構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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2012年2月

Postal Crimes

何事もなかったかのように、郵政民営化の見直し法案が葬り去られ、政治の妥協が行われて、闇夜で烏天狗が、外国勢力と結託して国民資産を海外に持ち出そうとした謀略などなにもなかったような妥協案が新しくつくられて、みんなで渡れば怖くないとばかりに、郵政民営化の失敗が糊塗されようとしている。

http://www.tsushin-bunka.co.jp/?p=2206

世界の潮流は、郵政民営化など,もう誰も見向きもしない。市場原理主義の壮大な実験と悪政は、破綻したのだ。それが、今なお、亡霊に取り憑かれたように民営化があたかも良かった政策であったかのように固執している政党が残り、それが保守勢力を名乗っているからたちが悪い。

任侠の反対の言葉は、卑劣だ。社会政策として、地方を大切にして、万民の安寧と幸福を追求するために、また、日本特有の価値観を維持してきた郵便局のネットワークを破壊した郵政民営化は、卑劣な謀略であったが、失敗したのである。稚拙な日本の政治は市場原理主義の暴虐を修復しようとする意欲に欠けているようだ。鵺のような,どちらにもよめる妥協案作りが横行して、同床異夢の状態では、また、烏天狗どもが暗躍する余地が残って、平成の払い下げ事件を再来させる、一攫千金の経済犯罪を横行させる余地を残してしまうのではないか。

郵政民営化の破壊の見直しがちゃんと行われないのであれば、法案をいじるよりも、市場原理主義に追従して、日本の明治以来の安定した郵便局の基盤を破壊しようとした勢力の手先となって、日本郵政に入り込んだ烏天狗を法にもとづいて、摘発することが急がれるのではないだろうか。

商社有り、銀行有り、コンピュータ企業有り、商事会社有り、コンビニ会社有り、ありとあらゆる種類の企業が、日本の郵政の利権にたかったのではないのか。紙芝居で、前島密のあすなろ物語があり、バラ色の未来が郵政民営化で実現するはずではなかったのか。国民資産が、劣化した企業の救済に使われたのではないのか。外国の投機資金の原資として使われようとしたのではないのか。信託銀行に預託した資金の運用成績なども公開されるべきだ。

何とか郵政民営化の問題を公の場に出して太陽の光をあてることを回避したい勢力が未だに残っているがそうは問屋は下ろさない。天網恢々疎にして漏らさずである。

賢明な読者はもうお気づきになると思うが、一昨年の検証チームの座長をつとめた郷原元検事のツイッターは、Tokyonotesに対する返信であったが、調査結果がまとまったが、目こぼしをしただけの尻すぼみであった。烏天狗の羽音はまだ闇夜の中で聞こえる状態が放置されたままである。

「日本郵政ガバナンス検証委員会の委員長を務める郷原信郎氏(名城大教授)が2010年3月28日、同委員会による調査結果に関連して、Twitterに以下の投稿をしていました。

(引用ここから)

@tokyonotes 日本郵政のガバナンス問題についての調査結果、間もなくまとまります。西川体制における経営は想像を絶する酷さです。まず、これまでの郵政民営化の検証が必要です。今後郵貯の限度額をいくらにするかなどという議論は、その検証をした後にやるべきことだと思います。
http://twitter.com/nobuogohara/status/11185070486

私は決して郵政民営化反対論者ではありません。官業としての郵政事業は完全に限界に来ており、適正に健全に郵政民営化を進めることで国民の利益が確保できます。これまでの郵政民営化のどこがどうデタラメだったかをきちんと検証しないと日本郵政の未来も、日本の未来もはありません。
http://twitter.com/nobuogohara/status/11185195336

(引用ここまで)

[関連]
西川郵政のかんぽ宿売却に「重大な問題」 検証委委員長が見解 2010.2.25 18:45 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100225/plc1002251846015-n1.htm(このリンクの記事は削除されています。)


【やっぱりハイエナ達の転売目的】売却の郵政資産、8割転売=かんぽの宿・社宅628施設に群がるブラックな連中(時事)
http://www.asyura2.com/10/senkyo82/msg/635.html
「日本郵政ガバナンス検証委員会」の発足 平成22年1月8日 総務省
http://www.soumu.go.jp/main_content/000050035.pdf
[日本郵政・かんぽの宿問題] それでも東京地検が「かんぽの宿」疑惑の告発を捜査しない不公平(ゲンダイ的考察日記)
http://www.asyura2.com/10/senkyo82/msg/954.html
[2/9衆院予算委議事録]小泉俊明議員「郵政民営化の本質は350兆円もの郵貯・簡保資金をアメリカの財布にすることだった」
http://www.asyura2.com/10/senkyo82/msg/438.html
小泉純一郎と竹中平蔵の悪政問題まとめサイト
http://www28.atwiki.jp/stop-neoliberalism 」 

Darkness behind the Postal Privatization Conspiracies

2010年に書かれた記事である。

“郵政民営化”の企み暴く著書

 郵政改革法案の審議が足踏みする中、小泉・竹中両氏が描いた民営化の魂胆が暴かれつつある。11月下旬、『日本の独立―主権者国民と「米・官・業・政・電」利権複合体の死闘―』(植草一秀著/飛鳥新社)が出版された。この中で、郵政民営化をめぐる分析がなされている。
 本の主題は、「対米従属派」が牛耳ってきたわが国の戦後政治を主権者国民勢力が刷新しなければならないと訴えるものだが、第二部「小泉竹中政治の大罪」で「郵政米営化・郵政私物化」「『かんぽの宿』不正払い下げ未遂事件」を約40ページにわたって考察している。
 同書によれば、竹中氏が進めた四分社化を伴う民営化構想のポイントは、資産の分割と人員の配置にあった。資産分割では郵便事業に必要な不動産だけが郵便事業会社に配分され、残りがすべて、郵便局会社と親会社の日本郵政に配分された。人員は、ゆうちょ銀行とかんぽ生命への配分が最小化された。
 この設計の狙いを、次のように推論する。
 ゆうちょ銀行とかんぽ生命の株式は100%売却される。買い手にとっては、張り付く人員が少ないほど取り扱いが容易だ。外資が株式を取得すれば、国民資金300兆円の支配権は外国資本に奪われる。
 郵便事業はユニバーサルサービスを維持するために、黒字化が難しい。郵便事業は国営に戻すことが想定されていたのではないか。金融二社の全株式を売却して郵便事業を国に返すと、残るのは郵便局会社。ここに郵便事業に必要な不動産以外の全不動産が残る。
 政府が株式の3分の2を売却する時点では、大量の人員を抱えており、株価は低いまま。この安い株式を2分の1以上買い集めて日本郵政を支配した後、人員整理をして郵便事業を国に返す。
 すると、人員の少ない巨大不動産保有会社になる。外資が株式を買い集めていれば、巨大な不動産会社を手中に収めることができる。株価も人員整理で大幅に上昇する。
 すべては、外国資本への利益供与のために動いていたと推察される。実に明快な説明だ。
  「かんぽの宿」売却をめぐる分析では“出来レース”だったことが如実に浮かび上がる。「かんぽの宿」79施設の簿価は、2006年3月期以降に急激に引き下げられた。郵政民営化関連法が成立(05年10月)した直後である。
 ▽03年4月=1726億円▽04年3月=1620億円▽05年3月=1535億円▽06年3月=672億円▽07年3月=326億円▽公社閉鎖時=129億円▽08年3月=125億円▽同9月=123億円
 安値売却を主張する人々は、「かんぽの宿」が年間40~50億円の赤字だったことを挙げる。なおかつ、雇用維持条件が付けられていたから、109億円は適正価格だと主張する。
 ところが、08年3月期の事業収支赤字は5億円に過ぎず、10年3月期には10億円の黒字計上が見込まれていた。40~50億円の赤字計数は人為的に創作されたものだと著者。
 そもそも「かんぽの宿」は加入者福祉施設で営利事業ではない。福祉目的で赤字になるように料金が設定されていたのであり、収益事業への転換は極めて容易だったと見ることができる。
 オリックス不動産に課された雇用維持条件は、「3200人の従業員の中の620人の正社員の中の550人について、一年に限って雇用条件を維持する」というものだった。施設を買い取ってすぐに事業を始めるには人手が必要である。550人の雇用義務は、雇用を守るためではなく、オリックス不動産の事業運営のために設定された可能性が高いと指摘する。
 入札では第二次提案にオリックス不動産とHMI社が最終的に残った。ところが、締め切り後に、目玉の世田谷のレク施設売却を日本郵政が突然中止する。その結果、HMI社が辞退し、応札企業はオリックス不動産だけになった。HMI社を辞退させるために同施設を除外したと推論する。
 11月21日、国土交通省が「かんぽの宿」売却前に不動産鑑定評価が不適当に安くなったことを調査する方針を示した。これは同書の発表で非難が広がるのを避けるためではあるまいか。
 民営化の闇に光が当たり始めたのは、識者の勇気ある告発によるのかも知れない。

No Consumption Tax

「国民新党の亀井静香代表は29日の党議員総会で、野田政権の消費税増税方針に関し、連合赤軍による「あさま山荘事件」を引き合いに「彼らは間違った考えに取りつかれ、突っ走ってしまった。政治が同じように間違った方向に突っ込んではならない」と強調した。

 同時に「政府は(増税へ)まっしぐらに進んでいこうとしている。そうならないような努力を全力でしたい」と述べた。」

 上記記事は、とある新聞社が配信した短い記事であるが、増税反対の意見は,大新聞社は殆ど報道しない。財務相の圧力で、いよいよ口数が少なくなっているとの見方すら出ている。報道の自由はすっかり形骸化しているようだ。数多くの記者を派遣して、どんな発言をしたかを、新聞社の上層部に報告させるだけで、朝日も、毎日も,読売も紙面には、増税を批判する記事は殆どと行っていいほどに書かれない。亀井静香議員などは、政党の党首であるから、番する記者も配置しているが、発言を殆ど記事にならないどころか、失言を取り上げるために記者が見張りをして要るかのような状態で或る。小さな政党の主張を書こうとしない新聞社は後ろめたいところがあるのかどうかは知らないが、申し訳程度に、その大新聞社が経営するスポーツ新聞の角に記事を掲載して、罪滅ぼしをするかのようにお茶を濁している。批判精神を失い、強い者と長いものに巻かれるようになってしまった、近年の日本のマスコミの劣化の一例である。ご参考まで。

HSBC withdraws from Japan

非常にわかりにくいことが発生している。

http://www.hsbc.co.jp/1/PA_1_1_S5/content/pdf/120222_notice_en.pdf

http://www.hsbc.co.jp/1/PA_1_1_S5/content/pdf/120222_notice_jp.pdf

http://blog.livedoor.jp/donnjinngannbohnn/

http://blog.goo.ne.jp/akiko_019/e/22c64d1650d2940ba29c2096ef34ce25

http://www.businessweek.com/news/2012-02-27/aij-suspension-undermines-japan-pensions-hedge-fund-appetite.html

http://www.asahi.com/business/update/0225/TKY201202250247.html

http://www.businessweek.com/news/2012-02-27/aij-fund-reported-241-return-since-2002-on-options-bets.html

[(Followings are an excerpt of the article in the link above)

Wider Investigation

The Millennium fund invested in Nikkei 225 options and futures as well as private equity, using an index that AIJ created to gauge whether markets were overbought or underbought, according to presentation materials provided to a pension fund that were obtained by Bloomberg News. The undated presentation document didn’t name the pension fund.

AIM Investment Advisors Ltd. in the British Virgin Islands was listed as the manager of the fund, which was a private placement open-ended unit trust, and the fund was registered in the Cayman Islands, the 13-page document in Japanese said. Bank of Bermuda, a unit of HSBC Holdings Plc, was listed as the fund administrator. Margrit Chang, a Hong Kong-based spokeswoman for HSBC, declined to comment.

The investigation of the 263 asset managers is the biggest into the Japanese fund industry, according to a regulatory official, who asked not to be identified because the matter is sensitive. In a typical year, officials conduct routine inspections of about 15 asset managers, the official said. The funds themselves provide an annual report.]

ご参考まで。

梅の花

寒い朝だ。通りがけの道に,梅の花が咲いていた。ああ、春はもう来ているのだ。寒い冬が終わるのだ。うれしい。

An Open Letter to rectify the Political Propaganda

史実を世界に発信する会の事務局長から次のような連絡があった。

「中国が傲慢にも河村名古屋市長の当然の正しい発言にいちゃもんをつけてきていますが、全く愚かなことです。なぜなら、既に2年前に胡錦涛主席が来日した折に、「南京事件の真実を検証する会」(会長:加瀬英明)が中国文の公開質問状を中国大使館を通じて送っていますが、彼はこれにこたえていないからです。

 添付の通り、これは、中国語、日本語、英語で発信する会のサイトに掲載され、世界各国のアジア関係学者、マスコミ、大使館関係等4000名ほどににメール送信もされています。
お読みになればおわかりのように、これを読んでまだ「南京虐殺があった」と考える人がいたとしたら、その頭の構造を疑いたくなるでしょう。決定的なポイント5点についてどうにも答えられない、というのが中国の側の事情であることがよく理解できるかと思います。

 皆様にお願いします。この文書を使って、河村市長の応援活動を是非実行してください。
既に「新しい教科書をつくる会」(藤岡元会長は検証する会の事務局長)のメルマガでこの公開質問状が発信されていますが、さらに英文、中文のファイルも添付しますので、より有効活用が出来るかと思います。たった2ページ(中文は3ページ)ですので、わかりやすく使い易いと思います。
 
 特に大村知事、藤村官房長官にはこれを送り、「あなたはこれに反論でも出来るのですか」と迫ってみるのはどうでしょう。それぞれのお立場で、メールでもいいですし、ファックスでもいいですし、手紙でもいいですし、電話でもいいですし、はては面談でもいいですし、それぞれ可能な方法で、これを活用して糾弾活動を展開していただければとお願いする次第です。

平成24年2月24日

「openletter_china_01.docx」をダウンロード(日本語)(Japanese language)

「open_letter_china_02.doc」をダウンロード(中文)(Chinese language)

「open_letter_china_03.doc」をダウンロード(英語)(English language)」

以上ご参考まで。

         

        

The Reluctant Combatant--Nanjing Incident was only a Propaganda

http://www.sdh-fact.com/CL02_1/41_S4.pdf

Interview with Ara Kenichi, researcher of modern and contemporary history
After All, the Nanking Incident Was Propaganda Warfare
Communist China didn’t mention “Nanking” for over forty years
Who really were those American missionaries that made up the massacre picture?

(Interview held on November 5. The editorial department is responsible for the wording of this interview.)
*First published in Choice for Tomorrow, December 2007 issue.

Interviewer: December this year marks the 70th anniversary of the fall of Nanking which took place in 1937, and subsequently there has been much talk about the “Nanking Incident”. As to what really happened then in Nanking, historical facts have been largely verified and a recent movement to reexamine the Nanking Incident in the light of intelligence and propaganda warfare has become a new trend.
Mr. Ara, your new book entitled Saikensho: Nankin De Hontowa Naniga Okottaka
(Reexamination: What Really Happened in Nanking) was published at the end of this October (publisher: Tokuma Shoten), and in the book you seem to present the whole picture of the Nanking issue from the viewpoint of wartime propaganda. Now, we would like to ask you to speak once again about the major aspects of propaganda warfare in regards to the “Nanking Massacre” on this special occasion of the 70th anniversary of the fall of Nanking.
After seventy years, the whole picture of the propaganda warfare has come to light
Ara: I think the 70th anniversary of the fall of Nanking is a very good opportunity to look back
upon the Nanking Incident. In the past, I think efforts to explain the Incident were mostly
makeshift, as whenever the “Nanking Massacre” proponents in China and Japan alike claimed this
and that, we opponents would refute back accordingly. However, as many years have passed, the
truth seems to have come out by itself. So, as I just mentioned, the passage of seventy years is a
good occasion to reexamine the whole picture of the Incident, or to have a bird’s-eye view of the
Nanking Incident.
With this in mind, I wrote the book Reexamination: What Really Happened in Nanking, and the
process made me particularly aware of some interesting facts, such as that during the past seventy
years, it was as late as about fifteen years ago that the Chinese Communist Party began
mentioning the “Nanking Massacre.” For the previous forty years or so, the Chinese Communist
government scarcely spoke a word about the “Nanking Massacre.” Today, whenever
controversies arise between Japan and China over historical matters, the “Nanking Massacre” is
taken up as the staple and symbolic issue, which gives the impression that the Chinese
Communist Party has been claiming since the beginning that a massacre was committed.
However, that is not true. Rather, it is Chiang Kai-shek’s Nationalist Party that first mentioned the
“Nanking Massacre” and continued to unwaveringly assert it after the War.
In particular, it has been verified over the past ten years that the allegation condemning Japan for
a great massacre in Nanking first started as propaganda warfare contrived by Chiang Kai-shek’s
Nationalist Party. This is another example of how the passage of time will lead to new evidence.
The most convincing fact is that though the book entitled What War Means: Japanese Terror in
China had long been considered powerful proof of the massacre in Nanking, it turned out to be
merely a propaganda book of the Nationalist Party.
As I presume many people already know that, I’ll just briefly explain the book. This book, What
War Means, was edited by a Shanghai correspondent named Harold Timperley for the Manchester
Guardian, a famed British paper, and published in London in July 1938, the year following the
fall of Nanking. The book is composed of various reports by anonymous Europeans and
Americans residing in Nanking at the time Nanking surrendered. The contents describe how the
Japanese Army randomly committed slaughters and other violent crimes when they occupied
Nanking. The fact that the book was published in the year following the battle of Nanking and
that a journalist compiled what third-party Europeans and Americans, neither on the Chinese nor
Japanese side, witnessed in the city gave the book credence. It had been highly esteemed as a
source of objective historical material for a long time. By the way, through an examination
conducted in the postwar years, it was determined that the anonymous European and American
witnesses turned out to be real Americans, Professor Miner Searle Bates of Nanking University
and a missionary named George Fitch, both of whom were in Nanking at the time
On the other hand, among scholars who have some doubts about the claim that a great massacre
took place, What War Means has been a dubious book, for the book’s contents greatly differ from
other primary source materials and testimonies made by Japanese witnesses. And correspondent
Timperley also has been a somewhat questionable figure.
About twenty-five years ago, I myself tried to interview Japanese military personnel, journalists
and diplomats in order to learn first-hand what they actually saw in Nanking at the time and wrote
their accounts in my book entitled Kikigaki Nankin Jiken (Interviews with Witnesses to the
Nanking Incident). None of the interviewees witnessed the Japanese military randomly killing
Chinese soldiers and civilians or raping Chinese women. So, I found out that What War Means
describes events quite differently from what the Japanese witnessed and I could not help but think
that this correspondent Timperley was far from reliable, but I had not yet gathered enough proof
to say he was wrong.
Later on, little by little, it was revealed that Timperley had something to do with the Central
Propaganda Department of Chiang Kai-shek’s government and it also turned out that the Central
Propaganda Department had had a hand in the publication of the book, according to Suzuki
Akira’s Shin “Nankin Daigyakusatsu” No Maboroshi (New Edition, The Illusion of the “Nanking
Massacre”) and other sources.
The most decisive of all is the discovery by Professor Kitamura Minoru of Ritsumeikan
University of the book Autobiography by Zeng Xubai, head of the International Propaganda
Office of the Nationalist Party’s Central Propaganda Department. In the autobiography, Zeng
describes that he provided funds to Timperley to write the book. This makes it clear that
Timperley was anything but a neutral journalist, that he was an advisor to the Central Propaganda
Department of the Nationalist Party, and that this particular book was published for the purpose of
spreading propaganda worldwide with funds provided by the Nationalist Party (Nankin Jiken No
Tankyu, 2001, The Politics of Nanjing, 2007).
According to the documents discovered by Professor Higashinakano Shudo of Asia University, it
has been confirmed that What War Means was, in fact, an anti-enemy propaganda book, produced
by the Central Propaganda Department (Nankin Jiken—Kokuminto Gokuhi Bunsho Kara
Yomitoku, Top-Secret Chinese Nationalist Documents Reveal the Truth About the Nanking
Incident, 2006).
Interviewer: So, the dominant source material hitherto of the “Nanking Massacre” finally turns
out to be a product of propaganda warfare.
Ara: Exactly. In fact, this was especially impressive to me. Ever since I began to doubt
Timperley’s credibility, I interviewed three Japanese who had had actual contact with Timperley
at that time. They were Matsumoto Shigeharu, Shanghai branch chief of the Domei News
Agency; Hidaka Shinrokuro, diplomatic attaché at the Japanese Embassy in Nanking, Ministry of
Foreign Affairs; and Utsunomiya Naotaka, press officer of the Japanese Army’s Shanghai Special
Mission Department. I asked them about Timperley and what they thought of him. The three of
them were perfect gentlemen themselves and all of them firmly commented that Timperley was
not a villain at all, but a well-mannered gentleman.
After all, even men of high characters and intelligence failed to really see who Timperley was.
Was Timperley so good at masquerading? Or, were the Japanese so poor at handling propaganda
wars as they are now? Honestly, I cannot help but feel perplexed.
Propaganda is heavier than politics
Ara: For all that, however, we cannot simply conclude that in the Nanking Incident, Timperley
and the Nationalist Party’s propaganda department deceived three respectable Japanese. The
Nanking Incident is an all-out propaganda operation conducted not only the by propaganda organ
but also the entire Nationalist Party, including Chiang Kai-shek himself. My latest book,
Reexamination: What Really Happened in Nanking reviews the Incident with the focus on this
point, as one of the major factors.
Let me put it this way. After the fall of Nanking, the Nationalist government moved to Hankou,
and resorted to the power of propaganda now that the Chinese had lost the capital of Nanking.
Their propaganda method was first to proclaim the valor of the Chinese military personnel and
then to condemn the Japanese military as atrocious.
My research this time has revealed that on a very timely occasion, in January 1938, Timperley
was called to Hankou and met with Chiang Kai-shek. In February, after the meeting, Chiang Kaishek
established the political department and in April, the anti-enemy propaganda office was
created, thereupon propaganda activities were well under way.
After all, it was a propaganda operation in which the Nationalist Party was fully involved and
Chiang Kai-shek was also closely involved. In fact, Chiang Kai-shek once commented, “Politics
is heavier than military, and propaganda is heavier than politics.” To Chiang Kai-shek, the Sino-
Japanese Incident was nothing more than propaganda warfare.
Interviewer: In your book, examples of reporting lies and fabrications on the part of the
Nationalist Party abounds, such as the battle of Shanghai prior to the battle of Nanking, and later
the battle at Taierzhuang, the incident of the destroyed embankment at the Huang He (the Yellow
River), the battle at De’an and so on.
Ara: Briefly speaking, first, on the day after Japan and China clashed in Shanghai, that is, August
14, 1937, an incident occurred in which two leading Shanghai hotels, the Cathay Hotel and the
Pacific Hotel, and an amusement hall called Da Shijie (The Great World) were bombarded and
some Europeans and Americans as well as many Chinese were killed. At the time, the Chinese
news agency reported that Japanese fighter planes attacked downtown Shanghai and caused
numerous casualties among Chinese citizens, Europeans and Americans. This news reached the
U.S. and France.
However, the fact was that Chinese fighter planes attempted to attack a Japanese warship
anchored on the bank of the Huang Pujiang, which the hotels faced. The Japanese warship then
returned fire, and taken aback by this counterattack, the Chinese fighter pilots blindly dropped
bombs on the hotels and the amusement hall. The bombardment was eye-witnessed by a United
Press correspondent, since the American news agency UP had its branch office in the bombarded
Cathay Hotel.
On August 28, two weeks after the disastrous bombing, Japanese fighters bombarded Shanghai
South Station in an attempt to shut down Chinese logistic routes. A moving episode was then
reported. A picture of a baby, having miraculously survived the bombing and crying all alone in
the debris, was shown in a newsreel throughout the United States. The image was seen by 25
million Americans and was then spread to the rest of the world. Such Japanese atrocity,
victimizing a tiny, helpless baby, instantly gave a profound impression on viewers worldwide.
But this newsreel image, again, turned out to be a product of propaganda. Chiang Kai-shek’s
favorite photographer named Wang put an abandoned baby on the railroad track at the station
right after the bombing and took a picture of it. It was a staged photo.
After the battle of Nanking took place in December 1937, the Chinese propaganda campaign
went on. On April 10, 1938, at Taierzhuang in the Shandong province, the Japanese Army
encountered a large segment of the Chinese Army and temporarily retreated. The Chinese
Nationalist Party advertised this as their glorious victory and subsequently a colorful celebration,
including a grand civil parade and fireworks, was held in the new capital of Hankou. This
“glorious victory” was also reported in Time magazine in the U.S. However, this is sheer
demagoguery. On June 9, the Nationalist Party announced that the de-embankment on the Yellow
River was attributed to random bombing by the Japanese Army, which was actually done by the
Chinese Army. On October 10, the Nationalist Party reported that the battle fought around De’an
had been won by the Chinese Army. The report was another piece of demagogic propaganda.
For example, regarding the de-embankment of the Yellow River, Guo Moruo, who was at the
time in charge of the Third Department (department chief) operating the anti-enemy propaganda
mission, recollects in his memoir that the destruction of the Yellow River banks was done
“according to our anti-enemy propaganda, by the enemy’s random bombing, but in reality, our
front commanders destroyed the banks following an order from the top brass”, and thus confessed
that the incident was demagoguery. Moreover, he added, “the damage inflicted upon the enemy
by the flooding was only limited, while far more civilian lives and property were lost than we had
anticipated,” and thus he admits that the whole operation was a failed strategy.
Interviewer: In short, both before and after the battle of Nanking, wartime propaganda was
consistently conducted, advertising Chinese victories and Japanese military atrocities. Is that
right?
Ara: That’s right. The battle of Nanking was not the first time the Chinese began to assert
demagogic propaganda. Saying that white is black is consistent Chinese strategy. If you put the
battle of Nanking in this context, it is almost impossible for once to believe that the Chinese
assertion is based on historical facts, as far as Nanking is concerned.
The true identities of the missionaries
Interviewer: To summarize the story, at that time of the fall of Nanking, those who were in
Nanking were Chinese, Japanese military personnel, and hundreds of Japanese newspaper
reporters, besides, also a few foreign missionaries and correspondents. Among them, the one
journalist that made a book out of the letters of foreign missionaries was far from being a goodwilled
third person, but was in fact an advisor to the Nationalist Party’s Propaganda Department,
and What War Means was published as a propaganda book for the Nationalist Party. If so, the
missionaries who wrote those letters which are found in the book cannot have been innocent
outsiders.
Ara: Some Japanese are apt to think of foreigners and missionaries as naturally neutral, “third
persons with good intention”. But that is wrong. They were clearly on the side of the Chinese.
Rather, the missionaries living in Nanking fully cooperated in the Chinese propaganda war
waged by the Nationalist Party between 1937 and 1938. Moreover, it was none other than these
missionaries who stood up in the court of the Tokyo Trials and testified that a massacre did
actually take place. In that sense, it is justifiably concluded that the American missionaries were
the greatest contributors to the Nanking Massacre propaganda campaign contrived by the
Nationalist Party.
Regarding Professor Bates of the University of Nanking and Rev. Fitch, who contributed reports
to What War Means, Bates served as an advisor to the government of the Republic of China and
was very closely related to the Central Propaganda Department of the Nationalist Party. Fitch was
a close friend of the Nationalist Party top brass, and he went back to the U.S. in the spring of 1938
with the photographs which a clergyman named Rev. John Magee had filmed, and during his sixmonth-
long propaganda activity at home, persisted in persuading Undersecretary of State
Hornbeck, the U.S. Congress and newspapers into believing that the Japanese Army had
committed atrocities.
Furthermore, Fitch was an ultra-anti-Japanese proponent. Take Korean independence fighter
Kim Gu, for instance. Kim was the mastermind behind two terrorist attacks, namely, a failed
attempt to assassinate Emperor Showa in 1932 and a bombing incident in Shanghai. After the
Shanghai attempt, Kim escaped and hid himself in Fitch’s house which was located in the French
concession. Fitch let Kim stay in this sanctuary for over a month, while Kim sent out a statement
to news agencies from this safe hiding place.
Incidentally, besides missionaries, there were also American newspaper reporters who were anti-
Japanese journalists. For example, a reporter named Archibald Steele of the Chicago Daily News
became a target of arrest, ordered by the Manchurian police, for having contacted a Chinese
military-man named Ma Zhanshan, who had changed allegiance against Japan after the Mukden
Incident. Another reporter named McDonald of the Times stood in the front row of an anti-
Japanese demonstration held in Beijing, a year before the Nanking Incident. Famous New York
Times correspondent Tillman Durdin was also so extremely biased toward the Chinese side that in
his actual reporting he defined the Japanese Army as “aggressors” from the very start of his
articles. Many people met Durdin after the War and most felt that he was not so prejudiced
against the Japanese, but he actually reported such a bias.
The missionaries provided these reporters with much information. So, although the reporters
partly wrote their articles from first-hand coverage, most wrote down just what the missionaries
told them. American reporters would certainly double-check, at least, what they had heard from
some Japanese before writing articles, but when it came to Chinese and missionaries’ accounts,
the Americans would blindly accept the secondhand information as true.
The Nationalist Party and the missionaries shared mutual interests
Interviewer: They played a crucial role not only during the battle of Nanking, but also at the
Tokyo Trials.
Ara: As popularly known, those who stood at the witness stand and testified in the court of the
Tokyo Trials were clergyman Rev. John Magee, Professor Miner Searle Bates and Dr. Robert
Wilson. Although they were introduced by titles, like professor and doctor, they used these
designations for the sake of missionary activities, and their true callings were missionaries. And it
would be appropriate to say that these three made-up the horrible massacre image.
In the Tokyo Trials court, as described in What War Means, most disastrous situations were told
and the atrocities of the Japanese Army were all the more emphasized. Of course, their
testimonies, under close examination, may reveal a far less violent situation. For instance, Dr.
Wilson testified that he himself saw two women who were about to be raped actually escorted
away to a safe camp.
However, as a general impression, the horrifying situations in Nanking described by the three
missionary witnesses, who had gone all the way to Tokyo to testify, were convincing enough to
make the tribunal accept their accounts as facts, although some exaggerations and misconceptions
were present here and there. In that sense, the missionaries eagerly played a crucial role in
creating the “massacre” image.
Interviewer: Why, then, were the American missionaries so eager to cooperate with the Chinese?
Ara: That is the most puzzling aspect to the Japanese. As I mentioned previously, the
missionaries were anti-Japanese personally, but difficult financial circumstances obliged them to
further engage in propaganda activities, for donations from America had dwindled. In those days,
among overseas missionary activities, U.S. Christian churches spent the largest amount of money
in China and, accordingly, sent the largest number of missionaries to China. Americans felt that
China lagged behind times and was being bullied by Japan and that the Chinese people needed to
be enlightened through the Christian faith.
However, despite vigorous efforts on the part of American Christians, the number of enlightened
Chinese Christians hardly increased. As a result, the dominant opinion voiced at home in the U.S.
was to bring those missionaries home, while the donations to the missionaries from America
peaked in 1935 and began to decline thereafter. So American missionaries working in China had
an urgent need to send home a good message, stressing that the missionaries in China firmly stood
for the poor Chinese being bullied by the ‘atrocious Japanese’. This is not my original analysis,
but Japanese diplomats in those days would see the situation in this context.
For American missionaries, war was a good opportunity to expand the Chinese Christian
population. They tried to look like good and sympathetic friends of the Chinese people, offering
food to Chinese refugees and providing sanctuaries to former soldiers hiding from the Japanese
troops.
Eventually, the missionaries with such a need and purpose on one hand and the Nationalist Party
on the other hand came to share mutual interests, which prompted them to conduct the
propaganda campaign known as the “Nanking Massacre.”
Interviewer: Seeing things in this perspective, it is easily understood why American missionaries
were so cooperative in the Nationalist Party’s propaganda operations, providing false information
to American reporters and taking the trouble to go back home to spread the Nanking Massacre
propaganda in the U.S.
Ara: Moreover, America at that time, the American mass media in particular, was anti-Japanese
and pro-Chinese. Among them, Henry Luce, publisher of the weekly photo magazine Life, with a
circulation in the hundreds of thousands, was an ardent Sinophile who never hesitated to say that
he would do anything in his power for Chiang Kai-shek. He favored Chiang Kai-shek to such an
extent that he was referred to as Don Quixote by puzzled fellow Americans. As a consequence,
the image of the Nanking Massacre portrayed by the missionaries and newspaper reporters in Life
and other media effectively permeated the American community.
After Japan and the U.S. eventually entered war, the Nanking Massacre became a major
propaganda tool as a good example of the Japanese atrociousness, together with such popular
phrases as “Remember Pearl Harbor” and “Bataan Death March”. In addition to the allegedly
despicable cunningness behind the surprise attack on Pearl Harbor, the “Nanking Massacre”
described by the missionaries was typically used to illustrate the Japanese cruelty.
Furthermore, even after the U.S. Army occupied Japan, this American-bred image of the
Nanking Massacre was used in Japan as “war-guilt” propaganda and told as a true story to
promote as to what had really happened. So, I should say that particular American missionaries
and reporters had played tremendously effective roles in the “Nanking Massacre” propaganda
campaign.
The Nanking citizens did not know about the “Massacre”
Interviewer: By the way, in your new book, a lot of pages are devoted to explain how the
“Nanking Massacre” has been addressed in the postwar years.
Ara: Well, that is because if you examine how the “Nanking Massacre” was dealt with after the
War, you will clearly see that the “Nanking Massacre” was propaganda warfare.
The Nanking Incident came to be seen as the “Nanking Massacre” ever since the Tokyo Trials
took it up. Most interestingly, at the time when the war finally ended and before the Tokyo Trials
were held, the very citizens of Nanking did not know about the “massacre”.
To be specific, on August 29, 1946, the Chinese Nanking District Court Prosecutors Office
submitted to court an investigational report titled Crimes Committed by the Enemies, in which
were written “340,000 victims of killing” and as evidential proof for this, “Chinese testimonies
regarding five mass murder incidents” and “Burial records by two charity organizations.” In other
words, it was not until nearly 8 years after the battle of Nanking of December 1937 that the
allegation of 300,000 massacre victims sprang up for the first time.
For that matter, when the Nanking District Court began the investigation to make this report,
that is, at the end of 1945, none of the citizens of Nanking reported that they were victims of the
atrocities committed by Japanese troops. According to the report, very few citizens voluntarily
filed a case of killing by the Japanese Army, and some even denied the occurrence of such a
matter.
The report of the Nanking District Court maintains that the scarcity of witnesses was due to
harsh hindrance on the part of the Japanese Army, but this is a sheer lie. Let me explain why. On
August 10, just before the War ended, as soon as news spread that Japan would accept the
Potsdam Declaration on the condition that Japan should retain its statehood, joyful celebration
occurred in Nanking on the following morning of the 11th, with loud bursting firecrackers and
jubilant citizens crowding every street. This was only four days before the armistice. That’s how
the Nanking citizens were. Similarly, then, if there had been a massacre, they could not have been
unwilling to testify against the hated enemy after the Japanese Army had surrendered and the
Nationalist Party had come to re-take the city.
However, the reality was that there was no massacre committed in the first place and so, the
citizens of Nanking could only describe Nanking as they actually saw it. The citizens of Hankou
or Chongqing would have testified in accordance with the massacre story then detailed in the
Nationalist Party newspapers. Fortunately, Nanking was under control of the Japanese Army, and
the information from Chinese newspapers did not reach Nanking. In other words, since the
citizens of Nanking were free from the Nationalist Party propaganda operation, and based on their
own experiences, all they could answer was “there was no massacre”.
Of course, the Chinese did not just sit and wait. Seeing that there was no witness of massacre
coming forth whatsoever, the Nationalist Party sent a memorandum to various organizations,
pressing them to speak up in its favor. Finally, some came up as witnesses and their accounts
became “the testimonies by Chinese people regarding five mass murder incidents”, which were
also presented at the Tokyo Trials.
Why didn’t China touch upon “Nanking”?
Ara: Equally in Japan, the “Nanking Massacre” appeared in newspapers at the time of the Tokyo
Trials, but after the Trials were over, not one article was written about the Nanking Massacre for
23 years, until reporter Honda Katsuichi mentioned it in his serialized article titled Travels in
China in the Asahi Shimbun in 1971.
At the time of the battle of Nanking, many on-the-spot newspaper reporters were covering
Nanking, seeing with their own eyes what was going on and what did not happen. The Asahi
Shimbun sent a staff of more than 90 reporters, photographers and liaison officers, while there was
a crew of over 80 from the Mainichi Shimbun. Those veterans still worked in the news offices of
the Japanese mass media (after the war) and I guess that if some inexperienced young reporter
happened to write something unrealistic about the Nanking Massacre and handed it to the editors,
the old hands would immediately spot the incongruity of the article and would admonish the
junior reporter, saying “You should be ashamed of writing such stuff, son.” However, from 1965
onward, those experienced journalists retired one after another, and Honda’s Travels in China
triggered a new trend of writing articles about the “Nanking Massacre” in Japanese newspapers.
It was not in Japan alone that the “Nanking Massacre” ceased to be discussed in the postwar
years. In fact, the situation was almost the same in the People’s Republic of China. Or rather, the
Chinese Communist Party hardly said anything for more than forty years since the Nanking
Incident occurred. Naturally, the Chinese Communists kept denouncing militarist Japan, using the
term of “three-all” operation, meaning to plunder all, to kill all and to burn all. This term was
originally used to blame the Nationalist Party for its brutal operation.
One of the symbolic examples of this is the Chinese reaction to the visit by a group of ten or so
former Japanese military personnel to China in 1956. The visiting Japanese met with Mao Zedong
and other Chinese dignitaries, talked with the very person that prepared the operational plan for
the battle of Nanking and also discussed the fall of Nanking with the man who had fled from
Nanking with Chiang Kai-shek. They actually visited Nanking. But during their entire visit, the
Nanking Incident was never mentioned.
In 1971, reporter Honda of the Asahi Shimbun went to China to write Travels in China, and at
long last, he mentioned the “Nanking Massacre” in it. But for nearly 10 years after that, the
Nanking issue was not touched upon. It was not until 1981 that the Chinese began to substantially
refer to it. In a Chinese history textbook for middle schools (equivalent to Japanese junior and
senior high schools) titled Chinese History and published in the same year, 1981, the description
of 300,000 victims of the massacre appeared.
Interviewer: Why, then, did the Chinese Communist Party suddenly start to claim that “there
were 300,000 massacre victims”?
Ara: After all, I think it was the Japanese themselves who brought the issue to the surface. In
September 1966, Oya Soichi, Omori Minoru and some other critics and journalist visited China,
and Omori Minoru himself brought up the Nanking Incident and asked the Chinese whether they
could discuss it. In March 1967, Niijima Atsuyoshi, an assistant professor at Waseda University,
visited China and asked the Chinese authorities if he could interview survivors of the Nanking
Incident. Of course, in either case, the Chinese Communists were most reluctant and the
negotiations never went any further.
At the end of 1970, the Asahi Shimbun conveyed its wish to walk around the real sites of the
alleged atrocities committed by the Japanese Army and to interview some of the surviving
victims. The request, this time, was granted six months later. Consequently, several witnesses
were available in Nanking, and their stories were to appear in Honda’s Travels in China as
testimonies of the Nanking Massacre. Much more confirmation is still needed regarding this
matter. But I can say this much: it is the Japanese side that brought the “Nanking Massacre” to the
center stage.
Interviewer: It is a very significant fact that the Chinese side did not say a word about “Nanking” for over forty years.
Ara: On the other hand, it is not true that the Chinese Communist Party knew nothing about the battle of Nanking. Mao Zedong was in Yanan at the time when Nanking fell, but he was fully
aware that Nanking was under siege by Japanese troops and that soon after the fall of Nanking,
Japanese troops reportedly committed atrocities. Although Mao criticized that the Japanese attack
of Nanking lacked sternness in annihilating the enemy, he did not comment on a “Nanking
Massacre” at all. Zhou Enlai, having been involved in the propaganda activities managed by the
Nationalist Party as part of the United Front Nationalist-Communist coalition, must have fully
understood what was actually going on, and yet he did not say a word either.
Both Mao Zedong and Zhou Enlai probably were familiar with the nature of the Nationalist
propaganda operations, and they most likely conceived the Nanking Massacre as demagogic
propaganda, just as in the cases of Shanghai, Taierzhuang, the Huang He (Yellow River) and
De’an. To sum up, the reason why the Chinese Communists did not touch upon the “Nanking
Incident” for more than 40 years after the War is that they fully understood that it was after all
Chiang Kai-shek’s propaganda.

Salt, Candle and Soap

阪田寛夫の美しい詩である。佐良直美が唱った。

一、ロウソクは身をすりへらして

   ひたすらまわりを 明るくしてくれる

   誰もほめてくれるわけじゃないのに

   それでもロウソク 身をすりへらし

   さいごまでロウソクを やめません

   ああこれが 新しいつながり

   塩、ロウソク、シャボンになりたい

   それがわたしの よろこび

   それがわたしの よろこび

 二、塩もまた身をすりへらして 

   まわりのいのちを よみがえらせるため

   誰もほめてくれるわけじゃないのに

   ましろい結晶 おしげなく棄て

   とけてあともなく 消えていく

   ああこれが 新しいつながり

   塩、ロウソク、シャボンになりたい

   それがわたしの よろこび

   それがわたしの よろこび

Barren Land in the Snow

おはようございます。

丸山薫の詩集「北を夢む」を、本棚から久しぶりに取り出してきている。

日本の政治経済は、雪に埋もれた曠野のようだ。貯えもすくなったから、色々なことが心に沁み渡るようになって来ている。空とぶ鳥を地に釣る者も出る気配だ。

曠野

私の住むこの北の国よりも更に北にひろがる

一望 雪に埋もれた曠野の友が語った

「鴉(からす)のろうそく焼き」とう奇妙な風習がある

雪の野原に穴を掘って

その底に何かの餌(えさ)を投げて入れて置き

空とぶ鳥を地に釣るのだという

さて、その獲物をろうそくの灯(ひ)で焼くのだったか

または蒸し焼きにして食べるのだったか

その由って来るところは忘れた

世に味無いことを形容して

「蝋を噛む」という言葉があるが

あの不味いろうそくと零落(うらぶ)れた鳥と曠野の雪と

それら 荒涼の中に足掻(あが)く

一点 炎のように必死な北人の生命との照合(てらしあわせ)が

私に ある可笑しく悲痛な感銘を与えた

だが いまの私の四囲を閉ざす

山また山 雪また雪のこの山里にも

吹雪の止絶える二月の末頃になると

どこからか あれら 空の放浪者がやってくる

かれらは高い杉の梢に翼を憩(やす)め

ふいに 一声 二声 咳き入るように啼いて

すぐに 谷低く翔び去って行く

冬の無為もすでに終わりに近く

家々に食料の貯えも乏しくなっているので

その声は佗(わ)びしく 人の心に沁み渡るのだ

 

Kawamura told No to Nanjing Political Propaganda or Great Massacre School

Chinese authorities in Najing have suspended official contacts with Nagoya city in central Japan after the Nagoya city's mayor cast doubt over the so called Nanjing Massacre of Chinese civillians by Japananese troops in 1937.

The events of December, 1937 in Nanjing are long-standing causes of contention rooted in political differences of opinion between Japan and China. The Chinese view is unified as usual in a totalitarian society, and says that 300,000 people were killed in an orgy of murder, rape and destruction and it is engraved on the memorial walls in Nanjing, which bluntly refers to the Chinese entity of the "Great Massacre School."

Views in Japan range from complete denial to agreement with the Chinese as in the case of ultra leftist group, or worshippers of Maoist Revolutionaries.  According to Japan's Kyodo news agency, Takashi Kawamura, mayor of Nagoya, told Liu Zhiwei, a high-level Chinese official visiting from Nanjing, that he believes only "conventional acts of combat" took place. Accroding to the AFP report, during talks on Monday between the two -- whose cities were twinned in 1978 -- Kawamura, whose father was in Nanjing in 1945 at the end of the Japanese occupation of China, reportedly denied that mass murders and rapes happened.

The local Nanjin city government announced it suspended ties with Naogya and the Chinese Foreign Ministry spokesperson commented on Monday that the Nanjing massacre was  abrutal crime committed by Japanese military during their war and invasion, and thre is irrefutable evidence, adn some Japanese people should correctly understand that period of history and earnestly draw lesseons from history, and etc.

But Chinese rage and accusation is unfounded and in the recent years the centric academic studies diclosed that the story of massacre was fabricated by the propaganda organizations in the Allied forces and Chinese Nationalist Party war commands. And succeeding Chinese Communist Party manipulated the story and utilized as a diplomatic playing card to fuel the Chinese nationalist sentiments against Japan. Chairman Mao has never refered to the Nanjin Massacre probably because he knew that it was only an unfounded propaganda to destroy Japan, and he once bluntly commented and  thanked that Chinese People's Republic was established at the sacrifice of Japan.

The diplomatic clash between Japan and China were intentionally occured by the fueling the fires of unfounded propaganda stories during the height of Japanese- American conflicts raged by the International Communist movement Cominern and its affected FDR government.

The reconstruction of historiographically the days leading upto and following the Japanese invasion of the capital does not seems to show a environment for the massive man slaughters as widely publicized in the propaganda magazines and news reportings. (Please see the books and documents contained in the site, http://www.sdh-fact.com/, e.g. http://www.sdh-fact.com/CL02_1/62_S5.txt)

Please see http://www.sdh-fact.com/CL02_1/78_S4.pdf

Many people in Japan are nowadays feel tired of the Chinese Communist Party's routine, one-sided, fabricated and unified propaganda claiming of self-righteous stories while without any self-criticisms of the activities during the wartime and thorough neglect of of brutalities against Japanese civillians by the Chinese military forces preceding the claimed Nanjing incidents.

In September 2010, surrounding the unfounded territorial claims by China,  there occured again an incident that a Chinese fishing boat collided with the Japanese coast guard patrol boat. Youtube movies disclosed by a coast guard officer showed that the incident was done and unilaterally responsible  by the Chinese side but the new left-wing government in Tokyo released the detained fisherman without any trials and application of the due process of law practiced in the country of democracy and Japanese public opinion get very much angry and became harder against the Chinese manipulation of political propaganda which intend to divert the people's frustration targeting Japan as a prey outside China.

The statement of the Mayor of Nagoya are now generally supported by the Japanese citizens and seems to be widely shared  that the prejudiced accusation or organized Chinise political propaganda should not be accepted by the political leaders in Japan including Mr Kawamura of Nagoya.

The Mayor's statement may have have strenghthened the position that the unfounded accusation or fabricated war propaganda against Japan should be rectified accroding the historical facts and its verifications.

Japan now stands on its own feet and discarded the dependency and occupation mindset imposed after the defeat of the War on the continent and in the Pacific ocean, and Chinese governmet in Beijing seems to be not so keen yet to the truly transformed Japan,  after the massive earthquake and malfunctioning of the foreign made nuclear reactors,  to emerge as an independent and respectable sovereign nation in the turbulent world.

The Memoir of President Hervert Hoover and FDR's Blunders

フーバー大統領の回想録の衝撃─いまこそ、自虐史観から脱却せよ

昨年12月、日米開戦から七十周年を迎えた。その直前に一冊の回想録が刊行された。ジョージ・ナッシュ氏が編集したフーバー大統領の回想録である。ここには,大東亜戦争の歴史の書き換えを迫る重大な記録が含まれている。千ページ近くに及ぶ大著で或る。

ルーズベルトが、日本を戦争に引きずり込んだ。

── 昨年十一月に刊行されたフーバー大統領の回想録『Freedom Betrayed(裏切られた自由)』(ジョージ・ナッシュ編)のどこに注目すべきか。

フーバー大統領死去から実に四十七年の歳月を経て刊行された同書は、フランクリン・ルーズベルト大統領を厳しく批判しており、同書の刊行はいわゆる「東京裁判史観」清算のきっかけになるほど重大な意味を持つ。例えば、フーバーは回想録の中で、次のように書いている。
 「私は、ダグラス・マッカーサー大将と、(一九四六年)五月四日の夕方に三時間、五日の夕方に一時間、そして、六日の朝に一時間、サシで話した。(中略)
 私が、日本との戦争の全てが、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望であったと述べたところ、マッカーサーも同意して、また、一九四一年七月の金融制裁は、挑発的であったばかりではなく、その制裁が除去されなければ、自殺行為になったとしても戦争をせざるを得ない状態に日本を追い込んだ。制裁は、殺戮と破壊以外の全ての戦争行為を実行するものであり、いかなる国と雖も、品格を重んじる国であれば、我慢できることではなかったと述べた」
 これまでも、チャールス・A・ビアード博士らが日米戦争の責任はルーズベルトにあると主張してきた。対日石油禁輸について、ルーズベルト大統領から意見を求められたスターク海軍作戦部長は、「禁輸は日本のマレー、蘭印、フィリピンに対する攻撃を誘発し、直ちにアメリカを戦争に巻き込む結果になるだろう」と述べていた事実も明らかにされていた。しかし、ビアードらの主張は「修正主義」として、アメリカの歴史学界では無視されてきた。つまり、ルーズベルトの責任がフーバーの口から語られたことに、重大な意味があるのだ。
 『フーバー回想録』には、対日経済制裁について次のように明確に書かれている。
 「…ルーズベルトが犯した壮大な誤りは、一九四一年七月、つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその一カ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが本質的には戦争であった。ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三にわたって、そんな挑発をすれば遅かれ早かれ(日本が)報復のための戦争を引き起こすことになると警告を受けていた」

天皇陛下の和平提案を退けたルーズベルト

── まさに、ビアードらの主張を裏付けるものだ。ルーズベルトは日本を無理やり戦争に引きずり込もうとした。ルーズベルトは真珠湾攻撃前から日本本土爆撃を計画していたともいう。

アラン・アームストロングは、『「幻」の日本爆撃計画―「真珠湾」に隠された真実』(塩谷紘訳)の中で、真珠湾攻撃の五カ月前にルーズベルトが日本爆撃計画を承認していたことを明らかにした。その計画は「JB─355」と呼ばれるもので、大量の爆撃機とパイロットを中国に送って、中国から日本本土を爆撃しようという計画だった。
 フーバーは回想録で「スティムソンの日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその幕僚は、日本側から目立った行動が取られるように挑発する方法を探していたのだ。だから、ハルは、馬鹿げた最後通牒を発出して、そして真珠湾で負けたのだ」と書き、ルーズベルトが近衛総理の和平提案受け入れを拒否したことについては、次のように批判している。
 「近衛が提案した条件は、満州の返還を除く全てのアメリカの目的を達成するものであった。しかも、満州の返還ですら、交渉して議論する余地を残していた。皮肉に考える人は、ルーズベルトは、この重要ではない問題をきっかけにして自分の側でもっと大きな戦争を引き起こしたいと思い、しかも満州を共産ロシアに与えようとしたのではないかと考えることになるだろう」
 徳富蘇峰は、「日本が七重の膝を八重に折って、提携を迫るも、昨年(昭和十六年)八月近衛首相が直接協商の為に洋上にて出会せんことを促しても、まじめに返事さへ呉れない程であった。而して米国、英国・蒋介石・蘭印など、いわゆるABCDの包囲陣を作って蜘蛛が網を張って蝶を絞殺するが如き態度を執った。而して、彼等の頑迷不霊の結果、遂に我をして已むに已まれずして立つに至らしめたのだ」(『東京日日新聞』一九四二年三月八日付)と書いていたが、七十年という歳月を経て、ようやくフーバー大統領の回想録によって、蘇峰の主張が裏付けられたのだ。(近衛は、一九四五年十二月十六日未明に自決した。遺書の内容は概要次のようなものだった。
特に僕は、支那事変に責任を感ずればこそ、この事件解決を最大の使命とした。そして、この解決の唯一の途は、アメリカとの諒解にあるとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。そのアメリカから今犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思う。
 つまり、ルーズベルトは近衛の思いを踏みにじり、和平提案を退けたのである。)

フーバーは、さらに重大な事実を記録している。天皇陛下は、一九四一年十一月に駐日米国大使を通じて、「三カ月間のスタンドスティル(冷却期間)をおこう」との提案をされたが、ルーズベルトはこの提案をも拒否したという事実である。アメリカの軍事担当も、冷却期間の提案を受け入れるべきであるとルーズベルト大統領に促していたのだ。
 フーバーは、「日本は、ロシアが同盟関係にあったヒトラーを打倒する可能性を警戒していたのである。九十日の冷却期間があって、(戦端開始の)遅れがあれば、日本から全ての糊の部分を取り去ることになって、太平洋で戦争する必要をなくしたに違いない」とも書いている。
 当時、アメリカでは戦争への介入に反対する孤立主義的な世論が強かった。ルーズベルトは欧州戦線に参戦するために、日本を挑発し戦争に引きずり込んだのである。日本国内にも日本を日米開戦に向かわせようとする工作員が入りこんでいた。実際、リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動を行い、そのグループには近衛のブレーンだった尾崎秀実もいた。

── ルーズベルト自身、反日的思想を持っていたとも言われる。
彼は日系人の強制収容を行い、「日本人の頭蓋骨は白人に比べ二千年遅れている」と周囲に語るなど、日本人への人種差別的な嫌悪感を強く持っていたとも指摘されている。

南京大虐殺を捏造したアメリカ

── 連合国が主張してきた「正義の戦争」の虚構性がはっきりしたいま、我々は、大東亜戦争は自存自衛の戦争だったと堂々と主張できるはずである。もとをただせば、欧米列強の植民地支配こそが元凶だ。

『フーバー回想録』は、トルーマン大統領による日本への原爆投下について、「日本は繰り返して平和を求めていたにもかかわらず、アメリカの全ての歴史のなかで、他に比較するもののない残忍な行為であった」と厳しく批判している。
敗戦によって日本は占領下に置かれ、この時代に徹底して歴史の書き換えが行われた。一九四五年十一月三日、アメリカ政府は連合国軍最高司令官に対し、次のように命令した。
「貴官は、適当な方法をもって、日本人民の全階層に対しその敗北の事実を明瞭にしなければならない。彼らの苦痛と敗北は、日本の不法にして無責任な侵略行為によってもたらされたものであるということ、また日本人の生活と諸制度から軍国主義が除去されたとき初めて日本は国際社会へ参加することが許されるものであるということを彼らに対して認識させなければならない」

 そして、報道、教育を通じた洗脳によって、アメリカに都合のいい歴史観を植え付けていったのだ。その際、重要な役割を演じたのが、GHQの部局の一つ民間情報・教育局(CIE)である。GHQは、真珠湾攻撃から四周年にあたる一九四五年十二月月八日から、「太平洋戦争史」を全国の新聞に掲載させた。連載は十回にわたり、満州事変から終戦に至るまでの「日本の悪行」を強調した。見出しには、「隠蔽されし真実、今こそ明らかに暴露 恥ずべし、南京の大悪虐暴行沙汰」といった言葉が踊った。
 GHQはまた、ラジオを有効な手段として活用した。同月九日からはNHKラジオが「太平洋戦争史」をドラマ仕立てにした「真相はかうだ」を放送し始めた。
 同月十五日には神道指令を発し、「大東亜戦争」や「八紘一宇」の語の使用を禁止、国家神道、軍国主義、過激なる国家主義を連想するとされる用語の使用も禁じた。こうして、「大東亜戦争」に代わり、「太平洋戦争」という言葉が定着していく。自虐史観の定着に手を貸したのが、日教組などの反日左翼勢力である。

── 対日戦後政策は一九四二年には作成されていたともいう。
田中英道氏は『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』(展転社)において、フランクフルト学派に影響を受けたOSS(戦略情報局)がGHQの占領政策のお膳立てをしたと主張し、東京裁判もまたOSSによって準備された路線の上に立って行われたと説いている。
 また、ルーズベルト政権傘下のニューディーラーにはコミンテルンと通じていた者もいた。フーバーの回想録も、ルーズベルトの容共的姿勢を次のように批判している。
「ルーズベルトの第二の失策は、共産ロシアを一九三三年十一月に承認したことである。四人の大統領と、五人の国務長官にわたって、共和党か民主党かを問わずに、そのような承認行為をずっと拒否してきた。宗教の信仰や人間の自由を失わせ、民族や国家の独立をぶちこわすような黴菌を運ぶように、アメリカに浸透してくることを知っていたからである。米国が共産ロシアを承認すれば、ソ連の威信と国力が高まることを知っていた。ルーズベルトが合意したのであるが、共産主義は、米国の国境の内側では活動しないという、狡猾な合意をしたが、その約束は守られることはなく、四十八時間後には反故にされた。共産主義の機関車と、それに乗った共産主義の乗客が、政府と高いレベルに入り込み、第五列の活動がアメリカ全土にひろがり、大統領であった十二年間の長きに亘って、反逆者の行為が続いた」

自立自尊の日本を確立すべきときだ。

── フーバーの回想録がこの時期に公開されたことに特別な意味はあるのか。

昨年十二月は、日米開戦七十周年という節目の年だった。ビアード博士の「ルーズベルトの責任─日米戦争はなぜ始まったか」は一九四八年に刊行されたが、不買運動が起きて禁書同然に扱われていた。その幻の名著が、それに合わせて藤原書店から発売された。

 フーバー回想録の刊行は、アメリカの政治外交潮流の変化とも絡んでいるように見える。十一月の大統領選を控えたアメリカでは、一月十日に行われたニューハンプシャー州やミネソタ州の共和党予備選挙で、ロン・ポールが二位につけた。彼は、アメリカの対外介入政策に一貫して反対し、アフガン戦争にもイラク戦争にも反対してきた。在日米軍の撤退も主張してきた。こうしたポールの主張が支持を広げているのは、対外介入主義、国際主義に対するアメリカ国民の不満が高まっているからではなかろうか。
 「世界に民主主義を押し広げる」という目標を掲げ、対外介入路線を唱えてきたネオコンの指導者がルーズベルトを高く評価していることに注目したい。例えば、ネオコンの指導者アーヴィング・クリストルは、二〇〇四年九月の『ウイークリー・スタンダード』に、セオドアルーズ・ベルト、レーガンととともに、フランクリン・ルーズベルトを英雄だと称賛しているのだ。ルーズベルト家は一七世紀にオランダからニューヨーク(ニューアムステルダム)に移住した家系で、中国とのアヘン貿易で財をなしたとされる。
 ちなみに、ネオコンの世界観は、世界革命・永続革命を唱えるトロキツストの世界観と同じだという見方もある。事実、アーヴィング・クリストルの息子のウィリアム・クリストルは、学生時代に、トロツキスト系青年組織「青年社会主義者同盟」のメンバーだった。こうしたネオコンに対しては、近年保守派の間から厳しい批判が展開されてきた。例えば、過去に大統領選挙にも出馬した経験を持つ評論家のパトリック・ブキャナンは、「アメリカ第一」を掲げて「イスラエルのための外交」を批判、イラク戦争にも強硬に反対してきた。
 今回刊行されたフーバー回想録に対して、いち早く注目した人物の一人こそ、このブキャナンであった。彼は、著書『帝国でなく共和国を』において、「第二次大戦でアメリカがドイツや日本と戦ったのは戦略的に間違っていた」と主張していたのである。いまアメリカでは、オキュパイ・ウォールストリートの掛け声のもと、金融機関や多国籍企業を批判する国民の声が強まっており、その矛先はやがて、金融機関や多国籍企業が支持する国際主義、グローバリズム路線へ向かうかもしれない。

── フーバーの回想録は、自虐史観、東京裁判史観からわが国が脱するチャンスになる。

これを、日本人が誇りを取り戻すきっかけにしなければならない。同時に、アメリカの外交思潮の変化を見究めながら、自立自尊の日本を確立すべきときだ。

御製「戦をとどめざりしくちをしさ」を思う。

Freedom Betrayed: The Memoir of President Hervert Hoover and the Restoration of the Pride of Japan

昨年12月8日、憲政記念館で、史実を世界に発信する会が、開戦70周年にちなみ、「アメリカはなぜ対日戦争を仕掛けたのか」と題する講演会を開催した。講堂が満員になる盛況だった。YouTubeに掲載され、急逝したブロガーの花うさぎこと故安仲徹男氏が講演要旨をまとめた。①1951年5月3日、マッカーサー元帥は、上院軍事外交委員会において、「日本の真珠湾攻撃は正当な「自衛権」の行使と証言。②経済封鎖は戦争行為であることはパリ不戦条約作成者の一人であるケロッグ国務長官が上院軍事外交委員会で(真珠湾攻撃の13年前の12月7日)認めた。③日本本土爆撃計画が大統領に提出されたのは、真珠湾攻撃の5か月前の7月18日、OKのサインを7月23日にした。
蒋介石の米国人傭兵が操縦する350機の戦闘機と150機の爆撃機が大陸から日本各地に焼夷弾を投下する計画だったが、飛行機の引き渡しが遅れ真珠湾攻撃が先になった。戦争回避をめざす交渉打ち切りの通告が攻撃開始後に遅れた懈怠は糾弾されるが、最後通告を米側は傍受解読して読んでいた。1941年12月8日午後12時30分から、ルーズベルト大統領の米国議会の両院合同会議で演説して、「昨日、1941年12月7日、この永遠に汚辱(Infamy)に生きる日に、アメリカ合衆国は、日本帝国の海軍及び飛行部隊に突然、そして計画的に襲撃されました。」と、全米にラジオ放送したが、日本に対する先制爆撃計画については触れず、卑劣な騙し討ちとするリメンバー・パールハーバーの怒号のみが残った。1991年12月26日にABCが、バーバラ・ウォルターズ氏が司会する秘密爆撃計画についての特集テレビ番組を放送したが話題にならず、(YouTubeのhttp://youtu.be/C1cX_Fr3qyQ参照)日本爆撃計画の全貌が明るみに出たのは、戦争が終わって52年も経った1997年である。米陸軍航空隊シェノールト退役大尉がロークリン・カリー大統領補佐官等の支援の下で立案して、大統領の承認を得た計画の全貌が、アラン・アームストロング氏により2006年に出版され、塩谷紘氏を翻訳者として、2年後に「「幻」の日本爆撃計画―「真珠湾」に隠された真実(日本経済新聞出版社)として出版された。日本への先制爆撃計画「JB-355」を承認したルーズベルト大統領のサイン入り文書の写真が掲載されている。ちなみにカリー補佐官は、ソ連に機密情報を提供したとして1956年に米国籍を剥奪され、冷戦のさなかに南アメリカのコロンビアに亡命した人物である。ルーズベルト政権中枢に共産主義者が浸透していたことは、対ソ諜報活動をまとめた「ベノナ文書」で明らかにされている。
さて、昨年七月に田中英道教授の「戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」」(展転社)の出版も、日本が戦後政治の分水嶺を越えた証左である。戦時中の戦略情報局(OSS)文書が解禁され、戦後史の根本的な書き換えが始まり、同書は、ルーズベルト大統領が社会主義者で有り、親中反日に固まった人物で、日本の十八都市に原爆投下命令書にサインをしたこと、対日戦後政策が昭和17年には既に作成されており、フランクフルト学派に影響を受けたOSSがGHQの占領政策のお膳立てをしたとする。「従軍慰安婦」問題の発端がOSSの謀略にあるとし、野坂参三の帰国についてもOSSの後押しがあったと指摘して興味深い。近衛文麿がハーバート・ノーマンに殺されたと解説して、OSSが中国の共産化を成功させ、ケーディス大佐を中心とする民政局の心理作戦が戦後のメディアや社会風潮に残存してしまった、日本をドイツのように犯罪国家に仕立てた経緯を述べて、ソ連がビヒモスであったことをフランクフルト学派が追求しないことは世界を荒廃させた原因だと解説する。
さて、1948年の原著出版元のエール大学出版局に不買運動が起きて禁書同然に扱われた幻の名著、チャールス・A・ビアード博士の「ルーズベルトの責任ー日米戦争はなぜ始まったか」が、藤原書店からこの年末始に発売された。ルーズベルト大統領が米国を戦争に巻き込んだ張本人だと糾弾した大著である。
フーバー大統領の回想録「FREEDOM BETRAYED(裏切られた自由)」(ジョージ・ナッシュ編)が死後47年を経て昨年秋に出版された。戦後訪日し、マッカーサーと会談して「日本の戦争の全てが戦争をしたい「『狂気の男』の欲望によると指摘して、マッカーサーが同意した」等と記録していた。日本の近代史を書き換えを迫る新事実が続々と内外で公表され、東京裁判史観の混乱と原因を清算する時が来たようだ。
フーバー大統領の回想録は、957ページに及ぶ大部冊で有り、全文を読むことには困難があるが、その重要な部分を紹介する。
編者のジョージ・ナッシュ博士の経歴は、次のリンクのサイトに掲載されているが、英文であり、長文に渡るので、リンクを紹介するにとどめる。http://www.kirkcenter.org/index.php/nash/
フーバー元大統領は、終戦直後に、来日して、マッカーサー将軍と会見している。その会話記録のなかで、「太平洋における第二次世界大戦は、狂った男の戦争に入りたいという欲望から生じた結果であると直裁に述べたと記録している。狂った男とは、フランクリン・ルーズベルト大統領のことである。会見記録は、①米国は1941年に日本との戦争を回避できたこと②米国は、原爆を投下しなくても1945年に日本に勝利できたと、フーバー大統領が回想録に記録していることを裏付ける資料である。
第九文書と題する記録を仮に翻訳してみたい。
「日本
 1946年5月、4,5,6日  東京
私は、ダグラス・マッカーサー大将と、5月4日の夕方に3時間、5日の夕方に1時間、そして、6日の朝に1時間、サシで話した。

マッカーサーは、アジアの同盟国と南太平洋の全ての運命が大切な時期に補給が細って飢餓状態になっているとして、ルーズベルト大統領に対して苦々しく考えていた。マッカーサーは、ひとりあたり3トン半の補給を受けているが、北アフリカがひとりあたり14トンの物資の補給があったのに比べると非常に少なかった。
マッカーサーは、ルーズベルトは、いろんなやり方で 復讐心(vindictiveness)を示したと述べた。マッカーサーだけが、集団での意見交換の会合に呼ばれていなかった。ホワイトハウスのコラムニスト連中は、マッカーサーを卑下することが多く、(その点、ルーズベルトが、マッカーサーのことをマクレラン(南北戦争の時にリンカーン大統領に反対した軍人)と呼び、問題児と呼んでいたことを確認できる)。ホノルルでの意見交換会議があったときに、マッカーサーは、大統領との個別の会見は予定されていなかった。大統領の演説を起草を担当していたローズマンと海軍の連中が、海軍の指揮下で、北太平洋のルートで軍をすすめる計画を推した。そこで、マッカーサーは強硬に10分間、サシで大統領に会見をすることを要求している。マッカーサーは大統領とサシの会談で、もし、194年の選挙以前に進展があることを期待するのであれば、南ルートで、島伝いにフィリピンに侵攻することによってのみ、達成されると大統領に述べた上で、1944年の十一月にもフィリッピン上陸が可能であると進言している。マッカーサーは、ルーズベルトの関心を喚起して、承認を取り付けた。この会談の一部始終を、ローズマンは壁耳をして、聞き耳を立てていた。ルーズベルトは、ニミッツ提督が激怒したとされるが、海軍の提案を受け付けなかった。マッカーサーは、ニミッツが、自分を許していないと述べた。マッカーサーに寄れば、ルーズベルトが関心を持ったのは、自分自身の政治的な可能性だけで、優れた戦略を論じる観点からは、効果のない話であったとしている。
マッカーサーはフィリピンを取り返して以降は、いつでも日本と和平ができたと考えている。日本の軍事的なギャングどもは、自分たちを支えている足が切り落とされれば、敗北することを知っていたからである。しかし、ルーズベルト大統領は、日本に対して最後の詰めの行動を自ら指揮することをしないと決め込んでいた、とマッカーサーは言う。最後の(日本を降伏させる)式は、ニミッツ提督に行わせる手順であった。沖縄戦での被害が比較的に大きかったことが、そして、(1語単語が欠けている)トルーマン大統領に影響をあたえ、それに、世論が加わったことで、最後の決断が行われた。
私は、マッカーサーに対して、トルーマンにあてて1945年の五月半ばに、覚え書きを提出したことを紹介して、その内容は、日本と和平を達成することができれば、我々の主な目的は達成されるという内容であったことを伝えた。マッカーサーは、その通りが正しく、そうしていれば、すべての大損害、複数の原子爆弾、満州に対するロシアの侵入も避けることができたと述べた。
私は、日本の戦争の全体が、戦争に入りたいという狂人の欲望であったと述べたところ、マッカーサーも同意して、又、1941年七月の金融制裁は、挑発的であったばかりではなく、日本が、その制裁が除去されなければ自殺行為になったとしても、戦争をせざるを得ない状態に日本を追い込んだ。制裁は、殺戮と破壊以外の全ての戦争行為を実行するもので、いかなる国と雖も、品格を重んじる国であれば、我慢できることではなかった。マッカーサーは言葉を続けて、ルーズベルトは、1941年の九月に近衛と和平を達成できた筈だと述べ、そうすれば、太平洋と、中国の自由、そしておそらく満州の自由を確保するという米国の目標を全て獲得していたに違いない。また、マッカーサーは、近衛は、天皇から、完全撤退に合意することの承認をもらっていたと述べた。
マッカーサーは、ポーリーとFEC それに報復的なリベラルの連中は日本を破壊しようとしていると述べた。マッカーサーは、そのリベラルの連中の報告や態度については、感情を高ぶらせた。その一例として、ポツダムでの合意挙げて、マッカーサーは、建設的な計画であると言う対局の精神から作られたとした。マッカーサーは、日本が平和時の経済を取り戻して、産業を再構築すれば戦後の賠償を払うことができるが、そうでなければできないと、述べた。そうした理由で、必要なことは、武器の製造工場を破壊し、日本人を武装解除して、それを監視するための委員会を継続して、一時間くらい離れた島に飛行場の持つことであるとした。マッカーサーは、日本の軽工業あるいは重工業のいずれをも抑制することは必要ではないとして、現在工場施設を取り除くという脅しがあるために、産業再生に向けた行動ができない状況にあると述べた。
マッカーサーは、マーシャルが中国で成功する確率は、2千分の1であるとして、また、ソ連との交渉においてロシアの妨害を細部に亘って説明した。ソ連は、持続的に日本ジャップに政治宣伝をおこなっており、日本の捕虜の間で共産主義の学校を作り、日本に浸透作戦を行っている。もし、日本の生活水準が低下して重い賠償金が課せられることになれば、日本は、自由を求めて、又ロシアの保護を求めるために共産化する可能性があり、アジアにおける共産主義の潮の流れに対抗して、日本から太平洋に広がる思想的なダムを造ることが必要だと述べた。
迅速に止めなければ、ソ連は満州国に傀儡国家を作る可能性があるが、軍事手段を持って阻止するのではないと、マッカーサーは考えている。

一般的に言って、マッカーサーは、太平洋における戦争の結果について悲観的な見方をしている。
私は、マッカーサーに対して、米国内で、1948年の大統領選挙の立候補になることを期待する向きが多いとのべて、自分もマッカーサーが当選することを信じるとのべたところ、マッカーサーはその気がないとのべたので、そうだろうと結論づけた。
本国アメリカでは、道徳的なそして政治的な退化現象が大きくなっており、不満や、極度の華美、賭博などが、大きくなっていると述べて、1946年の選挙のあとの適当な時に、帰国して米国国民の評価を受けるためには、道徳問題と、政府、そして外国との関係の三つの課題についての演説会を行うことができれば、洗者聖ヨハネのようにアメリカが必要とする人物になることができるとのべたところ、マッカーサーは、何時が適当な時期なのか教示して頂ければ、実行に移そうと述べた。マッカーサーは、30年から32年までの、我々の関係について同情的にに述べ、更には、マッカーサーが、(フーバーの)準備計画を防御する為に、ルーズベルトとの確執が起きた最初の理由であったことや、ルーズベルトがその計画の削減のためにいかにこだわったかなどについて縷々述べた。私が、日本人のための食糧計画に反対するのではないかとおそれていたらしく、マッカーサー将軍の部下から提案されていた、栄養の最低を千キロカロリーにすることに賛成ことに感謝した。その数字は、生存するためには低い数字であるガ、それまでは、もっと以上の栄養がとれないと失望状態にあったからである。
マッカーサーの部下の一ダースくらいの数の人と、戦争と平和、日本経済、アジアの諸問題について意見を交換した。彼等の心を占めていたのは、ロシアの脅威であった。だから、日本を訪れていた空軍の司令官のひとりは、私に真剣な顔をして、90日以内に戦争にならないだろうかと尋ねてきた。空軍の組織をガラガラにしたばかりの時だったから、早く、何とか空軍の組織の立て直しをしなければならないと考えたらしい。私は、大丈夫だ、ロシアは、収穫時期を過ぎなければ戦争を起こさない(時は五月で、北半球の秋の収穫の時期は八月か9月である。)、答えておいた。
注。マーシャルは、中国で国民党と共産党を和解させるために訪中していたし、統一中国を造ることをめざしていた。ポーリー(Edwin A. Pauley)は、トルーマンが任命した人物で、ヨーロッパではドイツの賠償についてのアメリカ代表を務め、日本と、ソ連が占領した朝鮮と満州の日本の財産についての米国の賠償問題に関する代表団の団長を務めた。)
フーバー大統領の回想録の最後の章が、失われた政治家道と題して、七年間のうちに19回の大失敗があったとする。原稿は、1953年に執筆されたとされるが、「私は、戦争に反対して、その戦争に関するあらゆる政策に反対した」と書き、しかも、「言い訳をすることもなく、残念に思うこともない」と、ルーズベルトとトルーマンの外交政策を強烈な口調で糾弾している。
仮の訳を続けてみよう。
「この世に惨害をもたらしたのは、スターリンとヒトラーだとして、しかも悪魔の様な人物であるから、いかなる検証も要しないとして非難する一方で、トルーマンとルーズベルトを擁護する向きがある。しかし、米国と英国の政治家の失われた政治家道を見直してみれば、スターリンとヒトラーに対処するに当たって大失敗をしたことは明らかで言い訳の余地がなく、こうした大失敗がなければ、西側世界に大災害をもたらすこともなかった。混乱する状況のなかで、誰に責任があり、何時、何の失敗があったのかを読者が忘れないように記録することとして、具体的な事実とその理由を、この回想録のなかで、詳述している部分に言及して読者のその章を紹介することとする。

1933年の世界経済会議
ルーズベルト大統領が国際的な政治家道に失敗した最初の重要な事例である。世界経済会議は、英国のマクドナルド総理大臣と当時の大統領の私が準備した会議で、1933年一月に開催を予定していたが、ルーズベルトが破壊した。ルーズベルトが選挙にかって、6月に開催を延期した。その時丁度世界は、世界的な不況から経済の回復基調にあったが、一方で通貨戦争があり、貿易障壁を増加させる戦争があった。準備作業が専門家の手によって進められ、ワシントンに十人の総理大臣が集まって、国際決済に金標準を用いることに合意した。それにもかかわらず、会議の最中にルーズベルトは翻意して、金本位制の導入にひびを入れたために、会議は不調となり、達成する結論がなく死んでしまった。ルーズベルトの国務長官であったハルは、この会議の失敗が第二次世界大戦の根っこにあるとして、ルーズベルトのとった行動を表にだして非難している。

ルーズベルトの第二の失策が、共産ロシアを1933年11月に承認したことである。四人の大統領と、五人の国務長官にわたって、共和党か民主党かを問わずに、そのような承認行為を、(国際共産主義運動の北。目的と手法の全体を知った上で)ずっと拒否してきた。宗教の信仰や人間の自由とを失わせ、民族や国家の独立をぶちこわすような黴菌を運ぶように、アメリカに浸透してくることを知っていたからである。米国が共産ロシアを承認すれば、ソ連の威信と国力が高まることを知っていた。ルーズベルトが合意したのであるが、共産主義は、米国の国境の内側では活動しないという、狡猾な合意が約束されたが、その約束は守られることはなく、48時間後には反故にされた。共産主義の機関車と、それに乗った共産主義の乗客が、政府と高いレベルに入り込み、第五列の活動がアメリカ全土ににひろがり、大統領であった12年間の長きに亘って、反逆者の行為が続いた。

Munich

Third. I am not disposed to condemn the agreement at Munich September 1938 for transfer of Sudeten Germans to the Reich because it was a hideous heritage from Versailles which made such action inevitable. However, by Munich  Hitler opened the gates for consummation of his repeated determinations to invade Russia. Having gone that far in providing for the inevitable war between the dictators, the lsot statesmanship was then trying to stop these monsters from mutual destruction.
つまり、ヒトラーとスターリンという二つの怪物が戦ってつぶし合いになることが不可避の状況にあったのに、政治家道を失った者は、そのつぶし合いを止めることに努力したのである。
第四の失敗は、イギリスとフランスとが、ポーランドとルーマニアの独立を1939年に 保証したことである。その時点で、これまで、ヒトラーとスターリンとが戦うことが避けられない状況で在って、その際ヨーロッパの民主主義国は介入しない方針をとっていたのであるが、その方針が変わったのである。
これは、ヨーロッパ外交史のなかでも、力関係の外交を見た場合に、歴史上最大の失策であった可能性が高い。イギリスもフランスも、ポーランドを侵略行為から救い出す力がなかったのにもかかわらず、この保証をすることで、ヒトラーとスターリンとの間に、民主主義の体制を餌食のように投げ出すことになった。
スターリンをヒトラーから守ることになったばかりか、スターリンの影響力を、一番高く買った者に売ることができるようになったのである。スターリンは、バルト海諸国と東ポーランドを併合した。スターリンは、ヒトラーから獲物をうばったのである。ヒトラーは、南東ヨーロッパに拡張して、モスクワの共産党の本山を破壊することを放棄したわけではなかったので、まず、前進するためには、西側の民主主義国の中立化をする必要があった。第二次世界大戦の長い汽車がこの、ポーランドの保証という過ちから、発車することになった。ルーズベルトが係わったことは確かであるが、どの程度の関与であったかを確定するには、資料が不完全である。チャーチルは、政権をとっていなかったが、ミュンヘンでヒトラーと妥協してチェンバレンがめちゃくちゃな行動に出ることに貢献した。
第五の誤りは、41年の冬にルーズベルト大統領が、米国がドイツと日本に対して、宣戦をしないで戦争を始めた。これは、数週間前の選挙の約束に全面的に違反する行為であった。1940年の大統領選の公約に違反するものであった。
Failure in Watchful Waiting
Six. In the weeks before Lend-Lease and its war powers were forced upon the American people, Roosevelt knew definitely of Hitler's determination to attack Russia, and he informed the Russians of it. He should have turned away form the undeclared war on Germany, confined Lend-Lease to simple aid to Britain by way of finances, to buy munitions, supplies and ships, thus keeping within international law. Statesmanship at that moment demanded imperiously a policy of watchful waiting.
ルーズベルト大統領は、ヒトラーがロシアを攻撃することを知っていて、ロシアに情報を提供もしていた。ドイツに対する宣戦布告無き戦争を回避するべきであった。貸与法においても、イギリスに対して、金融の方法で、武器を、そのほかの物資や、船舶を購入するとか、国際法を遵守すべきであった。つまり、政治家道は、その事態のなかで、注意深くじっくり待つ政策をとることが必要であった。
アメリカの歴史の全史を通じてもっとも政治家道が失われたのが、ヒトラーがロシアを1941年に攻撃したときに、共産ロシアをを援して、アメリカとロシアが非公然の同盟関係になったことである。ブリテンを救うにはアメリカの軍事力が必要であるとする考え方は例え誤った理論であったにしても、どこかに消えてしまった。
ロシアを米国が支援すると言うことは、共産主義が世界に広がることであった。
ドイツとロシアの戦争に米国は巻き込まれるべきではなく、平和が持続するという最大のチャンスがあったのであるが、それをルーズベルト大統領は、その機会を無視して捉えることができなかった。
いよいよ、フーバーの回想録は、日本について言及を始める。第8番目の大失態として、1941年7月の日本に対する経済制裁に言及する。圧巻である。原文は僅か五行に整理されている。太平洋での日本の戦争は、自衛の戦争だったのである。7月の全面経済制裁は、弾を撃たない戦争であった。戦争を仕掛けたのはアメリカのルーズベルト側であったと、フーバー元大統領は回想録にまとめて書いている。

「第八、第8番目の、ルーズベルトが犯した壮大な誤りは、1941年7月、つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその一ヶ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが本質的には戦争であった。ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三に亘って、そんな挑発をすれば遅かれ早かれ(日本が)報復のための戦争を引き起こすことになると警告を受けていた。」

念の為、回想録の原文を掲げることにしよう。上記の日本語訳は仮の、しかも素人の翻訳であるから、誤解をさけるために。

「Eighth. The eighth gigantic error in Roosevelt's statesmanship was the total economic sanctions on Japan one month later, at the end of July, 1941. The sanctions were war in every essence except shooting. Roosevelt had been warned time and again by his own officials that such provocation would sooner or later bring reprisals of war.」

ハーバート・フーバー元大統領の回想録は続く。
第9番目の失敗が、ルーズベルトが近衛総理大臣の和平の提案を受け入れ拒否したことであると書く。
Ninth. The ninth time statesmanship was wholly lost was Roosevelt's contemptuous refusal of Prime Minister Konoye's proposals for peace in the Pacific of September, 1941.
The acceptance of these proposals was prayerfully urged by both the American and British Ambassadors in Japan.
この和平の提案を受け入れられることを、日本に駐在するアメリカの大使もイギリスの大使も、双方が祈るが如く、和平提案の受け入れを促すものであった。
The terms Konoye proposed would have accomplished every American purpose except possibly return of Manchuria--and even this was thrown open to discussion. The cynic will recall that Roosevelt was willing to provoke a great war on his flank over this remote question and then gave Manchuria to Communist Russia.
近衛が提案した条件は、満州の返還を除く全てのアメリカの目的を達成するものであった。しかも、満州の返還ですら、交渉して議論する余地を残していた。
皮肉に考える人は、ルーズベルトは、この重要ではない問題をきっかけにして自分の側でもっと大きな戦争を引き起こしたいと思い、しかも満州を共産ロシアに与えようとしたのではないかと考えることになるだろう。
以上が、フーバー回想録に Refusal to Accept Konoye's Peace Proposals との題で記録されている。

近衛文麿は、昭和20年12月16日未明に自決したときの「遺書」に、「僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。これに対して深く責任を感じておるが、いはゆる戦争犯罪人として米国の法廷に置いて裁判を受けることは堪へ難いことである。殊に僕は支那事変に責任をかんずればこそ、此事件解決を最大の使命とした。そして、此解決の唯一の途は米国との諒解にある徒の結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から今犯罪人として使命を受ける事は、誠に残念に思ふ。しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへそこに多少の知己が在することを確信する。戦争に伴ふ興奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に基づく流言飛語と是等輿論なるものも、いつか冷静さを取り戻し、正常に伏するときも来やう。是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されやう。」と書いた。
Tenth. The tenth loss of statesmanship was the refusal to accept the proposals which his Ambassador informed him came from the Emperor of Japan for a three months' stand still agreement in November, 1941. Our military officials strongly urged it on Roosevelt. Japan was then alarmed that Russia might defeat her ally, Hitler. Ninety days' delay would have taken all the starch out of Japan and kept war out of the Pacific. As the Stimson diary disclosed, Roosevelt and his officials were searching for a method to stimulate an overt act from Japanese. Then Hull issued his foolish ultimatum and were  defeated at Pearl Harbor. The train of losses and this Japanese victory in the Japanese occupation of all South Asia were incalculable. Further, with loss of sea control , Hitler and Togo were able to destroy our shipping in sight of our own shores.
最後のTogoは、文脈からして、Tojoのミスプリと思われるが、回想録の内容としては極めて重要な内容である。
フーバーの回想録は、昭和16年の11月に, 天皇陛下が3ヶ月間のスタンドスティル、すなわち冷却期間をおこうとの提案を、駐日の米国大使を通じてされたが、ルーズベルトはこの提案をも拒否したと書いている。米国の軍事担当も、冷却期間の提案を受け入れるべきであるとルーズベルト大統領に促している。当時、日本はロシアが、同盟関係にあったヒトラーを打倒する可能性を警戒していたのである。九十日の冷却期間があって、(戦端開始の)遅れがあれば、日本から全ての糊の部分を取り去ることになって、太平洋で戦争する必要を無くしたに違いない。スティムソンの日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその幕僚は、日本側から目立った行動が取られるように挑発する方法を探していたのだ。だから、ハルは、馬鹿げた最後通牒を発出して、そして真珠湾で負けたのだ。損害がどんどん発生して、南アジアでの日本の占領で日本が勝利することは、計算できなかったのだ。更には、制海権を失って、ヒトラーと東条が、米国の海岸が見えるところで、アメリカの船舶を破壊することができるようになったのである。

フーバー回想録の原本の879ページに掲載されている。昭和16年の11月の土壇場で、三ヶ月の冷却期間の提案が日本から行われたとの記述がある。上記の翻訳は素人の翻訳であるので、万一間違いもある可能性があるが、例えば、taken all the starch out of Japan のスターチとは何かよくわからない。慣用句であろう。英語と翻訳の専門家のご意見を頂戴したい。

徳富蘇峰は、昭和17年3月8日東京日日新聞に「日本が七重の膝を八重に折って、提携を迫るも、昨年(昭和十六年)8月近衛首相が直接協商の為に洋上にて出会せんことを促しても、まじめに返事さへ呉れない程であった。而して米国、英国・蒋介石・蘭印など、いわゆるABCDの包囲陣を作って蜘蛛が網を張って蝶を絞殺するが如き態度を執った。而して、彼等の頑迷不霊の結果、遂に我をして已むに已まれずして立つに至らしめたのだ。」と書いているが、ようやく、フーバー大統領の回想録が、70年の時間が経って、徳富蘇峰のその言論がアメリカ側からも裏付けられたと感じる次第である。

第11番目のルーズベルトの壮大な過ちは、1943年1月のカサブランカにおいて、無条件降伏を要求したことである。米軍の助言も、チャーチルの助言も聞き入れずに、新聞の一面の見出しを狙った。敵の軍事作戦と宣伝担当の耳に入って、ドイツ、日本、イタリアとの戦争を長引かせた。ところが、実際の戦争の終わりには、日本とイタリアには、譲歩したのである。ナチスをなくさない限り、平和はないとしたから、ドイツの和平への希望を失わせただけであった。戦争を徹底して遂行したために、ドイツを再建する構造となる基礎も破壊してしまった。
第12番目の過ちは、1943年10月のモスクワでの外務大臣会合で、自由とか民主主義の用語が飛び交うなかで、ロシアが、バルト海諸国、東ポーランド、東フィンランド、ベッサラビア、とブコビナの併合(是はヒトラーが合意していた)に抗議の声が上がらなかったことである。この沈黙は、大西洋憲章における四つの自由の最後の一つを放棄するものであった。

Twelfth. The twelfth error of lost statesmanship was the sacrifice of free nations at the Foreign Ministers meeting at Moscow, in October 1943. Here amid words of freedom and democracy not a word of protest was made against the known Russian intentions to annex the Baltic States, East Poland, East Finland, Bessarabia and Bukovina(which he had in his agreement with Hitler). This acquiescence marked the abandonment of the last word of Four Freedoms and the Atlantic Charter.

第13番目の間違いで有り、ルーズベルトとチャーチルとがふらついて一番混乱した例のひとつが、1943年12月のテヘランでの会議である。ここで、第12番目の失敗であるロシアによるバルトか諸国などの併合が確認され、スターリンが、友好的な「国境の諸国」と名付けた、傀儡政権の七カ国を認めたことである。国際的な道義と独立の約束と、自由な人間として、スターリンに対して反対すべきであった。それまで、こうした併合に対する合意や、沈黙と妥協をスターリンと行うことが必要であるほどの、軍事的な危険は無かったのである。
Teheran and Its Sacrifice of Seven More Nations
Thirteenth. The thirteenth and possibly one of the greatest of all confused wanderings in Roosevelt's and Churchill's statesmanship as at Teheran in December, 1943. Here was confirmation of the acquiescence at the Moscow Conference of the annexations; here was the acceptance of Stalin's doctrine of a periphery "of friendly border states"--the puppet Communists governments over seven nations. Fidelity to international morals and their own promise of independence of nations and free men demanded that Roosevelt and Churchill at Teheran stand firm against Stalin once and for all. There were by this time no such military perils of Stalin's making a separate peace that could justify these agreements, acquiescence and appeasements.

ルーズベルトとチャーチルは、致命的な間違いを1945年2月のヤルタで犯した。
スターリンが12の国々の独立に対して干渉を加えることを追認しただけではなく、数世代に亘って国際関係に危険をもたらす世界に害を与えるような、悪い勢力の動きを助長するような秘密の協定が多数結ばれた。スターリンが傀儡の国家を七つ作ったことを知りながら、自由で妨害されないとか、全ての自由な人士の参加とか、言葉を繕って、スターリンの暴虐に水を差さないで隠蔽した。
テヘランに於いて、軍事的な観点から妥協をしたことを最も強力に主張した向きも、ヤルタでは、そうした主張もなかった。アメリカの手が汚されずに自由な人間から尊敬される国として存続するのであれば、自由な人類と品性の為にも何か一言反論をすべきであった。
これでもかと、日本は和平をもとめる。1945年の5月、6月、7月と、日本は白旗を掲げて和平を求める打診をしてきたが、トルーマンはこれを拒否した。トルーマンは、ルーズベルトの無条件降伏の愚かな条件に従う義務は無かったのである。ヨーロッパの軍事指導者が(日本との和平に反対して)認めなかった。日本との和平はただひとつの譲歩で達成できた。精神世界でも、日本国家としても元首である天皇(みかど)の保全と言う一点であった。天皇の地位は、千年以上の信仰と伝統に基づくものである。米国側が、最終的に受け入れたのは、数十万の人命が犠牲になった後であった。

Refusal of Japanese Peace Proposals of May-July、 1945
Fifteenth. The fifteenth time of lost statesmanship was in retrospect to Japan in May, June and July, 1945. Truman refused to take notice of the Japanese white flags. Truman was not obligated to Roosevelt's "Unconditional Surrender" folly. It had been denounced by our own military leaders in Europe. Peace could have been had with Japan with only one concession . That was the preservation of the Mikado who was the spiritual as well as secular head of the state. His position was rooted in a thousand years of Japanese religious faith and tradition. And we finally conceded this after hundreds of thousands of human lives had been sacrificed.
ポツダムにおけるトルーマンの過ちが、第16番目の過ちである。民主主義国では、経験の無い人物に政権が渡され、共産主義者が、重要な糸が繋がるようにして色々な場所に出現した。ポツダムでの合意の全てが、スターリンに対して降参したことを追認したり、拡大することであった。共産主義者の併合と傀儡政権がスターリンとより繋がりが強化されたばかりではなく、ドイツとオーストリアの一部がスターリンの懐に入ってしまうような政府の条項となった。賠償政策は、米国の納税者の負担が怠け者のドイツの救援の為に使われる結果をもたらし、ドイツだけではなく、ヨーロッパの再興のために、数十億ドルのカネが使われることになった。戦争捕虜が奴隷のようになり、自らの土地から民族追放が行われることが批准され、ヤルタでのそうした愚策が拡大された。是に加えて、指導者の人々の忠言に反して、日本に無条件降伏の最後通牒が出されたことである。アメリカの経験のある複数の人々が声をあげて勧告した、天皇(みかど)を維持することを許す救済条項を入れないで、無条件降伏を要求したことである。日本側は、回答として、この条件のみを求めたが、原子爆弾を投下した。そして、最後になって、この条件を受け入れた。

Sixteenth. The sixteenth time of blind statesmanship was Truman at Potsdam. Power had now passed to inexperienced men on the democratic countries and the Communists had their way at every consequential point. The whole Potsdam agreement was a series of ratifications and amplifications of the previous surrenders to Stalin. Not only were all the Communist annexations and puppets further cemented to Stalin but the provisions as to governments in Germany and Austria were so set as to send parts of these states into Stalin's bosom. The result of reparations policies was to load the American taxpayers with billions of the cost for relief of idel Germans and stifle the recovery of Germany and thus of Europe for years. The wickedness of slavery of war prisoners, the expelling of whole peoples form their homes was ratified and amplified from Yalta.
Beyond all this, against advice from leading men, the ultimatum was issued to Japan of unconditional surrender without the saving clause allowing them to retain the Mikado recommended by a score of experienced American voices. The Japanese、 in reply、 asked only for this concession , which was met with the atomic bomb--and then conceded in the end.
第17番目のアメリカのさまよえる政治家道は、トルーマンが日本人の上に原子爆弾を落とす命令をするという非道徳な命令をしたことである。日本は繰り返して平和を求めていたにもかかわらず、アメリカの全ての歴史のなかで、他に比較すもののない残忍な行為であった。アメリカの良心にとって、永久に重くのしかかるであろう。
Seventeenth. The seventeenth wandering of American statesmanship was Truman's immoral order to drop the atomic bomb on the Japanese. Not only had Japan been repeatedly suing for peace but it was the act of unparalleled brutality all American history. It will forever weigh heavily on the American conscience.

フーバー大統領の回想録の、日本に対する原爆投下の評価である。二度と天知を繰り返してはならないのが、どちらの側かは、歴然としている。廣島の慰霊碑のいしぶみは書き換えるべきではないだろうか。
トルーマン、マーシャルとアチソンが中国に関して、その政治家道を失った第18番目の事例である。ルーズベルトが、蒋介石が共産党と合作することにこだわって、中国に関する裏切りの秘密協定がヤルタでできて、モンゴルと、その結果として、満州をロシアに渡すことになった。トルーマンは、側近の左翼の顧問が強くこだわったことを、マーシャル将軍が、その側近連中の意向を実行する為に任命したことから、全ての中国を犠牲にすることになった。マーシャル将軍は、そうした政策を通して、政治家道が失われて、トドのつまりは、4億五千万のアジアの人々をしてモスクワ傘下の傀儡政権にしてしまったことが、毛沢東に中国をあげてしまった壮大な過ちとして評価されなければならない。

モスクワ会議、テヘラン会議、ヤルタ会議、そしてポツダム会議を通じて、中国に係る政策は、第三次世界大戦を引き起こす可能性のある竜の歯が、世界の至る所にばらまかれた。何年も「冷戦」が続き、朝鮮戦争が勃発し、アメリカが再度敗北してしまう可能性のある恐れのある、北大西洋同盟が弱々しく成立した。
The Dragon's Teeth of World War III
Nineteenth. From Moscow the Teheran, Yalta and the Potsdam Conferences, the policies as to China, the dragon's teeth of a third world war were sown in every quarter of the world and were to see "the cold war" over years and finally the hideous war in Korea and the feeble North Atlantic Alliance with all its dangers of American defeat again.
米中の対立の可能性と第三次世界大戦の可能性についても言及している。
以上がフーバー回想録にまとめられた、19の失敗例であるが、それは日本の名誉回復にも繋がる内幕に言及している。
賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶと言うが、このフーバーの回想録は、47年の長きに亘って隠されてきた。今回スタンフォード大学から出版されたのであるが、それが公開されたこと自体に、やはり理由があるものと考えられる。米国の戦後体制制も虚構の上に立てられており、戦争に敗北した日本も、自信を喪失したばかりではなく、歴史を書き換えられて、真実が隠匿されてきた感を免れない。「勝者」であったはずのアメリカ側で、こうした「Statesmanshipからすれば敗北」したとする回想録が出たことは、虚構の修正が求められていることを示すものである。
ちなみに、フーバーが激しく糾弾する19の過ちについて、英文で再掲するので、玩味熟読して見ることが必要である。日本の正統性が回復する可能性が高い。日米関係にとって重要なことであり、特に日米間ののど仏に刺さった骨を取り取り去ってしまう可能性がでてきた可能性がある。日本の経営者団体などが、率先して翻訳を行うことが必要であるが、残念ながらそうした見識が見当たらない現状であるが、企業内の特に海外の事業所の幹部などに、一読を勧める価値がある。
下記の記事はご参考まで。EDITOR’S NOTE: This article is adapted from Freedom Betrayed: Herbert Hoover’s Secret History of the Second World War and Its Aftermath, edited and with an introduction by George H. Nash, included below (Hoover Institution Press, 2011).
In November 1951, a public-relations executive named John W. Hill met Herbert Hoover at a dinner in New York City. It was an unhappy time in the United States, especially for conservative Republicans. Abroad, the Korean War had turned into a bloody stalemate that Pres. Harry Truman’s administration seemed unable to end. Earlier in the year, the president had abruptly dismissed Gen. Douglas MacArthur, a conservative hero, from America’s Far Eastern military command, to the consternation of Hoover and millions of others. At home, Truman’s liberal Democratic administration was under furious assault from conservative critics of its policies toward Communist regimes overseas and Communist subversion within our borders.
How quickly the world had changed since the close of the Second World War a few years earlier. Then the future had seemed bright with promise. Nazi Germany and imperial Japan had been crushed; fascism as an ideology had been discredited; the birth of the United Nations had appeared to presage an era of global peace. Now, a mere six years later, in Asia and along the Iron Curtain in Europe, a third world war — this time against Communist Russia and China — seemed a distinct possibility.
“Mr. Hoover,” said Hill that November evening, “the world is in one hell of a mess, isn’t it?”
“It certainly is,” Hoover replied.
“It has always occurred to me,” Hill continued, “that we are in this mess because of the mistakes of statesmen. Somebody ought to write a book [on the subject] like [E. S. Creasy’s] ‘Fifteen Decisive Battles of the World’; I think it would be a classic.”
“You are absolutely right,” Hoover responded. “That should be done, and I am going to tell you what should be the first chapter.”
“What is that?” asked Hill.
“When Roosevelt put America in to help Russia as Hitler invaded Russia in June, 1941. We should have let those two bastards annihilate themselves.”

Hill was delighted. “That would be a great book. Why don’t you write it, Mr. Hoover?”
“I haven’t the time,” Hoover countered. “Why don’t you write it?”
What Hill did not know — and what Hoover, that evening, did not tell him — was that for several years Hoover had been at work on a book with a similar theme: a comprehensive, critical history of American diplomacy between the late 1930s and 1945, with emphasis on the misguided policies of President Roosevelt. It was a volume in which the Roosevelt administration’s wartime alliance with the Soviet Union would be subject to withering scrutiny.
Twenty years later, in 1971, in a conversation with an interviewer, Hill lamented that no one had ever written the book he had once proposed to Hoover on “The Fifteen Decisive Blunders of Statesmen.” “I have always wished somebody would do it,” he added. “It would be controversial because every one of the decisions the author stated would cause trouble, would cause somebody to come up and defend it, and the book would sell like hotcakes.”
What Hill did not realize was that nearly eight years earlier Hoover had completed his own book of diplomatic blunders. Unlike the scattershot collection of essays that Hill had envisaged, Hoover’s tome was tightly focused. Originally conceived as the section of his memoirs that would cover his life during World War II, the “War Book” (as he called it) had morphed into something far more ambitious: an unabashed, revisionist reexamination of the entire war — and a sweeping indictment of the “lost statesmanship” of Franklin Roosevelt.
Hoover ultimately entitled his manuscript Freedom Betrayed. More informally, and with a touch of humor, he and his staff came to refer to it as the Magnum Opus. The label was apt. For nearly two decades, beginning in 1944, the former president labored over his massive manuscript, producing draft after draft, “edition” after “edition.” He finished the final version (save for some minor editing and additional fact-checking) in September 1963 and prepared in the ensuing months for the book’s publication. Death came first, on Oct. 20, 1964. A little over two months earlier, he had turned 90 years old.
After Hoover’s passing, his heirs decided not to publish his Magnum Opus. Since then, for nearly half a century, it has remained in storage, unavailable for examination.
This volume, Freedom Betrayed — in its final, author-approved edition of 1963–64 — is the book that is now in your hands. It is published here — and its contents thereby made available to scholars — for the first time.
FROM THE INTRODUCTION BY HERBERT HOOVER (CIRCA 1963)
The Pilgrims landed on this continent bringing with them the vital spark of American life — freedom. Since then, there have been four times when freedom has been dangerously near the tragedy of defeat:
The War of the Revolution
The War between the States
The Second World War
The Cold War
Statesmanship brought expanded liberty from the Revolution and the Civil War. The nation grew to strength and to prosperity unknown in all human history.
In the Second World War, we, with our allies, crushed militarily the forces of Nazism and Fascism. But we have no peace. During the war one of our allies, Stalin, expanded the Communist dictatorship and empire of Russia to endanger freedom in the whole world. We are now deeply involved in the “Cold War,” which imperils our very existence.
To protect our own freedom — in this, in reality a third world war — we must carry the major burden of defending the free nations of the world. This burden itself imperils our future.
The purpose of this memoir is to analyze step-by-step when, where, how, and by whom we were plunged into the Second and Third World Wars, with the resulting betrayals of freedom. I will likewise record those who warned against and opposed these ominous decisions which led to this turning-point in civilization.
In this memoir I will omit views of my own as to what took place. I will demonstrate the truth from the words and actions of world leaders themselves, and the documentation which has come to light.
From a true record of human experience alone may come the understanding which can guide our future.
Even today important segments of the American people and American leadership are not fully aware of the menace to freedom which lies in socialism and other forms of centralized government.
At the outset of this work I wish the reader to be under no misapprehension as to my position upon America’s joining the Second World War.
[EDITOR’S NOTE: The following passages come from the final, climactic pages of the last chapter (89) of the 1953 version of Hoover’s Magnum Opus. These pages were probably written very early in 1953, not long after the presidential election of 1952. In this chapter, Hoover summed up, with remarkable candor and intensity, his revisionist indictment of the Roosevelt-Truman foreign-policy record.]
CHAPTER 89: A REVIEW OF LOST STATESMANSHIP — 19 TIMES IN SEVEN YEARS
There are those who still defend Roosevelt and Truman by blaming Hitler and Stalin for all the calamities which have come upon the world. That they were malignant and malign figures in human history needs no demonstration.
Any review of American and British lost statesmanship in dealing with them, however, has no excuse in history. Without these gigantic errors these calamities could not have come to the Western world.
I shall list those major occasions here lest the reader, in this maze of actions, has forgotten who was responsible for what and when. I refer the reader to those chapters in this memoir where the facts and reasons for their conviction are given.
THE WORLD ECONOMIC CONFERENCE OF 1933
The first time (of importance) that Roosevelt became lost in international statesmanship was his destruction of the 1933 World Economic Conference. This Conference was arranged by British Prime Minister [Ramsay] MacDonald and myself to take place in January 1933. Owing to the election of Mr. Roosevelt it was postponed until June. At that time the world was just beginning to recover from the world-wide depression but was engaged in bitter currency wars and multiplying trade barriers. The preliminary work had been done by experts. Roosevelt called ten prime ministers to Washington with whom he agreed to restore the gold standard in international transactions. Suddenly during the Conference he repudiated (“the bombshell”) these undertakings and the Conference cracked and died without accomplishment. His own Secretary of State Hull explicitly denounced this action as the roots of World War II.
THE RECOGNITION OF COMMUNIST RUSSIA IN 1933
Roosevelt’s second lost statesmanship was in recognition of Communist Russia in November 1933. Four presidents and five secretaries of state — Democrats as well as Republicans — had (with knowledge of the whole purpose and methods of international Communism) refused such action. They knew and said the Communists would be able to penetrate the United States, carrying their germs of destruction of religious faith, freedom of men, and independence of nations. They considered our recognition of Soviet Russia would give it prestige and force among other nations. All of Roosevelt’s puerile agreements with them that they would not deal in their wickedness within our borders were on the record repudiated in less than 48 hours. A long train of Communists and fellow travelers were taken into the highest levels of administration, fifth-column action spread over the country, with a long series of traitorous acts during his remaining 12 years in the presidency.
MUNICH
I am not disposed to condemn the agreement at Munich in September 1938 for transfer of Sudeten Germans to the Reich because it was a hideous heritage from Versailles which made such action inevitable. However, by Munich Hitler opened the gates for consummation of his repeated determinations to invade Russia. Having gone that far in providing for the inevitable war between the dictators, the lost statesmanship was then trying to stop these monsters from mutual destruction.
THE BRITISH-FRENCH GUARANTEE OF POLAND AND RUMANIA IN 1939
The fourth abysmal loss of statesmanship was when the British and French guaranteed the independence of Poland and Rumania at the end of March 1939. It was at this point that the European democracies reversed their previous policies of keeping hands off the inevitable war between Hitler and Stalin.
It was probably the greatest blunder in the whole history of European-power diplomacy. Britain and France were helpless to save Poland from invasion. By this act, however, they threw the bodies of democracy between Hitler and Stalin. By their actions they not only protected Stalin from Hitler but they enabled him to sell his influence to the highest bidder. The Allies did bid but Stalin’s price was annexation of defenseless people of the Baltic States and East Poland, a moral price which the Allies could not meet. Stalin got his price from Hitler.
Yet Hitler had no intention of abandoning his determination to expand in Southeast Europe and to destroy the Communist Vatican in Moscow. But now he must of necessity first neutralize the Western Democracies which he proceeded to do.
The long train of the hideous World War II started from the blunder of the Polish guarantees. Roosevelt had some part in these power politics, but the record is yet too incomplete to establish how much. Churchill, not yet in the government, had contributed something by goading Chamberlain to desperate action after his appeasement at Munich.
UNITED STATES’ UNDECLARED WAR
The fifth major blunder in statesmanship was when Roosevelt, in the winter of 1941, threw the United States into undeclared war with Germany and Japan in total violation of promises upon which he had been elected a few weeks before.
FAILURE IN WATCHFUL WAITING
In the weeks before lend-lease and its war powers were forced upon the American people, Roosevelt knew definitely of Hitler’s determination to attack Russia, and he informed the Russians of it. He should have turned away from the undeclared war on Germany, confined lend-lease to simple aid to Britain by way of finances, to buy munitions, supplies, and ships, thus keeping within international law. Statesmanship at that moment demanded imperiously a policy of watchful waiting.
ALLIANCE WITH STALIN
Indeed the greatest loss of statesmanship in all American history was the tacit American alliance and support of Communist Russia when Hitler made his attack in June 1941. Even the false theory that American military strength was needed to save Britain had now visibly vanished. By diversion of Nazi furies into the swamps of Russia, no one could any longer doubt the safety of Britain and all the Western world. These monstrous dictators were bound to exhaust themselves no matter who won. Even if Hitler won military victory, he would be enmeshed for years trying to hold these people in subjection. And he was bound even in victory to exhaust his military strength — and the Russians were bound to destroy any sources of supplies he might have hoped for. His own generals opposed his action.
American aid to Russia meant victory for Stalin and the spread of Communism over the world. Statesmanship again imperiously cried to keep out, be armed to the teeth and await their mutual exhaustion. When that day came there would have been an opportunity for the United States and Britain to use their strength to bring a real peace and security to the free world. No greater opportunity for lasting peace ever came to a president and he muffed it.
THE ECONOMIC SANCTIONS ON JAPAN OF JULY 1941
The eighth gigantic error in Roosevelt’s statesmanship was the total economic sanctions on Japan one month later, at the end of July, 1941. The sanctions were war in every essence except shooting. Roosevelt had been warned time and again by his own officials that such provocation would sooner or later bring reprisals of war.
REFUSAL TO ACCEPT KONOYE’S PEACE PROPOSALS
The ninth time statesmanship was wholly lost was Roosevelt’s contemptuous refusal of Prime Minister [Fumimaro] Konoye’s proposals for peace in the Pacific of September, 1941. The acceptance of these proposals was prayerfully urged by both the American and British ambassadors in Japan. The terms Konoye proposed would have accomplished every American purpose except possibly the return of Manchuria — and even this was thrown open to discussion. The cynic will recall that Roosevelt was willing to provoke a great war on his flank over this remote question and then gave Manchuria to Communist Russia.
REFUSAL TO ACCEPT A 3 MONTHS’ STAND-STILL AGREEMENT WITH JAPAN
The tenth loss of statesmanship was the refusal to accept the proposals that his ambassador informed him came from the emperor of Japan for a three months’ stand-still agreement in November 1941. Our military officials strongly urged it on Roosevelt. Japan was then alarmed that Russia might defeat her ally, Hitler. Ninety days’ delay would have taken all the starch out of Japan and kept war out of the Pacific. As the Stimson diary disclosed, Roosevelt and his officials were searching for a method to stimulate an overt act from the Japanese. Then Hull issued his foolish ultimatum, and we were defeated at Pearl Harbor.
The train of losses and this Japanese victory in the Japanese occupation of all South Asia were incalculable. Further, with the loss of sea control, Hitler and Togo were able to destroy our shipping in sight of our own shores.
THE DEMAND FOR UNCONDITIONAL SURRENDER
The eleventh gigantic error in Roosevelt’s statesmanship was demand for “unconditional surrender” at Casablanca in January 1943, where without our military, or even Churchill’s advice, he was seeking a headline. It played into the hands of every enemy militarist and propagandist; it prolonged the war with Germany, Japan, and Italy. And in the end major concessions in surrender were given to both Japan and Italy. It held out no hope of peace to the Germans if they got rid of the Nazis. The war to the bitter end left no semblance of a structure in Germany upon which to build again.
THE SACRIFICE OF THE BALTIC STATES AND EAST POLAND AT MOSCOW, OCTOBER 1943
The twelfth error of lost statesmanship was the sacrifice of free nations at the foreign-ministers meeting at Moscow in October 1943. Here amid words of freedom and democracy not a word of protest was made against the known Russian intentions to annex the Baltic States, East Poland, East Finland, Bessarabia, and Bukovina (which he had in his agreement with Hitler). This acquiescence marked the abandonment of the last word of the Four Freedoms and the Atlantic Charter.
TEHERAN AND ITS SACRIFICE OF SEVEN MORE NATIONS
The thirteenth and possibly one of the greatest of all confused wanderings in Roosevelt’s and Churchill’s statesmanship was at Teheran in December 1943. Here was confirmation of the acquiescence at the Moscow Conference of the annexations; here was the acceptance of Stalin’s doctrine of a periphery “of friendly border states” — the puppet Communist governments over seven nations. Fidelity to international morals and their own promises of independence of nations and free men demanded that Roosevelt and Churchill at Teheran stand firm against Stalin once and for all. There were by this time no such military perils of Stalin’s making a separate peace that could justify these agreements, acquiescences and appeasements.
YALTA — THE SECRET AGREEMENTS ON THE DOWNFALL OF NATIONS
The fourteenth fatal loss of statesmanship was by Roosevelt and Churchill at Yalta in February 1945. Not only were all Stalin’s encroachments on the independence of a dozen nations ratified, but with a long series of secret agreements other malign forces were set in motion that will continue to plague the world with international dangers for generations. Knowing that Stalin had already created Communist puppet governments over seven nations, Roosevelt and Churchill sought to camouflage their lost statesmanship with gadgets entitled “free and unfettered” elections, “representation of all liberal elements.” Even the strongest defender on military grounds of appeasement at Teheran could no longer defend it at Yalta. Here at least a stand might have been made for decency and free mankind which would have left America with cleaner hands and the moral respect of free men.
REFUSAL OF JAPANESE PEACE PROPOSALS OF MAY–JULY 1945
The fifteenth time of lost statesmanship was in respect to Japan in May, June, and July 1945. Truman refused to take notice of the Japanese white flags. Truman was not obligated to Roosevelt’s “unconditional surrender” folly. It had been denounced by our own military leaders in Europe. Peace could have been had with Japan with only one concession. That was the preservation of the Mikado who was the spiritual as well as secular head of the state. His position was rooted in a thousand years of Japanese religious faith and tradition. And we finally conceded this after hundreds of thousands of human lives had been sacrificed.
POTSDAM
The sixteenth time of blind statesmanship was Truman at Potsdam. Power had now passed to inexperienced men on the democratic countries, and the Communists had their way at every consequential point. The whole Potsdam agreement was a series of ratifications and amplifications of the previous surrenders to Stalin. Not only were all the Communist annexations and puppets further cemented to Stalin, but the provisions as to government in Germany and Austria were so set as to send parts of these states into Stalin’s bosom. The result of reparations policies was to load the American taxpayers with billions of the cost for relief of idle Germans and stifle the recovery of Germany and thus of Europe for years. The wickedness of slavery of war prisoners, the expelling of whole peoples from their homes was ratified and amplified from Yalta.
Beyond all this, against advice from leading men, the ultimatum was issued to Japan of unconditional surrender without the saving clause allowing them to retain the Mikado recommended by a score of experienced American voices. The Japanese, in reply, asked only for this concession, which was met with the atomic bomb — and then conceded in the end.
DROPPING THE ATOMIC BOMB
The seventeenth wandering of American statesmanship was Truman’s immoral order to drop the atomic bomb on the Japanese. Not only had Japan been repeatedly suing for peace, but it was the act of unparalleled brutality in all American history. It will forever weigh heavily on the American conscience.
GIVING CHINA TO MAO TSE-TUNG
The eighteenth series of steps in loss of statesmanship was by Truman, Marshall, and Acheson in respect to China. Beginning with Roosevelt’s insistence to Chiang Kai-shek of a Communist coalition government there followed Roosevelt’s hideous secret agreement as to China at Yalta which gave Mongolia and, in effect, Manchuria to Russia. Truman sacrificed all China to the Communists by insistence of his left-wing advisers and his appointment of General Marshall to execute their will. He must be assessed with a gigantic loss of statesmanship in those policies, which in the end made 450,000,000 Asiatic peoples a Communist puppet state under Moscow.
THE DRAGON’S TEETH OF WORLD WAR III
From the Moscow, the Teheran, Yalta and the Potsdam Conferences, the policies as to China, the dragon’s teeth of a third world war were sown in every quarter of the world and we were to see “the cold war” over years and finally the hideous war in Korea and the feeble North Atlantic Alliance with all its dangers of American defeat again.
THE END
I do not need end these volumes with more than a few sentences. I was opposed to the war and every step of policies in it. I have no apologies, no regrets.
I had warned the American people time and again against becoming involved. I stated repeatedly its only end would be to promote Communism over the earth; that we would impoverish the United States and the whole world. The situation of the world today is my vindication.
Despite these physical losses and these moral, political disasters, and these international follies, Americans can have faith that we will grow strong again; that the march of progress will sometime be renewed. Despite the drift to collectivism, despite degeneration in government, despite the demagogic intellectuals, despite the corruption in our government and the moral corruptions of our people, we still hold to Christianity, we still have the old ingenuity in our scientific and industrial progress. We have 35 million children marching through our schools and 2,500,000 in our institutions of higher learning. Sometime these forces will triumph over the ills in American life. The promise of a greater America abides in the millions of cottages throughout the land, where men and women are still resolute in freedom. In their hearts the spirit of America still lives. The boys and girls from those homes will some day throw off these disasters and frustrations and will re-create their America again.
The election of a Republican administration in 1952 is the sign of this turning.
— Herbert Hoover was the 31st president of the United States.
追記 "What an amazing historical find! Historian George H. Nash, the dean of Hervbet Hoover studeis, has brought forth a very raremanuscript in Freedom Betrayed. Hre is Hoover unpklugged, delineating on everything from the 'lost statesmanship' of FDR to the Korean War. A truly invaluable work of presidential history. HIghly recommended" Douglas Brinkley, professor of history at Rice University and editor of The Reagan Diaries
追記 
1月10日の午後3時12分の時間が記録された、不在通知表が入っていたので、昨夜今日の夜までには必ず配達して頂きたいと、電話とインターネットでのメールと双方で連絡したところだった。去年から品切れになり?、入手できなくなっていた、Freedom Betrayed の単行本が、UPSという米国の最大手の輸送業者の手で送られてきた。1月5日に申し込みをしたから、一週間も経たないうちに太平洋を越えて飛行機で運ばれてきたわけであるが、UPSの日本の配達網は、国内の宅配便ほどには発達していないから、昨日の夜に入手することができなかったから、今日も昼に外出していたので、隣組に頼んで、代わりに受領してもらった。そして、夕方5時に帰宅すると、ちゃんと届いていた。不在にすると、三回配達するそうではあるが、それでは、何の為に高い運賃を負担して申し込んだ意味が薄くなってしまう。待ちにまって、入手できた本だ。
Freedom Betrayedには、世界の第二次大戦の歴史を書き換える様な内容が含まれていることが、昨年の十二月の初めのいつもの真珠湾攻撃に係わる例年通りの新聞記事の中でもうかがえたが、本当にアメイジングとは、この本である。日本のマスコミは何時しか歴史に怠慢になり、外国で話題になった本等の書評も、商売になるかならないかでしか基準がとれなくなったようである。
これだけの大部の本とは予想していなかった。最後のページは957となっている。大冊である。ISBNの番号は、9780817912345である。
編者のGeorge H. Nash氏は、A historian, lecturer, and authority on the life of Herbert Hoover, his publications include three volumes of a definitive, scholarly biography of Hoover and the monograph Herbert Hoover and Stanford University. A graduate of Amherst College and holder of a PhD in history form Harvard University, he received the Richard M. Weaver Prize for Scholarly Letters in 2008. と紹介されている。要するに、フーバー大統領の伝記を研究して、決定版となる三巻の本を編集した歴史学者である。
さて、Herbert Hoover(1874-1964)は、President of the United State from 1929 to 1933 and an internationally acclaimed humanitarian, he was the author of more than thirty books and founder of Hoover Institution on War, Revolution and Peace at Stanford University. フーバー大統領の名前は、スタンフォード大学に残り、フーバーが創設した戦争と、革命と平和を研究する研究所につけられている。
このFreedom Betrayedのハードカバー版は、そのフーバー研究所の出版部から刊行されている。当方が購入した価格は、32.97米ドルであった。先述した運送業者のUPSの運送賃が15.98米ドルであったから、総額48.95ドルになった。
"Nearly fifty years after his death, Herbert Hoover returns as the ultimate revisionist historian, prosecuting his heavily documented indictment of US foreign policy before, during, and after the Second World War. Brilliantly edited by George Nash, Freedom Betrayed is as passionate as it is provocative. Many do no doubt will dispute Hoover's strategic vision. But few can dispute the historical significance of this unique volume, published even as Americans of the twenty-first century debate their moral and military obligations." Richard Norton Smith is presidential historian and author, former director of several presidential libraries, and current scholar in residence at George Mason University.
さて、Magnum Opusとは何だろうか。最高傑作と言う意味のラテン語である。
フーバーは、Magnum Opusと題して、膨大な記録を行いながら、回想録を書いていた。ようやく出版されることになった。その編者が、ジョージ・ナッシュ教授である。当方は、著者がナッシュ教授であると思い込んでいたが間違えた。しかし、元大統領が記述した、第二次世界大戦とその結果についての回想録が、21世紀を十年も過ぎてようやく出版されること自体が不思議である。歴史の書き換えを迫る回想録が出版されたのである。特に、米国と太平洋で激戦を戦った日本の戦後の歴史も相当の書き換えを迫られることになることは間違いない。
”Herbert Hoover's Freedom Betrayed is a bracing work of historical revisionism that takes aim at U.S. foreign policy under President Franklin Delano Roosevelt. Part memoir and part diplomatic history, Hoover's magnum opus seeks to expose the 'lost statesmanship' that, in Hoover's eyes, needlessly drew the United States into the Second World War and, in the aftermath, facilitated the rise to global power of its ideological rival, the Soviet Union. Freedom Betrayed, as George Nash asserts in his astute and authoritative introduction, resembles a prosecutor's brief against Roosevelt--and against Winston Churchill as well--at the bar of history. Thanks to Nash's impressive feat of reconstruction, Hoover's 'thunderbolt' now strikes--nearly after a half-century after it was readied. The former president's interpretation of the conduct nad consequences of the Second World War will not entirely persuade most readers. Yet, as Nash testifies, leke the best kind of revisionist history, Freedom Betrayed "challenges us to think afresh about our past." Bertland M patenaude, author of A Wealth of Ideas: Revelations from Hoover Institution Archives
米国元大統領のハーバート・フーバー大統領の半世紀後に公表される回想録を読んで、自らの過去を新鮮に感じるのは、なにも米国人ばかりではない。
Nearly seventy years ago, during World War II, Herbert Hoover began to scribble the first words of what was later to be called his "magnum opus." He did so in the shadow of three great disappointments: his inability to win the Republican presidential nomination in 1940; his failed crusade to keep the United States out of World War II; and his frustrated bid to become the Great Humanitarian in Europe for a second time. For twenty more years Hoover labored over this manuscript, even as his career continued to be extraordinarily rich in achievement and honors. At the end only one final accomplishment eluded him: publication of his magnum opus, Freedom Betrayed . Following Hoover's death in 1964, his heirs decided to place his manuscript in storage where for nearly half a century it has remained unread--until now.
In this book, perhaps the most ambitious and systematic work of World War II revisionism ever attempted, Hoover offers his frank evaluation of President Roosevelt's foreign policies before Pearl Harbor and during the war, as well as an examination of the war's consequences, including the expansion of the Soviet empire at war's end and the eruption of the Cold War against the Communists. Throughout the work, Hoover raises critical questions, many of which are still under scrutiny today: Did Franklin Roosevelt deceitfully maneuver the United States into an undeclared and unconstitutional naval war with Germany in 1941? Did he unnecessarily appease Joseph Stalin at the pivotal Teheran conference in 1943? Was Roosevelt's wartime policy of "unconditional surrender" a blunder? Did Communist agents and sympathizers in the White House, Department of State, and Department of the Treasury play a malign role in some of America's wartime decisions?
On these and other controversies, Freedom Betrayed: Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath takes its stand.
Hoover's work reflets the foreign policy thinking not just of himself but of many American opinion makers during his lifetime and beyond. As such , it is a document with which we should be acquainted today. The intrinsic interest of Hoover's book remains strong, in part because it insistently raises issues--about decisions with whose consequences we still live.
と、本の表紙のフラップと裏表紙のフラップに続けて書かれている。
"Finally, after waiting for close to half a century, we now have Hoover's massive and impassioned account of American foreign policy from 1933 to the early 1950s. Thanks to the efforts of George H. Nash , there exists an unparalleled picture of Hoover's world view, one long shared by many conservatives. Nash's thorough and perceptive introduction shows why he remains America's leading Hoover scholar." Justus D Doenecke, author of Storm on the Horizon: The Challenge to American Intervention, 1939-1941
"A forcefully argued and well documented alternative to, and critique of, the conventional leberal historical narative of America's road to war and its war aims. Even readers comfortable with the established account will find themselves thinking that on some points the accepted history should be reconsidered and perhaps revised." John Earl Haynes, author of Spies: The Rise and Fall of the KGB in America
フランクリン・ルーズベルトの時代にホワイトハウスを差配した共産主義者の人脈がどのような政策決定をしたのか興味は尽きない。フランクフルト学派の二段階革命論が実行に移されたとする見方がある。日本を戦争に引きこみ、ドイツに宣戦を布告する、結果として、ソ連を支持する。ソ連に対して、巨額の援助を行ったことは間違いない。ルーズベルトの時代のアメリカは、共産主義を支援する政権であったのだ。フーバー大統領の回顧録の詳細を読んで行くことが必要である。
史実を世界に発信する会が、昨年12月8日に憲政記念館の講堂で、日米開戦70周年にちなんで、創立五年目で初めての講演会を開催した。講堂は満員御礼で、立ち見の聴衆が出る盛況であった。http://hassin.org http://www.sdh-fact.com
史実をねじ曲げて、嘘を主張したあげくに、それを繰り返してあたかも真実のように主張する外国政府があり、それをまともに受け入れると国益を毀損することになる。外国語で、訴求力を持って反論・主張することが重要である。最近、隣国で慰安婦問題をねじ曲げて、史実にない銅像を建てる動きがあるとするが、そうした歪曲に対しては強力に反論を加えて行く必要がある。弱腰であってはならない。天網恢々疎にして漏らさずであり、真実を追究し無ければならない。真珠湾攻撃が罠であったことなど、思い至らなかったようであるが、莫大な数の航空機や武器が事実上米国からスターリンに、供与されたのである。ヘンリーストークス氏のビルマの飛行場の証言も興味深い。いずれにしても、フーバー大統領の回想録の早急の邦訳が待たれる。
http://youtu.be/lVwuHylK4TE
http://youtu.be/AP7LgRpnrHM

North Korea and Kim Chek

著者の諒解を得て、下記の通り北朝鮮の金策(キムチェック)の個人名の重要性についての解説を転載する。ご参考まで。

北朝鮮には金日成(キムイルソン)総合大学がある。同大学は一九四六年一
〇月一日創立され、大学キャンパスは平壌の龍南山の丘上にある。一九四八年に工学部が金策(キムチェック)工業総合大学、農学部が農業大学、医学部が医科大学にそれぞれ分離し、一九六四年に外国語学部が分離して平壌外国語大学となった。

  金日成以外に唯一個人の人名を冠にした金策工業総合大学は、建国の英雄である金策(副首相兼産業相)にちなんで命名されたとされている。また、日本海に面した咸鏡北道南部には金策市という都市がある。旧称は城津市で、日本統治時代は海軍の研究所などがあって、その資産を活用した北朝鮮における製鉄業の中心地の一つである。
  帝政ロシアを打倒し共産主義国家体制を創建したソビエト共産党はロシアの首都であったサンクトペテルブルクをレニングラード、ヴォルゴグラードをス
ターリングラードに改名し、モスクワを新たな首都とした。ロシア革命の理念
・理論指導者レーニンと革命の英雄スターリンの名を冠した都市名にすること
で、ロシア帝国の国体と政体を根本的に変える象徴とした。
 ヴェトナム戦争に勝利した北ヴェトナムが南ヴェトナムの首都サイゴンをホ
ーチミン市と改名したのも、同位相の想いが込められている。当然、北朝鮮で
建国の英雄金日成と同じく個人名を冠にした大学や都市が存在することには、重要な意味が込められている。だが、なぜかわが国では、金策に関しては全く無視されている。

 北朝鮮建国の英雄とされている金日成は、大日本帝国が大東亜戦争に敗れて朝鮮半島から撤退した直後、当時のコミンテルンが捏造した抗日パルチザン英雄伝説にのって平壌に凱旋した。コミンテルンの策謀が発覚する前に朝鮮戦争が引き起こされて国民は同胞が血で血を洗う悲惨な内戦にかり出されたため、金日成の出自が民衆の間から問題視される懸念は封じられた。

 そして、金日成はソ連軍が参戦していない朝鮮戦争の隙をついて傀儡の弱点を払拭するため、粛清に継ぐ粛清で、ソ連・コミンテルン派勢力を壊滅させ
て、独裁権力の掌握に成功した。金日成にソ連派粛清を助言し、自らも辣腕を振るったのが金策である。
 この渦中で金策の出自(日本軍諜報関係者)が露見したため、彼は、朝鮮戦争の最前線司令官として英雄的な戦死を遂げた、として表舞台から姿を消した。北朝鮮関連の人名録には、金策に関しては次のように記述されている。
  金策。一九〇三年生、モスクワ共産党大学卒、ソ連内務省GPUに入り、満
州の金日成などの活動を支援した。ソ連軍中佐。金日成の腹心のひとりで、人民軍の建設に中心的な役割を果たした。朝鮮戦争では前線司令官となったが五一年爆死、その功により、出生地を金策市と改め、その地の鉄工所を金策製鉄所、大学を金策工科大学と命名された。

 表舞台から退いた金策は、ソ連粛清にある程度成果を見いだした後、「主体
思想」の構築を提言し、後に亡命した黄長燁を中心にすえて理論構築を行な
い、北朝鮮を金王朝にすべき礎を築いた。その功績を讃えるべく、彼の名を冠
にした都市や大学が今でも存続している。すなわち、金策は、北朝鮮、金王朝
の本質を解明するためには欠かせない研究対象である。
  また、金正日著「金日成回顧録」のなかに、正日が父親の金庫を空けてみる
と金日成と金策とふたりだけで映っている写真が出てきたと記述されている部
分があって、金策の特殊な立場が間接的に示唆されている。

  金策は、黒龍会の一員だと目されている。黒龍会指導者の内田良平翁は対露工作に全力を注ぐために朝鮮半島の安定化を願い、日韓合邦運動を推進した民間人である。彼は朝鮮半島悲哀の歴史は、国民の団結心の欠如にあり、その主たる原因は偏狭な正統性への執着に起因しており、その因習・弊害の克服が朝鮮自立の大前提だ、との信念を持って朝鮮工作に邁進した。
 内田翁は、朝鮮社会の構造的な因習は本貫家系へのこだわりにあると喝破して、「壇君神話」に基づいた疑似天皇制国家の家長にすべての朝鮮家系の本貫図を止揚・一元化する構想を打ち出して、半島人士との連携を強めた。
 日韓合邦を夢見た内田翁や、その構想に希望を託して日露戦争で日本に献身的に貢献した半島人士の悲願は、明治政府の併合政策で裏切られた形となった。だが、その精神は継続された。

 内田翁と明石元二郎大将は同郷のよしみで懇意な関係にあり、金策は両者に縁のあった人物である。
  明石大将は、わが国の日露戦争勝利に大いに貢献した、帝国日本陸軍参謀本部の高級情報将校であった。明石大将は日露戦争後、朝鮮総督府の憲兵司令に就任し、抗日パルチザン対策などに従事した。金策はその一要員として、抗日パルチザン組織に潜入して諜報工作に従事していた可能性が高い。

 金日成は、北朝鮮社会のすべての宗家は金日成から発するとして本貫図を一元集約化した王朝体制を目指し、一時は朝鮮民族を「金日成民族」と呼称した。そして、その正統性を白頭山を神聖視した「壇君神話」で補完した。その
構想は、金策の提言に基づいたものである。

 金日成が死去し、二代目正日が正当な後継者と決まるまでに三年かかった
が、その間、「白頭山に赤い雪が降った、金色の鳥が舞い降りた」などの話が
党機関誌に掲載されたり、ラジオで放送されたのは、金王朝神話づくりが進め
られていた背景を暗示していた。
 そして、金王朝の二代目後継者に決まった正日は最初の仕事として、あたかも橿原神宮を創建するかのように、巨額を投じて広大な壇君廟を建設した。また、二代目金王朝体制が成立した直後に公表された党幹部の序列一七位に、一度限りであるが「金策」の名が明記されていた。

「日本書紀」の白村江の戦いの項に、「天智元年(六六二年)の五月、安曇野
比羅夫らが軍船一七〇隻を率いて百済に乗り込み、勅語を賜わって正式に余豊を百済王とし、別に金文字で書いた勅語(金策)を福信に賜わって…」とあり、金策の意味は「金文字で書かれた勅語」だと理解できる記述がある。
「金策」という名称は単なる個人名ではなく、日朝の歴史に因んだある想いが
込められていることが暗示されている。ちなみに、三代目正恩体制が発足した
直後、金王朝周辺筋から、あらためて金策の名が取りざたされて日本に発信されている。

  正恩三代目体制の序列七位に列せられている金国泰(朝鮮労働党中央委政治局員、八七歳)は、金策の長男である。国泰は国家安泰を願った、朝鮮風ではなく、日本的な思い入れそのものが籠もった名前である。
  金国泰は、クリントン政権時の九九年四月、心臓病の治療のためと称して米
ニューヨークにあるマウント・サイナイ病院に一ヶ月入院した。シナイ山とい
うユダヤ教の聖地を冠にした病院は、入院費用が一ヶ月で最低一〇万ドル以上かかる全米で最高級の病院である。おそらく、この時、米朝間で相当突っ込んだ対話がなされたであろう。

 同時に、一部の国際ユダヤ勢力は、大日本帝国の残置国家としての側面が色濃い北朝鮮・金王朝の内実をつぶさに把握したであろう。そして、北朝鮮を積極的に取り組むことが、「新河豚計画」構想を推し進めるには有利だと判断したものと思われる。 

「新河豚計画」構想は一九三〇年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画「河豚計画」の現代版構想である。旧計画は一九三四年に満州財閥の鮎川義介が提唱した計画に始まるとされ、一九三八年の五相会議で政府の方針として定まった。

 実務面では、安江仙弘陸軍大佐、犬塚惟重海軍大佐らが主導した。ヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ、自治区を建設する計画であった。その真の狙いは、国際ユダヤ社会の影響力を活用することで、満州建国以来、孤立化するわが国の窮状を打破することにあった。しかし、最終的には頓挫した。
「河豚計画」の名は、一九三七年七月に行われた犬塚大佐の演説に由来する。
ユダヤ人の経済力や政治力を評価した彼は、「ユダヤ人の受け入れは日本にとって非常に有益だが、一歩間違えば破滅の引き金ともなりうる」と考えた。犬塚大佐はこの二面性を、美味だが猛毒を持つ河豚に擬えて、「これは河豚を料理するようなものだ」と語った。

 金国泰の渡米入院後、米朝間で様々な調整が行なわれ、翌二〇〇〇年一〇月末、クリントン政権の最末期、当時のオルブライト国務長官(ユダヤ系)が訪朝するまでの運びになった。
 しかし、次のブッシュ政権は「九・一一事件」を契機に、アフガン・イラク
戦争に踏み切って北朝鮮を「テロ支援国家」に指定し、それまでの米朝関係を
すべてご破算にした。これに怒った金正日は、日本人拉致事件の真相を暴露すると米国に迫るなど、米朝間の複雑な駆け引きの一端を浮き彫りした。
 二〇〇七年、スイス・ジュネーブに本部を置く非営利財団である世界経済フ
ォーラム(通称「ダボス会議」主催財団)は「夏期ダボス会議」を設立、毎年
秋、支那の天津と満州の大連で交互に開催するという。今年は九月中旬、天津で開催される予定である。

 この会議が設立されたことはブッシュ政権下で中断を余儀なくされた「新河
豚計画」構想が、本格的に進捗していることを示唆しているのである。
  一度は頓挫した「河豚計画」が改めて構想される背景には、世界的なハルマ
ゲドンの勃発を見越した国際ユダヤ金融資本勢力の遠大な思惑が秘められている。そして、大日本帝国の残置国家とも見なせる北朝鮮・金王朝がその推進国家となっていることに「歴史は繰返す」との想いを禁じえない。その大きな道筋を半世紀かけて切り開いてきた重要人物こそ金策である。そしてその日本名は畑中(はたなか)理(おさむ)という。

Criminal Postal Privatization

郵政民営化がバラ色の未来をもたらすとの政治宣伝が行われたが、完全に失敗したばかりか、破滅への道を歩んでいる。平成の払い下げ事件で公財産の私物化であり、世界最大の金融資産である郵便貯金と簡易保険を外国の投機経済に投入する虚飾であった。

愚者の黄金の時代が破綻して、政権交代の狭間で郵政株式の売却が凍結され、外国持ち出しが禁じられたのは、僥倖である。持ち出されていれば、空前の国家的損失となったに違いない。民営化直前に信託銀行へ運用委託された資産の目減りは公表されていない。かんぽの宿の売却が大騒ぎになったが、氷山の一角で、郵政民営化の全体の闇の追求は、郵便不正事件もあって、検察は沙汰やみにした。総務省の調査委員会も尻すぼみに終わり、民営化見直しが、民主党と国民新党の間で合意されても、再三に亘って反故にされ、野党も党内に新自由主義残党がいて、国会で審議しない異常事態が発生した。

日本郵政の経営は急激に悪化して、日本通運との合弁が失敗して郵便部門は巨額の赤字を計上している。民間の不採算を郵便につけ回しをした疑惑が指摘されている。しかも民営化準備を推進した官僚が経営に就く奇矯があり、新自由主義の簒奪の虚妄が現実となる中で、烏天狗のような残党が郵政民営各社の幹部の地位にしがみつく無責任の醜態も継続している。最近、大地震の復興資金をつくる為に株式を売却すると甘言が振りまかれているが、騙されてはならない。経営を悪化させ株価を下げて、手下を経営陣に送り込み会社を乗っ取る手口は、市場至上主義者の常套の手口である。郵政民営化の見直しが骨抜きになるのであれば、郵政改革法案の成立はなくても良い。株式売却の凍結を維持して、構造改悪の買弁勢力の手先を経営陣から追放することが優先すべきである。

マスコミは、構造改革の破壊工作のお先棒を担いだせいか、郵政民営化の惨状を報道しようとしないが、ノンフィクションにぎりぎり近い経済小説の形をとって、高杉良氏が、「虚像〜政権中枢で規制緩和の旗を振った政商」という上下巻を新潮社から出版して、郵政民営化のグロテスクな実態を明らかにした。ワールドファイナンス社長の加藤愛一郎、日本郵政社長の北山良二などと名前を変えてあるが、経済界の実名を想像するように書いている。日本郵政社長は、五井戸住之江銀行から就任して、「般若顔」で「竹井に骨を拾われる形で日本郵政の初代社長に内定していた。北山の権力に対する執着心も尋常ならざるものがあった」、「竹井プラン発表時には、五井住之江銀行頭取として竹井と真っ向から対立した北山だが、そこはしたたかで分が悪いと判断するや米国投資銀行のウォールマックスを仲介訳にして竹井に近づき、今では昵懇の間柄だ」「懐刀として五銀行から連れて来た専務執行役の早河洋は「目付きの鋭いヤクザっぽい風貌、北山の威光を笠に着て、日本郵政のナンバー2として肩で風を切って闊歩していた」、「秘書室長の前山弘、経営戦略室長の千田定彦、営業企画部次長の深田正夫を加えた四人は、「経営の中枢を占め、チーム北川と呼ばれている」」と書く。「小声になると舌足らず気味のべちゃべちゃした口調が癇に障る」のが竹井平之助で、竹井は郵政民営化を進めた大泉純太郎内閣の金融担当大臣で、加藤と竹井、北山と「三人寄り文殊の知恵」を出した仲で、「簡保の宿の譲渡スキームを練り上げてきた」と書いている。加藤は、大泉内閣の政権中枢に食い込み、規制改革推進委員会で規制緩和の旗振り役をした「ノンバンクの帝王」で「儲け仕事しか興味を持たない」、通産省の課長だった森川勝造が立ち上げた「森川ファンド」やそこに出資した日銀総裁の畑中剛、人材派遣会社のエール社長の谷玲子、「主婦層に根強い人気のある」横浜市長でみなとみらいの開発で協力した今西浩二、プロ野球参入表明や放送局買収で時代の寵児となったマルエモンこと丸尾健太ビデオクラブ社長、について書き、金郵庁顧問の村木烈とまとめた竹井金融再生プランは、「経済を再生するどころか、不良債権を無理矢理捻り出す仕掛け」であった、「銀行の不良債権処理による功績にすり替えた、稀代の詐欺師」と糾弾する文章には圧倒される。

「竹井は、つい四か月前の郵政選挙に、立候補したマルエモンの応援演説を買って出るなど、支援姿勢を鮮明にした。もっとも同じ選挙区が郵政民営化に真っ向から反旗を翻した亀山静六の地盤で有り、竹井の丸尾支援は当てつけと言うことなのだが、(中略)決して言い訳ができる立場ではない」、「市場原理主義者の竹井が次のターゲットに定めるのは、合わせて三〇〇兆円を超える郵貯・簡保マネー」で、「この三〇〇兆円を欧米に差し出すとさえ憶測されても仕方がない郵政民営化法」等と、高杉良氏は、郵政民営化のグロテスクな実態を記述する。

第一章は、深夜のノックと題して、「朝のテレビニュースのキャスターとして鳴らした長崎茜」という「今は神奈川県の私大で教授をしている」女性が、奄美大島の田中一村記念館で、孤高の画家の作品を説明するが、「シャワーの調子が悪くて。スィートルームのシャワーを使わせてください」と色仕掛けの世界をオチにする。

TPP同様、郵政民営化は日本を属国化させる汚濁にまみれた虚像でしかない。大地震があり、老朽・外国製原発の暴走があって、戦後政治は、ようやく分水嶺を越えた。日本郵政を、郵便局を、郵政3事業を、自立・自尊の清廉潔白な正道に戻せ。日本再興と安定の財源ともなる。

Kuroshio Culture and Tradition

65回の黒潮文明論と称する雑文を書いてきた。いよいよ漆と夜光貝が出会う場面になった。東北の平泉の中尊寺金色堂では、螺鈿の総数は2万7084個にも及ぶという。その螺鈿の材料は、殆どが立派なものであるほど,夜光貝であることは言うまでもない。夜光貝は、南の黒潮の産物である。大陸との交易はずっと後で,その後の話である。

第1回目から、65回まで、リストにして掲載する。ご覧ください。

http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/kuroshio-1.html

http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/kuroshio-2.html

http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/kuroshio-3.html

http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/kuroshio-4.html

http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/kuroshio-5.html

http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/kuroshio-6.html

http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/kuroshio-7.html

⑧ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/kuroshio-8.html

⑨ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/kuroshio-9.html

⑩ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/kuroshio-10.html

⑪ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/kuroshio-11.html

⑫ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/kuroshio-12.html

⑬ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/kuroshio-13.html

http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/kuroshio-14.html

http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/kuroshio-15.html

⑯ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/kuroshio-16.html

⑰ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/kuroshio-17.html

⑱ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/kuroshio-18.html

⑲ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/kuroshio-19.html

⑳ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/kuroshio-20.html

㉑ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/kuroshio-21.html

㉒ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/kuroshio-22.html

㉓ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/kuroshio-23.html

㉔ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/kuroshio-24.html

㉕ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/kuroshio-25.html

㉖ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/kuroshio-26.html

㉗ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/kuroshio-27.html 

㉘ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/kuroshio-28.html

㉙ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/kuroshio-29.html

㉚ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/kuroshio-30.html

㉛ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/kuroshio-31.html

㉜ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/kuroshio-32.html

㉝ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/kuroshio-33.html

㉞ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/kuroshio-34.html

㉟ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/kuroshio-35.html

㊱ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/kuroshio-36.html

㊲ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/kuroshio-37.html

㊳ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/kuroshio-38.html

㊴ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/kuroshio-39.html

㊵ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/kuroshio-40.html

㊶ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/kuroshio-41.html

㊷ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/kuroshio-42.html

㊸ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/kuroshio-43.html

㊹ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/kuroshio-44.html

㊺ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/kuroshio-45.html

㊻ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/kuroshio-46.html

㊼ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/kuroshio-47.html

㊽ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/kuroshio-48.html

㊾ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/kuroshio-49.html

㊿ http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/kuroshio-50.html

51 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/kuroshio-51.html

52 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/kuroshio-52.html

53 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/kuroshio-53.html

54 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/kuroshio-54.html

55 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/kuroshio-55.html

56 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/kuroshio-56.html

57 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/kuroshio-57.html

58 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/kuroshio-58.html

59 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/kuroshio-59.html

60 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/kuroshio-60.html

61 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/kuroshio-61.html

62 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/kuroshio-62.html

63 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/kuroshio-63.html

64 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/kuroshio-64.html

65 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/kuroshio-65.html

○の中に、数字を書くやり方がまだ判らないので、51番目からは、○なしになっている。読者でご存じの方がおられれば,ご教示方お願いしたい

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Kuroshio 65

夜光貝と漆の出会い

サザエを大きくしたような貝が夜光貝だ。大型の巻貝であり、重さは二キロ
を越える。軒下で雨だれを受ける石の代わりに使っていれば、その美しさは分
からない。潜って追い込み漁をする傍らに夜光貝を採って帰り、家の軒先の周りに置いても、殻の色がくすんで石灰質がたまってしまえば、夜光貝が螺鈿の材料になるなどとは想像もつかない。食すると、小ぶりのサザエの方がうま味があるし、肉は焼けば硬くなるばかりだから、薄切りの歯ごたえのよい刺身にするか、時間をかけて煮てだし汁をとるかである。肉を塩漬けにして上納品にしたこともある。貝殻の真珠質に光沢が有り、特に薄緑色が珊瑚礁のエメラルドグリーンの薄澄の部分をとってきたように美しい縞になって輝く夜光貝の魅力は外側からは分からない。外殻にフジツボがついていたりすれば、そぎ落として研磨して、光を反射してようやく真珠質が表れる。アワビの真珠質も光沢があるが、層が薄くて比べものにならない。夜光貝の真珠層は厚みがあり、加工すれば、一枚板を執ることもできるし、貝の巻く形を生かして杓子を作ることもできる。汁を掬う道具を汁(しる)貝(がい)とも言うし、米の飯を掬うシャモジのことを飯貝(みしげ)とも呼ぶから、もともと貝が液体等を掬う道具に使われていたことは間違いないが、夜光貝の場合には、光輝く妖しい美しさがあるから、祭祀の道具になるような要素を備えている。

夜光貝は、螺鈿の材料として珍重されてきた黒潮文明の産物である。日本の
本州の列島には生息しない。宝貝と同様に、黒潮で仕切られた奄美の島々の以南の海域に生息する。奄美大島北部で、平成の御代になってから夜光貝が大量に出土する遺跡が発見されるようになってから、漆と夜光貝とが出会った螺鈿の世界の背景が具体的に想像できるようになった。奄美大島の北部の大きな港町が名瀬であるが、隣の喜界島の側には、小湊という港がある。冬場に名瀬の港が荒波になっても、島の南側の小湊は風よけになり、夏の場合には逆で、南側の小湊にうねりが押し寄せても、北側の名瀬の港は静かである。その小湊から、大量の夜光貝の破片が製作途上の貝匙を含めて大量に出土した。つまり、平安時代の史料に記録される夜光貝は螺鈿の材料となることは知られていたが、その供給地が突き止められていたわけではなかったから、奄美大島北部での大量出土によって、夜光貝の供給地であることが判明した。夜光貝は珊瑚礁の地形の外洋側の斜面の岩場に好んで生息している。洲(ひし)と呼ぶ珊瑚礁の外縁の外側の壁に張りつく貝である。奄美大島北部の夜光貝の出土する遺跡は、珊瑚礁が発達した海岸沿いに或る海岸砂丘の上にあることが立地条件として共通する。夜光貝の名前は、奄美や沖縄では、ヤクガイ(夜久貝、夜句貝、益救貝、屋久貝)と呼ばれていたことから来る名称で、今の種子島や屋久島以南の島嶼の総称から来る名前である。日本書記では、掖玖(やく)という地名が奄美や沖縄、宮古、八重山を含む琉球弧の総称となっているから、ヤクガイとは、そのヤクの産物であることを意味する。夜の光は、単なる当て字である。夜光る貝ではない。奄美大島では完成品の出土は少なく、貝匙などの完成品は別の土地で製作されたとの推測があり、朝鮮半島の東岸の古墳などからも夜光貝が出土していることが確認されている。朝鮮の螺鈿細工は今に残るが、原料は南の島から供給されたことは否定できない。枕草子にも、ヤクガイが酒杯に使われたとの記載があり、小右記では、大隅の藤原氏が畿内の藤原氏のもとへ夜久貝を贈答品として届けている。

平成四から五年に行われた正倉院の宝物の螺鈿の材質調査では、螺鈿の材料は、殆どが奈良時代に製作されたもので、夜光貝であることが判明している。螺鈿以外でも、夜光貝を材料とする製品が多数存在する。四絃琵琶が五面伝えられているうちの一面は国産の螺鈿で作られている。全てが舶来品でないことは重要である。漆がこれまで長い間舶来の品と考えられていたが、東北地方の縄文時代の遺跡から漆の篭などが出土するに至って、日本の原産である可能性が高まったように、螺鈿の細工も実は、黒潮文明の島々を原産地とする夜光貝と漆とが出会って発生して工芸に発展したことが想像される。平等院、中尊寺金色堂、当麻寺の螺鈿細工は、大型の貝片と小さな貝片とが大量に組み合わせてふんだんに使われている。金色堂では、螺鈿の総数は二七〇八四個にも及ぶ。黒潮文明の中で生産されたゴホウラ貝やイモガイでできた腕輪などが、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡で発掘され、貝の腕輪は北海道の縄文遺跡からも発掘されているが、時代は下がるが、夜光貝が漆と出会って工芸として発展したのだ。螺鈿技術の発達は十二世紀に最盛期を迎えているが、鉄器の普及と関連する夜光貝の交易やその他の貝殻の交易は、黒潮を辿る日本の列島との交易が主力である。大陸との交易は十五世紀に成立した琉球王国が貝殻の大輸出国となったずっと後のことである。(本稿は、高梨修、ヤコウガイの考古学、同成社、二〇〇五年刊を参照した。)(つづく)

Territorial Claim

日露の領土の交渉。

興味深い記事だ。http://news.nicovideo.jp/watch/nw197338

The Last Corrupt Banker

西川元日本郵政社長、元住友銀行頭取の回想録が出版されて、その内容についての批判する記事を当方ブログは掲載した。マスコミの書評などは、市場原理主義の拝金の経営者に追従するような記事が出ているので、驚かされていたが、正義と公平と感動を掲げる会員制の雑誌のテーミス2月号に、「弁解と自慢話が目立つ」と批判する、「西川元日本郵政社長&高橋元住友信託会長「回顧録」の生臭さーー国会での追及などは隠して弁解と自慢話」という批判記事がようやく掲載された。

見出しで「,盟友の竹中平蔵をかばったり」として、「前半は,住友銀行で不良債権処理に成功し,頭取に上りつめるまで。後半は日本郵政の社長として挫折するまでの裏話だ」として、「ただし、本に書いてあることは面にできる裏話。本当の裏話はヤミの社会との繋がりだろう。何しろ、許永中と言う日本のヤミ社会に絡む話だ。きれいごとで済むはずがない。」と書いている。

三井住友銀行の初代社長として、ゴールドマンサックスからの資本注入で乗り切る経緯については、「都内で四人であって、竹中氏の原質を採った」としながら「、完全に信頼出来たのはあの時点でGSを於いて他になかった」と開き直り、「竹中大臣がお墨付きを与えるなどあるわけがない」と盟友をかばう内容となっていると書いている。「日本郵政社長となる後半部分も言い訳がましい」「簡保の宿のオリックス不動産への売却問題など,自分が犯した売国的な行為については全く自覚がないようだ。」メルパルク問題については、「1500人の従業員を路頭に迷わせようとした」と指摘している。

「高杉良の虚像の方が」実像に、いや「事実に近い」と述べている。

赤字のペリカン便を救済して,郵便事業に損失を与えたのは、「取り返しのつかない傷跡」と、書いている。「東京中央郵便局の建て替えも強行」「近く完成するが、テナントは埋まっていない」と描写している。

「こんなバンカーは最後にして欲しい。「ラスト・バンカーとはいいタイトルだ」と皮肉っている。

それに続けて、長銀合併から逃げた高橋天皇と,見出しを付けて、住友グループの雄で或る,住友信託銀行前会長の朝日新聞に連載を開始した「証言その時」と題する回顧録についても,批判している。

長銀を救済しなかったことを政府の責任にしているが,リスクを取る気概がなかったのは高橋氏自身ではなかったのか。と指摘して、

最後に、「西川氏も高橋氏も、出版社や新聞社にすすめられたにせよ,なぜ回顧録を書くのだろうか。(中略)経営者の往生際の悪さだけが目立って後味が悪いのだ」と結んでいる記事である。

当方ブログは、郵政民営化の闇の部分については、司法当局による捜査が行われてしかるべきだと従前から主張してきている。「僅か三ヶ月の通告で郵貯振興会の契約は解除され、新賃貸契約が、結婚式場を経営するワタベ・ウェディングと不透明な随意契約を締結した。ワタベの株価はその直後からピークまで50%以上高騰した」とも書いている。

ご参考まで。

最後にもう数年前のきじであるが、興味ぶかいリンクがあった。これまたご参考まで。

http://www.zakzak.co.jp/top/200906/t2009061741_all.html

これも面白い相関図である。これもなおさらにご参考まで。郵政民営化の闇夜を飛び交う烏天狗のリストのようでもある。

http://spysee.jp/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%B4%94%E5%A4%AB/1267761/

National Foundation

皇紀二千六百七十二年 (平成二十四年)   建国記念の日 明治神宮会館において、奉祝記念行事 第二部『古事記』撰上1300年記念として、奉祝神楽が上演された。

高千穂の夜神楽である。

1.「杉登り:すぎのぼり」
http://youtu.be/QDjBYrrWjgE
2.「手力雄:たぢからお」
http://youtu.be/BWcNWeq6sgg
3.「鈿女:うずめ」
http://youtu.be/jUcP1VhhECs
4.「戸取:ととり」
http://youtu.be/qz14s_HIwVo
5. 「御神躰:ごしんたい」
http://youtu.be/MKEcszeLkjI

YouTubeに夜神楽の貴重な画像を掲載された、Mahorobajapanさんに感謝する。

The Truth about "Confort Women"

Mr Moteki circulated a newsletter but misunderstandings happened practically. And he added a explanatory addition to clarify the true situation of the "Confort Women" .

His additional information is attached as follows.

「先日No.39を発信したあといただきました反応の中で、慰安婦は朝鮮人だけだったと誤解している方がかなりいらっしゃることが分かりました。慰安所は当時国内(日本・朝鮮)にあった売春宿が戦地に出張して営業したもので、従ってそこで働いていた慰安婦は日本人も朝鮮人もいたわけです。しかし、そのことはやはり確認の意味でも触れておかないといけないという事に気がつきました。

 秦郁彦教授は、『慰安婦と戦場の性』の中で、慰安婦の割合はおおよそ日本人40%、朝鮮人20%、其の他(現地の応募者等)30%であったと推定しています。

 そもそも稼ぎとしてはかなり良い職場だったから慰安婦として出かけたのです。その補償のための基金とはいったい何事でしょうか。戦時中色々な職業の人が戦地で働き、つらい目にあった人もたくさんいたことでしょう。慰安婦に限って特に補償の基金を作るなどということは全くおかしなことです。しかもよりによって韓国人の慰安婦の為にこれをつくるとは!

 要するに未だに朝鮮人慰安婦の強制連行があった、などというウソを漠然と前提にしているからであるということです。こんなことをおこなうから、慰安婦=女性挺身隊などという真っ赤なウソを韓国は未だに主張し、銅像を建て、更にはアメリカの新聞に意見広告を出すなどという愚行を続けることになるわけです。ウソはウソと明確に主張し、その証拠を世界に主張すべきです。
下記の通り、No.39の追加情報を海外に発信しました。

 なお、「慰安婦の素顔」の日本語版は、
   http://hassin.org/01/wp-content/uploads/COMFORT-WOMEN.pdf

でご覧になれます。               発信する会 茂木
 

     The Truth about the "Comfort Women"

After mailing out Newsletter No.39, I realized that one important point was missing in my Essay and this is that the comfort women were mostly Japanese. Since I explained that the "Comfort Women" houses were run by operators of prostitution,
I thought that it would have been taken for granted that the comfort women were mostly Japanese. But I recognize that there are many people who still think that the comfort women are all Korean. So, I'll add some information concerning this point.

Professor Hata Ikuhiko concludes in his book "Senjyo no ianhu" (“Comfort Women of the Battle Zone”) that roughly 40% were Japanese, 20% were Korean and 30% were of other ethnicities recruited mainly from the local area. It is very reasonable calculation since brothels were not an extraordinary things but commonplace? these just happened to operate in battle zones outside of Japan.

For your information, you can find the following information at our website?facts concerning the "Comfort Women":

* "Behind the Comfort Women Controversy"  http://www.sdh-fact.com/CL02_1/39_S4.pdf
*The Truth about the Question of Comfort Women
     http://www.sdh-fact.com/CL02_1/24_S4.pdf
*No Organized or Forced Recruitment: Misconceptions About Comfort Women and the
Japanese Military    http://www.sdh-fact.com/CL02_1/31_S4.pdf
*The Real Identity of Military Comfort Women
     http://www.sdh-fact.com/CL02_1/30_S4.pdf
*Paid Advertisement Concerning "Comfort Women" Run in the Washington Post:
"Facts are Our Only Weapon"   http://www.sdh-fact.com/CL02_1/33_S4.pdf
*The Comfort Women Controversy and Actual Misdeeds of the United States Army
     http://www.sdh-fact.com/CL02_1/48_S4.pdf

Questions are welcome.

Sincerely,

MOTEKI Hiromichi, Secretary General
for KASE Hideaki, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact
URL http://www.sdh-fact.com

Note: Japanese names are rendered surname first in accordance with Japanese custom.」

Why Boycott Kao?

North Korea and Japan

藤原源太郎氏が、「日本人拉致問題に関する一考察/飯山一郎氏近著評」と言う論文を、世界戦略情報誌のみち第353号に掲載していたが、そのホームページ(http://michi01.com/index.html)にも電子版として掲載されたので、当方ブログは、著者の諒解をえて、ホームページの関連部分をそのまま転載して、当方ブログの読者の皆様の参考に供することにした。

日本人拉致問題に関する一考察/飯山一郎氏近著評 
    (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年2月1日第353号)

『横田めぐみさんと金正恩』と題する本が出版された。著者は飯山一郎氏、版元は三五館。
 この本の骨子は、北朝鮮の三代目金王朝の後継者である金正恩の母親は、横田めぐみさんだと証明し、断定することにある。

 筆者は著者の飯山氏とは直接の面識はないが、電話で意見や情報を交換する間柄にある。昨年暮れ、飯山氏から電話があり、彼がこれまでブログに書き綴ってきた正恩の母親はめぐみさんだとする一連の見解をまとめた本が、緊急出版されることになったと知らされた。
 筆者は、めぐみさんが正恩の母親だとの認識では飯山氏と完全に一致しているため、出版そのものは歓迎だと飯山氏に伝えた。だが、なにゆえこの時期に緊急出版されるのか、その背景を慎重に見極めるべきだと、飯山氏と意見を交換した。彼との会話で、飯山氏の意向とは関係なく出版を急ぐ背景があって、それなりの力を行使できる勢力の強い思惑が秘められているのではとの認識で一致した。
 この本は、著者の了解を得た二週間後に出版された。また、大型書店に平積みされ、大々的に宣伝されている。この事実ひとつだけでも、今回の出版が異例中の異例であることを物語っている。問題は、何故、版元がこんなにも焦ったのか? また、弱小出版社にもかかわらず宣伝広告に莫大な費用を投じたのか、である。その結果、発売四日で初版一万部が完売し、直ちに増刷されている。以下は、今回の異例さに関する筆者の見解である。

 筆者は、今回の異例な緊急出版の背景には、三代目金王朝体制を支える側近集団を中心とする、日朝関係の正常化を急がせたいとする様々な勢力の強い思惑があると確信している。
 二〇〇二年の小泉訪朝で北朝鮮側が拉致問題を正式に認めたことで、国内世論が一気に硬直して強硬制裁論に急傾斜し、現在まで続いている。わが国政府は、拉致問題を日朝国交正常化の入り口に据えて、制裁発動を継続し続けている。
 また、日朝国交正常化を歓迎しない米韓あるいは支那の思惑も錯綜して、日朝間の交渉窓口は閉ざされたも同然のままであった。だが、日本政府は、この入り口戦略を継続している限り、日朝関係は永遠に正常化出来ない内実を熟知している。
 今回の緊急出版の背景には、これまでの入り口論の限界を払拭し、出口論に切り替えたいとする勢力の意向が強く反映している。いわゆる拉致問題の背景には、公にされたくない闇が色濃く潜んでいる。また、拉致事件の関係当事者筋は、その内実を隠蔽したまま、曖昧に解決済みとする必要性を最優先事項に定めている。
 めぐみさんが正恩の母親ではとの認識が日本国内に浸透し、仮に、金王朝側からその事実を裏付けるような宣伝工作が発動されれば、国内世論が激変し、拉致問題が霞む可能性も否定できない。
 小泉訪朝で金正日が日本人拉致を正式に認め形式的に謝罪するまで、わが国政府は、拉致問題を無視するかのように自ら解決する姿勢、政治課題に取り組むことには消極的であった。さらに、左翼勢力による韓国謀略説が論じられるなど、拉致問題は実質的には封印され続けてきた。
めぐみさんの母親、早紀江さんは娘の拉致問題解決をさまざまな関係筋に訴えたが実質的に無視され、最後は、当時健在だった大日本愛国党の赤尾敏総裁にまですがった。だが、なすすべがないことを突き付けられノイローゼになって、キリスト教に入信して立ち直ることができたと述懐しているが、これほど国民は無関心だったのだ。
筆者は、なにゆえに日本政府、殊に警察関係者が拉致問題に冷淡だったのかに関して、わが国政府には、北朝鮮による日本人拉致を看過せざるを得なかった、やむにやまれぬ事情があったからだと確信している。以下は、その一端を裏付ける貴重な証言である。

 昭和四五年一一月二五日、作家の三島由紀夫氏は、四人の盾の会会員とともに市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で「政体を守るのは警察だが、国体を守るのは軍隊だ」との檄を飛ばし、自衛隊員に軍人として覚醒し共に決起しようと呼びかけて、壮絶な自決を成し遂げた。
筆者は三島氏と直に会話を交わして幾多の感銘を得た経験もあり、ともに自決した森田必勝とも付き合いがあった関係上、ふたりの自決決起に脳天を突き破られるかの衝撃を受け、呪縛されたかのような影響を受け、今なお、その桎梏の克服を余儀なくされる人生を送り続けている。
 筆者は、三島氏が檄文で「政体を守るのは警察だ」と決めつけた文言に直感的な違和感を感じた。そして、ある衝撃的な証言を得ることによって、その違和感を解明することができた。
 三島氏は決起の一年前、自衛隊の調査隊員と懇親会を催した。その際、調査隊員から衝撃的な訴えを受けた。その訴えは、北朝鮮の暗号を傍受し解析した結果、能登半島で日本人が拉致される危険性が高いと判断し、彼らが事件現場を遠くから監視した顛末の驚くべき真相であった。
 彼らは、石川県警の関係者が現場周辺に多数出動していたので、当然、現行犯逮捕するだろうと期待していた。しかし、彼らの行動を観察していると、現行犯逮捕が目的ではなく、拉致現場を目撃しかねない人間が現場近くに寄りつかないような周辺気遣いのみに徹し、最後は拉致を積極的に看過してしまったとしたものである。そして、その事実を裏付けるかのような写真を手に、こんな理不尽が許されていいのかと、涙ながらに三島氏に訴えた。
三島氏は彼らの訴えには直に答えず、「保利さんに相談してみる」と答えただけである。保利さんとは、当時の保利茂官房長官である。保利官房長官との相談結果に関しての情報は不明である。筆者にこの貴重な情報を提供してくれたのは、その場に同席を許された二人の盾の会会員のうちのひとりである。
 三島氏は、現在のわが国の警察の主たる役割は戦後政体(ポツダムジャパン)を守ることにあるとして警察を批判するのではなく、自衛隊にその政体の超克を強く訴えるため「軍隊の本義は国体を守ることにある」と檄を飛ばしたのであろう。現在、筆者は三島氏があの壮絶な決起を決断した背景に、その前年に知った日本人拉致事件が少なからぬ影響を及ぼしていたのではと確信するに至っている。 
では何故に、わが国の警察は、北朝鮮による拉致事件を看過せざるを得なかったのか?そのヒントは、金正日がそれまで頑なに否定していた日本人拉致を公式に認めたことにある。

 金正日が日本人拉致を認めたのは、二〇〇二年九月一七日である。当時の米国はブッシュ政権下で、同政権は前年の〇一年、「北朝鮮をテロ支援国家」と決めつけ、過去の水面下における米朝間で積み重ねてきた折衝の実績をすべて反故にするとの宣言を発した。
 それまでの米朝関係は前クリントン政権の末期にオルブライト国務長官が訪朝し、国交樹立を視野にいれるまでに進捗していた。しかし、「テロ支援国家」指定で、すべてが水の泡となった。金正日は、米国の変節への憤りを、日本人拉致事件の真相を暴露するぞと米国に突き付けることで、米国が同事件に関与していたことを示唆した。

 いわゆる拉致事件は、ベトナム戦争時に集中して起きている。米情報機関筋は、当時激化していたベトナム戦争の過程で、米国が完全に払拭したと確信していた旧日本軍国主義勢力と北朝鮮が見えざる糸で繋がっているのではないかとの疑惑を深めて、強く警戒し始めていた。
 その疑惑を晴らすため、米国情報機関筋は北朝鮮に軍国主義勢力と手を切れと様々な駆け引きを働きかけ、返す刀で、日本に踏み絵を踏ませるための試練として拉致問題を演出したのであろう。日本政府(警察)が拉致事件を看過せざるを得なかったのは、事件の背景に米国の関与があったからである。
 米朝間での駆け引き内容は不明である。だが、許容された範囲外の拉致被害者は、横田めぐみさんである。わが国の公安関係筋が、真の拉致事件は「めぐみさん拉致事件だけだ」と非公式に認定しているのも、この間の事情を承知してのことである。

北朝鮮は、朝鮮民主主義人民共和国という、朝鮮労働党の金日成主席が独裁統治する社会主義国家だとされていた。だが、その内実は建国以来、わが国の天皇制に似せた疑似天皇国体の金王朝を完成させることにある。
 二〇一〇年九月二八日、朝鮮労働党は代表者会議を数十年ぶりに開催し、党規約を改正した。その骨子は「主体思想」を中核にして「金日成朝鮮」(金氏朝鮮)へと国体を昇華させるとするものである。同時に、金正恩の三代目後継が正式に決まった。すなわち、三代目にして金王朝を完成させるとの意向を全面的に打ち出した。
めぐみさん拉致問題の真相は、金王朝の正統性を担保するため、本家日本の由緒ある高貴な血筋を受け継がせるため彼女に白羽の矢がたてられたことにある。今回、飯山氏のホームページが一冊の本に仕立てられ緊急出版されたのは、その本意を公にしたいとの意向が強く働いているからである。

かって、国家に人生を翻弄、蹂躙された少女がいた。旧大韓帝国の李垠皇太子に嫁がされた梨本宮方子妃である。彼女は、日本と朝鮮半島の架橋となるべく、一五歳の時に、本人の同意なく、いわば差し出された。
 めぐみさんも、方子妃と同じ運命を強要されたと達観しているだけでなく、日朝友好の架橋となるべき使命に覚醒している可能性を今回の本の出版は暗示している。さらに、緊急出版された背景には、日朝関係正常化の促進で新天地を切り開きたいとする、国際ユダヤ金融資本勢力による「新河豚計画」を推進しようという意向も秘められているに違いない。 平成二四年一月二七日識

Sense of Mission and Summary of Links

月刊日本特別講演会 鈴木宗男氏 2012年2月6日 於:赤坂区民センター

その① 宿命に生まれ、運命に挑み、使命に燃える
http://youtu.be/fmmN26S7apQ

その② 一年間の収監で得た三つの悟り    
http://youtu.be/1mfKv8IJvWk

その③ 見事な刑務所の危機管理と郵便局の力

http://youtu.be/3zm-UEwVBaM

地震の発生時の翌日にも、刑務所に手紙がちゃんと届いたとの指摘である。

郵便をほめている。民営化をすすめた小泉を批判している。

その④ 新党「大地・真民主党」結成メンバー
http://youtu.be/zNpbmsSzCjI

その⑤ 因縁の辻元清美議員とのその後   
http://youtu.be/JZE30pw2mZw

その⑥ 四島の旗を降ろした事は一回も無い 
http://youtu.be/YNsHmmkGilg

その⑦ 北方領土外交の真髄とロシアのガス資源 
http://youtu.be/tipHzZUsPjI

その⑧ 質疑応答 ロシアは民主国か?野田政権はいつまで?
http://youtu.be/xDlIk-itGuU 

Revival of Prosperous Japan

第96回日本経済復活の会が、2月23日に開催される。当方ブログの読者の皆様に、出席と聴講をおすすめしたい。

同会からの連絡は次のとおりであるから、出席を連絡していただきたいとのことである。



 
○日時 平成24年2月23日(木)午後6時~午後9時
                (開場5時30分、講演開始6時)
○場所 アルカディア市ヶ谷(私学会館) 東京都千代田区九段北4-2-25 TEL:03-3261-9921
●地下鉄有楽町線・南北線      市ヶ谷駅A1-1出口
●地下鉄新宿線            市ヶ谷駅A1-1またはA4出口
●JR中央線(各駅停車)市ヶ谷駅  上記各出口から徒歩2分
○会費 3500円(資料代や食事・飲み物の費用を含みます)
 
当会合に関する一切の問い合わせと、御来会の可否は小野(03-3823-5233)宛にお願いします。 メール(sono@tek.jp)でも結構です。弁当の注文や配布物の準備等ありますので、申し込みはできるだけ早めに行って下さるよう、ご協力お願いします。
○講師
 
①  亀井亜紀子先生 参議院議員> 『社会保障・税一体改革における消費税論議の真相など(仮題)』
 
学習院大学法学部政治学科卒業。カールトン大学卒業(カナダ)。帰国後、プロの英語通訳としてビジネスや報道、スポーツ分野で活躍。その後、父・亀井久興衆議院議員の政策秘書となる。2007年、参議院選挙に国民新党公認で初当選。2010年9月より党政調会長として、民主党や野党各党との政策協議の第一線に立つ。昨年2月のNHK『日曜討論』では財政危機を煽る財務省の二枚舌を暴露。国内向けには「大変だ」と言いながら、海外向けには「大丈夫だ」と説明している矛盾を指摘した。

②小野盛司 日本経済復活の会会長
 
会の活動報告、『大震災からの復興への道 -お金がなければ刷りなさい-』
 
日本経済復活の会のホームページ http://tek.jp/p/

Postal Schock Doctrine

昨年開催された講演会である。郵政民営化の闇は深い。しかし、何時までもかくしおおせるわけでもない。天網恢々疎にして漏らさずであるから、いつかは露呈する。

Sense of Mission 7

月刊日本が主催した、鈴木宗男氏の講演会の全てを転載した。元の動画像を記録したまほろばJapanに感謝する。

Sense of Mission 6

Sense of Mission 5

Sense of Mission 4

Sense of Mission 8

質疑応答の最後の部分が公開されたので、それに従って、当方ブログも共有することにした。

Sense of Mission 3

Sense of Mission 2

鈴木宗男氏である。政治的な犯罪が仕掛けられたのではないのか。

Sense of Mission 1

鈴木宗男氏の、講演会である。運命に挑み、使命に燃える、と題する。

Receding Future

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34481

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34481?page=2

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34481?page=3

興味深い記事である。ご参考まで。

Freedom Betrayed: A Necessity or A Crime?

当方ブログは、ハーバート・フーバー第三十一代大統領の回想録が、47年ぶりに、筐底から取り出されて公刊されたことについて書いてきた。原爆投下が誤りであったと明白に書かれており、戦争直後に来日してマッカーサー将軍に会っているがその時の会見記録もある。ルーズベルト大統領については、狂気の男などと厳しく批判している。日本は戦争に引きずり込んだ、19の誤りについても記録している。フーバー回想録の話題は、静かではあるが、波紋となって世界に広がっている。

連合国による大規模な無差別都市爆撃という大量殺戮を論じた本がないかと探していたら、イギリス人が書いた本で、「大空襲と原爆は本当に必要だったのか」と言う単行本が、2007年に河出書房から出版されていた。著者は、ロンドン大学の哲学の教授のA・C・グレイリング教授である。

著者は、第二次世界大戦は、連合国にとってナチや日本の’軍国主義’に対する正義の戦争だったが、「一般市民を意図的に攻撃目標として爆撃するのは、道義に反する犯罪である」と論じているのが特徴である。

アメリカによる日本への空襲を論じた本に、ロナルド・シェイファー著「アメリカの日本空襲にモラルはあったカーー戦略爆撃の道義的な問題」(深田民生訳、草思社、1996年、原著は1985年)があった。事実を書いて読者の判断を促す姿勢である。

さて、フーバー大統領の回想録が書いているように、日本の和平を悉く拒否して、不必要に追い詰めて、日本の戦争が自衛の戦争であったとしたら、正義の戦争であったと言う前提も崩れる。

ご参考まで。

North Pole Route by Sea

北極海航路に注目しなければならない。ロシアのプーチン政権は、北極海航路の開発に熱心であるが、これが、可能になると、アジアとヨーロッパとの海運に要する時間が半減する。スエズ運河の通行がなくなり、物流が世界的に変わる可能性を秘めている。ロシアにとっては、ウラジオストクから、出発する航路となるが、その結節点を北方四島が占めることになる。

ロシアは民主党政権に見切りを付けて、北方領土問題に強行策をとるようになっているが、その背景には、北極海航路の開発の可能性がある。空と海から日本を挑発するような勢いである。北方領土には、シベリアや中央アジアからの労働力が投入されており、中には北朝鮮からの労働者もいるという。機材や資材の多い九は、中国、韓国製だという。ロシアに執って、極東の開発は不可欠であるから、日本の主権を取り戻すためには、先に手を打っていかなければならないが、そのひとつの可能性として、サハリンのガス田開発への日本の参加の期待の大きさを十分に利用する必要あり、また、日本自ら北極海航路の開発に取り組む必要があるのである。サハリンの天然瓦斯開発の利用者に日本がなり、また、北極海航路の開発で協力ができれば、日露の関係は、互恵の関係に転化できる可能性があるのだ。その中で、北方領土の返還要求が強力に行われなければならない。

Gold Export should be refulated

日本から外国に金が流出しているとの報道だ。2011年の統計としては、122トンの輸出が有り、100トンを越えた。しかも、対前年比で三割増しだという。その理由は、日本がデフレだから、金よりもキャッシュが重要となっているからであるが、逆に、世界はインフレを恐れて、しかもドルと金とを比較して、金を買っているのである。世界では、外貨準備で、ドルが七割、残りが金が買われるようになっている。

しかも、最終の仕向地が、回り回って、中国となっているのが、特徴である。国を挙げて希少資源を国境の中に囲い込む戦略を立てて実行しているが、日本はどんどん、野放し状態で金を輸出している。金はハイテク素材でも有り、国家的に輸出を制限するのが常道ではないだろうか。あるいは、経済産業省あたりが少し予算を配分して国家が金備蓄に踏み切ったらどうだろうか。中国は、ドルやユーロの不安を背景にして金という担保を確保しようとしているので有り、日本は、外国の言いなりになって、ただ、外国債を買うだけになっているのは、国益を失う恐れがあることは言うまでも無い。ゼロ金利が続く間にも、金価格は高騰するので、無策の行政が日本を金の草刈り場にしてしまって、将来に禍根を残すことになる可能性すらある。

Taxation

財政再建を増税でやろうとするのは、間違いであるし、経済成長による税収増が常道であり、デフレ脱却を図ることでしか、財政再建は実現できない。

しかし、なぜここまで、国民を騙してまで増税に走ろうとするのか、うがった見方がある。それは、「円ドル為替操作に必要な特別会計の外国為替資金特別会見の資金が欲しいからで、日米が対等でないから、日本が貸したドルが日本に戻ってこずに、米国債となって塩漬けになっているので、政府は困っている。要するに、これが財務省金庫の空洞化を招いているので、増税を必要としているにすぎない。日本国民に知られることを日本の財務省も、外国も知られることを恐れている」という見方である。しかし、本当に財政危機であれば、国のバランスシート上には、647兆円もの資産があり、そのうちの70%の流動資産、つまり、現金・有価証券、貸付金、運用預託金、出資金などがあるから、増税を国民に求める前に、ギリシャのように国有資産の売却があってしかるべきだ。

外国の為に、増税をされてはかなわない。

復興の原資として、郵政株の売却などととってつけたような話をしているが、外国に郵便貯金や簡保の支配を渡してしまうリスクがあるから、強行されるよりは、郵政株の売却など凍結しておいた方が国益に繋がる。郵政民営化の改革法案など名ばかりで、いよいよ改悪になりかねな情勢だから、このまま株式の凍結が続いている方がまだマシである。民主党政権は、郵政民営化の改悪の見直しをする気がないらしい。

Kroshio Culture and Tradition

第1回目から、64回まで、リストにして掲載する。ご覧ください。

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64 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/kuroshio-64.html

○の中に、数字を書くやり方がまだ判らないので、51番目からは、○なしになっている。読者でご存じの方がおられれば,ご教示方お願いしたい

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Kuroshio 64

日本漆文化の起源と伝統

伝統工芸の分類は色々できるが、展覧会では、陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形、諸工芸と大別している。七宝や硝子や象牙の器物の表面を染色する染牙(せんげ)等は諸工芸に含まれる。陶器はチャイナだが、漆芸は漆をジャパンといい、漆(うるし)はうるわしを語源とする説もある程に、日本工芸の代表である。その漆芸のうちの螺鈿(らでん)、つまり、夜光貝、アワビ貝、蝶貝などの貝殻を平な板状に加工して文様の形に切って漆面に貼る装飾技法に注目して、黒潮の産する夜光貝(ヤコウガイ)を主題にしたいが、まずは漆芸とは何か、用語解説を深める。

器胎(きたい)とは、器の素地のことで、木胎、紙胎(したい)、籃胎(らんたい)(竹を編んだもの)、金胎(きんたい)(金属)、陶胎(とうたい)などと素地の材質を示す。乾漆(かんしつ)とは、型に麻布を漆で張り重ねた後、型を外して器胎とした素地の一手法である。曲輪造(まげわつくり)も素地の一手法で、檜や杉、ヒバなどの薄板を曲げて輪状にし、幾重も重ねるなどして形づくる。

溜塗(ためぬり)は、半透明な漆を通して素地が見えるように仕上げる塗り方である。蒔絵(まきえ)は、漆で模様を描き、これが乾かないうちに金粉や銀粉をまいて定着させる装飾技法だ。蒟醤(きんま)は、厚みを持たせた漆に細い線を彫り、凹部に色漆を埋め込み、乾燥後に平に磨き上げて仕上げる讃岐漆器の技法で、緻密で繊細な模様が見所である。一種の象嵌である。描蒟醤(かききんま)とは、漆面に細筆を使って模様を描き、透明漆をかけて仕上げる技法である。存清(ぞんせい)(星)とは、漆面に色漆で絵を描き、その輪郭を毛彫りしたもの。香川独特の技法で、彫り口に金箔や金粉を埋めたものや、毛彫りの代わりに金泥で輪郭を描く。名前の由来は不詳だ。

彫漆(ちようしつ)とは色漆を何百回も塗り重ねて層をつくった後、欲しい色層まで表面を掘りさげて文様を表わす技法。堆漆(ついしつ)ともいう。朱漆のみ使用したもの堆朱(ついしゆ)、黒漆のみのものは堆黒(ついこく)と呼ぶ。金属の薄板を文様の形に切って漆面に張り込む装飾技法を平文(ひようもん)、または平脱(へいだつ)という。金銀の箔を切り、漆面に貼る装飾技法を切金(きりがね)と言い、漆面に毛彫りで文様を彫り付けた凹部に漆をすりこみ、そこに金箔を押し込んで定着させる技法を沈金(ちんきん)という。日本で最も盛んな技法で、特に輪島塗でよく使われている。堆錦(ついきん)とは、特殊な精製をした堆錦用漆に顔料を加え、餅状の塊にして、薄く延ばして文様に切り、器面に貼って装飾する技法である。堆錦の技法は、一七一五年に比嘉乗昌(ひがじようしよう)によって創始されたと歴史書の『球陽(きゆうよう)』に記録されている。(以上は、第五八回日本伝統工芸展岡山展の資料等を参考にした)

さて、螺鈿の貝の薄片を製作する技法は、貝の真珠質の部分を砥石でみがき、一定の厚さにそろえる技法が一般的であるが、夜光貝を一週間ほど煮て、真珠質の部分を薄い層に剥がす技法が煮螺(しやら)の法と呼ばれる。『琉球国旧記』によれば、康熙二九年康午(かのえうま)の年(一六二〇)に、大見武筑登(うふんちやきちくどぅん)之親雲上憑武(べーちんひようぶ)は杭州に行き煮螺の法を学び、三年して帰国。これを貝摺主取(しどぅい)の神谷親雲上(ぺーちん)に伝授したという。「貝摺(かいずり)奉行所」が設けられたのは、一六一二年である。貝摺とは螺鈿の為の貝殻の材料をつくることである。さて、琉球漆器は支那の王朝への貢物として、漆器に島々の貝殻を使って螺鈿の技法で大量に生産されたが、原材料の漆の生産はなく、すべてを日本(やまとぅ)を含め外から移入している。現在、日本で生産される漆は、過去五年間の生産量が総計で四二五八キロだ。岩手県二戸市の旧浄法寺町に約一〇〇ヘクタールの漆林があり、「漆の木から漆を掻(か)き取る職人の熟練した技がなければ、不純物のない良質な漆は手に入りません。ここは漆掻き職人が日本一多いんです」というが、浄法寺の漆掻き職人はわずか一五人、生産量二位の茨城県が一二人、福島県は二人である。昭和六〇年の金閣寺大修復では浄法寺の国産漆一・五トンが使用された。

青森の三内丸山遺跡から土器や木製品と共に漆の皿や容器などが出土したことは特筆される。赤色の顔料がベンガラであると分析されている。五千年以上前に、漆が栽培され利用する技術も完成していたと考えられ、色鮮やかな漆器が、縄文人の技術の高さを物語るかのように出土した。漆の起源が大陸ではなく、縄芸の生産地でも、支那からの漆が大量輸入されて原料の九九%を占めているが、漆の品種の違いと樹液の性格の違いがある上に技法が異なり、国産漆は塗膜が堅くて薄い(蒔絵に向く)が、支那の漆は塗膜が柔らかくて厚い(堆漆に向く)との差異がある。似て非なるものだとの見方もある。日本の漆の生産地として残った浄法寺も岩手の青森県境沿いにあり、縄文文明以来の漆の文化と伝統がようやく継承されているようだ。天台宗の名刹があることから見れば、都との交易は日常茶飯事のことであり、ごく最近に大陸産の漆が入ってくるまでは、列島の漆の原料を供給する土地として栄えてきたことは間違いない。永く漆の原料を生産してきた浄法寺でも本格的に漆芸を企業化したのは近年である。日光東照宮は栄華を伝えるために漆を多用しているが、奥州からの漆の供給なしには大修理はできない。 (つづく)

George H. Nash on "Freedom Betryaed"

http://www.firstprinciplesjournal.com/articles.aspx?article=1803&theme=weciv&loc=b

http://www.washingtontimes.com/news/2012/jan/2/when-herbert-hoover-looked-back/

Saving the Sun and the World

Political Change of Tide

「新党が実るまで、亀井氏が沈黙を守るのは賢明なこと。日本を愛する者は、外圧に屈せず国民のために闘う政治勢力の結集を温かく見守らなければならない。」

いよいよ政界再編である。大地震があり、外国製の原発の暴走があり、日本は国難の中で、戦後政治の分水嶺を雄々しく越えつつある。自立・自尊の日本が出現しつつある。外国勢力と、その強い影響下にある日本のマスコミ勢力は、色々な世論操作を試みているが、むしろ逆効果となっている。日本はすっかり覚醒したのだ。虚妄の報道などに目もくれないし、真の情報が自由に伝わって来るし、そして日本は堂々と主張を始めている。

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