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Kuroshio 82

米帝国主義の膨張と捕鯨

 日本語とアイヌ語とが同系であることの一例として、隼人の祈る場所である
ヒシと南西諸島の珊瑚礁の尾嶼(びし)とが同じであることを指摘しつつ、尖閣諸島が大陸の文明とは縁がないことを以前に論じた。フクロウのことを徳之島ではチクフと呼ぶが、アイヌ語でも同じであることには驚かされる。田中一村が描いた亜熱帯の奄美の鮮やかな鳥、赤ショービンが、奄美から遠く離れた越後の山古志村の林に遠く渡り、村の象徴の鳥となっているが、舟を牛に引かせて大海を渡ったから山古志村と壱岐や徳之島とが闘牛の習慣を共有するのかも知れない。山古志村の闘牛は中越大地震の際には徳之島に一時避難した。

 沖縄の渡嘉敷島ではホエールウォッチングが盛んに行なわれ、マッコウク
ジラが群れて汐を吹きながら遊泳する姿が観光資源となっているが、その鯨
は、日本海側の黒潮の延長である対馬海流に乗って春の五月に北海道西岸の海域に姿を表す。太平洋岸の勇魚(いさな)の漁師と違って、アイヌはシャチに襲われたりして力尽きて岸に乗り上げるなどした寄せ鯨をとるだけだった。鯨はアイヌ語でフンペと言う。アイヌは鰊や海鼠(なまこ)を獲ることを主な生業とした。特産の煎海鼠(いりこ)は、清国で食物・薬品として珍重されたから、江戸時代には、長崎からの重要な輸出品となっていた。海鼠はフカヒレと並んで、日本からの高級食材として珍重され高価で取引されるために、密漁も絶えない。宮古島北端の池間島では、地元に産するシロ海鼠を大鍋に入れて煎ってウニをあえた珍味がふるさと小包の産品として売られていた。列島南北で共通する食材が僅かな証拠がささやかに残る。

 ボストンの近郊の町にアイリッシュタウンで、アーリントンの町にスパイポ
ンドという、何の変哲もない湖がある。捕鯨船に積む氷を切り出したことで有
名であった。米国の帝国主義的膨張は、テキサス・オレゴンの併合、メキシ
コの割譲と続いて、太平洋に海岸を持つ国家となったのが一九世紀半ばであ
る。米国捕鯨は、一八世紀に公海上での捕鯨に移行し、一八世紀の末に大
西洋から太平洋に進出している。一九世紀半ばには、年間一万頭の鯨を捕獲する世界一の捕鯨国となっている。特にマッコウクジラの油が重用されて、鯨肉はほとんど捨てると言うのがアメリカ式の捕鯨であった。鯨蝋(げいろう)は高級蝋燭や石鹸の原料、灯油、機械油として利用された。鯨蝋とは頭部から採取される白濁色の脳油のことである。マッコウクジラの体温では液状であるが、約摂氏二五度で凝固する性質がある。精密機械の潤滑油としては代替品がなくなんと一九七○年代まで需要があった。マッコウクジラは肉にも蝋を含むため食用に適さず、油抜きをしないで沢山食べると下痢をするから大和煮に用いられ、油抜きをして皮(ころ)を食べる。南島では油を絞ったグンジャカシ(鯨の滓)を食べた。おいしいものではないが、貴重な蛋白だった。

 さて、その捕鯨船が太平洋を遊弋(ゆうよく)していつしか日本海にも入った。夏の日本海は、魯櫂の小舟でも渡れる静かな海である。現代でも、夏には佐渡から日本海の粟島や飛島を回って酒田に寄港するような観光船が出航している程である。余談ながら、北朝鮮の清津と新潟とを結ぶ連絡船である万景峰号は、背が高く、夏の穏やかな日本海の航路を主力にして設計された多少不安定にみえるがどうだろうか。那覇と大東とを結ぶ四〇〇キロの大洋を横断する定期船や小笠原航路の定期船のように大波浪の中での安定を優先する船型ではないようにみえる。北海道の西岸の海域、つまり、利尻・礼文の島の近辺の海域は、米国のみならず、世界中の捕鯨船が群がるようになった。鯨の脂は捕鯨船の上で煮られ樽詰めにされるから、その採油の為の薪ばかりではなく、捕鯨船が蒸気機関を推進機関として採用するようになってからは、燃料としての石炭を入手することが必要となった。ペリー提督は、西表島にある燃える石、石炭に着目していたことは間違いない。蒸気機関の発達は、中国との貿易を有利にする太平洋を横断する航路の開拓を促し、そのための橋頭堡の補給基地として、小笠原諸島、琉球列島と、日本列島を開放させることを目論んだのである。すでにハワイは、一七七八年にクックが「発見」したことになっていたが、一九世紀初頭には奴隷状態の原住民を使用したサトウキビ製糖が一大産業となり、一方で捕鯨船の基地化も進められていた。クック発見時には百万人の人口が、一八三二年には何と一三万人まで激減しているが、当時の宣教師は「非白人人口の激減は、神のご意思と考えるべきだ」と本国に書き送った。マークトウェインは、「あと少し宣教師を送れば、ハワイ原住民の人口を絶滅できる」と皮肉っている。一八五三年七月八日、たった四杯で夜も眠れずのペリー艦隊が東京湾に入ったのも、ハワイ制覇の延長線上にあった。表向きには平和的であるが、ペリーは、「百年間かけたいかなる外交努力にもまして、武力こそ日本に恐怖を与えてフレンドシップを確保することができる」と書き残しているが、フレンドと友達(ともだち)は同義ではなく、同志(どぅし)でもない。(つづく)

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