構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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2013年3月

Look West

マハティールに見捨てられる日本


●アジア諸国の期待の星だった日本
── 新自由主義と戦っているが、一貫してマハティール元首相の発言に注目してきたのはなぜか。

マハティール氏の発言には、日本人自身が忘れてしまっている重要なことを思い出させてくれる強烈なメッセージが含まれているからだ。
 戦後、日本社会の欧米化が進み、東西冷戦終結後には新自由主義が浸透した結果、日本人自身が育んできた文化とそれに支えられた独自の経済運営が失われつつある。マハティール氏は、「日本人は日本の伝統的価値に誇りを持て!」「日本の文明力を世界の発展に行かせ!」と励まし続けてきた。
 誤解を恐れず言えば、かつて日本はマレーシアにとって頼れる兄貴分だった。若い頃は立派な兄で、弟は多くのことを教えてもらった。ところが、兄は自分の家庭を持ってから、道を踏み外すようになってしまった。兄の家族にはそれを止める力はない。弟は必死に「兄貴、目を覚ませ」と叫んでいるのだ。兄は、弟の叫びに、早く耳を傾けなくてはならないのだ。

── かつて日本はマハティール氏にとってどのような存在だったのか。
マレーシアはイギリスの植民地となって、あらゆる制度がイギリス式に改められた。これに対して明治維新を成し遂げた日本は、アジア唯一の近代国家として独立を維持した。
 特に大きな影響を与えたのが、日露戦争における日本の勝利だ。白人に対する劣等感と恐怖感を抱いてきた全ての有色人種に誇りと希望を与えた。歴史を良く知るマハティール氏にとって、日露戦争は有色人種の歴史の一大転機として記憶されている。最近、パンカジ・ミシュラが、日露戦争がインド、中国、オスマントルコに与えた影響について書いた、From the Ruins of Empireが、ベストセラーになっている。

 次の転機は一九四一年十二月に訪れた。当時マハティール氏は十五歳。彼はタイ国境沿いのケダ州で少年時代を送っていた。同月八日、米英に開戦し、マレー半島上陸を試みる日本軍に対し、イギリス軍はタイ国境近くのジットラに防御線を築き、「三カ月間は日本の進撃を食いとめることができる」と豪語していた。ところが、日本軍は進攻からわずか四日後にジットラを突破、イギリスはマハティール氏の故郷アロースターに敗走したのだ。翌四二年二月十五日にはシンガポールが陥落した。後にマハティール氏は「英国人は無敵の存在であるという信仰は打ち破られた」と書いている。

── 結局日本は戦争に敗れたが、戦後アジア諸国は次々に独立を勝ち取った。マレーシアは一九五七年に「マラヤ連邦」として独立を果たした。

「マラヤ連邦」独立は、マハティール氏が三十一歳のときだ。その四年後の一九六一年、マハティール氏は初めて日本を訪れた。敗戦から見事に復興し、東京オリンピックの準備で沸き立つ日本をつぶさに見たときのことを、彼は次のように振り返っている。
 「日本人は信念を持ち、仕事に集中し、礼儀正しかった。車同士ぶつかると、双方の運転手が出てきてお辞儀をして素早く処理した」
 医師として活躍していたマハティール氏は、一九六四年に下院議員に初当選し、政治家の道を歩み始めた。しかし、時の首相ラーマンに楯ついて与党UMNOから追放される。この不遇時代の一九七三年、マハティール氏はマレーシア食品工業公社会長として、日本の経営手法を自分の目で見る機会を得た。
── ルックイースト政策採用に至る原体験だ。
一九八一年七月、初の平民宰相として第四代首相に就いたマハティール氏は、まもなくルークイースト政策を採用した。その主眼は、マレー人が日本や韓国の労働倫理、雇用慣行、経営手法、官民一体の経済運営などを学ぶことにあった。また、彼は個人主義に対する集団主義、共同体主義の優れた面を維持する必要があると考えていた。

── あらゆる面でイギリスを手本にしてきたマレーシアの国策を大転換したことになる。
マハティール氏は「日本に学べ」の号令をかけつつ、「これまでのマレーシア・イギリス間の特別な関係が続くことはない」と述べ、一九八一年九月の英連邦首脳会議を「実りの少ない会議に割く時間はない」とボイコットした。
 また、彼はイギリス流の慣行を廃止している。それまでマレーシアでは、どの官庁も午前と午後にティータイムと称して席をはずしていたが、マハティール氏はこの慣行を葬り去った。彼にとって、当時のイギリス文化は退廃的気風の象徴だった。一九七〇年に書いた『マレー・ジレンマ』では「今やヨーロッパ文明は衰退の兆しが、はっきりしているのである。道徳心は低下し、倫理観も荒廃し、社会に実害を及ぼすようにさえなってきている」と批判していた。

●欧米流の発展とは別の道がある
── ところが日本は、マハティール氏が手本とした日本独自の手法を自ら捨て去っていった。

一九八〇年代にも日米の通商摩擦はあったが、それでも日本は独自の経済運営を維持していた。ところが、東西冷戦が終結する一九八九年頃から、日本の規制や制度に対する批判が強まっていった。例えば、ジェームス・ファローズ氏は一九八九年五月に「日本封じ込め」と題した論文において、「自己中心的な日本人には、かつては封建領主への、そして現在は会社にたいする忠誠心や家族の名誉心はあるが、欧米の価値観である慈善心、民主主義、世界規模の兄弟愛はもち合わせていない。これが日本と欧米の決定的な道徳上の行動形態の違いである」と述べ、日本の文化、道徳的価値観、習慣のすべてを日本は変えるべきだと要求した。
 まさにこの時期に、日本の制度をアメリカ流に変えようとする試みとして日米構造協議が開始され、やがてそれは日米経済包括協議、年次改革要望書として受け継がれていく。規制改革の名のもとに、日本の制度を変革しようという試みは、小泉政権時代に一気に加速した。そして今、TPPによって再び大掛かりな日本の制度破壊の略が進めれている。

── 日本に対するマハティール氏の失望感は、察して余りある。
日本はアメリカへの従属を深め、自らの経済運営を放棄して欧米流を礼賛してきたが、マハティール氏は欧米流の発展とは異なる独自の発展の道を高らかに掲げた。彼は一九九一年に、二〇二〇年までの国家ビジョンを示し、「強い宗教的・精神的価値意識を持ち、最高水準の倫理を持つ」ことを目標として掲げたのだ。
 これは、新自由主義者たちが期待する国家の対極にあるものだった。だからこそ、マハティール氏は孤高の戦いを続けなければならなかった。
 一九九〇年に彼は東アジア経済グループ(EAEG)構想を提唱した。先進国との通商交渉を東アジアが団結して乗り切ることがその第一義的な目的ではあったが、そこには価値観を共有する東アジア諸国間の交流を深め、欧米主導の経済秩序を転換させようという狙いがあったのではないか。自由競争を徹底させ、強者が一方的に勝つような秩序ではなく、平等、相互尊重、相互利益の原則が貫かれる経済統合のモデルを作ろうという考え方だ。
 いまTPPによって、国家主権より大企業の特権が保護される時代が訪れる危険性が指摘されているが、マハティール氏はまさに欧米大企業による世界支配の危険性をいち早く察知していた。彼は、一九九八年六月、東京で開かれたセミナーで「明らかに、わずかな巨大企業だけで世界を支配することは可能だ。それに備えるかのように、大企業や大銀行は吸収・合併でより巨大化しつつある」と語っていた。

── マハティール氏は、再三にわたって日本がEAEGを主導することを要望したが、日本はアメリカの顔色を伺って躊躇し、マハティール氏を失望させた。
EAEGの枠組みの会議は、その後ASEANプラス日中韓として実現したが、日本はリーダーシップをとらなかった。その結果、マレーシアのみならずASEAN各国は中国との関係強化という道を選ばねばならなくなった。

●イスラム経済の可能性に注目せよ
一九九七年のアジア通貨危機に際して、マハティール氏はIMFが誘導する新自由主義的経済政策の導入を拒否し、通貨リンギット防衛のため、通貨取引規制を断行した。さらに、ジョージ・ソロス氏らの投機家を公然と批判した。その結果、欧米の投機家たちの逆襲を受けて、リンギットとマレーシアの株は叩き売られた。それでも彼が屈することはなかった。
── 残念なのは、孤高の戦いを演じるマハティール氏に対して、日本の新聞がそれを支持するどころか、逆に露骨な批判を展開したことだ。例えば、『読売新聞』の林田裕章記者は「マレーシアが外交・経済両面で孤立の危機に陥っている。欧米の投機筋を締め出すための株式市場規制策が裏目に出て、株価下落に歯止めがかからない」(一九九七年九月五日付、)などと書いていた。

1998年のAPECで、アメリカのゴア副大統領は場所もわきまえずに、反マハティールの演説をしたが、それと軌を一にするように、日本のマスコミの一部はアメリカの走狗となった。マハティール氏が西洋近代に鋭い批判の眼を持ち続けてきたのは、彼がイスラムの価値観を信奉しているからだ。マハティール氏はルックイーストと同時にルックウエストも進めていた。ここでいう「ウエスト」はイスラムだ。マラヤ大学副学長を務めたウンク・アジズ氏はかつてマハティール氏の政策の狙いについて、日本から良いものを取り入れ、それをイスラムの精神と結合させることにあると説明したことがある。
 首相就任まもなくの一九八二年一月、マハティール氏は、国際イスラム大学の設立構想を提唱するとともに、イスラムの教えに則った金融制度の導入を推進した。利子をはじめとする不労所得を否定するイスラムの教えは、欧米型金融システムの弊害を補完する上で極めて重要な考え方を含むものだ。
 マハティール氏によってイスラム金融推進策がとられて以来、マレーシアはイスラム銀行だけではなく、イスラム債権(スクーク)を発展させ、いまやマレーシアはスクークの世界市場の六五%を占めている。
── マハティール氏は二〇〇二年頃から、貿易取引の決済に金貨ディナールを使おうという構想を打ち出している。これは、通貨危機の際、投機による通貨変動に悩まされた苦い体験に基づいている。金貨は紙幣と異なり、変動があってもそれ固有の価値がなくなることはない。だから、投機に対する抵抗力が強いと考えたのだ。また、この構想には貿易決済における米ドル依存からの脱却という目標が込められている。
稲村 新自由主義を根源的に批判するためにも、日本人はこうしたイスラム経済の試みに注目する必要がある。

●マレーシアとの民間対話を推進せよ
最近、マレーシアの郵便局を視察したが、イスラム金融に則った金(ゴールド)の質屋行による小口融資を始めていた。マレー人家庭を訪れると、強い信仰心を維持され、親子の関係も緊密で、長幼の序もしっかりと躾けられ、貧しきもの弱きものに対する心配りや、喜捨の精神もいきわたっているのが感じられる。今回もヒスアーの埼玉大学での教え子の夫妻はメッカ巡礼に出かけていた。
 二十二年間にわたり首相を務めたマハティール氏は、二〇〇三年十月末にアブドラ・バダウィ氏に禅譲した。マハティール氏という強大な防波堤がなくなって、マレーシアに新自由主義を押し付けようとする流れが強まったかに見える。 アジア通貨危機の際には、マハティール政権の副首相を務めていたアンワール・イブラヒム氏がIMFの要求に前向きに対処しようとしていたが、彼は、ブッシュ政権で国防副長官を務めたポール・ウォルフォウィッツ氏との関係が深いとされる。アンワール氏は同性愛容疑で逮捕されて以来、反マハティール運動を展開してきたが、彼が議長を務めていた「将来のための基金」が掲げる「中東と北アフリカにおける民主主義と人権の促進」は、アメリカから三五〇〇万ドルの援助を受けていた。アンワール氏は二〇〇四年に釈放されると、ウォルフォウィッツ氏が学長を務めていたジョンズ・ホプキンス大学客員フェローに就いている。
 幸い、マハティール路線の後継勢力は健在だ。その一人が、ナジブ・ラザク現政権の国際貿易産業副大臣を務める、マハティール氏の三男ムクリズだ。彼は上智大学に留学し日本の銀行に勤務した経験も持つ。
 「日本の文明力に自信を持て!」と激励してきたマハティール氏とその後継者たちの声に、いまこそ我々は耳を傾けるべきだ。同時に、マレーシア人自身も孤高の戦いを続けるマハティール氏の主張を改めて理解すべきときなのではないか。
 イスラムの経済観は、二宮尊徳をはじめ、日本の伝統的な経済観と通ずる部分が少なくない。欧米主導の世界経済秩序を改革していく上で、日本とイスラム世界が協力することは極めて重要だ。新自由主義に抗い、アジア的な発展路線を模索するという立場から、わが国と「ウェスト」諸国との協力と対話を再構築すべきである。

The Great Wall in Tohoku but useless

http://blog.shunpunokai.com/?p=392

村上正邦先生が、東北の宮城県知事と、国土交通省が強行しようとしているコンクリート防潮堤の建設を愚行として痛烈に批判している。3月の七日付で掲載されている。祈りの日が明治記念館で開催されたのは、勿論3月11日である。

●大津波に無力な全長163km「コンクリート防潮堤」の愚行

  宮城県ですすめられている防潮堤の建設現場と建設予定地を視察してきました。
 この防潮堤は、高さが2~14.7mのコンクリート構造で、宮城県発注分だけでも、全長が163kmにもおよぶ壮大なスケールです。
 海岸線沿い、場所によっては、波打ち際に、たとえば高さ7mの壁をつくると、陸から海への眺望が断たれて、松原遠くと唱歌にうたわれた海の景観が、コンクリートの塀に閉ざされてしまうことになります。
 美しい景色と自然の生態は、つながりあい、一体化しています。
 自然環境は、つねに、美しい風景とともにあるのです。
 そのことは、美しい日本近海の豊かさが、国土の70%を占める森林から海洋に染みでる地下水によってささえられていることからもおわかりでしょう。
 163kmにわたって、コンクリート防潮堤の支持杭が土中に深く打ち込まれることになれば、森林から海にいたる地下水脈が断たれて、東日本の海は、死に瀕することになります。
 支持杭が打ち込まれなくとも、自然の景観を一変させる巨大な人工物が、海と陸の交流を断って、環境に甚大な影響をおよぼさないわけはありません。
 自然と共に生きてきた日本人なら、海の景観をコンクリートの壁で隔てる防潮堤が、自然と人間のつながりを断ち切る愚行と気づかないわけはありません。

 コンクリート防潮堤には、科学的な検討が、何一つ、くわえられた形跡がありません。
 環境アセスメントも、堤防の補強という理由から、適用を除外されています。
 科学的な検討という意味は、2つあるでしょう。
 1つは、なぜ、大津波の被害を防ぐことができなかった、コンクリートの防潮堤を再びつくらなければならないのかという素朴な疑問です。
 2つ目は、数千億円を投じるコンクリート防潮堤建設が、大津波の被害を防ぐための本格的な議論抜きで決定されたことです。
 東日本大地震の大津波は、高さが40mにたっしたといいます。
 高さ7mの防潮堤は、何の役にも立たないばかりか、台形構造の防潮堤をのりこえた大津波は、ジェットコースター効果によって、かえって、勢いをつよめて、陸地へむかうといわれます。
 しかも、陸地を暴れまわった大津波の海水は、防潮堤のダムに堰き止められ、長時間、陸地にとどまって、被害を拡大させるばかりか、復旧を遅らせることになりかねません。
 科学的な検証をおこなえば、コンクリート防潮堤が、最悪の方法だったことは、すぐにわかることです。
 ところが、国土交通省の資料には、コンクリートの防潮堤が最善の方法であるかのように書かれています。
 そして、大津波の被災者が、防潮堤の1日も早い完成を望んでいるとPRしています。
 これでは、コンクリート防潮堤で、大津波の被害を防ぐことができると、住民を騙していることにならないでしょうか。

 村井嘉浩宮城県知事や国土交通省が、コンクリート防潮堤の建設に熱心なのは、防災という観点からではありません。
 予算の分捕りのためで、同防潮堤の建設予算が、どのような過程できまったのか、いまなお、明らかになっていません。
 自民党から共産党まで、宮城県議会の全議員59人が反対したにもかかわらず、建設が決定したのは、国土交通省の「地元の意向重視」という方針を受けて、村井知事が、国交省からの指示という大義名分を立てたからです。
 そして、復興予算から捻り出した数千億円を充て、知事の権限で、工事着工にふみきったというのが、実情だったでしょう。
 コンクリート防潮堤が、防災や自然環境などにたいする科学的な視点を欠いているのは、予算主導型事業だったからで、予算さえとってしまえば、あとは、突っ走るだけというのが、これまでの、役人のやり方です。
この愚かな事業が、コンクリートから人へ、をスローガンにした民主党政権下でおこなわれたのは、嘆かわしいかぎりです。

 今回の計画では、仙台湾南部海岸のなだらかな砂浜からいりくんだ岩場にいたるすべての海岸に、画一的に、コンクリートの台形鋳型がはめこまれます。
 半ば完成している仙台湾南部海岸の防潮堤は、砂浜から100mほど陸側の 旧堤防のコンクリート補強で、その背後で、岩沼市が千年希望の丘「森の防潮堤」の盛土工事をおこなっていました。
防潮堤は、高潮やレベル1の津波被害を防ぐためのもので、防潮堤をのりこえてくる、東日本大震災級の大津波にたいしては、まったく、無力です。
大津波の被害を軽減させるのが、防潮堤の背後で造成がすすめられている盛土の森林で、仙台湾南部海岸(岩沼)では、コンクリートの防潮堤と「森の防潮堤」が、対になっているように思えました。

  そのつぎに視察した七ヶ浜町では、事情が異なります。
 七ヶ浜は、海岸線が複雑な岩場で、3・11の大津波で大きな被害をうけた地区です。
 そこに、工事予定の目印となる足場が組まれていました。
 足場の形は、岩沼のコンクリート防潮堤と同じ形状の台形で、そのコンクリートブロックが、163kmにわたる今回の大工事の基本形なのでしょう。
 七ヶ浜の工事予定は、点在する海岸線の岩礁をコンクリートでつなぐ粗雑なもので、美しい海岸を根こそぎに破壊するだけではなく、海と陸を遮断するコンクリートの壁が、大津波の海水を堰き止めるダムになってしまいかねません。
 道路から、美しい岩礁海岸の風景がひろがっています。
 その眼前に、コンクリートの壁ができると、海が見えなくなるばかりか、壁をのりこえて、大津波が襲ってきた場合に、浜全体が、ダムに水没することになるでしょう。
 163kmの海岸線には、さまざまな地形、地勢があります。これを無視して、片っ端から、既製基準のコンクリートブロックをはめこむ発想では、防災効果が期待できないばかりか、自然環境や生態系に大きなダメージがあたえられます。

 現在、岩沼市が中心になって、千年希望の丘の盛土工事をすすめ、「いのちを守る森の防潮堤」協議会が、植林する苗木を育てる支援をしています。
 七ヶ浜でも、町議や有志が、防災林の計画を練っています。
 大津波を7~8mのマウンドでくいとめ、のりこえてきた大津波を森林でうけとめて、津波の破壊力を弱め、海水が陸地へ侵入する時間を遅らせるという考え方です。
 直線的にすすんでくる津波は、森林のなかで分流され、衝突をくり返すことによって、エネルギーが分散されます。
 木々の抵抗によって、水の流れに時間差が生じて、大津波の瞬間的な破壊力が弱まるというデータもあるようです。
 宮城県の松島湾と石巻市万石浦地区で、津波の被害が軽微だったのは、津波が島や岬などの障害物にあたって、進行方向を変え、エネルギーが減殺されたためでした。
 このことから、岩沼市が15の森の丘を造成して、「いのちを守る森の防潮堤」協議会がサポートするかたちで、大津波の流れを変える計画をすすめています。
 ところが、この計画について、関係省庁は、盛土に瓦礫を混合させるとメタンガスが発生するとか、指定外の品種を植樹してはならないなどと妨害するばかりです。
 そして、一方、ゼネコン型、予算消化型の事業を問答無用にすすめています。
 
 復興庁や関連官庁は、地元が主導している防災活動を積極的に応援しなければならなかったはずです。
 地元の有志が、専門家ともに研究をおこない、活動をすすめているのは、郷土愛からです。
 かれらは、防災効果がなく、自然や景観を破壊するコンクリート防潮堤に反対しています。
 海岸線に、コンクリートブロックを打ち込んでも、高さが40メートルの大津波を防ぐことができないことを知りながら、着々と工事をすすめているのは、分捕った予算を消化するためでしょう。
そして、その乱暴な工事を正当化するために、住民の安心や安全というキャッチフレーズをもちいて、あたかも、コンクリートブロックで、大津波をくいとめることができるかのような幻想をまきちらしています。
  来る3月11日「祈る会」式典には、いのちを守る森の防潮堤建設運動をすすめられている宮脇昭先生(国際生態学センター)と支援活動をおこなっておられる菅原文太先生の講演を予定しています。
  お二人には当日、会場で、この問題について、おおいに語っていただきたいと思います。
 合掌

  被災者を悼み、鎮魂の祈りに参加しましょう
 3月11日 日本人の原点「祈りの日」式典(3月11日開催 於 明治記念館)

http://blog.shunpunokai.com/?p=396

それに続けて、政治家の無責任を糾弾している。

●だらけた世相、風潮の根底にある政治家の無責任

 わたしは、最近の日本のだらけた世相、風潮に、つよい苛立ちや不安をおぼえます。
 現在、日本をとりまいている状況、内在している諸問題は、きわめて、きびしいものがあります。
 その現実を直視し、その問題を正面からとらえ、行動を おこそうとしている政治家が、どれほどいるでしょうか。
 マスコミも、日本の将来を左右しかねない問題にはふれず、ふれても、興味本位の報道に終始して、あとは、一日中、おチャラけ番組を流しています。
 国民も、日々の出来事、娯楽、損得ばかりに目を奪われています。
 日本中が、弛緩した空気に、すっぽりと呑みこまれているのです。
 とくに、政治家の気のゆるみには、目を被いたくなります。
 国家や国民の命運を担う政治家は、危機にたいして、つねに神経をとぎすませていなければなりません。
 政治家は、天からの使命をおびた選ばれし者だからです。
 ところが、国会のTV中継を見て、微塵も、そんな気迫をかんじることはできません。
 官僚が書いた下書きを読み上げる茶番劇に、質問するほうも、されるほうも、弛緩しきっているのです。
 質問の内容を官僚が事前にチェックする現在のやり方を改めなければ、政治家の不勉強、問題意識の低下に歯止めがかからず、官僚主導型政治が、さらにすすむことになるでしょう。
 かつて、御政道をあずかった武士は、腹を切って、みずからの失策を天下に詫びました。
 現代の政治家が、この峻烈さを理解できなのは、政治が、上からの使命ではなく、下からの選挙から生じているからでしょう。
 政治が、天命ではなく、世俗の家業になっているのです。
 政治家になることは、選挙にうかって、赤絨毯をふむことではありません。
 御政道をあずかって、生死を分かつ戦場に身をさらすことです。
 たとえ、国民が太平楽にうかれていても、1人、刀の柄に手をかけているのが、政治家で、だからこそ、国家の危機をのりこえる覚悟、知恵、胆力がそなわるのです。
 過日、テレビに、山梨の別荘にでかけ、秘書官らとゴルフに興じている安倍首相の姿が映し出されました。
 安倍首相は、衆院選挙前、憲法改正や靖国神社の参拝、領土問題の解決を訴えましたが、政権につくと、すべて、参院選挙後へ、先送りしてしまいました。
 そして、領土問題をかかえる中国やロシア、韓国との外交で大きな失策を重ねました。
 習近平総書記への親書を、尖閣諸島の共同管理を公言している公明党の山口那津男代表に託し、「4島といっても、返してくれるわけはないので、せめて、3島だけでも」などと能天気なことをいっている森元首相を、特使としてロシアに派遣したのは、どういう了見だったのでしょうか。
 
 問題なのは、安倍首相の選択が、それまでのご自身の主張を裏切るものだったことです。
 尖閣防衛も北方領土返還も、一歩も後に引けない国家の最重要課題で、尖閣の共同管理や北方領土3島返還は、論外どころか、議論にもなっていなかったはずです。
 とくに、島根県と同じ面積で、北方領土の63%を占めている択捉島の放棄は、日本政府の長年の悲願を投げ捨てるにひとしい外交上の大失策です。
 安倍首相は、この失策にたいして、どのような責任をとるおつもりでしょうか。
 御政道をあずかる者は、かならず、責任を問われるのです。
 責任をとる気がないなら、安倍首相は、政治家の風上にもおけない腑抜けたお坊ちゃん政治家、二世、三世政治家の烙印が押されることになります。
 安倍首相は、安全保障や領土問題など、国家的なテーマを先送りして、専ら、経済問題で点数を稼いでいますが、金融や経済は、閣僚や政策ブレーン、官僚の仕事です。
 経済問題ばかりを取り沙汰して、国家運営の大仕事を放置しては、一国の首相として、無責任の謗りを免れないでしょう。

 だらけた世相、風潮になったのは、責任をとるという決意や覚悟がなくなったからでしょう。
 失敗しても、失策を犯しても、ゆるされる。
 これでは、天下の御政道が、立ち行きません。
 規律が緩み、不正やデタラメが横行し、モラルが破壊されて、政治が、地に堕ちるだけです。
 政治家の無責任が、国家を滅ぼしかねないのは、かつての大政翼賛会が、国の進路を誤らせた例を挙げるまでもないでしょう。
 日本歴代の幕府が峻厳だったのは、天皇から、御政道をあずかっているという覚悟があったからです。
 天皇の御心にそって権力をうごかすことが、政治家にあたえられた使命で、権力者は、民の幸と国家の繁栄を祈願されてきた皇祖皇宗の大御心にそって、決死の覚悟で、はたらく。
 それが、わが国の国体なので、権力者は、失敗すると、腹を切って天下に詫びたのです。
 天皇皇后両陛下は、東日本大震災の被災地に足を運ばれて、被災者の救済と復興をつよく願われました。
 ところが、当時の民主党政権も中央省庁も、被災地の切実な要望をはねつけて、復興予算の多くを、霞ヶ関へ返還してしまいました。
 このとき、大津波で流失した公共施設の立て替え、水没地域の地盤かさ上げ、商店街の復興、小・中学校の耐震工事、宅地造成、避難所までの道路設備などの予算は、ほとんど、却下されたといいます。
 これが、国家にも国民にも、責任をとろうとしない政治家、官僚のふるまいで、責任や使命感を忘れ、保身やかけひき、思いつきやなりゆきだけで気ままに政治をおこない、それが、国益を害っても、何の痛痒もかんじないのです。

「祈りの日」式典は、テーマに、「森の防潮堤」をえらび、講師に、植物生態学者で、これまで、4千万本の植樹をおこなってこられた宮脇昭先生、宮城県で、岩沼市とともに、宮脇理論を実践に移しておられる輪王寺住職の日置道隆さん、宮脇先生の活動を支援しておられる元俳優の菅原文太さんをお迎えしました。
 現在、宮城県では、海岸沿い160km余にわたって、高さが平均7mほどのコンクリートの防潮堤をつくる工事がすすめられています。
 被災地の復興予算が軒並みカットされたのとは裏腹に、大津波に無力で、自然環境や景観を破壊するだけのコンクリート防潮堤に、3千億円の予算がついたのは、工事が、宮城県村井嘉浩知事と国土交通省のお手盛りだったからでしょう。
 村井知事は、160km余にわたって、無粋なコンクリートの塊を打ち込んで、自然の生態系と東日本の美しい海岸線を破壊した責任をどうとるつもりでしょうか。
 宮脇先生の講演で、印象的だったのは、宮脇先生が、天皇皇后両陛下に御進講をおこない、そのとき、両陛下から、平成の森をつくってくださいというおことばを賜ったというエピソードでした。
 後日談になりますが、当日、来賓のスピーチをいただいた亀井静香衆議院議員が、翌日以降、工事の中止をもとめて、国土交通省と交渉を開始しました。
 両陛下の御心にそった亀井さんの行動は、政治家の鑑で、政治家や役人が、早くから、両陛下の御心にそっていたら、復興は、これほど遅れることがなかったでしょう。
 現在の日本の弛緩は、元凶が、使命感を失った政治家の ていたらくにあったと断言せざるをえません。

How to save the Sun

http://blog.livedoor.jp/donnjinngannbohnn/archives/1745414.html

上記のリンクには、高橋清隆氏による亀井静香議員のインタビュー記事が掲載されている。亀井静香議員の憂国の見識が吐露されている。

郵政の末路は『七人の侍』

——郵政民営化改正法は昨年、亀井さんの捨て身の働きかけで通ったが、なかなか新規事業が認められない。

亀井 アメリカだよ。特に保険の部分、学資保険の改訂版をはじめ、あらゆる面について妨害している。

——宿敵の自民・公明両党を巻き込んでまでやり遂げたが。

亀井 だって、民主党がやる気なくなったから、そういう禁じ手を使わざるを得なかった。

——禁じ手を使ってまでやりきったのは、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉参加の足音が聞こえてきた警戒感からか。

亀井 それもあるけど、あの法律は郵政見直しの必要から、どうしても出さなければならなかった。7年前、地獄の底で国民新党を結党し、わずか5名で「やるぞ」と決めたことだから。

——その仕掛け人である亀井さんが全く忘れられて、全特(全国郵便局長会)の柘植芳文(つげ・よしふみ)前会長が自民党公認で出ることになった。

亀井 おれは柘植に言ってやった。「おれが7年前の郵政の大会で言ったのを覚えているか。おまえたちは『七人の侍』という黒澤明の映画を見たことがあるか」と。「郵政事業の見直しは必ずやる」と、わずか5名の野党が宣言した。「いやあ、やれるかなあ」という顔をしていたけど。「やった後、国民新党や亀井静香に対して、あんたたちはどういう態度を取る分かってんだよ」と警告していた。
 映画の最後は、村娘までが冷たい目で村から追い出す。柘植がこないだ電話を掛けてきて、「すまん」みたいなことを言うから、「勝手にしなはれ」と応じた。いいんだよ。おれはお見通しだよ。だって彼らは地域社会のために、日本国のために作ってる団体じゃない。トラック協会なんかと同様、自分たちの利益を守るためにある団体だ。だから、7年前から大観している。当たり前のことが起きてるだけのこと。生々流転。いいんじゃないか。」

Sakura and Indonesia

Le Snob humanitaire.

Le Snob humanitaire.

San Franscisco Peac Treaty and Independence

月刊日本主幹、南丘喜八郎先生の大演説である。先に紹介した、嘉数昇明氏の沖縄の視点からの主権回復の挨拶と併せて、必見の解説である。

San Franscisco Peace Treaty and Continued Occupation

61年前の昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効した。占領統治が終わり、GHQが日本国から撤退した日で、国家主権を回復した歴史的な記念日であるが、「これは本当に主権の回復だったのだろうか、真に主権回復したと言えるのか」と言う問いが突きつけられている。

サンフランシスコ講和条約第三条によって、沖縄は日本国からきりはなされたので、4月28日は、政府が同法である沖縄を切り捨てた、悲しみ、失望、痛み、屈辱の日として、沖縄では記憶されている。「「親が子を質に入れて獲得した「独立」だという比喩が、あながち的外れではない」。

沖縄県副知事であった、嘉数昇明氏が、昨年の4月28日に、主権回復60周年記念国民集会における挨拶である。。

当方ブログは、自立自尊の日本を追求する立場から、嘉数氏の格調高い挨拶に賛同する。日本は、真の独立を果たしているのか、との問いかけを継続するとともに、TPPや構造改革論をはじめとして、むしろ属国化が進行していることに警鐘を鳴らすものである。

なお、動画像には記録がないので、実際の演説の際にはしょられたと考えられるが、演説の原稿には、下記の◆の部分も書かれていたので、ご参考までに、紹介しておきたい。

固有の領土たる尖閣列島に主権の発露たる実効支配を積み重ね、主権の内実を確保する為に国の普段の努力が欠けていたのではないのか、日本がなめられている、わが国の政治の怠慢や劣化がいるのではないかと思う、サンフランシスコ条約を語るとき、その発端となった太平洋戦争をはじめとする日本が係わった戦争に思いを致さなければならないと思います、と述べた以降の挨拶の映像から、◆の部分がぬけている。

◆私は戦後の日米関係を見るとき、アメリカ人は70年のスパンで捉え、日本人は60年のスパンで考えているとの感を深くする。アメリカ人は真珠湾攻撃を起点としているのに、日本人の視点はサンフランシスコ条約からスタートしているのではないか。この10年間の空白が歴史認識のギャップとなっている。

◆昨年9月にハワイに行ったが、日米開戦70周年を迎えたハワイで貴重な体験をした。真珠湾を訪れ、今なお海上に油を流しながら鎮魂のメモリアルの場になった戦艦アリゾナ号、記念資料館の数々のパノラマ展示、沖縄の学童疎開船対馬丸を撃沈した潜水艦ポーフィン号の展示、捕らえられた人間魚雷展示、更に1945年9月2日東京湾上、勝者と敗者に分かれて重光葵日本全権代表とマッカーサー連合国最高司令官などが対置して、降伏文書が調印された戦艦ミズーリ号の繋留展示などを間近に見るにつけ、日米間に横たわる歴史の重みに圧倒される思いを禁じ得なかった。

◆特に写真や映画でしか見たことのないミズーリー艦上の降伏調印式のれ岸的場面の同じ甲板の上に立ったとき、タイムスリップしたいいしれぬ特別の感慨を覚えました。

◆米国は、自国民は勿論、訪れる諸外国人に対しても、日米開戦の発端から日本の降伏にいたる劇的な歴史の展開を、効果的に再現してみせる舞台設定に唸らされました。

◆これまで私は、ハワイの米太平洋軍司令部を数度訪れる機会がありましたが、そこのボードに掲示された標語「リメンバー・パールハーバー」の文字に釘付けになりました。その時に、それは米国土への日本軍の襲撃を許した自らへの戒めと同時に、今日、同盟国であっても、かつて敵国として戦火を交えた日本への根底になる冷めた認識を痛いほど感じたのである。対日政策の根っこにしみ込んでいるアメリカの告解しに触れたように思いました。

◆リメンバーとは、単に思いおこし名代ではなく、ドントフォーゲット、むしろネバーフォーゲットとして、理解するのが正しいのではないかとさえ思った。いっぽう、戦争を仕掛けた我が日本の方では太平洋戦争が風化して忘れ去られようとしているのではないか。日米間に横たわる認識のギャップの存在を改めて見つめ直す必要がある。

◆更に、私は、2005年、戦後60周年の節目の年に、サイパン、テニアン、ロタ島へ慰霊墓参へ参りました。多くの日本人、その大半は沖縄県出身者が、米軍に追い詰められて、バンザイクリフと呼ばれる断崖絶壁から身投げをした激戦地である。特にテニアン島は、B29エノラゲイ号が、原爆を抱いて広島長崎へ飛び発ち、更に東京などへの主要都市へ空襲にとびたった因縁の島であります。その飛行場の跡地に立ったとき、身震いするような複雑な感慨をおぼえました。

◆その年、天皇皇后両陛下におかれては、南洋の島々や海域で散華された多くの御霊を慰霊する為にサイパンを初めて訪問され、遺族関係者を激励し、今後の日米友好への足跡を残されました。

と原稿には書かれているが、◆の部分は、動画像には記録されていない。

そして、動画像の部分に戻ると、

 かつて戦地となった太平洋の島々から、我が日本を眺めたとき、太平洋の島々アジア各地、沖縄、本土各都市で失われた多大な生命や財産を思うときはたして、あの戦争で得たものは何だったのかと思わずにはおられませんでした。

 そして、戦後日本の独立や主権を大切にし、それを守るために普段の努力をして行く決意と覚悟が必要であり、日本の政治蚊は、安保の恩恵については語るがそれに伴う負担については語らない、行動しないと、指摘するアメリカ人の友人がいる。

負担の公平がなければ、日米安保は早晩行き詰まり、空洞化、砂上の楼閣となっていかないか危惧する。喜びも悲しみも共にわかちある日本でありたいと願う。4.28がそれを目指す決意や覚悟を新たにする日であって欲しいと思うと述べて、

挨拶を締めくくっている。

Kuroshio 89

東北から西表島に漂着した郵便ポスト

トカラ群島の中之島の南東端にある台形状をなすセリ岬の上に大きな灯台がある。中之島灯台である。標高三八メートルの岬に立つ。中之島の東北方約二・五キロ沖合に標高二八メートルの平瀬(ひらせ)という岩島があり、その東を通る場合は黒潮が押すので安全だが、西を通ると島に押しつけられるようになって危ない、と灯台は照らす。奄美大島を船が出ると、横当島(よこあてじま)の南を通って、トカラ群島を左に見ながら北上する。奄美大島の東側には〇・五ノット程度の黒潮の反流がある。屋久島の近くでも西に抜ける反流があり、特に冬場は波がきつくなるから、定期船は無理をしないで種子島海峡に入る。そうすると屋久島の高山に風が遮られ、ヨットは風がないから走れないが。商船の航海は快適になる。筆者の乗った艇は、黒潮を横切って錦江湾に向かったから、屋久島の西側を通った。黒潮が盛り上がって見え、その黒潮に乗って米軍の輸送船が北上しているのを見た。屋久島の西海岸は海からそそり立つような絶壁が続いて、所々に滝が雨の筋糸のように海に直接降り注いでいる景色を覚えている。大隅半島の先の佐多岬近くには北西からの強い反流があり、急潮と波がぶつかる難所である。そこを迂回するようにして、開聞岳の長崎鼻をめざし、山川湊に入港して燃料などを補給した。登り口説(ぬぶいくどぅち)を、声に出さないで歌ったことであった。種子島の北の岬からは、薩摩半島に向かうのは、潮が逆流で難しい航海になり、種子島からは、志布志との船の往来が遙かに容易であることが分かる。種子島の北の岬から眺めると志布志の湾がすぐ手前に見える。隼人の軍船は、種子島で屋久島の杉材で建造したものと想像する。種子島と屋久島とは大隅半島への往来が頻繁にできるが、薩摩への往来には、帰りの潮の怖さがある。

 四月の季節の風は、日本列島沿いと太平洋の沖に出ている場合とではどちらが強いかと言えば、低気圧の居場所にもよるが、沖の方が弱いのではないかと定期船の船長は指摘している。黒潮の中に居るのかどうかは水温ではかっても僅かの違いで分からない。船の能力以上にスピードが出ていると黒潮の流れの上に居ると判断するし、波を見て、黒潮の中では、波の状況が悪いのが普通であるという。黒潮の中を南に走っていると、風はないのに、波が高いから、帆船では船はまったく進まない場合もある。さて、黒潮に乗って北上して紀伊半島の先の潮岬を過ぎると、そこから石廊崎までは黒潮が東から西に真横に流れて風が向かい風になる可能性がなくなるので、帆船は直線コースで走ることができる。石廊崎を過ぎてから、もう半日の距離でしかない三浦半島のレースの終点までは、八丈島に向かって流れる黒潮の本流に別れを告げて、伊豆の島々の北側の神子元島の内側を通るか外側を通るかの判断が必要になる。下田の爪木崎の沖も山のような波が打ち寄せる場所であるから、風を見ながら波の高さとの兼ね合いで、船をどのように早く走らせるかという微妙な技術の競争になる。下田の白浜神社の御祭神についても以前書いたが、ヨットレースの順位は、黒潮の流れと石廊崎で分かれてからの、相模湾での操船の腕に左右されて入れ替わってしまう可能性もあり、おもしろさがある。黒潮は、昭和九年に黒潮異変と呼ばれた異常現象が発生したことがあるが、遙かに紀州沖を南に迂回して静岡県の沖を海岸に沿うようにして流れた。中層水が紀州沖で湧き出したのが原因だとされた。昭和三八年にも、深層水が湧き出て、冷水塊をつくって流れが大きく蛇行したことがある。大蛇行をしたり、真横に流れたりと変化しているから、いつも同じ流れがあるわけではない。

 東北大震災で大津波があり、宮城県南三陸町から流されたとみられる郵便ポストが2400キロの海上の漂流を続けて沖縄県西表島へ漂着した事件があった。平成24年12月28日、沖縄県竹富町西表島の北東部にあるユツン川の河口付近の海岸に郵便ポストが漂着しているのを近くの住民が発見したのであるが、高さ約六六センチ、幅約三三センチ、奥行き約四五センチ、重さ約二〇キロ。塩害による腐食を防止する塗装が施されていたポストで、原形を留めたまま支柱から抜けた状態であった。中には郵便物はなく、砂や海藻類が入っていたほか、表面には貝が付着しており、「セブン歌津」の標識が残っていたことから、宮城県南三陸町歌津にあった「セブンイレブン宮城歌津店」の前に設置されていたポストであることが判明した。東日本大震災から一年九ヶ月以上もの長い時間を経て漂着したことになる。震災ゴミがまず親潮に乗って南流し、それから桔梗水の黒潮に乗って太平洋を横断して、アラスカや北米大陸沿岸などに漂着することが話題になっているが、黒潮には反流があって、東北から南西諸島の八重山の島までの海路のあることが明らかになったことは痛快である。これまで西表島にアイヌの言葉が残っているなどと縷々書いてきたが、東北の黒潮の民の同胞が北米の沿岸だけではなく大日本(おほやまと)の南端にも到達できることを、郵便ポストが見事に証明したのである。 (つづく

Promenade 4

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Forest to Save Life 2

Forest to Save Life

命を守る森を創ろう。

木蓮の花


Pope from Argentine

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Pope from Latin America

Politics Betrayed

次のような記事がでた。国民新党の自見代表が自民党に復党しようとして,自民党が断った話である。自民党幹事長のぶら下がり会見と称する新聞記者の質問に対する回答ぶりである。

①公党間の合流は断った。解党して、無所属議員として復党を申請しても断る。

②郵政民営化を見直しを実現した段階で国民新党の役割を終えたのであれば,法律成立の時点で解党するのが筋であった。

③松下大臣の遺言話は関係ない。

④郵政民営化をめぐって「わが党はそれまで支援団体であった郵便局の方々を敵に回す形で選挙を行ってまいりました。」「3年半前に、我々が野に下った時に、それぞれ非常につらい思いをした。しかしそこにおいて、我々は多くの議席を失い、民主党・国民新党が多くの議席を得られた状況は、私は嶷然(ぎょくぜん)として残るものだと思っています。本日、ただいま国民の支持を得て、与党になったので、合流しよう、復党しようというのは、野党時代につらい思いをしてきた、国民新党にいろいろな批判を受けた我々としては、一緒にやるのは、なかなか承服し難いものがあります。」

などと述べている。

不十分ながら郵政民営化見直しを実現した段階で国民新党の役割を終えたとの指摘はポイントをついている。亀井代表を追い出すようにして、代表についたのが自見議員だったからだ。今更未練がましく復党しようとすることも,首尾一貫しない。しかも、自民党には、新自由主義を標榜する勢力、例えばTPPを推進して、郵政民営化を推し進めようとする勢力も残っており、党として、郵政民営化を含む一連の構造改革政策を完全に放棄しているわけではないし、失敗を認める気配はない。解党して、出戻りする動きもおかしな話である。新自由主義と訣別しきっていない自民党の幹事長の発言は、当時の国民新党の発言は悪かったと言わんばかりで、郵政民営化の虚妄を推進した小泉・竹中政治について、一遍の反省も見られない。うやむやにしているだけである。そうした情勢の元で、郵便局長会は,旗色を明らかにしていない自民党支持に回帰すると決定したとの報道がなされている。「方針を180度転換するのであれば、それだけの大義と信念が必要」との声の方が説得的である。郵政民営化法の見直しは実は、95%の議員立法によるものであり、政党間の約束によるものでもなく、内閣提出法案でもなかった。菅内閣以来新自由主義の政策にとらわれた民主党は,再三にわたって約束を反故にしたが、そうであっても,幾人かの政治家は、自民党以外でも郵政民営化の虚妄を追求し続けた同志の政治家もいた筈だ。ましてや、郵政民営化の見直しには、多くの国民が支持したのだし、単に自民党支持者ばかりではなかった。そうした関係者との信義も大切にして然るべきである。綿貫民輔元衆院議長や、亀井久興元議員、亀井静香元代表などとの意見交換があったのだろうか。

単に長いものに巻かれろでは、政治にはならないし、また国家や共同体の存亡の危機に立ち向かう理屈づけにはならない。単なる政治的な安易な野合と集票マシーンとも呼ぶべき羊の群れとして、新自由主義を標榜する属国化の政治を固定する勢力に堕してしまうだけの話である。(郵政民営化の本質的な目的は、日本の国民資産の外国移転と投機経済への投入であったが、リーマンショックがあって、天佑となって停まった。グローバリゼーション自体が、上げ潮と言われて標榜したが、実態は引き潮であって、世界ではその調整期に入っているにもかかわらず、そうした勢力に加担することにはならないのか。)自立・自尊の日本を求めて、国家や共同体の、町や村の礎となろうとする、条約改正の原動力として位置づけた前島密以来の、気概とは似て非なるものである。力がまとまって結集できるような筋書きと理屈が欠落している。日本を破壊しようとする新自由主義者と外国勢力がほくそ笑んでしまうような、謀略のシナリオが仕掛けられて、安易に嵌まってしまって右往左往している感だ。

http://www.jimin.jp/activity/press/chief_secretary/120234.html

平成25年3月8日(金)16:40~16:45
於:院内第23控室前

(代表質問)日本テレビの槻木です。国民新党の自見庄三郎代表との会談の内容をお聞かせください。

国民新党と自由民主党の合流については、正式にお断りしました。わが党として、そのようなことはお受けすることはできない、これが一点目です。
国民新党は、まだ解党しておらず、解党された後に、仮に、無所属議員として自見参議院議員が復党の申し入れをしても、それをお受けすることは極めて難しいという旨を申し上げました。私は、幹事長として、この問題について、これで決着をつけたいという旨、申し上げた次第です。

(代表質問)日本テレビの槻木です。自見代表からの重ねての要請ですが、自見代表は納得されたのですか。

「これからも一兵卒として、是非とも志を同じくする自民党と一緒にやっていきたいので、よろしくお願いしたい」という意思の表明がありました。

(代表質問)日本テレビの槻木です。それに対して、幹事長から何かありましたか。

重ねて国民新党を解党され、無所属議員となられる自見参議院議員が復党をお願いしても、党内状況から極めて難しい旨、申し上げた次第です。

産経新聞の水内です。そのように判断された理由をお聞かせください。

これは自見代表から郵政民営化見直しを実現できた。その時点で役割を終えた旨の発言があったが、そうであれば、法律成立の時点で解党されるのが筋であったと申し上げました。施行まで見届けたかったということでしたが、法律が成立して、施行されなかった例は、少なくとも私はあまり承知していません。やはり党の責任というのは、法律が成立するまでということが一つです。

もう一点は、昨年10月の鹿児島3区補欠選挙において、民主党の推薦を受けた国民新党公認候補がわが公認候補と死闘を繰り広げたことについて、松下忠洋大臣の遺言であったからということは、国民・主権者に対して、信を問う場合、遺言であったからというようなことは関係のない話である。情においてはそうかもしれません。有権者の方々に信を問うという意味では、そのことは、私は考慮に値しない旨、申し上げた次第です。やはり、郵政民営化をめぐって、わが党はそれまで支援団体であった郵便局の方々を敵に回す形で選挙を行ってまいりました。

3年半前に、我々が野に下った時に、それぞれ非常につらい思いをした。しかしそこにおいて、我々は多くの議席を失い、民主党・国民新党が多くの議席を得られた状況は、私は嶷然(ぎょくぜん)として残るものだと思っています。本日、ただいま国民の支持を得て、与党になったので、合流しよう、復党しようというのは、野党時代につらい思いをしてきた、国民新党にいろいろな批判を受けた我々としては、一緒にやるのは、なかなか承服し難いものがあります。私自身そのような判断をした理由は、そのようなことに基づくものです。先輩議員でもありますし、公党の代表ですし、そういう自見議員に対して、そのようなことを申し上げることは、非常に心苦しいものがありますが、自民党の党務をお預かりする者として、その判断に迷いはありません。

共同通信の下山です。最終的に自見代表から何かありましたか。

「これからもよろしくお願いします」ということなので、その真意はよくわかりません。「これからもお願いします」ということを問い詰めることもしませんでした。この問題については、これで決着がついたものだと考えています。長い間、お騒がせいたしました。

No! TPP

総選挙の時点では、自民党は、聖域なき関税撤廃を前提とする限りTPP交渉には参加しないと明言したが、その後、日米首脳会談で聖域なき関税撤廃を前提とするのかどうかの感触を確かめたいとなり、日米首脳会談では、共同声明をもって、聖域なき関税撤廃を全体とするものではないことが確認できたとの趣旨の発言が行われた。安倍政権はTPP交渉への参加を表明する可能性が高いとされる状況になっている。

しかし、日米の共同声明に守られた内容で、TPP参加の条件明らかになったと考えることが完全に誤りであり、日本の国益が守られる保障はまったく得られていない。自民党は政権公約として、6項目を明示したから、これを踏まえて、国民の多数が安心して、TPP参加に狂奔した民主党を見限って自民党に投票したのであるが、そうした国民の期待を裏切るものである。安倍政権がTPPに参加を表明することになれば、野田民主党政権の裏切りと本質的には同じものであるとして、国民の支持は、急速に低下することは間違いない。

日本国民の生命・健康を守る制度などが破壊され、公的な世界に冠たる医療制度が破壊され、日本の山紫水明を守る農業が壊滅して、それに引き続いて伝統、文化、共同体が破壊される、ことは,ほぼ間違いない。

こうした重大な変化を強制的にもたらす手法がいわゆるISD状況である。投資によって、期待した利益を得られなかった国際資本が国際機関に提訴して、この国際機関が裁定を下すという、恐ろしい治外法権の世界が現出するという仕組みを受け入れることになるのである。交渉に参加してその後に判断すればいいなどと言う意見があるが、交渉に参加してからTPPに参加しないという選択肢は事実上はあり得ない。当方ブログは、TPPはハワイの併合、あるいは,ジブラルタル化と主張してきているが、まったく日本の自立と自尊を失う自殺行為であり、第二の敗戦でしかない。外国の支配に屈従して、巨大な負担を日本国民が負うことを許してはならない。

TPPに参加しない方が、日米間の対等で安定的な関係を維持することにつながる。ましてや、世界中の国との微妙な調整は、一方的な制度を押しつけることではない。これまでの、FTAの交渉が多角的に行われて何の問題があるとでも言うのだろうか。日本を隷属させるという意図があることは、ウィキリークスで漏洩したとある国の外交公電でも明らかになって居るではないのか。日本を弱体化させる方策に日本政府が加担する?!世も末の混乱に陥っているのだろうか。

Ambulance

救急車で病人が運ばれたが、受け入れる病院がたらい回しになって時間がかかり、お亡くなりになったという事件をマスコミが報道している。しかし、おかしな話だと思わないだろうか。いまどきの情報通信が発達した時代に、何処の病院が空いているのか、スマホでちゃんとわかるようにしておくことの方が大事で、時間をかけて次々と電話をかけて調べるなどと悠長なことをする方がおかしいのではないだろうか。ましてや、救急車が救急患者の入院先を探してサイレンをならしてあちらこちらを受け入れて呉れる病院を探して、走り回るのが立派な話とは思えない。数分おきに電話を駆け回ることが本当に努力していることは認めることにしても、どこかにむなしさが残る話である。情報通信の端末にどの病院が開いているのか、救急車を受け入れる用意があることが、ちゃんと表示されて、そこまでの最短距離が表示されるとか、ヘリコプターで空輸するとか、その他諸々の手段や、必要な情報が表示されるとか、色々な方法が考えられて良い。

日本は、どうにも発想が貧困な国になったようだ,あるいは、すべてが硬直的で官僚的な国になってしまったのか。市場原理主義と言うのは、市場が本当は自由ではなく,一部の連中が最大の利益を上げることができるように、色々な進歩の芽を摘んでしまう思想であるから、技術の進歩などを公共のサービスが導入することがあっては、救急車の民営化ができなくなって、どこかの外国勢力を後ろ盾にしたリース会社の既得権が儲からなくなってしまうから、困るのであろうか。

新自由主義によってもたらされる時代の拝金の思想を原因とする貧困が克服され、解決されなければならない。日本の国の形は万民を幸せを祈ることであり、一部の,自称選ばれた民だけが、救急車の便益をうけることではない。何処の病院が開いているのか,救急の患者を受け入れるのか、最新の情報通信技術で、簡単に表示されるように、最新の技術が、公共の救急医療のシステムとして整備されることが必要であり、これ以上の犠牲者を出させてはならない。厚生労働省の関係者は、問題解決の為に奮励努力すべきである。改めて、現場で、救急患者の生命を守るために日夜努力を続けて入関係者に敬意を表することとして、その努力を空しいことにしないためにも、技術革新に対応した新たな投資が求められて然るべきである。

Cohabitation

飯山一郎氏のにぎやかな?後援会の模様である。ご参考まで。

鮟鱇 あんこう

大洗の高速道路入り口の近くにあった魚市場の入り口に、鮟鱇がつり下げられていた。

拉致

横田めぐみさん他、800人の日本人を帰せ。横田滋様ご夫妻の悲しみを共有したい。何と無力な政治になったことか。青いリボンをつけて罪滅ぼしをしているような政治家の数だけは増えたが。

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黒潮830マイルのヨットレース

 沖縄の本土復帰に先駆けて、沖縄本島の那覇港から昭和四七年四月二九日に出港して、三浦半島の城ヶ島を終着点とする本格的な外洋ヨットレースが開かれたことがある。那覇から城ヶ島まで距離にして八三〇マイル。世界的に著名な外洋ヨットレースと比べても、過酷なヨットレースとされるシドニーとタスマニア島のホバート間のヨットレースでも六〇〇マイルほどでしかないから、距離が長いばかりではなく、気象変化が激しく移動性高気圧と温帯低気圧がやってくる季節に開催され、しかも、半分以上のコースで最大四ノットを超える黒潮の流れに乗ることから、いろいろな面で話題のあるヨットレースであった。このコースを走る定期船、琉球海運の東京丸の船長を招いて、日本外洋帆走協会の大儀見薫氏やその他のヨットの船長を交えて座談会が行なわれた。ヨットの雑誌『舵』の昭和四七年、つまり沖縄の日本復帰の年の三月号に座談会の記録が残されている。沖縄から本州の三浦半島までの航海がどんなことになるか気象や海象についていろいろ議論が行なわれているので、この座談会記事を頼りに、黒潮の民がその昔、帆をかけた舟でどのように南島を離れ、ヤマトゥに向けて出立したかを知るよすがとすることにしたい.

 まず四月末という時期であるが、春一番は吹き終わっており、台湾坊主と呼ばれる春の嵐ももう終わっていて、移動性高気圧と温帯低気圧とが三~四日の周期で交互にやってくる季節だ。時化あり、凪あり、向かい風あり、追風ありと、風波の変化は実に激しい。筆者はかつて、「SAIL OSAKA ' 97」 (セール大阪九七)という大阪市が主催した香港から大阪までの外洋ヨットレースに乗組員として沖縄から鹿児島までの一部区間に乗船したことがあるが(優勝艇となったが、鹿児島で筆者は下船した)、このレースも九七年の四月中旬に那覇港を出港している。那覇から奄美大島の瀬戸内の古仁屋に寄港したが、翌日は強風警報が出されて二晩避難した記憶がある。奄美大島と横当島の間の高波が山のようで、ヨットは駆け上るようにして浮き上がり、波のてっぺんからは、船首を突っ込むようにして駆け下りる、上下動が長い時間続いたように思う。ロシア海軍の士官候補生を乗せた練習用帆船パラダ号という名前の大型帆船が参加していたが、たまたま船長の息子とおぼしき士官候補生が、筆者が乗船するヨットに同乗し、海況の悪さのせいで船酔いをして船室にこもりきりになっていたことも記憶に残る。ソ連共産党が倒れた直後であったから、古仁屋では島の古株の共産党員が、バスの中でロシア海軍を歓迎するつもりで、ああインターナショナルと歌ったら、そんな歌を歌うなと、水兵が怒って殴りかかろうとしたことがあった。ソ連崩壊の混乱のせいか、水兵の中には、自転車を盗み、古タイヤを持ち帰る者すらいた。有名なヨットマンの南波誠氏が救命胴衣をつけないまま四月二三日に鹿児島港を出港したヨットから海に落ち行方不明となった事故も忘れられない。

 黒潮は屋久島から都井岬へと非常に利用効果があると、定期船の船長が座談会で指摘している。足摺、室戸、潮岬まで、黒潮は陸から三マイル半まで近づいて流れていること、季節風と台風は四月下旬から五月には来ないことも確認している。要するに、冬場はあまりにもヨットにとっては厳しい海象になるので開催不可能であるとすれば、台風の来ない時期としては、ヨットレースをするタイミングはこの四月後半から五月にかけてしかないことが重要である。四月には、凪いで海面が鏡のようになることもある。ヨットはある程度風がないと走らないから、本当なら困ったことになるのである。実際に、筆者の参加したヨットレースでも、薩摩半島の山川港から錦江湾内の鹿児島港まで風がなくなって機走(エンジンで走ること)をした記憶がある。ただ、七島灘を渡るには最良の季節である。四月頃は東の風だけではなく、南風もあり、様々に不安定な風が吹く季節である。歌謡曲の「島育ち」の歌詞に、「朝は西風、夜は南風」とあるが、朝夕に正反対の風が吹く季節なのである。定期船の場合は都井岬から三マイル、足摺岬からは一五マイルほど離れれば、黒潮の本流に乗れるが、本州から沖縄に向かって黒潮に逆らい最短距離で航海しようとして真っ直ぐ沖縄に向かって走らせたら、時間は二時間四五分、距離はわずかに二二マイルしか変わらなかったということである。帆船や櫓櫂を頼りにする舟が沖縄から本州に渡る場合には、多少遠回りをしても黒潮に乗ることが重要である。沖縄から本土まで、春先には北東の風、つまり真向かいの風は吹かないという指摘も興味深い。足摺岬を過ぎてからは、横風を受けて驚くような早さで帆走できる。定期船が佐多岬まで西側を通るというのも、種子島の南東端、大竹崎と七尋礁の間に危険な暗礁があるからだそうである。しかし、トカラ列島は、島が小さい割に標高が高く、海は沿岸近くでも深いから、航海は非常にやりやすく、座礁することはないと、定期船の船長は言い切っている。(つづく)

For post Occupation

前泊博盛教授の、日米地位協定についての著書がいよいよ発売になった。一大ベストセラーとなった、孫﨑享氏の「戦後史の正体」に引き続いて創元社から出版される。大地震と原発の暴走があって、永久占領体制から訣別して、自立・自尊の歩みを続ける日本を象徴するような出版である。

本の紹介の文章は次のように書かれている。ご参考まで。

「原発再稼働、不況下の大増税、オスプレイ強行配備、TPP参加、憲法改正…日本はなぜ、こんな国になってしまったのか?
「戦後日本」最大の闇に迫る。

1 日米地位協定Q&A(日米地位協定って何ですか?;いつ、どのようにして結ばれたのですか?;具体的に何が問題なのですか?;なぜ米軍ヘリの墜落現場を米兵が封鎖できるのですか?その法的根拠は何ですか?;東京大学にオスプレイが墜落したら、どうなるのですか?;オスプレイはどこを飛ぶのですか?なぜ日本政府は危険な軍用機の飛行を拒否できないのですか?また、どうして住宅地で危険な低空飛行訓練ができるのですか?;ひどい騒音であきらかな人権侵害が起きているのに、なぜ裁判所は飛行中止の判決を出さないのですか?;どうして米兵が犯罪をおかしても罰せられないのですか?;米軍が希望すれば、日本全国どこでも基地にできるというのは本当ですか?;現在の「日米地位協定」と旧安保条約時代の「日米行政協定」は、どこがちがうのですか? ほか)
2 外務省機密文書「日米地位協定の考え方」とは何か
資料編 「日米地位協定」全文と解説

どうして米兵が犯罪を犯しても罰せられないのか? 現代日本のさまざまな問題の源流、日米地位協定の真実に迫る衝撃の一冊。

なぜ米軍は自国ではできない危険なオスプレイの訓練を日本では行なうことができるのか? なぜ日米地位協定は日本国憲法の上位法として扱われているのか? 基地問題だけでなく原発事故やその再稼働問題、TPP参加問題など、現在の日本で起きている深刻な出来事の多くが在日米軍がもたらす国内法の機能停止状態に起源をもっている。ベストセラー『戦後史の正体』に続くシリーズ第二弾は「戦後日本」最大のタブーである日米地位協定に迫る!

【目次】

PART1 日米地位協定Q&A(17問) 

1: 日米地位協定って何ですか?
2: いつ、どのようにして結ばれたのですか?
3: 具体的に何が問題なのですか? 
4: なぜ米軍ヘリの墜落現場を米兵が封鎖できるのですか? その法的根拠は何ですか?
5: 東京大学にオスプレイが墜落したら、どうなるのですか?
6: オスプレイはどこを飛ぶのですか? なぜ日本政府は危険な軍用機の飛行を拒否できないのですか? また、どうして住宅地で危険な低空飛行訓練ができるのですか?
7: ひどい騒音であきらかな人権侵害が起きているのに、なぜ裁判所は飛行中止の判決を出さないのですか?
8: どうして米兵が犯罪をおかしても罰せられないのですか?
9: 米軍が希望すれば、日本全国どこでも基地にできるというのは本当ですか?
10: 現在の「日米地位協定」と旧安保条約時代の「日米行政協定」は、どこがちがうのですか?
11: 同じ敗戦国のドイツやイタリア、また準戦時国家である韓国などではどうなっているのですか?
12: 米軍はなぜイラクから戦後八年で撤退したのですか?
13: フィリピンが憲法改正で米軍を撤退させたというのは本当ですか? ASEANはなぜ、米軍基地がなくても大丈夫なのですか?
14: 日米地位協定がなぜ、原発再稼働問題や検察の調書ねつ造問題と関係があるのですか?
15: 日米合同委員会って何ですか?
16: 米軍基地問題と原発問題にはどのような共通点があるのですか?
17: なぜ地位協定の問題は解決できないのですか?

PART2 「日米地位協定の考え方」とは何か 

資料編 「日米地位協定」全文と解説 
〇日米地位協定 〇日米安保条約(新)

【著者紹介】
前泊博盛(まえどまり・ひろもり) 1960年生まれ。「琉球新報」論説委員長をへて、沖縄国際大学大学院教授。2004年、「地位協定取材班」として、JCJ(日本ジャーナリスト会議)大賞、石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に『沖縄と米軍基地』(角川書店)、『もっと知りたい! 本当の沖縄』(岩波書店)、『検証地位協定 日米不平等の源流』(共著、高文研)など。

著者紹介

前泊博盛[マエドマリヒロモリ]
1960年生まれ。「琉球新報」論説委員長をへて、沖縄国際大学大学院教授。2004年、「地位協定取材班」として、JCJ(日本ジャーナリスト会議)大賞、石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)」

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