Kuroshio 43
ブラムセン「和洋対暦表」所説 2
第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までは日本書紀に事績等に関する記述がないため、欠史八代とする説がある。ブラムセン説を採れば、実在として何の支障もなくなり、実在性を疑う向きのある成務、仲哀天皇も当然実在となる。新羅、高句麗、百済に出兵した神功皇后の事跡も俄然現実性を帯びる。西紀前一三〇年の神武天皇即位であれば、弥生時代中期に該当して、考古学の成果を入れ、いよいよ現実になるのではないだろうか。ドイツのシュリーマンがトロイ遺跡の存在を確信して掘り続け、数層に渡る発見をしたことと同様に、単なる空想、単に想像の神話だと考えられていたことが、歴史上の事実になる可能性が開ける。
仁徳天皇の崩御年を三九九年として、その年に中国の暦法が導入され、古来の日本の年の数え方が変更されたことを前提として、ブラムセン説に従うと、神武天皇から仁徳天皇までの在位の推定年は次のようになる。
「神武 西紀前一三〇~九三、綏靖 西紀前九一~七五、安寧 西紀前七五~五六、懿徳 西紀前五六~四〇、孝昭 西紀前三九~西紀二、孝安 西紀二~五三 孝霊 西紀五三~九一、孝元 西紀九一~一一九、開花 西紀一一九~一四九、崇神 西紀一五〇~一八四、垂仁 西紀一八五~二三四、景行 西紀二三五~二六四、成務 西紀二六五~二九四、仲哀 西紀二九五~二九九、応神 西紀三三四~三五四、仁徳 西紀三五六~三九九、履中 西紀三九九~四〇六、反正 西紀四〇六~四一二、允恭 西紀四一二~四五五」
(長島要一「W・ブラムセンの情熱──『和洋対暦表』と古代日本」、岩波書店、二〇一〇年一一月刊『図書』第七四一号所収による)。
ブラムセンは、西紀前一三〇年の即位を仮説としながら、南海の島々での人口移動や交流についても研究がなされ、特に朝鮮と支那の記録との比較を行なうべきであるとする。一九一〇年の英文版には、クレメント氏は、「日本人の学者で、年紀を再構成するために、最も真剣な検討を行なったのが、久米(邦武)博士である。久米博士は、明治の紀元制度に懐疑的であったために、東京帝国大学を追われた」として、その見解を、フランス語の文献から和訳した間接的な引用の形をとって掲載している。「推古天皇が即位した西紀後五九三年が歴史として確定できる年から、一八六七年の孝明天皇の崩御まで、一二七四年の間に、四六代を数え、治世の平均は、二八年間だ。継体天皇(四九二年)から、明治天皇御生誕の一八五二年まで、一三六〇年が経って、四九代の天皇が即位され、(治世平均は)同じく二八年間である。徳川の一〇代の将軍、足利の九代、明の一二代の王朝、宋の一一代の王朝も(治世平均は)二八年間である。昔は、婚期が早かったことも勘案すべきである。前漢書、後漢書、三国史記等、高麗、百済、新羅の歴史を研究すれば、仲哀天皇が崩御され、応神天皇が生誕されたのが、第一六代の新羅王の訖解尼師今、百済王の第一三代の近肖古王の時代で、西紀三四六年であるが、明治政府は、西紀二〇〇年としているが、年代表の確定を急ぎすぎた嫌いがあると指摘している」として、久米博士作成の年代表を、その後の齟齬の争いのない、第三〇代の敏達天皇の崩御までと比較する。例えば神功皇后の没年は一二一年ずれて西紀三八〇年となる。
久米教授の英文の年代表を和訳してまとめると、天皇の年代は次のようになる。
「神武天皇 生誕西紀前六三年、即位西紀前二四年、崩御西紀前一年、六三歳(以下、生誕、即位、崩御の西紀年)、 綏靖天皇 西紀前二一年、一年、二八年、四九歳、安寧天皇 一年、二九年、五三年、五二歳、 懿徳天皇 二五年、五四年、八〇年、五五歳、 孝昭天皇 四九年、八一年、一〇八年、五九歳、孝安天皇 七〇年、一〇九年、一三二年、六二歳、 孝霊天皇九五年、一三三年、一五六年、六一歳、 孝元天皇 一三七年、一五七年、一八八年、五一歳、 開化天皇 一六四年、一八九年、二一八年、五四歳、崇神天皇 一九一年、二一九年、二四九年、五八歳、垂仁天皇二二〇年、二五〇年、二八二年、六二歳、景行天皇 二五六年、二八三年、三一六年、六〇歳、成務天皇 二八七年、三一七年、三四二年、五五歳、仲哀天皇 三〇〇年、三四三年、三四六年、四六歳、神功皇后 三八〇年没、応神天皇 三四六年、三四七年、四〇八年、六二歳、仁徳天皇 三六七年、四〇九年、四三二年、六五歳、履中天皇 四三三年即位、四三八年崩御(以下、即位と崩御の西紀年)反正天皇 四三九年、四四二年、允恭天皇 四四三年、四五九年、安康天皇 四六〇年、四六二年、雄略天皇 四六三年、五〇二年、清寧天皇五〇三年、五〇七年、顕宗天皇 五〇八年、五一〇年、仁賢天皇 五一一年、五一五年、武烈天皇 五一六年、五一七年、継体天皇 五一八年、五二五年、安閑天皇 五二六年、五二七年、宣化天皇 五二八年、五三一年、欽明天皇 五三二年、五七二年、敏達天皇 五七三年、五八五年」 (つづく)
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