構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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今年の旧正月、つまり、旧暦の睦月の朔は、新暦の2月3日にあたる。ベトナムではテト、中国では春節として祝う。日本では旧正月を祝う人は少なくなり、沖縄南部の魚市場の媼が、なぜ旧正月を祝わないのかと抗議の電話をかける嘆きと怨嗟もすっかり影を潜めた。

明治政府の西暦導入が拙速で、明治五年12月2日の翌日を明治六年1月1日(西暦1873年1月1日)にしてしまった。日中欧の暦の対照表を明治政府が発行したが、ユリウス暦を知らなかったらしく、グレゴリオ暦がヨーロッパで導入された1582年以前にも遡って対照表を作ったという滑稽な誤りもあった。

 西洋追従の事大の拙速は今に始まったことではなかったが、明治政府発行の対暦表が、西洋の事件中心で、日本のいつの年月に当たるかを主眼として、日本を世界に広める視点は残念ながら不足していたにしても、最近の環太平洋自由貿易圏構想などのように、アジアの多様性を無視して、また、Tradeなる言葉が貿易と翻訳出来るのか、本当に国を誤り属国化する危険があるとの警告を無視して、第二の開国などと喧伝する民主党内閣ほどの拙劣さや、小泉・竹中政治の「郵政米営化」の卑屈はなかった。明治の御代には、自立・自尊をいかに貫くかの危機意識が基調にあり、実は今のマスコミ統制よりも遙かに広範な議論の応酬があったから、単に西洋の物まね、長いものに巻かれろと言う根性は少なく、道理があれば過ちを修正・反論する余裕があった。

 日本には、年を表示する方法が、五つある。天皇の治世、年号、干支、皇紀、西暦である。年号の始めは大化元年で、西暦の645年に当たる。干支は、60年を一つの循環とした、中国古来の暦であり、いつ渡来したかはわからない程であるが、日本では易姓革命の思想はないから、むしろ年号を補強して追記されて年を詳細に特定する方法となった。日本の暦は、推古天皇の時代に最初に作られ、その後に色々な暦が作られる。月の周期は約29.5日なので調節し、30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」と呼んで、大小の月の繰り返しで、次第に暦と季節が合わなくなるために、2~3年毎に閏月(うるうづき)を設けて季節と暦を調節した。季節感に優れ、四季折々の変化を表現する太陰太陽暦である。暦は朝廷が制定し、大化の改新で中務省に属する陰陽寮が任務にあたった。平安時代から、暦は賀茂氏が、天文は安倍氏が専門家として受け継いだ。さて、皇紀は、神武天皇が即位した年を西暦の紀元前660年を元年として数える年で、明治政府が太陽暦導入と同日付で施行した制度である。ちなみに、今年の西暦2011年は、皇紀2671年である。インドネシアの独立宣言の文書に、日本の皇紀が用いられていたことも忘れてはならない。

 日本の年号が西暦の何年に当たるかの簡略な対暦表をアーネスト・サトウが出版したとの伝聞があるが、明治13年1月(1880年)、日本橋と横濱の丸屋善七、善八こと、今の丸善からデンマーク人ブラムセン(撫蘭仙)氏による和洋対暦表が、出版された。それまで、アヘン戦争のあった西暦の1840年が皇紀2500年に当たることを水戸の国学者は知っていたにしても、和洋の対暦表がなかったから、画期的な出版である。明治政府が発行した大部冊の対暦表よりも、日本の年号を中心に据えた比較表となっているのは驚きである。国会図書館所蔵本は表紙が失われているが、デジタル化されインターネットで容易に閲覧できる。その三十年後の1910年に、和洋対暦表は、クレメントという学者によって序文と追補が加えられて、英文の大著となって再刊されている。

 ブラムセンは、中国から暦を導入する以前に、日本では一年をどう数えていたのかという仮説を提出して、仁徳天皇以前の歴代天皇の寿命が二倍となって日本書紀に記載されたと主張している。そうなると、西暦の紀元前660年が神武天皇の即位の年ではなく、弥生時代の中期の、紀元前130年の新月の日に行われたとなる。春分から秋分までを一年、秋分から春分までが更に一年として数えたとなると、欠史八代もなく実在の歴史となる。神功皇后も新羅の歴史と比較して、実在の時期に登場する。(シュリーマンが、トロイの遺跡の存在を確信して発掘を続けたら、実際に神話の通りに遺跡が何層にも重なっていたような話で、)明治政府は、年号の制定以前の年月を干支の説に囚われすぎて、神武以来の十七代の天皇の御年を神話にしすぎた可能性はないだろうか。1910年の英文版のブランセン対暦表に、久米邦武教授の対暦表が、明治政府の公式年代表と比較して引用されているが、神武天皇の誕生を西暦紀元前63年、即位を紀元前24年、崩御を紀元前一年と比定しているのは、興味深い。

(1910年版のブラムセン増補対暦表は、トロント大学蔵書の写しが、数頁の落丁があるが、2000円程度でアマゾンで入手できるし、同一の資料を、グーグルは無料で頒布している。国会図書館は、さすがに、1880年版のブランセンの英文対暦表をマイクロフィッシュで保存しており、アマゾンとグーグルの欠落を補正することが出来る。ブランセンの対暦表が、西欧思想の純粋で日本びいきの分析的な知的遺産であれば、その土着化で却って、日本の国体が間違いなく強化されることになる。稀覯本がインターネットで簡単に読める様になったことは慶賀の至りである。)

 神武天皇紀元の皇紀は、敗戦で使われなくなってしまっているが、明治の時代に取り急いで公式にしたのが拙速であったきらいもあるので、これ幸いに、対暦の議論を活発化して、支那の暦の革命思想の混入などを排して、皇紀の制度の復活を冷静に考えるべき時である。最近、北畠親房卿の「神皇正統記」の文庫本が復刊されたが、古来から伝わる日本の国体観をどのように取り戻すかの関心が高まっている証左である。占領軍が発禁にした「国体の本義」などは、佐藤優氏の解説の入った「国家の精髄」に収められ、完本が容易に読める。大川周明の「日本二千六百年史」も復刊された。

 さて、ベトナムはテトを戦争の緩急の節目にしたが、中国共産党は潮の干満を尊重する漁民や労働者に、太陽暦の正月をなお強制出来ていない。春節は、易姓革命の開始の節句にならないか、興味津々尽きない。

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コメント

最初の開国は明治維新である。二番目の開国は戦後である。三番目の開国はこれからである。


考え方にはいろいろある。自分たちの考え方が理に合わないものであることを証明するのは難しいことである。だが、それが証明できなければ、おかしな考え方を改めることも難しい。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

投稿: noga | 2011年1月31日 20時19分

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