Independent Japan
政府・日銀が、バブル景気の過熱をハードランディングで切り捨てた結果、未曾有の不景気におちいってしまったが、以来、日本は衰退の坂を転げ落ちるかのようになった。当時の自民党政権は、外圧がないと意思決定ができない思考停止状況に陥っており、米国のクリントン政権は、しびれを切らしていた。政府は憲法を盾にとって自衛隊の海外派兵を拒否して、その代わりに巨額の御用金を支払った。湾岸戦争はその典型的な事例であったが、巨額の軍事費用を負担したにもかかわらず、何の評価もされなかった。
そもそも、バブル自体が、日本の無策によって発生したものであった。1987年に、ウォール街でブラックマンデーと呼ばれる株の大暴落が起きて、流動性の危機が発生して資金繰りが困難となり、そこで米国側は、日本に資金注入を求めた。竹下内閣はこれに応じて、日銀の公定歩合を就任時の2.5%に据え置いて、日本からのカネ、ジャパンマネーが高金利を求めてウォール街に還流するように仕向けたのである。要すれば、これが自衛隊の海外派兵を拒否した代償であった。自分の国の大損をしてまでも、米国の経済を救わなければならなかったのは、安全保障の面で借りがあったからである。バブル崩壊後の1998年の年初に「第二の敗戦」という言葉が流行した。文藝評論家の江藤淳氏が、文藝春秋に書いた記事の題名であった。当時は、この第二の敗戦の意味するものは、一般的には経済的に競争に負けたとするものであったが、今から考えると、江藤氏の言う第二の敗戦は、そんなものではなく、日米問題、沖縄米軍基地を巡る日米関係論に係わる外交と安全保障に係わる問題で、米国に負けたことであった。日本は、冷戦終結と同時に新しい可能性、つまり、対米独立、自主防衛の可能性があったにもかかわらず、第二の敗戦となったと、江藤淳氏は指摘したのだ。
冷戦終結後、自民党長期単独政権が終焉して、細川非自民連立政権が成立するが、それも内部から崩壊して,今度は自民党主導の「自社さ」連立政権・村山政権が誕生する。その後、期待されつつ成立した自民党中心の橋本内閣だったが、平成8年4月「橋本・クリントン会談」で「日米防衛協力指針」、いわゆるガイドラインが取り決められた。クリントン政権は、怒鳴りだしたのである。江藤淳は、これを第二の敗戦とした。何故なら、このガイドラインは、対米自立、自主防衛の可能性を探るというよりも、むしろ逆に米国の軍隊への依存を更に拡大するものであったからである。後方支援活動に、民間能力を活用することを含めて、日本の軍事的な空間が全面的にアメリカの軍事力の空間に組み込まれたことになってしまった。在日米軍が固定化されるどころか拡大してしまった。これが、第二の敗戦であったと江藤淳氏は、論じたのである。
もう想像できることであるが、沖縄の米軍基地海外移転論は、江藤淳氏の第二の敗戦論の延長線上にある。政権交代によって、米国の軍事力の影響を低下させて、自主防衛、日本独立を目指す絶好のタイミングとして捉えられたが、鳩山由紀夫首相は、自らが登用した外務大臣と防衛大臣に裏切られて、自滅するが、その際に、民主党の幹事長の小沢一郎を道連れにして政権を投げ出した。江藤にしても、鳩山にしても小沢にしても、反米主義者ではない。むしろ親米派の系譜にあり、江藤淳には、プリンストン大学に留学したときの記録を「アメリカと私」と題して出版しているが、それを見る限り、反米の要素はない。小沢も、ジョン万次郎の会を主催しており、憲政記念館における集会でも、星条旗をバックにして演説をするなど、湾岸戦争当時においても、米国の軍事費の巨額の負担を難なく受け入れるなど、決して対立的な反米の要素はなかった。鳩山由紀夫議員に至っては、スタンフォード大学への米国留学の経験があり、生活様式などみるとアメリカ文化への憧れすら感じられる風である。しかし、冷戦が終わり、米国は、空前絶後の超大国になった頃から、憲法改正と日本の独立を求める政治家を排除するようになった。親米派で米国文化を理解を示しても、むしろ、植民地主義的な従米を要求するようになり、日本国家の独立と国家主権のいかんにかかわらず、米軍基地を日本国内に維持しようとする帝国主義の色彩を強めた。そうしたなかで、江藤淳氏や、小沢一郎議員は、反米主義者や、裏切り者に仕立て上げられていったのではないだろうか。小沢一郎議員が検察やマスコミに狙われた、その背後には、米国の一部勢力が見え隠れする。
第二の敗戦の原因は、直接には、日本国の尊厳を冒しかねない憲法の存在である。国防をおろそかにする国は独立国としては存在できないのであるが、日本は平和憲法を盾に取って、アメリカの安全保障にただ乗りすることによって、「経済大国」の反映を勝ち取ったので、平和憲法が国家を興隆させたという、根拠のない神話ができてしまった。ところが,真実の姿は、日本が独立したとは表面のことで、米国が日本を支えて国家機能を維持することができたが、ソ連という仮想敵国が消滅した瞬間から、日本は米国の経済的な競争相手となり,米国は対日貿易戦争を仕掛けた。日本という擬似国家が政策を変更した米国に衝突して負けたのが、第二の敗戦と呼ばれるものである。バブルがはじけたときに日本はすぐさま方向転換をすべきであったが、できなかったことが、日本を凋落の道に向かわせた。
方向転換ができなかった理由は,政治の堕落、感度の低下にあったことは論を俟たない。自民党政府は、この不況を単なる不況として捉えて処理して、第二の敗戦という、世界情勢の変化に根源を求める思考をすることができなかった。
1993年以降、衆議院選挙が二回、参議院選挙が二回、東京都知事選挙が二回あったが、自民党はその全てで負けており、野党の分裂でようやく自分の権力を維持している体たらくであったから、安全保障に関する政策を変更することなどは思いもよらなかったことであった。日本は、占領憲法を守るために、日本の没落に目をつぶり、自立・自尊の日本を失ったのである。
戦後政治について、占領直後から講和条約に至るまでの過程を、簡潔に観察してみたい。激動する国際情勢の中で、日本の政治経済の成り立ちを,簡潔に鳥瞰して、その内容と問題点をたたき込んで置くことは、企業の経営・運営上にも必須の教養である。それがなければ劣化する政治経済を克服することはできない。
第一章 無条件降伏の戦争指導
憲法を含めて戦後政治の体制の大枠は、米国の日本占領中につくられた。サンフランシスコで講和条約が締結され、その占領中につくられた枠組の修正が試みられたが失敗した。占領中に米国によってつくられた制度などが、日本自身が選びとった制度のようになっていった。日本の現在の制度の根幹は、占領時期に求められるので、占領期のいわゆる改革がどういうものであったかを理解することが必要であり、また、その占領の背後にあった米国の戦争指導方針を理解することが必須の条件である。
米国の戦争指導方針は、一言で言えば、フランクリン・ルーズベルトが編み出した無条件降伏であった。国家による無条件降伏と言う概念は、第二次世界大戦で初めて生まれた概念であるが、核兵器の時代になって、核兵器保有国を無条件降伏に追い込むことができなくなって、その無意味さが露呈した。ゴルバチョフのソ連がいかに弱体化しても、核保有国であるから、ブッシュ大統領も手をこまねいて見ている以外に手立てはなかったのであるが、日本は、たった一回の実験に使われることになった。
ルーズベルト大統領の無条件降伏という戦争指導は、ウィルソン主義の失敗を避けるために修正したものである。ウィルソン大統領は、米国世論を第一次世界大戦で参戦にまで盛り上げながら、権力政治むき出しの講和会議となり、米国民の失望をかい、孤立主義に走ってしまったことである。また、ウィルソン大統領は、米国の指導力を発揮しようとせず、負けたドイツにも涵養であったことだ。ウィルソン大統領の下で、フランクリン・ルーズベルトは、海軍次官をしているが、ウィルソンの理想を達成するには、パワーという牙が必要であるということであった。ルーズベルトの信条は、パワーとは世論の団結から生まれ、世論が一枚岩になればできないことはないというのが,野心家ルーズベルトの信条であった。
民主主義国家の戦意を鼓舞するには、善と悪との戦いに仕上げて、悪の権化を粉砕して、戦後処理の過程で徹底的に処罰して,将来の見せしめにする。そのために発案されたのが、無条件降伏であった。一枚岩になった世論を梃子にして、国際連合、自由貿易、ブレトン・ウッズ体制などを想定していた。ずば抜けて強い通貨としてのドルが必要で、米国なしでは機能しない世界新秩序をルーズベルトはつくろうとしたのである。ずば抜けて強い保安官の役割を担った。
無条件降伏の概念を最初に発表したのは、1943年にチャーチルとカサブランカで会談したときである。軍隊の無条件降伏の概念はあったが、国家の無条件降伏はなかった。無条件降伏を要求すれば、負け戦の側が徹底抗戦をして、先頭が長引くことになることも予想され、ヤルタ会談でチャーチルが口に出したとされるが、ルーズベルトは、膾炙しなかった。もちろん東郷参謀本部の軍人には理解できることであった。硫黄島では、守備隊2万三千人が二百人を残して玉砕したが、米軍の死傷者も二万三千人であった。軍隊では、戦闘能力がなくなることを1とするから、互角の戦いであった。統合参謀本部のマーシャル議長は毒ガスの使用を考えるが、ルーズベルトは、4月12日に死亡するまで、無条件降伏の修正を一切考えていない。
日本側でも、特に陸軍は無条件降伏に応じるわけがない。ソ連が、4月5日に,日ソ不可侵条約を一年後の満期を共に破棄すると通告してきており、しかも、ソ連軍は極東への移動を開始していいたから、対日参戦の意図が読めた。5月2日にベルリンが陥落して、陸軍はようやくソ連との交渉に同意した。スターリンは、2月のヤルタ会談で、ポーランドの東三分の一と、日本の千島、樺太、大連を手に入れるという譲歩を,ルーズベルトから勝ちとっていた。絶望的になった日本は、スターリンとの交渉を始める。無条件降伏という米国の戦争方針が、日本の早期降伏を妨げ,スターリンが漁夫の利を締めるという可能性が明らかになり、無条件降伏の修正を主張したのが、国務長官代理で、前駐日大使のジョセフ・グルーであった。当時のステティニアス国務長官は、国際連合の設立に忙殺されていた。グルーは、スティムソン陸軍長官を、日本は、大正デモクラシー時代の指導者を復活させればよく、天皇制を破壊すれば、日本はよりどころを失って崩壊するという伝統的な終戦構想で説得することに成功している。グルーは、天皇制維持という条件付の降伏について、トルーマン大統領の了解を取り付けて、部下のドゥーマンにポツダム宣言の初稿を書くように命じている。立憲君主制を許すという条項をスティムソンとグルーが了承したのが、5月26日であった。6月いっぱい、トルーマン政権は、無条件降伏の主張を抑えたが、それは、アラモゴードにおける原爆実験の成功か否かを見据えようとしていたからである。7月上旬に国務長官がバーンズになり,ニューディーラーの次官補を据えた。アチソンは、日本を共和国にすべきとする人物であった。ポツダム宣言の最終稿からは、スティムソンもグルーも除外され、7月26日にポツダム宣言が発表される。グルーは8月に、スティムソンは9月に引退する。ポツダム宣言は、戦後史の中では、天皇の護持が許されたとしており、外務省も、条件降伏だと主張したいたが、50年6月のダレス来日以来、無条件降伏と修正している。一番肝心なことについて、ポツダム宣言は明言を避けていた可能性がある。二股膏薬、ダブルオプションであった可能性はある。
「原爆もソ連の参戦もなかったポツダムにおいてより、なぜわれわれが、ソフトピースの方に更に行かなければならないのか」と、バーンズ長官が言葉を残している。8月6日に、広島に原爆が投下され,その二日後にソ連が宣戦布告をして、長崎に原爆が投下される。8月10日付けで、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、帝国政府は右宣言を受諾する」と回答する。ポツダム宣言受諾に軍配をあげられたご聖断の結果である。この回答に対して、「降伏の瞬間から,天皇と日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官に従属する」「最終的な日本政府の形態は,ポツダム宣言に従って,日本国民の自由に表明される意志により樹立される」と回答してきた。12日に日本に到着して、従属とは何かが議論になったが、14日には、天皇陛下は、御前会議を招集され、宣言の受諾を確認された。天皇陛下の介入のみが戦争を終結できた。日本の皇室の安泰について、米国政府は何の約束もしておらず、法律的には、存続も廃止も両方可能であった。宣言は、皇室を廃止すると脅しをかけて武装解除と占領改革を推進することを可能にしたのである。降伏後の交渉で確保されたのであり、日本陸軍のポツダム宣言に対する不信は正しかったのである。
第二章 スウィンク150の4
8月14日に、スイス政府を通じて、東京地方の占領を避けることと、日本軍の武装解除は、日本政府の責任で行うことを米国政府に要請している。8月22日には、終戦処理会議を内閣に設けている。米軍に東京にはいらないこと、軍票を発行しないことなどを、要求している。日本政府はマニラのマッカーサー将軍に、上記の要求をする電信を送っているが返事はなかった。占領軍の先遣部隊は、8月28日に厚木に到着して、マッカーサー自身は30日にバターン号という輸送機で到着している。横浜のグランドホテルで、執務を開始しているが、その間に、東条英機元首相を逮捕している。ポツダム宣言の戦争犯罪はジュネーブ条約の戦争犯罪ではないことが判明した。9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ上で降伏文書の調印が行われた。9月3日に重光は、マッカーサーに談判して、直接の軍政を敷くことをあきらめさせている。降伏後初期対日政策が、マッカーサーから日本側に密かに手交されたのが、9月下旬であった。その文書が、スウィンク15-の4と呼ばれる。スウィンクとは、1944年に各省の次官で構成される国務・陸軍・海軍連絡委員会を指す。
スウィンク150の4の最も過激なものが、追放―パージであった。アングロサクソンの社会では、人間関係をいじくり回すことをソーシャルエンジニアリングと呼んで忌み嫌うが、それを日本で行うこととしたのである。日本の政治構造を根っこから引き抜いて,社会主義のイデオロギーが入っていて、米国内ではとても実行できないことを、実行しようとした。近年、日米構造協議が通商代表部と商務省で、ごり押しが見られるが、占領に伴うことであるから、実に過激なものである。財務長官のモーゲンソーが主張したドイツの牧場国家への残酷な計画の一部などが盛り込まれていた。一方では、ポツダム宣言を逸脱しているという意見もあった。今になって天皇制を廃止するのは、裏切りになると主張するグルーの配下の日本通もいたし、アチソンのミラー特別補佐官のように、ポツダム宣言が軍隊の無条件降伏を要求したことは認めるが、その後の両政府のノートの交換によって無効となったように見えると述べた者もある。
第三章 衝撃と歴史の書き換え
重光外務大臣は、横浜のグランドホテルを訪ねて、マッカーサーに軍政をやめるように進言したことは既に述べたが、それから二週間後に、密かに更迭された。重光はA級戦犯として逮捕され巣鴨拘置所に入れられている。マッカーサーに飛ばされとの推測もあるが、モスクワ大使時代にソ連政府の不況を買っていたと言われ、ソ連が戦犯に指名したとの説もある。後任は吉田茂である。
9月17日に、皇居の堀端にある第一生命ビルが総司令部として、接収された。吉田外務大臣は、「天皇陛下の訪問をうけますか」とマッカーサーに聞いている。「天皇をエンバラスしたり、ヒュミリエイトする気はない」と吉田外務大臣に述べたのは、貴重な情報となった。スウィンクがその一週間後に伝達されている。それから10日経って、天皇陛下は、米国大使館にマッカーサーを訪問した。これ以降、天皇の無責任説が定着する。戦争責任を認めたりすれば、国務省の追求の手が厳しくなることは火を見るより明らかだった。陛下の責任を否定せざるを得ない理由は、無条件降伏の概念が無茶で、負けた国の戦争責任の指導者は瀬平和に対する罪で戦勝国によって処罰されると言う概念だからである。訪問の翌日、写真を新聞社に配布したが、内務省は検閲で発禁にしたが、GHQはすかさず解除している。占領下の日本は、ポツダム政令と呼ばれるScapin――SCAP Instructionの絶対命令か、GHQの指令で国会がつくった法律で動いた。10月4日には、政治犯の即時釈放、思想警察の全廃、内務大臣と検察首脳の罷免、弾圧法規の撤廃が命令された。内閣は辞職したが、後任は幣原喜重郎で、マッカーサーが選んだ首相である。吉田外務大臣がアグレマンを取りに行っている。10月25日には、バチカンを含む6つの中立国と日本とが外交関係を断絶するよう占領軍は命令した。日本は外交を行う権利を喪失して属国となった。連合軍最高司令官の政治顧問が、駐日大使の役割をして国務省の役人が出向した。グルーは、ドゥーマンを任命するつもりだったが、失脚したために、バーンズ国務長官は,中国通のジョージ・アチソンを任命した。マッカーサーを監視するために東京に派遣したと言われる。10月に、エマーソンとEHノーマンが、直接府中刑務所に出向いて、政治犯16人を釈放している。カナダ人のノーマンは、日本の歴史を専門とする学者であったが、理論をそのまま実践することで、日本共産党の理論である講座派の理論を虎の巻にした。1932年にスターリンが天皇制打倒のテーゼを出し,二段革命論を主張するようになったが、ノーマンは日本叩きの代弁者となった。統合参謀本部のケージス中佐もノーマンの本を聖書のようにしていたし、オーエンラティモアは、ルーズベルトに影響力があり、中国共産党びいきで、日本の降伏直前に天皇断首を唱える過激さであったが、ノーマンの本を虎の巻にしていた。ノーマンの事務所に共産党の幹部は入り浸りとなり、ノーマンは、その情報を下に、A級戦犯の起訴状を書いている。近衛文麿を自殺に追いやったのもノーマンである。
共産党幹部は、府中刑務所をでるなり、連合軍は解放軍だと主張している。総司令部はこれを黙認している。生産と経営とを乗っ取らせる生産管理運動を開始したのも総司令部で、共産党の労働組合の連合組織である産別会議を総司令部は奨励した、瞬く間に、組合員が400万人となっている。ノーマンには、後日談があり、朝鮮戦争と冷戦で、統一戦線の世界が逆転して、マッカーシー旋風が吹き荒れるとカナダ人であったノーマンはカナダの駐エジプト大使となっていたが、自殺においこまれることになった。ノーマン著の日本の兵士と農民、と題する本は、岩波書店から日本語に翻訳されて出版されていた。日本語に翻訳した大窪氏は、戦後長い間カナダ大使館の政治顧問であった。
マッカーサー将軍には、三つの縦糸があったとされる。その第一は、歴史に名を残そうとする野心である。第二は、米国のManifest Destiny(明示された定め)、つまり、帝国主義的な拡張主義を裏付けるイデオロギーで、フィリピン総督であった父親と自身のフィリピン統治の経験から来るものである。第三は、共和党系の保守主義者であり、ルーズベルトとニューディーラーなどの左翼とは敵対関係にあったことである。戦艦ミズーリ上での降伏調印式の締めくくりに演説をしているが、二期目のリンカーンの就任演説を下敷きにした者と言われ、南北戦争の終結に向かう米国民に、過去の敵に寛大になるよう呼びかけた内容であり、参加した重光外相と加瀬俊一(外務省情報局報道部長)は、これを感知して、宮中に即刻報告している。マッカーサーは、1930年にハーバート・フーバー大統領によって陸軍参謀長に任命されているが、失業した軍人が起こしたデモを催涙弾で鎮圧したことから評判が悪くなり、ルーズベルト大統領と仲違いになる。コレヒドールの孤軍奮戦で一夜で英雄になり、ルーズベルトは、海軍のニミッツと陸軍のマッカーサーと二本立ての指揮系統にして処遇せざるを得なくなった。マッカーサーは共和党の大統領候補になることを真剣に考えたこともあったほど、ルーズベルトに対立していた。マッカーサーは、マニラにいたときから、天皇陛下を救わなければならないと決意していたとの証言もある。
第四章 憲法改正
敗戦後の日本政府の至上命令は、皇室の存続であった。ポツダム宣言についての日本政府の解釈にしがみついて,それを米国政府に要求することであった。、これ以外は大幅に譲歩して,それと引き替えに維持する戦術であった。憲法改正は天皇の大権に変更を加えるもんであるが、マッカーサーは、米国本国から特別指令が届く前に、改憲を促している。9月15日には、東久邇首相に最初の提案があり、10月4日には、近衛文麿に話している。近衛文麿は、内大臣府御用掛に任命され、改憲に着手している。近衛は、陸軍省と国務省の軋轢の犠牲となった。幣原首相は、マッカーサーの提案をけしからんことだとひょうしたが、いやいやながら、内閣に憲法問題調査委員会を設置して松本蒸治を委員長に任命している。幣原内閣で一番強行に反対したのは吉田茂外務大臣であったが、後に、新憲法擁護に回ったので、反対した当時の記録がほとんどなく、いかなる理由で吉田が立場を変えたのかは、戦後史の中での重要な問題点として残っている。
憲法改正をせよとの指令であるスウィンク228がワシントンから到着したのは、1946年の1月11日である。マッカーサーは、憲法に反対する「階級」を追放で取り払い、中道政党を創り上げて、自主的に憲法を採択させることを考えていた。戦後最初の総選挙は、憲法改正への人民投票となった。追放は、1946年1月4日のポツダム指令によって行われた。追放は、150万人に書類提出を命じて、21万人を公職から追放したとするが、正確な数字もない杜撰なものである。1月24日、幣原首相は、マッカーサーを訪問した。マッカーサーは、天皇制は日本国民の統一の象徴として維持すること、憲法に戦争を放棄する条項を加えることについて決定している。幣原は、ケロッグ・ブリアン不戦条約のようなものを国際公約として宣言することを話して、マッカーサーは涙を流して賛成したという。翌日、マッカーサーは統合参謀本部に長文の電信を送っている。「天皇に対する犯罪追求の可能性に関して・・調査が行われた。明確で実質的な証拠は全く見いだすことができなかった・・。もし、彼を裁判にかけるとすれば、占領計画に大きな変更が必要になる。したがって、裁判を実施する前に周到な準備を完了すべきである。彼を起訴すれば日本人の間で巨大な動揺が起き、その結果はいかに過大評価してもしきれない。彼は日本国民を統合する象徴である。彼を処刑すれば民族が分解するであろう。殆ど全部の日本人が彼を社会的な元首として尊敬し、その正否はともかく、ポツダム合意は彼を天皇として維持する意図であったと信じている。(これに反する)連合国の合意を彼等は裏切りと解釈するであろう・・・最小限百万の軍隊を無期限に駐留することが必要になるかもしれない。」と書いている。ところが、幣原は、閣内の意見統一ができず、2月1日に松本草案が新聞にすっぱ抜かれ、日本人のだらだらはこれ以上許せないとしたマッカーサーは、2月3日に民政局に草案の起草を命令している。その際の三原則は、国民統一の象徴として維持すること、戦争を放棄すること、華族制度を廃止すること、であった。草案は12日に完成して、13日には、ホイットニー准将(民政局長)、ケージス大佐他二人が吉田外務大臣、松本大臣、白州次郎に草案の受諾を迫っている。
4月10日に新憲法に対する人民投票になる総選挙が行われ鳩山一郎の自由党が第1党になるが、直後に追放され、第一次吉田内閣が始まる。帝国議会の最後の第九十議会が6月20日に始まったが、国体明徴運動で追放された美濃部達吉博士は、国体の擁護のために徒手空拳で立ち上がっている。吉田総理は、マッカーサーを代弁して、日本国民の意志にもとずいたものであるとして、第九条については自衛権をも放棄したと述べている。
貴族院は10月6日に、衆議院は七日に新憲法を採択している。忠実なる日本人は、天皇陛下を救うために憲法改正を受け入れたのである。
第五章
戦後の政治運動は、旧政友会の代議士の間で新党運動としてはじまり、その中心人物が鳩山一郎であった。11月には自由党が創設された。軍部の宣伝機関だった民政党は壊滅的だった。戦後初の総選挙で,左旋回をさせるために、徹底的に追放が行われた。共産党と左派社会党だけが日本のリベラルと考えるほどのGHQの過激さであった。1947年の2月1日のゼネストが転回点となり、GHQは共産党を利用していただけであることが明らかになる。マッカーサーは、芦田均を追放せずに、民主党の総裁に据えている。第二回総選挙では社会党が第1党となり、片山哲が首相になる。世はマルクス主義一辺倒で,丸山真男の全盛時代となる。かろうじての自主性は文化と経済だけである。雑誌心がそのひとつであった。
1947年3月にトルーマンドクトリンが出され、米国では戦後政策の見直しが始まっていた。ジョージ・マーシャルが国務長官となり、ジョージ・ケナンを初代の国務省政策企画部長に据えた。ケナンが、Xのペンネームで、封じ込め政策についてフォーリンアフェアズ誌に寄稿した記事は有名であるが、力の均衡による政策である。ケナンのいう力とは政治的な力であって、イデオロギーの正反対であった。ケナンは、ルーズベルトと、ニューディーラーのイデオロギーとの決定的な批判者であった。ケナンほど、スウィンク150の4を批判した者はいない。リアリズムの中核にあるものは、主権国家とその背後に或る特殊な歴史に対する厳粛な態度である。ルーズベルトの唱えた最終の平和など求めてはならないとケナンは主張する。マッカーサーと国務省の立場が、ケナンの登場によって逆転した。ケナンは、48年4月に訪日しているが、占領行政の過激さに驚いている。パージを全体主義的と批判している。日本の工場施設が,中国共産党のために、船積みされている実態をこきおろし、日本語と華族制度の無意味な維持繰り回しも批判している。東京裁判についても,続けていることにいらだった反応をしている。東京に着いたケナンと陸軍次官は、マッカーサーと会見して再軍備の話を持ち出したが、マッカーサーは怒りを隠さずに、再軍備反対を主張した。再軍備に反対しながら、日本の早期講和と独立が緊急の課題だと主張した。ケナンは、ソ連が日本を採らなければ済む話で、米国が占領を継続する必要はなかった。例外は沖縄だけだった。ケナンは後に、アメリカはその逆をやったのではないか、アメリカが先に日本をとり、ソ連が朝鮮半島を採ろうとして、朝鮮戦争が始まったと推測している。
第六章
マッカーサーは逆コースに反対であったとする説があるが、正確ではない。マッカーサーはつまみ食いをしたのである。社会党を擁護する目的があったから、産別潰し、レッドパージを行い、世界が冷戦になり、両極化するにつれて、中道を守る為に社会党を補強しようとした。マッカーサーの憲法には敵が三つあった。ひとつは、ケナンであり、一つは再軍備を要求する統合参謀本部で、もうひとつが、新憲法に反対した「保守反動」の吉田茂であった。
第七章
マッカーサーの占領政策には一貫性がない。寛容と過激が入り交じっている。天皇処刑に反対して寛大な処置をとるが、パージについては民生局の意見を入れて、大量に追放をしている。吉田は、選挙管理内閣の総理になってはいたが、民政局の吉田いびりは続いていた。1949年2月にロイヤル陸軍長官が訪日してマッカーサーの説得を試みるが、日本非武装化の線を譲ろうとはしなかったどころか、米国が日本を永遠に防衛する義務があると持論を開陳した。二月末にマッカーサーは,日本は東洋のスイスになれと檄を飛ばしているが、これは、統合参謀本部に対するマッカーサーの当てつけの発言であった。
吉田の民自党が倍増して、芦田の民主党は激減、社会党は二桁に転落、共産党は倍増した。マッカーサーは選挙の後で、手のひらを返すように吉田と関係を改善している。
第八章 マッカーサーと吉田の妥協
マッカーサーにとっては、新憲法を守ることが全ての出発点である。マッカーサーは護憲になるワシントンの指令だけを実施した。マッカーサーの一存で、パージが延長されて、追放された政治家は、講和条約交渉から閉め出された。ニューディーラー達は吉田を虫けらのように嫌っていた。マッカーサーは、講和条約に憲法を書き入れることが最終目的となった。日本が二度と戦争ができないように,ある種の革命史観が働いたかのようである。追放は全て非武装化の名目で行われた。敵は個人ではなく社会構造であった。罪のない人間は追放できないから、超国家主義者、軍国主義者のラベルを貼ることになる。
間接統治とは、官僚を温存することになった。主権の全部はマッカーサーにあったから、直接統治を間接統治に見せかけただけであった。占領下の権力の序列は、GHQが頂上で、官僚がその下、一番下に政治家がいたといっても言い過ぎではない。戦後の日本で官僚が強いのは、占領政策で、職業政治家が追放で骨抜きにされて、官僚が戦前の状態で温存されたからである。1949年の選挙で、吉田学校を造り官僚政治家の増産にも手がけている。占領中の日本には民主化はあったが、民主主義はなかった。
第九章 サンフランシスコ講和会議
日米関係の枠組みは、まず、スウィンク150の4で始まったが、その後、ケナンが作成したNSC13/2で逆コースが始まるが、その「逆コース」をマッカーサーが反対する枠組みとなった。これが第一の枠組みである。第二の枠組みはサンフランシスコ講和会議である。ここで、講和条約と安保条約が締結された。日本では、安保条約には,鳩山も,社会党も不満で、要すれば大多数が不満であった。これが、1960年の条約改定につながっていく。
米国の友好国との関係には、三つの分類ができる。第一は、完全に平等で相互的な同盟関係である。これを、フランスのドゴールの名前にちなんで、「ゴーリスト・オプション」と呼ぶが、米仏関係の理想とした同盟関係である。核武装をした英仏だけが、米国とゴーリストオプションを選択できるのであって、北大西洋条約の下では、米英仏は相互依存の関係になるとして、誰がソ連に攻撃されても、他の二国は自分が攻撃されたと同じように対応する関係である。
第二は、米独関係である。西ドイツのアデナウアーが築いた関係であり、西ドイツは通常兵器で完全に武装しており、ヨーロッパの中では,北大西洋条約の同盟国と,軍事的にも、相互援助を行うことができる。米軍が,ヨーロッパの中で攻撃を受ければ,ドイツ軍は応援する義務がある。ケナンなどは、このアデナウアーの選択肢を日本に採択させようとしたが、「日本」は憲法を盾にして断ったのである。吉田は、アデナウアー並みの軍事的な貢献を拒否しながら、アデナウアー並みの名誉と平等を要求した。言わば、名誉あるただ乗りを要求して、それに対する制裁として、名誉なきただ乗りが押しつけられた。この第三の選択肢が、1951年サンフランシスコで締結された安保条約である。これは実質的に占領の継続であり、日本は保護国となったから、同盟関係ではない。この制裁に対するはんどうが1960年の安保騒動である。あの憲法では名誉あるただ乗りしかないという、吉田の執念と言い分で、条約改正を米国は受け入れることになる。
日本に対する講和条約についての米国政府の構想は、三段階で発展した。最初は、制裁的な占領という講和が、考えられた。無条件降伏論の延長上にあるもので、連合国の共同監視の下で、日本を25年間、中立・非武装化しようとした。これは、米ソの友好関係を前提としていたから、冷戦が表にでてトルーマンドクトリンが発表される頃には立ち消えた。第二段階が、ケナンの日本の中立化と引き替えに,ソ連の朝鮮半島からの撤退を引き出そうとするものである。この中立化には、武装中立も含まれていた。マッカーサーの東洋のスイス構想は、この時期の発想であるが、米軍の展開を沖縄に限定すれば、ソ連が日本を脅かす野心に対処出来ると考えていた。しかし、米ソの緊張がいよいよ高まる中で、日本は米国の軍事態勢に組み込まれる可能性が高まった。
ケナンのNSC13/2は、国務省と国防省との折り合いがつかないために、時間稼ぎの内容となっていたが、国務省は再軍備に乗り気ではなく、国防省は日本を守るために永遠に日本に駐留する気はなかった。1949年1月、マーシャル国務長官が辞任して、アチソンに譲り、ケナンも辞職した。4月には、北大西洋条約が調印されて、中国人民解放軍が揚子江を渡って、国民党政府の崩壊は時間の問題となっていた。日本では、1月の総選挙で占領政策に抵抗した吉田と共産党が大勝利していた。武力闘争すらの始まりも見られた。米国内では、講和を巡って省庁間の対立があったが、ペンタゴンは日本の独立に絶対反対で、できない講和案を提案している。軍政下にあれば、「日本を言いなりにできる」としているが、これは,ソ連に対する戦略的な攻撃を日本の基地から行うことを指すのである。マッカーサーは、ペンタゴンを帝国主義的と避難したこともある。トルーマンも講和を延期することは不当だと考えていたが、軍事官僚を押し切ることができなかった。国防省の講和反対に直面した、国務省は、事実上の平和と称する代案を検討している。内政面で日本政府に自主性を与えて、北大西洋条約のような地域安全保障の枠組み、すなわち太平洋条約を作ろうとするものである。北大西洋条約は,ドイツの脅威に対する保障措置であるが、太平洋条約は不発に終わった。米国は、韓国、台湾、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドなどと、二国間の条約を締結したが、いずれも、日本の脅威に対する保障措置であった。
国務省は、占領とマッカーサー体制が続く限り、日本から閉め出される。だから、日本を「独立」させることに興味を持ったのではないのか。マッカーサーも同じで、フィリッピン化構想とおなじように、日本を米国の裏庭に置くことによって、米国の保護を受けるようにすることであったから、寛大な講和に賛成して、事実上の平和の太平洋条約にも反対した。マッカーサーは、国務省と国防省との対立に乗じて、その調停役の役割を果たした。1949年5月に、米国は沖縄を恒久的に軍事基地にするという決定を下している。沖縄で、日本の中立と安全を全うできると考えて、東洋のスイス論を展開しているが、一方、ワシントンでは、石頭のドンキホーテとも揶揄する向きも出るようになっていた。マッカーサーは、1949年九月には、独立後のコントロールを撤廃すると新講和構想に変更している。その構想によって、講和条約と軍事条約の日本立てが登場することになる。そもそも安保条約という言葉は、サンフランシスコ講和会議で登場した言葉であって、それまでは、二国間条約と呼ばれていた。軍事の同盟条約には相互という言葉がはいることで、タダの安保条約とは同盟国の関係でなく、一方の優劣が入っているために、外交上は異例の軽蔑した意味あいが含められている。講和条約と二国間条約との別にしたのは、講和条約の案を国務省が書き、二国間条約案を国防省が書くという,官僚的なはっそうであったし、米軍の駐留の問題は講和条約から外して、二国間条約に入れて、更に、その一番帝国主義的な部分は行政協定にして国会からかくすと言うやり方をするためであった。9月段階の提案では,東京で講和会議を開き、マッカーサーが議長になるとの提案であった。吉田も、米軍駐留には,敗戦直後から賛成であった。それは、しかし、沖縄に限定されたものであったし、社会党も米軍駐留に賛成していた。
吉田茂の講和構想の骨子は、①日本を米国の勢力圏の端っこに於いて外敵から保護してもらうこと②沖縄に米軍駐留を許すほか,有事には日本に駐留を許す③二条件の交換を対等なものとみなし、日米関係を相互的、互恵的なものとする④日本は国内治安維持の目的で小規模の軍隊を保有する⑤米軍の駐留に対する反対を中和するために,これを「制裁的な監視機構」とすることで、国会の審議から外すこと⑥米英の経済圏に日本を編入して,できる限りの経済援助を引き出し、復興に役立てることであった。吉田茂の構想は、戦後早く出たものであり、憲法擁護は後の付け足しであったが、日本の戦後外交の基本であった。しかし、朝鮮戦争が勃発して,沖縄の米軍駐留だけで、日本の安全が全うされるような状況が崩れて意志俟った。極東の端の朝鮮半島が、冷戦の主戦場になることなど予想していなかったが、マッカーサーも吉田も朝鮮戦争前の講和構想を変えようとはしなかったが,これは新憲法が成立していたからである。1949年9月にアチソンの講和提案が報道され、吉田は事実上の平和を代弁した。マッカーサーと国務省の主張する線である。11月の第六臨時国会では、米英だけとの早期講和に切り替えている。マッカーサーの米軍駐留構想から二ヶ月後のことである。社会党は,逆に全面講和となる。マッカーサーとの合意で、吉田は飛ぶ鳥を落とさんばかりの勢いとなった。憲法を講和体制に組み込むことで、吉田とマッカーサーが合意したのであるが、吉田は、単独講和の売り込みも始めていた。マッカーサーは、1950年の元旦のメッセージで、憲法第九条は日本の自衛権を否定していないと強調して、米軍の沖縄駐留は、合憲であると主張している。成立してまだ四ヶ月しか経っていない中華人民共和国は、日本を特定の対象にした軍事条約をソ連と締結している。
1950年初頭、中国の喪失、ソ連の原爆開発、等、一連の自体にたいしょするために、ポール・ニッツァに命じて、トルーマンは、NSC68と言う米国の戦略方針を起草している。
1950年の春にいたっても、国務省と国防省との対立は続き、吉田は、日本自ら米軍駐留を要請して、早期講和と引き替えにするという案を考え出した。池田勇人を使者として、マッカーサーの頭ごなしに、ワシントンに派遣している。池田訪米の直後に、国務省から、アチソン国務長官の特別顧問のジョン・フォスター・ダレスと東北アジア部長のジョン・M・アリソン、国防省から、ルイス国防長官、ブラッドレー統合参謀本部議長が来日した。ダレスと国防長官が同時に訪日したのは、マッカーサーの調停役としての役割が高まっていたからで或る。マッカーサーは、ダレスに講和条約を任せることと引き替えに、二国間条約をマッカーサーが書くことで,ダレスと合意している。このときに、東京で講和会議を開催するという構想は引っ込めている。国務省は独立日本の平等と主権回復を求め、国防省は、占領継続を要求していたから、この水と油の要求を,マッカーサーは足して二で割ったのである。
トルーマンは共和党員であったダレスを起用して超党派外交にして、講和条約交渉の大役を志願したダレスを、国務次官補クラスの大使に起用した。ダレスは、アイゼンハワー大統領の国務長官になるが、ダレスほど,日本に対等で平等の地位をあたえようとした米国人は他にいない。ダレスは、吉田に再軍備を迫っている。占領が厭なら、再軍備をして独立しなさいと迫ったのである。ところが、こうしたダレスは、日本側に嫌われて無視されている。ダレスには、東部エリートの傲慢さはあったが、マッカーサーの植民地の総督のような人種主義はなかった。ダレスは人付き合いが悪く、四方山話などは、時間の浪費だと考える長老派境界の敬虔なキリスト教徒だった。米国の戦後処理は、無条件降伏という一方の極端から、大西洋憲章、国連、ブレトンウッズ体制など国際主義の極端にぶれていた。ダレスは、第一次大戦後の米国の保護主義に対する反省があり、第二次世界大戦の原因も大恐慌と保護主義と信じて、日本との講和条約を交渉するに当たっても、戦争と平和の悪循環を断ち切ろうと努力している。ダレスは、日本を「アングロサクソンのエリートのクラブ」に入会させる構想に辿り着いている。言わば,文化的な日英同盟の再現であった。しかし、軍事的に同盟を再現することはムリで、それがダレスのディレンマとなった。
朝鮮戦争勃発の3日前に、シーボルト大使邸で、ダレスは吉田と会見している。吉田は、ダレスに、民主的になり、非武装化して、平和を愛好して,世界の世論の保護に頼るなどと発言したようで、ダレスはこれを吉田の戦後ボケと表現している。ダレスは超党派外交の立役者だけに、訪日中も、右から左まで、多くの指導者に会い、講和についての意見を打診している。吉田と意見を異なる者は追放中であり、国務省が1948年以来再三督促してもマッカーサーは,パージを解こうとしなかった。
1950年6月25日朝鮮戦争が勃発した。ワシントンの首脳は、スターリンの陽動作戦で、極東に米軍を釘付けにしておきながら、北太平洋条約機構(NATO)の正面攻撃を欠けるのではないかとの危惧であり、直ちにトルーマンは、ミュンヘンの教訓、すなわち、いかなる侵略にも宥和してはならないという、後にドミノ理論として発展する戦略を採用する。1938年のミュンヘン条約で、チェコスロヴァキアの領土がナチスドイツに割譲されたが、英米は沈黙していたために、ナチスを誘惑に駆りたてることになったから、宥和してはいけないという教訓である。マッカーサーと第8軍は、韓国に出動する。NSC68の戦略が採用されて、朝鮮半島と台湾に対する中立政策は、全面的な支援政策に改められる。封じ込めは積極的な軍拡競争に向かうことになる。朝鮮戦争を戦うことが二国間条約の目的となったが、これは、朝鮮半島を守ることは日本を守ることであることが現実となり、吉田とマッカーサーが主張した、非武装などの講和構想は木っ端みじんに吹き飛んだ。
1948年頃から、米国の世論は、親日的に変化していたが、10月に人民解放軍が、朝鮮戦争に参加するようになってから、一挙に親日となる。「あれだけ抗日を応援したのに、恩を仇で返すのか。裏切りだ。国務省に赤の手先がいるんだろう。」と後のマッカーシー上院議員の反共魔女狩りに発展する。本当の敵は中国だった。日本との戦争は間違っていたということで、We fought the wrong enemyという言葉が人口に膾炙した。ケナンは名著、アメリカの外交政策の中で、「我々のアジアにおける過去の目的の全てが達成されたように見えるのは皮肉なことです。西欧諸国は中国における特殊な権益を最終的に失い益した。日本人は中国から退出して、満州と朝鮮からも退出しました。これらの地域から日本人が退出した結果は,まさに、賢明で現実主義的な人々が長いこと警告してきたとおりです。今日、我々は、日本人が韓国と満州で半世紀にわたって直面した問題と責任を背負い込むことになった。他人が背負っていたときに我々が軽蔑していた,その重荷に感じる我々の苦痛は,当然の罰である。」と書き残している。7月8日、マッカーサーは、独断で、ワシントンと協議することもなく、国家警察予備隊7万5000人の創設を命令している。ダレスは、日本人の志願兵からなる義勇軍部隊を組織することを考えたが、マッカーサーは、国連義勇軍の芽を摘んでいる。警察予備隊の海外派兵はあり得ないとした。10月になって、掃海艇部隊を編成して,派遣したが、それはなかったことにしていた。朝鮮戦争が始まると、国防省はより一層講和に反対するようになった。戦争終結まで、講和を延期すると言い出した。9月14日に、トルーマンは、国防長官の反対を押し切るために、ジョンソン長官をマーシャル長官に更迭して、講和条約交渉を命じている。マッカーサーが仁川上陸作戦を開始する前日である。ダレスは連合国との多角的な交渉を念入りにしているが、講和はアメリカが演出するという点では譲らなかった。日本の再軍備に反対する条文は入れることを拒否した。対日賠償請求権は履行しないとした。(後にフィリピンの反対で例外ができたが)吉田の反対にもかかわらず、沖縄と小笠原が信託統治の下に置かれる。日本は樺太、千島列島、台湾、澎湖列島への主権を放棄するが、帰属は不確定にしておくとして、ソ連と中国は支持しないだろうとダレスはおもっていたらしく、ソ連が条約に調印するのであれば、樺太と千島に対するソ連の要求を認知する用意はあった。
講和条約の交渉は、1951年1月25日にダレスの訪日を期して開始された。ダレスは吉田に再軍備の貢献を求めているが、吉田は、「地下に潜った軍国主義者」を呼び戻す危険があるという理由をつけて、再軍備に反対している。ダレスに、日本の中で、ダレスの考えを探す役目の仲介をしたのが、ニューズウィーク編集長のハリー・カーンと東京特派員のコンプトン・パケナムであった。ニューズウィークはマッカーサーの、財閥解体や石橋湛山のパージなどを批判していた。ダレスは来日後、 鳩山一郎、石橋湛山、石井光次郎に、帝国ホテルで密会している。しかし、マッカーサーは、ダレスの来日一週間前に吉田と、講和の条件を詰めて,それをダレスに押しつけた可能性がある。マッカーサーは仁川作戦を行い人気は急上昇して、1952年の共和党候補に担ぎ出す動きもあったことが、占領軍の司令官にとどまらずに、影響力を行使した力の源泉であった。マッカーサーは、戦争放棄の憲法を,二国間条約の前提としてダレスに押しつけた。だが、ダレスは、ヴァンデンバーグ決議は、ドイツが再軍備しなければ、米国がヨーロッパを守ることはできないとすることで、NATOに米国が参加する条件として、地域的相互安全保障、相互援助、次女の原則を遵守するよう、共和党のヴァンデンバーグ議員が要求した決議である。ダレスは、吉田に対して、強硬に、再軍備への小さな前払いを要求している。吉田は、警察予備隊とは別に、五万人の保安隊と称する,直接侵略に対応する組織を起草して、ダレスには、国家安全保障省と参謀本部の母体としての保安企画本部の創設をダレスに約束している。辰巳栄一などの私的な顧問には相談していないし、ひとりでこれを起草している。
第十一章
戦争放棄の憲法を二国間条約と引き替えに、ダレスにマッカーサーは押しつけることに成功したが、4月11日に、トルーマンがマッカーサーを解任して吉田は後ろ盾を失う。マッカーサーは、中国の義勇軍の背後にある満州に戦争を拡張することを主張して引かなかったからである。5日後にマッカーサーは日本を去ったが、間髪を入れずにダレスは訪日して、再軍備を迫った可能性が高い。マッカーサーの解任があって、国防省は、日本との事前協議なしに、ソ連と中国を攻撃する基地が欲しいと、いわゆる極東条項を主張した。第二点は治外法権で、西ドイツにも求めていない,職務執行とは関係の無い犯罪まで、治外法権を認めるよう要求した。
仮説であるが、ダレスが、講和条約の中で、日本が放棄した千島列島の線引きをせず、日本とソ連との境界画定をせずにおいたのは日ソの間に領土問題の火種を残して起きたかったのではないのか。米国は、多国間に火種を植え付け、その関係を分断するという統治方法を採ることがある。1956年8月、ダレスは、重光外務大臣と会談して、日本がソ連との北方領土問題を二島返還で決着させるなら、沖縄は永久に返還しないと言い渡した、いわゆる「ダレスの恫喝」を行ったことがある。日本がソ連に接近することは米国の国益に反すると、ダレスは考えた可能性がある。
野党第1党の社会党が安全保障体制に真っ向から反対したために、日本は外交のコンセンサスを失ったが、社会党を安保条約の敵に回したことは、吉田の作為が働いていた可能性がある。吉田は、社会党左派と,超党派外交を下可能性がある。
1951年7月には、講和条約草案はおおむね完成して、9月に予定されている講和会議に吉田の出席をダレスが要請しているが、吉田は出席をいやがっている。8月4日に,安保条約草案が、外務省に届けられるが、GHQは、その内容を公開しないように命令している。講和条約の草案は、8月16日に、公表されたから、政府は安保条約の内容を野党に知らせないで、講和会議に出席を要請したことになる。講和会議は、9月8日、十時からサンフランシスコのオペラハウスで開催された。安保条約は、突然、翌日の午後6時からサンフランシスコのプレシディオという美しい陸軍基地の中で,普通の兵隊の集会所で行われた。戦争の最中に同盟を拒否した日本に対する米国の扱い方である。全ての義務は日本が背負い、米国には権利だけがある、相互という言葉が欠けた条約であった。吉田はダレスの約束不履行に怒ったに違いない。
吉田を責める前に、マッカーサーの責任を問題にするべきである。ケナンとダレスは、占領初期の政策に過ちがあったことを認めて、逆コースで訂正しようとした。新憲法で日本の自尊心を守ることには無理があったのではないか。憲法と国家の安全を駆け引きの道具に使ったとの誹りを免れない。自分の快楽のために国を売ったファウストではなく、吉田は筋金入りのナショナリストではあるが、国の為に国の魂を売ったので、間違いは間違いである。情状酌量の余地があり、マッカーサーが絶対者であったから、解任以前に吉田の責任を追及することは政治的に無理があった。吉田とマッカーサーの妥協に目をつむり、寛大な講和であったからいいではないかと言う議論もあるが、日本人が憲法問題を処理するまで、軍事的な義務を負うことを要求できない」とした合意をダレスが反故にした以上、吉田には、憲法を守る理由は無かったはずである。憲法を守って日本の尊厳を失ったのではないのか。吉田は、米国優位の安保条約を飲んでしまったのである。
再軍備と憲法改正に賛成して、海外派兵の道を確保しながら、朝鮮戦争への派兵を最小限に抑えることが必要であった。これだけ米軍に基地を貸すのだから、その上に再軍備はできないというのが、吉田の立場であった。ここにボタンの掛け違えがあった。基地問題は、戦争という一過性のものとして受け入れるほかに道がなかったが、この不平等を解消するには、日本が積極的に同盟国になることで発言権と平等を勝ちとるのが賢明な選択であった。吉田は、講和を花道に引退して,政局を一新して,後継首相による再軍備と憲法改正に道を開くべきであった。
第十二章 ナショナリズムとプロパガンダ
マッカーサーの占領初期には、ノーマンの例に見られるように、ニューディーラーを中心とするマルクス主義者がGHQに深く関わり、反米ナショナリズムと結びついて、日本の世論を支配していた。ダレスは、日本におけるインテリが余りにも現実離れのした平和主義と中立志向に驚いていたが、東部出身のエリートとしては、日本人に新しいイデオロギーをつくって与えようと企画する。そして、国務省は、戦時中、占領計画の立案に参加して,ハーバードで日本研究で頭角を現していた、デドウィン・ライシャワーにこの企画を委託する。ライシャワーは、ポツダム宣言起草の過程で、グルーやスティムソンの天皇制護持の動きを支持していたこともあり、ライシャワーは、日本の新憲法の成立の由来を知っていた。ライシャワーのプロジェクトに参加したのが、プリンストン大学のマリウス・ジャンセン、エールのロバート・ホール、ハーバードのアルバート・クレイグなどがいた。アメリカにおける日本史の修正に向かう。日本をより肯定的に見せて、日本人の劣等感をぬぐい去るか、その回答が,近代化、モダーニゼーションと言う切り口だった。日本は、アジアで一番先頭に立って近代化西欧化を果たした英邁な民族と言う理解になった。アメリカの日本研究者は,寺子屋の教育制度に目を見張るようになる。軍国主義は,日本の近代化の過程では逸脱したことであり、歴史の必然ではなかったとした。日本の経済的な軌跡の秘密を、徳川時代の伝統文化の中に見つけ出した。近代化は、資本主義的な経済万能主義となり、ナショナリズムは否定され、マルキシズムはタブーとなる。近代化論は、高度成長を推進するイデオロギーとなり、これが吉田とライシャワーを結びつける契機となった。ダレスは、日本の歴史を修正するために、ライシャワーにたのんだのであるが、近代化の考えは、むしろ、ダレスの足をひっぱり、憲法を再軍備の圧力から守る為に、日本の伝統の中に郡国主義が残っているとするライシャワーはマッカーサーの方向に味方することになった。箱根会議は、丸山真男と大塚久雄の東大を敬遠して、京都大学の政治学者、高坂正堯を日本側の代表とする。こうした学者が、モラトリアム国家や吉田ドクトリンを支持して、吉田学校の応援団の役目を務めている。
占領は解放だとするのは、定義の問題であるが、現実は制裁であった。天皇陛下の命を救ったのは、それ以外の占領政策を日本に押しつけるための交換条件であった。マッカーサーは日本を12才の少年として、厳しいしつけを試みたかのようである。
占領が寛大だとされるようになるのは、安保条約改正の騒動が終わり、岸信介が失意の内に引退して、吉田の勝利が確立する時点で始まっている。初期の安保条約が,吉田に対する制裁であったことなどはひた隠しに隠された。現在の日本では自由民主党の創設者は、吉田茂ではなく、鳩山一郎であることを知る人も少なくなっている。日ソ講和交渉を,外務省と吉田が一緒になって潰したことも体よく伏せてある。満州事変から敗戦まで、悪いことは全て陸軍がしたことに名手、外務省は良いことばかりしてきたようになっているが、幣原外交などは、かなり機会主義的であるが、日本外交の典型のようになっている。日ソ講和を潰すのに、ダレスも一枚噛んでいるが,それも伏せられてきた。米国の介入は、全て日本側で自主的に行われたことにされた。パージのことなどは表に出てこない。マッカーサーの回顧録には追放・パージの一言も出てこない。
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第十三章 社会党は吉田の楯となった
占領は、講和条約が発効した1952年4月28日に終了した。占領は7年でおわった。講和条約と二国間条約に署名して帰ってきた吉田は、人気が上昇してほっとしていたが、米国は日本の再軍備と憲法改正をあきらめていなかったから、マッカーサーの支持を失った吉田は、米国の圧力をもろに受けることになる。ここに吉田と革新政党、なかんずく社会党との間に、みえない共同戦線が成立することになる。1949年の総選挙で、社会党は,惨敗を喫しているが、日米関係が緊張して驚くべく蘇生して拡大する。日本の政治は、左右両極に分離していった。保守も日米関係をどうするかで分裂して行った。再軍備を巡って、吉田対鳩山対革新の三つどもえの争いになった。
「講和条約の後ろに安保条約が隠れ、安保条約の後ろに行政協定が隠れている」と改進党の一年生議員だった中曽根康弘が、講和条約、安保条約、米軍基地の行政協定についての関係をうまく表現しているが、独立しても占領が続いていることが実態であることが国民にも知られるようになってきていた。
ポツダム宣言には、日本に民主主義的な政権ができたら全ての駐留軍は撤退するとあった。講和条約調印の時に、ポツダム宣言の約束が履行されるべきでしたが、実際にはこの約束は守られず、非合法に講和条約とセットで、安保条約が無理矢理締結された。調印直前の国会で,吉田首相は、まだ何も決まっていないと答弁して訪米した。当初の安保条約は、条約の草案、国会審議、全権の指名などの手続きは一切抜きにされると言うごまかしであった。調印の場所すら前日まで決まらず、講和条約はサンフランシスコのオペラハウスで,安保条約は,突然日程が通告されて、陸軍基地内の兵隊の集会所で翌日に行われ、吉田首相ひとりが署名したが、その手続きも不明朗であったことは、前述した。国会批准は、そうした実態を知らずに強行され、日本に国内に米軍基地が継続しておかれることになり、言わば,「永久占領」の体制がつくられたことになる。1960年には、安保改定がなされたが、これは当初の安全保障条約の欺瞞に却って蓋をすることになってしまった。日本は、ある時期までは、少なくとも経済問題は、日本独自で取り組む、非武装で経済に専念すると言う考え方を優先させたが、冷戦が終わり、80年代のレーガン大統領以降は、経済大国となった日本の自由な経済活動は、米国の影響の下で、政治経済政策が行われることが主流となっていった。これに抵抗する官僚や政治家は攻撃され、人事異動などで姿を消し、日本の自主交渉力は低下していった。
以上の講和にいたる戦後政治の概要は、スタンフォード大学フーバー研究所研究員、故片岡鉄哉教授の著書、日本永久占領(講談社α文庫から出版されたが,現在は絶版になっている。)に依拠してとりまとめたものである。
吉田茂は、死ぬ前に書いた本では、自分の行為を後悔して慚愧の念に駆られた文章を残している。その懺悔を書いたのは、1963年のことで、池田内閣と所得倍増の全盛期であった。経済大国の建国の父は、永久占領体制の過ちを悔やみながら、1967年に逝去した。
死ぬ前に書いた一文は次の通りである。
「再軍備の問題については、私の内閣在職中一度も考えたことがなかったこと、・・又・・強く再軍備に反対し,・・且つその反対を貫いたこと等は、本書・・で記した通りである。しかし、それは私の内閣在職時代のことであった。その後の事態にかんがみるに連れて、私は日本の防衛の現状に対して、多くの疑問を抱くようになった。当時の私の考え方は、日本の防衛は主として同盟国アメリカの武力に任せ,日本自体はもっぱら戦争で失われた国力を回復して,低下した民生の向上に力を注ぐべしとするにあった。然るに今日では、日本を巡る内外の諸条件は,当時と比べて甚だしく異なるものとなっている。経済の点においては、既に他国の援助に期待する域を脱し、進んで後進諸国への協力をなし得る状態に達している。防衛の面においていつまでも他国の力に頼る段階はもう過ぎているのではないか。私はそう思うようになったのである。警察予備隊が自衛隊となり、或る程度の体制を整えた今日でも、世間のこれに対する態度はとかく消極的であり、政府の取り扱いぶりにも不徹底なものが感ぜられる。立派な独立国、しかも経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも,世界の一流に伍するに至った独立国日本が,自己防衛の面において、いつまでも他国依存の改まらないことは、いわば国家として片輪の状態にあるといってよい。国際外交の面においても、決して尊重される所以ではないのである。
憲法九条のいわゆる平和条項、即ち、国際紛争解決の手段としての武力行使を否定する条項は別として、第二項の戦力否定の条項は、万世不磨の大典としての憲法の一分というよりも、軍国主義国、侵略国としての日本多年の汚名を雪(すす)ぎ、1日も早く国際社会に復帰したいという政治的な狙いが本義であったのが、私の関する限り真実である・・・だから、もし条文を厳密窮屈に解釈して、自衛隊をすら否定するに至るならば、必ずや世界の現実と乖離し、政治的不安定の因となるであろう。この道理は多くをいわずして明らかなはずである。上述のような憲法の建前、国策の在り方に関しては、私自身自らの責任を決して回避するものではない。憲法審議の責任者でもあり、その後の国政運営の当事者でもあった私としては、責任を回避するよりは責任を痛感するものである。それだけにまた日本内外の環境条件の変化に応じて、国策を改める必要をも痛感する。日本は政府当路も、国民も、国土防衛というこの至上の命令について、すべからく古い考え方を清算し、新しい観点に立って再思三考すべきであろうと思う」と書いている。(注、吉田茂「世界と日本」番町書房、1963年、202/207ページ)
これを読んで分かるのは、現在の自由民主党が、鳩山一郎、三木武吉、河野一郎、岸信介の伝統を無視しているだけではなく、吉田茂の一生の願いをも無視していることである。
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