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Southern Islands

奄美・徳之島にある伊仙町では、島外から里帰りをはばかられる激しい政争が続いた。選挙候補の頭文字をとって保徳戦争と称されたが、敗戦後に南西諸島は外国軍隊に占領されその統治下で戸別訪問自由の外国流の選挙運動に慣らされ、復帰後は日本唯一の小選挙区であったから、利権が選挙に直結したことと貧しさとが、激しい政争の直接の原因となった。日本の選挙制度が従前の奄美のように小選挙区となり、当の奄美選挙区は別の行政区画の薩摩半島南部も加わって、奄美の共同体の内輪もめを中和抑制したから、潮が引くように島の内部抗争は沈静化した。

1609年、薩摩藩は奄美に侵攻して直轄地とし、現在では奄美群島は鹿児島県大島郡となっている。出先機関として大島支庁と言う組織が今だに残っている。2009年5月に、薩摩藩の侵攻を奄美の視点で検証するシンポジウムが、沖縄大学地域研究所の肝いりで徳之島で開催され、報告書が芙蓉書房出版から、「薩摩藩の奄美琉球侵攻四百年再考」として今年二月に出版された。伊藤鹿児島県知事と仲井真沖縄県知事が、奄美大島の名瀬で、400周年として会見したのは英断であった。

今年は、各市町村持ち回りで15年ぶりに、三百人ほどの奄美の市町村議会議員に県会議員や県庁関係者が参加して集まり、伊仙町で会合があった。奄美大島、加計呂麻島、与路島、請島、徳之島、沖永良部島、与論島が有人島で、日頃は海路の隔絶があるから、隣島の状況を他島の議員から話を聞く情報交換会である。
     
 東日本大震災があって、戦後政治の分水嶺となったことが指摘され、天災に原発暴走という人災が加わり、大和の政党政治と政府が機能不全を起こしているため、外国勢力が火事場泥棒に近い状態で日本制圧を目指すかのように跋扈しているから、地域エゴといわれても、奄美が世界の中心と考えて、社稷の共同体を守る意見を主張することが大和、日本、世界の救済につながる、自粛して萎縮する必要はない、奄美からの情報発信が大切だとの意見が述べられて、予想通り反応はよかった。奄美の祖国復帰運動は、異民族統治からの解放を達成した日本初の民族自決運動であったし、その指導者の泉芳朗先生が伊仙町面縄(おもなわ)の出身であり、復帰運動を開始した為山道則氏は隣の亀津の出身であることを細々と説明しなくても理解される素地が会場に漲っていた。

 昭和28年が復帰の年から五十年後、天皇・皇后両陛下のご来臨の下に、奄美大島で記念式典が開催された。鹿児島県知事に記念切手が日本郵政公社の総裁の代行から贈呈され、「贈呈者は、奄美・徳之島出身」とのアナウンスがあり拍手があった。沖縄の式典と異なり、総理大臣や外務大臣の出席はなかった。国土交通大臣が奄美振興法の延長に触れてカネにまつわる話をしたときには危うく野次が飛びそうになり、米国防長官が来日していたため、駐日大使の姿はなく、その応接のため沖縄県知事も欠席していた。参列していた大阪大学の米国人研究者は、今や沖縄の海兵隊に勤務している。東京奄美会会長の万感こもる挨拶、元ちとせのシマ唄が大島紬の舞台衣装と相まって、透き通るような美しさであった。御製として、復帰より五十年(いとせ)経るを祝いたる式典に響く島唄の声、があり、皇后陛下の御歌として、紫の横雲なびき群島に新しき明日いましあけゆく、があった。

 沖縄には易姓革命思想があるが、奄美にはない。易々と長いモノにまかれないからといって、過激に排外に向かうこともない、また大上段に日本全体と対峙する力もないが、侵攻の祭には徳之島の秋徳湊の戦の於いて徹底的に抵抗した。、第二次朝鮮出兵で歴戦の薩摩の鉄砲部隊と槍鎌で闘う抵抗精神があった。沖縄は「幕藩体制の中での異国」などと二重の国際関係を操作する王国ならではの困難があった一方で、奄美では亀津断髪のように、明治維新によるグローバリゼーションに直面して、国家意識を急速に受け入れながらも、変更の知恵により、共同体の歴史や文化の延命を図ることができた。奄美では、権威と権力とが別物であることが身に沁みているから、当然の前提として、北京で客死したり助けを求める勢力もない。沖縄を表面的に慕う議員には、沖縄の宮古や先島に対する扱い方や薩摩の間接統治の上手さについても説明があった。

 さて、全島一周道路から支線に至るまで道路はアスファルトで舗装され、ジープが車輪を取られる昔の泥濘はない。隆起珊瑚礁の渓谷をわたる大橋が架けられ、ダムが完工して配水管が整備されれば、甘味資源特別保護対象のサトウキビだけではなく、野菜や果物など食料を自給出来るようになる。薩摩半島から嫁に来た若い娘がいたことには驚いた。島男と薩摩女とが世帯を持つことは双方反対でタブーに近かっただけに、黒糖焼酎が全国ブランドになったように通婚の往来も拡がり、嬉しいことだ。利権だった農地開発の改善事業も終わって、議会の選挙も無風になり、議員がおそろいの作業服を着ているかいがいしさも見た。ガジュマルや琉球クロマツの亜熱帯の森を伐採したせいか、古生代から繁茂した蘇鉄は少なくなり、少なくとも昼間は黒ウサギもハブも見かけなかった。赤土の流出は依然続いていて、珊瑚礁の煌めきが鈍くなった可能性はある。

 東シナ海を見晴るかす景勝の地の犬田布岬には、沖縄戦に特攻出撃した戦艦大和の慰霊碑がある。犬田布騒動と言う薩摩藩の代官政治に対する反乱も知られる。駐車場の脇には、「米軍基地移設反対」と大書した看板が立てられ復帰運動再来の趣だ。国難を抱える大日本の蘇生に貢献するとの決意表明とも読める。
 
大地震発生後の三ヶ月間に、熊野から吉野を訪ねて奄美に至る旅を重ねたが、大震災と原発の暴走を契機に戦後日本の隷属が終わり、自立自尊の世直しが始まる予兆が敏感に感じ取られる。南溟の地の奄美の会合で昇華して、確信に変わった。薩摩の西郷が南洲と号した理由がわかった。

追記

評論家の三浦小太郎氏による渡辺京二の西郷論という文章を読んだ。渡辺京二氏の評論選集がちくま学芸文庫から発売されたが、その第一巻の維新の夢が、西郷隆盛論であることを紹介しながら、「西郷は明治維新の指導者のうち、ただひとり、近代国家の建設ではなく、政治権力と最も遠いところで生を受け、人知れず死んでいく民の位相を自らの思想の原点としていた。この姿勢は、渡辺氏によれば,西郷の遠島体験に深く根ざしている」と書いている。「西郷の理想は明治革命戦争を戦い覚醒した革命兵士と,江戸時代の共同体を維持している農村とのコミューンだった」とも書いている。遠島とは、島流しのことである。西郷は奄美に二度も島流しになっている。ご参考まで。

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