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Kuroshio 70

海幸彦を奉斎する潮嶽神社に参拝したことを前回書いた。数日後に鹿児島県霧島市隼人町にある、山幸彦を祀る大社である鹿児島神宮に参拝した。主祭神は、天津日高日子穂穂手見尊(あまつひこひこほほでみのみこと)で(日本書記では、彦火火出見尊)ある。同妃の豊玉比売命(とよたまひめのみこと)が同じく祀られ、帯中比子尊(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)、同皇后の息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)が左の御帳台に、右側には、品陀和気尊(ほんだわけのみこと)(応神天皇)と同皇后の中比売尊(なかひめのみこと)が祀られている。鹿児島神宮は、鹿児島から特急列車で半時間ほどで到着する日豊線の隼人駅で下車して、北方に一キロほど歩くと、神体山として御壇山を背負って、南方に国分の平野と錦江湾を見晴らす場所にある。櫻島と高千穂の嶺を始めとする霧島の連山も遙かに遠望する場所である。鹿児島神宮の創祀は古く、神号を「鹿児島皇大神」と号し、社名を鹿児島神社と称する。正八幡ともいうが、これは宇佐八幡とどちらが正統の八幡であるかの争いがあったことを示している。鹿児島神社は延喜式の神名帳には、大社に列せられているが、国司から奉幣する神社すなわち国幣大社であり、官幣大社ではない。薩摩、大隅、日向の三洲で、大社は鹿児島神宮ただ一社である。鹿児島神宮を頂点として、鹿児島市にある荒田八幡(鹿児島神宮の荘園としての荒田荘が平安時代に成立してその守護神として勧請された)と大隅半島垂水市にある鹿児島大明神社(下之宮と呼ばれており、上之宮として、同市内に手貫神社がある。鹿児島神宮の陵地の南の境界をなすとして奈良時代に創建されている。櫻島をご神体とする)とが二等辺三角形をなす分社を構成しており、二つの分社を結ぶ線上に櫻島があり、櫻島には月読神社が祀られている。

 隼人には、住む場所の名前をとって、阿多隼人、大角(おおすみ)隼人、薩摩隼人、日向隼人、曽(その)隼人、衣(えい)隼人、甑(こしき)隼人、多褹(たね)隼人などの別があるが、鹿児島神宮は、その隼人の本拠地にある。鹿児島神宮の旧称は、国分正八幡であり、京都府の石清水八幡宮とも所縁があり、隣接して大住地区の地名が残る。古代の番上(ばんじょう)隼人が定住した後裔である。今来(いまき)隼人は、元日、即位、践祚、大嘗祭、行幸供奉の際に、吠聲(はいせい)を男女四十人で発したとされる。白丁(はくてい)隼人は、元日、即位、践祚大嘗祭、蕃客入朝等の際に招集され、践祚。大嘗祭の時には応天門の左右に陣どり、北向きに立って風俗歌舞を奏したという。京都には、今も西京隼人町があり、奈良県には、阿陀郷も残る。南九州から近畿に移住した隼人を総じて畿内隼人と呼んでいる。隼人は大規模な反乱を起こしたが、征隼人将軍大伴旅人によって征討(七二一年)されている。班田収授法に対する反発であったことが想像される。反乱を制圧され、強制的に畿内に移住させられ、律令制下においては、隼人司が設けられている。海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似た「隼人舞」が有名であり、また平城宮跡からは独特の波形文様が描かれている隼人の楯が発掘され文献記録を証明した。

 鹿児島神宮には黒潮文明の証左である浜下りの行事がある。南西諸島の浜下りは旧暦の三月三日に行なわれるが、鹿児島神宮の場合には秋一〇月に行なわれている。隼人の反乱で死亡した者の鎮魂の意味も加えられているとするが、豊饒の海に感謝する祭であることには疑いがなく、昭和九年に途絶えていたが、二一世紀になった年に六五年ぶりに復活させている。鹿児島神宮から、錦江湾に臨む浜之市港までの一里をご神体を担いだ一行が練り歩くことになる。港の近くには、拝所が造られるが、櫻島を遠望する場所で、神造島(かみつくりしま)と一直線になる。神造島は別名を隼人三島といい、北側から辺田小島、弁天島、沖小島と呼ぶ三つの無人島の総称である。神造りとは、櫻島の火山・噴火活動の影響を受けて、錦江湾の奥の海底火山を若尊(わかみこ)と名付け噴気の泡を滾と(たぎり)呼ぶ悠久の大自然を象徴する。

 鹿児島神宮は、大隅一の宮とされるが、大隅国は、和銅六年(七一三)に日向国の肝坏(きもつき)・贈於(そお)・大隅・姶羅の四郡を割いて置かれている。肝坏郡が最南端にあり、鷹屋郷があった高屋神社(この神社の御祭神も山幸彦である。)として名前が残っている。姶羅郡は肝属郡の北で、鹿屋が姶羅郡の郷の地名であり吾(あ)平(いら)山陵があるが、薩摩の姶良郡とは別物である。大隅郡が次第に南方に拡張して、北部は桑原郡とも呼ばれている。

大隅国の版図として菱刈郡、羽筒野、栗野院、横河院、桑東郷、桑西郷、加治木郷、帖佐郡、蒲生院、吉田院、吾平西俣、肝付郡、祢寢(ねじめ)北俣、姶良庄、祢寢(ねじめ)南俣、曽野郡、小河院、財部院、深川院、下大隅郡(櫻島は下大隅郡に属する)、鹿屋郡、串良院と記した資料が残るから、大隅と薩摩との国境は今の境よりも、もっと西南部に位置していたようだ。大隅と日本最大の島津庄の本拠地となった薩摩との間には今なお社会経済の格差が残るから、西郷南洲が戦った西南の役は第二の隼人の反乱ではないか、と史料館の関係者は話していた。海幸と山幸の対立抗争の中でも黒潮文明の廉潔と反骨は不屈であって、それが明治維新の動乱に際し西南の役として噴出したとすれば興味深い。(つづく)

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日刊工業新聞2012年5月14日号の21ページに,書評が載っている。


新刊/稲村公望著『黒潮文明論』

サブタイトル-ふるさとは心も姿も美しく-とあるように、本著は徳之島の郵便局の宿直室で生まれ、鹿児島の名門ラ・サールに学んだ元郵政省キャリア官僚が紡ぐ黒潮にまつわる66の物語を集めた一書。

郵政民営化に反発し旧日本郵政公社理事を退任した著者は現在、中央大学大学院公共政策研究科の客員教授。米国留学の経験と人脈を生かし、米国流の市場原理主義に対し文明地政学的視点から痛烈な反証を展開する。

文明地政学とは米国の国際政治学者サミュエル・P・ハンティントン教授が著した「文明の衝突と世界秩序の再創造」に由来する思考である。著者は米軍基地が占拠する沖縄、生まれ故郷の奄美、中高時代を過ごした鹿児島、神々が宿る熊野、鹿島、そして那須、諏訪。黒潮が洗い、海と山を川がつなぐ日本列島を旅しながら日本文明とは何か、日本人の本質とは何か-。深い洞察力で我々に問いかける。

(郵研社刊=03・3584・0878、1575円)

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