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Kuroshio 42

今日(2011年2月3日)は、旧正月の節分である。明日は立春である。大陸では、春節である。ささやかな黒潮文明論とめいうった拙文を書き連ねているが、42回目を数える。先回に引き続いて暦の話であるから、題を、ブラムセン「和洋対暦表」所説としている。日本が中国から暦を導入する以前に一年をどうしていたかを念頭に於いて書いているが、納得の出来る証拠は見つかっていない。読者の皆様からも、コメントを頂戴できればありがたい。暦のことは、時間軸をせっていすることでもあるので、大いに民族の文化と伝統を考えるよい機会になる。

ブラムセン「和洋対暦表」所説

ブラムセンの『和洋対暦表』は国会図書館に所蔵されているが、どこかで表紙を失っており、刊年不明と末尾に記している。撫蘭仙蔵書印の捺された完本の写真には「明治一三年一月新刊」と表紙の上段に掲げ、「皇朝大化元年至明治六年、西洋六四五年至千八百七十三年」と比較表の対象年を記し、「丁抹(デンマーク)國 撫蘭仙編次」と記載している。前文には、先号に引用した部分に続けて、自分の対暦表の方が、「和事を以て西欧月日を探らんと欲する者」が使うために編纂したから、内務省の出版した対暦表は「洋暦を以て和暦に配するの便なるに如かず」と書いている。明治政府の対暦表は、「その書たるや世に益なきのみならず亦大いに害あらんことを懼る」とこきおろしている。自分の対暦表は「日本の年月を西暦の年月に換算する為により便利」であり、内務省の対暦表は「西暦を日本の暦に移し替えることを専らにしている」と、贔屓にしている。大隈重信がグレゴリオ暦の導入を急いだとする背景についてはなお考究が必要であろうが、ユリウス暦を知らずにグレゴリオ暦で時代を遡った対暦表を作る過ちをした挙句の西洋追従を、丁抹(デンマーク)人が批判する構図は興味深い。前文の後段は、「抑も日本は上古久しく暦法あらず或は神武天皇の時已に之有りと記せる書ありと雖も是れ亦後人牽強付会の説に係る決して信ずるに足らず爾後推古天皇の時に於て始めて暦を支那より得れども其法精ならず持統天皇の時に至り始めて頒暦のことあり」と書いた上で、曖昧なままで、西暦に対比すれば「真を失い実を誤り亦彼の妄意憶測の弊に陥」いる恐れがあるので、孝徳天皇の大化元年を比較表の始めとしたと対処を厳格にしている。

 ちなみに、一八七四年にアーネスト・サトウも対暦目的の小冊子を私家版として出版したという。ブラムセンは和文刊行の翌月、一八八〇年二月一〇日に日本アジア協会で英語で講演を行ないその記録を出版したが、サトウの私家版共々絶版となっていた。それを三〇年後の一九一〇年に、クレメント(Ernest Wilson Clement)という学者が序文と、西暦、日本の年号と天皇の治世(ブラムセンが取り上げなかった大化以前の比較表もある)、支那の皇帝と年号、朝鮮の王の治世の比較表を追補して、西暦、日本、支那、朝鮮の暦が一挙に比較できる対暦表として出版している。筆者はトロント大学所蔵の複写本をアマゾンの通信販売で昨秋に買い求めたが、なんとグーグルでも、コピーの際の欠落からか、乱丁が見られるのは残念にしても、無料で配布されている。稀覯本として流通していたブラムセンの対暦表が簡単に閲覧できるとはネットの威力である。

 英語版では、日本には年の表示に四種類があり、天皇の治世、年号、干支、神武天皇の即位の年とされる紀元前六六〇年を元年とする紀元の年があることを説明しながら、天皇の治世を逆算して紀元を定めたが、信頼できないと述べている。年号に採用された文字を早見表として一表にして検索を容易にしている他に、干支の規則性を説明しながら、支那では西暦紀元前二六三七年が干支の始まりとするが、日本では六〇年ごとの循環よりも、天皇の治世の年を特定するための補強としての役割があるとしている。明治に導入した紀元の年の数え方は近代の革新であり、キリスト暦の真似であり、一般国民が使うことはないし、将来も人口に膾炙しないと一蹴している。一方で、日本の太陰暦を惜しむかのように詳細・丁寧に説明をしている。「小の月」「大の月」「閏の必要性」や、新月から新月までを太陽暦で換算すると29・5305921日であることなど詳細を究める。日本が支那から暦法を導入する以前に一年をどうしていたかを詳細に議論しているのは圧巻である。

  例えば、応神天皇の一五年と一六年は西暦二八四年と二八五年に比定されるが、王仁が漢字をもたらしたことが日本書紀に書かれ、仁徳天皇の治世に支那の文献の研究が盛んになったことは事実であり、また、推古天皇一〇年(六〇二)に天文研究が行なわれ、計算の円盤が朝鮮経由で導入され、白鳳四年(六七五)に天文台が造られ、持統天皇四年には暦が始めて頒布されていることは記録に残っているから事実であるとする。しかし、初代神武天皇から一六代仁徳天皇までの一八五三年間の平均寿命が一〇九歳であるのに対し、一七代履中天皇から急に寿命が短くなって、以後一〇四六年間の平均寿命が六一・五歳になることは非合理であると指摘した上で、年月の数え方の基準を変えたと結論する。仁徳天皇の時代までは、春分から秋分、秋分から春分までをそれぞれ一年と数えていたのに、仁徳天皇の時代に支那の暦が入ってきて、履中天皇から三代で基準を新暦に合わせたとする。履中天皇は治世七年で七七歳で崩御されたが、仁徳天皇の御代を七〇年と数えると、実際の御齢は三五+七で四二歳になる。反正天皇の治世は六年で、旧暦で四七年を過ごされ、新暦換算の御齢は三六年と半歳となる。允恭天皇は、仁徳天皇の治世の二四年(新暦の一二年)で新暦の齢は六八歳となる。(つづく)

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