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Freedom Betrayed: The Memoir of President Hervert Hoover and the Restoration of the Pride of Japan

昨年12月8日、憲政記念館で、史実を世界に発信する会が、開戦70周年にちなみ、「アメリカはなぜ対日戦争を仕掛けたのか」と題する講演会を開催した。講堂が満員になる盛況だった。YouTubeに掲載され、急逝したブロガーの花うさぎこと故安仲徹男氏が講演要旨をまとめた。①1951年5月3日、マッカーサー元帥は、上院軍事外交委員会において、「日本の真珠湾攻撃は正当な「自衛権」の行使と証言。②経済封鎖は戦争行為であることはパリ不戦条約作成者の一人であるケロッグ国務長官が上院軍事外交委員会で(真珠湾攻撃の13年前の12月7日)認めた。③日本本土爆撃計画が大統領に提出されたのは、真珠湾攻撃の5か月前の7月18日、OKのサインを7月23日にした。
蒋介石の米国人傭兵が操縦する350機の戦闘機と150機の爆撃機が大陸から日本各地に焼夷弾を投下する計画だったが、飛行機の引き渡しが遅れ真珠湾攻撃が先になった。戦争回避をめざす交渉打ち切りの通告が攻撃開始後に遅れた懈怠は糾弾されるが、最後通告を米側は傍受解読して読んでいた。1941年12月8日午後12時30分から、ルーズベルト大統領の米国議会の両院合同会議で演説して、「昨日、1941年12月7日、この永遠に汚辱(Infamy)に生きる日に、アメリカ合衆国は、日本帝国の海軍及び飛行部隊に突然、そして計画的に襲撃されました。」と、全米にラジオ放送したが、日本に対する先制爆撃計画については触れず、卑劣な騙し討ちとするリメンバー・パールハーバーの怒号のみが残った。1991年12月26日にABCが、バーバラ・ウォルターズ氏が司会する秘密爆撃計画についての特集テレビ番組を放送したが話題にならず、(YouTubeのhttp://youtu.be/C1cX_Fr3qyQ参照)日本爆撃計画の全貌が明るみに出たのは、戦争が終わって52年も経った1997年である。米陸軍航空隊シェノールト退役大尉がロークリン・カリー大統領補佐官等の支援の下で立案して、大統領の承認を得た計画の全貌が、アラン・アームストロング氏により2006年に出版され、塩谷紘氏を翻訳者として、2年後に「「幻」の日本爆撃計画―「真珠湾」に隠された真実(日本経済新聞出版社)として出版された。日本への先制爆撃計画「JB-355」を承認したルーズベルト大統領のサイン入り文書の写真が掲載されている。ちなみにカリー補佐官は、ソ連に機密情報を提供したとして1956年に米国籍を剥奪され、冷戦のさなかに南アメリカのコロンビアに亡命した人物である。ルーズベルト政権中枢に共産主義者が浸透していたことは、対ソ諜報活動をまとめた「ベノナ文書」で明らかにされている。
さて、昨年七月に田中英道教授の「戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」」(展転社)の出版も、日本が戦後政治の分水嶺を越えた証左である。戦時中の戦略情報局(OSS)文書が解禁され、戦後史の根本的な書き換えが始まり、同書は、ルーズベルト大統領が社会主義者で有り、親中反日に固まった人物で、日本の十八都市に原爆投下命令書にサインをしたこと、対日戦後政策が昭和17年には既に作成されており、フランクフルト学派に影響を受けたOSSがGHQの占領政策のお膳立てをしたとする。「従軍慰安婦」問題の発端がOSSの謀略にあるとし、野坂参三の帰国についてもOSSの後押しがあったと指摘して興味深い。近衛文麿がハーバート・ノーマンに殺されたと解説して、OSSが中国の共産化を成功させ、ケーディス大佐を中心とする民政局の心理作戦が戦後のメディアや社会風潮に残存してしまった、日本をドイツのように犯罪国家に仕立てた経緯を述べて、ソ連がビヒモスであったことをフランクフルト学派が追求しないことは世界を荒廃させた原因だと解説する。
さて、1948年の原著出版元のエール大学出版局に不買運動が起きて禁書同然に扱われた幻の名著、チャールス・A・ビアード博士の「ルーズベルトの責任ー日米戦争はなぜ始まったか」が、藤原書店からこの年末始に発売された。ルーズベルト大統領が米国を戦争に巻き込んだ張本人だと糾弾した大著である。
フーバー大統領の回想録「FREEDOM BETRAYED(裏切られた自由)」(ジョージ・ナッシュ編)が死後47年を経て昨年秋に出版された。戦後訪日し、マッカーサーと会談して「日本の戦争の全てが戦争をしたい「『狂気の男』の欲望によると指摘して、マッカーサーが同意した」等と記録していた。日本の近代史を書き換えを迫る新事実が続々と内外で公表され、東京裁判史観の混乱と原因を清算する時が来たようだ。
フーバー大統領の回想録は、957ページに及ぶ大部冊で有り、全文を読むことには困難があるが、その重要な部分を紹介する。
編者のジョージ・ナッシュ博士の経歴は、次のリンクのサイトに掲載されているが、英文であり、長文に渡るので、リンクを紹介するにとどめる。http://www.kirkcenter.org/index.php/nash/
フーバー元大統領は、終戦直後に、来日して、マッカーサー将軍と会見している。その会話記録のなかで、「太平洋における第二次世界大戦は、狂った男の戦争に入りたいという欲望から生じた結果であると直裁に述べたと記録している。狂った男とは、フランクリン・ルーズベルト大統領のことである。会見記録は、①米国は1941年に日本との戦争を回避できたこと②米国は、原爆を投下しなくても1945年に日本に勝利できたと、フーバー大統領が回想録に記録していることを裏付ける資料である。
第九文書と題する記録を仮に翻訳してみたい。
「日本
 1946年5月、4,5,6日  東京
私は、ダグラス・マッカーサー大将と、5月4日の夕方に3時間、5日の夕方に1時間、そして、6日の朝に1時間、サシで話した。

マッカーサーは、アジアの同盟国と南太平洋の全ての運命が大切な時期に補給が細って飢餓状態になっているとして、ルーズベルト大統領に対して苦々しく考えていた。マッカーサーは、ひとりあたり3トン半の補給を受けているが、北アフリカがひとりあたり14トンの物資の補給があったのに比べると非常に少なかった。
マッカーサーは、ルーズベルトは、いろんなやり方で 復讐心(vindictiveness)を示したと述べた。マッカーサーだけが、集団での意見交換の会合に呼ばれていなかった。ホワイトハウスのコラムニスト連中は、マッカーサーを卑下することが多く、(その点、ルーズベルトが、マッカーサーのことをマクレラン(南北戦争の時にリンカーン大統領に反対した軍人)と呼び、問題児と呼んでいたことを確認できる)。ホノルルでの意見交換会議があったときに、マッカーサーは、大統領との個別の会見は予定されていなかった。大統領の演説を起草を担当していたローズマンと海軍の連中が、海軍の指揮下で、北太平洋のルートで軍をすすめる計画を推した。そこで、マッカーサーは強硬に10分間、サシで大統領に会見をすることを要求している。マッカーサーは大統領とサシの会談で、もし、194年の選挙以前に進展があることを期待するのであれば、南ルートで、島伝いにフィリピンに侵攻することによってのみ、達成されると大統領に述べた上で、1944年の十一月にもフィリッピン上陸が可能であると進言している。マッカーサーは、ルーズベルトの関心を喚起して、承認を取り付けた。この会談の一部始終を、ローズマンは壁耳をして、聞き耳を立てていた。ルーズベルトは、ニミッツ提督が激怒したとされるが、海軍の提案を受け付けなかった。マッカーサーは、ニミッツが、自分を許していないと述べた。マッカーサーに寄れば、ルーズベルトが関心を持ったのは、自分自身の政治的な可能性だけで、優れた戦略を論じる観点からは、効果のない話であったとしている。
マッカーサーはフィリピンを取り返して以降は、いつでも日本と和平ができたと考えている。日本の軍事的なギャングどもは、自分たちを支えている足が切り落とされれば、敗北することを知っていたからである。しかし、ルーズベルト大統領は、日本に対して最後の詰めの行動を自ら指揮することをしないと決め込んでいた、とマッカーサーは言う。最後の(日本を降伏させる)式は、ニミッツ提督に行わせる手順であった。沖縄戦での被害が比較的に大きかったことが、そして、(1語単語が欠けている)トルーマン大統領に影響をあたえ、それに、世論が加わったことで、最後の決断が行われた。
私は、マッカーサーに対して、トルーマンにあてて1945年の五月半ばに、覚え書きを提出したことを紹介して、その内容は、日本と和平を達成することができれば、我々の主な目的は達成されるという内容であったことを伝えた。マッカーサーは、その通りが正しく、そうしていれば、すべての大損害、複数の原子爆弾、満州に対するロシアの侵入も避けることができたと述べた。
私は、日本の戦争の全体が、戦争に入りたいという狂人の欲望であったと述べたところ、マッカーサーも同意して、又、1941年七月の金融制裁は、挑発的であったばかりではなく、日本が、その制裁が除去されなければ自殺行為になったとしても、戦争をせざるを得ない状態に日本を追い込んだ。制裁は、殺戮と破壊以外の全ての戦争行為を実行するもので、いかなる国と雖も、品格を重んじる国であれば、我慢できることではなかった。マッカーサーは言葉を続けて、ルーズベルトは、1941年の九月に近衛と和平を達成できた筈だと述べ、そうすれば、太平洋と、中国の自由、そしておそらく満州の自由を確保するという米国の目標を全て獲得していたに違いない。また、マッカーサーは、近衛は、天皇から、完全撤退に合意することの承認をもらっていたと述べた。
マッカーサーは、ポーリーとFEC それに報復的なリベラルの連中は日本を破壊しようとしていると述べた。マッカーサーは、そのリベラルの連中の報告や態度については、感情を高ぶらせた。その一例として、ポツダムでの合意挙げて、マッカーサーは、建設的な計画であると言う対局の精神から作られたとした。マッカーサーは、日本が平和時の経済を取り戻して、産業を再構築すれば戦後の賠償を払うことができるが、そうでなければできないと、述べた。そうした理由で、必要なことは、武器の製造工場を破壊し、日本人を武装解除して、それを監視するための委員会を継続して、一時間くらい離れた島に飛行場の持つことであるとした。マッカーサーは、日本の軽工業あるいは重工業のいずれをも抑制することは必要ではないとして、現在工場施設を取り除くという脅しがあるために、産業再生に向けた行動ができない状況にあると述べた。
マッカーサーは、マーシャルが中国で成功する確率は、2千分の1であるとして、また、ソ連との交渉においてロシアの妨害を細部に亘って説明した。ソ連は、持続的に日本ジャップに政治宣伝をおこなっており、日本の捕虜の間で共産主義の学校を作り、日本に浸透作戦を行っている。もし、日本の生活水準が低下して重い賠償金が課せられることになれば、日本は、自由を求めて、又ロシアの保護を求めるために共産化する可能性があり、アジアにおける共産主義の潮の流れに対抗して、日本から太平洋に広がる思想的なダムを造ることが必要だと述べた。
迅速に止めなければ、ソ連は満州国に傀儡国家を作る可能性があるが、軍事手段を持って阻止するのではないと、マッカーサーは考えている。

一般的に言って、マッカーサーは、太平洋における戦争の結果について悲観的な見方をしている。
私は、マッカーサーに対して、米国内で、1948年の大統領選挙の立候補になることを期待する向きが多いとのべて、自分もマッカーサーが当選することを信じるとのべたところ、マッカーサーはその気がないとのべたので、そうだろうと結論づけた。
本国アメリカでは、道徳的なそして政治的な退化現象が大きくなっており、不満や、極度の華美、賭博などが、大きくなっていると述べて、1946年の選挙のあとの適当な時に、帰国して米国国民の評価を受けるためには、道徳問題と、政府、そして外国との関係の三つの課題についての演説会を行うことができれば、洗者聖ヨハネのようにアメリカが必要とする人物になることができるとのべたところ、マッカーサーは、何時が適当な時期なのか教示して頂ければ、実行に移そうと述べた。マッカーサーは、30年から32年までの、我々の関係について同情的にに述べ、更には、マッカーサーが、(フーバーの)準備計画を防御する為に、ルーズベルトとの確執が起きた最初の理由であったことや、ルーズベルトがその計画の削減のためにいかにこだわったかなどについて縷々述べた。私が、日本人のための食糧計画に反対するのではないかとおそれていたらしく、マッカーサー将軍の部下から提案されていた、栄養の最低を千キロカロリーにすることに賛成ことに感謝した。その数字は、生存するためには低い数字であるガ、それまでは、もっと以上の栄養がとれないと失望状態にあったからである。
マッカーサーの部下の一ダースくらいの数の人と、戦争と平和、日本経済、アジアの諸問題について意見を交換した。彼等の心を占めていたのは、ロシアの脅威であった。だから、日本を訪れていた空軍の司令官のひとりは、私に真剣な顔をして、90日以内に戦争にならないだろうかと尋ねてきた。空軍の組織をガラガラにしたばかりの時だったから、早く、何とか空軍の組織の立て直しをしなければならないと考えたらしい。私は、大丈夫だ、ロシアは、収穫時期を過ぎなければ戦争を起こさない(時は五月で、北半球の秋の収穫の時期は八月か9月である。)、答えておいた。
注。マーシャルは、中国で国民党と共産党を和解させるために訪中していたし、統一中国を造ることをめざしていた。ポーリー(Edwin A. Pauley)は、トルーマンが任命した人物で、ヨーロッパではドイツの賠償についてのアメリカ代表を務め、日本と、ソ連が占領した朝鮮と満州の日本の財産についての米国の賠償問題に関する代表団の団長を務めた。)
フーバー大統領の回想録の最後の章が、失われた政治家道と題して、七年間のうちに19回の大失敗があったとする。原稿は、1953年に執筆されたとされるが、「私は、戦争に反対して、その戦争に関するあらゆる政策に反対した」と書き、しかも、「言い訳をすることもなく、残念に思うこともない」と、ルーズベルトとトルーマンの外交政策を強烈な口調で糾弾している。
仮の訳を続けてみよう。
「この世に惨害をもたらしたのは、スターリンとヒトラーだとして、しかも悪魔の様な人物であるから、いかなる検証も要しないとして非難する一方で、トルーマンとルーズベルトを擁護する向きがある。しかし、米国と英国の政治家の失われた政治家道を見直してみれば、スターリンとヒトラーに対処するに当たって大失敗をしたことは明らかで言い訳の余地がなく、こうした大失敗がなければ、西側世界に大災害をもたらすこともなかった。混乱する状況のなかで、誰に責任があり、何時、何の失敗があったのかを読者が忘れないように記録することとして、具体的な事実とその理由を、この回想録のなかで、詳述している部分に言及して読者のその章を紹介することとする。

1933年の世界経済会議
ルーズベルト大統領が国際的な政治家道に失敗した最初の重要な事例である。世界経済会議は、英国のマクドナルド総理大臣と当時の大統領の私が準備した会議で、1933年一月に開催を予定していたが、ルーズベルトが破壊した。ルーズベルトが選挙にかって、6月に開催を延期した。その時丁度世界は、世界的な不況から経済の回復基調にあったが、一方で通貨戦争があり、貿易障壁を増加させる戦争があった。準備作業が専門家の手によって進められ、ワシントンに十人の総理大臣が集まって、国際決済に金標準を用いることに合意した。それにもかかわらず、会議の最中にルーズベルトは翻意して、金本位制の導入にひびを入れたために、会議は不調となり、達成する結論がなく死んでしまった。ルーズベルトの国務長官であったハルは、この会議の失敗が第二次世界大戦の根っこにあるとして、ルーズベルトのとった行動を表にだして非難している。

ルーズベルトの第二の失策が、共産ロシアを1933年11月に承認したことである。四人の大統領と、五人の国務長官にわたって、共和党か民主党かを問わずに、そのような承認行為を、(国際共産主義運動の北。目的と手法の全体を知った上で)ずっと拒否してきた。宗教の信仰や人間の自由とを失わせ、民族や国家の独立をぶちこわすような黴菌を運ぶように、アメリカに浸透してくることを知っていたからである。米国が共産ロシアを承認すれば、ソ連の威信と国力が高まることを知っていた。ルーズベルトが合意したのであるが、共産主義は、米国の国境の内側では活動しないという、狡猾な合意が約束されたが、その約束は守られることはなく、48時間後には反故にされた。共産主義の機関車と、それに乗った共産主義の乗客が、政府と高いレベルに入り込み、第五列の活動がアメリカ全土ににひろがり、大統領であった12年間の長きに亘って、反逆者の行為が続いた。

Munich

Third. I am not disposed to condemn the agreement at Munich September 1938 for transfer of Sudeten Germans to the Reich because it was a hideous heritage from Versailles which made such action inevitable. However, by Munich  Hitler opened the gates for consummation of his repeated determinations to invade Russia. Having gone that far in providing for the inevitable war between the dictators, the lsot statesmanship was then trying to stop these monsters from mutual destruction.
つまり、ヒトラーとスターリンという二つの怪物が戦ってつぶし合いになることが不可避の状況にあったのに、政治家道を失った者は、そのつぶし合いを止めることに努力したのである。
第四の失敗は、イギリスとフランスとが、ポーランドとルーマニアの独立を1939年に 保証したことである。その時点で、これまで、ヒトラーとスターリンとが戦うことが避けられない状況で在って、その際ヨーロッパの民主主義国は介入しない方針をとっていたのであるが、その方針が変わったのである。
これは、ヨーロッパ外交史のなかでも、力関係の外交を見た場合に、歴史上最大の失策であった可能性が高い。イギリスもフランスも、ポーランドを侵略行為から救い出す力がなかったのにもかかわらず、この保証をすることで、ヒトラーとスターリンとの間に、民主主義の体制を餌食のように投げ出すことになった。
スターリンをヒトラーから守ることになったばかりか、スターリンの影響力を、一番高く買った者に売ることができるようになったのである。スターリンは、バルト海諸国と東ポーランドを併合した。スターリンは、ヒトラーから獲物をうばったのである。ヒトラーは、南東ヨーロッパに拡張して、モスクワの共産党の本山を破壊することを放棄したわけではなかったので、まず、前進するためには、西側の民主主義国の中立化をする必要があった。第二次世界大戦の長い汽車がこの、ポーランドの保証という過ちから、発車することになった。ルーズベルトが係わったことは確かであるが、どの程度の関与であったかを確定するには、資料が不完全である。チャーチルは、政権をとっていなかったが、ミュンヘンでヒトラーと妥協してチェンバレンがめちゃくちゃな行動に出ることに貢献した。
第五の誤りは、41年の冬にルーズベルト大統領が、米国がドイツと日本に対して、宣戦をしないで戦争を始めた。これは、数週間前の選挙の約束に全面的に違反する行為であった。1940年の大統領選の公約に違反するものであった。
Failure in Watchful Waiting
Six. In the weeks before Lend-Lease and its war powers were forced upon the American people, Roosevelt knew definitely of Hitler's determination to attack Russia, and he informed the Russians of it. He should have turned away form the undeclared war on Germany, confined Lend-Lease to simple aid to Britain by way of finances, to buy munitions, supplies and ships, thus keeping within international law. Statesmanship at that moment demanded imperiously a policy of watchful waiting.
ルーズベルト大統領は、ヒトラーがロシアを攻撃することを知っていて、ロシアに情報を提供もしていた。ドイツに対する宣戦布告無き戦争を回避するべきであった。貸与法においても、イギリスに対して、金融の方法で、武器を、そのほかの物資や、船舶を購入するとか、国際法を遵守すべきであった。つまり、政治家道は、その事態のなかで、注意深くじっくり待つ政策をとることが必要であった。
アメリカの歴史の全史を通じてもっとも政治家道が失われたのが、ヒトラーがロシアを1941年に攻撃したときに、共産ロシアをを援して、アメリカとロシアが非公然の同盟関係になったことである。ブリテンを救うにはアメリカの軍事力が必要であるとする考え方は例え誤った理論であったにしても、どこかに消えてしまった。
ロシアを米国が支援すると言うことは、共産主義が世界に広がることであった。
ドイツとロシアの戦争に米国は巻き込まれるべきではなく、平和が持続するという最大のチャンスがあったのであるが、それをルーズベルト大統領は、その機会を無視して捉えることができなかった。
いよいよ、フーバーの回想録は、日本について言及を始める。第8番目の大失態として、1941年7月の日本に対する経済制裁に言及する。圧巻である。原文は僅か五行に整理されている。太平洋での日本の戦争は、自衛の戦争だったのである。7月の全面経済制裁は、弾を撃たない戦争であった。戦争を仕掛けたのはアメリカのルーズベルト側であったと、フーバー元大統領は回想録にまとめて書いている。

「第八、第8番目の、ルーズベルトが犯した壮大な誤りは、1941年7月、つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその一ヶ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが本質的には戦争であった。ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三に亘って、そんな挑発をすれば遅かれ早かれ(日本が)報復のための戦争を引き起こすことになると警告を受けていた。」

念の為、回想録の原文を掲げることにしよう。上記の日本語訳は仮の、しかも素人の翻訳であるから、誤解をさけるために。

「Eighth. The eighth gigantic error in Roosevelt's statesmanship was the total economic sanctions on Japan one month later, at the end of July, 1941. The sanctions were war in every essence except shooting. Roosevelt had been warned time and again by his own officials that such provocation would sooner or later bring reprisals of war.」

ハーバート・フーバー元大統領の回想録は続く。
第9番目の失敗が、ルーズベルトが近衛総理大臣の和平の提案を受け入れ拒否したことであると書く。
Ninth. The ninth time statesmanship was wholly lost was Roosevelt's contemptuous refusal of Prime Minister Konoye's proposals for peace in the Pacific of September, 1941.
The acceptance of these proposals was prayerfully urged by both the American and British Ambassadors in Japan.
この和平の提案を受け入れられることを、日本に駐在するアメリカの大使もイギリスの大使も、双方が祈るが如く、和平提案の受け入れを促すものであった。
The terms Konoye proposed would have accomplished every American purpose except possibly return of Manchuria--and even this was thrown open to discussion. The cynic will recall that Roosevelt was willing to provoke a great war on his flank over this remote question and then gave Manchuria to Communist Russia.
近衛が提案した条件は、満州の返還を除く全てのアメリカの目的を達成するものであった。しかも、満州の返還ですら、交渉して議論する余地を残していた。
皮肉に考える人は、ルーズベルトは、この重要ではない問題をきっかけにして自分の側でもっと大きな戦争を引き起こしたいと思い、しかも満州を共産ロシアに与えようとしたのではないかと考えることになるだろう。
以上が、フーバー回想録に Refusal to Accept Konoye's Peace Proposals との題で記録されている。

近衛文麿は、昭和20年12月16日未明に自決したときの「遺書」に、「僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。これに対して深く責任を感じておるが、いはゆる戦争犯罪人として米国の法廷に置いて裁判を受けることは堪へ難いことである。殊に僕は支那事変に責任をかんずればこそ、此事件解決を最大の使命とした。そして、此解決の唯一の途は米国との諒解にある徒の結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から今犯罪人として使命を受ける事は、誠に残念に思ふ。しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへそこに多少の知己が在することを確信する。戦争に伴ふ興奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に基づく流言飛語と是等輿論なるものも、いつか冷静さを取り戻し、正常に伏するときも来やう。是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されやう。」と書いた。
Tenth. The tenth loss of statesmanship was the refusal to accept the proposals which his Ambassador informed him came from the Emperor of Japan for a three months' stand still agreement in November, 1941. Our military officials strongly urged it on Roosevelt. Japan was then alarmed that Russia might defeat her ally, Hitler. Ninety days' delay would have taken all the starch out of Japan and kept war out of the Pacific. As the Stimson diary disclosed, Roosevelt and his officials were searching for a method to stimulate an overt act from Japanese. Then Hull issued his foolish ultimatum and were  defeated at Pearl Harbor. The train of losses and this Japanese victory in the Japanese occupation of all South Asia were incalculable. Further, with loss of sea control , Hitler and Togo were able to destroy our shipping in sight of our own shores.
最後のTogoは、文脈からして、Tojoのミスプリと思われるが、回想録の内容としては極めて重要な内容である。
フーバーの回想録は、昭和16年の11月に, 天皇陛下が3ヶ月間のスタンドスティル、すなわち冷却期間をおこうとの提案を、駐日の米国大使を通じてされたが、ルーズベルトはこの提案をも拒否したと書いている。米国の軍事担当も、冷却期間の提案を受け入れるべきであるとルーズベルト大統領に促している。当時、日本はロシアが、同盟関係にあったヒトラーを打倒する可能性を警戒していたのである。九十日の冷却期間があって、(戦端開始の)遅れがあれば、日本から全ての糊の部分を取り去ることになって、太平洋で戦争する必要を無くしたに違いない。スティムソンの日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその幕僚は、日本側から目立った行動が取られるように挑発する方法を探していたのだ。だから、ハルは、馬鹿げた最後通牒を発出して、そして真珠湾で負けたのだ。損害がどんどん発生して、南アジアでの日本の占領で日本が勝利することは、計算できなかったのだ。更には、制海権を失って、ヒトラーと東条が、米国の海岸が見えるところで、アメリカの船舶を破壊することができるようになったのである。

フーバー回想録の原本の879ページに掲載されている。昭和16年の11月の土壇場で、三ヶ月の冷却期間の提案が日本から行われたとの記述がある。上記の翻訳は素人の翻訳であるので、万一間違いもある可能性があるが、例えば、taken all the starch out of Japan のスターチとは何かよくわからない。慣用句であろう。英語と翻訳の専門家のご意見を頂戴したい。

徳富蘇峰は、昭和17年3月8日東京日日新聞に「日本が七重の膝を八重に折って、提携を迫るも、昨年(昭和十六年)8月近衛首相が直接協商の為に洋上にて出会せんことを促しても、まじめに返事さへ呉れない程であった。而して米国、英国・蒋介石・蘭印など、いわゆるABCDの包囲陣を作って蜘蛛が網を張って蝶を絞殺するが如き態度を執った。而して、彼等の頑迷不霊の結果、遂に我をして已むに已まれずして立つに至らしめたのだ。」と書いているが、ようやく、フーバー大統領の回想録が、70年の時間が経って、徳富蘇峰のその言論がアメリカ側からも裏付けられたと感じる次第である。

第11番目のルーズベルトの壮大な過ちは、1943年1月のカサブランカにおいて、無条件降伏を要求したことである。米軍の助言も、チャーチルの助言も聞き入れずに、新聞の一面の見出しを狙った。敵の軍事作戦と宣伝担当の耳に入って、ドイツ、日本、イタリアとの戦争を長引かせた。ところが、実際の戦争の終わりには、日本とイタリアには、譲歩したのである。ナチスをなくさない限り、平和はないとしたから、ドイツの和平への希望を失わせただけであった。戦争を徹底して遂行したために、ドイツを再建する構造となる基礎も破壊してしまった。
第12番目の過ちは、1943年10月のモスクワでの外務大臣会合で、自由とか民主主義の用語が飛び交うなかで、ロシアが、バルト海諸国、東ポーランド、東フィンランド、ベッサラビア、とブコビナの併合(是はヒトラーが合意していた)に抗議の声が上がらなかったことである。この沈黙は、大西洋憲章における四つの自由の最後の一つを放棄するものであった。

Twelfth. The twelfth error of lost statesmanship was the sacrifice of free nations at the Foreign Ministers meeting at Moscow, in October 1943. Here amid words of freedom and democracy not a word of protest was made against the known Russian intentions to annex the Baltic States, East Poland, East Finland, Bessarabia and Bukovina(which he had in his agreement with Hitler). This acquiescence marked the abandonment of the last word of Four Freedoms and the Atlantic Charter.

第13番目の間違いで有り、ルーズベルトとチャーチルとがふらついて一番混乱した例のひとつが、1943年12月のテヘランでの会議である。ここで、第12番目の失敗であるロシアによるバルトか諸国などの併合が確認され、スターリンが、友好的な「国境の諸国」と名付けた、傀儡政権の七カ国を認めたことである。国際的な道義と独立の約束と、自由な人間として、スターリンに対して反対すべきであった。それまで、こうした併合に対する合意や、沈黙と妥協をスターリンと行うことが必要であるほどの、軍事的な危険は無かったのである。
Teheran and Its Sacrifice of Seven More Nations
Thirteenth. The thirteenth and possibly one of the greatest of all confused wanderings in Roosevelt's and Churchill's statesmanship as at Teheran in December, 1943. Here was confirmation of the acquiescence at the Moscow Conference of the annexations; here was the acceptance of Stalin's doctrine of a periphery "of friendly border states"--the puppet Communists governments over seven nations. Fidelity to international morals and their own promise of independence of nations and free men demanded that Roosevelt and Churchill at Teheran stand firm against Stalin once and for all. There were by this time no such military perils of Stalin's making a separate peace that could justify these agreements, acquiescence and appeasements.

ルーズベルトとチャーチルは、致命的な間違いを1945年2月のヤルタで犯した。
スターリンが12の国々の独立に対して干渉を加えることを追認しただけではなく、数世代に亘って国際関係に危険をもたらす世界に害を与えるような、悪い勢力の動きを助長するような秘密の協定が多数結ばれた。スターリンが傀儡の国家を七つ作ったことを知りながら、自由で妨害されないとか、全ての自由な人士の参加とか、言葉を繕って、スターリンの暴虐に水を差さないで隠蔽した。
テヘランに於いて、軍事的な観点から妥協をしたことを最も強力に主張した向きも、ヤルタでは、そうした主張もなかった。アメリカの手が汚されずに自由な人間から尊敬される国として存続するのであれば、自由な人類と品性の為にも何か一言反論をすべきであった。
これでもかと、日本は和平をもとめる。1945年の5月、6月、7月と、日本は白旗を掲げて和平を求める打診をしてきたが、トルーマンはこれを拒否した。トルーマンは、ルーズベルトの無条件降伏の愚かな条件に従う義務は無かったのである。ヨーロッパの軍事指導者が(日本との和平に反対して)認めなかった。日本との和平はただひとつの譲歩で達成できた。精神世界でも、日本国家としても元首である天皇(みかど)の保全と言う一点であった。天皇の地位は、千年以上の信仰と伝統に基づくものである。米国側が、最終的に受け入れたのは、数十万の人命が犠牲になった後であった。

Refusal of Japanese Peace Proposals of May-July、 1945
Fifteenth. The fifteenth time of lost statesmanship was in retrospect to Japan in May, June and July, 1945. Truman refused to take notice of the Japanese white flags. Truman was not obligated to Roosevelt's "Unconditional Surrender" folly. It had been denounced by our own military leaders in Europe. Peace could have been had with Japan with only one concession . That was the preservation of the Mikado who was the spiritual as well as secular head of the state. His position was rooted in a thousand years of Japanese religious faith and tradition. And we finally conceded this after hundreds of thousands of human lives had been sacrificed.
ポツダムにおけるトルーマンの過ちが、第16番目の過ちである。民主主義国では、経験の無い人物に政権が渡され、共産主義者が、重要な糸が繋がるようにして色々な場所に出現した。ポツダムでの合意の全てが、スターリンに対して降参したことを追認したり、拡大することであった。共産主義者の併合と傀儡政権がスターリンとより繋がりが強化されたばかりではなく、ドイツとオーストリアの一部がスターリンの懐に入ってしまうような政府の条項となった。賠償政策は、米国の納税者の負担が怠け者のドイツの救援の為に使われる結果をもたらし、ドイツだけではなく、ヨーロッパの再興のために、数十億ドルのカネが使われることになった。戦争捕虜が奴隷のようになり、自らの土地から民族追放が行われることが批准され、ヤルタでのそうした愚策が拡大された。是に加えて、指導者の人々の忠言に反して、日本に無条件降伏の最後通牒が出されたことである。アメリカの経験のある複数の人々が声をあげて勧告した、天皇(みかど)を維持することを許す救済条項を入れないで、無条件降伏を要求したことである。日本側は、回答として、この条件のみを求めたが、原子爆弾を投下した。そして、最後になって、この条件を受け入れた。

Sixteenth. The sixteenth time of blind statesmanship was Truman at Potsdam. Power had now passed to inexperienced men on the democratic countries and the Communists had their way at every consequential point. The whole Potsdam agreement was a series of ratifications and amplifications of the previous surrenders to Stalin. Not only were all the Communist annexations and puppets further cemented to Stalin but the provisions as to governments in Germany and Austria were so set as to send parts of these states into Stalin's bosom. The result of reparations policies was to load the American taxpayers with billions of the cost for relief of idel Germans and stifle the recovery of Germany and thus of Europe for years. The wickedness of slavery of war prisoners, the expelling of whole peoples form their homes was ratified and amplified from Yalta.
Beyond all this, against advice from leading men, the ultimatum was issued to Japan of unconditional surrender without the saving clause allowing them to retain the Mikado recommended by a score of experienced American voices. The Japanese、 in reply、 asked only for this concession , which was met with the atomic bomb--and then conceded in the end.
第17番目のアメリカのさまよえる政治家道は、トルーマンが日本人の上に原子爆弾を落とす命令をするという非道徳な命令をしたことである。日本は繰り返して平和を求めていたにもかかわらず、アメリカの全ての歴史のなかで、他に比較すもののない残忍な行為であった。アメリカの良心にとって、永久に重くのしかかるであろう。
Seventeenth. The seventeenth wandering of American statesmanship was Truman's immoral order to drop the atomic bomb on the Japanese. Not only had Japan been repeatedly suing for peace but it was the act of unparalleled brutality all American history. It will forever weigh heavily on the American conscience.

フーバー大統領の回想録の、日本に対する原爆投下の評価である。二度と天知を繰り返してはならないのが、どちらの側かは、歴然としている。廣島の慰霊碑のいしぶみは書き換えるべきではないだろうか。
トルーマン、マーシャルとアチソンが中国に関して、その政治家道を失った第18番目の事例である。ルーズベルトが、蒋介石が共産党と合作することにこだわって、中国に関する裏切りの秘密協定がヤルタでできて、モンゴルと、その結果として、満州をロシアに渡すことになった。トルーマンは、側近の左翼の顧問が強くこだわったことを、マーシャル将軍が、その側近連中の意向を実行する為に任命したことから、全ての中国を犠牲にすることになった。マーシャル将軍は、そうした政策を通して、政治家道が失われて、トドのつまりは、4億五千万のアジアの人々をしてモスクワ傘下の傀儡政権にしてしまったことが、毛沢東に中国をあげてしまった壮大な過ちとして評価されなければならない。

モスクワ会議、テヘラン会議、ヤルタ会議、そしてポツダム会議を通じて、中国に係る政策は、第三次世界大戦を引き起こす可能性のある竜の歯が、世界の至る所にばらまかれた。何年も「冷戦」が続き、朝鮮戦争が勃発し、アメリカが再度敗北してしまう可能性のある恐れのある、北大西洋同盟が弱々しく成立した。
The Dragon's Teeth of World War III
Nineteenth. From Moscow the Teheran, Yalta and the Potsdam Conferences, the policies as to China, the dragon's teeth of a third world war were sown in every quarter of the world and were to see "the cold war" over years and finally the hideous war in Korea and the feeble North Atlantic Alliance with all its dangers of American defeat again.
米中の対立の可能性と第三次世界大戦の可能性についても言及している。
以上がフーバー回想録にまとめられた、19の失敗例であるが、それは日本の名誉回復にも繋がる内幕に言及している。
賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶと言うが、このフーバーの回想録は、47年の長きに亘って隠されてきた。今回スタンフォード大学から出版されたのであるが、それが公開されたこと自体に、やはり理由があるものと考えられる。米国の戦後体制制も虚構の上に立てられており、戦争に敗北した日本も、自信を喪失したばかりではなく、歴史を書き換えられて、真実が隠匿されてきた感を免れない。「勝者」であったはずのアメリカ側で、こうした「Statesmanshipからすれば敗北」したとする回想録が出たことは、虚構の修正が求められていることを示すものである。
ちなみに、フーバーが激しく糾弾する19の過ちについて、英文で再掲するので、玩味熟読して見ることが必要である。日本の正統性が回復する可能性が高い。日米関係にとって重要なことであり、特に日米間ののど仏に刺さった骨を取り取り去ってしまう可能性がでてきた可能性がある。日本の経営者団体などが、率先して翻訳を行うことが必要であるが、残念ながらそうした見識が見当たらない現状であるが、企業内の特に海外の事業所の幹部などに、一読を勧める価値がある。
下記の記事はご参考まで。EDITOR’S NOTE: This article is adapted from Freedom Betrayed: Herbert Hoover’s Secret History of the Second World War and Its Aftermath, edited and with an introduction by George H. Nash, included below (Hoover Institution Press, 2011).
In November 1951, a public-relations executive named John W. Hill met Herbert Hoover at a dinner in New York City. It was an unhappy time in the United States, especially for conservative Republicans. Abroad, the Korean War had turned into a bloody stalemate that Pres. Harry Truman’s administration seemed unable to end. Earlier in the year, the president had abruptly dismissed Gen. Douglas MacArthur, a conservative hero, from America’s Far Eastern military command, to the consternation of Hoover and millions of others. At home, Truman’s liberal Democratic administration was under furious assault from conservative critics of its policies toward Communist regimes overseas and Communist subversion within our borders.
How quickly the world had changed since the close of the Second World War a few years earlier. Then the future had seemed bright with promise. Nazi Germany and imperial Japan had been crushed; fascism as an ideology had been discredited; the birth of the United Nations had appeared to presage an era of global peace. Now, a mere six years later, in Asia and along the Iron Curtain in Europe, a third world war — this time against Communist Russia and China — seemed a distinct possibility.
“Mr. Hoover,” said Hill that November evening, “the world is in one hell of a mess, isn’t it?”
“It certainly is,” Hoover replied.
“It has always occurred to me,” Hill continued, “that we are in this mess because of the mistakes of statesmen. Somebody ought to write a book [on the subject] like [E. S. Creasy’s] ‘Fifteen Decisive Battles of the World’; I think it would be a classic.”
“You are absolutely right,” Hoover responded. “That should be done, and I am going to tell you what should be the first chapter.”
“What is that?” asked Hill.
“When Roosevelt put America in to help Russia as Hitler invaded Russia in June, 1941. We should have let those two bastards annihilate themselves.”

Hill was delighted. “That would be a great book. Why don’t you write it, Mr. Hoover?”
“I haven’t the time,” Hoover countered. “Why don’t you write it?”
What Hill did not know — and what Hoover, that evening, did not tell him — was that for several years Hoover had been at work on a book with a similar theme: a comprehensive, critical history of American diplomacy between the late 1930s and 1945, with emphasis on the misguided policies of President Roosevelt. It was a volume in which the Roosevelt administration’s wartime alliance with the Soviet Union would be subject to withering scrutiny.
Twenty years later, in 1971, in a conversation with an interviewer, Hill lamented that no one had ever written the book he had once proposed to Hoover on “The Fifteen Decisive Blunders of Statesmen.” “I have always wished somebody would do it,” he added. “It would be controversial because every one of the decisions the author stated would cause trouble, would cause somebody to come up and defend it, and the book would sell like hotcakes.”
What Hill did not realize was that nearly eight years earlier Hoover had completed his own book of diplomatic blunders. Unlike the scattershot collection of essays that Hill had envisaged, Hoover’s tome was tightly focused. Originally conceived as the section of his memoirs that would cover his life during World War II, the “War Book” (as he called it) had morphed into something far more ambitious: an unabashed, revisionist reexamination of the entire war — and a sweeping indictment of the “lost statesmanship” of Franklin Roosevelt.
Hoover ultimately entitled his manuscript Freedom Betrayed. More informally, and with a touch of humor, he and his staff came to refer to it as the Magnum Opus. The label was apt. For nearly two decades, beginning in 1944, the former president labored over his massive manuscript, producing draft after draft, “edition” after “edition.” He finished the final version (save for some minor editing and additional fact-checking) in September 1963 and prepared in the ensuing months for the book’s publication. Death came first, on Oct. 20, 1964. A little over two months earlier, he had turned 90 years old.
After Hoover’s passing, his heirs decided not to publish his Magnum Opus. Since then, for nearly half a century, it has remained in storage, unavailable for examination.
This volume, Freedom Betrayed — in its final, author-approved edition of 1963–64 — is the book that is now in your hands. It is published here — and its contents thereby made available to scholars — for the first time.
FROM THE INTRODUCTION BY HERBERT HOOVER (CIRCA 1963)
The Pilgrims landed on this continent bringing with them the vital spark of American life — freedom. Since then, there have been four times when freedom has been dangerously near the tragedy of defeat:
The War of the Revolution
The War between the States
The Second World War
The Cold War
Statesmanship brought expanded liberty from the Revolution and the Civil War. The nation grew to strength and to prosperity unknown in all human history.
In the Second World War, we, with our allies, crushed militarily the forces of Nazism and Fascism. But we have no peace. During the war one of our allies, Stalin, expanded the Communist dictatorship and empire of Russia to endanger freedom in the whole world. We are now deeply involved in the “Cold War,” which imperils our very existence.
To protect our own freedom — in this, in reality a third world war — we must carry the major burden of defending the free nations of the world. This burden itself imperils our future.
The purpose of this memoir is to analyze step-by-step when, where, how, and by whom we were plunged into the Second and Third World Wars, with the resulting betrayals of freedom. I will likewise record those who warned against and opposed these ominous decisions which led to this turning-point in civilization.
In this memoir I will omit views of my own as to what took place. I will demonstrate the truth from the words and actions of world leaders themselves, and the documentation which has come to light.
From a true record of human experience alone may come the understanding which can guide our future.
Even today important segments of the American people and American leadership are not fully aware of the menace to freedom which lies in socialism and other forms of centralized government.
At the outset of this work I wish the reader to be under no misapprehension as to my position upon America’s joining the Second World War.
[EDITOR’S NOTE: The following passages come from the final, climactic pages of the last chapter (89) of the 1953 version of Hoover’s Magnum Opus. These pages were probably written very early in 1953, not long after the presidential election of 1952. In this chapter, Hoover summed up, with remarkable candor and intensity, his revisionist indictment of the Roosevelt-Truman foreign-policy record.]
CHAPTER 89: A REVIEW OF LOST STATESMANSHIP — 19 TIMES IN SEVEN YEARS
There are those who still defend Roosevelt and Truman by blaming Hitler and Stalin for all the calamities which have come upon the world. That they were malignant and malign figures in human history needs no demonstration.
Any review of American and British lost statesmanship in dealing with them, however, has no excuse in history. Without these gigantic errors these calamities could not have come to the Western world.
I shall list those major occasions here lest the reader, in this maze of actions, has forgotten who was responsible for what and when. I refer the reader to those chapters in this memoir where the facts and reasons for their conviction are given.
THE WORLD ECONOMIC CONFERENCE OF 1933
The first time (of importance) that Roosevelt became lost in international statesmanship was his destruction of the 1933 World Economic Conference. This Conference was arranged by British Prime Minister [Ramsay] MacDonald and myself to take place in January 1933. Owing to the election of Mr. Roosevelt it was postponed until June. At that time the world was just beginning to recover from the world-wide depression but was engaged in bitter currency wars and multiplying trade barriers. The preliminary work had been done by experts. Roosevelt called ten prime ministers to Washington with whom he agreed to restore the gold standard in international transactions. Suddenly during the Conference he repudiated (“the bombshell”) these undertakings and the Conference cracked and died without accomplishment. His own Secretary of State Hull explicitly denounced this action as the roots of World War II.
THE RECOGNITION OF COMMUNIST RUSSIA IN 1933
Roosevelt’s second lost statesmanship was in recognition of Communist Russia in November 1933. Four presidents and five secretaries of state — Democrats as well as Republicans — had (with knowledge of the whole purpose and methods of international Communism) refused such action. They knew and said the Communists would be able to penetrate the United States, carrying their germs of destruction of religious faith, freedom of men, and independence of nations. They considered our recognition of Soviet Russia would give it prestige and force among other nations. All of Roosevelt’s puerile agreements with them that they would not deal in their wickedness within our borders were on the record repudiated in less than 48 hours. A long train of Communists and fellow travelers were taken into the highest levels of administration, fifth-column action spread over the country, with a long series of traitorous acts during his remaining 12 years in the presidency.
MUNICH
I am not disposed to condemn the agreement at Munich in September 1938 for transfer of Sudeten Germans to the Reich because it was a hideous heritage from Versailles which made such action inevitable. However, by Munich Hitler opened the gates for consummation of his repeated determinations to invade Russia. Having gone that far in providing for the inevitable war between the dictators, the lost statesmanship was then trying to stop these monsters from mutual destruction.
THE BRITISH-FRENCH GUARANTEE OF POLAND AND RUMANIA IN 1939
The fourth abysmal loss of statesmanship was when the British and French guaranteed the independence of Poland and Rumania at the end of March 1939. It was at this point that the European democracies reversed their previous policies of keeping hands off the inevitable war between Hitler and Stalin.
It was probably the greatest blunder in the whole history of European-power diplomacy. Britain and France were helpless to save Poland from invasion. By this act, however, they threw the bodies of democracy between Hitler and Stalin. By their actions they not only protected Stalin from Hitler but they enabled him to sell his influence to the highest bidder. The Allies did bid but Stalin’s price was annexation of defenseless people of the Baltic States and East Poland, a moral price which the Allies could not meet. Stalin got his price from Hitler.
Yet Hitler had no intention of abandoning his determination to expand in Southeast Europe and to destroy the Communist Vatican in Moscow. But now he must of necessity first neutralize the Western Democracies which he proceeded to do.
The long train of the hideous World War II started from the blunder of the Polish guarantees. Roosevelt had some part in these power politics, but the record is yet too incomplete to establish how much. Churchill, not yet in the government, had contributed something by goading Chamberlain to desperate action after his appeasement at Munich.
UNITED STATES’ UNDECLARED WAR
The fifth major blunder in statesmanship was when Roosevelt, in the winter of 1941, threw the United States into undeclared war with Germany and Japan in total violation of promises upon which he had been elected a few weeks before.
FAILURE IN WATCHFUL WAITING
In the weeks before lend-lease and its war powers were forced upon the American people, Roosevelt knew definitely of Hitler’s determination to attack Russia, and he informed the Russians of it. He should have turned away from the undeclared war on Germany, confined lend-lease to simple aid to Britain by way of finances, to buy munitions, supplies, and ships, thus keeping within international law. Statesmanship at that moment demanded imperiously a policy of watchful waiting.
ALLIANCE WITH STALIN
Indeed the greatest loss of statesmanship in all American history was the tacit American alliance and support of Communist Russia when Hitler made his attack in June 1941. Even the false theory that American military strength was needed to save Britain had now visibly vanished. By diversion of Nazi furies into the swamps of Russia, no one could any longer doubt the safety of Britain and all the Western world. These monstrous dictators were bound to exhaust themselves no matter who won. Even if Hitler won military victory, he would be enmeshed for years trying to hold these people in subjection. And he was bound even in victory to exhaust his military strength — and the Russians were bound to destroy any sources of supplies he might have hoped for. His own generals opposed his action.
American aid to Russia meant victory for Stalin and the spread of Communism over the world. Statesmanship again imperiously cried to keep out, be armed to the teeth and await their mutual exhaustion. When that day came there would have been an opportunity for the United States and Britain to use their strength to bring a real peace and security to the free world. No greater opportunity for lasting peace ever came to a president and he muffed it.
THE ECONOMIC SANCTIONS ON JAPAN OF JULY 1941
The eighth gigantic error in Roosevelt’s statesmanship was the total economic sanctions on Japan one month later, at the end of July, 1941. The sanctions were war in every essence except shooting. Roosevelt had been warned time and again by his own officials that such provocation would sooner or later bring reprisals of war.
REFUSAL TO ACCEPT KONOYE’S PEACE PROPOSALS
The ninth time statesmanship was wholly lost was Roosevelt’s contemptuous refusal of Prime Minister [Fumimaro] Konoye’s proposals for peace in the Pacific of September, 1941. The acceptance of these proposals was prayerfully urged by both the American and British ambassadors in Japan. The terms Konoye proposed would have accomplished every American purpose except possibly the return of Manchuria — and even this was thrown open to discussion. The cynic will recall that Roosevelt was willing to provoke a great war on his flank over this remote question and then gave Manchuria to Communist Russia.
REFUSAL TO ACCEPT A 3 MONTHS’ STAND-STILL AGREEMENT WITH JAPAN
The tenth loss of statesmanship was the refusal to accept the proposals that his ambassador informed him came from the emperor of Japan for a three months’ stand-still agreement in November 1941. Our military officials strongly urged it on Roosevelt. Japan was then alarmed that Russia might defeat her ally, Hitler. Ninety days’ delay would have taken all the starch out of Japan and kept war out of the Pacific. As the Stimson diary disclosed, Roosevelt and his officials were searching for a method to stimulate an overt act from the Japanese. Then Hull issued his foolish ultimatum, and we were defeated at Pearl Harbor.
The train of losses and this Japanese victory in the Japanese occupation of all South Asia were incalculable. Further, with the loss of sea control, Hitler and Togo were able to destroy our shipping in sight of our own shores.
THE DEMAND FOR UNCONDITIONAL SURRENDER
The eleventh gigantic error in Roosevelt’s statesmanship was demand for “unconditional surrender” at Casablanca in January 1943, where without our military, or even Churchill’s advice, he was seeking a headline. It played into the hands of every enemy militarist and propagandist; it prolonged the war with Germany, Japan, and Italy. And in the end major concessions in surrender were given to both Japan and Italy. It held out no hope of peace to the Germans if they got rid of the Nazis. The war to the bitter end left no semblance of a structure in Germany upon which to build again.
THE SACRIFICE OF THE BALTIC STATES AND EAST POLAND AT MOSCOW, OCTOBER 1943
The twelfth error of lost statesmanship was the sacrifice of free nations at the foreign-ministers meeting at Moscow in October 1943. Here amid words of freedom and democracy not a word of protest was made against the known Russian intentions to annex the Baltic States, East Poland, East Finland, Bessarabia, and Bukovina (which he had in his agreement with Hitler). This acquiescence marked the abandonment of the last word of the Four Freedoms and the Atlantic Charter.
TEHERAN AND ITS SACRIFICE OF SEVEN MORE NATIONS
The thirteenth and possibly one of the greatest of all confused wanderings in Roosevelt’s and Churchill’s statesmanship was at Teheran in December 1943. Here was confirmation of the acquiescence at the Moscow Conference of the annexations; here was the acceptance of Stalin’s doctrine of a periphery “of friendly border states” — the puppet Communist governments over seven nations. Fidelity to international morals and their own promises of independence of nations and free men demanded that Roosevelt and Churchill at Teheran stand firm against Stalin once and for all. There were by this time no such military perils of Stalin’s making a separate peace that could justify these agreements, acquiescences and appeasements.
YALTA — THE SECRET AGREEMENTS ON THE DOWNFALL OF NATIONS
The fourteenth fatal loss of statesmanship was by Roosevelt and Churchill at Yalta in February 1945. Not only were all Stalin’s encroachments on the independence of a dozen nations ratified, but with a long series of secret agreements other malign forces were set in motion that will continue to plague the world with international dangers for generations. Knowing that Stalin had already created Communist puppet governments over seven nations, Roosevelt and Churchill sought to camouflage their lost statesmanship with gadgets entitled “free and unfettered” elections, “representation of all liberal elements.” Even the strongest defender on military grounds of appeasement at Teheran could no longer defend it at Yalta. Here at least a stand might have been made for decency and free mankind which would have left America with cleaner hands and the moral respect of free men.
REFUSAL OF JAPANESE PEACE PROPOSALS OF MAY–JULY 1945
The fifteenth time of lost statesmanship was in respect to Japan in May, June, and July 1945. Truman refused to take notice of the Japanese white flags. Truman was not obligated to Roosevelt’s “unconditional surrender” folly. It had been denounced by our own military leaders in Europe. Peace could have been had with Japan with only one concession. That was the preservation of the Mikado who was the spiritual as well as secular head of the state. His position was rooted in a thousand years of Japanese religious faith and tradition. And we finally conceded this after hundreds of thousands of human lives had been sacrificed.
POTSDAM
The sixteenth time of blind statesmanship was Truman at Potsdam. Power had now passed to inexperienced men on the democratic countries, and the Communists had their way at every consequential point. The whole Potsdam agreement was a series of ratifications and amplifications of the previous surrenders to Stalin. Not only were all the Communist annexations and puppets further cemented to Stalin, but the provisions as to government in Germany and Austria were so set as to send parts of these states into Stalin’s bosom. The result of reparations policies was to load the American taxpayers with billions of the cost for relief of idle Germans and stifle the recovery of Germany and thus of Europe for years. The wickedness of slavery of war prisoners, the expelling of whole peoples from their homes was ratified and amplified from Yalta.
Beyond all this, against advice from leading men, the ultimatum was issued to Japan of unconditional surrender without the saving clause allowing them to retain the Mikado recommended by a score of experienced American voices. The Japanese, in reply, asked only for this concession, which was met with the atomic bomb — and then conceded in the end.
DROPPING THE ATOMIC BOMB
The seventeenth wandering of American statesmanship was Truman’s immoral order to drop the atomic bomb on the Japanese. Not only had Japan been repeatedly suing for peace, but it was the act of unparalleled brutality in all American history. It will forever weigh heavily on the American conscience.
GIVING CHINA TO MAO TSE-TUNG
The eighteenth series of steps in loss of statesmanship was by Truman, Marshall, and Acheson in respect to China. Beginning with Roosevelt’s insistence to Chiang Kai-shek of a Communist coalition government there followed Roosevelt’s hideous secret agreement as to China at Yalta which gave Mongolia and, in effect, Manchuria to Russia. Truman sacrificed all China to the Communists by insistence of his left-wing advisers and his appointment of General Marshall to execute their will. He must be assessed with a gigantic loss of statesmanship in those policies, which in the end made 450,000,000 Asiatic peoples a Communist puppet state under Moscow.
THE DRAGON’S TEETH OF WORLD WAR III
From the Moscow, the Teheran, Yalta and the Potsdam Conferences, the policies as to China, the dragon’s teeth of a third world war were sown in every quarter of the world and we were to see “the cold war” over years and finally the hideous war in Korea and the feeble North Atlantic Alliance with all its dangers of American defeat again.
THE END
I do not need end these volumes with more than a few sentences. I was opposed to the war and every step of policies in it. I have no apologies, no regrets.
I had warned the American people time and again against becoming involved. I stated repeatedly its only end would be to promote Communism over the earth; that we would impoverish the United States and the whole world. The situation of the world today is my vindication.
Despite these physical losses and these moral, political disasters, and these international follies, Americans can have faith that we will grow strong again; that the march of progress will sometime be renewed. Despite the drift to collectivism, despite degeneration in government, despite the demagogic intellectuals, despite the corruption in our government and the moral corruptions of our people, we still hold to Christianity, we still have the old ingenuity in our scientific and industrial progress. We have 35 million children marching through our schools and 2,500,000 in our institutions of higher learning. Sometime these forces will triumph over the ills in American life. The promise of a greater America abides in the millions of cottages throughout the land, where men and women are still resolute in freedom. In their hearts the spirit of America still lives. The boys and girls from those homes will some day throw off these disasters and frustrations and will re-create their America again.
The election of a Republican administration in 1952 is the sign of this turning.
— Herbert Hoover was the 31st president of the United States.
追記 "What an amazing historical find! Historian George H. Nash, the dean of Hervbet Hoover studeis, has brought forth a very raremanuscript in Freedom Betrayed. Hre is Hoover unpklugged, delineating on everything from the 'lost statesmanship' of FDR to the Korean War. A truly invaluable work of presidential history. HIghly recommended" Douglas Brinkley, professor of history at Rice University and editor of The Reagan Diaries
追記 
1月10日の午後3時12分の時間が記録された、不在通知表が入っていたので、昨夜今日の夜までには必ず配達して頂きたいと、電話とインターネットでのメールと双方で連絡したところだった。去年から品切れになり?、入手できなくなっていた、Freedom Betrayed の単行本が、UPSという米国の最大手の輸送業者の手で送られてきた。1月5日に申し込みをしたから、一週間も経たないうちに太平洋を越えて飛行機で運ばれてきたわけであるが、UPSの日本の配達網は、国内の宅配便ほどには発達していないから、昨日の夜に入手することができなかったから、今日も昼に外出していたので、隣組に頼んで、代わりに受領してもらった。そして、夕方5時に帰宅すると、ちゃんと届いていた。不在にすると、三回配達するそうではあるが、それでは、何の為に高い運賃を負担して申し込んだ意味が薄くなってしまう。待ちにまって、入手できた本だ。
Freedom Betrayedには、世界の第二次大戦の歴史を書き換える様な内容が含まれていることが、昨年の十二月の初めのいつもの真珠湾攻撃に係わる例年通りの新聞記事の中でもうかがえたが、本当にアメイジングとは、この本である。日本のマスコミは何時しか歴史に怠慢になり、外国で話題になった本等の書評も、商売になるかならないかでしか基準がとれなくなったようである。
これだけの大部の本とは予想していなかった。最後のページは957となっている。大冊である。ISBNの番号は、9780817912345である。
編者のGeorge H. Nash氏は、A historian, lecturer, and authority on the life of Herbert Hoover, his publications include three volumes of a definitive, scholarly biography of Hoover and the monograph Herbert Hoover and Stanford University. A graduate of Amherst College and holder of a PhD in history form Harvard University, he received the Richard M. Weaver Prize for Scholarly Letters in 2008. と紹介されている。要するに、フーバー大統領の伝記を研究して、決定版となる三巻の本を編集した歴史学者である。
さて、Herbert Hoover(1874-1964)は、President of the United State from 1929 to 1933 and an internationally acclaimed humanitarian, he was the author of more than thirty books and founder of Hoover Institution on War, Revolution and Peace at Stanford University. フーバー大統領の名前は、スタンフォード大学に残り、フーバーが創設した戦争と、革命と平和を研究する研究所につけられている。
このFreedom Betrayedのハードカバー版は、そのフーバー研究所の出版部から刊行されている。当方が購入した価格は、32.97米ドルであった。先述した運送業者のUPSの運送賃が15.98米ドルであったから、総額48.95ドルになった。
"Nearly fifty years after his death, Herbert Hoover returns as the ultimate revisionist historian, prosecuting his heavily documented indictment of US foreign policy before, during, and after the Second World War. Brilliantly edited by George Nash, Freedom Betrayed is as passionate as it is provocative. Many do no doubt will dispute Hoover's strategic vision. But few can dispute the historical significance of this unique volume, published even as Americans of the twenty-first century debate their moral and military obligations." Richard Norton Smith is presidential historian and author, former director of several presidential libraries, and current scholar in residence at George Mason University.
さて、Magnum Opusとは何だろうか。最高傑作と言う意味のラテン語である。
フーバーは、Magnum Opusと題して、膨大な記録を行いながら、回想録を書いていた。ようやく出版されることになった。その編者が、ジョージ・ナッシュ教授である。当方は、著者がナッシュ教授であると思い込んでいたが間違えた。しかし、元大統領が記述した、第二次世界大戦とその結果についての回想録が、21世紀を十年も過ぎてようやく出版されること自体が不思議である。歴史の書き換えを迫る回想録が出版されたのである。特に、米国と太平洋で激戦を戦った日本の戦後の歴史も相当の書き換えを迫られることになることは間違いない。
”Herbert Hoover's Freedom Betrayed is a bracing work of historical revisionism that takes aim at U.S. foreign policy under President Franklin Delano Roosevelt. Part memoir and part diplomatic history, Hoover's magnum opus seeks to expose the 'lost statesmanship' that, in Hoover's eyes, needlessly drew the United States into the Second World War and, in the aftermath, facilitated the rise to global power of its ideological rival, the Soviet Union. Freedom Betrayed, as George Nash asserts in his astute and authoritative introduction, resembles a prosecutor's brief against Roosevelt--and against Winston Churchill as well--at the bar of history. Thanks to Nash's impressive feat of reconstruction, Hoover's 'thunderbolt' now strikes--nearly after a half-century after it was readied. The former president's interpretation of the conduct nad consequences of the Second World War will not entirely persuade most readers. Yet, as Nash testifies, leke the best kind of revisionist history, Freedom Betrayed "challenges us to think afresh about our past." Bertland M patenaude, author of A Wealth of Ideas: Revelations from Hoover Institution Archives
米国元大統領のハーバート・フーバー大統領の半世紀後に公表される回想録を読んで、自らの過去を新鮮に感じるのは、なにも米国人ばかりではない。
Nearly seventy years ago, during World War II, Herbert Hoover began to scribble the first words of what was later to be called his "magnum opus." He did so in the shadow of three great disappointments: his inability to win the Republican presidential nomination in 1940; his failed crusade to keep the United States out of World War II; and his frustrated bid to become the Great Humanitarian in Europe for a second time. For twenty more years Hoover labored over this manuscript, even as his career continued to be extraordinarily rich in achievement and honors. At the end only one final accomplishment eluded him: publication of his magnum opus, Freedom Betrayed . Following Hoover's death in 1964, his heirs decided to place his manuscript in storage where for nearly half a century it has remained unread--until now.
In this book, perhaps the most ambitious and systematic work of World War II revisionism ever attempted, Hoover offers his frank evaluation of President Roosevelt's foreign policies before Pearl Harbor and during the war, as well as an examination of the war's consequences, including the expansion of the Soviet empire at war's end and the eruption of the Cold War against the Communists. Throughout the work, Hoover raises critical questions, many of which are still under scrutiny today: Did Franklin Roosevelt deceitfully maneuver the United States into an undeclared and unconstitutional naval war with Germany in 1941? Did he unnecessarily appease Joseph Stalin at the pivotal Teheran conference in 1943? Was Roosevelt's wartime policy of "unconditional surrender" a blunder? Did Communist agents and sympathizers in the White House, Department of State, and Department of the Treasury play a malign role in some of America's wartime decisions?
On these and other controversies, Freedom Betrayed: Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath takes its stand.
Hoover's work reflets the foreign policy thinking not just of himself but of many American opinion makers during his lifetime and beyond. As such , it is a document with which we should be acquainted today. The intrinsic interest of Hoover's book remains strong, in part because it insistently raises issues--about decisions with whose consequences we still live.
と、本の表紙のフラップと裏表紙のフラップに続けて書かれている。
"Finally, after waiting for close to half a century, we now have Hoover's massive and impassioned account of American foreign policy from 1933 to the early 1950s. Thanks to the efforts of George H. Nash , there exists an unparalleled picture of Hoover's world view, one long shared by many conservatives. Nash's thorough and perceptive introduction shows why he remains America's leading Hoover scholar." Justus D Doenecke, author of Storm on the Horizon: The Challenge to American Intervention, 1939-1941
"A forcefully argued and well documented alternative to, and critique of, the conventional leberal historical narative of America's road to war and its war aims. Even readers comfortable with the established account will find themselves thinking that on some points the accepted history should be reconsidered and perhaps revised." John Earl Haynes, author of Spies: The Rise and Fall of the KGB in America
フランクリン・ルーズベルトの時代にホワイトハウスを差配した共産主義者の人脈がどのような政策決定をしたのか興味は尽きない。フランクフルト学派の二段階革命論が実行に移されたとする見方がある。日本を戦争に引きこみ、ドイツに宣戦を布告する、結果として、ソ連を支持する。ソ連に対して、巨額の援助を行ったことは間違いない。ルーズベルトの時代のアメリカは、共産主義を支援する政権であったのだ。フーバー大統領の回顧録の詳細を読んで行くことが必要である。
史実を世界に発信する会が、昨年12月8日に憲政記念館の講堂で、日米開戦70周年にちなんで、創立五年目で初めての講演会を開催した。講堂は満員御礼で、立ち見の聴衆が出る盛況であった。http://hassin.org http://www.sdh-fact.com
史実をねじ曲げて、嘘を主張したあげくに、それを繰り返してあたかも真実のように主張する外国政府があり、それをまともに受け入れると国益を毀損することになる。外国語で、訴求力を持って反論・主張することが重要である。最近、隣国で慰安婦問題をねじ曲げて、史実にない銅像を建てる動きがあるとするが、そうした歪曲に対しては強力に反論を加えて行く必要がある。弱腰であってはならない。天網恢々疎にして漏らさずであり、真実を追究し無ければならない。真珠湾攻撃が罠であったことなど、思い至らなかったようであるが、莫大な数の航空機や武器が事実上米国からスターリンに、供与されたのである。ヘンリーストークス氏のビルマの飛行場の証言も興味深い。いずれにしても、フーバー大統領の回想録の早急の邦訳が待たれる。
http://youtu.be/lVwuHylK4TE
http://youtu.be/AP7LgRpnrHM

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