Kuroshio 58
波濤を越えて航海すること
連絡船も大型化したフェリーボートが普通で、沖縄行きなどは横揺れ防止のスタビライザーまでついているから、よっぽど荒天でないと船酔いしない。船酔いは病気ではないから、陸に上がるとすぐ治ってしまうが、マグロになると言うぐらいに、体が動かなくなり、吐気を伴い、洗面器を抱えて食べ物を胃液と共に戻してしまう程つらい。飛行機の旅は、成層圏に出てしまえば、ジェット機の揺れは激しくはないから、狭い座席に縛られて血流が悪くなるエコノミー症候群の危険こそあれ、何とか我慢ができる。つい先の時代まで、遠島という刑罰があるほどに、先の島に送られることが永訣の隔たりになった。航海や気象観測の技術はもとより、造船技術と深い関わりがあり、日本近海の波濤を越えることに困難があった。
慈覚大師円仁は西暦八三八年に支那に渡り、日本に帰るまでの九年半の間に詳細な日記を残した[本稿の円仁の記録はエドウィン・O・ライシャワー『円仁 唐代中国への旅──入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)の研究』(講談社学術文庫)による]。その中から、航海に関する記述を抜き出し、日本の海との関わりについて考えてみたい。大唐帝国という巨大文明が日本に押し寄せる中で入唐した円仁の航海体験をなぞることは、現代のグローバリゼーションの人・物・カネが船や航空機で荒波のように押し寄せている本質を知るために必要である。円仁の日記に、支那の東部沿岸の通商交易と沿岸航海の詳しい記述が残る。円仁は、学問僧として遣唐使の一行に加わっているが、三回目の出立で揚子江の河口の北の浅瀬に打ち上げられるように辿り着く。淮河の河口から北へほど遠からぬ海岸の地点で、山東から楚州へ木炭を輸送している友好的な朝鮮商人に出逢っている。円仁は、そこから五台山に行き、更に長安の都に上る。ところが、仏教弾圧があり、国外追放となった。日本から、円仁を探すために性海という僧が派遣され、日本船が船出してしまったために、待っていた一隻の朝鮮の船に共に乗った。朝鮮半島の西と南の沿岸の沖の無数の島々を縫いながら、一五日間の航海の後、西日本の港に帰着している。
最古の日本から支那への使節は、西暦五七年の、漢の奴の国王の印を授与された使節である。次が一〇七年の後漢への使節団であり、三世紀の前半には、北魏を数回の使節団が訪れ、五世紀には、南京をも訪問している。遣隋使は、六〇七年に聖徳太子が小野妹子を団長として遣わし、三回使節団が送られる。六〇八年には、隋から答礼の使節が日本に来ている。日本は、中国皇帝との同格を主張しているから、六三二年に来日した唐の答礼使節は、皇室と口論を起こして怒って帰国したという。六五三年には、二組の使節が送られ、内のひとつは荒波に呑まれた。第三の遣唐使が六五四年に派遣され、第四の六五九年の遣唐使の一隻は、南に流され、大部分が蛮人に殺戮されている。他の船で支那に到着した一行は、唐が百済を襲う計画があって、日本は百済の味方だから、六六一年まで官憲に留置された。第五回の派遣が六六五年で、答礼の来日使節が同乗した。第六回の遣唐使船には、アイヌの漕ぎ手が乗り込んでいる。七○二年の団長は、粟田真人である。七一七年の遣唐使は、阿倍仲麻呂を含め総勢五五七人で、吉備真備と玄昉が加わり、十八年後に帰国している。吉備真備は七五二年に再度唐に渡り、二年後に鑑真和尚を連れてきている。阿倍仲麻呂は、日本に帰れず、科挙に合格して、唐の高官となって安南の総督となった。七七七年の遣唐使は、帰路海の藻屑となった。最澄と空海が乗船していた八○三年の遣唐使は翌年に渡ることが出来たが、円仁の加わった遣唐使が最後となり、菅原道真を長とする使節は中止され、十九世紀まで使節の往来は途絶えた。
遣唐使船の荷物の管理人として、知乗船事という役職があったが、六人のう
ち三人が大陸系の人物が務め、二人が百済の末裔、一人が後漢の皇帝の後裔だった。船中には、住吉大社の神様が祭られていた。船一隻当たり五、六人の朝鮮の水夫が乗り組み、総勢六〇人が雇われた。朝鮮人の通訳も乗り組んでいる。遣唐使船は倉橋島で建造されたにしても、当時の航海術において朝鮮人が日本人より遙かに優れていた証拠に、日本船四隻が全て損害を被ったが、九隻の朝鮮船は、全て無事に日本に到着して、また大陸に帰っている。円仁は、崔(チヨエ)という朝鮮人の持ち船が山東に有ることを記述している。長安の都の最も大勢の外国人は朝鮮人であることも記録している。張宝高(チヤング ポゴ)なる莞島(わんどう)を本拠とする新羅守備官の部下の張詠(チヤング ヨング)は深い水の底に潜ることを得意とした島者とあるから、済州島の海士(あま)を想像させる。新羅の朝鮮統一は、唐の庇護の下に行なわれ、百済は征服され、高句麗宮廷人は連行され、新羅から長安に毎年使節が遣られた。円仁の時代には、新羅が日本と支那との海路の制海権を抑えていた。朝廷は新羅に使節を送り、万一沿岸に日本船が吹き流されたときには援助
を与え、留置しないよう要請している。日本の航海者が倭寇(わこう)、海乱鬼(うみらぎ)として威を振うのは数世紀も後のことだ。 (つづく)
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