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Kuroshio 85

アイヌと黒潮文明

 宮崎から日南に向かって自動車で走り、油津港の入口で右折すると、海幸彦を祀る潮嶽神社に向かう、丁度その曲がり角に堀川運河がある。堀川運河には、約五十年ぶりに復元されたチョロ船が係留されている。チョロ船とは、沿岸漁業で活躍していた帆走木造船のことである。もちろん材料は、地元名産の飫肥杉が使われているが、飫肥杉は軽く弾力に富み,油分が多く水に強いところから、日向灘の漁船だけではなく、瀬戸内海以西の舟材として広く使われた。海外にも輸出された。飫肥杉は日向弁甲とも呼ばれる。沖縄の伝統的な漁船であるサバ二も日向弁甲の杉材で建造されている。油津港は、大正末期から昭和十六年頃まで東洋一のマグロ漁の基地として栄えたが、その漁船の主力もチョロ船であった。全長約八メートル、幅が約2.4メートルの構造で、大小二本のマストがあるのが大きな特徴で、(ウタセ船は三本のマスト)、船首部分には、畳一枚分くらいの空間があり、横になって休めるようになっており、漁撈の合間に休憩することが出来た。和船としては二本マストは珍しい
が、西洋ではケッチと呼ぶ方式でそれほど珍しくはない。マストを二本にして
帆を二分割して操作しやすくしながら、高さを抑え、また幅広の船幅にして帆
走時の安定性を高めている。広い船幅の外側に、でい(台木)と呼ばれる縁取
りを更に施した船もある。これは帆走時に船が傾斜するのを抑止して復元力を高める役目を追加したものである。ヨットのジブセールに相当する前帆を使って風上に向かうことが可能で、行動半径が広くなり、寝泊まりしながら、南九
州の難所である都井岬、佐多岬を超えて遠く薩摩の枕崎沖まで漁に出た。枕崎までは三日かかって、主にヨコワ(クロマグロの幼魚)を獲ったという。時に
は八十貫(300キロ)もあるマグロが獲れ、荒海で魚と格闘するから、チョ
ロ船はどっしりして評判が良かった。チョロ船は、エンジンを搭載した強化プ
ラスチック繊維で成形されたいわゆるFRP船が主力となった昭和四十年以降
は、すっかり姿を消してしまった。

 瀬戸内海を中心に,西は北九州から東は太平洋岸を回って東京湾に至る広い地域においては、チョキ(猪牙船)とも呼ばれる船があった。瀬戸内海や有明海でいうチョキは五十から六十石積みの大型運搬船であったが,油津のチョロ船よりも小型の、長さ六から七メートル、幅が一・三メートル程の軽快な船である。江戸では吉原通いの船として有名であった。チョキとはその形がイノシシの牙に似ているからだというが,利尻島で見かけた、アイヌのチップの姿を今に留める、舟の先がとんがって艫は広がって横幅で安定を図る構造になっているFRPの舟と同じ形だ。沖縄のサバ二の船型とも共通する細身の波きりの良い船型である。チョキはイノシシの牙ではなく、アイヌの舟を銚子で改良したことを示す。じゃんけんのチョキも鋏で切る音ではなくてチョキ船の形に似ているからチョキという可能性もある。チョキとは隠語で掏摸のことをいう。ともあれ、チョキ船は、幅広のチョロ船とはまったく別の構造の船である。沖縄の石垣島の先の黒島で、海神祭に使われる底の浅い幅広の船を見たことがあるが、こちらの方がチョロ船のずんぐりした形に似ており、完全に和船である。北のチョキこそ、南のサバ二の船型に似ている。

 最近、筆者は、川淵和彦著「東南アジアに見るアイヌ文化の伏流」(新読書
社、二〇〇一年)を、日立製作所のOBであるM.K氏から頂戴した。御両
親が雪深い北秋田の出身で、ご母堂がよく蛙のことをビッキと呼んでいたこと
を覚えており、沖縄奄美文化圏と北秋田に共通の言葉があると知って驚いたことが潜在意識下にあり、早稲田の図書館で前述の書籍を覗いて一読して何か魅かれたと言う。「アイヌ人は、縄文人の一部をなしていたとみられ、北海道から八丈島、沖縄まで、さらに、東南アジア一帯に多くの文化が流れている。本書は,織物文化を通して、その現実と歴史に迫る!」と銘打った稀覯本を、黒潮文明論の続編を書く際の参考になればとわざわざ来訪されて手交された。まず、「アイヌ文化の伏流」は、八丈島に織物の道具としてアイヌ語の名前が残っていたと書く。原始の機で細長い帯を織る眞田織が伊豆の島に伝わるが、その織で使うヘラが八丈島でカッペタと言う。ヘラの形は八丈もアイヌも同じで、登呂遺跡など弥生時代のヘラとはまったく異なり、両刃の剣の形をしている。沖縄のうるま市に残る伊波メンサー織、アイヌのアッツシ織が縄文時代から共通して残ったようだ。母系社会において重要である長女の通称「ニョコ」が女護の当て字がつけられ、八丈は女の分解ではないかと推測して、それが与那国島では「この島の波多浜(なんたはま)に船が着くと島の乙女(ミヤラビ)どもが各々自分の阿檀(アダン)葉の草履を浜に並べる」となり、与那国の
乙女と八丈島の女子(メナラベ)とは同じ古い言葉であると指摘する。八丈島で衣をへブラと言い、蝶をアイヌ語でヘポラブと呼ぶから、沖縄のハブル(蝶)と御衣(ミソ)に繋がる可能性を指摘している。(つづく)

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