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Kuroshio 65

夜光貝と漆の出会い

サザエを大きくしたような貝が夜光貝だ。大型の巻貝であり、重さは二キロ
を越える。軒下で雨だれを受ける石の代わりに使っていれば、その美しさは分
からない。潜って追い込み漁をする傍らに夜光貝を採って帰り、家の軒先の周りに置いても、殻の色がくすんで石灰質がたまってしまえば、夜光貝が螺鈿の材料になるなどとは想像もつかない。食すると、小ぶりのサザエの方がうま味があるし、肉は焼けば硬くなるばかりだから、薄切りの歯ごたえのよい刺身にするか、時間をかけて煮てだし汁をとるかである。肉を塩漬けにして上納品にしたこともある。貝殻の真珠質に光沢が有り、特に薄緑色が珊瑚礁のエメラルドグリーンの薄澄の部分をとってきたように美しい縞になって輝く夜光貝の魅力は外側からは分からない。外殻にフジツボがついていたりすれば、そぎ落として研磨して、光を反射してようやく真珠質が表れる。アワビの真珠質も光沢があるが、層が薄くて比べものにならない。夜光貝の真珠層は厚みがあり、加工すれば、一枚板を執ることもできるし、貝の巻く形を生かして杓子を作ることもできる。汁を掬う道具を汁(しる)貝(がい)とも言うし、米の飯を掬うシャモジのことを飯貝(みしげ)とも呼ぶから、もともと貝が液体等を掬う道具に使われていたことは間違いないが、夜光貝の場合には、光輝く妖しい美しさがあるから、祭祀の道具になるような要素を備えている。

夜光貝は、螺鈿の材料として珍重されてきた黒潮文明の産物である。日本の
本州の列島には生息しない。宝貝と同様に、黒潮で仕切られた奄美の島々の以南の海域に生息する。奄美大島北部で、平成の御代になってから夜光貝が大量に出土する遺跡が発見されるようになってから、漆と夜光貝とが出会った螺鈿の世界の背景が具体的に想像できるようになった。奄美大島の北部の大きな港町が名瀬であるが、隣の喜界島の側には、小湊という港がある。冬場に名瀬の港が荒波になっても、島の南側の小湊は風よけになり、夏の場合には逆で、南側の小湊にうねりが押し寄せても、北側の名瀬の港は静かである。その小湊から、大量の夜光貝の破片が製作途上の貝匙を含めて大量に出土した。つまり、平安時代の史料に記録される夜光貝は螺鈿の材料となることは知られていたが、その供給地が突き止められていたわけではなかったから、奄美大島北部での大量出土によって、夜光貝の供給地であることが判明した。夜光貝は珊瑚礁の地形の外洋側の斜面の岩場に好んで生息している。洲(ひし)と呼ぶ珊瑚礁の外縁の外側の壁に張りつく貝である。奄美大島北部の夜光貝の出土する遺跡は、珊瑚礁が発達した海岸沿いに或る海岸砂丘の上にあることが立地条件として共通する。夜光貝の名前は、奄美や沖縄では、ヤクガイ(夜久貝、夜句貝、益救貝、屋久貝)と呼ばれていたことから来る名称で、今の種子島や屋久島以南の島嶼の総称から来る名前である。日本書記では、掖玖(やく)という地名が奄美や沖縄、宮古、八重山を含む琉球弧の総称となっているから、ヤクガイとは、そのヤクの産物であることを意味する。夜の光は、単なる当て字である。夜光る貝ではない。奄美大島では完成品の出土は少なく、貝匙などの完成品は別の土地で製作されたとの推測があり、朝鮮半島の東岸の古墳などからも夜光貝が出土していることが確認されている。朝鮮の螺鈿細工は今に残るが、原料は南の島から供給されたことは否定できない。枕草子にも、ヤクガイが酒杯に使われたとの記載があり、小右記では、大隅の藤原氏が畿内の藤原氏のもとへ夜久貝を贈答品として届けている。

平成四から五年に行われた正倉院の宝物の螺鈿の材質調査では、螺鈿の材料は、殆どが奈良時代に製作されたもので、夜光貝であることが判明している。螺鈿以外でも、夜光貝を材料とする製品が多数存在する。四絃琵琶が五面伝えられているうちの一面は国産の螺鈿で作られている。全てが舶来品でないことは重要である。漆がこれまで長い間舶来の品と考えられていたが、東北地方の縄文時代の遺跡から漆の篭などが出土するに至って、日本の原産である可能性が高まったように、螺鈿の細工も実は、黒潮文明の島々を原産地とする夜光貝と漆とが出会って発生して工芸に発展したことが想像される。平等院、中尊寺金色堂、当麻寺の螺鈿細工は、大型の貝片と小さな貝片とが大量に組み合わせてふんだんに使われている。金色堂では、螺鈿の総数は二七〇八四個にも及ぶ。黒潮文明の中で生産されたゴホウラ貝やイモガイでできた腕輪などが、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡で発掘され、貝の腕輪は北海道の縄文遺跡からも発掘されているが、時代は下がるが、夜光貝が漆と出会って工芸として発展したのだ。螺鈿技術の発達は十二世紀に最盛期を迎えているが、鉄器の普及と関連する夜光貝の交易やその他の貝殻の交易は、黒潮を辿る日本の列島との交易が主力である。大陸との交易は十五世紀に成立した琉球王国が貝殻の大輸出国となったずっと後のことである。(本稿は、高梨修、ヤコウガイの考古学、同成社、二〇〇五年刊を参照した。)(つづく)

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