Kuroshio 64
日本漆文化の起源と伝統
伝統工芸の分類は色々できるが、展覧会では、陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形、諸工芸と大別している。七宝や硝子や象牙の器物の表面を染色する染牙(せんげ)等は諸工芸に含まれる。陶器はチャイナだが、漆芸は漆をジャパンといい、漆(うるし)はうるわしを語源とする説もある程に、日本工芸の代表である。その漆芸のうちの螺鈿(らでん)、つまり、夜光貝、アワビ貝、蝶貝などの貝殻を平な板状に加工して文様の形に切って漆面に貼る装飾技法に注目して、黒潮の産する夜光貝(ヤコウガイ)を主題にしたいが、まずは漆芸とは何か、用語解説を深める。
器胎(きたい)とは、器の素地のことで、木胎、紙胎(したい)、籃胎(らんたい)(竹を編んだもの)、金胎(きんたい)(金属)、陶胎(とうたい)などと素地の材質を示す。乾漆(かんしつ)とは、型に麻布を漆で張り重ねた後、型を外して器胎とした素地の一手法である。曲輪造(まげわつくり)も素地の一手法で、檜や杉、ヒバなどの薄板を曲げて輪状にし、幾重も重ねるなどして形づくる。
溜塗(ためぬり)は、半透明な漆を通して素地が見えるように仕上げる塗り方である。蒔絵(まきえ)は、漆で模様を描き、これが乾かないうちに金粉や銀粉をまいて定着させる装飾技法だ。蒟醤(きんま)は、厚みを持たせた漆に細い線を彫り、凹部に色漆を埋め込み、乾燥後に平に磨き上げて仕上げる讃岐漆器の技法で、緻密で繊細な模様が見所である。一種の象嵌である。描蒟醤(かききんま)とは、漆面に細筆を使って模様を描き、透明漆をかけて仕上げる技法である。存清(ぞんせい)(星)とは、漆面に色漆で絵を描き、その輪郭を毛彫りしたもの。香川独特の技法で、彫り口に金箔や金粉を埋めたものや、毛彫りの代わりに金泥で輪郭を描く。名前の由来は不詳だ。
彫漆(ちようしつ)とは色漆を何百回も塗り重ねて層をつくった後、欲しい色層まで表面を掘りさげて文様を表わす技法。堆漆(ついしつ)ともいう。朱漆のみ使用したもの堆朱(ついしゆ)、黒漆のみのものは堆黒(ついこく)と呼ぶ。金属の薄板を文様の形に切って漆面に張り込む装飾技法を平文(ひようもん)、または平脱(へいだつ)という。金銀の箔を切り、漆面に貼る装飾技法を切金(きりがね)と言い、漆面に毛彫りで文様を彫り付けた凹部に漆をすりこみ、そこに金箔を押し込んで定着させる技法を沈金(ちんきん)という。日本で最も盛んな技法で、特に輪島塗でよく使われている。堆錦(ついきん)とは、特殊な精製をした堆錦用漆に顔料を加え、餅状の塊にして、薄く延ばして文様に切り、器面に貼って装飾する技法である。堆錦の技法は、一七一五年に比嘉乗昌(ひがじようしよう)によって創始されたと歴史書の『球陽(きゆうよう)』に記録されている。(以上は、第五八回日本伝統工芸展岡山展の資料等を参考にした)
さて、螺鈿の貝の薄片を製作する技法は、貝の真珠質の部分を砥石でみがき、一定の厚さにそろえる技法が一般的であるが、夜光貝を一週間ほど煮て、真珠質の部分を薄い層に剥がす技法が煮螺(しやら)の法と呼ばれる。『琉球国旧記』によれば、康熙二九年康午(かのえうま)の年(一六二〇)に、大見武筑登(うふんちやきちくどぅん)之親雲上憑武(べーちんひようぶ)は杭州に行き煮螺の法を学び、三年して帰国。これを貝摺主取(しどぅい)の神谷親雲上(ぺーちん)に伝授したという。「貝摺(かいずり)奉行所」が設けられたのは、一六一二年である。貝摺とは螺鈿の為の貝殻の材料をつくることである。さて、琉球漆器は支那の王朝への貢物として、漆器に島々の貝殻を使って螺鈿の技法で大量に生産されたが、原材料の漆の生産はなく、すべてを日本(やまとぅ)を含め外から移入している。現在、日本で生産される漆は、過去五年間の生産量が総計で四二五八キロだ。岩手県二戸市の旧浄法寺町に約一〇〇ヘクタールの漆林があり、「漆の木から漆を掻(か)き取る職人の熟練した技がなければ、不純物のない良質な漆は手に入りません。ここは漆掻き職人が日本一多いんです」というが、浄法寺の漆掻き職人はわずか一五人、生産量二位の茨城県が一二人、福島県は二人である。昭和六〇年の金閣寺大修復では浄法寺の国産漆一・五トンが使用された。
青森の三内丸山遺跡から土器や木製品と共に漆の皿や容器などが出土したことは特筆される。赤色の顔料がベンガラであると分析されている。五千年以上前に、漆が栽培され利用する技術も完成していたと考えられ、色鮮やかな漆器が、縄文人の技術の高さを物語るかのように出土した。漆の起源が大陸ではなく、縄芸の生産地でも、支那からの漆が大量輸入されて原料の九九%を占めているが、漆の品種の違いと樹液の性格の違いがある上に技法が異なり、国産漆は塗膜が堅くて薄い(蒔絵に向く)が、支那の漆は塗膜が柔らかくて厚い(堆漆に向く)との差異がある。似て非なるものだとの見方もある。日本の漆の生産地として残った浄法寺も岩手の青森県境沿いにあり、縄文文明以来の漆の文化と伝統がようやく継承されているようだ。天台宗の名刹があることから見れば、都との交易は日常茶飯事のことであり、ごく最近に大陸産の漆が入ってくるまでは、列島の漆の原料を供給する土地として栄えてきたことは間違いない。永く漆の原料を生産してきた浄法寺でも本格的に漆芸を企業化したのは近年である。日光東照宮は栄華を伝えるために漆を多用しているが、奥州からの漆の供給なしには大修理はできない。 (つづく)
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