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Kuroshio 87

タマシとマブイ

電報を送るとき、朝日のア、いろはのイ、上野のウ、はがきのハ、おしまいのンと、確認するため上の句をつけて読んだが、シマチューの、特に古い言葉が残っている島の端の集落の住民には、ラジオのラがなかなか発音できなかった。ラジオがダジオになるのだ。rの音を発音しようとすると、破裂音の方が優先したからだ。前号で人と(チユー)物(ムン)の話をしたが、実は、アイヌ語のラムと言う発音の言葉が破裂音となって、rが発音できないからダムと発音するようになり、さらには清音になってタムになり、それが肉体と合わさっていることを表現してタマシあるいはタマスになってしまったのではないかと考える。タマスとは、魂のことであるが、分解すると、シが肉であることは明らかだ。南島でワーシと言えば、豚肉のことであり、鶏肉はトゥイシである。アイヌ語のラムとは心や心臓で、アッが紐だから、心の紐、ラマッが魂のことになっているから、破裂音になって、訛ってタマであるとすれば、タマシとは、心と肉体とが併存している状態を示すことになる。タマッは、日本語で美しく表現すれば玉の緒ともなるが、緒は下駄の鼻緒と同じで切れる可能性が高いから、絶えるの枕詞ともなっている。魂が肉体から離れて身体との関係が切れてしまうと死(シ)んでしまうのだ。肉体のシから離れるとタマが残るだけである。だが、黒潮の民のタマは、仏教やキリスト教とは異なり、天国に登ることもないが、地獄に落ちるわけでもなく、時間が経てば、姿も形も見えないが、共同体の中に空気のように残って、位牌や社にまつられなくても、誰しもが神様になれる。最近まで残っていた南島の洗骨の風習のように、三十三年が経てば、海岸で白骨が潮で洗われて、魂が完全に肉体から離れて純化することになり、それからが本当の魂の世界に入る。タマスという独特の山の民の言葉が、古代の狩猟と焼畑の伝統を残している宮崎の椎葉の山奥にあった。これは、元々狩猟の獲物を分け合うという意味であるようだ。猪肉(ししにく)を分配するために小切りにしたものをいう、と柳田国男の後狩詞記に出ている。似た表現になますという言葉があるが、膾は(なます)、魚貝や獣の肉を細かく切ったものであることは、日本書紀に雄略天皇が鹿を捕らえてなますにした、つまり、肉を切り分けた話があるほどに、古い時代からの調理方法としてあった。今では刺身と言っているが、野菜を刻んで混ぜた魚の刺身は、文字通りの鱠(なます)で、黒潮の民の好物で、大陸では食べない。最後のすは、酢のことではなく、肉のシがスと変化した発音である。片山龍峯氏は、アイヌ語のラマンテが、たま(魂・霊)在らす、ということで、意味が全く同じであると指摘したうえで、狩猟のことを、現代のように鉄砲で撃ち取ることではなく、「肉を解体(仮の衣を脱いでいただく)し、身体の中にある魂を外在化させ、それを丁重に神の国に送ることを意味した」と『日本語とアイヌ語』(一九九三年、すずさわ書店)に書いている。実際に、椎葉の猟師は猪を獲りに行くと鹿が出てきても、銃を撃たないし、犬を追わせることもしないという。古代の狩猟者は獲物を限定して、そのほかの動物には目もくれず、一定以上の数は獲らないし、また、子供の猪は捕らなかったという。何でもかんでも発砲して撃ち殺してしまうような乱獲の思想は古くからなかったのだ。銃弾を一発も使わないで獣を(けもの)獲った。

 さて、人が死んだということを南島では、チューヌモイシと言っているが、モイシの発音は、喪中のもにつながり、みまかることにもつながっていることだろうと思う。シという末尾の詞は、完了してしまったような響きがある。魂が果てのない、帰ることのない旅にさっさと出かけて、この世を去ってしまったが、残る者の虚脱感を感じさせる言葉である。魂のことを、タマシという場合には、魂がまだ肉体の中にとどまっていて、知恵となって表現される状態である。赤ん坊が、ハイハイをしながらだんだんを知恵をつけていく状態を、タマシが出てくると表現できるし、タマシムンといえば。平凡な人ではなく、知恵者であって凡人とは一線を画するところがあり、策略があって抜け目のない人物でことがわかる。魂のことをマブイということもあるが、これはもう肉体とは関係なくなって浮遊する魂のことである。霊魂ともいうべきところだ。お盆の時には、集落のはずれの川縁にあるお墓に線香を持って行って、先祖の霊を迎えに行ったものだったが、その際も迎える人の後についてくるのは、タマスではなく、マブイであったことは間違いない。もう肉体の関係は一切なくなって戻ることのできない世界にマブイはいる。マブイが出たといえば、幽霊が出たとほぼ同じで、目に見える現象であるが、肉体とは関係がなくなって、戻る身体のない霊のことであるから、怖い存在ではない。タマスは、出てしまったら、ユタが祈祷なりして、元の身体に押し戻して納めることができるが、マブイになったらもうおしまいで元の人間に戻ることはあり得ない。先祖のマブイであれば、むしろ子孫を守ってくれる。墓に迎えても怖くない。(つづく)

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