Imperial Cruise
日米関係史を書き換えるような本が出版された。ジェイムズ・ブラッドレー氏による「インペリアル・クルーズ」である。
1905年の夏に、テオドア・ルーズベルト大統領は、アメリカ史上最大の外交使節団をハワイ、日本、フィリピン、シナ、朝鮮に派遣する。ハワードタフト戦争省長官を団長にして、7人の上院議員、23人の下院議員と政府職員、議員の配偶者など総勢80人で構成される代表団である。ルーズベルト大統領の一人娘でじゃじゃ馬娘のアリス嬢が参加して、 一方では「アリス姫」として新聞のゴシップ記事を賑わす役割を果たしていく。
この外交使節団は、大統領に代わって、アメリカが太平洋に進出する基本となるような秘密の協定を各国と次々と結んでいく。ブラッドレーによれば、このルーズベルトが結んだ、アメリカ憲法に違反する秘密の協定が、太平洋戦争の遠因となり、シナにおける中国共産党の勝利を生み出し、朝鮮戦争の引き金となったと解説する。つまり、テオドアルーズベルトの秘密のアジア政策と協定が存在したことは、大統領が死ぬまで知られることがなく、また、歴史の教科書からは抹殺されてきたのではないかと主張する。この代表団のアジア巡航をアメリカ帝国の巡航、インペリアルクルーズと題して、アメリカの太平洋政策の真実と世界を震撼させた結果を再発見しようとする。
代表団が乗った船は、マンチュリア号2万7千トン、幅65フィートの大型船である。
単行本の最初に、代表団を乗せたマンチュリア号の航跡が掲げられている。サンフランシスコを出港して、ホノルルに寄港して、そこから横浜に向かう。横浜から長崎経由でマニラに向かい、マニラから、フィリピン南部のザンボアンガを経てマニラに戻り、そこから、香港、翌日には広東、上海、タフト団長は上海から横浜経由で、本国に戻っている。アリス姫は、北京に向かい、そこから、朝鮮のソウルを経て、下関経由で東京に戻っている。
東京からの帰国は、なんと十三日間でサンフランシスコに戻るという、太平洋横断の快速船の話題作りもしている。
さて、第一章は、百年後と題して、1900年10月9日付けのルーズベルトの発言、「米国が太平洋の両岸で優越的な大国となることを希望する。」を引用している。さらに、「我々の将来の歴史は、ヨーロッパに面する大西洋における米国の地位よりも、中国に面する太平洋における米国の地位の如何で命運を決する」と述べている。ハワイは、1898年に併合したばかりであるし、フィリピンはシナへの橋頭堡と考えられていた。ルーズベルトは、外交を、棍棒を抱えながら、柔らかく話をすることと、と警句を頻繁に述べているが、この2005年のインペリアルクルーズは、大きな船の棍棒であった。この大代表団の巡航が太平洋戦争、中国共産党革命、朝鮮戦争、そのほかの緊張の遠因となったのである。ンが日本2005年の夏に、著者のブラッドレー氏は、巡航の跡をたどる。桂・タフト協定が結ばれ、日本の朝鮮半島進出を許した。同時に、日露戦争の仲介者として、ポーツマス条約を結ばせることになる。実に1906年には、ノーベル平和賞を受賞することになる。日米間の秘密の電報の往来の内容が明らかになったのは、ルーズベルトの死後のことである。ブラッドレー氏は、フィリッピンのザンボアンガも、ボディーガードを付けての旅行で訪れる。1902年7月4日に、フィリピンにおける米国の戦争は終わったはずなのに、百年が経っても、当時のタフト長官の演説を受け入れていないことを知る。アメリカ軍は、百年後の今も、平定された筈の町の近くで戦闘を続けていることを知る。
1905年の巡航の際に、怒ったシナ人はタフト長官に抗議をしたが、その町並みを歩いてみている。米国製品のボイコット運動があり、貿易を中断した。1905年の米貨ボイコットがシナの民族主義を刺激して最後に革命をもたらし、1949年の中米断交をもたらした原因であるとする。
アリス姫が朝鮮皇帝と乾杯をしたソウルを訪れる。朝鮮は1882年に開国して、最初の和親条約を米国と結んでおり、アメリカは我々にとって年上の兄のようだと皇帝は語っている。ルーズベルト大統領は、日本が朝鮮を保有することを希望すると考えていたことを知らなかったようだ。アリス姫が訪れた二ヶ月後に、アメリカはソウルの大使館を閉鎖して、日本軍のてにゆだねた。アメリカは、沈みゆく船から慌てて逃げる鼠のように朝鮮を脱出したのである。日本の拡張政策に了解したが、数十年後に、もう一人の、フランクリン・ルーズベルトは、テオドア・ルーズベルト大統領の秘密外交を血であがなう行動に出るのである。1905年以来、米国はアジアで4回の大戦争を闘っているが、多くの命が失われた。ルーズベルト大統領の秘密外交は、歴史に埋もれて、アメリカ人のベニボランスという、とても日本語にはならない、神話のせいで、大統領はほとんど間違いがなく、男性的であるとの受け止め方であるが、100年も経ったからには、崖から突き落としたのは誰なのかをはっきりさせる必要があろう。ブラッドレー氏の過去のインペリアルクルーズと呼ぶ、米国史上最大の外交団のアジア諸国巡航を跡づけることで、一冊の単行本ができあがった。
第二章は、文明は太陽を追い求めると題する。
アリス姫は、ルーズベルトの最初の妻である、アリス・リーとの子供で、アリス姫の生まれた1884年2月12日の二日後に死んでいる。ルーズベルトは、最初の妻を忘れるかのようで、アリス姫と後妻となったエディス・ルーズベルトととの関係はよくなかった。大統領は後妻との間に、5人の子供が生まれている。さらに、ルーズベルトがもともとはベストセラー作家で、宣伝の学徒であったとしているが、そのやんちゃなアリス姫を、カリブ海の植民地や、キューバ、プエルトリコ等に派遣している。アリス姫は家族を離れたいとしたようで、後に姫が結婚することになる、オハイオ選出のロングワース・下院議員も乗船している。巡航団の団長のタフト長官は、フィリピン総督の発令を受けている。タフトがフィリピンをアメリカインディアン、原住民と同じような地位にあると解釈していることが、フィリピンをWardと読んでいる事から分かる。1898年にフィリピンの自由を求める人々は、スペインの植民地から解放されて、アメリカが支援して独立できる期待していたが、アメリカは、フィリピン人25万人を殺戮して、自分の植民地にしてしまった。
タフト総督は、フィリピン人が独立する能力がないと言い続けている。ルーズベルト統領が、ベストセラー作家として、自分がライフル銃で、白人キリスト教徒が、劣った人種を文明化することが、男らしいとのイメージ作りに躍起になったことも書かれている。
白人至上主義の淵源について触れている。アーリア人が、今のイランあたりのコーカサス地方から発して、アーリア人の血統を維持しながら西漸するという神話である。チュートン民族が純血のままドイツの森に居残って、太陽を追って西漸するという、白人の神話である。アングロ・サクソンの登場である。文明の三原則があり、それは、白人が全ての文明を創ったこと、白人が純血を保つときに文明は維持され、混血によって文明が失われるとされた。アングロ・サクソンが大西洋を渡り、北アメリカに達して、アメリカの白人は原住民の人口をプリマスからサンフランシスコ湾に至るまで抹殺、虐殺したのである。アメリカの建国に歴史の中での白人至上主義の残存についても解説する。十三州で建国したアメリカが、西へ西へと大陸を横断して、アメリカ原住民の殺戮を続けながら拡大していく血塗られた歴史を詩人や学者の主張で跡づけていく。1800年代に認識された社会科学も、白人至上主義を追認するものでしかなかった。二グロは従者にしか過ぎず、アメリカ原住民は殲滅を運命づけられているとしている。ルーズベルト大統領は、白人至上主義の先例を受けており、公式写真もライフル銃を片手に馬に乗った写真などを撮らせて、例えば、ホワイトハウスの中でテニスをすることなどは、軟弱なこととして公式写真など撮らせようとはしなかった。ルーズベルト大統領は、多少ひ弱な感じすらある青年時代であったが、白人至上主義の男らしさのイメージを出すために、西部の牧場で狩りをする話を全面に出している。1884年から86年まで、15ヶ月間を西部の牧場で過ごしただけで、しかも厳冬は避けて、マンハッタンと行き来していたのであるが、西部で過ごすというのは、ルーズベルト大統領の政治家としての出世の為の政治宣伝でしかなかった。コロラド州のアスペンが金持ちの子息のたまり場になっているように、当時は、ダコタテリトリーが、そうしたルーズベルトのような、金持ちの御曹司の生活場所であった。1886年、西部の男としてのイメージを作り出した後に、ニューヨーク市長選に出馬する。なんと、ダコタのカウボーイという触れ込みである。アメリカ人のアーリア人が、大陸を文明化したことを美化する本を4冊出版している。その4冊目を出版してから丁度4年後に大統領に就任することになった。
第三章は、ベニボレントな意図と題されている。
米国陸軍の基地が町になっていったが、同様に海軍力が太平洋に展開したのが、マッキンレー大統領の時代で、海軍長官補を務めたのが、ルーズベルトであった。
1844年にジェイムズ・ポークが大統領になった頃はまだ、小国で、ミシシッピー川までの領域であった。「太平洋に直行せよ、それが白人の運命であり、アングロ・サクソン人種の天命である」として、ポークはメキシコに出兵して、メキシコから、テキサス、ニューメキシコ、コロラド、ユタ、ネバダ、そしてカリフォルニアを奪取する。ミシガン州選出のルイス・キャス上院議員は、メキシコ人はいらない、領土がほしいのだと、発言している。
1890年のウーンデッド・ニーの虐殺の写真も掲げられている。アメリカの原住民が滅ぼされた証拠写真である。原住民が殺されて穴に放り込まれている写真である。すなわち、アメリカのフロンティアが消滅したことになったが、1893年には、大不況に陥っている。
19世紀末に、イギリスは50の植民地を持ち、フランスは、33,ドイツは13,ポリネシアの98%は植民地となり、アフリカの九割、アジアの56%が植民地となり、ただの七カ国が独立国であった。アメリカ陸軍が、大陸を横断して、海軍に引き継いだ。マハン大佐の出番である。アメリカの海軍は国境防衛を任務としていたが、攻撃任務を強調するようになる。マハン海軍大佐は、太平洋をつなぐリンクを造り、中央アメリカに運河を開鑿して、カリブ海をアメリカの湖とすることを提唱した。マハンの著書、海軍力の歴史に与える影響について、ルーズベルトが絶賛する書評を、アトランティックマンスリーに書いている。
マッキンレー大統領の写真が掲げられ、米国の軍隊が外国を侵略したときに、ベニボレントな意図で行ったという考え方を広めた大統領であるとしている。マッキンレーの時にルーズベルトは海軍長官補に就任するが、ワシントンの一大事は、ハワイ併合の問題と、キューバ侵攻を行うか否かの問題であった。ルーズベルトは、スペインに対する主戦派であり、カリブ海地域での戦闘の他に、海軍力でのフィリピン攻撃を提唱した。
アギナルド将軍の悲劇についても語る。アギナルド将軍は白人ではないが故にフィリピンという国家を統治するのにふさわしくないとの烙印を押される。アギナルドの最大の間違いは、アメリカが非白人の独立を認める可能性があると信じたことである。アギナルドは、米国憲法を詳しく読んで、植民地支配に権限がないことを知っているので、怖くはないと、短命のフィリピン共和国の閣議で発言したことがある。
1898年2月15日にハバナ港で、200人の海軍水兵が死亡するメイン号の沈没事件が発生して、スペイン側に責任は見当たらなかったが、マスコミは、対スペインの開戦を大々的に書き連ね、渋るマッキンレー大統領を非難した。ルーズベルトは海軍長官補として、主戦論を主張した。ルーズベルトは、キューバ侵攻に参加しているが、志望するという、メイン号キューバの兵が、黒人で構成されているのが気にいらないことの最大要因であった。ルーズベルトは、アメリカ白人の生きた広告塔としての役割も果たした。更には、スペイン人は白人の片割れであるから、キューバ人の参加は認めなかった。グァンタナモ湾が海軍基地として割譲されたのもこのときである。キューバの独立を認めることはなかった。ルーズベルトが、ワシントンで太鼓をたたき、香港駐在のジョージ・デューイ海軍元帥がマニラ攻略の作戦を練った。アギナルドは、フィリピン独立を書面で確約するように求めているが、アメリカは約束を守ると言い含めるが、後の歴史は、決して約束を履行しない事を明らかにしている。デューイは、マニラ湾に出撃したが、マニラ湾を米海軍が支配しただけで、他のフィリピンは、アギナルド将軍を長とするフィリピン革命軍が支配していた。フィリピンの初めての独立記念の祝賀が、1898年1月12日にあったが、その後に祝われたのは、なんと64年後であった。マニラの領事は、アギナルドの政府が、つまり、太平洋の二グロが800万人の人口を統治できるわけがないと書いている。ニューヨークタイムズなどは、アギナルド酋長などと読んでいる。マニラにおいても、ハバナの場合と同様、白人であるスペインとの妥協が、秘密の内に行われ、首都をフィリピンの原住民である、フィリピンの二グロに渡さないようにとの出来レースが行われた。ルーズベルトは、マニラがシナとの中継貿易港になるとの判断であったが、単に香港にアメリカの倉庫を借用すればいいだけの話であったのかもしれないが、アメリカがフィリピンで犯した過ちを身にしみて知るのは、ずっと後の事であった。
アメリカの対外行動の原理を端的に示す言葉は、ベニボレント(benivolent)という言葉である。日本語では「慈悲」とも訳されるが、本来の意味は「言うことを聞く者には慈悲が与えられる」という意味でもあり、それは、言うことは聞けばキリスト教を伝えて文明を教えるが、ダメなら抹殺しても問題ないという考え方である。
第四章は、太平洋の二グロと題する。つまり、フィリピンの物語である。
フィリピンを植民地化すべきか否かの議論があったように、教科書は書いているが、1832年に、すでに最高裁判所は、はくじんのキリスト教徒の男性を、アメリカ原住民のwardとの決定を行っていた。確かに、アメリカ反帝国主義者連盟が組成されて、フィリピンの併合に反対する動きも見られたが、「適者生存の法則で、弱い人種が強い人種に支配されるのは当然で、アメリカの人種が地上でもっとも強力であるから、致し方ない」との見解が圧倒的であった。マッキンレー大統領の論理は、帝国主義という言葉を使わずに、他の人種に哀れみを感じるのであれば、キリスト教徒として援助する義務があるという論理を採用した。イギリスの詩人、キプリングは、白人の重荷と題する誌があるが、副題にはアメリカとフィリピンという副題が付けられている。アギナルド将軍の統治が機能している事をも隠してしまった。1899年の2月4日、突然米軍はアギナルド政府を攻撃して、24時間で三千人のフィリピン人を殺戮している。西部のアメリカ原住民が虐殺された、ウーンディドニーの事件と同じように、円形の溝が掘られて、アパッチ族やシウク族と同様に屍体が投げ込まれた。フィリピンは、スペインから、太平洋の二グロ一人あたり二ドル、つまり二千万ドルでスペインから割譲されたとの論理で、アメリカ人はいい買い物をしたと信じていたが、百年後にバグダッドを制圧すれば、イラク全土を支配できると誤算したのと同様に、デューイ提督は高い買い物になると指摘していた。米軍のフィリピンにおける狼藉は目を覆うものであったが、時の3代目の総督アーサー・マッカーサーは、米国上院で、アメリカはアーリア人の末裔であり、軍事力を使って、西漸していると発言したが、とがめた上院議員は誰もいなかった。水攻めの拷問も日常的に行われている。水治療と名付けている。天井から逆さにぶら下げることを、ロープ治療と呼んでいる。米軍は、フィリピン人を傷つける数の4倍を殺した。1899年の随筆で、ルーズベルトは、平和は戦争を等してのみ達成されると書いている。1900年になって、軍人のマッカーサーに代えて、文民のタフトを登用したのが、マッキンレー大統領であった。タフトがマニラに総督として赴任したときには、誰も歓迎する人の姿はなかったという。マッキンレーは、大統領選挙に、ルーズベルトを副大統領として、選挙に打って出る。ルーズベルトは、41歳である。1901年3月23日には、米陸軍はアギナルドを逮捕する。アギナルドは敗北宣言を行う。1901年に軍政から民政に変わり、タフト総督はマラカニアン宮殿に居住する。カラバオと呼ばれる水牛に乗るタフトの写真も残る。米軍によってカラバオの九割が殺されたため、フィリピンの列島で飢饉が発生した。タフト総督は、アメリカに協力するフィリピン人としか交流せず、高等教育をする可能性すら考えた気配はない。1901年には、ルーズベルト大統領が就任したが、フィリピンではサマール島で島民が反乱を起こして51人の米国人が殺される事件が発生して、ジェイク・スミス将軍の元で鎮圧作戦が行われる。海兵隊のウオーラー少佐に対して発出したスミス将軍の命令は、「捕虜などいらない、徹底的に焼き払って殺す事だ」との指令で、10歳以上は兵器を持つことができるから、10歳以上のサマール島民を殺戮することうんとなった。さすがに、残虐な米軍の話がワシントンにも伝わり、野蛮な米国統治について質疑を求める下院議員も現れたが、ルーズベルトの反論はいつもの白人至上主義のフィリピン人がアーリア人の西漸に追いついていないと言い訳するだけであった。しかし、真実の姿がどうであれ、ベニボレントな意図という考え方が染みついたアメリカ人にとっては、フィリピン人が文明化していないと主張するだけで十分であった。1902年に至って、フィリピン統治の内情が知れ渡るようになったが、それを糊塗するために、モロの住民以外は平定したとの宣言を行った。歴史の本によれば、米軍は、20万人から30万人のフィリピン人を殺害したとする。しかも、41 ヶ月間30万人のフィリピン人を殺害したわけで、第二次世界大戦中、米軍は56ヶ月で40万人の死者を出している。1902年に平定されたはずのフィリピンでは、南部のザンボアンガでは100年後の今でも平定作戦が継続している。
ベストセラー作家としてのルーズベルトが大統領になり、白人至上主義を適用したフィリピン統治が野蛮ではないかとの批判が高まった。ライフマガジンの1902年5月22日号は、フィリピンで、アメリカ兵がフィリピン人に水攻めの拷問を加えている絵を表紙にしている。政治宣伝に長けたルーズベルトは、190年にセントルイスで開催された万国博覧会で、フィリピンがいかにアメリカ統治の下で急速に文明開化したかの大宣伝を行う。フィリピン人を鏃と弓矢を片手にした猿人として描いており、その絵にミッシング・リンクと題を付けている。そうした猿人がアメリカの学校に通い歌を歌得るようになったことを、ルーズベルトは、すばらしいことだ、かくも短期間に進歩したと述べている。
第五章は、ハワイの併合の物語である。
大代表団を乗せた満州号がホノルル港に入港したのは、1905年の7月14日である。七年前に米国併合が行われ、ハワイ王国は、廃止されていた。ハワイは、5000人しかいないHaole、 ハオーレと呼ぶ、白人キリスト教徒の持ち物になっていた。歓迎会に出席するハワイの原住民はいなかった。1778年にクックがハワイを‘発見した’とするが、ハワイ人の寿命はヨーロッパ人よりも長命であったが、クックの持ち込んだ結核などの病気が蔓延した。米国捕鯨船が寄港するようになり、キリスト教の布教が行われた。ハワイの文化が敵視され、100万人の人口が、1832年にはたったの13万人となった。ハワイでは、布教と砂糖の植え付けとが同義語であった。1875年の互恵条約で砂糖の関税をなくしたあげくに、ハワイの軍事基地をアメリカのみが保有するという規定を入れている。もちろん、ハワイには反対の声が合ったが、150人の海兵隊を出動させて鎮圧している。1887年7月6日、ホノルルライフル協会という、白人至上主義の団体が宮殿を襲い、新しい憲法を強制した。1893年2月14日にハワイ併合条約が、白人の羽合住民の署名で結ばれた。当時のクリーブランド大統領を含め、併合に批判的な意見も見られたが、ハワイの併合が決定された。1898年8月12日にホノルルでハワイ併合の式典が行われたが、パイナップルや熱帯果実で有名なドールが大統領となった式典には、当然のことながら、リリオカラニ女王は出席しなかった。
いよいよ、第六章は、名誉のアーリア人と題している。日本人のことである。
タフト団長は、ルーズベルト大統領の秘密の指令を受けていた。横浜に到着した満州号の歓迎ぶりは、至りつく競りで、万歳の声が響き渡ったという。日露の海戦で勝利したばかりの日本は、アメリカが中立を保つことの意味を承知していた。アメリカのアジア進出を認める代わりに、日本が朝鮮を保護国化することをみとめるという秘密の合意を知るものは、明治天皇を含め、少数のもに限られていた。ペリー提督の下に、大艦隊を派遣して、日本に船の燃料の補給基地を求め、開国を迫った。友好条約をまず結ぶやり方は、アメリカ原住民とのやり方と同じであった。1853年7月8日、江戸湾にはいり、最初の領事となったタウンゼンド・ハリスはが、日米和親条約を締結している。日本の富国強兵の政策は、白人国家が、アジア人を人種的に劣等である考えてるとと見抜いて、それに対抗しようとしたものである。日本人はちょんまげを切って、洋服と山高帽を被るようにした。アメリカ人にとっては、極東のヤンキー、又は名誉白人と考えるようになった。琉球処分、日清戦争、と続くが、その中で、米国公使のチャールズ・デ・ロングが、台湾征伐などを後押ししているのは興味深い。1872年にいたって、チャールズ・LeGendreが、初のお雇い外国人として、日本のアジア進出の理屈付けとしての国際法を教えた。アメリカのモンロー宣言についても、説明して、日本版のアジアモンロー宣言を提唱している。大東亜共栄圏の考え方にも繋がっていった。日本がアングロサクソンのやり方をまねて、アジアを未開の地から文明の地に引き上げることが必要であると主張した。1873年の台湾侵攻に当たっては、米国の軍事顧問も参加している。日本の朝鮮に対するやり方は、ペリー提督のやり方を踏襲するものであった。
第七章のはじめに、1904年のルーズベルトの言葉として、「日本の勝利を心から喜んでいるが、それは、日本がアメリカの試合をしているからである」と引用している。日清戦争に勝利した日本に対しては、他の白人国家である、ロシア、フランス、とドイツの三国によって三国干渉が行われた。ルーズベルトが大統領となり、モンロー宣言も防衛的なものではなく、攻撃的な内容に変質した。米国軍隊が、国際警察ともなった。ロシアの大陸国家の当方進出をアングロサクソンが抑えるためには、名誉白人である日本の力が必要であると考え、日本の朝鮮支配は、進歩的な社会実験であると考えた。旅順港の、日本海軍による奇襲攻撃も歓迎されるもので、日露戦争の勃発で、米国は、日本の肩を持つものであった。
第八章は、日本のアジア版モンロー宣言と題している。
ハーバード大学出身の金子堅太郎男爵の縦横無尽の活躍が紹介される。金子男爵は全米各地で講演を行い、日本は黄色人種ではあるが、心は欧米人と同様に白いと発言する。金子男爵の演説は小冊子となって販売されるほどの人気であった。金子男爵は、白人至上主義の神話にも詳しく、逆手をとったような説明を行った。明治政府の外交宣伝は優れており、アメリカの日露戦争に対するマスコミは、ほとんどが日本の味方をしていた。もちろん、日本に対する疑いの念もあったが、柔術とレスリングの試合をして、柔術が勝ったとの話も書いてある。新渡戸稲造の武士道を、ルーズベルトが読んでおり、また、柔術の練習をしたなどとの記述もある。ルーズベルトは、1905年3月には、大統領として二期目になる。救済と題するアングロサクソンとアメリカ原住民の闘いを表現した彫刻の前で、就任の制約を行う。この彫刻は、今では、政府の倉庫にしまわれているが、100年にわたって大統領の宣誓式が、このアメリカ原住民を虐殺月には、コロラド州で、熊狩りをして、自分の政治家としてのイメージを強化している。コロラドでマラリアにかかっているが、これは秘密にされた。熊狩りの獲物の熊は、後に明治天皇に献上されている。
金子男爵は、ルーズベルトの夏の別荘に宿泊したことがあるが、大統領が蝋燭二本を片手にして、また、夜の寒さを気遣って、てづから毛布を運んだ話なども紹介している。そこで、金子男爵は、ルーズベルトが、日本のアジア版のモンロー宣言を支持したとする。1905年7月26日、訪日したアリス姫は、明治天皇との私的な食事会に招かれている。1905年7月27日には、ルーズベルト大統領は、公式に、金子男爵、小村外務大臣、
高平大使を、大統領専用ヨットのメイフラワー号に招待している。東京では、タフト団長と、桂首相との間に、秘密協定が合意される。会話記録は残らず、会談が行われた芝の宮殿は後に火事でもえてしまった。アメリカは、日本との間に同盟の条約があたかも存在するかのように、日本のかたをもった。日本人は、秘密を守る能力にも優れているとの見立てで、タフト団長は、大山巌元帥夫人が、まったく軍事機密に及ぶような話をしないことに驚いてほめている。日本国民は、こうした動きを知らされることなく、日露戦争の賠償金の問題のみに関心を寄せて、日比谷焼き討ち事件となったことはよく知られている。
第九章は、満州号に乗った代表団が、横浜から長崎を経て、マニラへの航海をたどる。代表団は、マニラに九日間、島々を13日間陸軍のローガン号で周り、マニラに再度5日間いて、香港に向かう。一枚のレセプションの写真が残るが、アリス姫は、フィリピン人の客と話をしようともしていない。フィリピン人の独立可能だとの意見には耳を傾ける事がなく、むしろ失笑を漏らしたという。
第十章は、代表団が、香港と広東を訪れた事を記録する。アメリカ製品のボイコット運動についてのべるとともに、アヘン貿易などについて解説する。キリスト教徒がアヘンを持ち込んだので、シナ人はイエスのアヘンと呼んだという。大陸横断鉄道の建設に従事した広東からのシナ人の事についても詳細に紹介する。黒人とシナ人は出て行けとの主張を掲げるハーパー週刊誌の写真も紹介されている。米国国内では、シナを排斥して、シナ本土では、門戸開放を求めるという矛盾であった。
フランクリン・ルーズベルトが、ボストンのアヘンで財をなしたデラーノ家の相続人であったことにも言及している。
アリス姫は、タフト団長と別れて陸路北京に赴き、清の皇后陛下に面会している。
第十一章は、日露戦争のポーツマス条約による戦争処理が、日本国内では不評で、アリス姫は、北京からソウル、下関を経て、再度日本に戻ってくるが、その間すっかり、親米の雰囲気が薄れて、アリス姫は、何人かと問われるとイギリス人だと答えるようにと言われている。ソウルでは、アリス姫は、高宗帝に迎えられている。仁川からソウルまでは、皇帝差し回しの特別列車である。アリス姫はシベリア号という名前の汽船で太平洋を渡るが、世界記録の13日間で横断する。
第十二章は、アメリカを兄と慕う朝鮮を切り捨てて、日本が朝鮮を支配することを認めるアメリカを描く。1905年11月28日、米国は、ソウルの外交施設を閉鎖する。
1941年12月8日、パールハーバーの奇襲攻撃を受けたフランクリン・ルーズベルト大統領は、国会議事堂に車いすで入り、日本の攻撃を非難したが、真の理由について触れることはなかった。日本のアジア版モンロー宣言を支持するというテオドア・ルーズベルトの約束は守られなかった。そもそも真珠湾攻撃には、米国本土攻撃の意図もなかったし、日露戦争の旅順港奇襲と同様に、アジアの戦争に、米艦隊が出撃できないようにした作戦に過ぎなかったのではないのか。1932年、金子堅太郎男爵は、フォーリンアフェアズに論文を掲載しているが、日本の満州政策が批判されているが、日本のモンロードクトリンを実行しているまでであると、ルーズベルトは公言しないで逝去したと、書いている。大東亜共栄圏の考え方が、40年代に入り急速に支持を集めるが、これも、ル・ゲンダー将軍とルーズベルト大統領が日本に植え込んだ考え方であった。日本は、自分たちの太陽を追い求め始めていたのである。
最終章は、太陽を追い求めてという題である。タフト団長は、清の米貨排斥の意味合いも、アリス姫がなぜポスターで侮辱されなければならないのか、広東でも闇に紛れての視察にしかならなかったのか、歓迎の晩餐会が拒否されるのか、理由が分からなかったようである。1906年3月には、米国陸軍は、1000人のイスラム教徒を惨殺している。マーク・トウェインは、キリスト教徒によるとさつ行為としたが、ルーズベルトは、アメリカの旗の名誉を守る為の優れた兵器の行使、としている。ルーズベルトイエスマンであるタフトは、1908年に大統領に就任したが、12年の選挙では、ルーズベルトは心変わりをしてタフトとの関係がまずくなり、民主党のウィルソン大統領が誕生することになった。ルーズベルトは、徐々にフィリピンの重要性がないことに気づくが、第二次大戦後のフィリピンを見ても分かるように、民主主義の演劇を教え込まれた一部の連中が支配する国として残っているだけである。
白人のクリスチャンに執っていいことは、世界にとってよいことだとの信念が揺らぐことはなかった。
日本は、アメリカがシナの市場に入ることを支援するとしきりに主張したが、日露戦争が終わると、日露は再度の交渉をして、満州を分割してしまった。満州になだれ込んだ日本の外交官や、軍人は、日本のアジア版モンロー宣言を口にした。フランクリン・ルーズベルトは、日本がテオドア・ルーズベルト大統領の勧めに従ったことを批判したのである。
テオドア・ルーズベルトは、ベストセラー作家で、大衆のイメージ操作に長けていた。ルーズベルトは、平和は戦争によってのみ達成される、と主張したが、20世紀に米国はアジアに軍事力を展開して、その平和を達成するために巨万の軍事費を出費した。「未だに、米国には、白人至上主義で、「太陽を追い求める」ものが多い」と締めくくっている。
ちなみに、今、日本で米国海兵隊のことが話題になっているが、海兵隊は唯一、海外展開に関して議会承認が不要で、大統領命令だけで可能である。もともと、抑止力や防衛
軍隊ではなく、攻撃又は外征を目的にした軍隊であることを、このインペリアル・クルーズからも読み取ることができることを補足しておきたい。
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