構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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2012年9月

Freeway

高速道路が、民営化された何年かが経ったが、民営化してこれは本当によくなった、良かったなどということもない。一時期、高速道路の一部が休日には無料になって、例えば仙台から月山の麓の村まで安い料金で行きやすくなったので,村おこしになるかなどと期待する向きもあって、実際に,都心からお客さんがどっと増えた観光地もあったが、最近では元の木阿弥のようになったようだ。

当方も、茨城から東京までの往復に高速道路をよく使うが、そのサービスエリアの商売は利益優先で、段々荒れてきたように感じる。地元のスーパーでは90円もしない焼き鳥を、高速道路のエリアでは130円で売っている。しかも,座る場所もない。テントをかけただけのお祭りのときの屋台のような店で売っている。衛生観念も低いし、手を洗う場所も近くにない。暴利をむさぼるかのようである。外国の高速道路では,少なくとも当方ブログの知っている欧米のFreewayでは、高速道路のお休みどころはあっても、日本のように暴利をむさぼる出店があることはない。ドイツのアウトバーンなどは,両側に百メートル幅の森を作っているから、ハイキングの気分である。高速道路を走っている車はいったん出口から出て、近くの町の食堂やレストランや,スーパーなどが集積する場所に行って、飲み物や食べ物を買ったりするのが普通だ。日本は,高速道路の中の販売所がほとんど利権になっているらしく、その焼き鳥のように、閉鎖的な空間にして暴利をむさぼっているのが実情ではないか。ちゃちなテントがけの空間を作って、運転者は、立って焼き鳥を食べているお行儀の悪さだ。民営化していよいよ酷くなっている気配すらある。土産物もちゃんと品質管理が行われているようには見えない。外国の野菜がいかにも地元の特産品の漬け物のようになって売られたりしている。

ETCも発達してきたのだから、高速道路の外に出ても,料金勘定が,例えば,距離を足して計算するなど出来るはずである。高速道路の民営化とは単なる私物化だったのか。道路の外に出られないことをいいことにして、90円の焼き鳥を130円で売りつける悪徳商法を万円させるためだったのか。小泉・構造改革の中での闇の利権の部分が維持された典型なのではないだろうか。東北の大震災の際にも、むしろ、高速道路を断固無料化した方が、首都圏からの大量の人々が東北を訪れやすくなって,復興に寄与したのではないだろうか。高速道路の利権が儲かって,国が亡びるようでは、順番が逆である。折角のETCだ。いろんな便利な使い方が出来るはずだ。むしろ、高速道路を公の世界に引き戻すか,あるいは無料化することの方が、日本の政治と経済の発展と安定に繋がることが、民営化で何も改善しなかったどころか、れっかしていることが分かって,明らかになったのではないか。

Corrupt Privatization

日本郵政グループのゆうちょ銀行は27日、川茂夫会長(65)が9月30日付で退任し、日本郵政の足立盛二郎副社長(68)を10月1日付で後任に充てる人事を発表した。副社長の後任は佐々木英治専務執行役(61)が昇格する。ゆうちょ銀行は川氏の退任理由を「本人の意向」とだけ説明している。川氏は2006年にイトーヨーカ堂から日本郵政に転じ、郵便局会社会長を経て09年から現職。足立氏は旧郵政省出身で、郵政事業庁長官を務めた。井沢吉幸社長(64)は続投する、との報道である。備忘録として、川茂夫ゆうちょ銀行取締役兼代表執行役会長(昭和21年11月1日生)の経歴をまとめる。学歴は中央大学法学部卒業、昭和45年 3月株式会社イトーヨーカ堂に入社した。平成 2年10月イトーヨーカドーグループ労働組合連合会会長 平成 4年11月株式会社イトーヨーカ堂営業本部総括マネジャー平成 5年 2月同物流部総括マネジャー 平成 9年 5月同取締役物流部長平成10年 2月同取締役住居事業部長 平成15年 5月同取締役執行役員販売事業部長 平成15年 9月同取締役執行役員物流部長 平成16年 5月同執行役員物流部長 平成18年 7月イトーヨーカ堂から日本郵政株式会社顧問に送り込まれて、平成18年 8月株式会社イトーヨーカ堂執行役員物流部長を退任している。平成18年 9月日本郵政株式会社取締役 平成19年10月郵便局株式会社代表取締役会長をつとめ、平成21年12月株式会社ゆうちょ銀行取締役兼代表執行役会長となっている。コンビニのセブンイレブンは、イトーヨーカ堂の子会社であることから、郵便局のコンビニ化が話題となったことがある。

イトーヨーカ堂の鈴木敏文社長は、オリックスの宮内義彦氏などと並んで、小泉・竹中政治の中で、構造改革の政策に深く関わってきた人物であり、郵政民営化を推進した経済界の有力な人物であるが、川氏は、そこから郵政民営化に伴って送り込まれた、中央大学同窓の人脈の中の人物であるとの見方が大方である。鈴木氏は中央大学の経営にも最近まで携わっていた。

ちなみに、1981年以来、経営者、官僚、などが集まった自由企業研究会が、「日本の国のかたち」を見つめ直し、「活力ある日本をどのように形成していくか」という視点で討議し、研究した成果をまとめた内容が単行本となり、宮内氏と鈴木氏が共編者となって、「沈んでたまるか」との題で、日経BPから出版された。政治、行政、産業、教育などの分野で、戦後出来上がった仕組みが時代に合わなくなってきた、抜本的な改革を断行しなくては日本の将来はないなどと主張して、新自由主義を信奉する勢力が結集した研究会の成果物であった。テーマは国際社会における日本の役割、教育改革、情報通信革命、金融改革、少子高齢化及び雇用問題、財政改革の6分野にわたり、「幼児教育を早め、充実する」「6・ 3・3制を4・4・4制とする」(教育改革)、「財政実態の全体像を積極的に開示する」「財務運営の規律の強化のための立法措置を取る」(財政改革)などと、ショックドクトリンの日本版とも変形とも云える提言が盛り込まれていた。

川氏は、経歴を見る限りでは、物流部長の経験はあるが、金融の経験はなくなぜゆうちょ銀行の会長に就任していたのかの理由は不明である。

ともあれ、新自由主義に基づいた民営化という破壊と虚妄の一端が、ようやくほころびをみせたようだ。天網恢々疎にして漏らさず、暗闇の夜もいつかは明けると、星を仰いで希望をつなぎ祈るほかに、道はないようだ。

The Poisonous Snake's Diary

鋭さが、笑いとなってはじけるようだ。畏友山崎行太郎氏の講演である。

Our Hometowns

田中角栄著「日本列島改造論」の結びの言葉は次の通りである。格調の高い文章である。金権政治家とは、田中角栄を政界から追放するために、外国勢力が宣伝用語として作った可能性があることを考えさせられるような文章である。現在の日本は、外来の構造改革論でズタズタにされた。社稷をとり戻さなければならない。草莽崛起、圧力を何とかはねのけて志を高く維持したいものである。当方ブログも,ささやかながら、とぼとぼとながら、歩みを続けたい。

 明治、大正生まれの人びとには自分の郷里にたいする深い愛着と誇りがあった。故郷はたとえ貧しくとも、そこには、きびしい父とやさしい母がおり、幼な友達と山、川、海、緑の大地があった。志を立てて郷関をでた人びとは、離れた土地で学び、働き、家庭をもち、変転の人生を送ったであろう。室生犀星は「故郷は遠くに在りて思うもの」と歌った。成功した人も、失敗した人も、折にふれて思い出し、心の支えとしたのは、つねに変わらない郷土の人びとと、その風物であった。

 明治百年の日本を築いた私たちのエネルギーは、地方に生まれ、都市に生まれた違いはあったにせよ、ともに愛すべき、誇るべき郷里のなかに不滅の源泉があったと思う。

 私が日本列島改造に取組み、実現しようと願っているのは、失われ、破壊され、衰退しつつある日本人の”郷里”を全国的に再建し、私たちの社会に落着きとうるおいを取戻すためである。

 人口と産業の大都市集中は、繁栄する今日の日本をつくりあげる原動力であった。しかし、この巨大な流れは、同時に、大都会の二間のアパートだけを郷里とする人びとを輩出させ、地方から若者の姿を消し、いなかに年寄りと重労働に苦しむ主婦を取り残す結果となった。このような社会から民族の百年を切りひらくエネルギーは生まれない。

 かくて私は、工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる“地方分散”を推進することにした。

 この「日本列島改造論」は、人口と産業の地方分散によって過密と過疎の同時解消をはかろうとするものであり、その処方箋を実行に移すための行動計画である。

 私は衰退しつつある地方や農村に再生のためのダイナモをまわしたい。公害のない工場を大都市から地方に移し、地方都市を新しい発展の中核とし、高い所得の機会をつくる。教育、医療、文化、娯楽の施設をととのえ、豊かな生活環境を用意する。農業から離れる人びとは、地元で工場や商店に通い、自分でたべる米、野菜をつくり、余分の土地を賃耕にだし、出かせぎのない日々を送るだろう。

 少数・精鋭の日本農業のにない手たちは、20ヘクタールから30ヘクタールの土地で大型機械を駆使し、牧草の緑で大規模な畜産経営を行い、くだものをつくり、米をつくるだろう。

 大都市では、不必要な工場や大学を地方に移し、公害がなく、物価も安定して、住みよく、暮らしよい環境をつくりあげたい。人びとは週休二日制のもとで、生きがいのある仕事につくであろう。二十代、三十代の働きざかりは職住近接の高層アパートに、四十代近くになれば、田園に家を持ち、年老いた親を引き取り、週末には家族連れで近くの山、川、海にドライブを楽しみ、あるいは、日曜大工、日曜農業にいそしむであろう。
 こうして、地方も大都市も、ともに人間らしい生活が送れる状態につくりかえられてこそ、人びとは自分の住む町や村に誇りをもち、連帯と協調の地域社会を実現できる。日本中どこに住んでいても、同じ便益と発展の可能性を見いだす限り、人びとの郷土愛は確乎たるものとして自らを支え、祖国日本への限りない結びつきが育っていくに違いない。

 日本列島改造の仕事は、けわしく、困難である。しかし、私たちがこんごとも平和国家として生き抜き、日本経済のたくましい成長力を活用して、福祉と成長が両立する経済運営を行う限り、この世紀の大業に必要な資金と方策は必ずみつけだすことができる。

 敗戦の焼け跡から今日の日本を建設してきたお互いの汗と力、智慧を技術を結集すれば、大都市や産業が主人公の社会ではなく、人間と太陽と緑が主人公となる”人間復権”の新しい時代を迎えることは決して不可能ではない。一億を越える有能で、明るく、勤勉な日本人が軍事大国の道をすすむことなく、先進国に共通するインフレーション、公害、都市の過密と農村の過疎、農業のゆきづまり、世代間の断絶をなくすために、総力をあげて国内の改革にすすむとき、世界の人びとは文明の尖端をすすむ日本をそのなかに見出すであろう。そして、自由で、社会的な偏見がなく、創意と努力さえあれば、だれでもがひとかどの人物になれる日本は、国際社会でも誠実で、尊敬できる友人として、どこの国ともイデオロギーの違いを乗り越え、兄弟づきあいが末長くできるであろう。

 私は政治家として25年、均衡がとれた住みよい日本の実現をめざして微力をつくしてきた。私は残る自分の人生を、この仕事の総仕上げに捧げたい。そして、日本じゅうの家庭に団らんの笑い声があふれ、年寄りがやすらぎの余生を送り、青年の目に希望の光が輝く社会をつくりあげたいと思う。

Structural Destruction

http://biz-journal.jp/2012/09/post_716.html

http://biz-journal.jp/2012/09/post_716_2.html

http://biz-journal.jp/2012/09/post_716_3.html

政治がつくり、政治が潰した日本振興銀行が9月10日、解散した。金融整理管財人を務めた預金保険機構による管理も同日付で終了し、商号を日本振興清算に変更。今後は清算会社としてペイオフ制度(払い戻し額の上限を元本1000万円とその利息とする措置)で保護されなかった、預金元本1000万円を超える部分の弁済などに当る。

 小泉純一郎政権下で竹中平蔵・金融担当相(61)が銀行免許を与えた日本振興銀行は、10年9月10日、国内初のペイオフを発動されて経営が破綻した。ペイオフの発動は民主党政権の亀井静香・金融・郵政担当相の大きな置き土産といわれた。政権交代で政治の潮目が変わった。小泉純一郎・首相から守旧派として切り捨てられた亀井は、小泉・竹中路線の申し子である木村=日本振興銀行を容赦しなかった。

「まるで不正のデパート」と捜査関係者を驚嘆させた中小企業振興ネットワークの加盟企業を手駒に、ワンマン体制を築き上げた木村を銀行から排除することが目的だった。金融庁検査を忌避したとして木村を刑事告発。振興銀行にペイオフを発動して葬り去った。

 破綻後、振興銀行の優良資産は流通大手、イオン傘下のイオン銀行が引き継いだ。イオン銀行は法人向け融資を行わない“片肺飛行”が続き業績が低迷していたが、振興銀行の中小企業向け融資を引き継ぎ、業績は飛躍的に向上した。金融界では「(金融当局が)振興銀行の優良資産を使ってイオン銀行を救済した」といわれている。振興銀行は徹頭徹尾、政治のカードとして利用された。

 オーナー経営者となった木村剛・元会長(50)は茨の道が続く。銀行法違反(検査忌避)罪に問われた検査妨害事件では今年3月、懲役1年、執行猶予3年の有罪判決が確定した。しかし、木村元会長ら旧経営陣に対する損害賠償請求訴訟は、現在も継続している。

 日本振興銀行事件の最大の謎は、どうして簡単に銀行免許が下り、どうして木村剛が同行のオーナーになったのか、という点だ。

 日本銀行のエリートだった木村剛は2002年秋に金融庁の顧問になり、大手銀行の不良債権処理を進める金融再生プログラム(竹中プラン)の策定に携わった。彼は竹中金融相のブレーンとして、一時期、小泉政権の金融政策を左右する存在にまでなっていた。

 竹中プランには、大手銀行の不良債権処理に伴い、中小企業の資金繰りが悪化しないよう、セーフティネットを備える必要があるとして、次のような一文が盛り込まれた。

『中小企業の資金ニーズに応えられるだけの経営能力と行動能力を具備した新しい貸し手の参入については、銀行免許認可の迅速化を積極的に検討する』

この方針に基づき竹中金融相が速やかに銀行免許を与えたのが日本振興銀行だった。03年8月、金融庁顧問を辞任した木村は日本振興銀行設立を発表した。その2カ月後の10月に銀行予備免許を、04年4月に本免許を取得した。超スピードで銀行免許が下り、木村は紆余曲折はあったが、日本振興銀行のオーナーの座に収まった。イトーヨーカ堂(現・セブン&i)グループのアイワイバンク(現・セブン銀行)やソニーグループのソニー銀行は01年に開業しているが、日本のトップ企業といわれる両社でさえ、子会社の銀行設立には申請してから銀行免許が下りるまで1年5カ月かかっている。ところが振興銀は、わずか8カ月で銀行免許を得ている。当時、竹中平蔵・金融相は「消費者の利便性が高まれば社会的なインパクトは大きい」との歓迎のコメントを出している。

 木村は竹中プランに関与した当初から、日本振興銀行設立の青写真を描いていたのではないか。木村は盟友の竹中平蔵氏を通じて銀行利権を手に入れた。政策立案者が絶対にやってはいけない禁じ手を何故、使ったのか。

 大手銀行の幹部は「木村さんは平成の渋沢栄一になりたかったのではないか」という。渋沢栄一は、株式会社の生みの親として知られる明治期の財界のリーダーである。

 幕府の遣欧使節の一員として渡欧した渋沢は明治新政府の招きで大蔵官吏に登用された。官僚・渋沢の最大の仕事は、わが国最初の銀行となった第一国立銀行を創設したことだ。銀行業務にまず手を挙げたのが三井組で、兜町に錦絵にまでなった洋風五層楼の三井組ハウスを建て三井銀行の本店とする計画だった。

 西洋で経済制度を見聞してきた渋沢は合本主義(株式会社)を根付かせたいと考えていた。銀行の許認可権を握る渋沢は、三井家の独占に反対。株式を公募して第一国立銀行を設立した。渋沢は美しく仕上がった三井組ハウスを第一国立銀行の本店に使いたいからと言って取り上げた。

 退官した渋沢は第一国立銀行(みずほフィナンシャルグループの前身)の頭取に就任した。同行を拠点に、王子製紙、大阪紡績、東京海上、東京ガス、帝国ホテルをはじめ500社以上の株式会社の設立に関わり「日本の資本主義の父」と呼ばれた。

 木村は日本振興銀行の創立メンバーを、明治維新のマグマとなった志士になぞらえて「金融維新の志士」と名付けた。

「渋沢栄一は官吏としてつくった第一国立銀行を手に入れた。木村さんはこれを模倣したかったのだろう。(振興銀行を)渋沢さんのように新しいビジネスを創出する総本山にしたかったのではないのか。中小企業振興ネットワークを拡大して、2020年には資金量20兆円にすると本気で考えていた」(前出の銀行幹部)

●結局、振興銀行とはなんだったのか?

 木村剛は「竹中チーム」のキャプテンとして「健全な資本主義が持つべき公明正大なモラルとルール」を強調してきた。しかし、日本振興銀行の経営者としてやってきたことは、ルール違反の連続だった。理論家・評論家が経営に手を出せばどうなるか。振興銀行は、その悪しき実例となった。

「金融改革の旗手」と一時期、賞賛された木村が、金融庁検査忌避で逮捕されるや、政官財の大物たちは手の平を返して彼を非難した。最大の後ろ盾だった元金融相の竹中平蔵の逃げ足は実に速かった。逮捕を受けた竹中の発言は冷ややかなものだった。

「木村容疑者と個人的な付き合いはない」

 小泉構造改革を推進してきた、いわば“同志”に対して、あまりにも素っ気ない物言いだった。日本振興銀行に銀行認可を与えたことで自分に火の粉が飛んでくるのを恐れた竹中は、素早く、木村を切り捨てたのである。

 竹中は、六本木ヒルズの森ビルが運営するアカデミーヒルズ理事長と、人材派遣会社パソナグループ会長に天下りした。小泉構造改革の大いなる受益者である両社への天下りは、自分が関わった業界から利益を得るべきではないという、政策立案者としての矜持に反するものだ。

 考えてみれば、振興銀は実に特殊な銀行だった。定期預金しか扱っておらず、給与の受け取りや公共料金の支払いなど日々の暮らしの費用の決済に使う普通預金や当座預金はなかった。本支店の窓口では現金を原則として取り扱わず、キャッシュカードもない。当座預金がないから企業の資金繰りにも直接、関係しなかった。銀行間の市場で資金調達をしておらず、いわゆる金融のネットワークから隔離されていた。だから経営破綻しても大丈夫と読んだ金融庁が伝家の宝刀を抜き、ペイオフに踏み込んだのだ。

 とはいっても、中小企業振興ネットワーク解体の余震は今なお続く。今年に入ってからC&I Holdings(旧・ベンチャー・リンク)、NISグループ、フーディズが既に倒産している。振興銀がらみの倒産はラ・パルレ、中小企業振興機構(旧アプレックス。業務は手形割引)、中小企業管理機構(業務は総務アウトソーシング受託)など9社を数える。

 木村は中小企業向け融資に軸足を置いた新たな銀行づくりを目指した。日本の金融は、大口向けの低利融資と小口&個人向けの無担保だが高い金利の2極にわかれているが、この中でミドルリスク・ミドルリターンのマーケットを開拓すると意気込んだ。開業した時には貸し渋りの嵐は去り、中小企業は既存の銀行より高い金利の振興銀行には見向きもしなかった。木村が想定したミドルリスク・ミドルリターンのマーケットは存在しなかった。極論するなら振興銀行が担うべき役割はどこにもなかったのである。

 木村剛は平成の渋沢栄一にはなれなかった。(敬称略)

Tell a lie?

Why Is It so Easy for the Chinese to Lie?

Kitamura Minoru, professor at Ritsumeikan University and Lin Sinyu, who holds a Ph.D. in engineering, discuss Chinese psychology and how it relates to Chinese interaction with Japan. Chinese thinking of course can apply to countries beyond Japan. Understanding the Chinese way of thinking is critical not only in understanding their current and past actions, but to forecast their future actions.

The key behavior is "bihui," preserving stability of the state and the good name of the group: "the reputation of your group can't be dishonored". For this purpose, facts can be easily ignored. In other words, lying is allowed and even patriotic. Drs. Kitamura and Lin's paper explains this behavior at length and in depth.

You can read their paper and its summary at the links bellow:

  *Summary: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/90_S2.pdf
  *Full text: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/90_S4.pdf

Now the Chinese government is claiming its territorial right over Senkaku Islands.
This claim is based on nothing, considering that a Chinese state authorized map published in 1960 clearly depicted the Senkaku Islands as Japanese territory.
Indeed, the Chinese government has clearly stated its position on the Senkaku Islands in the past such as in the "People's Daily" (the authoritative organ of the Chinese Communist Party) January 8, 1953: "it (Okinawa) comprises seven group of islands, including the Senkaku Islands, ..."
For more details,  please read this article at our Website:

  *Incontrovertible Evidence: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/77_S4.pdf

Tell a lie?

史実を世界に発信する会からの情報。

中国人が平気でウソをつくということについては、中国政府の度重なる言動、多くの中国 進出企業が遭遇した体験、そして日本在住中国人などを通じて今や常識化しつつある。

この中国人のウソつき症候群の心理的な分析を歴史にさかのぼって検討したのが、この 対談・論文である。結論的には中国人の徳目の一つ「避諱」(ひき)にいきつくという。
これは隠すとか避けるとかいう意味であるが、国家や家族のために不利なことは、事実を 曲げてでも隠さねばならない、それが正しい、という考えである。身内の体面を汚すこと はあってはならない。正直であるということはこの考え方の前では、重要ではなくなる わけである。国家にとって都合が悪いこと、不名誉なことは一切明らかにしてはならない という「倫理観」である。

つまりウソを独特な(?)倫理観に基づいて積極的につくのが中国人なのであるという ことを知らなければならないわけである。日本人のみならず世界中の人たちもこのこと を知らないととんでもない見当違いをすることになるわけである。
この論文はここ:http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Chinese-to-Lie.pdf

さて、現在中国政府は尖閣を自己の領土であるというウソを平気で主張し、強引にそれ を既成事実化しようとしている。世界中の人々にこれは全く根拠のないウソであること、 こんなことをうっかり許すと大変なことになってしまうということを知らせていかなけ ればならない。その絶対的なウソを示す5つの根拠をすでに我々のサイトでは発表して いる。 [動かぬ証拠5点]:
http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Senkaku-Incontrovertible.pdf

An Encounter

当方ブログの筆者にとって、昨日は人生の収穫を語る日だったような気分にとらわれた。昼間から飲んだ。体力が衰えているから、昔と比べると飲んでいないようなものだが、気分が高揚した。なぜかというと、友人に恵まれたからである。

ひとりは、同郷で、最近、政治家のことを、断固支持するという題で単行本を出してベストセラーになった文藝評論家だ。政治を語るには、文学の教養、素養がないと行けないことがよくわかることを教えてくれる畏友である。

もうひとりは,詩人で国際政治学者である。再びの太刀たばさみて南洲忌、と色紙に書いてよこした。辞世の句はいつでも詠めるかとたずねてみたら,それは駄目だ,前に準備しておかなければ行けないと言われたが、当方ブログの筆者も数年前、死に直面して、辞世を一句と思ったが出来なかった記憶がある。

更にひとりは、最近結婚したから、老いらくの恋ではなかったかと、あらぬ想像をしながらお話をした。大本のことをもよく知っていているので、出口王仁三郎が、来客のひとりになったような妄想にとらわれた。拉致問題などに、人生を捧げてきたから、ご家庭を持つことで、末永く幸せにと祈った。

とある客は、帰去来の字を,一字とって、帰の字を揮毫して額装したものを持ってきた。新しい仕事の部屋に掲げることになる。

それから、同志が集い、話をした。もう少し若ければよかったとの思いもよぎったが、それはそれで、人生はどこから来たのかも知らず、本当は行く末もわからない、ラテン語で、墓場のことをクリプトと言うが、そのように、不可知のことを訪ねても仕方がないということがわかって、スーパーマンがクリプトンという星から来たことも思い出してみた。

とある民族派の活動家の方には、講演会をさせて頂いたことで、蘇る力を得たと心からの感謝を申し上げておいた。真冬の水ごりの行事にも、その方のお陰で参加することを諫められた、心臓麻痺するからやめとけと。

身の周りの転変があれば、結構おもしろいことが起きる、昨日の昼間のことだった。日本は、本当に戦後政治の分水嶺を自力で越えつつあることを実感する昼下がりの飲み会だった。

A Radio Talk Show

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/36142

民主党は増税はしないと言って政権の座に就きました。政治ですから約束違反があってもいいんですが、ちゃんと国民の審判を受けないといけません。だから何より選挙をすることが先決なのに、彼らは先延ばしにしているように見えます。

 その間に民主党から出ていく人もいる。比例区で当選したのに、別の政党に移って国会議員を続けるっておかしいじゃないですか。党を出るなら議員も辞めるべきです。

Kuroshio 78

山形県西川町の岩根沢小学校の校庭に昭和47年十月八日、詩人丸山薫の詩碑が建立されて除幕式が行われた。七三歳の詩人は、夫人と並んで記念写真をとり、「人目をよそに 春は いのちの花を飾り 秋には深紅の炎と燃える あれら 山ふかく 寂寞に生きる木々の姿が いまは私になった」と書いた。

 前西川町長近松捷一氏は元郵便局長だが、特産品を首都圏で販売促進するために西川町のふるさと大使を委嘱してこられた。年二回を原則にして夏冬毎に西川町を訪ねるうちに、丸山薫が戦禍を遁れて西川町の岩根沢に疎開して寄寓すること三年、山村の小学校の先生として務め、美しい詩を沢山書いたことを発見した。教科書に載るほどに知られて、私はいくつかの詩を暗
唱するほどだったから、月山の麓の集落の、その詩が創られた現場の記念館
を訪ねた思い出には今でも心が躍る。

 白い自由画と題する詩がある。「春」という題で 私は子供達に自由画を描かせる 子供達はてんでに絵具を溶くが 塗る色がなくて 途方に暮れる ただ 真っ白な山の幾重りと ただ 真っ白な野の起伏と うっすらとした墨色の陰翳の所々に 突き刺したような 疎林の枝先だけだ 私はその一枚の空を 淡いコバルト色に彩ってやる そして 誤って まだ濡れている枝間に ぽとり! と黄色を滲ませる 私はすぐに後悔するが 子供達は却って喜ぶのだ 「ああまんさくの花が咲いた」と子供達は喜ぶのだ 

この詩にあるまんさくの花がどんな色の花かを確かめに春の日比谷公園の花壇を巡ったことがある。

 月山の山麓は日本有数の豪雪地帯である。桜の木であれば、高い梢の枝まで、雪に埋もれてしまう。雪を踏みしめて歩いて高いところの枝を切り落とせるようになる。販売促進の対象となった桜は、切り落として揃えた桜の枝を地元の温泉の熱で一月元旦に咲かせるように、満開の時期を調節した啓翁桜である。啓翁桜は、昭和五年に、久留米の良永啓太郎という人が誕生させた新品種であるが、深雪の中で収穫されて山形が大産地となっている。

 岩根沢は、西川町の中心部の間沢から北へ山間部に分け入る。月山を中心に羽黒山と湯殿山でなる出羽三山への主要な登山口である。岩根沢には、国の重要文化財として指定されている三山神社の本殿が残されている。明治の神仏分離令で寺号を廃して神社となったが、元は天台宗日月寺の本堂である。廃仏毀釈が凄まじく、寺社文物が徹底的に破却された三山神社の総元締めである羽黒山神社と比べて伽藍が良好に残された。参道があり宿坊が並ぶ。月山を詣でる往事の賑わいが偲ばれる。

 月山は、豪雪地帯にあるから、春先から夏にかけても雪が残り、雪渓となっ
て山体に白い斑ができる。山開きが五月にあって、スキー客が山スキーに駆けつける。関東には、お伊勢参りをした後に必ず出羽三山を参ることを習慣にした地域もあったくらいだから、岩根沢の神社の伽藍の壮大さは、いつか先達を頼んで月山登頂を果たし、頂上にある月読命をご祭神とする月山神社を詣でることを夢見た人が多かったことの証である。月読命は、天照大御神、建速須佐之男命と並んで、三貴子と呼ばれるが、ひとり、月読命だけは記紀にもわずかな記述しかなく、しかも全国にも月読命を主祭神とする神社は、八十五社しかない。しかも月山神社は、高知の一社の他は、すべて東北にあるから、山岳信仰が原形である。

 月山は生死をつかさどることが実感できる月を祭神とする山であるから、母
なる海にも繋がっていることは間違いない。詩人丸山薫が岩根沢で書いた全詩集が、北を夢む、と題する一冊の本になっているが、その本の帯に、杉山平一という署名の入った一文がある。「丸山薫は、若くして愛した大海原の沈黙と静寂と永遠を、再び雪深い山に見出し、それが素朴な山の人々の人情に包まれている世界に触れて、一段と高く深い生命の詩の数々を生み出した。

 詩人は、海を知らない山の子供達のために帆船の絵を描いたりしているが、雪に埋もれた月山の広がりと、青い大海原と生命の深さを関連づける。
月山は、「アスピーテ式火山」といい、盾を伏せたような山容から「盾状火山」と呼ばれる典型で、流れやすい溶岩が薄く広がった山の形をしている。岩石の主成分は玄武岩である。山形から鶴岡へ抜ける高速道路の山形道は、寒河江川を堰き止めた寒河江ダムを通り過ぎて、月山中腹の志津温泉に抜ける大井沢への出口で一旦高速道路は途切れてしまう。地盤の動きを止める工事が大規模に行われているが、高速道路を建設することが困難なほどの地滑り地帯だからである。月山の南西側の山麓は、地滑りが頻繁に起きる可能性のある地盤軟弱な地域で、硬い火山岩の上に深さ約100メートルの軟らかい火山噴出物が堆積しており、月山の万年雪から出る大量の雪解け水が地表近くを流れて地滑りを誘発しやすくなっている。特に湯殿山に近い大網地区などは、地滑りの専門家の間でも有名である。近くにある即身仏で知られるお寺が、地滑りの影響で移転したことすらある。(つづく)

A Venture into the Interior

高橋清隆氏が書いている。題して、「松下大臣の「自殺」、沈黙で深まる疑惑」(上)、(中)、(下)である。リンクを順番に張ることとしたい。

http://www.janjanblog.com/archives/80925

http://www.janjanblog.com/archives/80933

http://www.janjanblog.com/archives/80940

それにしても怖い話だ。神仏のご加護を祈りながら、注意深く歩みを進め、しかも勇気をもって雄々しく立ち向かうことが必要だ。闇夜に妖怪が蠢いているようだ。

Lost Governance

ゆうパック事業とペリカン便事業の統合については、西川日本郵政社長(当時)において、統合に慎重であった郵便事業会社の首脳陣に知らせないまま,平成19年10月、日本郵政・日通間の基本合意書を締結するなど、経営判断としての合理性を大きく逸脱していると認められる旨、日本郵政ガバナンス問題調査専門委員会(郷原信郎(ごうはらのぶお)委員長)の報告書(平成22年5月)において指摘されている。

http://www.soumu.go.jp/main_content/000066080.pdf

要すれば、日通のペリカン便の損失を、ゆうパック事業から補填した可能性がある。JPエクスプレスは、統合後5年後には、単独806億円、連結943億円の赤字にのぼった。900億円前後を郵便事業会社が負担することになることが指摘されていた。

関与した政治家は誰か、具体的なことは闇の中にある。烏天狗どもは、野に放たれたままだ。何の責任追及も行われていない。しかし、天網恢々疎にして漏らさず、そうした不正がいつかは明らかになる。朝の来ない夜などないのだ。

報告書の関連部分は次の通りである。

「2 JPEX事案
郵便事業会社と日本通運株式会社(以下、「日通」)の共同出資により、ゆうパック事業とペリカン便事業との統合をめざしてJPエクスプレス株式会社(以下、「JPEX」)が設立されたが、最終的にはゆうパック事業を郵便事業から切り離すことに関して総務省の認可が得られず、事業統合を断念、同社は清算することとなり多額の損失が発生した。その過程において以下のような事実があり、経営判断としての合理性を大きく逸脱していると認められる。
・ 両事業の統合については、西川社長において、日本郵政の三井住友銀行出身者に担当させる一方、所要の検討も行わせず、かつ、統合に慎重であった郵便事業会社首脳陣に知らせないまま、平成19年10月5日、日本郵政・日通間の基本合意書を締結した。
・ その後、郵便事業会社首脳陣は、統合後のJPEXの事業収支が確定できず、ま
た、いずれにしろ多額の赤字が予想されたことから、直ちに統合を行うことに反対したにもかかわらず、西川社長において、同反対を押し切り、平成20年4月25日、日本郵政・郵便事業会社・日通間の統合基本合意書を締結させた。
・ 上記締結により、同年6月2日にJPEXが設立されたが、その後も、郵便事業会社において算出したところでは、JPEXの事業収支は統合後5年度の全てが赤字で、累積にかかる赤字は単独806億円・連結943億円に上ったにも関わらず、西川社長において、郵便事業会社がそのような数字を算出したこと自体を叱責したことから、これを受けて郵便事業会社において統合後4年度目に黒字化するなどの事業収支を提出することを余儀なくされ、その結果として、同年8月28日、郵便事業会社・日通間で統合のための最終契約である株主間契約書が締結された。
・ その後、ペリカン便事業については、平成21年4月1日、JPEXに分割承継
されたものの、ゆうパック事業については、総務省において、統合による郵便事業への影響等が判断しがたいことなどにより、同事業のJPEXへの分割承継を認可しなかったことから、郵便事業会社は、同年11月26日以降、JPEX事業の見直しを決定し、現状、平成22年7月のJPEX解散、同会社資産の郵便事業会社への承継を予定しているが、同解散時点での累積損失額の合計は983億円(平成22年2月 平成22事業年度事業計画認可申請時点の見込み額)と見込まれ、今のところでは、そのうち900億円前後は郵便事業会社が負担することになると思われる。
・ 上記株主間契約書締結についての日本郵政取締役会への報告の際の社外取締役の種々の有益な意見が執行側から無視された。

Post Office in a Department Store at Shibuya, Tokyo

渋谷駅にある東横デパートの十回に簡易郵便局があるとの表示。

Mt Fuji through the train window

富士山が遠くに見える。携帯電話についているカメラ機能で新幹線が疾走する窓越しに撮影した。

Lunch Box:: A Delicacy in Japan

新横浜駅で、弁当を買った。日本の駅弁は本当に素晴らしい完成度である。

Cool Japanのひとつである。旅の楽しみになる。

Japan Trapped and Lured into the War

昨年(昭和23年)の12月8日、東京の国会議事堂前の憲政記念館は、超満員となった。ロビーまで人が溢れたという。大ホールで、対米開戦70周年を記念するシンポジウムが開かれ、茂木弘道氏、加瀬英明氏、ヘンリー S ストークス氏が,「アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか」というテーマで、講演が行われた。

その講演を敷衍して、一冊の本が祥伝社新書として、この八月10日に出版された。

1945年八月に終わった日米戦争とは、いったい何だったのだろうか。はたして,日本が加害者で,米英蘭の三カ国と、その植民地支配を被っていたアジア地域が被害者だったと云えるのだろうかと、問いかける。

日本は昭和に入って、日米関係が対立を深めてゆく中で困難を打開しようと、真剣な外交努力を続けていたにもかかわらず、追い詰められていった。本書は、日米両国の記録を用いて、日米開戦に至るまで、東京都ワシントンで何が起こっていたのか、時系列的に対比したものである。歴史を公平に検証すれば、どちらが仕掛けた戦争であったかが明らかになる。 と書いている。

ストークス氏は、従兄がビルマのラングーン飛行場で、多数のアメリカ軍戦闘機と爆撃機が翼を連ねているのを覧他とする話で、後半の章を書き始めている。真珠湾攻撃六ヶ月前のことである。従兄は職業軍人だったから、その意味を即座に理解して、アメリカが日本に戦争を仕掛ける準備をしていること以外のなにものでもなかった、と書いている。

当方ブログの皆様にご一読をお勧めする。価格は780円+税である。

左側の参考図書館にリンクを貼る。

40th Anniversary

昭和47年5月30日、「保守の拠点か、変革の原基」かと言う思想的な命題を掲げて、一水会が結成された。今年は、結成四十年の年である。機関紙は創刊400号を迎え、月例の勉強会である溢水会フォーラムも通算500回を開催したという。その記念大会が、九月14日(金)午後六時半に開会することとして、アルカディア市ヶ谷(千代田区九段北4-2-25)で会費一万円で、開催される。

http://www.issuikai.jp/

Take

災害資本主義の暴虐の実態を描く。

http://youtu.be/kXRMioPy9j8

http://youtu.be/kGps7FfGvdQ

http://youtu.be/rfbztoTXlXk

http://youtu.be/Sg8Vh4DJ-2o

http://youtu.be/LhiizY0Sgz0

http://youtu.be/vP6zRN11jdU

http://youtu.be/m_yu9cLmcy4

http://youtu.be/Erxl89pK8pY

http://youtu.be/gL0SKNenqGw

APEC Agenda

APECの会合が、ロシアのウラジオストックで今日から開催される。プーチン大統領が、ウオールストリートジャーなりに寄稿している。ロシアの眼目が表明されている。

http://online.wsj.com/article/SB10000872396390443847404577629312716242648.html#articleTabs_comments

電子版には、その記事についてのコメントができるようになっている。興味深い論点が提供されている。そこには、Armand Hammersのロシアの鉛筆工場の話まで書いてある。アメリカとソ連との関係がある。ハマーズが一貫して共和党の支持者であり、後に大統領候補となったゴア家との親密な関係も思い出させる。

http://english.pravda.ru/history/23-05-2012/121214-armand_hammer_soviet_union-0/

http://en.wikipedia.org/wiki/Armand_Hammer

ロシアからの大学生や教員の外国派遣は、中国の経済発展が、外国から技術入手のよるものであるから、これに負けじと、外国から技術を盗取するために方策ではないかとの、厳しいコメントもある。

Born Again

その心持て遠き都にかえらばや、と言っている間に年をとってしまった。大地震があって、熊野を訪ねて祈願して、とある機会で故郷に帰った。その時の感想をまとめた拙文である。

「奄美・徳之島にある伊仙町では、島外から里帰りをはばかられる激しい政争が続いた。選挙候補の頭文字をとって保徳戦争と称されたが、敗戦後に南西諸島は外国軍隊に占領されその統治下で戸別訪問自由の外国流の選挙運動に慣らされ、復帰後は日本唯一の小選挙区であったから、利権が選挙に直結したことと貧しさとが、激しい政争の直接の原因となった。

日本の選挙制度が従前の奄美のように小選挙区となるなかで、当の奄美選挙区は別の行政区画の薩摩半島南部も加わって、奄美の共同体の力を中和したから、潮が引くように島の内部抗争は沈静化した。

1609年に薩摩藩の奄美琉球侵攻があって代官がおかれる直轄地となり、奄美群島は鹿児島県の大島郡となっている。出先機関で大島支庁と言う組織が今だに残る。2009年5月に、薩摩藩の侵攻を奄美の視点で検証するシンポジウムが、沖縄大学地域研究所の肝いりで徳之島で開催され、報告書が芙蓉書房出版から、「薩摩藩の奄美琉球侵攻四百年再考」として今年二月に出版された。昔は昔今は今と、伊藤鹿児島県知事と仲井間沖縄県知事が、奄美大島の名瀬で400年を契機に会見したのは異論があっても英断であった。

伊仙町の大久保町長から、各市町村持ち回りで15年ぶりに、三百人ほどの奄美の市町村議会議員に県会議員や県庁関係者が参加して集まり、会合をするので、徳之島を往訪して講演せよと頼まれた。奄美大島、加計呂麻島、与路島、請島、徳之島、沖永良部島、与論島が有人島で、日頃は海路の隔絶があるから、隣島の状況を他島の議員から話を聞く情報交換会らしい。

     
東日本大震災があって、戦後政治の分水嶺となったことを指摘して、天災に人災の原発暴走が加わって、大和の政党政治と政府が機能不全を起こしており、外国勢力が火事場泥棒に近い状態で日本制圧を目指すかのように跋扈しているから、地域エゴといわれても、奄美が世界の中心と考えて、社稷の共同体を守る意見を主張することが大和、日本、世界の救済につながる、自粛して萎縮する必要はない、奄美からの情報発信が大切だと述べたところ、予想通り反応はよかった。

奄美の祖国復帰運動は、異民族統治からの解放を達成した希有の日本初の民族自決運動であったし、その指導者の泉芳朗先生が伊仙の出身であり、復帰運動を開始した為山道則氏は亀津の出身であることを細々と説明しなくても理解される素地が会場に漲っていた。昭和28年が復帰の年だから、その五十年後に、奄美大島で、天皇・皇后両陛下のご来臨の下に、記念式典が開催された。

筆者は鹿児島県知事に記念切手を日本郵政公社の総裁の代行として贈呈し、「贈呈者は、奄美・徳之島出身」とのアナウンスがあり拍手があった。沖縄の式典と異なり、総理大臣や外務大臣の出席はなかったが、国土交通大臣が奄美振興法の延長に触れてカネにまつわる話をしたときには危うく野次が飛びそうになり、国防長官が来日したことで、駐日大使の姿はなく、その応接のためか沖縄県知事も欠席となった。参列していた大阪大学の米国人研究者は、今や沖縄の海兵隊に勤務している。東京奄美会会長の万感こもる挨拶、元ちとせの島唄が大島紬の舞台衣装と相まってそれは透き通るような美しさであった。御製として、復帰より五十年(いとせ)経るを祝いたる式典に響く島唄の声、があり、皇后陛下の御歌として、紫の横雲なびき群島に新しき明日いましあけゆく。 沖縄には易姓革命思想の王朝の変遷があるが奄美にはなく、易々と長いモノにまかれないからといって、過激に排外に向かうこともない、また大上段に日本全体と対峙する力もないが、侵攻の時に徹底的に闘ったのは徳之島の秋徳湊の戦であって王朝の艦船と海兵は闘わなかった等と言挙げしなくても良い予備知識が備わっているから、中央の官僚上がりではなく、島の社稷の側に立った発言ができた。

勿論、第二次朝鮮出兵で、歴戦の薩摩の鉄砲部隊と槍鎌で闘う抵抗精神があることを説明する必要もなかったし、沖縄は「幕藩体制の中での異国」などと二重の国際関係を操作する王国ならではの困難があったと解説して、奄美では亀津断髪のように、明治維新の新たなグローバリゼーションに直面して、国家意識を急速に受け入れ、共同体の歴史や文化の延命を図った辺境の知恵があったなどと言葉を重ねる必要がなかった。奄美では、権威と権力とが別物であることが身に沁みているから、当然の前提として、北京で客死したり助けを求める勢力もない。沖縄を表面的に慕う議員には、沖縄の宮古や先島に対する扱い方や薩摩の間接統治のうまさについても説明しておいた。

さて、全島一周道路から支線に至るまで道路はアスファルトで舗装され、ジープが車輪を取られる昔の泥濘はない。隆起珊瑚礁の渓谷をわたる大橋が架けられ、ダムが完工して配水管が整備されれば、甘味資源特別保護対象のサトウキビだけではなく、野菜や果物など食料を自給出来るようになる。薩摩半島から嫁に来た若い娘がいたことには驚いた。島男と薩摩女とが世帯を持つことは双方反対でタブーに近かっただけに、黒糖焼酎が全国ブランドになったように通婚の往来も拡がり、嬉しいことだ。利権だった農地開発の構造改善事業も終わって、議会の選挙も無風になり、議員がおそろいの作業服を着ているかいがいしさも見た。ガジュマルや琉球クロマツの亜熱帯の森を伐採したせいか、古生代から繁茂した蘇鉄は少なくなり、黒ウサギもハブも見かけなかった。赤土の流出は依然続いていて、珊瑚礁の煌めきが鈍くなった可能性はある。砂浜にはまだ、亀が産卵にあがる。東シナ海を見晴るかす景勝の地の犬田布岬には、沖縄戦に特攻出撃した戦艦大和の慰霊碑がある。犬田布騒動と言う薩摩藩の代官政治に対する反乱も知られる。駐車場の脇には、「米軍基地移設反対」と大書した看板が立てられ復帰運動再来の趣だ。国難を抱える大日本の蘇生に貢献するとの決意表明とも読める。

大地震発生後の三ヶ月間に、熊野から吉野を訪ねて奄美に至る旅を重ねたが、大震災を契機に戦後日本の隷属が終わり、自立自尊の世直しが始まる予兆が敏感に感じ取られる。南溟の地の奄美の会合で一層昇華して、確信に変わった。」

Kuroshio Culture and Tradition II

黒潮文明の旅をとぼとぼと続けている。最近は怠けて一覧をまとめていなかったから、確かに、抜けていた部分もあった。67号から後をひとつのリストにしてみた。当方ブログのささやかな人生の探求である。ご一読を賜りたい。時々コメントなどを頂戴出来れば幸いである。また、ここにも行ったらどうだと言う提案があればなお、結構なことである。

67 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/kuroshio-67.html

68 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/kuroshio-68.html

69 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/kuroshio-69.html

70 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/kuroshio-70.html

71 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/kuroshio-71.html

72 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/kuroshio-72.html

73 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/kuroshio-73.html

74 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/kuroshio-74.html

75 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/kuroshio-75.html

76 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/kuroshio-76.html

77 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/kuroshio-77.html

○の中に、数字を書くやり方がまだ判らないので○なしになっている。読者でご存じの方がおられれば,ご教示方お願いしたい

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Kuroshio 77

黒潮の民の植林と育林

 クスノキは、朝鮮半島では巨木になれず、沿岸部と済州島に僅かな植生があるにすぎない。飛鳥時代の日本の仏像は、クスノキを彫刻したものが殆どであるから、渡来仏ではなく日本で彫られた。クスノキが、飛鳥時代の仏像の素材になぜなったかについては、もともと仏像が金銅でできていたから、金属の堅い素材のように見えるクスノキが重宝されたとの説である。法隆寺夢殿の観音や、法輪寺の虚空蔵菩薩、中宮寺の弥勒像などを見ると、木彫像ではあるが、金銅仏に近い硬さが感じられる。法隆寺の百済観音にしても、百済伝来の由緒であったが、素材がクスノキであることが判明してから、日本で彫刻された可能性が高まった。百済観音は、浅くて硬い彫法と強い直線的な衣紋の様式に、当初は鮮やかな色彩が重なっていたとすると、木彫の柔らかさはない。金銅仏の趣が強い仏像である。法隆寺の四天像もクスノキであり、木彫仏よりも金銅仏のように見える。朝鮮半島では、仏像の材料として、クスノキのかわりに、アカマツが使われた。ソウルの南大門がアカマツでできており、火事で焼けて再建しようとしたときに、韓国内で大木を入手できないので、北朝鮮の山に残るアカマツを入手したいと、韓国側から敵対関係の北朝鮮に提案したことがある。.飛鳥時代の仏像を代表する国宝の弥勒菩薩が、京都の太秦の広隆寺に二体ある。宝髻弥勒は朝鮮渡来で、宝冠弥勒は日本で製作されたとの説であったが、前者の素材がクスノキで、後者の本体はアカマツが素材であることが鑑定されて逆転した。脚の部分がクスノキであったから、全体がクスノキであるとの思い込みがあったが、顕微鏡での鑑定は予想に反して、宝冠弥勒はアカマツでできていることから、朝鮮からの渡来仏である可能性が高まった。法隆寺の「玉虫の厨子」は、装飾に使われている玉虫の羽を調べて見ると、日本産の玉虫のものだという説が出されている。ともあれ、アカマツが彫刻の素材になる感覚は日本にはない。五葉の松は、ヤニが少なくやわらかであるから檜の代用品として仏壇になる場合もあるが、アカマツは、刃物の刃をこぼつだけの代物だとの感覚が日本にはある。朝鮮の螺鈿細工の箪笥などは、アカマツが素材で美しいものではあるが、木目を塗り固めてあるのが普通であり、木の素材の表面の美しさを愛でることはない。日本での仏像は、奈良時代に入ると、ヒノキやカヤを素材にするようになる。槇は、日本書記では葬送の棺桶にする木材であると書いているが、槇は朝鮮半島にはないから、百済の王陵から出土した高野槇の棺は日本の列島から運ばれたことになる。済州島にはカヤの林がある。江原道には、アカマツが残っている。いずれも保存林とされている。戦前の日本は朝鮮半島で植樹祭をやっていただけに、森林がどうなった関心があるが、金日成将軍は、段々畑を造成するために山林を伐採してしまった。70年代から始まった「全国土段々畑化」政策によって、山々の頂上まで切り開いて段々畑にした。農業生産が拡大するように思えたが、実際には水害の原因となり、その段々畑で工業原料のトウモロコシを栽培して、民族の主食を日本や中国と同様にコメだったものを、トウモロコシを主食穀物にした。トウモロコシは水稲の三倍の肥料を必要とするから、肥料生産が追いつかず、肥料が不足して、土地が痩せた。白頭山か金剛山からか運ばれた丸太が、大型のトラックに乗せられて、鴨緑江に架けられた橋を渡って続々と支那に輸出されているテレビ番組を見たが、植民帝国が新大陸で大樹林を伐採して、原住民を殲滅し、土地を収奪して、粗放農業を展開したのと同様の人災が発生したことが想像される。鎮守の森の智恵は、パルチザンの傀儡共産主義体制には縁がなかった。

 鹿島と香取の神宮について以前に触れたが、「東国三社」と崇められているもうひとつの社に参拝した。茨城県の南端の神栖市にある息(いき)栖(す)神社である。近辺は鹿島臨界工業地帯が造成され、港公園の展望塔から眼下の地形を眺めれば、古代には沖洲であったところが陸続きになり、段々と聚楽ができたことが分かる。常陸風土記は、「香島」神郡ができたのが約千三百年前の大化五年で、「於岐都説(おきつせ)神社」はそうした沖津洲、沖洲の聚楽のなかに応仁天皇の御代に鎮座、大同二年(八○六年)に現在地に遷されたとする。地盤は巨木が育つのにはむかない砂地だから、息栖神社には、クスノキの巨木はない。鬱蒼と茂る巨木ではないが、古い古い木が植わっている。風で倒れた杉の木を加工した板は、毎年の成長が遅いから、ヒバの木かと見まごうほどに年輪が詰まっていた。山際の杉より遙かに緻密で強度がありそうだ。船の材料としてもってこいである。イヌクスと呼ばれるタブの古木もさりげなく今に残る。黒潮の民は、沖洲の砂地に土を盛り肥料を加え、鎮守の森で。杉やタブの木の植林と育林とを営々と続けた。息栖神社の主神は、鹿島、香取の大神と共に国土経営にあたった岐神(くなどのかみ)であり、相殿に、鹿島大神の船旅の先導をした天鳥船神(あめのとりふねのかみ)と海上
守護と漁業の住吉三神を祀っている。(つづく)

No Garbage Littering

決まった日以外にゴミを出すことは禁止。近隣住民が迷惑していると、手書きのハングルで書いてある。世田谷区の清掃事務所が、これ丁寧に注意している貼り紙だ。本当にマナーの悪い外国人が増えた。と言うより、我が物顔で東京を闊歩している連中が増えた。大きな声で外国語で話して、騒音になっていることも気にしない連中が増えた。日本は連中の属国ではない。横暴を許して見ぬふりをしてはならない。この日本を、唯我独尊、傍若無人の世界にしてはならない。

秋の気配

秋の気配

Trapped Mayor

大阪府の前枚方市長が、官製談合があったとして罪に問われ,一審、二審ともに有罪となり、現在上告中であるが、当方ブログは、前市長の中司宏氏の無罪を信じて疑わない。そうした中で、刑事裁判と平行して行われている民事裁判の王は、提訴された損害賠償請求が、大阪地裁で,棄却となり、前市長側が勝訴している。また、日本経済新聞を名誉毀損で訴えた裁判でも、同地裁で、勝訴となっている。前市長の事件は、時間の経過と共に真相が解明されて、厚生労働省の村木厚子氏の事件と同様に、大阪地検特捜部が犯した事実誤認であることが、明らかになろうとしている。

http://nakatsukashiennokai.web.fc2.com/gaiyo.html

その最近の動きなどについては、中司宏の航海日誌というブログに掲載されているが、日本経済新聞社に一千万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、大阪地裁は、6月15日、日本経済新聞社に六百万円の支払いを命じた。

そうした状況の中で、10月28日、午前十一時から、大阪、京阪電車天満橋の駅横OMMビル20階の東天紅OMM店で、中司ひろしと語る会が開催される。会費は8000円で,当日会場払いである。当方ブログとしては、その語る会の成功を祈るものである。準備の都合で、十日前までに、ファックス(お72-808-6138)、電話(072-808-6128)などで、10月18日まで、参加の可否や通知をしていただければ幸いである。

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