Kuroshio 45
日本の公式紀年法は年号である、と題する。
「久米博士九十年回顧録は、没後三年の昭和九年一〇月に発行されて、昭和六〇年に上下巻とも復刻されている。これまでの引用は第二一二項の「日本より改暦の電報」と小見出しのついた一項にある改暦についての評論が記載されている四三〇頁から四三五頁までの部分からである。もう少し続けると、「今度の改暦により、東洋は従来太陰暦を用ひ、月の朔望に拘泥したのに、之を廃して太陽暦に改めたといふのは俗説にて、東洋でも歳首は十一月であり、閏月の都合で十一月朔日が当時で一陽来復するを嘉祥とした、これ、真の歳首である。(中略)冬至には一陽来復して日景永くなり始めるが地上は厳寒であるから、是は天の正月である。次の建丑の月は往を送り来を迎ふる準備の月で地の正月である。尚其の次の建寅の月が小寒大寒を通過して気候の融和したる時で、之が人の正月である。斯様に天地人三様の歳首が農業の実際に適合したもので、四千年前虞夏時代より之を歳正と称し、月の十二支は天正の十一月を子の月と数える習法になって居る。即、今改まった暦と同様であるが、四時の配合即、立春・立夏等の節気が齟齬するのみである。(中略)東西の暦は結局一元である。基督教の安息日は日月を五星に加えた七曜から割り出され、東洋の陰陽五行と同元であることは疑いを容れぬ。西暦は唐代より回回暦と称してゐるが、回回とはマホメタンのことで、即隋の末にマホメットが唱えた教に打従へられた地方を汎称したバグトリヤ以西バビロン・カルデヤ地方の西域に行はれた暦である。マホメットは無丁字なりしとのことなれば、此の暦の元はバビロンの星度推歩から分岐したものと推料される。天度の三百六十五度四分一余を三百六十度の敬意に割り切って定めたのも同じく回法といはれてゐるが、亦バビロン法であらう。之は便利ではあるが、天の神道には不順である。如何となれば、天円地方の理を失うからである。(中略)太陽が北から南に行き詰って北に還るまでを一歳と数へ、その間に太陰は十二度余の朔望をなして六日余りを残す。四年にして二十四日を残すから閏月を設けてこの残実を取り戻すので、太陰暦も其の根本は太陽暦に立脚して居る。此の消息を推歩するのが、天の神道に順なる所以である」と書いている。
天円地方の理が大切であると主張しているが、明治二四年「神道は祭天の古俗」と題して発表した論文が攻撃を受けて翌年東京帝国大学文化大学教授を辞し、同じ肥前鍋島出身の大隈侯の東京専門学校(後の早稲田大学)で講じつつ著述に専念した久米教授の回想だけに、「何の必要あって改暦したかは、(中略)熟ゞ其の事由を推料するに、閏月の故障を去るのが、重な原因であらう」が、「閏月の為に朔望を廃するなら、周の月令依り、春夏秋冬の四時を孟仲季の三ヶ月に割って十二ヶ月をし、更に之を二十四節気に分てば無事なるものをと言はれたが、此の言は間然する処なき穏健な批判である」と重い言葉を書き残している。
明治四年九月に官公吏の月給制が施行され、それまで年俸制であったから問題にならなかったが、極度に窮乏化した財政の下では、閏月の出費増加を回避する策として太陽暦を採用して、それを年内に発布して新暦年から実施すれば、明治六年の六月の閏月もなくなるので、二ヶ月分の支出を節約することができると算用したのが真相だろう。明治の改暦は明らかにグレゴリオ暦の採用であるが、細部では四百年間に三回閏年を省略するというユリウス暦との区別を明示しなかったために、明治三三年(西紀一九〇〇)はグレゴリオ暦では平年だが、日本では閏年になってしまうので、勅令をもって齟齬が出ないようにしたが、それは、神武天皇即位紀元を一旦西紀に換算して、四百の倍数以外の百の倍数の歳は平年とするとしている。閏年の決定は今でもこの勅令が根拠であるから、西紀が日本の紀年法として認められるわけもないから、西紀が神武即位紀元へ換算されて入り込むという複雑な構造となっている。西紀に対抗しようと、神武即位紀元を採用し年号を廃止しようとした津田真道の建議は強烈だったが、風雪に耐えた日本の公式紀年法は年号である。昭和五四年六月一二日に「元号法」が成立しているし、「平成」の年号は昭和六四年一月七日の昭和天皇ご崩御の翌日に施行されている。
支那では辛亥革命で太陽暦を採用し、紀年法で一九一二年を民国元年としたが、共産党の建てた人民共和国は西紀を公暦として天円地方を捨てたようだ。
また北朝鮮は西紀一九九七年に突如「主体」という年号を制定したが、朝鮮ではその時の情勢に従って、自国の年号を建てたり、支那との関係の帰趨を伺うために支那の王朝の年号をそのまま用いたりと変化する。高句麗も新羅も独自の年号があったが、百済はついぞ独自の年号を建てられなかった。高麗では天授という年号が始めであるが、その後ずっと宋の年号を用いた。李氏朝鮮は九三〇年後の日清戦争の最中に太陽暦の採用と建陽なる新年号を決めている。多難な民族の歴史が暦の変遷からも窺われる。 (つづく)
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