Shock Doctrine revisited
以下は、ご参考まで。ナオミ・クライン女史の日本語版ビデオが発表されるにいたって、もう一度整理するために便利であると考えて、再掲する。さて「ショックドクトリン」の邦訳は何故出版されないのだろうか。
歴史や公共性を崩壊させる新自由主義
日本の国力は急激に低下しつつある。わが国経済が全体的に収縮し、国民一人一人への配分自体が減少し、未曾有の格差社会を増殖させている。
世界情勢においては偶然は存在しない。とくに経済政策は一見、経済理論と現実には隔たりが見えるようでありながらも必ず因果関係がある。たしかに自然災害など偶然が経済に干渉することはある。だが、強力な経済理論はそうした偶然さえ必然として絡めとってしまう。
私がここで念頭に置いているのは、いま世界を席巻している新自由主義あるいは市場原理主義という経済理論だ。新自由主義の三本柱は「規制緩和」「民営化」「公共予算の削減」である。新自由主義はこの三本柱によって国家の市場への介入を最小化し、市場に任せておけば経済はうまく回るという「レッセ・フェール」(市場放任)の立場をとっている。
しかし、それが現実政治に適用されるとき、アダム・スミス流のレッセ・フェールとは似ても似つかぬ新自由主義のカルト性が姿を現すのだ。
ここに1冊の本がある。カナダのジャーナリストであるナオミ・クライン女史が書いた『The shock Doctrine』である。同書はニユーヨーク・タイムズのベストセラー欄の上位を長らく独占していた。日本ではまだ翻訳は出ていないが、アメリカ本国でこの衝撃的な「新自由主義の本質」に鋭く迫った本が出版され、しかもベストセラーになっているというのは、一つの時代の転機といえるだろう。
彼女によれば、新自由主義とは結局、破壊と衝撃を与えることによって歴史性や公共性を崩壊させ、強引に更地(さらち)にしてすべてを私物化していく手法だ。
◆フリードマンという教祖
この新自由主義の教祖はミルトン・フリードマンである。彼が教鞭を執ったシカゴ大学経済学部の入り口には、「経済とは測定だ」と銅版に記してある。ここからも、このシカゴ学派が工学的発想にもとづいた人為によって社会を構築できるという思想を蔵していることがわかるだろう。
フリードマンは、1912年生まれのハンガリー系ユダヤ人移民の子である。彼は、新自由主義こそが完璧なシステムであり、市場を政府の介入から救い汚染されていない資本主義へ回帰することによってユートピアを実現できると考えた。
彼の提唱した新自由主義とは、政府のあらゆる規制を撤廃し、政府財産をすべて売却し、社会政策の予算を大幅に削減し、税率も最小限かつ貧富の格差に関係なく一律とすることである。ここにおいては、すべての価格は賃金も含めて市場が決めるのであり、医療保険、郵便局、教育、年金といった公共の福祉に関するものもすべて民営化すべきだと説いた。
フリードマンによると、政府がもつのは警察と軍隊で十分ということになるのだ。
では、この理論は現実にどのように適用されたのだろうか。
一番よい例が、2005年にルイジアナ州を直撃したハリケーン「カトリーナ」の災害復興だ。当時93歳のフリードマンは、いわば人生最後の政策提言として『ウォールストリート・ジャーナル』に寄稿している。
それによると、ニュー・オーリンズの学校が破壊されたことは悲劇ではあるが、これは教育制度をラディカルに改革する機会である。公共の学校を復興するのでなく、この災害を奇禍として、バウチャー(引換券)を各家庭に配布し、私立の教育機関(チャータースクール)を設立し、このバウチャーを活用することによって教育の民営化を促すべきだとした。
このフリードマンの提言を受けて、ブッシュ政権は学校を民営化するための資金を数千万ドルにわたって投入した。ところが、現在、アメリカにおいてはチャータースクールによって教育が二極分化しており、教育の低下が社会階層の固定化に結びつき、かつて公民権運動で勝ち取られた成果が無に帰しつつある。ニュー・オーリンズではカトリーナ前に123校あった公立学校はわずが4つになり、7つしかながった私立学校が31にまで増えた。こうしてニュー・オーリンズは私立教育機関設置の実験場とされた。「公共」の制度を潰して「私」の制度に置き替えていったのだ。
これは日本にとって対岸の火事ではない。
途中で潰えたものの、昨年の安倍政権がやはり教育バウチャー制度を導入しようとしたことを思い出すべきだ。起訴休職中の外務事務官・佐藤優氏は、保守主義と新自由主義の間で股裂きになったのが安倍政権の自壊という現象だと指摘したが、まさに現下の日本の格差社会・貧困社会化には新自由主義の影響がある。こうした事態に対して無自覚であることは政治家にとっては許されない怠慢である。
ここで、急激な民営化に「カトリーナ」という災害が巧妙に利用されたことに注目して、クライン女史はこれを“Disaster Capitalism”、すなわち「災害資本主義」と名づけている。
◆新自由主義は共同体を根こそぎ壊滅させる危険思想
フリードマンは「危機のみが真の変化をもたらす。危機が起きれば、現在ある政策の肩代わりを提案して、政治的に不可能であったことを、政治的に不可避なことにしてしまう」と述べている。いわば、災害に備えて缶詰や水を備蓄しておくのと同様に、災害に備えて新自由主義政策を一気に進めるべく政策を準備しておくというのだ。
このような発案のもとには、フリードマン自身の経験が影響していると見られる。
70年代の半ば、彼はチリの独裁者ピノチェト政権の顧問をしていた。ピノチェト政権にはシカゴ大学経済学部の出身者が大量に登用されており、「シカゴ学派の革命」とも呼ばれた。事実、ピノチェト政権においては減税、自由貿易、民営化、社会政策予算の削減、規制緩和が急激に行われたのである。これらはスピードが大事であるとして、1度にすべてを変えてしまうという方法が採用された。 ここから“ショック療法”という概念が新自由主義に滑り込んできたのである。独裁政権下においては、それは、経済的ショックと同時に拷問という肉体的ショックとも併用されて新自由主義改革が進められた。「敵の意思、考え方あるいは理解力を制御して、敵を文字どおりに行動あるいは対応する能力を失わせる」という“ショック・ドクトリン”が生まれたのである。
クライン女史は、実証的に新自由主義がこの“ショック・ドクトリン”によって推進されてきたことを明らかにしている。たとえば、スリランカにおけるスマトラ沖地震による津波被害の復興である。そこでは被災者をパニック状態に落とし込む一方で、海岸線をリゾート化する計画が進められていた。ニュー・オーリンズでもやはり住民の土地・家屋を修復することもなく、ただ更地にすることだけが進められたのである。
新自由主義にとって邪魔なのは市場原理主義に反するような非資本主義的行動や集団である。そうした非資本主義的集団として、地域共同体や歴史や伝統に根ざした「共同体」が存在するが、新自由主義はこうした集団を徹底的に除去する。災害復興の名目で公共性、共同体を奪い、被災者が自らを組織して主張を始める前に一気に私有化を進めるのである。
これは、日本で行われた新自由主義改革とも一致している。
郵政民営化は、公共財産である郵政事業を民営化するという典型的な新自由主義政策であった。民営化後、郵便局にはテレビカメラが取りつけられ、『郵政百年史』といったような郵政の歴史と文化を記した本も撤去されている。
ショージ・オーウェルが『1984年』で書いたような、きわめて不自然で歴史性を欠いた組織に一気に改変されている。オーウェルは「われわれはあなたを完全に空っぽにし、その体にわれわれを注入する」と不気味な予言をしている。
◆“ショック・ドクトリン”から見えてくる世界
衝撃を与え、一気に新自由主義改革を進めるという“ショック・ドクトリン”から世界を見ると、世界は今までとは異なる姿で立ち現れてくる。「改革」のために平然と人権侵害が行われてきたことに気づくのだ。
アルゼンチンでは3万人を抹殺して、シカゴ学派の提唱する政策を実現した。1993年にはエリツィン政権下のロシアで国会放火事件が起き、その後、国有資産は投げ売りされ、「オリガルヒア」という新興の超資本家が生まれた。1982年のフォークランド紛争も、炭鉱労働者のストライキを敗北して西洋で最初の民営化を強行する結果になった。1999年のNATOによるベオグラード空爆も、結局、旧ユーゴでの民営化に結びついたのである。
アジアでは1998年にアジア通貨危機が仕掛けられたが、これによってIMFが介入し、民営化するかさもなくは国家破綻かが迫られた。
その結果、国民の意思ではなく、日本の経済財政諮問会議のような一部の「経済専門家」と称する新自由主義者によって国の政策が支配されることになったのである。
また、天安門事件の大虐殺も“ショック・ドクトリン”の一環と見ることもできる。事件の前年の9月、フリードマンが北京と上海を訪問している。中国が中国流の“ショック・ドクトリン”を利用して開放路線を発動したと考えられるのだ。今年の四川大地震では、現地は復興特需に経済が活発化しているという話も聞こえてくるのだが、中国版災害資本主義が発動されている可能性は高い。 かつて、アイゼンハワー時代にはアメリカ国内ではこの“ショック・ドクトリン”は適用されていなかった。おそらく軍産複合体の行き過ぎを懸念したのである。しかし、レーガノミックスを経た95年ごろから、ネオコンが中心になってショック療法型の経済政策が本格化する。
そして、「9・11」のとき、大統領府はフリードマンの弟子たちで埋め尽くされる。ラムズフェルド国防長官(当時)はフリードマンの親友である。「テロとの戦い」が叫ばれ、恐怖が煽られた。そして何が変わったか。軍隊の民営化、戦争の私有化である。戦地を含む治安維持関連の民間外注が2003年には3512件、2006年には11万5000件にまで増えた。
現代の新自由主義下においては、戦争の経済的役割がまったく違ったものになった。かつては戦争によって門戸を関放し、その後の平和な時代に経済的に干渉するという手法であったが、いまや戦争自体が民営化され、市場化されているのである。だから、確実に儲かる。
クライン女史によると、現にイラクではPMC(プライベート・ミリタリー・カンパニー)が米正規軍13万人に対して40万人を派遣しており、ハリバートン社は2007年には200億ドルの売り上げをあげ、アメリカ資本のみならずイギリスやカナダ資本も戦争ビジネスで潤っているという。カナダのある会社はプレハブを戦場に売ることで儲け、危険な戦場で働く人のために保険会社が莫大な売り上げをあげているとのことである。
このように見てきたとおり、新自由主義はその「リベラル」で柔らかいイメージとは裏腹に政治的自由とは一切関係なく、それどころか、災害がないならば災害を起こせばよい、ショックを与えて一気に改革を進め、共同体も歴史性も破壊し、市場原理主義というのっぺりとした原則だけで動く世界を構築しようという危険な思想である。
新自由主義者にとっては、そのような共同体も歴史も存在せず、無機質で根無し草的なただ市場原理だけで説明ができる世界というのは、ユートピアに見えているのかもしれない。だが、人間はそのように合理性だけで生きている存在ではない。非合理的感情や共同体意識、歴史性があってこそ人間であり、そうした矛盾も非合理も抱え込んだ人間存在の幸福をはかるのが「政道」である。
◆新自由主義という名のカルト的危険思想
新自由主義が達成する世界観は、脳に電気刺激を与える人体実験の思想に酷似している。1950年代にCIAがカナダのモントリオールの精神科医とともに人体実験を行ったことが情報開示によって明らかになった。人間の心を人為的に制御することができるかという実験を行っていたのである。1988年には9人の元患者から提訴され、アメリカ政府は75万ドルの賠償金を支払い、カナダ政府は1人10万ドルの賠償を行った。
1940年代、ヨーロッパと北アメリカでは脳に電気刺激を与えるという療法が流行した。脳の切除を行うロボトミー手術よりも永久的なダメージが少ないとされたが、このショック療法においては記憶喪失が起こり、幼児に戻るような後退現象が見られた。この後退現象にCIAが目をつけ、1953年には2500万ドルの予算で人体実験を行った。
これこそが新自由主義のアレゴリーである。記憶を抹消し、まっさらなところに新しい記憶を与えること、これこそが新自由主義の本質であり、危険なのである。
新自由主義は支出を削減し、あらゆる部門を民営化し、意図的に景気後退を生み出す。こうしてショックを与え、さらに新自由主義改革を推し進め、共同体、公共圈を破壊する。そして、歴史性も共同体も失われたところに、市場原理主義を植えつけていく。
こうした新自由主義十字軍ともいうべきカルト的危険思想に、遅まきながらも、世界はようやく気づきだした。ピノチェトですら、政権後期にはシカゴ学派の言うことを聞かなくなった。民営化した鉱山会社はアメリカ資本の傘下に置かれ、国の収入源は民営化しなかった銅山会社だけになってしまい、国民の45%が貧困層になったからである。現代の中南米は明らかに、新自由主義と決別する方向に動いている。
◆いまこそ新自由主義に抵抗する救国勢力の結束を!
こうした一連の新自由主義の動きは、ここまで過激ではないにしろ、着実に日本の中でも起きている。たしかに「9.11」や拷問といったような過激な手段は、いまだとられてはいない。しかし、新自由主義に反対する政治家が国策捜査によって政治から追放され、刺客選挙が行われ、郵政民営化をはじめとする小泉・竹中による新自由主義改革によってわが国経済・社会は着実に後退した。幸い、日本は中間層が厚く一気に貧困社会となることはなかったが、非正規雇用、ニートといった潜在的失業率はかつてないほど高まっている。中産階級は劣化し、地方と東京都の格差は拡大の一途をたどっている。
もはや限界は明らかだ。「過ちを改めざるを過ち」と言う。信念の人であれば思い改めることも可能であろうが、カルト相手には決然と戦いを挑まねばならない。新自由主義は将来の発展のために「今は痛みに耐えよ」と言う。だが、その将来とはいつなのか。その間にわが国の共同体、同胞意識は次々に破壊されていく。このままでは、もはや回復不能なまでに破壊されるだろう。
新自由主義に反対の声をあげる者は、旧態依然の「抵抗勢力」と呼ばれる。
だが、市場が原理である必然性などない。公共の学校があってもよいではないか。国営の石油会社が存在して、エネルギーを安定供給することは悪いことなのか。郵便局が国営で何か悪いのか。世の中には自らの責任ならずとも不遇の立場に置かれている人もいる。それらをすべて自己責任であると切って捨てるのが政道なのか。経済的な不平等を解消するために税を徴収し、再配分することは許しがたいことなのか。
われわれはいまこそ、新自由主義に対して決然と「否」を突きつけるべきである。われわれは記憶を抹消され、ロボトミー化されて、市場原理主義しか考えられないような存在となることを望まないからである。新自由主義に対する戦いは人間らしい生存を回復する戦いである。われわれは抵抗しなければならない。
「抵抗勢力と呼ばば呼べ」――われわれは人間性を抑圧する市場原理主義にあくまで抵抗する。来るべき政界再編は、自民党か民主党かなどというレベルのものであってはならない。それは新自由主義に抵抗する救国勢力の結束による政界再編でなければならないのだ。
【以上は『月刊日本』平成20年10月号に掲載された論文の一部である。同誌の発行所はK&Kプレス(電話03-5211-0096)である】
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