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Propaganda and Paradox

阿羅健一氏が、2007年の10月に徳間書店から、出版した「南京で本当はなにが起こったのか」を読んでいる。中国国民党による戦時の宣伝の謀略が、 いつの間にか、大虐殺になっていく過程を,膨大な証言と史料をもとに解明した労作である。

第一章は、蒋介石の宣伝戦に完敗した日本軍

たちまち世界中に広まった「日本の残虐さ」昭和12年8月14日、上海のふたつのホテルに飛行機が爆弾を落とした。欧米人が死んだが、その中に、ライシャワー教授(後、駐日大使)の兄弟で、日本古代史の研究者であったロバート・ライシャワー氏や新聞記者等、三人が死んだ。中国軍の飛行機の誤爆だったが、日本の飛行機のせいに「する大宣伝が行われた。硝煙煙る駅の構内の「戦場でなく赤ん坊」の写真も、アメリカのカメラマンのやらせの写真である。報道に名を借りた宣伝だったのだ。

「南京虐殺」も中華民国の国際宣伝のひとつだった

昭和13年の台児荘からの日本軍の撤退を中国軍の大勝利と伝えた。郭沫若は,戦後、誇大宣伝を認めている。黄河の決壊もデマ宣伝であった。

日本軍の暴行を訴える市民は殆どいなかった

蒋介石委自ら決定して、主要戦犯として十二人の名簿をアメリカに送っている。南京の市民は、日本軍に同情こそすれ、責めることはなかった。谷寿夫中将などは、南京事件を、戦後になって初めて知って驚いたというが、銃殺刑となった。

「この種の裁判には蒋介石総統の意見も入っていた」

蒋介石は南京を死守しようとしたが、簡単に陥落したので、日本軍を残虐だと主張することで、自分に対する非難をそらそうとしたのではないか。

第二章は、こうして南京事件は東京裁判に持ち出された

頻りに宣伝された日本人の残虐性

パールハーバーの騙し討ちが、大いに宣伝されたが、それだけでは足りないとみて、戦いが始まったばかりで日本人が残虐だと思う者は殆どいなかったから、日本人の残虐性を宣伝する必要があった。バターン死の行進も宣伝され、ジョンウェインの映画も作られた。マニラの山下将軍はその仕返しで、躊躇なく行われた。永井隆博士の長崎の鐘もマニラの悲劇との抱き合わせを条件にして出版されている。

、宣教師全員が南京虐殺の宣伝に尽くした

反日の宣教師のフィッチ、日本の残虐行為とそれに立ちはだかる宣教師の構図で、本国からの支援を求める。蒋介石が改宗したのは、この頃である。

戦闘中の宣伝がそのままもちこまれ、仕返しがなされた。

日本に対しては、残虐行為を防がなかったという不作為までが裁かれて復習がなされた。

第三章は、東京裁判に来た宣教師はなにを証言したか。

宣教師のウィルソン医師、ベイツ教授、マギー牧師などが証言したが、体験に基づいたものではなかった。

「証言」は体験に基づくものではなかった

、「二十万人以上の殺害と二万件の強姦事件」

混血児が生まれた事実は全くない。

宣教師たちが作り上げた虚偽の「数字」

過大報告。ドイツ軍人が蒋介石の軍事顧問団を形成して対日戦を指導していた。

第四章は、松井大将はどんな罪をみとめたか

松井大将に下された「デス・バイ・ハンギング」の判決、

興亜観音の写真を監房に飾った松井大将、綱紀粛正の命令を出していた松井大将、計画的なあるいは大掛かりな虐殺は絶対にない,中国人を慈しむように訓示してきた軍司令官は死を受け入れた

南京はどこにでもある戦場では無かったのか。

松井大将は、南京事件を全く否定して、戦勝国の宣伝で有り、法廷を餓鬼と呼んでいる。

第五章は、なぜ危険な安全区が南京につくられたか

中国を啓蒙しようと戦場にとどまった宣教師、

戦場にとどまった宣教師には、名誉心と野心もあった。

安全区に隠れた中国軍、宣教師を南京にとどまらせた本当の理由、

第六章は、広田弘毅外務大臣を死刑台に送った報告書

広田外相を不利な立場に追いやった東亜局長の証言、事実の裏付けがなかった報告書、広田弘毅を絞首刑にした「虚偽の報告書」

第七章は、三人の日本人を騙したイギリス人の新聞記者

「南京虐殺」裁判を左右した一冊の本、中国と一体になってつくった宣伝文書、

ティンパレーの本は、中華民国の政治部が資金援助をして出版した。日本人を巧みにだましたイギリス人記者

第八章は、ベストセラーの元祖「旋風20年」はなぜ南京事件を書かなかったか。

一冊の本が張作霖事件の真相を知らせた、南京事件については一行も書かれていない、記録すべき特別な事実がなかった「南京事件」

第九章は、南京陥落を報じた欧米特派員の正体

極めて偏っていたアメリカの報道、二千五百万人が見たい「やらせ」の写真、中国に同情的だった特派員の報道、虚報だった「台児荘」中国軍大勝、

タイムライフのヘンリー・ルースは、熱烈な蒋介石びいき。悲惨な,しかし、やらせの写真を掲載。反日のアメリカ人ジャーナリスト

第十章は、日本を代表する戦史家児島襄をだました史料

日本人の間から消えた「南京攻略」、整合性のまったくとれない史料、南京事件を解明できなかった「理由」、あり得ない事件だから解明できない、

第十一章は、二十三年間、南京事件が報道されなかった理由

新聞に載ることのなかった南京事件、なぜ朝日新聞だけが南京事件を報じたのか、誤報を訂正しなかった各紙、裁判で負けた朝日新聞の南京事件報道、

南京事件は、南京をしている記者がいる限り報道されることは無かった。文化大革命の暴威は、日本の新聞の存在基盤を根こそぎにした。昭和57年の台誤報(歴史教科書事件)を、日本の新聞社は何とも思わなくなった。中国の旅方式の南京報道が広まった。、

第十二章は、中国人もしらなかった南京事件

南京事件については何も語らなかった周恩来、中国共産党にとって重要なのは日本軍の三光政策、中国政府が公式に決めた「三十万人虐殺」、日本人が「やぶへび」をつついた南京事件、

日中国交回復の時も南京事件が話題になることは無かった。中国の中学用の教科書に載ったのが,昭和五十六年11月が初めてである。

という章立てになっている。

「南京事件は、中華人民共和国にとって全く関心が無く、知識がなく、史料もなかった。日本人から餅だし、中華人民共和国に強要し、中華人民共和国がようやく答えを用意した。それが繰り返されることによって,中華人民共和国が南京事件に関心を持ち始めた。発行部数第一位の朝日新聞に南京事件が記述され、(本多勝一記者による)単行本「中国の旅」が大ベストセラーになったと知ったからであろう。中華人民共和国から南京事件を言い出すようになる。それが、南京事件を持ち出した真相ではなかったか。やがて、教科書に載せ,虐殺記念館をつくる。数年して、追放した宣教師を丁寧に扱いだし、写真を飾る。こうして、南京事件は中華人民共和国の歴史事実(?)となった。南京攻略戦からほぼ半世紀が経過してからのことであった。」

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