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Kuroshio 81

黒潮の流れの北辺を行く

●黒潮は日本列島の岸辺を洗いながら流れるから、九州や四国や紀州の太平洋岸の景色については何度となく書いた。列島から大きく遠ざかって北米大陸に変針する金華山沖の黒潮には、桔梗水という美しい名前がついていることも紹介した。クスノキの北限を辿る小取材旅行を敢行して、それがいわき市の小学校校庭の大木らしいことも書いた。日本海側の黒潮文明の兆候については、羽黒山、月山、湯殿山の出羽三山を巡ったが、詳細を論じることは、なお手薄である。著者の近辺に天佑があって、稚内から利尻島に船で渡る機会を得た。対馬海流となって日本海に入った黒潮の流れの北辺の具合を一挙に体験したので、報告したい。

●対馬海流となった黒潮は、樺太と北海道の水道である宗谷海峡を抜ける流れと、アムール川の河口で、袋小路となった間宮海峡に向かう流れとに分かれる。温暖な黒潮の流れで、北海道の西岸は、海が凍結する事はない。春の訪れは、西海岸の方が東海岸よりも早い。北海道の西岸には、利尻・礼文の他に、焼尻や天売の島があるが、凍り付く島ではない。北海道の東岸は流氷が北から押し寄せて冬には砕氷船の力を借りないと船は役に立たない。観光用の砕氷船には、流氷の海を割る音が聞こえるような名前でガリンコ号などとつけられている。科学的な証拠があるかどうかは知らないが、冬になって南下するトドの集団は、メスが氷の海、即ち北海道東岸に向かい、オスは、利尻・礼文島の海岸など、北海道の西岸に向かうと、吉村昭の長編歴史小説「海の祭礼」は描写する。「寄り氷とともにトドがそれに乗ってやってくる。雌よりも雄の方が大きく,退潮一丈三尺(約四メートル)重さ四百貫(一五〇〇キログラム)ほどのものもいる。氷上から続々と海におりたトドの群れは,宗谷岬沖で異様な動きを示す。雌の群れは毎年寄り氷で氷結する東南の方へ泳いでゆき、雄たちは西へむかう。いくつもの集団になって氷塊の浮かぶ海水を煽るようにして日本海を進む。百頭をこえる群れも多く、さながら茶褐色の浮島の群れのようにみえる。」

●稚内に向けて羽田を離陸した飛行機は、出羽三山のある庄内の上空を通って、左正面に男鹿半島を眺めながら飛ぶ。津軽海峡で旋回して、室蘭を過ぎた頃から北海道縦断を始める。室蘭港の入り口にかかる吊り橋が上空から遠望できる。冬に入る直前の北海道には、強い西風が吹いているから、天塩あたりの上級を過ぎてから大きく旋回して、東側の宗谷岬の側から高度を下げて侵入して稚内空港に着陸する。利尻島には、札幌の丘珠空港から直行便があるが、稚内からはなく、フェリーの船便に限られる。稚内港から、利尻島の玄関口である鴛泊港までは、たった二時間の短い船旅だから、奄美や沖縄航路の一昼夜などと言った長時間の航海でもないし、三千五百トンを超える船だから昔の機帆船でもあるまいし船酔いすることもなかろうと思いつつも、北の海の荒波を予想し、乗船するとすぐにゲロを吐くための洗面器を探したが、どこにもなく、紙袋があるだけだった。必要がないようだ。携帯電話で、波浪予想図で確かめると、北海道の西部には低気圧があり、西岸の海は、真っ赤に彩色されて四メートルの高波が打ち寄せているが、利尻島と礼文島の東側は、風のブランケットとなって、波が三メートル程度に低くなっていた。特に、利尻島は周囲十五里のほぼ円形の島で、中央に一七一八・七メートルの利尻富士が聳えているから、強い西風が吹いても、島影が東に延びて波を穏やかにする。携帯電話の画面では、赤い波浪警報の出た画面の左側に、利尻と礼文の島が、縦に二つの目玉のように並び、その東側の海は、緑色と青色の比較的に穏やかな海であることが表示されていた。フェリーボートは稚内港を出港した直後はまず風に向かって直進する。強い西風を受けてピッチングを続けるが、長い船体のフェリーだから、三メートルの波でも難なく乗り越えていく。横波ではないから、不愉快なローリングではない。横になっていれば感度が鈍くなるからすぐに船酔い気分になることもないような揺れである。一時間もすれば、自衛隊のレーダー基地のある岬の沖を通過し、いよいよ利尻島の島影に入る。礼文と利尻の島の間は、風の通り道となっているから風波が強いにしても、左側に航路を寄せれば利尻富士の山陰に入って波が随分治まることを実感できる。島と北海道との往来を恙なくするための海の道が昔からあって、現代の大型フェリーもその海上の道を辿って航海している。新潟県の村上から連絡船の出る日本海の粟島には能登からの移民が住み、その本保姓などが残る集落があるが、利尻島でも新湊という地名などは、富山の新湊からの移民があったことを今に伝える。利尻島は一八世紀の後半の宝永三年(一七七六)には、能登の豪商村山伝兵衛が松前藩から漁場の請負人になって支配しているが、アイヌの採集する魚介類を送るための荒波のなかを安全に航海出来る島影の海路は、皮肉にも、余計に利尻・礼文の生活形態を崩して、宗谷に従属することを促したようである。  
(つづく)
               

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