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Kuroshio 88

黒潮830マイルのヨットレース

 沖縄の本土復帰に先駆けて、沖縄本島の那覇港から昭和四七年四月二九日に出港して、三浦半島の城ヶ島を終着点とする本格的な外洋ヨットレースが開かれたことがある。那覇から城ヶ島まで距離にして八三〇マイル。世界的に著名な外洋ヨットレースと比べても、過酷なヨットレースとされるシドニーとタスマニア島のホバート間のヨットレースでも六〇〇マイルほどでしかないから、距離が長いばかりではなく、気象変化が激しく移動性高気圧と温帯低気圧がやってくる季節に開催され、しかも、半分以上のコースで最大四ノットを超える黒潮の流れに乗ることから、いろいろな面で話題のあるヨットレースであった。このコースを走る定期船、琉球海運の東京丸の船長を招いて、日本外洋帆走協会の大儀見薫氏やその他のヨットの船長を交えて座談会が行なわれた。ヨットの雑誌『舵』の昭和四七年、つまり沖縄の日本復帰の年の三月号に座談会の記録が残されている。沖縄から本州の三浦半島までの航海がどんなことになるか気象や海象についていろいろ議論が行なわれているので、この座談会記事を頼りに、黒潮の民がその昔、帆をかけた舟でどのように南島を離れ、ヤマトゥに向けて出立したかを知るよすがとすることにしたい.

 まず四月末という時期であるが、春一番は吹き終わっており、台湾坊主と呼ばれる春の嵐ももう終わっていて、移動性高気圧と温帯低気圧とが三~四日の周期で交互にやってくる季節だ。時化あり、凪あり、向かい風あり、追風ありと、風波の変化は実に激しい。筆者はかつて、「SAIL OSAKA ' 97」 (セール大阪九七)という大阪市が主催した香港から大阪までの外洋ヨットレースに乗組員として沖縄から鹿児島までの一部区間に乗船したことがあるが(優勝艇となったが、鹿児島で筆者は下船した)、このレースも九七年の四月中旬に那覇港を出港している。那覇から奄美大島の瀬戸内の古仁屋に寄港したが、翌日は強風警報が出されて二晩避難した記憶がある。奄美大島と横当島の間の高波が山のようで、ヨットは駆け上るようにして浮き上がり、波のてっぺんからは、船首を突っ込むようにして駆け下りる、上下動が長い時間続いたように思う。ロシア海軍の士官候補生を乗せた練習用帆船パラダ号という名前の大型帆船が参加していたが、たまたま船長の息子とおぼしき士官候補生が、筆者が乗船するヨットに同乗し、海況の悪さのせいで船酔いをして船室にこもりきりになっていたことも記憶に残る。ソ連共産党が倒れた直後であったから、古仁屋では島の古株の共産党員が、バスの中でロシア海軍を歓迎するつもりで、ああインターナショナルと歌ったら、そんな歌を歌うなと、水兵が怒って殴りかかろうとしたことがあった。ソ連崩壊の混乱のせいか、水兵の中には、自転車を盗み、古タイヤを持ち帰る者すらいた。有名なヨットマンの南波誠氏が救命胴衣をつけないまま四月二三日に鹿児島港を出港したヨットから海に落ち行方不明となった事故も忘れられない。

 黒潮は屋久島から都井岬へと非常に利用効果があると、定期船の船長が座談会で指摘している。足摺、室戸、潮岬まで、黒潮は陸から三マイル半まで近づいて流れていること、季節風と台風は四月下旬から五月には来ないことも確認している。要するに、冬場はあまりにもヨットにとっては厳しい海象になるので開催不可能であるとすれば、台風の来ない時期としては、ヨットレースをするタイミングはこの四月後半から五月にかけてしかないことが重要である。四月には、凪いで海面が鏡のようになることもある。ヨットはある程度風がないと走らないから、本当なら困ったことになるのである。実際に、筆者の参加したヨットレースでも、薩摩半島の山川港から錦江湾内の鹿児島港まで風がなくなって機走(エンジンで走ること)をした記憶がある。ただ、七島灘を渡るには最良の季節である。四月頃は東の風だけではなく、南風もあり、様々に不安定な風が吹く季節である。歌謡曲の「島育ち」の歌詞に、「朝は西風、夜は南風」とあるが、朝夕に正反対の風が吹く季節なのである。定期船の場合は都井岬から三マイル、足摺岬からは一五マイルほど離れれば、黒潮の本流に乗れるが、本州から沖縄に向かって黒潮に逆らい最短距離で航海しようとして真っ直ぐ沖縄に向かって走らせたら、時間は二時間四五分、距離はわずかに二二マイルしか変わらなかったということである。帆船や櫓櫂を頼りにする舟が沖縄から本州に渡る場合には、多少遠回りをしても黒潮に乗ることが重要である。沖縄から本土まで、春先には北東の風、つまり真向かいの風は吹かないという指摘も興味深い。足摺岬を過ぎてからは、横風を受けて驚くような早さで帆走できる。定期船が佐多岬まで西側を通るというのも、種子島の南東端、大竹崎と七尋礁の間に危険な暗礁があるからだそうである。しかし、トカラ列島は、島が小さい割に標高が高く、海は沿岸近くでも深いから、航海は非常にやりやすく、座礁することはないと、定期船の船長は言い切っている。(つづく)

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