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Kuroshio 69

海幸彦を祀った潮嶽神社に詣る

 低気圧が急速に発達し日本海を北上するという異常気象ともいうべき春の大嵐の中を四月三日午前一〇時一〇分羽田空港を離陸して宮崎に向かった。潮岬を越えた頃か、寒冷前線を通過する時には、今まで経験しない大揺れになった。日向灘は白波の兎が飛び跳ねていたが、宮崎空港は大淀川の右岸の海岸にあって気流の乱れが少ないのか、九州の脊梁山脈が風よけになったのか、熊本や鹿児島行きが欠航になるなかで、乗客が少なくなり飛行機を小型に替えたからか、引き返しはせず強い西風に向かって海側から侵入して着陸できた。友人の出迎えを受け日南市北郷町宿野に鎮座する潮嶽神社(うしほだけじんじや)参拝に出立した。
 先年、神武天皇の故地の美々津や狭野を訪れたとき、いつか海幸彦を主祭神として奉斎する潮嶽神社に参拝することが黒潮文明論を続行するためにも必須だと心得てはいたが、その目論みがようやく達成されたのだ。日南海岸の道路は鬼の洗濯岩と呼ばれる列状の石が渚にあり、バイパスが整備された堀切峠の展望は、宮崎観光産業の功労者である故岩切正太郎氏が宮崎を新婚旅行のメッカとした当時と変わらず雄大なものであった。

 鵜戸神宮は何度か参拝したことがあり、寄らずに急いだ。鵜戸神宮は山幸彦と玉依姫との間に生まれた日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)を主祭神とする。ちなみに、鵜戸神宮の岬の一帯
は、八丈島(東京都)、長崎県、熊本県、宮崎県にわたって天然記念物に指定
されているヘゴの木が自生する北限でもある。内海の海岸辺りの、眼前に巾着島を従える朱塗りの社が野島神社である。車の運転の休憩をする時間に立ち寄った。境内や周辺には天然記念物に指定されたアコウ(赤榕)の巨木が茂る。アコウは幹から多数の気根を出す亜熱帯性のクワ科の高木で、紀伊半島南部,四国南部,九州,沖縄の海岸部に自生している。鹿児島指宿の海岸にも大木が残っていた。黒潮の民が運んだ木である。ハマユウも自生していた。海岸線を走って、油津から山側に向かって右折して北上すると、北郷町に潮嶽神社はある。日向三権現の一つに数えられているが、他の二つとは鵜戸神宮と南郷町にある榎原(よわら)神社である。

 海幸彦と山幸彦の物語は、山で獣を捕って暮らしていた山幸彦(古事記で
火遠理命(ほをりのみこと)、日本書紀で彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと))が、海で魚を獲ることを生業にしていた兄の海幸彦(古事記で火照命(ほでりのみこと)、日本書紀で火闌降命(ほすそりのみこと))から釣針を借りて漁に出たが釣針を失い、塩椎神(しおつちのかみ)の教えによって釣針を探しに海宮に赴く。そこで三年を過ごし、海神(豊玉彦)の娘豊玉姫(とよたまひめ)(豊玉毘売命(とよたまひめのみこと))を娶って、釣針を見つけ出し、潮盈珠(しほみちのたま)と潮乾珠(しほひのたま)を得て、戻ってくる。兄の海幸彦は、山幸彦に攻め込むが、その都度、潮の満ち干を操る玉を使われて、打ち負かされてしまう。最後の戦いで、弟の起こした大波に呑まれて負け戦となった海幸彦が、磐船に乗って流れ着いたとの伝承が、潮嶽神社の場所である。

 神社の東側の山を潮越山(うしこやま)、南側のを越潮山(こしほやま)という。社殿は南面しており、標高八〇メートルの高さにあるという。地元の集落では縫針などの貸し借りを決してしない風習になっているというが、弟に釣針を貸したために、結局は不運に見舞われてしまった海幸彦の物語を戒めとしているのである。

 『日本書紀』では火闌降命を隼人の祖先と記し(古事記と日本書紀では海幸彦の比定が異なる)、『新撰姓氏録』は大角隼人と阿多隼人を富須洗利命(ほすせりのみこと)の後裔と伝えているから、隼人の祖であるが、潮嶽神社は敗者としての海幸彦を主祭神とする唯一の社である。

 潮嶽神社には榧(かや)の大木がある。拝殿は百年前に建て替えられた建物であるが、今では貴重なカヤの一木作りである。碁盤や将棋盤ではカヤ材が最高級品とされるが、碁石に紀州熊野の那智黒と、日向ハマグリの白を加えれば、日向碁盤に比肩するものがない。カヤの実はあく抜きして食用になり、寄生虫駆除薬として使われ、間伐材や枝は燻して蚊遣りとなったが、むしろ五葉松のように、山人の生活と深く係わった気配の植物である。潮が海で、嶽が山を意味するだけに、海幸彦の神社が山海の結界となっているのは興味深い。

 潮嶽神社から車でなお北上すると、飫肥(おび)杉の美林を遠望する分水嶺の峠がある。西方には、千メートルの標高がある鰐塚山がある。峠を下ると田野に抜ける。そこは大淀川の流域である。古代の日向が三分割され、大隅が分離され、薩摩が加わった後の日向の版図が、大隅国の一宮である鹿児島神宮(鹿児島県霧島市隼人)の史料館に展覧されている図録に記載されているが、日向国の郡と院の名前として、救仁(くに)郷、救仁院、櫛間院、南郷、中郷、島津院,財部郷、北郷、三俣院、吉田庄、真幸院、 三俣院、飫肥北郷、飫肥南郷、穆佐(むかさ)院などの名前が記されている。       (つづく)

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