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Kuroshio 49

熊楠が残した神社の森

熊野本宮大社の例大祭への参加を終え、二倍時間のかかる各駅停車の竜神バスで、白浜空港に戻ることにした。午後遅くの飛行機の出発まで、田辺駅で下車して南方熊楠の故地を訪ねた。旧宅は駅から歩いて行ける距離に残る。大正五年から昭和十六年に享年七十五歳で亡くなるまで四半世紀を過ごした終の住処である。

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隣地に顕彰館が近年建てられ、約二万五千点に及ぶ資料を整理している。採集道具、寄稿論文を掲載する内外の雑誌文献、日記を展示する。柳田國男宛の書簡までも収集されている。それから、駅前からバスに乗り、温泉場となった白浜の町を抜けて、典型的な魚つき林の様相の岬の高台に、南方熊楠記念館がある。岬の森は植物園のようになっており、麓には京都大学の海の家のような施設があり、隣接の砂浜にはハマユウの群落がある。

昭和天皇の御製
 雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ
の歌碑が敷地に屹立している。昭和四年六月一日、御召艦長門に六隻の艦船を従えて南紀を行幸した昭和天皇は、熊楠の推奨する神島に上陸して粘菌を観察され、後刻艦上で神島の植物に関するご進講を受けている。

神島には
一枝も心して吹け沖つ風 わが天皇(すめらぎ)のめてましし森そ
との熊楠の赤誠の歌碑が一年後に建てられて今に残る。記念館の歌碑は、昭和天皇が昭和三十七年に再び行幸されたに詠まれた歌を碑として、記念館と相まって昭和四十年に完成している。臣下の姓名を挙げて思ふとする類稀な君臣の関係を詠っており、神島を指呼の間に望む地に常陸宮殿下の鍬入れで不朽の記念としている。御進講の後の松枝夫人との記念写真が残っているが、熊楠は蝶ネクタイにシルクハットの燕尾服と畏まって緊張している雰囲気が伝わって来る。

 神島は、田辺湾にある面積三ヘクタールの島である。神島と書いて、「かしま」と訓(よ)む。しまであり、神島の神は建御雷命(たけみかづちのみこと)であるというから、常陸の鹿嶋神宮との関係も容易に想像される。かしまが神島であることを田辺の記念館を訪れるまで知らなかった無知を恥じている。神島は、古くから人の手の入らない不伐の森であったが、明治四十二年に神島の弁天社が、近くの村の大潟神社に合祀され、神の森の伐採が計画されるに至り、南方熊楠が、自然の森の破壊の反対して神島を日本初の保安林編入に成功している。そもそも明治政府は、明治四年の太政官布告で、全国の神社の格付けを図り、明治九年には、神社合祀の法律基盤を固めるが、三重県と和歌山県では、特に急進的な合祀が行われたとされ、郡長が神職取締を兼ね、強引に合祀を迫っている。

 南方熊楠が、神社の合祀合併とそれに伴う神社林の伐採を憂えて、長文の論攷を初めて発表したのは、明治四十二年九月二十七日である。

「昨今ヨーロッパでは街中に小公園をつくって市民の憩いの場としているというのに、我が国では手近にある小公園ともいうべき神社を潰し、その木を伐ることは時代錯誤だ」と主張している。熊楠は神社の森がかけがえのない生命の貯蔵庫であることを知り、日本という国の文明の根本がそうした、ささやかな島の森や、鎮守の森に宿っていることを、むしろ七つの海を制覇した大英帝国の博物館での勉学の成果として知り尽くしたと思われる。大正七年に至ってようやく、「神社合併は国家を破壊するもの也。神社合併の精神は悪からざるもその結果社会主義的思想を醸成するの虞あるを持って今後神社合併は絶対に行うべからず」との意見が通った。
 南方熊楠の反対で、神島の森、前号で紹介した熊野古道の中辺路の中途にある、野中の継桜王子社の社叢、那智の滝の原生林などが残っているが、紀州の大方の神社林は切り倒されてしまった。

明治政府が、神社合祀を進めたのは、最近の構造改革の破壊とも似ているように思うが、それは西欧的な宗教秩序を導入して合併で効率化しようとする発想であったから近代化の典型であった。平成に入っての市町村合併などもそうした効率化の典型であるが、神社合祀の場合には、巨木が利権となり、木を伐ってそれを売ることで、一部の勢力が利益を上げた事が根本にあったと想像する。列島に繁茂していた巨木が、外国勢力の手に渡って加工されていった可能性があるとすれば、現代の構造改革論という外国金融勢力の強迫に屈した迷走に限りなく近い。北海道の樫(オーク)林は外国で酒樽になったと聞く。

 南方熊楠の英文の書簡などを見ると、もう、西洋人も一目置くに違いない流麗さで、小村寿太郎等の英傑と共通する西洋理解の深さであるが、西洋を深く理解すればこそ逆に日本の根本について拘った。

明治と言う時代の中で、地方の知識人としてついぞ中央に出なくても、世界で活躍出来たのは、今日ほど地方が破壊がされていなかった証拠なのかも知れない。熊楠が没してからわずかに七十年であるが、神島の森は植生をどんどん変えている。マツもタブノキも枯れた。(つづく)

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