海岸にも、海神、少名彦名の神を祭る社が点々と繋がり、黒潮のゆかりが想像できる。大分県南にも、海人の活躍した南北の海部郡があり、南海部郡に大島(おおしま)がある。オーが会う、逢う、遭うという意味であれば、大きいという意味はウーまたはフーと発音され、大地(ウフヂー)と漢字で当てる。大東島などは、丁寧にゥフーアガリジマと呼ばれている。(つづく)
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