Kuroshio 62
巻き貝に象った江戸水路計画
明けて一月は西郷南洲生誕満184年になる。生年は文政十年十二月七日(1828年1月28日)。明治十年(1877年)九月二四日に没した。没年の二月二十五日には官位を褫奪(ちだつ)され、死後に賊軍の将となったが、明治二十二年(1889年)二月十一日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦があり、正三位を追贈され、名誉を回復した。上野公園の銅像は、没後二十一年経って明治三十一年十二月十八日に建立除幕式が行われている。現在大楠公像(明治三十三年完成。作者は西郷像と同じ)がある皇居外苑に建設が予定されたが、宮内大臣の許可も出たが一週間後には撤回され、江戸城の東の比叡山の役割の寛永寺境内の、当時は帝室博物館長が差配した敷地が定まった。銅像は、岡崎雪聲が米国で学んだ技術で鋳造している。立像は高村光雲、愛犬のツンは、馬の後藤と呼ばれる程に、動物を得意とした後藤貞行が制作した。発起人は吉井友実(ともざね)、朝旨で五〇〇円を下賜され、全国二万五千人余の有志の寄付金を加えて建立された。普段着姿をするような人ではなかったとの批評もあり、勝海舟が、銅像を建てて西郷が喜ぶだろうかと吐露したとの話もあるから、軍服ではなく犬を連れた姿で、風水断ちを避ける目くらましの鬼門の寛永寺の境内の端に皇城の方向を見据える姿で建立された像は、却って南洲、南の祈りの場所を意味する号にふさわしい場所に建立されたのである。西郷像は、台東区の文化財にも東京都の文化財にもなっていない。西郷は靖国にも祀られていない。西からの反乱として西南の役を予言して警戒し、西郷隆盛を評価しないばかりか、尊氏と嘲った長州の大村益次郎の銅像が、早々に明治二十六年に日本初の西洋式銅像として完成して靖国神社の境内に今に残るのは、歴史の皮肉である。
巻き貝の貝殻を耳に当てると海鳴りが聞こえる。螺旋状になった貝殻の中を空気が震動して伝わり、上等な音質を再生するスピーカーなどの構造は貝殻のようになっている。人間の耳自体が、貝殻を模した構造である。
江戸が、水路を巻き貝の螺旋状にして、内と外とが区別されずに広がりを持つ町並みになっていることが、古地図を眺めてよくわかる。現代の高速道路は、江戸城の堀を埋め立てて作られているから、日本橋あたりは、橋を覆い隠すように道路が空中を縦横に走る。吉野の金峰山寺の蔵王堂の廻廊に座像が残るが、天海上人が江戸の町を設計したとされる。市ヶ谷の釣り堀となった池も、赤坂見附の弁慶橋のボート池も、和田倉堀、馬場先堀、日比谷堀と一筆書きのようにつながっていた堀が、明治以降埋め立てられた。内堀と外堀の区別は、海の貝殻の螺旋状の水路であるから、裏も表も内も外も区別はない。東京丸の内は、明治に江戸を仮の都にした頃は東京駅はなく、新橋が停車場となっていたから、今の丸の内一帯が、陸軍の練兵場であったから、三菱財閥がその払い下げを受けて、お雇い外国人のコンドルの設計で一号館を建設したのは、明治二十七年のことである。レプリカで復元された三菱一号館の資料室には、明治の初めの東京駅が建設される前の地図が掲げられているが、そこには、岩倉邸、大隈邸、中山邸、万里小路邸、山縣邸などが、江戸城の周りに甍を連ねている。西郷が嫌った成り上がり者の邸宅街があった。外務省は、今の霞ヶ関の場所に当時からあったことが判る。東京大学や学習院が今の竹橋あたりにあって、近くに大隈邸があるのも興味深い。島津邸が、今の法務省近辺にある。英国公使館は全く場所が当時と変わらず、イタリアや、フランス、ドイツの大使館も、当時は、江戸城の周りにあったことは興味深い。
現代の地図は上が北の方角になっているが、江戸の古地図は上が西の方角を示している。西側からの風が江戸に入り込むように書かれているからだ。江戸から見る西には、富士山が有り、霊峰の気が貝殻の螺旋で集められる構図になっている。法螺貝の音を山々に響かせる方法は修験道につながるが、江戸の町も、西側は、富士山の浅間神社にまで江戸の町の賑わいが届けとばかりに、町並みが街道に沿って広がるようになっている。宮古島の大珊瑚礁地帯の八重干瀬(やいびし)で、採取されるゴーホラ貝が、人の腕輪として細工されたものが日本列島の各地で発掘されているが、山伏の法螺貝同様に南海の貝が交易の貴重な品となって、海鳴りや山鳴りの天変地異の兆候はもとより、町や村の賑わいやざわめきを聞き取る呪い(まじない)の方法に使ったのだろう。岡山の池田侯の後楽園を訪れたが、その名庭園は熊野大社の旧地のように高梁(たかはし)川の中洲にある。総社市美袋(みなぎ)の中洲に丹頂鶴が飛来する吉兆がある。梁(はし)も干瀬(ひし)に通じる。
螺旋状の水路を埋め、建築物の高度と容積の制限を緩和して、西郷銅像が見守る皇城の東の商店街の日本橋は高速道路で閉塞したが、北方は武道館があり、西側も半蔵門に開けている。かつて陸軍施設があった大手町や丸の内は、高層ビルを林立させて財閥村や外資店舗に急変している。菱は祈りの洲(ひし)に通じる名前だが、今では海潮音の気配を希薄にして、高層の財閥倶楽部やホテルの窓の皇城を覗き込むような横着は、殊更遺憾である。(つづく)
« True History to the Pearl Harbor | トップページ | Kuroshio Culture and Tradition »
この記事へのコメントは終了しました。
« True History to the Pearl Harbor | トップページ | Kuroshio Culture and Tradition »
コメント