Kuroshio 44
日本人の季節感と明治改暦事情
明治の改暦は、言わずと知れたことであるが、西欧に追いつけ追い越せの策として実行されたことは間違いない。西欧化に何の疑問も挟まず、いや疑問を挟みながらも、たった四隻の蒸気船で開国を強迫され不平等条約を結ばされた仇を討つためには、桜田門外の変のような短気を起こすことではなく、科学を精密に行なうことであることと身にしみていたから、いちいち閏年を入れたり、支那の迷信に纏いつかれたり、あるいは天文方が世襲集団になり、暦の配本が利権化し、本当の天体観測や計算の能力が不足して、現代日本の軟弱化した政治家のようになっていたことから、早く太陽暦を導入して、列国に伍して科学技術を整えなければならないと、焦ったことは間違いない。
現実の自然現象を正確に観察することで、分析結果としての暦に拘束されない感性を持つのが日本人の特徴だと、本居宣長は『真暦考』で書いているが、支那から暦が渡来する以前には、何月何日の定めがなかったにせよ、春夏秋冬の四季の移ろいには敏感で、太陽の運行と共に季節が変わり、月が満ちたり欠けたりする一巡を知っていたし、その定めで、「ついたち」「もち」「つごもり」と言ったとする。夕暮れに月が見え始める頃から一〇日ほどを、「月立(ついたち)」と言った。暦が出来てからの「朔」は新月の夜のことであるが、まだ月が見えないので、暦以前の考えでは、まだ晦(つごもり)の末でしかない。暦では、「合朔」という月と太陽が一方向で合致し、全く月の光が見えない日を「朔」としているが、皇国日本ではそういう定義ではなかったと本居宣長は主張している。「ついたち」とは、だんだんと夕暮れに月が高く見えてくる「月立」であり、倭建命が、美夜受比売(みやづひめ)の御衣の裾に、「月の水(つきのけがれ)」がついているのを「月立にけり」と詠んだことを傍証にしている。「伊勢物語」で、「そのころみな月のもちばかりなりければ」とあるのは中旬という意味で、末の一〇日ほどを、「月隠(つごもり」とする。木々に花が蕾をつけていつしか満開になる季節を正確に観察することに優れていたから、暦に囚われる事がなく、暦のずれがあってもおおらかさがあったが、決して惑わされることはなかったし、「日数にはこだわらず、空の月を見て、朔の始めを、ある人は今日と思い、別の人は昨日と思い、もう一人は明日だと思い思いに定めても、どれも間違いではなかったので、大小の月に分けなくとも、晦と朔が乱れる事はなかった」と書いている。
暦に拘束されて建前にこだわるのではなく、自然界の現実を対象として自在に捉えるのが国体の本質であるから、西洋と対峙するためには太陽暦を導入することが大切と思い込んだことも間違いない。すでに、安政元年には、『万国普通暦』と銘打った和洋対暦表が幕府に提出され、上段に日本の暦、干支、七曜、二四節気とその時刻を掲げ、下段に太陽暦の暦日、七曜等と並んで当時のロシアが依然として使っていたユリウス暦との対照表を出版しているから、独立国家としての立場を確保するため、改暦が必要であることが必至の趨勢となっていたことも間違いない。遂に、明治五年一一月九日に改暦の詔勅が発せられたが、明治三年には大学に天文暦道局を置き、八月には星学局と改称、和算の専門家をして作暦の担当としているから、それまで連綿として改暦の準備が行なわれていた。一説には大隈重信の回想録にあるように、月給制度の採用により旧暦で閏月のある年には、一三ヶ月の月給を払う羽目になるので、当時新政府が破産状態にあったこともあり、大蔵省が財政上の理由から改暦を急いだとする説もある。
改暦の詔勅から六日後に太政官布告によって神武天皇即位紀元が制定されたが、明治二年に津田真道が建議した「年号を廃し一元を可建の議」が実現したもので、もとは年号に代わるべく発案された。だが、明治一〇年頃まで年号と併用されて、紀元二千六百年に当たる昭和一五年になり記念行事で万邦無比、金甌無欠と喧伝されるまではほとんど使用されなかった。なるほどインドネシア独立宣言に使われたが、久米博士九十年回顧録には、「十一月二十二日、東京の太政官より英国倫敦中耳あの弁務使館に電報到達し、朝議の決定で太陽暦に改まり、来る十二月三日を以て明治六年一月一日となし、神武天皇即位の年を紀元元年と定められ、之を数えて掲載すべし云々とのことであった。寝耳に水を注がれた如く、委細の情実判らず、十日の後に引き上げて正月元旦を祝したが、外務書記官で贈答文書を作り、年月を掲載するに、某地で耶蘇誕生後何年の他に、日本神武天皇即位紀元何年と重複に記録せねばならぬので、徒に文筆の繁を増すことになった」とある。続けて「紀元を始めたのは、朔望を廃して西洋暦と共通する基督教の正朔を奉ずる形式で、皇統一系を誇る我が国がマホメタン囘囘暦に倣ひ、而も数千年の昔に泝り暦の紀年を画するは、浄衣を被て炭塗の中に馳駆するに近い迷信であるが、亦当時の時勢の然らしめたものであろう」と冷ややかである。(つづく)
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