構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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2012年12月

The Last Battle

今年の6月下旬に発刊された「亀井静香ー最後の戦いだ。」の著者である高橋清隆氏が、今年2月に広島県庄原市を訪問して行った現地ルポを、紙幅の制約で単行本に収録できなかった内容を全10回に分け、資料を整理してジャンジャンブログに発表した。単行本の読者の為には、続編とも考えられる興味深い内容である。そのリンクを下記の通りまとめてみた。

http://www.janjanblog.com/archives/86730

http://www.janjanblog.com/archives/86745

http://www.janjanblog.com/archives/86805

http://www.janjanblog.com/archives/86817

http://www.janjanblog.com/archives/86825

http://www.janjanblog.com/archives/86835

http://www.janjanblog.com/archives/86843

http://www.janjanblog.com/archives/86853

http://www.janjanblog.com/archives/86869

http://www.janjanblog.com/archives/86877

Transplanted Trees

アコウの木は、

国の天然記念物 - 本州及び九州の巨樹、分布北限地及びその付近が指定されている。

  • 三崎のアコウ(愛媛県西宇和郡伊方町)-佐田岬7個体のアコウが自生。
  • 松尾のアコウ自生地(高知県土佐清水市)ー松尾神社3個体のアコウが自生。
  • 高串アコウ自生北限地帯(佐賀県唐津市) - アコウの北限地。
  • 奈良尾のアコウ(長崎県南松浦郡新上五島町) - 奈良尾神社に幹周12mの巨樹が自生。
  • 内海のアコウ(宮崎県宮崎市) -野島神社に4個体のアコウが自生。うち1個体は枝張りが40m×20mもある。
  • http://www.guitar-mg.co.jp/title_buck/30/ryuou_jinja/ryuou_jinja_akou.htm
  • http://blogs.yahoo.co.jp/avenue1947/17923900.html

もともと南の海を渡って来たが,それが並木になっている。

http://www.osumi.or.jp/sakata/furusatokaze/furusatokaze2/sinzyouakou.html

http://www.yado.co.jp/kankou/kagosima/oosumi/sinjyoakou/sinjyoakou.htm

Coming Apart

アメリカに迫る国家分裂の危機と題する記事に、更に詳細にデータを追加したものである。アメリカの政治経済社会の構造の変質を認識しないままに、敗戦後の政治経済の枠組みの中で、アメリカに対して旧態依然の考え方をしている政治家・官僚・経営者があとを立たないが、実は、アメリカ社会が60年代から変質しており、民主主義ならぬ、国内的には階級社会が成立して、国際的には、少数支配の軍事超大国となってきた現実がある。今年の年初に出版されて、ベストセラーとなった、「カミングアパート」を紹介しながら、アメリカの変質を検証することとしたい。企業経営の中でも、従来の対アメリカ観が役に立たなくなってしまっており、アメリカの変質という現実を直視しなれば、日米関係の差配に誤りを犯すことになるだろう。

筆者は、数ヶ月間英文のぶ厚い単行本を持ち歩いていた。とある知人から通読を進められていたが、気が乗らずに、海外旅行にも持ち歩いても,機内の天井の物入れから出して、座席前のポケットに出し入れしても、それでもまだ読まなかった。5月に米国旅行から帰ってきてから、突然興味が増して、ページを繰るようになった。それもそのはず、その本は、米国においては階級社会が成立したと主張する本で、海外旅行の行き先がボストンで、その本が取り上げていた新上流階級の住む町がベルモントで、ボストンの西の郊外の町であり、旅行中に通り過ぎることもあったから、感じるところあったことは間違いない。

本の題名は、Coming Apartである。著者は、チャールズ・マレー(Murray) という社会学者である。書評がいくつか出ているので,まず,そのリンクを掲げることにしたい。

ニューヨークタイムス
http://www.nytimes.com/2012/02/12/books/review/charles-murray-examines-the-white-working-class-in-coming-apart.html?pagewanted=all
ハッフィントンポスト
http://www.huffingtonpost.com/jared-bernstein/charles-murrays-coming-ap_b_1307926.html
ウォールストリートジャーナル
http://online.wsj.com/article/SB10001424052970203806504577181750916067234.html
ブルムバーグ・ビジネスウィーク
http://www.businessweek.com/magazine/book-review-coming-apart-by-charles-murray-01192012.html
などである。

●郵便番号を見れば階級がわかる社会

チャールズ・マレー氏は、保守系シンクタンク「アメリカン・エンタープライズ公共政策研究所」の研究員である。これまでもベストセラーとなったいくつかの著書がある。今年は、大統領選挙を控えている年であるから、年初に出版されているのは、大統領選挙を巡る政治の議論の際に討議資料となることを目論んだのではないかと言わんばかりである。原題は、『Coming Apart: The State of White America, 1960-2010(分断:アメリカ白人社会の状況─一九六〇~二〇一〇年)』である。同書の重要性は、これまでも、経済格差は指摘されてきたが、豊富な統計資料を駆使して、数値に基づいて格差拡大の実態を示したところに大きな意義がある。

アメリカでは、貧富の差が拡大して、一部の高い教育を受けたエリート層が,新上流階級をつくりだし、一方では新しい下層階級が出来たとしている。しかも、そのエリートは、政治的な影響力もあり、アメリカの政治を動かしているが、国内の現状については知らずに、アメリカがアメリカであることを支える伝統的な徳目が急速に失われている指摘している。階級によって、居住する地域が異なることは、日本の状況とはことなる。単に多民族社会であるということでは説得が出来ない。
この本は、アメリカの問題は、人種差別ではなく、新しい階級差別であるとする。労働階級の衰退と下級社会化について警鐘を鳴らしている。例えば、結婚している比率は1960年の84%から、半分を切り、両親と生活出来る子供の数は、1960年の96%から、急速に減って37%になっている。10万人あたりの逮捕者数は、125から592に増加した。宗教心が失われ,日曜日には協会に行く者も殆どいなくなり、年一回にとどまる者が59%を占める。

昨年は、真珠湾攻撃七十周年の日であったが、1941年12月7日は、米国が超大国化を始めた日であるしている。同じような社会変動が始まったのが、1963年11月22日、つまりケネディ大統領が暗殺された日からアメリカ社会の変化が始まったとしている。色々な国勢調査などのデータを駆使して、アメリカが新たな階級社会が生まれたことを検証している。

前日の1963年11月21日とはどんな日であったかを振り返っている。木曜日で、ニューヨークは雨模様であった。それほど冬の寒さではない。CBSのイブニングニュースのアンカーがウォルター・クロンカイトになっていたが、まだ、キャスターになって1年半が立っただけであった。その日のニュースは、サンフランシスコ湾のあるかトラス監獄から脱獄して有名だった、Robert Stroudという囚人がミズーリ州の刑務所で死亡したこと、有名な国際政治学者のポールニッツェが、海軍省の長官になったことなどであった。下院の野党の政治指導者は、ケネディ大統領の公民権法案は、クリスマスの休暇まで、議会に付託される可能性がないというニュースなどがあった。経済は上昇傾向であった。

当時は、情報の選択肢は限られており、テレビのチャン年ルは大都市で、四つ(CBS,ABC, NBCの三大ネットワークと、もうひとつの非営利の放送局)でしかなかった。今ではアメリカの豊かな都市の代表例となっているテキサス州のオースチンなどは、後のジョンソン大統領の夫人が経営するテレビ局が一つあっただけであった。60年代アメリカのキーワードは、単純明快=シンプルである。DVDはなかった。アマゾンはなかった。車は殆どアメリカ製で、ヨーロッパの車は値段が高くてで殆どなった。日本製の車はまだまだ安かろう悪かろうの代名詞であった。都市には、レストランは殆どなく、アメリカナイズした中華料理があり、ピザやスパゲッティをイタリア料理と称する食堂のようなものがあっただけであった。タイ料理や寿司ましてや生の魚を食べることなど思いもよらなかった時代だ。アメリカで最初のタイ料理のレストランが開店したのは1970年代に入ってからである。1963年8月28日は、マルチン・ルーサー・キング牧師の、「私には夢がある」と題する有名な演説があった日である。公民権運動には弾みがついていた。マイケル・ハリントンの著作「The Other America」がベストセラーとなった。アメリカに貧困があることを明らかにした本である。貧困は人種差別などの構造的な問題から来るので、経済成長があっても、解決できないので、別の解決方法が採用されるべきであるとの議論が行われた。http://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Harrington 60年までには、まだ女性の地位向上の運動、フェミニズムはなかった。経口避妊薬が売り出された。ベティ・フリーダンの「The Feminine Mystique」が出版されたのが、63年である。62年は、カールソンの「沈黙の春」がベストセラーとなっている。ラルフ・ネーダー氏が、消費者運動の旗手として英雄となった。ボブ・ディランの歌「風に吹かれて」が出たのが、ケネディ大統領暗殺の半年前であった。63年の11月にはイギリスで、ビートルズがデビューしている。人口の50%労働者で、45%が中産階級に属するとされたが、アメリカには、ヨーロッパのような階級・クラスはないとされた。要すれば、Coming Apartは、1963年11月21日を境にして、アメリカに階級格差が生まれるようになったとして、格差が広がるほど、アメリカがアメリカであることを失いつつあると書いている

 アメリカでは、フードスタンプ(食料費補助券)がなければ飢えるしかない四千四百万人(全人口の一三%)の国民がいる。一方で、桁外れの富裕層が台頭してきている。マレー氏は、「新上流階級」を「狭い意味でのエリート」と「広い意味でのエリート」に分ける。前者には、ジャーナリスト、法律家、裁判官、政府官僚、政治家などが含まれ、その数は十万人程度、後者には企業経営者、医者、地方公共団体の職員、エリート・ビジネスマンなどが含まれ、172万七千世帯、二百四十万人程度と見積もられている。

 「新上流階級」とは、どのような人々なのか。マレー氏によれば、コレステロールの量を気にかけて減量に励み、ワインを嗜み、タバコは吸わない。(ちなみに、アメリカ人の三分の一が喫煙するといわれているが、上流階級はタバコを吸わないから、タバコを吸うこと自体が、下層階級と同一視されることになりかねない。)
『ニューヨークタイムズ』『ウォールストリートジャーナル』を毎日読み、テレビはあまり見ず、ラジオ番組を選択して聴いている。外国人のインテリの友人がいるといったイメージだ。

一方で、アメリカが階級社会のある国になり、一部の社会階層が、政治を支配して、しかももうひとつの貧しいアメリカの存在に気がつかなくなったにしても、アメリカという国が、没落することを意味するわけではない。軍事力のある超大国としては、いよいよ、軍事強国になる可能性もあるし、外交もいよいよ強圧を加えることになるのかもしれない。しかし、アメリカの理想は、少なくともこれまでは、人間の自由・フリーダムを確保することを主眼にして、国際政治のなかで国家としての力の増強を目的とするような国ではなかったが、アメリカの理想が変わってしまったということだ。階級社会の問題は、マレーによれば、人種の違いから発生したものではないから、人種差別や移民を制限しても問題の解決にならないと主張しているが、本当のところはどうだろうか。これまで、エスタブリッシュメント、という表現があったが、エスタブリッシュメントの中には、映画、テレビ、ハイテク、政治関連のビジネスでの成功者などが、含まれていない。

1960年代まで、アメリカで階級がなかったことの例として、アイゼンハワー政権は、「九人の億万長者と一人の水道工事屋」が閣僚となっており、ケネディ政権の場合は、「ポトマックのハーバード」と呼ばれ、ハーバード大学の卒業生が多数ケネディ政権を支えたが、それでも、毛並みの良い、つまりはエスタブリッシュメントの出身の人は少数であった。1963年のアメリカの家族の収入は、6万二千ドルであった。十万ドルを超える家庭は、8%、二十万ドルを超える収入のある家庭は僅かに1%敷かなかった。家は、12万9千ドルで買えた。ワシントンの郊外の高級住宅地でも、27万2千ドルの値段であった。中流階級の上の家屋が、四つの寝室、トイレが二つ、2階建て、書斎があるか、車庫(ガレージ)があるかと言うのが、標準であった。自家用飛行機は、あることはあったが、ごく稀で、DC-8とボーイングの707のエコノミーの座席の方が便利であった。1963年当時の100万ドルは、2010年の価値では,720万ドル相当である。億万長者、全米で八万人、0.2%の人口比しかなかった。新上流階級の住む町が姿を表したのは、1980年代になってから。例えば、ペンシルバニア州のウェインの町が、新上流階級の町に変化したのは,その頃である。アメリカの1%の収入が,80年代の終わり頃から急増した。他の社会階層は横ばいで、低所得者層は、むしろ、急激ではないにしても、収入が減少した。つまり,アメリカの経済成長の利益は、上流階級の上位半分にのみ配分されたことになったのである

 「新上流階級」が富を独占し、特定の高級住宅街に集中して住み、特殊の世界を形成している。五万六五〇〇平方フィート(一万七二二一平方メートル)の家と百二十三の部屋を持つ大企業トップが、九千九〇〇〇万ドルの退職金と八千二〇〇万ドルの年金をもらった例も挙げられているように、行き過ぎた富の独占が罷り通っている。

アメリカの新上流階級は、1980年代の終わりから生まれてきたことが,所得の分布のグラフをつくるとわかる。中産階級の収入は横ばいであるが、新上流階級の所得は89年頃から急増している。低所得者層は、むしろ、それほど急激でないにしても、所得が減っている。つまり、アメリカで、1980年代は好景気であったと言われているが、そうした経済成長の利益は、所得の上位の部分にのみ配分されたのであって、低所得者層にはその恩恵は全くなかったのである。 アメリカでは、高学歴の者同士が結婚する傾向も強まっている。これを「ホモガミー」(同類結婚、階級内婚)と呼ぶ。一九六〇年代には両親ともに大学卒の割合はわずか三%に過ぎなかったが、二〇一〇年には二五%に上昇した。高学歴の富裕層同士が結婚し、高学歴で培われた「才能」やエリート層の人脈も子どもに受け継がれるという。ちなみに、アメリカ政府の給料を見てみよう。閣僚クラスが、191300ドル、最高裁判事が208100ドル、議会議長が217400ドル、議員が169300ドルとなっている。政府機関の長が、大体172000ドルである。日本の国会議員などと比べて、額が小さいことが分かる。日本がいかにお手盛りの高い給料となっているかが分かる。大学が社会構成の選別機、あるいは区分機のようになっている。大学の階層化が急激に進行している。これまで、アイビーリーグなどと呼ばれた東部の名門大学があり、西部では、スタンフォード大学、南カリフォルニア大学、南部ではヴァンダービルト、デュークなどの名門大学があったが、学生の質にそれほどの差はなかった。しかし、最近では、名門大学に優秀な学生が集中するように案っている。そうなると、学位が問題ではなく、どの大学を卒業したかが重要にねってきており、学校の名前によって、順位付けが行われることになる。学校のランキ乱金が、週刊誌などで発表される。大学の入学の為の統一テストの試験成績の分布を見れば、ごく一部の大学、特定の大学に優秀な学生が集中していることが分かる。

── 富裕層は、治安の良い高級住宅街に固まって住んでいる。

いまやアメリカでは、居住地の郵便番号(ZIP)を聞くだけで、その人物が「新上流階級」か否かが見分けられるという。ワシントンDCの十三地域やマンハッタンなどの一部などの居住地が「スーパージップ」と呼ばれる。ハーバード、プリンストン、エール大学卒業生の四四%は「スーパージップ」の地域に住んでいる。かつてアメリカの一流大学は分散していた。東部の名門私立大学「アイビー・リーグ」だけではなく、西部にはスタンフォード大学、南カリフォルニア大学、南部にはデューク、ヴァンダービルトといった名門があり、大差はなかった。ところが、いまや優秀な学生が特定の大学に集中するようになった。Homogamyという概念がある。学歴の似た男女が結婚するようになった。60年代には、大学卒の両親がいたのは、たったの3%であったが、2010年には、25%が両親共に大学卒業となっている。親の学歴と子供の知能指数には、相関関係があり、高学歴の両親の子供の知能指数が高くなっている。教育水準と所得の高い社会階層は、一般的なアメリカ社会とはかけ離れた地域に住んでいる。高級住宅街の名前をあげると、ニューヨークは、上部イーストサイド、下部ウェストチェスター郡、コネチカット廻廊、ボストンでは、ブルックライン、西側郊外、フィラデルフィアではメインライン、首都ワシントンは、ノースウェスト、下部モンゴメリー郡、マクリーン・グレイトフォールズ、シカゴでは、ノースショア、ロスアンジェルスでは、ベバリーヒルズ、サンフランシスコでは、下部マリン郡、バーリンゲイム・ヒルズボロ、パオロアルト地域である。ハーバード大学のビジネススクールの卒業生の住む地域は,六割方高い所得水準の地域に住んでいる。ハーバード大学ビジネススクールの卒業生ほどではないにしても、プリンストンや、エール大学の卒業生も居住地域が集中している傾向は同様である。つまり、居住地域が郵便番号で、新上流階級の住む地域であるか否かが分かる。新上流階級の人々が居住する高級住宅街は、スーパージップと呼ぶ。

首都ワシントンとその周辺を,所得別に色分けすると、その格差がハッキリと分かる。東半分に、貧困地域があり、北西部から西部に掛けて、また、その周辺に黒塗りの高級住宅街が広がる。高級住宅街は、貧困地域に囲まれていることはない。

 筆者は、実際にワシントンの市内を歩き、また車で回って確かめたが、この本の記述は、なるほどと思わせた。首都ワシントンの北東地域は高級住宅街となり、今では夕方になるとジョギングをしたらしい若い男女が談笑しながら、屋外のテラスに張り出したレストランで夕食をとっていた。つまり、治安は良くなっている印象であった。しかし、ポトマック川の向かいの地域は、正確に言うと、リンカーン記念堂の向かいで、沿岸警備隊の本部の近くの地域などは、まだ地下鉄も通らずに、昼間から黒人の若者が失業してたむろして、缶蹴りをしている。

●ブルーカラー層の約半分は独身

マレー氏は、一九六〇年と二〇一〇年を比較し、多くの変化を具体的に示している。例えば、一九六〇年には三〇~四九歳のブルーカラー層の八四%が結婚していたが、二〇一〇年には四八%に低下している。「配偶者のいない出産」(nonmarital birth)は、一九六〇年代から急増し、二〇一〇年には三〇%近くにまで増加した。これは母親の学歴との相関があり、十二年間以下の教育しか受けていない母親で急速に増えている。 マレー氏は、上流階級の人々が多く居住する町としてマサチューセッツ州のベルモントを、下層階級の人々が多く居住する町としてフィラデルフィア郊外のフィシュタウンを比較して、一九六〇年から二〇一〇年までの様々な統計の推移を提示している。 まず、結婚率は、ベルモントにおいて九五%(一九六〇年)から八五%(二〇一〇年)に低下したのに対して、フィシュタウンでは八五%(一九六〇年)から四五%(二〇一〇年)に大幅に低下している。 子供が親と住んでいる比率は、ベルモントにおいて九五%から八五%に低下したのに対して、フィシュタウンでは九五%から二五%にまで低下している。労働時間が四十時間以上の労働者の比率は、ベルモントにおいて九〇%から八〇%に低下したのに対して、フィシュタウンでは八〇%から六五%にまで低下している。離婚率の上昇、片親と住んでいる子供の比率の上昇は、フィシュタウンで顕著だ。フィシュタウンでは、犯罪率、シングルマザーの比率も急増している。

── フィシュタウンにおいて、顕著な変化が生じたのはなぜか。
マレー氏は、格差の拡大の現実を突き付けはしたが、格差の原因として経済政策に焦点を当てることはしない。彼は、アメリカ人、特に下層階級の道徳、倫理の低下に警鐘を鳴らすのみだ。60年代のアメリカの社会は、離婚率は僅かに3.5%であった。別居している率が、1.6%であったから、家族に問題があるのは,5%以下にすぎなかったし、また、親の学歴も殆ど影響がなかった。そもそも、大学出が少なかったのである。また、母親は8割以上が家庭の中にいた。非常に禁欲的で、映画の倫理規制も厳しかった。「チャタレー夫人の恋人」が差し押さえられる事件なども話題になった。ヘンリーミラーの小説「南回帰線」や、ファニーヒルズなどの文学作品が規制対象となった。治安も良く、ドラッグは蔓延していなかった。「古き良きアメリカ」は確かに存在し、「American way of life」という表現が用いられていた。1963年の段階では、教会という言葉は重要であったが、ユダヤ人の集会場であるシナゴーグと区別して使うことはなかった。今では、特定の宗教に偏らないために、礼拝サービスと言う言い方が出て来ている。1963年の治安はまだ良かった。薬物中毒やドラッグの問題はなかった。アメリカ人は酒をよく飲み、タバコをよく吸っていたが、薬物の問題はなかった。60年代の最大の問題は、今でいうアフリカ系アメリカ人、すなわち、黒人に対する人種差別の問題が最大の社会問題であった。(

── マレー氏が重視する道徳、倫理とは何か。
彼がアメリカの徳目として挙げるのは、「勤勉」「正直」「結婚」「信仰」の四つである。アメリカでは、一九六〇年代には「女性は家庭を守る」という考え方に九〇%が同意していたが、その比率はどんどん低下していったという。
 アメリカでは、特に一九八〇年代から教会に定期的に行って礼拝する人の割合が急激に低下しており、「無宗教」者の比率が急増している。
 正直の徳目が崩壊し、一九八〇年代は強欲の十年とも呼ばれた。債権回収の可能性が低いとみなされる債券「ジャンクボンド」の開拓で名声を得たマイケル・ミルケンは、「ジャンクボンドの帝王」と呼ばれたが、一九八〇年代末にインサイダー取引や顧客の脱税幇助などの罪で起訴された。エンロン、ワールドコムなどアメリカ企業の経済犯罪も続出した。
 マレー氏は、アメリカでは、富める者も貧しき者も同じ行動原則を持っていたと説く。優しさ、親切、自己犠牲の精神を持ち、弱者を助ける「男らしさ」が貴ばれていた。マレー氏は、アメリカ国内の経済格差が拡大する中、アメリカを運営するエリートたちが「アメリカがアメリカたる徳目」が失われていることを認識していないことに危機感を覚えている。

新自由主義を批判しないマレー氏

── 新自由主義こそが格差拡大の原因なのではないか。
自動車などアメリカが誇っていた製造業における国際競争力が失われる中で、アメリカは金融やITに偏重するようになったことも新上流階級の台頭と密接に関係している。そして、規制緩和をはじめとする新自由主義的な経済政策が浸透したことが、アメリカの格差拡大に拍車をかけたと見るべきであろう。
 統計学者の吉田耕作氏は、二〇〇二年から二〇〇七年にかけてのアメリカにおける所得集中の異常な加速は、規制緩和によって不動産や金融業界の利益の急増したために押し進められたと見る。一方、堤未果氏が『ルポ貧困大国アメリカ』で紹介している通り、レーガン政権以降の新自由主義によって中間層が崩壊し、貧困層と富裕層の二極化が進んでいた。また、社会保障政策も削減され、本来、公の組織が管理するべき医療の民営化が進行していた。アメリカでは、高額の医療費が原因で自己破産に追い込まれるケースが急増している。同書には、二〇〇五年の初めに急性虫垂炎で入院し、手術を受けたところ、一万二〇〇〇ドル(百三十二万円)の請求書が送られてきたケースが紹介されている。アメリカでは、入院費用を負担できずに日帰り出産する妊婦が増加しているともいう。二〇〇七年には、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『シッコ(Sicko)』が日本でも封切りになり、アメリカの医療保険制度の欠陥が広く知られるようになったが、日本でも医療分野に新自由主義が導入されれば、同じような結果をもたらす。

── 小泉・竹中路線は、まさにそれを試みた。
「規制改革」の旗印のもと、市場原理主義に追従する連中が、郵政の民営化を進めたがこれが大失敗の典型だ。病院の株式会社化とか、介護の民営化とか、混合医療の解禁とか、人間の病をネタに金儲けするアメリカ保険業界の手法を、次々と強気で提案してきた。混合医療の解禁などを迫られる可能性があるTPPへの参加は断固拒否すべきだ。
── 格差の問題が深刻化しているにもかかわらず、アメリカ政府は経済政策を転換しようとしない。

アメリカ国民の不満は高まっている。「オキュパイ・ウォールストリート」運動は、「上位一%の富裕層がアメリカの富を独占している。われわれは九九%だ」と叫んで、ウォール街を占拠した。ワシントンにはテント村ができた。かつてのアメリカでは考えられない事態である。ロン・ポール氏が善戦したのも、貧困層の不満が高まっていることが背景にある。
 世界的にも新自由主義路線は拒否されつつある。フランスでは、成長重視を掲げ、サルコジ氏が推進してきた緊縮路線を強く批判するフランソワ・オランド氏が大統領に就任した。ギリシャでは、緊縮財政に反対する急進派が支持を拡大している。

●対米自立を急げ!

── アメリカの徳目の崩壊に還元しようとするマレー氏の議論は、結局のところ現状肯定に陥るのではないか。

個人の自由と自助努力を尊重しようとするマレー氏の議論からは、経済政策の転換という発想は出て来ない。マレー氏は、自立・自尊を妨げるとして福祉国家論には批判的な立場をとっている。
 小泉改革に合わせて、わが国でも自己責任、自助努力がことさらに強調されるようになったが、本来自助の精神は、キリスト教価値観と不可分のものだ。明治初年にサミュエル・スマイルズの『Self Help』が『西国立志篇』として翻訳されて以来、わが国でも自助の精神の重要性が浸透していったが、宮崎学氏が指摘している通り、スマイルズの自助精神とは、キリスト教プロテスタンティズムとイングランド自由主義を柱としたものであった。
 欧米の自助の精神は、個人主義、個人の自由に最大の価値を置いており、それはわが国独自の伝統文化とは結局は相いれない。そして、市場原理主義は、同胞の安寧と幸福を念じる、日本の国体にはなじまない。

── 依然として、アメリカ流の新自由主義を信奉する日本人もいる。

日本はアメリカからの独立を急ぐ必要がある。新自由主義から脱却し、独自の経済政策に転換する必要があるからである。同時に、わが国の安全保障をアメリカに委ねることが困難になりつつあるからである。いまアメリカでは、現実主義学派を中心にオフショア・バランシングなど、新たな外交・軍事戦略が模索されている。アメリカの財政的困窮が改善される見込みは少なく、軍事費削減の要請はさらに強まっていくだろう。すでに、米国防総省は今後十年間で計約四千九百億ドルの予算削減を目指すとしおり、二〇一三会計年度から五年間で計約二千六百億ドルの国防予算を削減する方針を固めている。
 いまこそ、わが国はアメリカが古き良き伝統を失い、強い外交力を支えていた国力が衰退して、「少数支配の軍事大国化」に特化する勢力が台頭しているという認識に立って,わが国は真の日米友好の為にも対米追従外交を見直して、自立・自尊の日本を追求すべきだ。日本は国際拝金勢力のATMに堕してはならない。

Merry Chiristmas

A Christmas Song

クリスマスイブに口ずさむにふさわしい歌だ。今日の天長節を祝うためにもいい。塩、ろうそく、しゃぼん、いずれも自らの身を段々とすり減らして,味をつけたり、周りを明るくしたり、清潔にしたりする。阪田寛夫の詩は、最後までろうそくをやめません、新しいつながり、と勇気を奮い立たせる。

http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/a-candle-light.html

Kuroshio Culture and Tradition II

黒潮文明の旅をとぼとぼと続けている。67号から後をひとつのリストにしてみた。当方ブログのささやかな人生の探求である。ご一読を賜りたい。時々コメントなどを頂戴出来れば幸いである。

67 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/kuroshio-67.html

68 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/kuroshio-68.html

69 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/kuroshio-69.html

70 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/kuroshio-70.html

71 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/kuroshio-71.html

72 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/kuroshio-72.html

73 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/kuroshio-73.html

74 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/kuroshio-74.html

75 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/kuroshio-75.html

76 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/kuroshio-76.html

77 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/kuroshio-77.html

78 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/kuroshio-78.html

79 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/kuroshio-79.html

80 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/kuroshio-80.html

81 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/kuroshio-81.html

82 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/kuroshio-82.html

83 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/kuroshio-83.html

84 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/kuroshio-84.html

○の中に、数字を書くやり方がまだ判らないので○なしになっている。読者でご存じの方がおられれば,ご教示方お願いしたい

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Kuroshio 84

黒潮舟サバ二の伝搬と発展

●アイヌの舟がどんな形をしていたのか、名残の舟を求めて利尻島の海岸を巡った。車を漁港に乗り入れて、引き揚げてある漁船のいくつかが伝統の舟の形をしていることをすぐに発見することができた。アイヌ語で丸木舟のことをチップと言う。海で使われた大きな舟はイタオマチップと呼ばれた。舟敷と呼ばれる丸木舟に波を避ける羽板を縄で綴じた「板綴り舟」で、江戸時代に記録された古文書に絵が残されている。櫂と帆とを使って航行している図画も残っている。東北地方では小型の舟のことをモジップと言うがアイヌ語で小さな舟という意味である。イタオマチップの模型を収蔵している施設も北海道の内外にある。利尻島の海岸に置かれた舟は素材がプラスチックになっているが、舳先が尖って艫に向けて広がる、横幅で安定を図る構造になっていて、古い時代のチップと共通の形を残していた。利尻島の舟を見て、江戸に伝わる有名なニタリ舟のことを思い出さない訳にはいかなかった。それは風が出ればすぐに波が立ち、波が立てば高波になる東京湾で用いられた細身で剣のように細長い形で、安定した航走を見せる形の舟である。葛飾北斎の富岳百景の中の「神奈川の富士」のように大波の中を何人もの乗客を乗せて、高い波をかいくぐるかのように航走するニタリ舟の構図の版画がよく知られている。釣り船のニタリをもっと舳先を長くしたのが、チョキやウタセ(底引き網で漁をする帆船で、三本の帆柱に中国式の帆を用いたもの)と呼ばれる舟である。ウタセは、東京湾では失われてしまったが、九州の八代などにはまだ残っており、冬の間にも観光客を相手にして、帆を上げて網を引っ張り漁撈をする舟が何隻かちゃんと現役で仕事をしている。

ちなみに、明治四五年(一九一二)七月一九日午後。サンディエゴ北郊のフ
ラットロック海岸に、四国の八幡浜の保内町川之石出身の船長吉田亀三郎をリーダーとする五人(魚崎亀吉、清水金次郎、河野鹿之助、河野楽末)の姿があり、同年五月五日に住吉丸というウタセ舟で川之石港を出発してシアトル市を目指し、七六日後に目的地より南へ二〇〇〇キロ離れたサンディエゴに到着している。住吉丸の航海は、知られている限り、日本人が個人の船で自主的に成し遂げた最初の太平洋帆走横断である。大正二年にも、一五人の乗組員が長さ一五メートルほどのウタセ舟で八幡浜を出港し太平洋を横断する冒険に成功している。途中暴風雨に遭って沈没の危機にさらされながら五八日目に一万二〇〇〇キロも離れたアメリカ大陸に到達したのだ。一五人は密航者として強制送還されたが、太平洋横断を行なう者が絶えなかったことには驚かされる。

さて、日本のヨット設計技術者である故横山晃先生が、ニタリと沖縄の剥ぎ
船であるサバ二との間に共通性があることを解析している。共通点は、舟の前部で浅く後部で深く、その最深点は水線長の四分の三の位置にあること、舟の中間から前部にかけて舟の底の線が逆そりを見せていることであると指摘している。相違点は、ニタリが直線を基調として工作を簡易化していること、また船首部で逆そりがサバ二よりも誇張され、ヨットのセンターボードのように水に深く突き刺さるように鋭く前にのびる船首が付け加わって船を良く直立させるようにしている点である。アイヌの舟のチップのように最大の幅を後部に移して、舟の舳先を細身にして水中に立つようにすれば、高い波の中でも、舟が傾いても復原して立ち上がる力が強まるように、サバ二を基本にして改良した可能性があると指摘している。サバ二は船首が立てる波が極めて少ない船型であるが、ニタリはさらに船首波の低減を徹底している。横山晃先生はヨットの専門雑誌『舵』一九七六年一二月号(一六三頁)で「結局、大らかなウネリの沖縄の海でオールマイティーの要求に応えたのが『古式サバ二』で、峻烈なチョッピング・ウォーターの東京湾への適応と、江戸の華としての高速という、
二つの特殊要求を両立させたのが、「釣舟ニタリ」だったと思う。それにして
も驚くべきことは、エリアカーブを表現する3係数(排水量・長さ係数、柱形
肥痩係数、浮力中心前後位置)の数値がほとんど同じに接近している点であ
る。(中略)そこで両艇の間に脈絡があるとすれば、次の三つが考えられる。
①技術交流(技術者の交流) ②上記の三係数の最良値を見出す研究 ③その最良の三係数を一定基準に保つ手法。この②③の存在は納得しやすいのだが、①は難解である。(中略)初期の江戸は急造都市で様々な分野の専門家が全国各地から江戸に集まり、船頭や船匠は房総や伊豆から流入したと言われている。その房総や伊豆の漁民は海洋民族系(主に沖縄系)といわれ、当時の諸大名の財力を以てすれば、最新技術を身に付けた沖縄渡来の技術者(船匠)が優遇され、それが沖縄に伝われば更に優秀な船匠が江戸を目指すと言う現象は、容易に想像出来るはずだ。おそらくそのような、何らかの技術交流のルートが在ったと私は思う」と指摘している。     (つづく)

最近タイを訪れる機会があったが、チャオパヤ河の支流のノイ河の橋のたもとに係留されていた舟の形にも通じるものがあることを感じた。写真を掲載しておきたい。

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To Overcome New Liberalism

安倍新政権は新自由主義と決別せよ。

年次改革要望書に追従した小泉・竹中政治

── 総選挙が終わり、新政権が発足するが、新自由主義路線が再び強まる恐れがある。

アメリカの一部勢力は、世界中で新自由主義を浸透させようとしてきた。中南米などで極めて強引な手法がとられたことは、カナダの女性ジャーナリスト、ナオミ・クライン女史が書いた『ショック・ドクトリン』で明らかにされている。ショック・ドクトリンは「惨事便乗型資本主義」とも呼ばれるように、災害などの惨事につけ込んで新自由主義を押し付けようという荒っぽい手法だ。チリやアルゼンチンでは,政治弾圧が日常茶飯事だった。日本では、ここまでの手法はとられなかったものの、アメリカは年次改革要望書などを通じて様々な要求を突きつけた。この要求に添って、新自由主義路線を一気に推し進めようとしたのが、小泉政権であり、その中心人物が経済財政政策担当大臣などを務めた竹中平蔵氏だった。小泉・竹中によって強行された新自由主義路線は失敗だったことが明らかになったにもかかわらず,日本には依然としてその残党が大勢生き残っている。現在の危機は、こうした残党復活の動きによってもたらされている。

 小泉・竹中路線によって、郵政民営化が進められたが、その狙いは、郵便貯金と簡易保険による巨額の国民資産の私物化と外国への国民資産の移転だったのではないか。総資産量三百五十兆円に及ぶ「ゆうちょ銀行」と「かんぽ生命」がアメリカ資本の手に渡る危険性すらあったのだ。  日本に対する要求は、社会の様々な分野に及んだ。新政権の発足で再び危機が迫ろうとしているいま、改めて小泉政権下の新自由主義の展開を振り返る必要がある。
 小泉政権では、アメリカ型の企業統治を導入するために会社法が改正され、労働や医療の分野で制度改革が進められた。その推進役が経済財政諮問会議であり、同会議が策定した構造改革の基本方針は「骨太の方針」と名付けられた。小泉政権時代、同会議には民間から牛尾治朗氏、奥田碩氏、本間正明氏、吉川洋氏が起用された。

 まず、労働分野では、小泉政権下の二〇〇四年三月に製造業への派遣解禁などを含む改正労働者派遣事業法が施行された。このとき旗振り役を演じたのが、オリックスの宮内義彦氏を議長とする総合規制改革会議だった。すでに、二〇〇一年七月に総合規制改革会議は製造業への派遣解禁のために、可及的速やかに法改正を行うべきだと主張していた。驚くことに、同会議委員にはザ・アールの奥谷禮子氏、リクルートの河野栄子氏、イー・ウーマンの佐々木かをり氏と、人材関連企業のトップ三人が名を連ねていた。露骨な利益誘導だったのではないか。

── 医療分野の規制改革の旗を振ったのも、宮内氏だった。

宮内氏が議長を務めていた規制改革・民間開放推進会議は、二〇〇四年八月に「混合診療を全面解禁すべき」と主張した。混合医療とは、医療にも市場原理を導入しようという考え方に基づくものだ。健康保険法では、治療行為はすべて医療保険で給付しなければならないと定められている。しかし、「医療にも市場原理を導入せよ」いう考え方に基づいて、公的保険でカバーする医療の範囲を限定し、それ以外の医療は自己責任に基づいて市場に委ねようという主張が強まった。公的保険とそれ以外の医療を組み合わせるため、「混合診療」と呼ばれている。このときは、厚労省が抵抗して、混合診療の全面解禁を阻止、一部の例外分野に限って認めている現行制度を拡充することで決着した。
 医療の分野に市場原理が導入されることになれば、やがてわが国が誇る国民皆保険も崩壊することになるだろう。その行きつく先は、低所得者がまともな医療を受けられないアメリカのような現状だ。マイケル・ムーアが映画『シッコ(Sicko)』で描いたような、悲惨な状況が待っている。

── 規制改革・民間開放推進会議は、二〇〇四年十一月には「教育バウチャー制度」の検討を提言した。

教育バウチャーという発想は、もともとミルトン・フリードマンが提唱したもので、教育分野へ市場原理を導入するという発想だ。二〇〇六年九月に発足した安部政権が設置した教育再生会議において、実際に教育バウチャー導入が検討されたが、文部科学省から慎重論が出たことや安倍首相の辞任によって見送られた経緯がある。

新政権が新自由主義路線に回帰する危険性

── 新自由主義の導入は、地方経済を疲弊させ、共同体を破壊し、格差を拡大させた。

新自由主義を世界的に見ると、二〇〇八年のリーマン・ショックは大きな転換点となった。ヨーロッパ各国は新自由主義からの脱却を模索するようになっている。かつて「ショック・ドクトリン」により、強引に新自由主義が導入された中南米は、いまや完全に路線転換した。アメリカでも、第二次オバマ政権は新自由主義からの脱却を模索しているように見える。
 これに対して、日本では二〇〇九年の民主党への政権交代が、自民党政権が進めてきた新自由主義からの脱却が模索された。郵政民営化については,株式売却の凍結がなされた。その後国民新党や公明党が主導する形で、改正郵政民営化法成立にこぎつけたものの、郵政グループの組織見直しやユニバーサル・サービスの維持・発展に筋道を付けるにとどまった。
 民主党、社民党、国民新党の連立与党は、製造業派遣の原則禁止のみならず、「登録型派遣」の原則禁止を盛り込んだ労働者派遣法改正で合意し、二〇一〇年四月に改正案が提出された。しかし、成立しないまま時間が過ぎ、二〇一一年十一月に民主党、自民党、公明党の間で「製造業派遣の原則禁止」を削除した改正案に合意してしまった。結局骨抜きにされた法案が通過したに過ぎない。

── 鳩山首相の退陣を受けて二〇一〇年六月に発足した菅政権は、突如TPP参加を言い始めた。

TPPは農業など一次産業だけの問題ではなく、あらゆる分野の制度改革を迫るものだ。医師会などは、TPPが混合診療の全面解禁に繋がることに危機感を強めている。まさにTPPは、年次改革要望書の延長線上に位置づけられるものであり、医療、労働などの分野にとどまらず、残留農薬の規制、遺伝子組み換え食品の表示義務、BSE対応策など食の安全を守るための制度が破壊される可能性もある。

── 新政権では、様々な分野で新自由主義路線が強まる可能性がある。

小泉政権がアメリカの年次改革要望書に追従する形で新自由主義を推進したように、新政権が対米従属を強めて、アメリカの要求に屈することを阻止しなければならない。対米自立の姿勢を欠いたまま、自民党は「日米同盟の強化」を、日本維新の会は「日米同盟の深化」をそれぞれ掲げている。
 経済政策を見ると、自民党は政権公約で「大胆な規制緩和」と題して、「戦略分野ごとに企業の活動のしやすさを世界的先端にするための『国際先端テスト』を導入し、国際比較した上で規制などの国内の制度的障害を撤廃します」と謳った。新政権が再び小泉・竹中路線に回帰する危険性があるのだ。
 特に気になるのが、日本維新の会の政策だ。当初から橋下氏には新自由主義的な色彩が強かった。例えば、菅政権発足まもなくの二〇一〇年六月八日、橋下氏は「僕は競争を前面に打ち出して規制緩和をする小泉・竹中路線をさらにもっと推し進めることが今の日本には必要だと思っている」と明言している。
 日本維新の会は、「前例と既得権益に縛られない大改革(グレートリセット)」というような口当たりのいい表現を用いて、新自由主義的政策を全面に打ち出している。一体どこの国のための政策なのかといいたくなるような項目ばかりが並んでいる。
 まず、「維新八策」には、「競争力を重視する自由経済」、「イノベーション促進のための徹底した規制改革」、「TPP参加、FTA拡大」、「教育バウチャー(クーポン)制度の導入」、「民民、官民人材流動化の強化徹底した就労支援と解雇規制の緩和を含む労働市場の流動化」といった項目が掲げられている。
 この「維新八策」の理念を政策面から再整理し、国民に明確にするために作成したのが、「骨太二〇一三─二〇一六」である。小泉政権と同じ「骨太」という表現がすべてを物語っているのではないか。ここでは、政策実例として「混合診療の解禁」や「保育バウチャー制度の導入」なども盛り込まれている。さらに、当初日本維新の会は政権公約として「最低賃金制の廃止」を謳っていた。結局、「市場メカニズムを重視した最低賃金制度への改革」に改められたというが、社会の根幹に関わる規制にまで踏み込もうとしている。
 さらに、彼らは「政府と日銀の役割分担・責任の所在を再構築=日銀法の改正」を掲げている。アメリカのFRBは国営ではなく、実質的に国際金融資本家によって所有されているが、橋下氏らの狙いが国際金融資本と結託して日銀を私物化することでないことを願うばかりだ。

竹中平蔵氏の動きに注意せよ!

── 竹中平蔵氏も再び表に出てきている。

竹中氏は日本維新の会の公募選定委員長に就いただけではなく、政策策定でも影響力を行使していることが指摘されているが、フリージャーナリストの田中龍作氏は、石原慎太郎氏の次のような発言を報じていた(二〇一二年十二月一日)。http://www.janjanblog.com/archives/86162
 石原:「俺、竹中って好きじゃないんだ。あれ(竹中)が、こういうの(選挙公約を)全部書いてあるのが分かる。これ(竹中は)ね、口説の徒でしかない」。
 田中:日本をズタズタにした小泉改革と同じじゃないですか。
 石原:「だからね、あんまり竹中を信じるなって。『そりゃ止めろ』って言ったの。彼らにとって神様みたいになってる。コンサルタントの堺屋太一なんか首かしげてる。発言力を認められないのかなあ。これ(竹中)に対しては批判的ですよ」。
 橋下氏が大阪府知事選に出馬する直前、堺屋氏や人材派遣会社パソナの南部靖之氏らが、橋下氏を支援する勝手連を旗揚げし、橋下氏はこのような人たちを介して竹中氏と関わるようになったと報じられている。さらに、橋下氏が大阪府知事に当選した翌年の二〇〇九年、橋下氏は世界経済フォーラム(WEF、通称ダボス会議)から「ヤング・グルーバル・リーダーズ」に選ばれている。竹中氏はWEFの唯一日本人の理事であり、WEFを活用して橋下氏に政権の振り付けをしていくだろうという見方もある。一方、橋下氏は二〇一二年一月末に上京し、オリックスの宮内氏ら政財界の要人と相次いで会談したともいう。

── 新政権が新自由主義路線に向かうのをどう阻止したらいいのか。

対米追従路線に歯止めをかけ、独自の経済政策を確立することにつきる。日本未来の党は、「日本は、自立と共生の理念の下で、自ら主張し信頼を築く外交を展開しなければならず、独立国家としての責任に基づいた日米関係を構築しなければなりません」と、自民党や日本維新の会の対米追従路線とは一線を画している。 また、TPP交渉入りについても、党として明確に反対の立場を示している。TPPを断固拒否し、新自由主義に抵抗する政治勢力が結集する必要がある。

わが国の伝統的価値観に回帰せよ

新自由主義との戦いとは、経済政策の戦いであるだけではなく、思想の戦いでもある。
 新自由主義の思想は、企業の自由が保障されるときに、人間の能力が最大限発揮され、生産要素が最も効率化するという、根拠のない、非科学的な信仰なのだ。あらゆる公共分野を私有化して、全てのものを市場を通じて取り引きするという制度を作ることが理想とされた。
 新自由主義では、社会的な共通資本の存在が全面的に否定される。宇沢弘文教授の定義によると、社会的共通資本には、自然環境(大気、森林、河川、水、土壌など)、社会的インフラストラクチャー(道路、交通機関、上下水道、電力、ガスなど)、制度資本(教育、医療、司法、金融制度など)の三つがあるが、これらの領域全てに市場原理が導入されてしまうことになる。
 安全性が優先される社会的インフラにおいても、効率が優先されるようになってしまう。

── 中央自動車道・笹子トンネルの天井板崩落事故の背景にも、道路公団の民営化による経営効率優先があるのではないか。

道路公団は小泉政権時代の二〇〇五年十月に廃止され、NEXCO各社に分割民営化がなされた。民営化の理想論を骨抜きにした立役者が猪瀬直樹氏だったのではないか。NEXCOになってから、安全性よりも経営効率優先の考えが強まり、保全点検が手薄になったのではないか。
 新自由主義は、個人のアトム化を推し進める。本来、国家と個人の間には、自治会、同窓会、青年団、婦人会、労働組合といった中間団体が存在する。新自由主義の浸透とともに、これらの中間団体が次々と弱体化し、資本の原理に抵抗するものがなくなっていった。個人情報保護のような法律も、この流れに拍車をかけた。同窓会や郷友会の名簿作りが批判の対象となり、人間の絆が分断された。つまり、中間団体の消滅、弱体化によって、支配する者と支配されるものとの直接的関係が強まっていくのだ。新自由主義を推し進めようとしている支配勢力は、支配される側を隷属化させるのだ。

── 今こそ、新自由主義に対して思想的に抵抗することが必要だ。

日本の伝統的価値観と新自由主義は相容れないことを認識すべきだ。日本人の伝統的経済観は、決して「カネが全て」というようなものではなく、その根底にはコメ作りなど生産の思想、産霊(むすび)の思想がある。同時に、日本社会の伝統である共同体論理、相互扶助、和や結(ゆ)いの精神といった価値観こそが、日本の強みのはずだ。こうした伝統的価値観を強化していく政策を打ち出す必要がある。

Menam Noi

当方ブログは海外旅行で不在にしていたが、健康でも害したからブログを書いていないのではないかと心配したむきもあった。元気ですよと申し上げて感謝しながら、バンコク郊外になるアユタヤ近くのノイ河の川岸の写真を載せて不在証明にしたい。

ノイ河は大河であるチャオパヤ河の支流である。深い川で乾期も相当の水量がある。川岸には歴史と栄華をうかがわせる建物が残っている。船の形も相当洗練されている。
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Policy Maker

http://www.janjanblog.com/archives/87158

http://www.janjanblog.com/archives/86835

Disturbance and Election

http://www.janjanblog.com/archives/87047

Reuters Opion Poll

ロイター通信によるオンラインの意見調査である。

http://jp.reuters.com/news/globalcoverage/politics

日本の大マスコミの報道とは異なり、日本未来の党が2位になっているのが特徴である。

Independent Japan

政府・日銀が、バブル景気の過熱をハードランディングで切り捨てた結果、未曾有の不景気におちいってしまったが、以来、日本は衰退の坂を転げ落ちるかのようになった。当時の自民党政権は、外圧がないと意思決定ができない思考停止状況に陥っており、米国のクリントン政権は、しびれを切らしていた。政府は憲法を盾にとって自衛隊の海外派兵を拒否して、その代わりに巨額の御用金を支払った。湾岸戦争はその典型的な事例であったが、巨額の軍事費用を負担したにもかかわらず、何の評価もされなかった。

そもそも、バブル自体が、日本の無策によって発生したものであった。1987年に、ウォール街でブラックマンデーと呼ばれる株の大暴落が起きて、流動性の危機が発生して資金繰りが困難となり、そこで米国側は、日本に資金注入を求めた。竹下内閣はこれに応じて、日銀の公定歩合を就任時の2.5%に据え置いて、日本からのカネ、ジャパンマネーが高金利を求めてウォール街に還流するように仕向けたのである。要すれば、これが自衛隊の海外派兵を拒否した代償であった。自分の国の大損をしてまでも、米国の経済を救わなければならなかったのは、安全保障の面で借りがあったからである。バブル崩壊後の1998年の年初に「第二の敗戦」という言葉が流行した。文藝評論家の江藤淳氏が、文藝春秋に書いた記事の題名であった。当時は、この第二の敗戦の意味するものは、一般的には経済的に競争に負けたとするものであったが、今から考えると、江藤氏の言う第二の敗戦は、そんなものではなく、日米問題、沖縄米軍基地を巡る日米関係論に係わる外交と安全保障に係わる問題で、米国に負けたことであった。日本は、冷戦終結と同時に新しい可能性、つまり、対米独立、自主防衛の可能性があったにもかかわらず、第二の敗戦となったと、江藤淳氏は指摘したのだ。

冷戦終結後、自民党長期単独政権が終焉して、細川非自民連立政権が成立するが、それも内部から崩壊して,今度は自民党主導の「自社さ」連立政権・村山政権が誕生する。その後、期待されつつ成立した自民党中心の橋本内閣だったが、平成8年4月「橋本・クリントン会談」で「日米防衛協力指針」、いわゆるガイドラインが取り決められた。クリントン政権は、怒鳴りだしたのである。江藤淳は、これを第二の敗戦とした。何故なら、このガイドラインは、対米自立、自主防衛の可能性を探るというよりも、むしろ逆に米国の軍隊への依存を更に拡大するものであったからである。後方支援活動に、民間能力を活用することを含めて、日本の軍事的な空間が全面的にアメリカの軍事力の空間に組み込まれたことになってしまった。在日米軍が固定化されるどころか拡大してしまった。これが、第二の敗戦であったと江藤淳氏は、論じたのである。

もう想像できることであるが、沖縄の米軍基地海外移転論は、江藤淳氏の第二の敗戦論の延長線上にある。政権交代によって、米国の軍事力の影響を低下させて、自主防衛、日本独立を目指す絶好のタイミングとして捉えられたが、鳩山由紀夫首相は、自らが登用した外務大臣と防衛大臣に裏切られて、自滅するが、その際に、民主党の幹事長の小沢一郎を道連れにして政権を投げ出した。江藤にしても、鳩山にしても小沢にしても、反米主義者ではない。むしろ親米派の系譜にあり、江藤淳には、プリンストン大学に留学したときの記録を「アメリカと私」と題して出版しているが、それを見る限り、反米の要素はない。小沢も、ジョン万次郎の会を主催しており、憲政記念館における集会でも、星条旗をバックにして演説をするなど、湾岸戦争当時においても、米国の軍事費の巨額の負担を難なく受け入れるなど、決して対立的な反米の要素はなかった。鳩山由紀夫議員に至っては、スタンフォード大学への米国留学の経験があり、生活様式などみるとアメリカ文化への憧れすら感じられる風である。しかし、冷戦が終わり、米国は、空前絶後の超大国になった頃から、憲法改正と日本の独立を求める政治家を排除するようになった。親米派で米国文化を理解を示しても、むしろ、植民地主義的な従米を要求するようになり、日本国家の独立と国家主権のいかんにかかわらず、米軍基地を日本国内に維持しようとする帝国主義の色彩を強めた。そうしたなかで、江藤淳氏や、小沢一郎議員は、反米主義者や、裏切り者に仕立て上げられていったのではないだろうか。小沢一郎議員が検察やマスコミに狙われた、その背後には、米国の一部勢力が見え隠れする。
第二の敗戦の原因は、直接には、日本国の尊厳を冒しかねない憲法の存在である。国防をおろそかにする国は独立国としては存在できないのであるが、日本は平和憲法を盾に取って、アメリカの安全保障にただ乗りすることによって、「経済大国」の反映を勝ち取ったので、平和憲法が国家を興隆させたという、根拠のない神話ができてしまった。ところが,真実の姿は、日本が独立したとは表面のことで、米国が日本を支えて国家機能を維持することができたが、ソ連という仮想敵国が消滅した瞬間から、日本は米国の経済的な競争相手となり,米国は対日貿易戦争を仕掛けた。日本という擬似国家が政策を変更した米国に衝突して負けたのが、第二の敗戦と呼ばれるものである。バブルがはじけたときに日本はすぐさま方向転換をすべきであったが、できなかったことが、日本を凋落の道に向かわせた。

方向転換ができなかった理由は,政治の堕落、感度の低下にあったことは論を俟たない。自民党政府は、この不況を単なる不況として捉えて処理して、第二の敗戦という、世界情勢の変化に根源を求める思考をすることができなかった。
1993年以降、衆議院選挙が二回、参議院選挙が二回、東京都知事選挙が二回あったが、自民党はその全てで負けており、野党の分裂でようやく自分の権力を維持している体たらくであったから、安全保障に関する政策を変更することなどは思いもよらなかったことであった。日本は、占領憲法を守るために、日本の没落に目をつぶり、自立・自尊の日本を失ったのである。

戦後政治について、占領直後から講和条約に至るまでの過程を、簡潔に観察してみたい。激動する国際情勢の中で、日本の政治経済の成り立ちを,簡潔に鳥瞰して、その内容と問題点をたたき込んで置くことは、企業の経営・運営上にも必須の教養である。それがなければ劣化する政治経済を克服することはできない。

第一章 無条件降伏の戦争指導 

憲法を含めて戦後政治の体制の大枠は、米国の日本占領中につくられた。サンフランシスコで講和条約が締結され、その占領中につくられた枠組の修正が試みられたが失敗した。占領中に米国によってつくられた制度などが、日本自身が選びとった制度のようになっていった。日本の現在の制度の根幹は、占領時期に求められるので、占領期のいわゆる改革がどういうものであったかを理解することが必要であり、また、その占領の背後にあった米国の戦争指導方針を理解することが必須の条件である。

米国の戦争指導方針は、一言で言えば、フランクリン・ルーズベルトが編み出した無条件降伏であった。国家による無条件降伏と言う概念は、第二次世界大戦で初めて生まれた概念であるが、核兵器の時代になって、核兵器保有国を無条件降伏に追い込むことができなくなって、その無意味さが露呈した。ゴルバチョフのソ連がいかに弱体化しても、核保有国であるから、ブッシュ大統領も手をこまねいて見ている以外に手立てはなかったのであるが、日本は、たった一回の実験に使われることになった。

ルーズベルト大統領の無条件降伏という戦争指導は、ウィルソン主義の失敗を避けるために修正したものである。ウィルソン大統領は、米国世論を第一次世界大戦で参戦にまで盛り上げながら、権力政治むき出しの講和会議となり、米国民の失望をかい、孤立主義に走ってしまったことである。また、ウィルソン大統領は、米国の指導力を発揮しようとせず、負けたドイツにも涵養であったことだ。ウィルソン大統領の下で、フランクリン・ルーズベルトは、海軍次官をしているが、ウィルソンの理想を達成するには、パワーという牙が必要であるということであった。ルーズベルトの信条は、パワーとは世論の団結から生まれ、世論が一枚岩になればできないことはないというのが,野心家ルーズベルトの信条であった。

民主主義国家の戦意を鼓舞するには、善と悪との戦いに仕上げて、悪の権化を粉砕して、戦後処理の過程で徹底的に処罰して,将来の見せしめにする。そのために発案されたのが、無条件降伏であった。一枚岩になった世論を梃子にして、国際連合、自由貿易、ブレトン・ウッズ体制などを想定していた。ずば抜けて強い通貨としてのドルが必要で、米国なしでは機能しない世界新秩序をルーズベルトはつくろうとしたのである。ずば抜けて強い保安官の役割を担った。

無条件降伏の概念を最初に発表したのは、1943年にチャーチルとカサブランカで会談したときである。軍隊の無条件降伏の概念はあったが、国家の無条件降伏はなかった。無条件降伏を要求すれば、負け戦の側が徹底抗戦をして、先頭が長引くことになることも予想され、ヤルタ会談でチャーチルが口に出したとされるが、ルーズベルトは、膾炙しなかった。もちろん東郷参謀本部の軍人には理解できることであった。硫黄島では、守備隊2万三千人が二百人を残して玉砕したが、米軍の死傷者も二万三千人であった。軍隊では、戦闘能力がなくなることを1とするから、互角の戦いであった。統合参謀本部のマーシャル議長は毒ガスの使用を考えるが、ルーズベルトは、4月12日に死亡するまで、無条件降伏の修正を一切考えていない。

日本側でも、特に陸軍は無条件降伏に応じるわけがない。ソ連が、4月5日に,日ソ不可侵条約を一年後の満期を共に破棄すると通告してきており、しかも、ソ連軍は極東への移動を開始していいたから、対日参戦の意図が読めた。5月2日にベルリンが陥落して、陸軍はようやくソ連との交渉に同意した。スターリンは、2月のヤルタ会談で、ポーランドの東三分の一と、日本の千島、樺太、大連を手に入れるという譲歩を,ルーズベルトから勝ちとっていた。絶望的になった日本は、スターリンとの交渉を始める。無条件降伏という米国の戦争方針が、日本の早期降伏を妨げ,スターリンが漁夫の利を締めるという可能性が明らかになり、無条件降伏の修正を主張したのが、国務長官代理で、前駐日大使のジョセフ・グルーであった。当時のステティニアス国務長官は、国際連合の設立に忙殺されていた。グルーは、スティムソン陸軍長官を、日本は、大正デモクラシー時代の指導者を復活させればよく、天皇制を破壊すれば、日本はよりどころを失って崩壊するという伝統的な終戦構想で説得することに成功している。グルーは、天皇制維持という条件付の降伏について、トルーマン大統領の了解を取り付けて、部下のドゥーマンにポツダム宣言の初稿を書くように命じている。立憲君主制を許すという条項をスティムソンとグルーが了承したのが、5月26日であった。6月いっぱい、トルーマン政権は、無条件降伏の主張を抑えたが、それは、アラモゴードにおける原爆実験の成功か否かを見据えようとしていたからである。7月上旬に国務長官がバーンズになり,ニューディーラーの次官補を据えた。アチソンは、日本を共和国にすべきとする人物であった。ポツダム宣言の最終稿からは、スティムソンもグルーも除外され、7月26日にポツダム宣言が発表される。グルーは8月に、スティムソンは9月に引退する。ポツダム宣言は、戦後史の中では、天皇の護持が許されたとしており、外務省も、条件降伏だと主張したいたが、50年6月のダレス来日以来、無条件降伏と修正している。一番肝心なことについて、ポツダム宣言は明言を避けていた可能性がある。二股膏薬、ダブルオプションであった可能性はある。

「原爆もソ連の参戦もなかったポツダムにおいてより、なぜわれわれが、ソフトピースの方に更に行かなければならないのか」と、バーンズ長官が言葉を残している。8月6日に、広島に原爆が投下され,その二日後にソ連が宣戦布告をして、長崎に原爆が投下される。8月10日付けで、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、帝国政府は右宣言を受諾する」と回答する。ポツダム宣言受諾に軍配をあげられたご聖断の結果である。この回答に対して、「降伏の瞬間から,天皇と日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官に従属する」「最終的な日本政府の形態は,ポツダム宣言に従って,日本国民の自由に表明される意志により樹立される」と回答してきた。12日に日本に到着して、従属とは何かが議論になったが、14日には、天皇陛下は、御前会議を招集され、宣言の受諾を確認された。天皇陛下の介入のみが戦争を終結できた。日本の皇室の安泰について、米国政府は何の約束もしておらず、法律的には、存続も廃止も両方可能であった。宣言は、皇室を廃止すると脅しをかけて武装解除と占領改革を推進することを可能にしたのである。降伏後の交渉で確保されたのであり、日本陸軍のポツダム宣言に対する不信は正しかったのである。

第二章 スウィンク150の4

8月14日に、スイス政府を通じて、東京地方の占領を避けることと、日本軍の武装解除は、日本政府の責任で行うことを米国政府に要請している。8月22日には、終戦処理会議を内閣に設けている。米軍に東京にはいらないこと、軍票を発行しないことなどを、要求している。日本政府はマニラのマッカーサー将軍に、上記の要求をする電信を送っているが返事はなかった。占領軍の先遣部隊は、8月28日に厚木に到着して、マッカーサー自身は30日にバターン号という輸送機で到着している。横浜のグランドホテルで、執務を開始しているが、その間に、東条英機元首相を逮捕している。ポツダム宣言の戦争犯罪はジュネーブ条約の戦争犯罪ではないことが判明した。9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ上で降伏文書の調印が行われた。9月3日に重光は、マッカーサーに談判して、直接の軍政を敷くことをあきらめさせている。降伏後初期対日政策が、マッカーサーから日本側に密かに手交されたのが、9月下旬であった。その文書が、スウィンク15-の4と呼ばれる。スウィンクとは、1944年に各省の次官で構成される国務・陸軍・海軍連絡委員会を指す。

 スウィンク150の4の最も過激なものが、追放―パージであった。アングロサクソンの社会では、人間関係をいじくり回すことをソーシャルエンジニアリングと呼んで忌み嫌うが、それを日本で行うこととしたのである。日本の政治構造を根っこから引き抜いて,社会主義のイデオロギーが入っていて、米国内ではとても実行できないことを、実行しようとした。近年、日米構造協議が通商代表部と商務省で、ごり押しが見られるが、占領に伴うことであるから、実に過激なものである。財務長官のモーゲンソーが主張したドイツの牧場国家への残酷な計画の一部などが盛り込まれていた。一方では、ポツダム宣言を逸脱しているという意見もあった。今になって天皇制を廃止するのは、裏切りになると主張するグルーの配下の日本通もいたし、アチソンのミラー特別補佐官のように、ポツダム宣言が軍隊の無条件降伏を要求したことは認めるが、その後の両政府のノートの交換によって無効となったように見えると述べた者もある。

第三章 衝撃と歴史の書き換え

重光外務大臣は、横浜のグランドホテルを訪ねて、マッカーサーに軍政をやめるように進言したことは既に述べたが、それから二週間後に、密かに更迭された。重光はA級戦犯として逮捕され巣鴨拘置所に入れられている。マッカーサーに飛ばされとの推測もあるが、モスクワ大使時代にソ連政府の不況を買っていたと言われ、ソ連が戦犯に指名したとの説もある。後任は吉田茂である。
9月17日に、皇居の堀端にある第一生命ビルが総司令部として、接収された。吉田外務大臣は、「天皇陛下の訪問をうけますか」とマッカーサーに聞いている。「天皇をエンバラスしたり、ヒュミリエイトする気はない」と吉田外務大臣に述べたのは、貴重な情報となった。スウィンクがその一週間後に伝達されている。それから10日経って、天皇陛下は、米国大使館にマッカーサーを訪問した。これ以降、天皇の無責任説が定着する。戦争責任を認めたりすれば、国務省の追求の手が厳しくなることは火を見るより明らかだった。陛下の責任を否定せざるを得ない理由は、無条件降伏の概念が無茶で、負けた国の戦争責任の指導者は瀬平和に対する罪で戦勝国によって処罰されると言う概念だからである。訪問の翌日、写真を新聞社に配布したが、内務省は検閲で発禁にしたが、GHQはすかさず解除している。占領下の日本は、ポツダム政令と呼ばれるScapin――SCAP Instructionの絶対命令か、GHQの指令で国会がつくった法律で動いた。10月4日には、政治犯の即時釈放、思想警察の全廃、内務大臣と検察首脳の罷免、弾圧法規の撤廃が命令された。内閣は辞職したが、後任は幣原喜重郎で、マッカーサーが選んだ首相である。吉田外務大臣がアグレマンを取りに行っている。10月25日には、バチカンを含む6つの中立国と日本とが外交関係を断絶するよう占領軍は命令した。日本は外交を行う権利を喪失して属国となった。連合軍最高司令官の政治顧問が、駐日大使の役割をして国務省の役人が出向した。グルーは、ドゥーマンを任命するつもりだったが、失脚したために、バーンズ国務長官は,中国通のジョージ・アチソンを任命した。マッカーサーを監視するために東京に派遣したと言われる。10月に、エマーソンとEHノーマンが、直接府中刑務所に出向いて、政治犯16人を釈放している。カナダ人のノーマンは、日本の歴史を専門とする学者であったが、理論をそのまま実践することで、日本共産党の理論である講座派の理論を虎の巻にした。1932年にスターリンが天皇制打倒のテーゼを出し,二段革命論を主張するようになったが、ノーマンは日本叩きの代弁者となった。統合参謀本部のケージス中佐もノーマンの本を聖書のようにしていたし、オーエンラティモアは、ルーズベルトに影響力があり、中国共産党びいきで、日本の降伏直前に天皇断首を唱える過激さであったが、ノーマンの本を虎の巻にしていた。ノーマンの事務所に共産党の幹部は入り浸りとなり、ノーマンは、その情報を下に、A級戦犯の起訴状を書いている。近衛文麿を自殺に追いやったのもノーマンである。

共産党幹部は、府中刑務所をでるなり、連合軍は解放軍だと主張している。総司令部はこれを黙認している。生産と経営とを乗っ取らせる生産管理運動を開始したのも総司令部で、共産党の労働組合の連合組織である産別会議を総司令部は奨励した、瞬く間に、組合員が400万人となっている。ノーマンには、後日談があり、朝鮮戦争と冷戦で、統一戦線の世界が逆転して、マッカーシー旋風が吹き荒れるとカナダ人であったノーマンはカナダの駐エジプト大使となっていたが、自殺においこまれることになった。ノーマン著の日本の兵士と農民、と題する本は、岩波書店から日本語に翻訳されて出版されていた。日本語に翻訳した大窪氏は、戦後長い間カナダ大使館の政治顧問であった。

マッカーサー将軍には、三つの縦糸があったとされる。その第一は、歴史に名を残そうとする野心である。第二は、米国のManifest Destiny(明示された定め)、つまり、帝国主義的な拡張主義を裏付けるイデオロギーで、フィリピン総督であった父親と自身のフィリピン統治の経験から来るものである。第三は、共和党系の保守主義者であり、ルーズベルトとニューディーラーなどの左翼とは敵対関係にあったことである。戦艦ミズーリ上での降伏調印式の締めくくりに演説をしているが、二期目のリンカーンの就任演説を下敷きにした者と言われ、南北戦争の終結に向かう米国民に、過去の敵に寛大になるよう呼びかけた内容であり、参加した重光外相と加瀬俊一(外務省情報局報道部長)は、これを感知して、宮中に即刻報告している。マッカーサーは、1930年にハーバート・フーバー大統領によって陸軍参謀長に任命されているが、失業した軍人が起こしたデモを催涙弾で鎮圧したことから評判が悪くなり、ルーズベルト大統領と仲違いになる。コレヒドールの孤軍奮戦で一夜で英雄になり、ルーズベルトは、海軍のニミッツと陸軍のマッカーサーと二本立ての指揮系統にして処遇せざるを得なくなった。マッカーサーは共和党の大統領候補になることを真剣に考えたこともあったほど、ルーズベルトに対立していた。マッカーサーは、マニラにいたときから、天皇陛下を救わなければならないと決意していたとの証言もある。

第四章 憲法改正

敗戦後の日本政府の至上命令は、皇室の存続であった。ポツダム宣言についての日本政府の解釈にしがみついて,それを米国政府に要求することであった。、これ以外は大幅に譲歩して,それと引き替えに維持する戦術であった。憲法改正は天皇の大権に変更を加えるもんであるが、マッカーサーは、米国本国から特別指令が届く前に、改憲を促している。9月15日には、東久邇首相に最初の提案があり、10月4日には、近衛文麿に話している。近衛文麿は、内大臣府御用掛に任命され、改憲に着手している。近衛は、陸軍省と国務省の軋轢の犠牲となった。幣原首相は、マッカーサーの提案をけしからんことだとひょうしたが、いやいやながら、内閣に憲法問題調査委員会を設置して松本蒸治を委員長に任命している。幣原内閣で一番強行に反対したのは吉田茂外務大臣であったが、後に、新憲法擁護に回ったので、反対した当時の記録がほとんどなく、いかなる理由で吉田が立場を変えたのかは、戦後史の中での重要な問題点として残っている。

憲法改正をせよとの指令であるスウィンク228がワシントンから到着したのは、1946年の1月11日である。マッカーサーは、憲法に反対する「階級」を追放で取り払い、中道政党を創り上げて、自主的に憲法を採択させることを考えていた。戦後最初の総選挙は、憲法改正への人民投票となった。追放は、1946年1月4日のポツダム指令によって行われた。追放は、150万人に書類提出を命じて、21万人を公職から追放したとするが、正確な数字もない杜撰なものである。1月24日、幣原首相は、マッカーサーを訪問した。マッカーサーは、天皇制は日本国民の統一の象徴として維持すること、憲法に戦争を放棄する条項を加えることについて決定している。幣原は、ケロッグ・ブリアン不戦条約のようなものを国際公約として宣言することを話して、マッカーサーは涙を流して賛成したという。翌日、マッカーサーは統合参謀本部に長文の電信を送っている。「天皇に対する犯罪追求の可能性に関して・・調査が行われた。明確で実質的な証拠は全く見いだすことができなかった・・。もし、彼を裁判にかけるとすれば、占領計画に大きな変更が必要になる。したがって、裁判を実施する前に周到な準備を完了すべきである。彼を起訴すれば日本人の間で巨大な動揺が起き、その結果はいかに過大評価してもしきれない。彼は日本国民を統合する象徴である。彼を処刑すれば民族が分解するであろう。殆ど全部の日本人が彼を社会的な元首として尊敬し、その正否はともかく、ポツダム合意は彼を天皇として維持する意図であったと信じている。(これに反する)連合国の合意を彼等は裏切りと解釈するであろう・・・最小限百万の軍隊を無期限に駐留することが必要になるかもしれない。」と書いている。ところが、幣原は、閣内の意見統一ができず、2月1日に松本草案が新聞にすっぱ抜かれ、日本人のだらだらはこれ以上許せないとしたマッカーサーは、2月3日に民政局に草案の起草を命令している。その際の三原則は、国民統一の象徴として維持すること、戦争を放棄すること、華族制度を廃止すること、であった。草案は12日に完成して、13日には、ホイットニー准将(民政局長)、ケージス大佐他二人が吉田外務大臣、松本大臣、白州次郎に草案の受諾を迫っている。

4月10日に新憲法に対する人民投票になる総選挙が行われ鳩山一郎の自由党が第1党になるが、直後に追放され、第一次吉田内閣が始まる。帝国議会の最後の第九十議会が6月20日に始まったが、国体明徴運動で追放された美濃部達吉博士は、国体の擁護のために徒手空拳で立ち上がっている。吉田総理は、マッカーサーを代弁して、日本国民の意志にもとずいたものであるとして、第九条については自衛権をも放棄したと述べている。

貴族院は10月6日に、衆議院は七日に新憲法を採択している。忠実なる日本人は、天皇陛下を救うために憲法改正を受け入れたのである。

第五章

戦後の政治運動は、旧政友会の代議士の間で新党運動としてはじまり、その中心人物が鳩山一郎であった。11月には自由党が創設された。軍部の宣伝機関だった民政党は壊滅的だった。戦後初の総選挙で,左旋回をさせるために、徹底的に追放が行われた。共産党と左派社会党だけが日本のリベラルと考えるほどのGHQの過激さであった。1947年の2月1日のゼネストが転回点となり、GHQは共産党を利用していただけであることが明らかになる。マッカーサーは、芦田均を追放せずに、民主党の総裁に据えている。第二回総選挙では社会党が第1党となり、片山哲が首相になる。世はマルクス主義一辺倒で,丸山真男の全盛時代となる。かろうじての自主性は文化と経済だけである。雑誌心がそのひとつであった。

1947年3月にトルーマンドクトリンが出され、米国では戦後政策の見直しが始まっていた。ジョージ・マーシャルが国務長官となり、ジョージ・ケナンを初代の国務省政策企画部長に据えた。ケナンが、Xのペンネームで、封じ込め政策についてフォーリンアフェアズ誌に寄稿した記事は有名であるが、力の均衡による政策である。ケナンのいう力とは政治的な力であって、イデオロギーの正反対であった。ケナンは、ルーズベルトと、ニューディーラーのイデオロギーとの決定的な批判者であった。ケナンほど、スウィンク150の4を批判した者はいない。リアリズムの中核にあるものは、主権国家とその背後に或る特殊な歴史に対する厳粛な態度である。ルーズベルトの唱えた最終の平和など求めてはならないとケナンは主張する。マッカーサーと国務省の立場が、ケナンの登場によって逆転した。ケナンは、48年4月に訪日しているが、占領行政の過激さに驚いている。パージを全体主義的と批判している。日本の工場施設が,中国共産党のために、船積みされている実態をこきおろし、日本語と華族制度の無意味な維持繰り回しも批判している。東京裁判についても,続けていることにいらだった反応をしている。東京に着いたケナンと陸軍次官は、マッカーサーと会見して再軍備の話を持ち出したが、マッカーサーは怒りを隠さずに、再軍備反対を主張した。再軍備に反対しながら、日本の早期講和と独立が緊急の課題だと主張した。ケナンは、ソ連が日本を採らなければ済む話で、米国が占領を継続する必要はなかった。例外は沖縄だけだった。ケナンは後に、アメリカはその逆をやったのではないか、アメリカが先に日本をとり、ソ連が朝鮮半島を採ろうとして、朝鮮戦争が始まったと推測している。

第六章

マッカーサーは逆コースに反対であったとする説があるが、正確ではない。マッカーサーはつまみ食いをしたのである。社会党を擁護する目的があったから、産別潰し、レッドパージを行い、世界が冷戦になり、両極化するにつれて、中道を守る為に社会党を補強しようとした。マッカーサーの憲法には敵が三つあった。ひとつは、ケナンであり、一つは再軍備を要求する統合参謀本部で、もうひとつが、新憲法に反対した「保守反動」の吉田茂であった。

第七章

マッカーサーの占領政策には一貫性がない。寛容と過激が入り交じっている。天皇処刑に反対して寛大な処置をとるが、パージについては民生局の意見を入れて、大量に追放をしている。吉田は、選挙管理内閣の総理になってはいたが、民政局の吉田いびりは続いていた。1949年2月にロイヤル陸軍長官が訪日してマッカーサーの説得を試みるが、日本非武装化の線を譲ろうとはしなかったどころか、米国が日本を永遠に防衛する義務があると持論を開陳した。二月末にマッカーサーは,日本は東洋のスイスになれと檄を飛ばしているが、これは、統合参謀本部に対するマッカーサーの当てつけの発言であった。
吉田の民自党が倍増して、芦田の民主党は激減、社会党は二桁に転落、共産党は倍増した。マッカーサーは選挙の後で、手のひらを返すように吉田と関係を改善している。

第八章 マッカーサーと吉田の妥協

マッカーサーにとっては、新憲法を守ることが全ての出発点である。マッカーサーは護憲になるワシントンの指令だけを実施した。マッカーサーの一存で、パージが延長されて、追放された政治家は、講和条約交渉から閉め出された。ニューディーラー達は吉田を虫けらのように嫌っていた。マッカーサーは、講和条約に憲法を書き入れることが最終目的となった。日本が二度と戦争ができないように,ある種の革命史観が働いたかのようである。追放は全て非武装化の名目で行われた。敵は個人ではなく社会構造であった。罪のない人間は追放できないから、超国家主義者、軍国主義者のラベルを貼ることになる。

間接統治とは、官僚を温存することになった。主権の全部はマッカーサーにあったから、直接統治を間接統治に見せかけただけであった。占領下の権力の序列は、GHQが頂上で、官僚がその下、一番下に政治家がいたといっても言い過ぎではない。戦後の日本で官僚が強いのは、占領政策で、職業政治家が追放で骨抜きにされて、官僚が戦前の状態で温存されたからである。1949年の選挙で、吉田学校を造り官僚政治家の増産にも手がけている。占領中の日本には民主化はあったが、民主主義はなかった。

第九章 サンフランシスコ講和会議

日米関係の枠組みは、まず、スウィンク150の4で始まったが、その後、ケナンが作成したNSC13/2で逆コースが始まるが、その「逆コース」をマッカーサーが反対する枠組みとなった。これが第一の枠組みである。第二の枠組みはサンフランシスコ講和会議である。ここで、講和条約と安保条約が締結された。日本では、安保条約には,鳩山も,社会党も不満で、要すれば大多数が不満であった。これが、1960年の条約改定につながっていく。

米国の友好国との関係には、三つの分類ができる。第一は、完全に平等で相互的な同盟関係である。これを、フランスのドゴールの名前にちなんで、「ゴーリスト・オプション」と呼ぶが、米仏関係の理想とした同盟関係である。核武装をした英仏だけが、米国とゴーリストオプションを選択できるのであって、北大西洋条約の下では、米英仏は相互依存の関係になるとして、誰がソ連に攻撃されても、他の二国は自分が攻撃されたと同じように対応する関係である。
第二は、米独関係である。西ドイツのアデナウアーが築いた関係であり、西ドイツは通常兵器で完全に武装しており、ヨーロッパの中では,北大西洋条約の同盟国と,軍事的にも、相互援助を行うことができる。米軍が,ヨーロッパの中で攻撃を受ければ,ドイツ軍は応援する義務がある。ケナンなどは、このアデナウアーの選択肢を日本に採択させようとしたが、「日本」は憲法を盾にして断ったのである。吉田は、アデナウアー並みの軍事的な貢献を拒否しながら、アデナウアー並みの名誉と平等を要求した。言わば、名誉あるただ乗りを要求して、それに対する制裁として、名誉なきただ乗りが押しつけられた。この第三の選択肢が、1951年サンフランシスコで締結された安保条約である。これは実質的に占領の継続であり、日本は保護国となったから、同盟関係ではない。この制裁に対するはんどうが1960年の安保騒動である。あの憲法では名誉あるただ乗りしかないという、吉田の執念と言い分で、条約改正を米国は受け入れることになる。

日本に対する講和条約についての米国政府の構想は、三段階で発展した。最初は、制裁的な占領という講和が、考えられた。無条件降伏論の延長上にあるもので、連合国の共同監視の下で、日本を25年間、中立・非武装化しようとした。これは、米ソの友好関係を前提としていたから、冷戦が表にでてトルーマンドクトリンが発表される頃には立ち消えた。第二段階が、ケナンの日本の中立化と引き替えに,ソ連の朝鮮半島からの撤退を引き出そうとするものである。この中立化には、武装中立も含まれていた。マッカーサーの東洋のスイス構想は、この時期の発想であるが、米軍の展開を沖縄に限定すれば、ソ連が日本を脅かす野心に対処出来ると考えていた。しかし、米ソの緊張がいよいよ高まる中で、日本は米国の軍事態勢に組み込まれる可能性が高まった。
ケナンのNSC13/2は、国務省と国防省との折り合いがつかないために、時間稼ぎの内容となっていたが、国務省は再軍備に乗り気ではなく、国防省は日本を守るために永遠に日本に駐留する気はなかった。1949年1月、マーシャル国務長官が辞任して、アチソンに譲り、ケナンも辞職した。4月には、北大西洋条約が調印されて、中国人民解放軍が揚子江を渡って、国民党政府の崩壊は時間の問題となっていた。日本では、1月の総選挙で占領政策に抵抗した吉田と共産党が大勝利していた。武力闘争すらの始まりも見られた。米国内では、講和を巡って省庁間の対立があったが、ペンタゴンは日本の独立に絶対反対で、できない講和案を提案している。軍政下にあれば、「日本を言いなりにできる」としているが、これは,ソ連に対する戦略的な攻撃を日本の基地から行うことを指すのである。マッカーサーは、ペンタゴンを帝国主義的と避難したこともある。トルーマンも講和を延期することは不当だと考えていたが、軍事官僚を押し切ることができなかった。国防省の講和反対に直面した、国務省は、事実上の平和と称する代案を検討している。内政面で日本政府に自主性を与えて、北大西洋条約のような地域安全保障の枠組み、すなわち太平洋条約を作ろうとするものである。北大西洋条約は,ドイツの脅威に対する保障措置であるが、太平洋条約は不発に終わった。米国は、韓国、台湾、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドなどと、二国間の条約を締結したが、いずれも、日本の脅威に対する保障措置であった。
国務省は、占領とマッカーサー体制が続く限り、日本から閉め出される。だから、日本を「独立」させることに興味を持ったのではないのか。マッカーサーも同じで、フィリッピン化構想とおなじように、日本を米国の裏庭に置くことによって、米国の保護を受けるようにすることであったから、寛大な講和に賛成して、事実上の平和の太平洋条約にも反対した。マッカーサーは、国務省と国防省との対立に乗じて、その調停役の役割を果たした。1949年5月に、米国は沖縄を恒久的に軍事基地にするという決定を下している。沖縄で、日本の中立と安全を全うできると考えて、東洋のスイス論を展開しているが、一方、ワシントンでは、石頭のドンキホーテとも揶揄する向きも出るようになっていた。マッカーサーは、1949年九月には、独立後のコントロールを撤廃すると新講和構想に変更している。その構想によって、講和条約と軍事条約の日本立てが登場することになる。そもそも安保条約という言葉は、サンフランシスコ講和会議で登場した言葉であって、それまでは、二国間条約と呼ばれていた。軍事の同盟条約には相互という言葉がはいることで、タダの安保条約とは同盟国の関係でなく、一方の優劣が入っているために、外交上は異例の軽蔑した意味あいが含められている。講和条約と二国間条約との別にしたのは、講和条約の案を国務省が書き、二国間条約案を国防省が書くという,官僚的なはっそうであったし、米軍の駐留の問題は講和条約から外して、二国間条約に入れて、更に、その一番帝国主義的な部分は行政協定にして国会からかくすと言うやり方をするためであった。9月段階の提案では,東京で講和会議を開き、マッカーサーが議長になるとの提案であった。吉田も、米軍駐留には,敗戦直後から賛成であった。それは、しかし、沖縄に限定されたものであったし、社会党も米軍駐留に賛成していた。

吉田茂の講和構想の骨子は、①日本を米国の勢力圏の端っこに於いて外敵から保護してもらうこと②沖縄に米軍駐留を許すほか,有事には日本に駐留を許す③二条件の交換を対等なものとみなし、日米関係を相互的、互恵的なものとする④日本は国内治安維持の目的で小規模の軍隊を保有する⑤米軍の駐留に対する反対を中和するために,これを「制裁的な監視機構」とすることで、国会の審議から外すこと⑥米英の経済圏に日本を編入して,できる限りの経済援助を引き出し、復興に役立てることであった。吉田茂の構想は、戦後早く出たものであり、憲法擁護は後の付け足しであったが、日本の戦後外交の基本であった。しかし、朝鮮戦争が勃発して,沖縄の米軍駐留だけで、日本の安全が全うされるような状況が崩れて意志俟った。極東の端の朝鮮半島が、冷戦の主戦場になることなど予想していなかったが、マッカーサーも吉田も朝鮮戦争前の講和構想を変えようとはしなかったが,これは新憲法が成立していたからである。1949年9月にアチソンの講和提案が報道され、吉田は事実上の平和を代弁した。マッカーサーと国務省の主張する線である。11月の第六臨時国会では、米英だけとの早期講和に切り替えている。マッカーサーの米軍駐留構想から二ヶ月後のことである。社会党は,逆に全面講和となる。マッカーサーとの合意で、吉田は飛ぶ鳥を落とさんばかりの勢いとなった。憲法を講和体制に組み込むことで、吉田とマッカーサーが合意したのであるが、吉田は、単独講和の売り込みも始めていた。マッカーサーは、1950年の元旦のメッセージで、憲法第九条は日本の自衛権を否定していないと強調して、米軍の沖縄駐留は、合憲であると主張している。成立してまだ四ヶ月しか経っていない中華人民共和国は、日本を特定の対象にした軍事条約をソ連と締結している。

1950年初頭、中国の喪失、ソ連の原爆開発、等、一連の自体にたいしょするために、ポール・ニッツァに命じて、トルーマンは、NSC68と言う米国の戦略方針を起草している。

1950年の春にいたっても、国務省と国防省との対立は続き、吉田は、日本自ら米軍駐留を要請して、早期講和と引き替えにするという案を考え出した。池田勇人を使者として、マッカーサーの頭ごなしに、ワシントンに派遣している。池田訪米の直後に、国務省から、アチソン国務長官の特別顧問のジョン・フォスター・ダレスと東北アジア部長のジョン・M・アリソン、国防省から、ルイス国防長官、ブラッドレー統合参謀本部議長が来日した。ダレスと国防長官が同時に訪日したのは、マッカーサーの調停役としての役割が高まっていたからで或る。マッカーサーは、ダレスに講和条約を任せることと引き替えに、二国間条約をマッカーサーが書くことで,ダレスと合意している。このときに、東京で講和会議を開催するという構想は引っ込めている。国務省は独立日本の平等と主権回復を求め、国防省は、占領継続を要求していたから、この水と油の要求を,マッカーサーは足して二で割ったのである。

トルーマンは共和党員であったダレスを起用して超党派外交にして、講和条約交渉の大役を志願したダレスを、国務次官補クラスの大使に起用した。ダレスは、アイゼンハワー大統領の国務長官になるが、ダレスほど,日本に対等で平等の地位をあたえようとした米国人は他にいない。ダレスは、吉田に再軍備を迫っている。占領が厭なら、再軍備をして独立しなさいと迫ったのである。ところが、こうしたダレスは、日本側に嫌われて無視されている。ダレスには、東部エリートの傲慢さはあったが、マッカーサーの植民地の総督のような人種主義はなかった。ダレスは人付き合いが悪く、四方山話などは、時間の浪費だと考える長老派境界の敬虔なキリスト教徒だった。米国の戦後処理は、無条件降伏という一方の極端から、大西洋憲章、国連、ブレトンウッズ体制など国際主義の極端にぶれていた。ダレスは、第一次大戦後の米国の保護主義に対する反省があり、第二次世界大戦の原因も大恐慌と保護主義と信じて、日本との講和条約を交渉するに当たっても、戦争と平和の悪循環を断ち切ろうと努力している。ダレスは、日本を「アングロサクソンのエリートのクラブ」に入会させる構想に辿り着いている。言わば,文化的な日英同盟の再現であった。しかし、軍事的に同盟を再現することはムリで、それがダレスのディレンマとなった。

朝鮮戦争勃発の3日前に、シーボルト大使邸で、ダレスは吉田と会見している。吉田は、ダレスに、民主的になり、非武装化して、平和を愛好して,世界の世論の保護に頼るなどと発言したようで、ダレスはこれを吉田の戦後ボケと表現している。ダレスは超党派外交の立役者だけに、訪日中も、右から左まで、多くの指導者に会い、講和についての意見を打診している。吉田と意見を異なる者は追放中であり、国務省が1948年以来再三督促してもマッカーサーは,パージを解こうとしなかった。

1950年6月25日朝鮮戦争が勃発した。ワシントンの首脳は、スターリンの陽動作戦で、極東に米軍を釘付けにしておきながら、北太平洋条約機構(NATO)の正面攻撃を欠けるのではないかとの危惧であり、直ちにトルーマンは、ミュンヘンの教訓、すなわち、いかなる侵略にも宥和してはならないという、後にドミノ理論として発展する戦略を採用する。1938年のミュンヘン条約で、チェコスロヴァキアの領土がナチスドイツに割譲されたが、英米は沈黙していたために、ナチスを誘惑に駆りたてることになったから、宥和してはいけないという教訓である。マッカーサーと第8軍は、韓国に出動する。NSC68の戦略が採用されて、朝鮮半島と台湾に対する中立政策は、全面的な支援政策に改められる。封じ込めは積極的な軍拡競争に向かうことになる。朝鮮戦争を戦うことが二国間条約の目的となったが、これは、朝鮮半島を守ることは日本を守ることであることが現実となり、吉田とマッカーサーが主張した、非武装などの講和構想は木っ端みじんに吹き飛んだ。

1948年頃から、米国の世論は、親日的に変化していたが、10月に人民解放軍が、朝鮮戦争に参加するようになってから、一挙に親日となる。「あれだけ抗日を応援したのに、恩を仇で返すのか。裏切りだ。国務省に赤の手先がいるんだろう。」と後のマッカーシー上院議員の反共魔女狩りに発展する。本当の敵は中国だった。日本との戦争は間違っていたということで、We fought the wrong  enemyという言葉が人口に膾炙した。ケナンは名著、アメリカの外交政策の中で、「我々のアジアにおける過去の目的の全てが達成されたように見えるのは皮肉なことです。西欧諸国は中国における特殊な権益を最終的に失い益した。日本人は中国から退出して、満州と朝鮮からも退出しました。これらの地域から日本人が退出した結果は,まさに、賢明で現実主義的な人々が長いこと警告してきたとおりです。今日、我々は、日本人が韓国と満州で半世紀にわたって直面した問題と責任を背負い込むことになった。他人が背負っていたときに我々が軽蔑していた,その重荷に感じる我々の苦痛は,当然の罰である。」と書き残している。7月8日、マッカーサーは、独断で、ワシントンと協議することもなく、国家警察予備隊7万5000人の創設を命令している。ダレスは、日本人の志願兵からなる義勇軍部隊を組織することを考えたが、マッカーサーは、国連義勇軍の芽を摘んでいる。警察予備隊の海外派兵はあり得ないとした。10月になって、掃海艇部隊を編成して,派遣したが、それはなかったことにしていた。朝鮮戦争が始まると、国防省はより一層講和に反対するようになった。戦争終結まで、講和を延期すると言い出した。9月14日に、トルーマンは、国防長官の反対を押し切るために、ジョンソン長官をマーシャル長官に更迭して、講和条約交渉を命じている。マッカーサーが仁川上陸作戦を開始する前日である。ダレスは連合国との多角的な交渉を念入りにしているが、講和はアメリカが演出するという点では譲らなかった。日本の再軍備に反対する条文は入れることを拒否した。対日賠償請求権は履行しないとした。(後にフィリピンの反対で例外ができたが)吉田の反対にもかかわらず、沖縄と小笠原が信託統治の下に置かれる。日本は樺太、千島列島、台湾、澎湖列島への主権を放棄するが、帰属は不確定にしておくとして、ソ連と中国は支持しないだろうとダレスはおもっていたらしく、ソ連が条約に調印するのであれば、樺太と千島に対するソ連の要求を認知する用意はあった。

講和条約の交渉は、1951年1月25日にダレスの訪日を期して開始された。ダレスは吉田に再軍備の貢献を求めているが、吉田は、「地下に潜った軍国主義者」を呼び戻す危険があるという理由をつけて、再軍備に反対している。ダレスに、日本の中で、ダレスの考えを探す役目の仲介をしたのが、ニューズウィーク編集長のハリー・カーンと東京特派員のコンプトン・パケナムであった。ニューズウィークはマッカーサーの、財閥解体や石橋湛山のパージなどを批判していた。ダレスは来日後、 鳩山一郎、石橋湛山、石井光次郎に、帝国ホテルで密会している。しかし、マッカーサーは、ダレスの来日一週間前に吉田と、講和の条件を詰めて,それをダレスに押しつけた可能性がある。マッカーサーは仁川作戦を行い人気は急上昇して、1952年の共和党候補に担ぎ出す動きもあったことが、占領軍の司令官にとどまらずに、影響力を行使した力の源泉であった。マッカーサーは、戦争放棄の憲法を,二国間条約の前提としてダレスに押しつけた。だが、ダレスは、ヴァンデンバーグ決議は、ドイツが再軍備しなければ、米国がヨーロッパを守ることはできないとすることで、NATOに米国が参加する条件として、地域的相互安全保障、相互援助、次女の原則を遵守するよう、共和党のヴァンデンバーグ議員が要求した決議である。ダレスは、吉田に対して、強硬に、再軍備への小さな前払いを要求している。吉田は、警察予備隊とは別に、五万人の保安隊と称する,直接侵略に対応する組織を起草して、ダレスには、国家安全保障省と参謀本部の母体としての保安企画本部の創設をダレスに約束している。辰巳栄一などの私的な顧問には相談していないし、ひとりでこれを起草している。

第十一章

戦争放棄の憲法を二国間条約と引き替えに、ダレスにマッカーサーは押しつけることに成功したが、4月11日に、トルーマンがマッカーサーを解任して吉田は後ろ盾を失う。マッカーサーは、中国の義勇軍の背後にある満州に戦争を拡張することを主張して引かなかったからである。5日後にマッカーサーは日本を去ったが、間髪を入れずにダレスは訪日して、再軍備を迫った可能性が高い。マッカーサーの解任があって、国防省は、日本との事前協議なしに、ソ連と中国を攻撃する基地が欲しいと、いわゆる極東条項を主張した。第二点は治外法権で、西ドイツにも求めていない,職務執行とは関係の無い犯罪まで、治外法権を認めるよう要求した。

仮説であるが、ダレスが、講和条約の中で、日本が放棄した千島列島の線引きをせず、日本とソ連との境界画定をせずにおいたのは日ソの間に領土問題の火種を残して起きたかったのではないのか。米国は、多国間に火種を植え付け、その関係を分断するという統治方法を採ることがある。1956年8月、ダレスは、重光外務大臣と会談して、日本がソ連との北方領土問題を二島返還で決着させるなら、沖縄は永久に返還しないと言い渡した、いわゆる「ダレスの恫喝」を行ったことがある。日本がソ連に接近することは米国の国益に反すると、ダレスは考えた可能性がある。

野党第1党の社会党が安全保障体制に真っ向から反対したために、日本は外交のコンセンサスを失ったが、社会党を安保条約の敵に回したことは、吉田の作為が働いていた可能性がある。吉田は、社会党左派と,超党派外交を下可能性がある。

1951年7月には、講和条約草案はおおむね完成して、9月に予定されている講和会議に吉田の出席をダレスが要請しているが、吉田は出席をいやがっている。8月4日に,安保条約草案が、外務省に届けられるが、GHQは、その内容を公開しないように命令している。講和条約の草案は、8月16日に、公表されたから、政府は安保条約の内容を野党に知らせないで、講和会議に出席を要請したことになる。講和会議は、9月8日、十時からサンフランシスコのオペラハウスで開催された。安保条約は、突然、翌日の午後6時からサンフランシスコのプレシディオという美しい陸軍基地の中で,普通の兵隊の集会所で行われた。戦争の最中に同盟を拒否した日本に対する米国の扱い方である。全ての義務は日本が背負い、米国には権利だけがある、相互という言葉が欠けた条約であった。吉田はダレスの約束不履行に怒ったに違いない。

吉田を責める前に、マッカーサーの責任を問題にするべきである。ケナンとダレスは、占領初期の政策に過ちがあったことを認めて、逆コースで訂正しようとした。新憲法で日本の自尊心を守ることには無理があったのではないか。憲法と国家の安全を駆け引きの道具に使ったとの誹りを免れない。自分の快楽のために国を売ったファウストではなく、吉田は筋金入りのナショナリストではあるが、国の為に国の魂を売ったので、間違いは間違いである。情状酌量の余地があり、マッカーサーが絶対者であったから、解任以前に吉田の責任を追及することは政治的に無理があった。吉田とマッカーサーの妥協に目をつむり、寛大な講和であったからいいではないかと言う議論もあるが、日本人が憲法問題を処理するまで、軍事的な義務を負うことを要求できない」とした合意をダレスが反故にした以上、吉田には、憲法を守る理由は無かったはずである。憲法を守って日本の尊厳を失ったのではないのか。吉田は、米国優位の安保条約を飲んでしまったのである。

再軍備と憲法改正に賛成して、海外派兵の道を確保しながら、朝鮮戦争への派兵を最小限に抑えることが必要であった。これだけ米軍に基地を貸すのだから、その上に再軍備はできないというのが、吉田の立場であった。ここにボタンの掛け違えがあった。基地問題は、戦争という一過性のものとして受け入れるほかに道がなかったが、この不平等を解消するには、日本が積極的に同盟国になることで発言権と平等を勝ちとるのが賢明な選択であった。吉田は、講和を花道に引退して,政局を一新して,後継首相による再軍備と憲法改正に道を開くべきであった。

第十二章 ナショナリズムとプロパガンダ

マッカーサーの占領初期には、ノーマンの例に見られるように、ニューディーラーを中心とするマルクス主義者がGHQに深く関わり、反米ナショナリズムと結びついて、日本の世論を支配していた。ダレスは、日本におけるインテリが余りにも現実離れのした平和主義と中立志向に驚いていたが、東部出身のエリートとしては、日本人に新しいイデオロギーをつくって与えようと企画する。そして、国務省は、戦時中、占領計画の立案に参加して,ハーバードで日本研究で頭角を現していた、デドウィン・ライシャワーにこの企画を委託する。ライシャワーは、ポツダム宣言起草の過程で、グルーやスティムソンの天皇制護持の動きを支持していたこともあり、ライシャワーは、日本の新憲法の成立の由来を知っていた。ライシャワーのプロジェクトに参加したのが、プリンストン大学のマリウス・ジャンセン、エールのロバート・ホール、ハーバードのアルバート・クレイグなどがいた。アメリカにおける日本史の修正に向かう。日本をより肯定的に見せて、日本人の劣等感をぬぐい去るか、その回答が,近代化、モダーニゼーションと言う切り口だった。日本は、アジアで一番先頭に立って近代化西欧化を果たした英邁な民族と言う理解になった。アメリカの日本研究者は,寺子屋の教育制度に目を見張るようになる。軍国主義は,日本の近代化の過程では逸脱したことであり、歴史の必然ではなかったとした。日本の経済的な軌跡の秘密を、徳川時代の伝統文化の中に見つけ出した。近代化は、資本主義的な経済万能主義となり、ナショナリズムは否定され、マルキシズムはタブーとなる。近代化論は、高度成長を推進するイデオロギーとなり、これが吉田とライシャワーを結びつける契機となった。ダレスは、日本の歴史を修正するために、ライシャワーにたのんだのであるが、近代化の考えは、むしろ、ダレスの足をひっぱり、憲法を再軍備の圧力から守る為に、日本の伝統の中に郡国主義が残っているとするライシャワーはマッカーサーの方向に味方することになった。箱根会議は、丸山真男と大塚久雄の東大を敬遠して、京都大学の政治学者、高坂正堯を日本側の代表とする。こうした学者が、モラトリアム国家や吉田ドクトリンを支持して、吉田学校の応援団の役目を務めている。

占領は解放だとするのは、定義の問題であるが、現実は制裁であった。天皇陛下の命を救ったのは、それ以外の占領政策を日本に押しつけるための交換条件であった。マッカーサーは日本を12才の少年として、厳しいしつけを試みたかのようである。
占領が寛大だとされるようになるのは、安保条約改正の騒動が終わり、岸信介が失意の内に引退して、吉田の勝利が確立する時点で始まっている。初期の安保条約が,吉田に対する制裁であったことなどはひた隠しに隠された。現在の日本では自由民主党の創設者は、吉田茂ではなく、鳩山一郎であることを知る人も少なくなっている。日ソ講和交渉を,外務省と吉田が一緒になって潰したことも体よく伏せてある。満州事変から敗戦まで、悪いことは全て陸軍がしたことに名手、外務省は良いことばかりしてきたようになっているが、幣原外交などは、かなり機会主義的であるが、日本外交の典型のようになっている。日ソ講和を潰すのに、ダレスも一枚噛んでいるが,それも伏せられてきた。米国の介入は、全て日本側で自主的に行われたことにされた。パージのことなどは表に出てこない。マッカーサーの回顧録には追放・パージの一言も出てこない。

第十三章 社会党は吉田の楯となった

占領は、講和条約が発効した1952年4月28日に終了した。占領は7年でおわった。講和条約と二国間条約に署名して帰ってきた吉田は、人気が上昇してほっとしていたが、米国は日本の再軍備と憲法改正をあきらめていなかったから、マッカーサーの支持を失った吉田は、米国の圧力をもろに受けることになる。ここに吉田と革新政党、なかんずく社会党との間に、みえない共同戦線が成立することになる。1949年の総選挙で、社会党は,惨敗を喫しているが、日米関係が緊張して驚くべく蘇生して拡大する。日本の政治は、左右両極に分離していった。保守も日米関係をどうするかで分裂して行った。再軍備を巡って、吉田対鳩山対革新の三つどもえの争いになった。

「講和条約の後ろに安保条約が隠れ、安保条約の後ろに行政協定が隠れている」と改進党の一年生議員だった中曽根康弘が、講和条約、安保条約、米軍基地の行政協定についての関係をうまく表現しているが、独立しても占領が続いていることが実態であることが国民にも知られるようになってきていた。

ポツダム宣言には、日本に民主主義的な政権ができたら全ての駐留軍は撤退するとあった。講和条約調印の時に、ポツダム宣言の約束が履行されるべきでしたが、実際にはこの約束は守られず、非合法に講和条約とセットで、安保条約が無理矢理締結された。調印直前の国会で,吉田首相は、まだ何も決まっていないと答弁して訪米した。当初の安保条約は、条約の草案、国会審議、全権の指名などの手続きは一切抜きにされると言うごまかしであった。調印の場所すら前日まで決まらず、講和条約はサンフランシスコのオペラハウスで,安保条約は,突然日程が通告されて、陸軍基地内の兵隊の集会所で翌日に行われ、吉田首相ひとりが署名したが、その手続きも不明朗であったことは、前述した。国会批准は、そうした実態を知らずに強行され、日本に国内に米軍基地が継続しておかれることになり、言わば,「永久占領」の体制がつくられたことになる。1960年には、安保改定がなされたが、これは当初の安全保障条約の欺瞞に却って蓋をすることになってしまった。日本は、ある時期までは、少なくとも経済問題は、日本独自で取り組む、非武装で経済に専念すると言う考え方を優先させたが、冷戦が終わり、80年代のレーガン大統領以降は、経済大国となった日本の自由な経済活動は、米国の影響の下で、政治経済政策が行われることが主流となっていった。これに抵抗する官僚や政治家は攻撃され、人事異動などで姿を消し、日本の自主交渉力は低下していった。

以上の講和にいたる戦後政治の概要は、スタンフォード大学フーバー研究所研究員、故片岡鉄哉教授の著書、日本永久占領(講談社α文庫から出版されたが,現在は絶版になっている。)に依拠してとりまとめたものである。

吉田茂は、死ぬ前に書いた本では、自分の行為を後悔して慚愧の念に駆られた文章を残している。その懺悔を書いたのは、1963年のことで、池田内閣と所得倍増の全盛期であった。経済大国の建国の父は、永久占領体制の過ちを悔やみながら、1967年に逝去した。

死ぬ前に書いた一文は次の通りである。
「再軍備の問題については、私の内閣在職中一度も考えたことがなかったこと、・・又・・強く再軍備に反対し,・・且つその反対を貫いたこと等は、本書・・で記した通りである。しかし、それは私の内閣在職時代のことであった。その後の事態にかんがみるに連れて、私は日本の防衛の現状に対して、多くの疑問を抱くようになった。当時の私の考え方は、日本の防衛は主として同盟国アメリカの武力に任せ,日本自体はもっぱら戦争で失われた国力を回復して,低下した民生の向上に力を注ぐべしとするにあった。然るに今日では、日本を巡る内外の諸条件は,当時と比べて甚だしく異なるものとなっている。経済の点においては、既に他国の援助に期待する域を脱し、進んで後進諸国への協力をなし得る状態に達している。防衛の面においていつまでも他国の力に頼る段階はもう過ぎているのではないか。私はそう思うようになったのである。警察予備隊が自衛隊となり、或る程度の体制を整えた今日でも、世間のこれに対する態度はとかく消極的であり、政府の取り扱いぶりにも不徹底なものが感ぜられる。立派な独立国、しかも経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも,世界の一流に伍するに至った独立国日本が,自己防衛の面において、いつまでも他国依存の改まらないことは、いわば国家として片輪の状態にあるといってよい。国際外交の面においても、決して尊重される所以ではないのである。
憲法九条のいわゆる平和条項、即ち、国際紛争解決の手段としての武力行使を否定する条項は別として、第二項の戦力否定の条項は、万世不磨の大典としての憲法の一分というよりも、軍国主義国、侵略国としての日本多年の汚名を雪(すす)ぎ、1日も早く国際社会に復帰したいという政治的な狙いが本義であったのが、私の関する限り真実である・・・だから、もし条文を厳密窮屈に解釈して、自衛隊をすら否定するに至るならば、必ずや世界の現実と乖離し、政治的不安定の因となるであろう。この道理は多くをいわずして明らかなはずである。上述のような憲法の建前、国策の在り方に関しては、私自身自らの責任を決して回避するものではない。憲法審議の責任者でもあり、その後の国政運営の当事者でもあった私としては、責任を回避するよりは責任を痛感するものである。それだけにまた日本内外の環境条件の変化に応じて、国策を改める必要をも痛感する。日本は政府当路も、国民も、国土防衛というこの至上の命令について、すべからく古い考え方を清算し、新しい観点に立って再思三考すべきであろうと思う」と書いている。(注、吉田茂「世界と日本」番町書房、1963年、202/207ページ)
これを読んで分かるのは、現在の自由民主党が、鳩山一郎、三木武吉、河野一郎、岸信介の伝統を無視しているだけではなく、吉田茂の一生の願いをも無視していることである。

Disaster Capitalism Continues

新自由主義の政治・経済政策は,ほぼ日本を破壊しているが、その立案者が依然として影響力を保持していることが暴露された。維新と言う言葉が復古とは何の関係もなく、人間をバラバラにして共同体を破壊して賜杯を強化しようとする新自由主義の学者?の影響下にあることが明らかになった。

http://www.janjanblog.com/archives/86162

The Life of a Statesman 3&4

http://www.janjanblog.com/archives/86805

http://www.janjanblog.com/archives/86817

Tunnel Collapse

http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-2519.html

笹子トンネル崩落は猪瀬直樹が招いた悲劇
(日刊ゲンダイ2012/12/11)

道路公団民営化で「コスト3割減」を主張

笹子トンネルの天上板崩落事故は、小泉時代の道路公団民営化の大幅なコストカットが招いた悲劇だ。それが鮮明になってきた。
当初、「接合部の打音検査をした記録はない」としていた中日本高速道路はその後、「00年にはトンネル上部のボルトや付近のコンクリートの劣化を打音検査で点検した」と説明を一転させている。その検査ではボルトを締めるナットに緩みが見つかった。ところが、同社は「補修で健全性が回復した」と判断。なぜか05年の定期検査から打音が省略されたのである。

普通なら「補修が必要な状態」が1回でも見つかれば、それからは入念な検査を行う。ところが中日本の動きは真逆だから理解に苦しむ。ポイントは00年と05年の検査の間に何があったかだ。この期間に道路公団は民営化されたのである。
民営化推進の過程で議題に上ったのはコスト削減だった。民営化すればムダが削れる。そういう方向で議論が交わされたのである。議事録によると、当時、道路関係四公団民営化推進委員会の委員だった猪瀬直樹氏はこんな意見書を提出している。
〈新会社は道路本体業務にかかる維持補修等の管理コストの徹底した合理化を行い削減することが求められる〉〈現在の四公団の維持管理に要する費用の合計から概ね3割以上の縮減を目指す〉
最終的にまとめられた委員会の意見書にも「管理費の徹底的な見直し」「概ね3割の縮減を目指す」などと書かれていて、猪瀬氏の意見が反映されたことがハッキリわかる。当時の道路公団にはファミリー企業がいくつもぶら下がっていた。猪瀬氏はそこにメスを入れようとしたのだろうが、安全性まで置き去りにされた印象は拭えない。
日航機墜落事故の被害者代理人だった海渡雄一弁護士はこう言った。

「人の生命に関わる公共性の高い事業の維持管理では削っても大丈夫なもの、削減したら深刻な事故を引き起こしかねないものの2通りがあります。日航機事故は十分な検証をせず、飛行機の修理と検査費用をカットしたことで起きました。猪瀬氏は何を根拠に『3割縮減』を提案したのでしょうか。打音検査が省略されるに至った経過と、民営化との関連性を遡って検証しなければいけません」
民営化の“成果”を繰り返す猪瀬氏。この人物が都知事でいいのか。有権者はしっかり考えるべきである。

http://togetter.com/li/420014

http://tokyopastpresent.wordpress.com/2012/12/12/%E7%AC%B9%E5%AD%90%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%A7%E6%8F%90%E8%B5%B7%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E9%AB%98%E9%80%9F%E9%81%93%E8%B7%AF%E5%88%86%E5%89%B2%E6%B0%91%E5%96%B6/

The Life of a Statesman 2

http://www.janjanblog.com/archives/86745

The Life of a Statesman

いよいよ日本の大政治家亀井静香先生の一代記が文章となる。高橋清隆氏による実録である。

http://www.janjanblog.com/archives/86730

Fake Privatization and Tunnel Collapse

テレビニュースを見ていたら、○×都知事候補と、小泉元総理大臣が握手を交わして高速道路の民営化はこの人がいなければ達成できなかったと発言したとの報道であった。

さて、中央高速道路の笹子トンネルの天井が突然崩落して、直下を走行中の車にあたり、死者が出る大事故となった。高速道路の民営化と、今回の事故との関係は無いのか。むしろマスコミがそうした意見を報道しないから否応なしに、疑問が高まる。

ネットをさがしてみると、

http://blogs.yahoo.co.jp/hary1118/37736605.html

道路民営化の成果が,笹子トンネルの事故なのかと,言う記事があった。

業務上過失致死の疑いで、中日本高速の本社に捜査が入ってとの報道もある。

http://www.news-us.jp/article/305222066.html

http://togetter.com/li/420014

http://yamatyan369.seesaa.net/article/305572235.html

http://mainichi.jp/search/index.html?q=%E7%AC%B9%E5%AD%90%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%20%E6%B0%91%E5%96%B6%E5%8C%96&r=reflink

などの記事が見られる。

さて、日刊ゲンダイは、12月5日号で、○×(都知事候補)が、「道路公団民営化」でやったこと、と言う見出しの記事を掲載した。

http://www.asyura2.com/12/senkyo140/msg/466.html

道路四公団民営化の失敗、と題する網羅的な論文が、有料道路研究センターのサイトに掲載されている。2012年の9月に加筆整理が行われたと言うから、現行化された論文であると考えてよい。

http://homepage2.nifty.com/tollroad/mineika.html

櫻井よしこ氏の批判論文もネットに残っている。

http://yoshiko-sakurai.jp/2008/04/26/705

色々な議論がある。http://www.asyura2.com/11/senkyo119/msg/631.html

田中一昭(民営化推進委員会委員長代理(当時))氏は、道路公団改革 偽りの民営化」を出版して、○×氏は、委員会が開かれていないのに独断専行で小泉首相や国交省幹部と水面下で接触して、道路族が満足する”骨抜き民営化案”をまとめました。」と書いている。その結果、未着工の高速道路が建設できる抜け穴が創られ,40兆円にふくれあがった借金を45年かけて返済するという気の遠くなるような離しになったと、指摘するジャーナリストもある。

国鉄や道路公団は、大赤字であったから、その歯止めとして民営化するとの論理が支持を受けたが、郵政民営化などは、そうした赤字がなかったばかりか、税金を一切使わない事業体であった。郵政民営化の意味あいは、全くの政治宣伝と海外に国民資産を移転する外国勢力とその手先の思惑が働いた可能性があり、構造改革論の主要部を占める民営化論は、ほとんど根拠のない市場原理主義のカルトの立論でしかなかった。

http://www.labornetjp.org/news/2012/1205kaito

この論文では、「公共事業の民営化は国鉄の分割民営化などを見てもわかるとおり、赤字対策として提起される。他方で、民営化に際しては「政治主導」で決定された事業への投資が押し付けられる場合も多い。高速道路についても、儲からない新たな高速道路の建設が押しつけられた。経営収支や財務状況が悪化した民営企業は民営化のメリットを社会的に示すために、設備の改装など目に見えるところには投資を迫られ、目立たないところには投資が控えられる。目立たないところの最たるものが、安全のための投資である。設備のメンテナンス予算が削減される。」と指摘している。「民営化政策の是非も都知事選の争点に、と提案して、 猪瀬候補は、都営地下鉄と東京メトロの一元化」=「都営地下鉄の民営化」を政策として掲げている。民営化された高速道路で、このような大きな犠牲が生じたことについて、民営化を推し進めた政治家や都知事候補はどのように考えているのだろうか、説明する責任があるだろう。」と指摘している。以上、ご参考まで。

高速道路のメンテナンスの問題は、これからいよいよ深刻になるのである。構造改革論で日本を破壊した勢力の実像はこれから明るみにひきだされることになろう。

民営化論の虚妄については、英文であるが、次のサイトがある。

http://www.inthepublicinterest.org/node/457

An Appeal to FCCJ Members

外国特派員協会の会員に対するアピールが署名入りで出されて、当方ブログにも回覧された。日本にある外国プレスの専横な体制の一角を正常化する必要があるとの指摘である。日本のマスコミが、外国報道関係者で組成する団体の異例を報道しないのは、これまた奇異である。ともあれ、ご参考まで。

20日の総会に呼び出された西沢よりの檄文
Appeal to the FCCJ regular members from Nishizawa, who is being summoned by the GB board to GMM on Dec.20 2012

FCCJ会員各位   
Dear esteemed FCCJ members,

FCCJ会長・バウムガルトナーは、私を20日の総会に呼び出しました。そこで私を除名するためです。
George Baumgartner(GB) has summoned me to the upcoming GMM(Dec.20) in order to expell me from the FCCJ.

会長は、ただただ私がうざいのです。
GB just hates my guts to pick on his misbehaviours.

会長は猿らしい低レベルのいじめ行為を私に加えているのです。
GB is imposing on me GB-like lynching.

AKB48の最新ヒット曲UZAってご存じですか?
Do you know AKB48's latest hit titled "UZA"?

そのレベルの感情に押されてジタバタしている輩なのです。
That's GB's intelligence level driving him up the ceiling.

情けないと思うのは、そんなサルを正会員たちは三期も会長職に就けていることです。
To my astonishment such GB is supported by you members for his third time FCCJ presidency.

私は支配人・中村を学歴詐称で人事委員会に告発しましたが、それを問題視する正会員が全くいないことにもあきれています。
When I tried to sue Nakamura(our assistant general manager) to HR committee for using a false academic career upon acquring his FCCJ job but none of you cared less.

会長になびく理事たちの低劣さは言うにおよびません。
Let alone low level awareness of ass licking members of the GB board.

三島由紀夫ではありませんが「そんな会員たちとは、もう口をきく気にもならない」のです。
I'd say like Yukio Mishima had said; I wouldn't wish to converse with such low level awareness creatures.

正会員しか出れない総会に出れるチャンスはまたとありません。 思いの丈をしゃべりまくります。
For me to make my appearance at the GMM where only regular members are allowed is a one in million opportunity. There I will speak my heart out!!

会長は今、良識ある元会長たちに訴訟を起こされ、東京地方裁判所の法廷に引きずり出されています。
Now GB is at the Tokyo District Court sued by the members of the SOS FCCJ.

法的な規制がにわかには及ばない、本来自由な自治が認められている結社(FCCJ)の内部が乱れていて、司法が乗り出さなければならないと判断し、訴訟を受理したからです。
Because the court accepted the SOS FCCJ's law suit against GB based on their judgement that it's time for the law to step into clarify injustice inside a private membership club organization(FCCJ), even if they are privillaged to self govern themselves.

そんな会長に会員を裁く権利があるでしょうか。会長が松島氏を資格停止にしたり、私を除名決議に付す立場にあるとはとうてい思えません。
How can GB, as being the president of such questionable organisation, judge a fellow FCCJ member? I strongly disagree that GB is qualified to suspend Mr. Matsushima's FCCJ membership status nor expell me from FCCJ.

会長が私を除名決議に付すなら、それは元会長たちの訴訟に勝ってからでしょう。
GB should expell me only after winning law suits being posed by the SOS FCCJ group.

愚劣な会長を戴く低劣な理事会が上程した私の除名決議を正会員たちが可決したら、それはとりもなおさず、FCCJの愚劣さ、低劣さを天下に示すことになるでしょう。
When and if the FCCJ regular member should vote for my expulsion at the up coming GMM, that is to announce publicly their own stupidity.

私を除名したら、FCCJは社会的に抹殺されることでしょう。
If they expel me the FCCJ will be erased socially.
そのとき、すでに会員でない私はFCCJの名誉に関知しません。
And I will be indifferent as a non member of the FCCJ to see it's integrity is going down the drain.

しかし、今はまだ会員です。
However, I'm still a member of the FCCJ.

だから会長を窃盗罪で、中村を学歴詐称の詐欺罪で、それぞれ検察庁に刑事告発しないでいます。
That's why I have decided not to charge GB for theft and Nakamura for his false statement of academic career.

私を除名した瞬間から会長の非道はFCCJの非道となり、不名誉となり、不法となり、会長と共に潰えるのです。
The moment GB expels me from the FCCJ, GB's wrongdoing will become the FCCJ's wrongdoing, dishonor and violation of law thus the organisation will die together with GB.

 

 

 

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Free Drawings and Deep Snow

地震があって、道路が通行止めになっているので、今夜の遠出はやめた。寒い冬の夜だ。山形の月山の麓の友人のことを考えている。初雪はどんな具合だろうか、と。

  山形県西川町の岩根沢小学校の校庭に昭和四七年一〇月八日、詩人丸山薫の詩碑が建立され除幕式が行なわれた。七三歳の詩人は夫人と並び記念写真をとり

  「人目をよそに 春は いのちの花を飾り 秋には深紅の炎と燃える
  あれら 山ふかく 寂寞に生きる木々の姿が いまは私になった」

と書いた。
 前西川町長近松捷一氏は元郵便局長だが、特産品を首都圏で販売促進するために西川町のふるさと大使を委嘱してこられた。年二回を原則にして夏冬毎に西川町を訪ねるうちに、丸山薫が戦禍を遁れて西川町の岩根沢に疎開して寄寓すること三年、山村の小学校の先生として務め、美しい詩を沢山書いたことを発見した。教科書に載るほどに知られて、私はいくつかの詩を暗唱するほどだったから、月山の麓の集落の、その詩が創られた現場の記念館を訪ねた思い出には今でも心が躍る。
「白い自由画」と題する詩がある。

  「春」という題で 私は子供達に自由画を描かせる
  子供達はてんでに絵具を溶くが 塗る色がなくて 途方に暮れる
  ただ 真っ白な山の幾重りと ただ 真っ白な野の起伏と うっすらとした墨色の陰翳の所々に
  突き刺したような 疎林の枝先だけだ
  私はその一枚の空を 淡いコバルト色に彩ってやる
  そして 誤って まだ濡れている枝間に ぽとり! と黄色を滲ませる
  私はすぐに後悔するが 子供達は却って喜ぶのだ
  「ああまんさくの花が咲いた」と子供達は喜ぶのだ

 この詩にあるまんさくの花がどんな色の花か確かめに春の日比谷公園の花壇を私は巡ったことがある。
 月山の山麓は日本有数の豪雪地帯である。桜の木であれば、高い梢の枝まで、雪に埋もれてしまう。雪を踏みしめて歩いて高いところの枝を切り落とせるようになる。販売促進の対象の一つとなった桜は、切り落として揃えた桜の枝を地元の温泉の熱で一月元旦に咲かせるように、満開の時期を調節した啓翁桜である。啓翁桜は昭和五年に、久留米の良永啓太郎という人が誕生させた新品種であるが、深雪の中で収穫されて山形が大産地となっている。


岩根沢は西川町の中心部の間沢から北の山間部に分け入る。月山を中心に羽黒山と湯殿山からなる出羽三山への主要な登山口である。岩根沢には国の重要文化財として指定されている三山神社の本殿が残されている。明治の神仏分離令で寺号を廃して神社となったが、元は天台宗日月寺の本堂である。廃仏毀釈が凄まじく、寺社文物が徹底的に破却された三山神社の総元締めである羽黒山神社と比べて伽藍が良好に残された。参道があり宿坊が並ぶ。月山に詣でる往事の賑わいが偲ばれる。
●月山は豪雪地帯にあるから、春先から夏にかけても雪が残り、雪渓となって山体に白い斑ができる。山開きが五月にあって、スキー客が山スキーに駆けつける。関東にはお伊勢参りをした後に必ず出羽三山に参ることを習慣にした地域もあったくらいだから、岩根沢の神社の伽藍の壮大さは、いつか先達を頼んで月山登頂を果たし、頂上にある月読命をご祭神とする月山神社に詣でることを夢見た人が多かったことの証である。月読命は、天照大御神、建速須佐之男命と並んで三貴子と呼ばれるが、ただ月読命だけは記紀にもわずかな記述しかなく、しかも全国にも月読命を主祭神とする神社は八五社しかない。そのうえ、高知の一社を除くと、月山神社はすべて東北にあるから、山岳信仰が原形である。


月山は生死をつかさどることが実感できる月を祭神とする山であるから、母なる海にも繋がっていることは間違いない。詩人丸山薫が岩根沢で書いた全詩集が『北を夢む』と題する一冊の本になっているが、その本の帯に杉山平一という署名の入った一文がある。

  丸山薫は若くして愛した大海原の沈黙と静寂と永遠を、再び雪深い山に見出し、それが素朴な
  山の人々の人情に包まれている世界に触れて、一段と高く深い生命の詩の数々を生み出した。

 詩人は海を知らない山の子供たちのために帆船の絵を描いたりしているが、雪に埋もれた月山の広がりと、青い大海原と生命の深さを関連づける。月山は「アスピーテ式火山」といい、楯(たて)を伏せたような山容から「楯状火山」と呼ばれる火山の典型で、流れやすい溶岩が薄く広がった山の形をしている。岩石の主成分は玄武岩である。山形から鶴岡へ抜ける高速道路の山形道は、寒河江川を堰き止めた寒河江ダムを通り過ぎて月山中腹の志津温泉に抜ける大井沢への出口でいったん高速道路が途切れてしまう。地盤の動きを止める工事が大規模に行なわれているが、高速道路を建設することが困難なほどの地滑り地帯だからである。月山の南西側の山麓は、地滑りが頻繁に起きる可能性のある地盤軟弱な地域で、硬い火山岩の上に深さ約一〇〇メートルの軟らかい火山噴出物が堆積しており、月山の万年雪から出る大量の雪解け水が地表近くを流れ地滑りを誘発しやすくなっている。特に、湯殿山に近い大網地区などは地滑り専門家の間でも有名である。近くにある即身仏で知られるお寺が、地滑りの影響で移転したことすらある。

Kuroshio 83

鎖国日本の利尻島に渡来した米国人

 利尻島と稚内を往復するフェリーは、観光シーズンが終わったらしく、乗客
が急速に少なくなったせいか、一等船室のある上部甲板は立ち入り禁止にして階段には鎖を張って閉鎖していた。宗谷岬では海鼠の漁が一段落して船を陸に揚げたと聞いていたが、札幌に出稼ぎに行く若い男女が、むずかる幼児をあやしながら、縦の動揺(ピツチング)を繰り返す船首(バウ)の部屋に体を横たえていた。飛行機で行けば船酔いもしないのにと妻は夫を相手に頻りに愚痴を言っていたが、荒波と大揺れが治まり、下船する頃には、新天地への旅に赴く黒潮の民の若夫婦の、覚悟のできた顔になっていた。

 鴛泊の港の夕暮れは、通りに猫の子一匹、人一人っ子見かけなかった。小泉政権の時に、新自由主義の政策を偉大なイエスマンと呼ばれつつ強行した幹事長(当時)のポスターがあちらこちらに張られていた。次の選挙に立候補しないと新聞発表されていたから、まだ写真を貼ったポスターが残っていることが不思議に思われたが、地元のタブロイド新聞には、北海道議会の議員が、後継者には世襲させた方が政治資産を承継できるともっともらしい意見を述べていた。社会の弱体化と孤立化をもたらし、人間関係をバラバラにして原子(アトム)化を推進する新自由主義の虚妄の政治経済政策のお先棒を担いだ政治家が北海道北辺を地盤にして生まれたのは、外国の帝国主義的な拡張主義の時代に対馬海流の北端に我先に国力を誇示する捕鯨船が殺到した時代を考えれば、その社会現象の基はどこかで通じている。北海道は北辺であるばかりではなく、国内で賃金が最も低い地域が広がり、格差社会が容認され、夕張のように制裁すら受けた。新自由主義の政策をしゃにむに礼賛した政治家が北海道で有力になったことを奇異に思う向きもあろうが、外国勢力が海から入り込みやすい地理上の特
徴から、その手先が蔓延ったとすれば不思議ではない。構造改革論が華やかなりしさなかに規制緩和の問題を取り仕切っていた経済人が、「島で食えなければ大阪にでも出て、大阪で食えなければ東京に来て、東京で食えなければニューヨークにでも行けばいい」と暴言を吐いているのを沖縄のテレビで見た記憶があるが、黒潮の流れが対馬海流となって分け入ったその最北端の利尻の島民に対しても、新自由主義は政治家のポスターを掲示して威圧を続け、世襲の仕組みで勢力の温存を画策し続けていることが、実際に出稼ぎの為に島を離れる家族が恒常化する典型をフェリーボートの乗客に発見することができた。小泉・竹中政治の新自由主義の強権を民主党政権に引き継ぎ、姿を変えて維新・革新の勢力として温存しようとする謀略が実行されている。

 鴛泊のホテルの大浴場への階段の踊り場の硝子ケースにラナルド・マクドナルドの資料が展示してある。ペリー来航五年前に鎖国日本に憧れて、捕鯨船の母船から小さなボートに乗り移り、密航して単身利尻島に上陸した米国人である。マクドナルドを題材にしたのが吉村昭の長編歴史小説『海の祭礼』(文藝春秋、一九八六)である。

 ラナルド・マクドナルドはオレゴンのアストリアでスコットランド系の白人
の父親と、アメリカ原住民チヌーク族の母親の間に生まれ、白人にはなれない混血の子供として、親戚からチヌーク族のルーツはアジアにあると教えられ
て、日本に憧れを募らせた。音吉を含む三人の日本人漂流民との出会いも輪をかけた。当時レッドリバーと呼ばれた今のカナダのマニトバで教育を受けて、父親の言に従って銀行員をしていたが、捕鯨船プリモス号の乗組員となり、三年後(一八四八)北海道西部の海域に達したところで、ボートで日本に単身上陸を試みた。日本が厳しい鎖国下にあることは素より承知し、密入国は死刑になる可能性があるとも説得されたが、マクドナルドは応じなかった。最初、焼尻島に上陸、二夜を明かしたが無人島だと思いこみ、再度船を漕いで七月一日に利尻島に上陸。漂流者なら悪くても本国送還だろうと考え、ボートをわざと転覆させ漂流者を装ったという。利尻島のアイヌと一〇日ほど暮らした後、島の別の場所で二〇日間拘留され、後に宗谷に、次いで松前に送られ、更に長崎に移送された。崇福寺大悲庵に収監され、本国に送還されるまでの一〇ヶ月の間、ここで通詞に英会話を教え、最初の英語教師となった。幕末日本で米国との交渉に通詞として活躍した森山栄之助、堀達之助など一四人に教えた。翌年四月、ジェームス・グリンを艦長とする軍艦プレブル号が難破した捕鯨船の乗組員の引き取りの為に来航、他の一四人と共に帰国した。グリン艦長は日本との条約締結が平和的に行なわれなければ、力ずくでと主唱していた。マクドナルドは、議会に手紙を書き送って、日本の文明が高い水準にあり、日本社会が秩序正しいことを紹介している。日本でのマクドナルドの扱いは終始丁寧だったから、マクドナルドも死ぬまで日本に好意的だった。マクドナルドの業績は、生前は知られることなく、死後二九年経った一九二三年に出版された『日本回想記』によってようやく世に知られることになった。(つづく)

Airport


鹿児島空港

鹿児島・垂水航路


桜島沖

新田神社の参道にあった彫刻


大隅半島を遠望


隼人の大隅から朝日が出てくる

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