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Collapse of Hatoyama Cabinet in Retrospect

鳩山内閣が投げ出された頃に書いた拙文である。ご参考まで。あとで読み返すと当たっていないことも多々あるし、的外れどころか図星なこともある。

「徳之島の名前が全国に知れ渡った。鳩山民主党内閣は、沖縄の普天間基地移設で、外国の圧力に屈して妥協して、政権を投げ出した。「少なくとも県外」移設と期待を持たせた発言をして、軍隊派遣元の超大国でも政権交代があり、多少の理解を期待したが、華府で冷たい扱いで(ボタンの掛け違いだとの意見もあるほどの冷たさで)大統領に五分と会えなかったから、意気消沈した。沖縄の基地の経費負担もしていない国の哨戒艇が沈没して、靖国も詣でない間に、献花に赴き、沖縄には、警護の車は疾走する、野次と怒号の中での苦しい訪問となった。いつかは自主防衛でもしなければいけない、外国軍隊に任せっきりにするのは悪いとの趣旨を最後の挨拶で明らかにしたが、土壇場での説教は、遠吠えとなった。「あなた方の時代に、日本の平和を日本人自身で見つめることのできる環境をつくることを、日米同盟の重要性は言うまでもありませんが、一方でも模索していきたい」との発言は重要であるが、だったら外国への移設、あるいは普天間の閉鎖をなぜ主張しなかったのか。自分の時代は、外国軍隊に日本の平和をまかせることを仕方がないとでも思っていたのか。外国軍隊のしかも、遠征軍が抑止力になるとでも思っていたのだろうか。抑止力とは、外国から脅されたときに、断固拒否して、自らの対抗措置を執る為の、軍備を含めた自国の総力である。単純に外国の圧力に屈服しただけの話で、総理にそうした腹案と指導力でもあれば、副官を務めるべき外務大臣や防衛大臣もあちらの方を向くばかりではなかったかも知れない。社民党閣僚を罷免しないで、追従者を罷免して内閣改造をすれば延命したのかも知れない。ましてや、女房役の官房長官の右往左往には、嫌気がさしたのだろうが、身から出た錆だ。静岡の国会議員が、徳之島の病院関係者からの話を真に受けて、医療特区にしてカネでもばらまけば、黄鉄鉱の黄金でも、純朴な島の住民の宣撫工作がすぐに完了するとの甘い見方をしたのだろうが、徳田虎雄氏が立派な病院長ではあるにしても、現職総理が基地問題の相談に訪問するのは軽率で、氏がOKしても、徳之島が基地受け入れを認めるとは思えない。地元を代表する町長などとの面会する前の話であるから、島には今でも酋長がいるのかと勘ぐった人もいたに違いない。自治体の借金を棒引きにする話や、振興策を沖縄並みにするとの餌をぶら下げたが、振興策は基地とは本質的には関係がない。沖縄県でも、基地のない宮古や石垣でいろいろな振興策が行われ、奄美の離島振興を沖縄並みにするか、沖縄振興法の枠組みの中に入れて、沖縄と奄美の差をつけない南西諸島振興法にすればいいだけの話だ。離島振興を馬鹿にしきった対応であったことは歴史に残る。奄美振興の工夫が足りない、反省がないことを露呈させただけだ。沖縄の女性歌手のグループのネーネーズという唄者が、黄金の花という唄をヒットさせたが、カネで人心を買う話は聞き飽きている。さて、細かい話になるが、徳之島は、奄美は、そもそも「県外」と言えるだろうか。慶長14年(1609年)に薩摩の琉球征伐があり、去年は400周年の記念の年だった。沖縄県知事と鹿児島県知事とが、奄美の名瀬で面会するという和解の行事もあったが、奄美は琉球の地方で、気候・文化も、言語も、沖縄と同一であるから、鹿児島県大島郡であっても、薩摩への帰属意識は無い。奄美は独立心旺盛で、薩摩の軍勢に鋤鍬で立ち向かい、琉球王国の為政者も手を焼いていたらしく、首里王府は、奄美が薩摩の直轄地になることをさっさと認めている。鹿児島県になっても、代官政治の名残か、今でも大島支庁という出先の機関を名瀬に置いて統治する二度手間である。連合国との戦争に負けて、奄美は、トカラ、小笠原、沖縄と並んで、米軍軍政下に置かれたが、まず、トカラが昭和27年2月10日に、奄美は、翌年の12月25日に施政権が返還され、祖国復帰を達成した。奄美の復帰運動は激しいもので、インド独立運動に範をとって、断食のハンガーストライキを集落ごとに行う、小中学生が血判状を出すという騒ぎであった。奄美のガンジーと呼ばれた詩人で復帰協議会議長の泉芳朗氏も徳之島出身である。宮崎市に波島という奄美の出身者が多く居住する町があるが、奄美の祖国復帰運動は鹿児島ではなく、日向の地で始まった。先の歴史的な理由で、当時の鹿児島県は、奄美の復帰運動に冷淡であったと言われるが、復帰運動決起第一号となったのが、為山道則氏である。宮崎に密航して、青年団を組織して、日本本土で初めて公然と祖国復帰運動を展開した。為山氏は徳之島の亀津出身で、満鉄育成学校を卒業している。奄美が第二のハワイとなって米国に併合されることを恐れていた。奄美は、昭和53年のクリスマスの日に返還されたから、米国政府はクリスマスプレゼントと皮肉った。その後、小笠原が昭和43年、沖縄が昭和47年に祖国復帰を果たしたことは言うまでもない。奄美の運動は文字通りの民族自決運動であり、類例がない。講和も終わり、日米安保条約で、沖縄の基地を確保したから、復帰運動に手を焼いて、基地もない奄美を早く返すことにしたことは間違いない。奄美の自立・自尊が沖縄に波及することを避けたのである。
徳之島に米軍基地をつくる愚策は、日本では希有の異民族支配に対する民族運動の歴史に挑戦する話でもある。ペリー提督は、首里王府を脅迫して、琉米和親条約を結んでから、江戸湾に乗り込んできたことは言わずもがなの話だが、奄美を取り返してから20年が経ってから、他策ナカリシカと苦渋の決断をして、基地つき本土並み?の沖縄を取り返したのに、琉球の栄華の再来を目指すならいざ知らず、沖縄駐留の外国軍隊の出先として徳之島を召し上げることを画策したのは、奄美の歴史と沖縄との立ち位置を無視したことにもなる。都道府県知事を招集して、外国軍隊の地方拡散を提案したことは奇矯としか言いようがない。引き受け手があるはずもなく、口で沖縄の負担の軽減と言いつつ、外国に守って貰う発想では、属国となって自立・自尊の日本を放棄することになる。抑止力の勉強が足りなかったというが、工業大学教授の経歴から、決断の専門家と聞かされ、対米交渉で奥の手があるのかも知れないと期待したが外れた。
徳之島は、抵抗の伝統があるから、ディエゴ・ガルシアのように、住民を追い出すことはできない。インド洋に浮かぶディエゴ・ガルシア島は、2000人の原住民を島外に追い出して海軍基地にしたが、徳之島は、少なくとも二万人が対象である。東京・大阪にも島の出身者がたくさんいるから、今度も、東京でも日比谷公園で反対集会が開けたし、神戸や大阪でも、奄美出身者が久しぶりに沖縄関係者とが合流すれば、甲子園を借り切って闘牛大会を兼ねた反異民族支配の集会ができるかも知れない。
その昔、日教組の委員長をした、奄美出身で、元軍国少年だったという故宮之原貞光参議院議員から聞いた話であるが、サンパウロに鹿児島県人会館ができて完成して、奄美人はそこに行きたくないから、沖縄県人会館ができたら、同じシマンチュ(島人)の誼で、そこに行こうと思っていた。沖縄県人会館ができたら、もうあなた方は、先に本土復帰して鹿児島県人だから、沖縄県人会館には入れないと言われ、それではと、現地に骨を埋めた先達の墓場の近くに、掘っ立て小屋を建てて、奄美会館と言う表札を懸けたという独立不羈の精神訓話を聞いたことがある。「県外」と言う言葉に惑わされて、普天間の基地を辺野古に移して豪華版にしたあげくに、徳之島に基地を追加して、沖縄県民がそれでいいというのであれば、歴史認識も何もない、鳩山内閣並みの度し難いことになってしまう。徳之島は、沖縄の「県外」ではない。米国の総領事館は、那覇ではなく、王朝の墓陵のある浦添にあるが、管轄を沖縄県だけではなく、今でも鹿児島県の奄美諸島も管轄している。相手は、王国の記憶をとどめている。
琉球の範囲は、薩摩藩の直轄地となった奄美のグループの中でも、与論や永良部は、沖縄に近いし、隆起珊瑚礁でハブの毒蛇はいない。その北の徳之島と奄美には、山がある。奄美は山また山で、屋久島ほどではないが、日本の高度成長期に鉄道枕木を生産した山が連なる。二束三文になっているから、山林所有者が米軍基地でも誘致したい気分になるような過疎化だ。徳之島は、中央に井之川岳という676メートルの山があり、奄美の中で、自給自足が可能だ。水源を堰き止めた農業用水ダムも完工して、水もある。徳之島空港は、三つの町のひとつの天城(あまぎ)町の塩浜(しゅうはま)という集落の海岸の珊瑚礁を埋め立ててつくった。小さな塩田があったから、塩浜である。航空写真からも見るとおり、普天間の余裕はないが、細長い滑走路である。空港の上手に、特攻の前線基地であった元陸軍浅間飛行場の滑走路跡が直線道路として残っている。サトウキビ畑になっている。沖縄県も、沖縄本島とその属島、宮古、八重山と分かれる。大東島は、祖先は八丈島だ。硫黄鳥島は、徳之島の沖にあり、奄美諸島であるが、今は沖縄県に属している。活火山の鳥島で火薬の原料として重宝した硫黄を生産していたから、那覇の港に硫黄(いわ)城(ぐしく)と呼ぶ、集積場があった。硫黄鳥島は大噴火を繰り返し、久米島に鳥島という集落をつくって移り住んだ。
王朝風の事大主義で、モノを食べさせるのが主との格言もあり、沖縄には中国の易姓革命の思想が入っている。自民党の小泉総裁を誕生させる党内選挙の時に、沖縄では全部の地方票がブッシュべったりで勝ち馬の小泉氏に入れたのには驚いた。あれだけ沖縄を心配した橋本総理など眼中にないかのように、変わり身が早かった。権威と権力とが未分化で殺伐としたシナ風の名残である。琉球の最高官僚の三司官は、ニコリと笑うことをしなかった。その怖さで、反乱を容赦なく弾圧するマキアベリ型で、琉球を統治した。任地の安寧を図る日本の役人組織とは異なり、王朝が滅びた時には祝宴を張った集落もあった。勿論、中国風の髪を切ることに反発したり、王朝回復の為に清に亡命した者もあったことも忘れてはならない。奄美では、明治維新はむしろ四民平等の開明として歓迎され、徳之島では、断髪することが敢行され、亀津断髪として進取の気風を尊ぶ象徴となっている。沖縄と奄美の、微妙な気風の違いである。
今度の、鳩山内閣の失政は、自民党政治の延長線上に戻ったことであるが、期待を持たせたから、沖縄では民族自決の話がまことしやかに出てくるだろう。ヤマトゥが頼りにならなくなると、北京に媚びを売るし、平壌に出かけて主体思想を礼賛する者も出るだろう。当事者の米国礼賛に走る者も出る。軍政下の沖縄で、ハワイのハオレ、中南米でのシカゴ・ボーイズの様に、米国留学組が巾を聞かして様に、今度もオバマの米国を大いに礼賛する者が出る。長いものには巻かれろの易姓革命の思想は、時の権力を正当化するから、肩書きに弱く現状維持論に傾き、真のところは急激な変化は求めない優柔不断さがあるが、弱点を見せると襲いかかる。だが、沖縄の問題に奄美・徳之島が加わることによって、沖縄風の易姓革命の思想の一人歩きが抑えられて、むしろ新たに強力な自立・自尊を求める力の方向に動く可能性が出た。もともと、琉球の島々の基底には、海辺の白砂を撒いて、憑かれたように安寧を祈るシャーマンの権威が本質として残るし、朝貢の易姓革命は上澄みでしかないから、ようやく、冊封体制以前の島々が一体化した時代に復古する雰囲気である。日本の神話では、豊玉姫と玉依姫は海神国の出自であり、国造りの一方の源に位置するから、母親をないがしろにすることはできない。
沖縄から、ハワイはもとよりペルーやブラジルの中南米に移民が出た。南洋群島にも出た。サイパンでは玉砕した。パラオやテニアンへの移設の話が出ているが、黒潮文明の因縁話でもある。旧南洋群島は日本の委任統治下になり、日本が負けて、連合国はアメリカの信託統治にした。今では、属領のようになって、ハワイのハオレの心配があるが、基地の移転問題が出て、日本が見捨てた南洋の戦前戦後のセピア色の写真が彩色を復活させたかのようである。
今回の騒ぎで、中国や韓国が日本駐留の外国軍隊を引き留めている点が歴然として、哨戒艦の沈没が辺野古の継続を助けるという珍妙な論理が展開されて、東アジア共同体構想の虚妄が歴然とした。百済や渤海の故地から、千島・樺太を回り、モンゴル、ウィグル、チベットを辿るツランの同盟と、南方からの黒潮の道が日本列島で出会うから、南洋群島、台湾、フィリピン、インドネシアの多島海を見晴るかす海洋国家の共同体を考える方が自然で、現実的である。タイの内乱も背後関係が見え透いてきたから、日タイ独特の独立死守の連携が出来る筈だ。豪州は、シナの台頭に備えて、国防予算増に踏み切った。総理の首をもすげ替えてしまう外国連携の対日強圧は、日本が、ウィグルやチベットの亡命の人士を応援して、大陸の外縁にある南東アジアを含む環太平洋の海洋諸国や中南米との体制固めがより重要であることを、浮き彫りにしたようだ。

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