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Look West

マハティールに見捨てられる日本


●アジア諸国の期待の星だった日本
── 新自由主義と戦っているが、一貫してマハティール元首相の発言に注目してきたのはなぜか。

マハティール氏の発言には、日本人自身が忘れてしまっている重要なことを思い出させてくれる強烈なメッセージが含まれているからだ。
 戦後、日本社会の欧米化が進み、東西冷戦終結後には新自由主義が浸透した結果、日本人自身が育んできた文化とそれに支えられた独自の経済運営が失われつつある。マハティール氏は、「日本人は日本の伝統的価値に誇りを持て!」「日本の文明力を世界の発展に行かせ!」と励まし続けてきた。
 誤解を恐れず言えば、かつて日本はマレーシアにとって頼れる兄貴分だった。若い頃は立派な兄で、弟は多くのことを教えてもらった。ところが、兄は自分の家庭を持ってから、道を踏み外すようになってしまった。兄の家族にはそれを止める力はない。弟は必死に「兄貴、目を覚ませ」と叫んでいるのだ。兄は、弟の叫びに、早く耳を傾けなくてはならないのだ。

── かつて日本はマハティール氏にとってどのような存在だったのか。
マレーシアはイギリスの植民地となって、あらゆる制度がイギリス式に改められた。これに対して明治維新を成し遂げた日本は、アジア唯一の近代国家として独立を維持した。
 特に大きな影響を与えたのが、日露戦争における日本の勝利だ。白人に対する劣等感と恐怖感を抱いてきた全ての有色人種に誇りと希望を与えた。歴史を良く知るマハティール氏にとって、日露戦争は有色人種の歴史の一大転機として記憶されている。最近、パンカジ・ミシュラが、日露戦争がインド、中国、オスマントルコに与えた影響について書いた、From the Ruins of Empireが、ベストセラーになっている。

 次の転機は一九四一年十二月に訪れた。当時マハティール氏は十五歳。彼はタイ国境沿いのケダ州で少年時代を送っていた。同月八日、米英に開戦し、マレー半島上陸を試みる日本軍に対し、イギリス軍はタイ国境近くのジットラに防御線を築き、「三カ月間は日本の進撃を食いとめることができる」と豪語していた。ところが、日本軍は進攻からわずか四日後にジットラを突破、イギリスはマハティール氏の故郷アロースターに敗走したのだ。翌四二年二月十五日にはシンガポールが陥落した。後にマハティール氏は「英国人は無敵の存在であるという信仰は打ち破られた」と書いている。

── 結局日本は戦争に敗れたが、戦後アジア諸国は次々に独立を勝ち取った。マレーシアは一九五七年に「マラヤ連邦」として独立を果たした。

「マラヤ連邦」独立は、マハティール氏が三十一歳のときだ。その四年後の一九六一年、マハティール氏は初めて日本を訪れた。敗戦から見事に復興し、東京オリンピックの準備で沸き立つ日本をつぶさに見たときのことを、彼は次のように振り返っている。
 「日本人は信念を持ち、仕事に集中し、礼儀正しかった。車同士ぶつかると、双方の運転手が出てきてお辞儀をして素早く処理した」
 医師として活躍していたマハティール氏は、一九六四年に下院議員に初当選し、政治家の道を歩み始めた。しかし、時の首相ラーマンに楯ついて与党UMNOから追放される。この不遇時代の一九七三年、マハティール氏はマレーシア食品工業公社会長として、日本の経営手法を自分の目で見る機会を得た。
── ルックイースト政策採用に至る原体験だ。
一九八一年七月、初の平民宰相として第四代首相に就いたマハティール氏は、まもなくルークイースト政策を採用した。その主眼は、マレー人が日本や韓国の労働倫理、雇用慣行、経営手法、官民一体の経済運営などを学ぶことにあった。また、彼は個人主義に対する集団主義、共同体主義の優れた面を維持する必要があると考えていた。

── あらゆる面でイギリスを手本にしてきたマレーシアの国策を大転換したことになる。
マハティール氏は「日本に学べ」の号令をかけつつ、「これまでのマレーシア・イギリス間の特別な関係が続くことはない」と述べ、一九八一年九月の英連邦首脳会議を「実りの少ない会議に割く時間はない」とボイコットした。
 また、彼はイギリス流の慣行を廃止している。それまでマレーシアでは、どの官庁も午前と午後にティータイムと称して席をはずしていたが、マハティール氏はこの慣行を葬り去った。彼にとって、当時のイギリス文化は退廃的気風の象徴だった。一九七〇年に書いた『マレー・ジレンマ』では「今やヨーロッパ文明は衰退の兆しが、はっきりしているのである。道徳心は低下し、倫理観も荒廃し、社会に実害を及ぼすようにさえなってきている」と批判していた。

●欧米流の発展とは別の道がある
── ところが日本は、マハティール氏が手本とした日本独自の手法を自ら捨て去っていった。

一九八〇年代にも日米の通商摩擦はあったが、それでも日本は独自の経済運営を維持していた。ところが、東西冷戦が終結する一九八九年頃から、日本の規制や制度に対する批判が強まっていった。例えば、ジェームス・ファローズ氏は一九八九年五月に「日本封じ込め」と題した論文において、「自己中心的な日本人には、かつては封建領主への、そして現在は会社にたいする忠誠心や家族の名誉心はあるが、欧米の価値観である慈善心、民主主義、世界規模の兄弟愛はもち合わせていない。これが日本と欧米の決定的な道徳上の行動形態の違いである」と述べ、日本の文化、道徳的価値観、習慣のすべてを日本は変えるべきだと要求した。
 まさにこの時期に、日本の制度をアメリカ流に変えようとする試みとして日米構造協議が開始され、やがてそれは日米経済包括協議、年次改革要望書として受け継がれていく。規制改革の名のもとに、日本の制度を変革しようという試みは、小泉政権時代に一気に加速した。そして今、TPPによって再び大掛かりな日本の制度破壊の略が進めれている。

── 日本に対するマハティール氏の失望感は、察して余りある。
日本はアメリカへの従属を深め、自らの経済運営を放棄して欧米流を礼賛してきたが、マハティール氏は欧米流の発展とは異なる独自の発展の道を高らかに掲げた。彼は一九九一年に、二〇二〇年までの国家ビジョンを示し、「強い宗教的・精神的価値意識を持ち、最高水準の倫理を持つ」ことを目標として掲げたのだ。
 これは、新自由主義者たちが期待する国家の対極にあるものだった。だからこそ、マハティール氏は孤高の戦いを続けなければならなかった。
 一九九〇年に彼は東アジア経済グループ(EAEG)構想を提唱した。先進国との通商交渉を東アジアが団結して乗り切ることがその第一義的な目的ではあったが、そこには価値観を共有する東アジア諸国間の交流を深め、欧米主導の経済秩序を転換させようという狙いがあったのではないか。自由競争を徹底させ、強者が一方的に勝つような秩序ではなく、平等、相互尊重、相互利益の原則が貫かれる経済統合のモデルを作ろうという考え方だ。
 いまTPPによって、国家主権より大企業の特権が保護される時代が訪れる危険性が指摘されているが、マハティール氏はまさに欧米大企業による世界支配の危険性をいち早く察知していた。彼は、一九九八年六月、東京で開かれたセミナーで「明らかに、わずかな巨大企業だけで世界を支配することは可能だ。それに備えるかのように、大企業や大銀行は吸収・合併でより巨大化しつつある」と語っていた。

── マハティール氏は、再三にわたって日本がEAEGを主導することを要望したが、日本はアメリカの顔色を伺って躊躇し、マハティール氏を失望させた。
EAEGの枠組みの会議は、その後ASEANプラス日中韓として実現したが、日本はリーダーシップをとらなかった。その結果、マレーシアのみならずASEAN各国は中国との関係強化という道を選ばねばならなくなった。

●イスラム経済の可能性に注目せよ
一九九七年のアジア通貨危機に際して、マハティール氏はIMFが誘導する新自由主義的経済政策の導入を拒否し、通貨リンギット防衛のため、通貨取引規制を断行した。さらに、ジョージ・ソロス氏らの投機家を公然と批判した。その結果、欧米の投機家たちの逆襲を受けて、リンギットとマレーシアの株は叩き売られた。それでも彼が屈することはなかった。
── 残念なのは、孤高の戦いを演じるマハティール氏に対して、日本の新聞がそれを支持するどころか、逆に露骨な批判を展開したことだ。例えば、『読売新聞』の林田裕章記者は「マレーシアが外交・経済両面で孤立の危機に陥っている。欧米の投機筋を締め出すための株式市場規制策が裏目に出て、株価下落に歯止めがかからない」(一九九七年九月五日付、)などと書いていた。

1998年のAPECで、アメリカのゴア副大統領は場所もわきまえずに、反マハティールの演説をしたが、それと軌を一にするように、日本のマスコミの一部はアメリカの走狗となった。マハティール氏が西洋近代に鋭い批判の眼を持ち続けてきたのは、彼がイスラムの価値観を信奉しているからだ。マハティール氏はルックイーストと同時にルックウエストも進めていた。ここでいう「ウエスト」はイスラムだ。マラヤ大学副学長を務めたウンク・アジズ氏はかつてマハティール氏の政策の狙いについて、日本から良いものを取り入れ、それをイスラムの精神と結合させることにあると説明したことがある。
 首相就任まもなくの一九八二年一月、マハティール氏は、国際イスラム大学の設立構想を提唱するとともに、イスラムの教えに則った金融制度の導入を推進した。利子をはじめとする不労所得を否定するイスラムの教えは、欧米型金融システムの弊害を補完する上で極めて重要な考え方を含むものだ。
 マハティール氏によってイスラム金融推進策がとられて以来、マレーシアはイスラム銀行だけではなく、イスラム債権(スクーク)を発展させ、いまやマレーシアはスクークの世界市場の六五%を占めている。
── マハティール氏は二〇〇二年頃から、貿易取引の決済に金貨ディナールを使おうという構想を打ち出している。これは、通貨危機の際、投機による通貨変動に悩まされた苦い体験に基づいている。金貨は紙幣と異なり、変動があってもそれ固有の価値がなくなることはない。だから、投機に対する抵抗力が強いと考えたのだ。また、この構想には貿易決済における米ドル依存からの脱却という目標が込められている。
稲村 新自由主義を根源的に批判するためにも、日本人はこうしたイスラム経済の試みに注目する必要がある。

●マレーシアとの民間対話を推進せよ
最近、マレーシアの郵便局を視察したが、イスラム金融に則った金(ゴールド)の質屋行による小口融資を始めていた。マレー人家庭を訪れると、強い信仰心を維持され、親子の関係も緊密で、長幼の序もしっかりと躾けられ、貧しきもの弱きものに対する心配りや、喜捨の精神もいきわたっているのが感じられる。今回もヒスアーの埼玉大学での教え子の夫妻はメッカ巡礼に出かけていた。
 二十二年間にわたり首相を務めたマハティール氏は、二〇〇三年十月末にアブドラ・バダウィ氏に禅譲した。マハティール氏という強大な防波堤がなくなって、マレーシアに新自由主義を押し付けようとする流れが強まったかに見える。 アジア通貨危機の際には、マハティール政権の副首相を務めていたアンワール・イブラヒム氏がIMFの要求に前向きに対処しようとしていたが、彼は、ブッシュ政権で国防副長官を務めたポール・ウォルフォウィッツ氏との関係が深いとされる。アンワール氏は同性愛容疑で逮捕されて以来、反マハティール運動を展開してきたが、彼が議長を務めていた「将来のための基金」が掲げる「中東と北アフリカにおける民主主義と人権の促進」は、アメリカから三五〇〇万ドルの援助を受けていた。アンワール氏は二〇〇四年に釈放されると、ウォルフォウィッツ氏が学長を務めていたジョンズ・ホプキンス大学客員フェローに就いている。
 幸い、マハティール路線の後継勢力は健在だ。その一人が、ナジブ・ラザク現政権の国際貿易産業副大臣を務める、マハティール氏の三男ムクリズだ。彼は上智大学に留学し日本の銀行に勤務した経験も持つ。
 「日本の文明力に自信を持て!」と激励してきたマハティール氏とその後継者たちの声に、いまこそ我々は耳を傾けるべきだ。同時に、マレーシア人自身も孤高の戦いを続けるマハティール氏の主張を改めて理解すべきときなのではないか。
 イスラムの経済観は、二宮尊徳をはじめ、日本の伝統的な経済観と通ずる部分が少なくない。欧米主導の世界経済秩序を改革していく上で、日本とイスラム世界が協力することは極めて重要だ。新自由主義に抗い、アジア的な発展路線を模索するという立場から、わが国と「ウェスト」諸国との協力と対話を再構築すべきである。

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