Kuroshio 48
熊野で日本再生を祈る。
東京の羽田空港を九時五〇分に出ると、南紀白浜空港には一一時に着いた。空港は海岸段丘の上にあり津波の影響がない立地であるが、滑走路が短いせいか小型ジェットを機材として使用していた。空港の前から、一日一便の新宮行きの特急バスに乗って、熊野本宮大社に向かった。バスは、空港の丘を下って白浜の駅に寄り、田辺の駅前から、熊野参詣道の中辺路(なかへち)を辿るように走る。参詣道の休憩所となる地域に、信仰の道を繋ぐために設けられた神社を王子と呼ぶらしく、初めて熊野権現の御山の内となる滝尻王子から本宮大社までの約三八キロの中辺路には九王子が点在している。バスは、熊野古道なかへち美術館で小休止するが、そこは近露王子と呼ばれたところで、本宮大社まで一気に歩ける最後の宿場で、今も民宿が点在している。田辺から普通のバスであれば本宮大社まで二時間かかるが、特急バスでは一時間で着く。やはり、往来は、熊野川河口の新宮との往来の方が便利であるから、時間があれば、名古屋で乗り換えて、新宮の熊野速玉大社、那智の熊野那智大社を詣でてから、本宮大社に至るのが、熊野三山の参詣を全うすることになるが、日程を要する。しかも、今回の熊野詣では、去年の春の例大祭への参加を予定しておきながら、直前に倒れて大病を患ったから、蘇ったことを感謝する旅とするために、伊勢の近くの知人や、紀伊長島の錦の友人を訪ねることもせず、直行したのには、理由があった。勿論、東北地方の大地震があったから、ささやかに復興祈願をするにふさわしい大日本(おおやまと)の聖地たることは心得ていた。
収監された鈴木宗男氏も去年の九月一九日に、人生再出発のスタートをしようと本宮大社に参っている。参拝者が多く列をなしており、「鈴木さん、頑張って下さい」、「権力と闘って下さい」と声が懸かったという。宮司から「新しいスタートの場所ですから。人生山あり谷あり、苦難もあります。お身体に気をつけて、しっかり頑張って下さい」と激励を受け、何となくホッとした気持ちになったという。
今年の一月八日には小沢一郎民主党元代表も本宮大社に詣でている。民宿は夕食こそ出さないが立派な旅館並みの設備で、町営の温泉もある。車があれば近くの川湯温泉まで足を伸ばせる。
四月一三日には、例祭の始まりを告げる、神の依り代である稚児が湯峯温泉で身を清め大日越という本宮大社への最後の峠道を歩く湯登(ゆのぼり)神事があり、宮渡(みやわたり)神事では神職・稚児・総代などが行列を組み、神歌を唄い太鼓を叩きながら巡って、例祭の平穏無事を祈念する祭りが行なれている。四月一五日の朝八時から国家安泰、国民平安を祈念する本殿祭が始まった。宮司は「大震災があり、祭の時間を知らせる花火やアドバルーン
をあげることを自粛したが、その他の行事は淡々と進めることが大事である。
人と自然との共生、そういった想い、東北で多くの人々の命が奪われた、その
御魂の鎮魂を祈り、明治二二年の大水害で本宮大社は壊滅的な打撃を受けたが、僅かに二年の間に今の山間の丘陵地に移築することに成功している。しかも重機がない時代に大がかりな復興事業を成功させている。来年は明治の大水害から一二〇年の節目の年として、社殿修復等の工事を進める」と決意を述べられた。先人の迅速な修復に習うためにも、決断して迅速な行動に移して行くことが大事だとの趣旨の挨拶であったが、聴衆の中からは、現下の日本の政治指導力の欠如を想像したせいか、嘆きの声か、溜息か、はたまた失笑とおぼしきさざめきが聞こえた。重要な祭典である本殿祭は、春の恵み、自然に生かされていることに感謝を捧げる神事である。
午後一時には本殿の神様を担いだ御輿に乗せ、本宮大社の旧地である大斎原(おおゆのはら)までを練り歩いた。行列の中に桃花(ちようばな)と呼ばれる、太い竹竿を柱として木箱に無数に造花を挿し飾ったものがあり、餅投げの赤餅と引き替えにされる。祭の主祭神である家津御子大神(けつみこのおおかみ)が鎮座されたとき、我を祀るに母神も同じく祀れと仰せられたとの伝承で、熊野の花の窟(はなのいわや)から伊弉冉(いざなみ)尊をお迎えして花を奉じ鼓・笛・旗を以て祭を行なうようになったとのことである。春の例大祭にふさわしく桜が満開だった。午後二時からは斎庭神事が大斎原で挙行された。総代会による餅投げが行なわれ、熊野修験が採灯大護摩の大きな火を焚いた。神事の終わるころ雨が降り出したが、遷御祭にて御神輿は本殿に戻り例大祭が終わった。夕刻の直会(なおらい)は大賑わいであった。宮司は馬に乗って戻った。
本宮大社の旧地は熊野川の中州にある。熊野川もダムが出来るまでは水量滔々として、河口の新宮あたりからの船の往来が今より遙かに頻繁であったという。大社旧地の大斎原には、日向の西都原古墳で出土した舳先と艫(とも)の両方が跳ね上がったような、バシー海峡で今も使われている格好の船の、古代の船着き場があったことを想像する。神武天皇は熊野を大和征伐の船玉の根拠地となし、八咫烏(やたがらす)が先達を務めたのだった。吉野の金峯山に黒潮の海の幸の印として、修験者がいとも容易に夏の飛魚を運んでいく交易があったことはすでに書いている。 (つづく)
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