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2013年4月

Imperial Cruise

日米関係史を書き換えるような本が出版された。ジェイムズ・ブラッドレー氏による「インペリアル・クルーズ」である。                              同氏の最初の著作は、「父親たちの星条旗」(文藝春秋から邦訳が刊行され、クリントイーストウッドによって映画化される)で、  二作目が日本に撃墜された戦闘機乗員を描いた「フライヤーズ」(なんと、父島で撃墜されたジョージ・ブッシュ元大統領をふくめてと硫黄島を訪れている)で、第三作である。日本の真珠湾攻撃があり、アメリカが太平洋戦争に加わって行く過程を調査しているうち、火の手が上がる前の煙がどこから出ているのか、たきつけ元がどこであったかに関心を寄せたという。

 

1905年の夏に、テオドア・ルーズベルト大統領は、アメリカ史上最大の外交使節団をハワイ、日本、フィリピン、シナ、朝鮮に派遣する。ハワードタフト戦争省長官を団長にして、7人の上院議員、23人の下院議員と政府職員、議員の配偶者など総勢80人で構成される代表団である。ルーズベルト大統領の一人娘でじゃじゃ馬娘のアリス嬢が参加して、 一方では「アリス姫」として新聞のゴシップ記事を賑わす役割を果たしていく。

 

この外交使節団は、大統領に代わって、アメリカが太平洋に進出する基本となるような秘密の協定を各国と次々と結んでいく。ブラッドレーによれば、このルーズベルトが結んだ、アメリカ憲法に違反する秘密の協定が、太平洋戦争の遠因となり、シナにおける中国共産党の勝利を生み出し、朝鮮戦争の引き金となったと解説する。つまり、テオドアルーズベルトの秘密のアジア政策と協定が存在したことは、大統領が死ぬまで知られることがなく、また、歴史の教科書からは抹殺されてきたのではないかと主張する。この代表団のアジア巡航をアメリカ帝国の巡航、インペリアルクルーズと題して、アメリカの太平洋政策の真実と世界を震撼させた結果を再発見しようとする。

 

代表団が乗った船は、マンチュリア号27千トン、幅65フィートの大型船である。

単行本の最初に、代表団を乗せたマンチュリア号の航跡が掲げられている。サンフランシスコを出港して、ホノルルに寄港して、そこから横浜に向かう。横浜から長崎経由でマニラに向かい、マニラから、フィリピン南部のザンボアンガを経てマニラに戻り、そこから、香港、翌日には広東、上海、タフト団長は上海から横浜経由で、本国に戻っている。アリス姫は、北京に向かい、そこから、朝鮮のソウルを経て、下関経由で東京に戻っている。

東京からの帰国は、なんと十三日間でサンフランシスコに戻るという、太平洋横断の快速船の話題作りもしている。

 

さて、第一章は、百年後と題して、1900年10月9日付けのルーズベルトの発言、「米国が太平洋の両岸で優越的な大国となることを希望する。」を引用している。さらに、「我々の将来の歴史は、ヨーロッパに面する大西洋における米国の地位よりも、中国に面する太平洋における米国の地位の如何で命運を決する」と述べている。ハワイは、1898年に併合したばかりであるし、フィリピンはシナへの橋頭堡と考えられていた。ルーズベルトは、外交を、棍棒を抱えながら、柔らかく話をすることと、と警句を頻繁に述べているが、この2005年のインペリアルクルーズは、大きな船の棍棒であった。この大代表団の巡航が太平洋戦争、中国共産党革命、朝鮮戦争、そのほかの緊張の遠因となったのである。ンが日本2005年の夏に、著者のブラッドレー氏は、巡航の跡をたどる。桂・タフト協定が結ばれ、日本の朝鮮半島進出を許した。同時に、日露戦争の仲介者として、ポーツマス条約を結ばせることになる。実に1906年には、ノーベル平和賞を受賞することになる。日米間の秘密の電報の往来の内容が明らかになったのは、ルーズベルトの死後のことである。ブラッドレー氏は、フィリッピンのザンボアンガも、ボディーガードを付けての旅行で訪れる。1902年7月4日に、フィリピンにおける米国の戦争は終わったはずなのに、百年が経っても、当時のタフト長官の演説を受け入れていないことを知る。アメリカ軍は、百年後の今も、平定された筈の町の近くで戦闘を続けていることを知る。

 

1905年の巡航の際に、怒ったシナ人はタフト長官に抗議をしたが、その町並みを歩いてみている。米国製品のボイコット運動があり、貿易を中断した。1905年の米貨ボイコットがシナの民族主義を刺激して最後に革命をもたらし、1949年の中米断交をもたらした原因であるとする。

 

アリス姫が朝鮮皇帝と乾杯をしたソウルを訪れる。朝鮮は1882年に開国して、最初の和親条約を米国と結んでおり、アメリカは我々にとって年上の兄のようだと皇帝は語っている。ルーズベルト大統領は、日本が朝鮮を保有することを希望すると考えていたことを知らなかったようだ。アリス姫が訪れた二ヶ月後に、アメリカはソウルの大使館を閉鎖して、日本軍のてにゆだねた。アメリカは、沈みゆく船から慌てて逃げる鼠のように朝鮮を脱出したのである。日本の拡張政策に了解したが、数十年後に、もう一人の、フランクリン・ルーズベルトは、テオドア・ルーズベルト大統領の秘密外交を血であがなう行動に出るのである。1905年以来、米国はアジアで4回の大戦争を闘っているが、多くの命が失われた。ルーズベルト大統領の秘密外交は、歴史に埋もれて、アメリカ人のベニボランスという、とても日本語にはならない、神話のせいで、大統領はほとんど間違いがなく、男性的であるとの受け止め方であるが、100年も経ったからには、崖から突き落としたのは誰なのかをはっきりさせる必要があろう。ブラッドレー氏の過去のインペリアルクルーズと呼ぶ、米国史上最大の外交団のアジア諸国巡航を跡づけることで、一冊の単行本ができあがった。

 

第二章は、文明は太陽を追い求めると題する。

アリス姫は、ルーズベルトの最初の妻である、アリス・リーとの子供で、アリス姫の生まれた1884年2月12日の二日後に死んでいる。ルーズベルトは、最初の妻を忘れるかのようで、アリス姫と後妻となったエディス・ルーズベルトととの関係はよくなかった。大統領は後妻との間に、5人の子供が生まれている。さらに、ルーズベルトがもともとはベストセラー作家で、宣伝の学徒であったとしているが、そのやんちゃなアリス姫を、カリブ海の植民地や、キューバ、プエルトリコ等に派遣している。アリス姫は家族を離れたいとしたようで、後に姫が結婚することになる、オハイオ選出のロングワース・下院議員も乗船している。巡航団の団長のタフト長官は、フィリピン総督の発令を受けている。タフトがフィリピンをアメリカインディアン、原住民と同じような地位にあると解釈していることが、フィリピンをWardと読んでいる事から分かる。1898年にフィリピンの自由を求める人々は、スペインの植民地から解放されて、アメリカが支援して独立できる期待していたが、アメリカは、フィリピン人25万人を殺戮して、自分の植民地にしてしまった。

タフト総督は、フィリピン人が独立する能力がないと言い続けている。ルーズベルト統領が、ベストセラー作家として、自分がライフル銃で、白人キリスト教徒が、劣った人種を文明化することが、男らしいとのイメージ作りに躍起になったことも書かれている。

 

白人至上主義の淵源について触れている。アーリア人が、今のイランあたりのコーカサス地方から発して、アーリア人の血統を維持しながら西漸するという神話である。チュートン民族が純血のままドイツの森に居残って、太陽を追って西漸するという、白人の神話である。アングロ・サクソンの登場である。文明の三原則があり、それは、白人が全ての文明を創ったこと、白人が純血を保つときに文明は維持され、混血によって文明が失われるとされた。アングロ・サクソンが大西洋を渡り、北アメリカに達して、アメリカの白人は原住民の人口をプリマスからサンフランシスコ湾に至るまで抹殺、虐殺したのである。アメリカの建国に歴史の中での白人至上主義の残存についても解説する。十三州で建国したアメリカが、西へ西へと大陸を横断して、アメリカ原住民の殺戮を続けながら拡大していく血塗られた歴史を詩人や学者の主張で跡づけていく。1800年代に認識された社会科学も、白人至上主義を追認するものでしかなかった。二グロは従者にしか過ぎず、アメリカ原住民は殲滅を運命づけられているとしている。ルーズベルト大統領は、白人至上主義の先例を受けており、公式写真もライフル銃を片手に馬に乗った写真などを撮らせて、例えば、ホワイトハウスの中でテニスをすることなどは、軟弱なこととして公式写真など撮らせようとはしなかった。ルーズベルト大統領は、多少ひ弱な感じすらある青年時代であったが、白人至上主義の男らしさのイメージを出すために、西部の牧場で狩りをする話を全面に出している。1884年から86年まで、15ヶ月間を西部の牧場で過ごしただけで、しかも厳冬は避けて、マンハッタンと行き来していたのであるが、西部で過ごすというのは、ルーズベルト大統領の政治家としての出世の為の政治宣伝でしかなかった。コロラド州のアスペンが金持ちの子息のたまり場になっているように、当時は、ダコタテリトリーが、そうしたルーズベルトのような、金持ちの御曹司の生活場所であった。1886年、西部の男としてのイメージを作り出した後に、ニューヨーク市長選に出馬する。なんと、ダコタのカウボーイという触れ込みである。アメリカ人のアーリア人が、大陸を文明化したことを美化する本を4冊出版している。その4冊目を出版してから丁度4年後に大統領に就任することになった。

 

第三章は、ベニボレントな意図と題されている。

 

米国陸軍の基地が町になっていったが、同様に海軍力が太平洋に展開したのが、マッキンレー大統領の時代で、海軍長官補を務めたのが、ルーズベルトであった。

 

1844年にジェイムズ・ポークが大統領になった頃はまだ、小国で、ミシシッピー川までの領域であった。「太平洋に直行せよ、それが白人の運命であり、アングロ・サクソン人種の天命である」として、ポークはメキシコに出兵して、メキシコから、テキサス、ニューメキシコ、コロラド、ユタ、ネバダ、そしてカリフォルニアを奪取する。ミシガン州選出のルイス・キャス上院議員は、メキシコ人はいらない、領土がほしいのだと、発言している。

1890年のウーンデッド・ニーの虐殺の写真も掲げられている。アメリカの原住民が滅ぼされた証拠写真である。原住民が殺されて穴に放り込まれている写真である。すなわち、アメリカのフロンティアが消滅したことになったが、1893年には、大不況に陥っている。

19世紀末に、イギリスは50の植民地を持ち、フランスは、33,ドイツは13,ポリネシアの98%は植民地となり、アフリカの九割、アジアの56%が植民地となり、ただの七カ国が独立国であった。アメリカ陸軍が、大陸を横断して、海軍に引き継いだ。マハン大佐の出番である。アメリカの海軍は国境防衛を任務としていたが、攻撃任務を強調するようになる。マハン海軍大佐は、太平洋をつなぐリンクを造り、中央アメリカに運河を開鑿して、カリブ海をアメリカの湖とすることを提唱した。マハンの著書、海軍力の歴史に与える影響について、ルーズベルトが絶賛する書評を、アトランティックマンスリーに書いている。

 

マッキンレー大統領の写真が掲げられ、米国の軍隊が外国を侵略したときに、ベニボレントな意図で行ったという考え方を広めた大統領であるとしている。マッキンレーの時にルーズベルトは海軍長官補に就任するが、ワシントンの一大事は、ハワイ併合の問題と、キューバ侵攻を行うか否かの問題であった。ルーズベルトは、スペインに対する主戦派であり、カリブ海地域での戦闘の他に、海軍力でのフィリピン攻撃を提唱した。

 

アギナルド将軍の悲劇についても語る。アギナルド将軍は白人ではないが故にフィリピンという国家を統治するのにふさわしくないとの烙印を押される。アギナルドの最大の間違いは、アメリカが非白人の独立を認める可能性があると信じたことである。アギナルドは、米国憲法を詳しく読んで、植民地支配に権限がないことを知っているので、怖くはないと、短命のフィリピン共和国の閣議で発言したことがある。

 

1898年2月15日にハバナ港で、200人の海軍水兵が死亡するメイン号の沈没事件が発生して、スペイン側に責任は見当たらなかったが、マスコミは、対スペインの開戦を大々的に書き連ね、渋るマッキンレー大統領を非難した。ルーズベルトは海軍長官補として、主戦論を主張した。ルーズベルトは、キューバ侵攻に参加しているが、志望するという、メイン号キューバの兵が、黒人で構成されているのが気にいらないことの最大要因であった。ルーズベルトは、アメリカ白人の生きた広告塔としての役割も果たした。更には、スペイン人は白人の片割れであるから、キューバ人の参加は認めなかった。グァンタナモ湾が海軍基地として割譲されたのもこのときである。キューバの独立を認めることはなかった。ルーズベルトが、ワシントンで太鼓をたたき、香港駐在のジョージ・デューイ海軍元帥がマニラ攻略の作戦を練った。アギナルドは、フィリピン独立を書面で確約するように求めているが、アメリカは約束を守ると言い含めるが、後の歴史は、決して約束を履行しない事を明らかにしている。デューイは、マニラ湾に出撃したが、マニラ湾を米海軍が支配しただけで、他のフィリピンは、アギナルド将軍を長とするフィリピン革命軍が支配していた。フィリピンの初めての独立記念の祝賀が、1898年1月12日にあったが、その後に祝われたのは、なんと64年後であった。マニラの領事は、アギナルドの政府が、つまり、太平洋の二グロが800万人の人口を統治できるわけがないと書いている。ニューヨークタイムズなどは、アギナルド酋長などと読んでいる。マニラにおいても、ハバナの場合と同様、白人であるスペインとの妥協が、秘密の内に行われ、首都をフィリピンの原住民である、フィリピンの二グロに渡さないようにとの出来レースが行われた。ルーズベルトは、マニラがシナとの中継貿易港になるとの判断であったが、単に香港にアメリカの倉庫を借用すればいいだけの話であったのかもしれないが、アメリカがフィリピンで犯した過ちを身にしみて知るのは、ずっと後の事であった。

 

アメリカの対外行動の原理を端的に示す言葉は、ベニボレント(benivolent)という言葉である。日本語では「慈悲」とも訳されるが、本来の意味は「言うことを聞く者には慈悲が与えられる」という意味でもあり、それは、言うことは聞けばキリスト教を伝えて文明を教えるが、ダメなら抹殺しても問題ないという考え方である。

 

第四章は、太平洋の二グロと題する。つまり、フィリピンの物語である。

フィリピンを植民地化すべきか否かの議論があったように、教科書は書いているが、1832年に、すでに最高裁判所は、はくじんのキリスト教徒の男性を、アメリカ原住民のwardとの決定を行っていた。確かに、アメリカ反帝国主義者連盟が組成されて、フィリピンの併合に反対する動きも見られたが、「適者生存の法則で、弱い人種が強い人種に支配されるのは当然で、アメリカの人種が地上でもっとも強力であるから、致し方ない」との見解が圧倒的であった。マッキンレー大統領の論理は、帝国主義という言葉を使わずに、他の人種に哀れみを感じるのであれば、キリスト教徒として援助する義務があるという論理を採用した。イギリスの詩人、キプリングは、白人の重荷と題する誌があるが、副題にはアメリカとフィリピンという副題が付けられている。アギナルド将軍の統治が機能している事をも隠してしまった。1899年の2月4日、突然米軍はアギナルド政府を攻撃して、24時間で三千人のフィリピン人を殺戮している。西部のアメリカ原住民が虐殺された、ウーンディドニーの事件と同じように、円形の溝が掘られて、アパッチ族やシウク族と同様に屍体が投げ込まれた。フィリピンは、スペインから、太平洋の二グロ一人あたり二ドル、つまり二千万ドルでスペインから割譲されたとの論理で、アメリカ人はいい買い物をしたと信じていたが、百年後にバグダッドを制圧すれば、イラク全土を支配できると誤算したのと同様に、デューイ提督は高い買い物になると指摘していた。米軍のフィリピンにおける狼藉は目を覆うものであったが、時の3代目の総督アーサー・マッカーサーは、米国上院で、アメリカはアーリア人の末裔であり、軍事力を使って、西漸していると発言したが、とがめた上院議員は誰もいなかった。水攻めの拷問も日常的に行われている。水治療と名付けている。天井から逆さにぶら下げることを、ロープ治療と呼んでいる。米軍は、フィリピン人を傷つける数の4倍を殺した。1899年の随筆で、ルーズベルトは、平和は戦争を等してのみ達成されると書いている。1900年になって、軍人のマッカーサーに代えて、文民のタフトを登用したのが、マッキンレー大統領であった。タフトがマニラに総督として赴任したときには、誰も歓迎する人の姿はなかったという。マッキンレーは、大統領選挙に、ルーズベルトを副大統領として、選挙に打って出る。ルーズベルトは、41歳である。1901年3月23日には、米陸軍はアギナルドを逮捕する。アギナルドは敗北宣言を行う。1901年に軍政から民政に変わり、タフト総督はマラカニアン宮殿に居住する。カラバオと呼ばれる水牛に乗るタフトの写真も残る。米軍によってカラバオの九割が殺されたため、フィリピンの列島で飢饉が発生した。タフト総督は、アメリカに協力するフィリピン人としか交流せず、高等教育をする可能性すら考えた気配はない。1901年には、ルーズベルト大統領が就任したが、フィリピンではサマール島で島民が反乱を起こして51人の米国人が殺される事件が発生して、ジェイク・スミス将軍の元で鎮圧作戦が行われる。海兵隊のウオーラー少佐に対して発出したスミス将軍の命令は、「捕虜などいらない、徹底的に焼き払って殺す事だ」との指令で、10歳以上は兵器を持つことができるから、10歳以上のサマール島民を殺戮することうんとなった。さすがに、残虐な米軍の話がワシントンにも伝わり、野蛮な米国統治について質疑を求める下院議員も現れたが、ルーズベルトの反論はいつもの白人至上主義のフィリピン人がアーリア人の西漸に追いついていないと言い訳するだけであった。しかし、真実の姿がどうであれ、ベニボレントな意図という考え方が染みついたアメリカ人にとっては、フィリピン人が文明化していないと主張するだけで十分であった。1902年に至って、フィリピン統治の内情が知れ渡るようになったが、それを糊塗するために、モロの住民以外は平定したとの宣言を行った。歴史の本によれば、米軍は、20万人から30万人のフィリピン人を殺害したとする。しかも、41 ヶ月間30万人のフィリピン人を殺害したわけで、第二次世界大戦中、米軍は56ヶ月で40万人の死者を出している。1902年に平定されたはずのフィリピンでは、南部のザンボアンガでは100年後の今でも平定作戦が継続している。

ベストセラー作家としてのルーズベルトが大統領になり、白人至上主義を適用したフィリピン統治が野蛮ではないかとの批判が高まった。ライフマガジンの1902年5月22日号は、フィリピンで、アメリカ兵がフィリピン人に水攻めの拷問を加えている絵を表紙にしている。政治宣伝に長けたルーズベルトは、190年にセントルイスで開催された万国博覧会で、フィリピンがいかにアメリカ統治の下で急速に文明開化したかの大宣伝を行う。フィリピン人を鏃と弓矢を片手にした猿人として描いており、その絵にミッシング・リンクと題を付けている。そうした猿人がアメリカの学校に通い歌を歌得るようになったことを、ルーズベルトは、すばらしいことだ、かくも短期間に進歩したと述べている。

 

第五章は、ハワイの併合の物語である。

 

大代表団を乗せた満州号がホノルル港に入港したのは、1905年の7月14日である。七年前に米国併合が行われ、ハワイ王国は、廃止されていた。ハワイは、5000人しかいないHaole、 ハオーレと呼ぶ、白人キリスト教徒の持ち物になっていた。歓迎会に出席するハワイの原住民はいなかった。1778年にクックがハワイを‘発見した’とするが、ハワイ人の寿命はヨーロッパ人よりも長命であったが、クックの持ち込んだ結核などの病気が蔓延した。米国捕鯨船が寄港するようになり、キリスト教の布教が行われた。ハワイの文化が敵視され、100万人の人口が、1832年にはたったの13万人となった。ハワイでは、布教と砂糖の植え付けとが同義語であった。1875年の互恵条約で砂糖の関税をなくしたあげくに、ハワイの軍事基地をアメリカのみが保有するという規定を入れている。もちろん、ハワイには反対の声が合ったが、150人の海兵隊を出動させて鎮圧している。1887年7月6日、ホノルルライフル協会という、白人至上主義の団体が宮殿を襲い、新しい憲法を強制した。1893年2月14日にハワイ併合条約が、白人の羽合住民の署名で結ばれた。当時のクリーブランド大統領を含め、併合に批判的な意見も見られたが、ハワイの併合が決定された。1898年8月12日にホノルルでハワイ併合の式典が行われたが、パイナップルや熱帯果実で有名なドールが大統領となった式典には、当然のことながら、リリオカラニ女王は出席しなかった。

 

いよいよ、第六章は、名誉のアーリア人と題している。日本人のことである。

 

タフト団長は、ルーズベルト大統領の秘密の指令を受けていた。横浜に到着した満州号の歓迎ぶりは、至りつく競りで、万歳の声が響き渡ったという。日露の海戦で勝利したばかりの日本は、アメリカが中立を保つことの意味を承知していた。アメリカのアジア進出を認める代わりに、日本が朝鮮を保護国化することをみとめるという秘密の合意を知るものは、明治天皇を含め、少数のもに限られていた。ペリー提督の下に、大艦隊を派遣して、日本に船の燃料の補給基地を求め、開国を迫った。友好条約をまず結ぶやり方は、アメリカ原住民とのやり方と同じであった。1853年7月8日、江戸湾にはいり、最初の領事となったタウンゼンド・ハリスはが、日米和親条約を締結している。日本の富国強兵の政策は、白人国家が、アジア人を人種的に劣等である考えてるとと見抜いて、それに対抗しようとしたものである。日本人はちょんまげを切って、洋服と山高帽を被るようにした。アメリカ人にとっては、極東のヤンキー、又は名誉白人と考えるようになった。琉球処分、日清戦争、と続くが、その中で、米国公使のチャールズ・デ・ロングが、台湾征伐などを後押ししているのは興味深い。1872年にいたって、チャールズ・LeGendreが、初のお雇い外国人として、日本のアジア進出の理屈付けとしての国際法を教えた。アメリカのモンロー宣言についても、説明して、日本版のアジアモンロー宣言を提唱している。大東亜共栄圏の考え方にも繋がっていった。日本がアングロサクソンのやり方をまねて、アジアを未開の地から文明の地に引き上げることが必要であると主張した。1873年の台湾侵攻に当たっては、米国の軍事顧問も参加している。日本の朝鮮に対するやり方は、ペリー提督のやり方を踏襲するものであった。

 

第七章のはじめに、1904年のルーズベルトの言葉として、「日本の勝利を心から喜んでいるが、それは、日本がアメリカの試合をしているからである」と引用している。日清戦争に勝利した日本に対しては、他の白人国家である、ロシア、フランス、とドイツの三国によって三国干渉が行われた。ルーズベルトが大統領となり、モンロー宣言も防衛的なものではなく、攻撃的な内容に変質した。米国軍隊が、国際警察ともなった。ロシアの大陸国家の当方進出をアングロサクソンが抑えるためには、名誉白人である日本の力が必要であると考え、日本の朝鮮支配は、進歩的な社会実験であると考えた。旅順港の、日本海軍による奇襲攻撃も歓迎されるもので、日露戦争の勃発で、米国は、日本の肩を持つものであった。

 

第八章は、日本のアジア版モンロー宣言と題している。

 

ハーバード大学出身の金子堅太郎男爵の縦横無尽の活躍が紹介される。金子男爵は全米各地で講演を行い、日本は黄色人種ではあるが、心は欧米人と同様に白いと発言する。金子男爵の演説は小冊子となって販売されるほどの人気であった。金子男爵は、白人至上主義の神話にも詳しく、逆手をとったような説明を行った。明治政府の外交宣伝は優れており、アメリカの日露戦争に対するマスコミは、ほとんどが日本の味方をしていた。もちろん、日本に対する疑いの念もあったが、柔術とレスリングの試合をして、柔術が勝ったとの話も書いてある。新渡戸稲造の武士道を、ルーズベルトが読んでおり、また、柔術の練習をしたなどとの記述もある。ルーズベルトは、1905年3月には、大統領として二期目になる。救済と題するアングロサクソンとアメリカ原住民の闘いを表現した彫刻の前で、就任の制約を行う。この彫刻は、今では、政府の倉庫にしまわれているが、100年にわたって大統領の宣誓式が、このアメリカ原住民を虐殺月には、コロラド州で、熊狩りをして、自分の政治家としてのイメージを強化している。コロラドでマラリアにかかっているが、これは秘密にされた。熊狩りの獲物の熊は、後に明治天皇に献上されている。

金子男爵は、ルーズベルトの夏の別荘に宿泊したことがあるが、大統領が蝋燭二本を片手にして、また、夜の寒さを気遣って、てづから毛布を運んだ話なども紹介している。そこで、金子男爵は、ルーズベルトが、日本のアジア版のモンロー宣言を支持したとする。1905年7月26日、訪日したアリス姫は、明治天皇との私的な食事会に招かれている。1905年7月27日には、ルーズベルト大統領は、公式に、金子男爵、小村外務大臣、

高平大使を、大統領専用ヨットのメイフラワー号に招待している。東京では、タフト団長と、桂首相との間に、秘密協定が合意される。会話記録は残らず、会談が行われた芝の宮殿は後に火事でもえてしまった。アメリカは、日本との間に同盟の条約があたかも存在するかのように、日本のかたをもった。日本人は、秘密を守る能力にも優れているとの見立てで、タフト団長は、大山巌元帥夫人が、まったく軍事機密に及ぶような話をしないことに驚いてほめている。日本国民は、こうした動きを知らされることなく、日露戦争の賠償金の問題のみに関心を寄せて、日比谷焼き討ち事件となったことはよく知られている。

 

第九章は、満州号に乗った代表団が、横浜から長崎を経て、マニラへの航海をたどる。代表団は、マニラに九日間、島々を13日間陸軍のローガン号で周り、マニラに再度5日間いて、香港に向かう。一枚のレセプションの写真が残るが、アリス姫は、フィリピン人の客と話をしようともしていない。フィリピン人の独立可能だとの意見には耳を傾ける事がなく、むしろ失笑を漏らしたという。

 

第十章は、代表団が、香港と広東を訪れた事を記録する。アメリカ製品のボイコット運動についてのべるとともに、アヘン貿易などについて解説する。キリスト教徒がアヘンを持ち込んだので、シナ人はイエスのアヘンと呼んだという。大陸横断鉄道の建設に従事した広東からのシナ人の事についても詳細に紹介する。黒人とシナ人は出て行けとの主張を掲げるハーパー週刊誌の写真も紹介されている。米国国内では、シナを排斥して、シナ本土では、門戸開放を求めるという矛盾であった。

フランクリン・ルーズベルトが、ボストンのアヘンで財をなしたデラーノ家の相続人であったことにも言及している。

 

アリス姫は、タフト団長と別れて陸路北京に赴き、清の皇后陛下に面会している。

 

第十一章は、日露戦争のポーツマス条約による戦争処理が、日本国内では不評で、アリス姫は、北京からソウル、下関を経て、再度日本に戻ってくるが、その間すっかり、親米の雰囲気が薄れて、アリス姫は、何人かと問われるとイギリス人だと答えるようにと言われている。ソウルでは、アリス姫は、高宗帝に迎えられている。仁川からソウルまでは、皇帝差し回しの特別列車である。アリス姫はシベリア号という名前の汽船で太平洋を渡るが、世界記録の13日間で横断する。

 

第十二章は、アメリカを兄と慕う朝鮮を切り捨てて、日本が朝鮮を支配することを認めるアメリカを描く。1905年11月28日、米国は、ソウルの外交施設を閉鎖する。

1941年12月8日、パールハーバーの奇襲攻撃を受けたフランクリン・ルーズベルト大統領は、国会議事堂に車いすで入り、日本の攻撃を非難したが、真の理由について触れることはなかった。日本のアジア版モンロー宣言を支持するというテオドア・ルーズベルトの約束は守られなかった。そもそも真珠湾攻撃には、米国本土攻撃の意図もなかったし、日露戦争の旅順港奇襲と同様に、アジアの戦争に、米艦隊が出撃できないようにした作戦に過ぎなかったのではないのか。1932年、金子堅太郎男爵は、フォーリンアフェアズに論文を掲載しているが、日本の満州政策が批判されているが、日本のモンロードクトリンを実行しているまでであると、ルーズベルトは公言しないで逝去したと、書いている。大東亜共栄圏の考え方が、40年代に入り急速に支持を集めるが、これも、ル・ゲンダー将軍とルーズベルト大統領が日本に植え込んだ考え方であった。日本は、自分たちの太陽を追い求め始めていたのである。

 

最終章は、太陽を追い求めてという題である。タフト団長は、清の米貨排斥の意味合いも、アリス姫がなぜポスターで侮辱されなければならないのか、広東でも闇に紛れての視察にしかならなかったのか、歓迎の晩餐会が拒否されるのか、理由が分からなかったようである。1906年3月には、米国陸軍は、1000人のイスラム教徒を惨殺している。マーク・トウェインは、キリスト教徒によるとさつ行為としたが、ルーズベルトは、アメリカの旗の名誉を守る為の優れた兵器の行使、としている。ルーズベルトイエスマンであるタフトは、1908年に大統領に就任したが、12年の選挙では、ルーズベルトは心変わりをしてタフトとの関係がまずくなり、民主党のウィルソン大統領が誕生することになった。ルーズベルトは、徐々にフィリピンの重要性がないことに気づくが、第二次大戦後のフィリピンを見ても分かるように、民主主義の演劇を教え込まれた一部の連中が支配する国として残っているだけである。

白人のクリスチャンに執っていいことは、世界にとってよいことだとの信念が揺らぐことはなかった。

 

日本は、アメリカがシナの市場に入ることを支援するとしきりに主張したが、日露戦争が終わると、日露は再度の交渉をして、満州を分割してしまった。満州になだれ込んだ日本の外交官や、軍人は、日本のアジア版モンロー宣言を口にした。フランクリン・ルーズベルトは、日本がテオドア・ルーズベルト大統領の勧めに従ったことを批判したのである。

テオドア・ルーズベルトは、ベストセラー作家で、大衆のイメージ操作に長けていた。ルーズベルトは、平和は戦争によってのみ達成される、と主張したが、20世紀に米国はアジアに軍事力を展開して、その平和を達成するために巨万の軍事費を出費した。「未だに、米国には、白人至上主義で、「太陽を追い求める」ものが多い」と締めくくっている。

 

ちなみに、今、日本で米国海兵隊のことが話題になっているが、海兵隊は唯一、海外展開に関して議会承認が不要で、大統領命令だけで可能である。もともと、抑止力や防衛

軍隊ではなく、攻撃又は外征を目的にした軍隊であることを、このインペリアル・クルーズからも読み取ることができることを補足しておきたい。

Prophecy?

山崎養世氏の、論文がネットに残っていた。今読んで、むしろ新鮮に読める。

預言のような記事である。国営銀行と国営保険会社ができてしまったのではないのか。

次の記事も残る。
分社化してとたんにコストが上がり、民営化した意味がなくなると指摘したあたりは、図星だった。見直しをしたが、郵便事業会社と、郵便局会社を統合したにとどまる。山崎氏が指摘したように、リスクは、郵政公社時代よりも確実に高まったのではないのか。
山崎氏は、年金業務を始めるべきだとの提言をして話題を呼んだが、郵政民営化後は、年金業務どころか、新しい業務など何処吹く風で、閉塞感が増しているのではないだろうか。
その他の論文もひとまとめに掲載したサイトが残っている。ご参考まで。
特に高速道路の問題については、郵政民営化よりも虚妄の度が高いと考えられるが、それを喝破した山崎氏の議論が秀逸である。それも、まだネットに残っている。http://www.asyura2.com/09/senkyo69/msg/434.html

タブノキ


タブノキ


タブノキ


Which Can Carry out Postal Unviersal Service?

公社と民営化、どちらがユニバーサルサービスをより良く維持できるのか?

という命題について、豪州とニュージーランドの比較研究が行われた。岡山大学大学院社会文化科学研究科の西垣鳴人教授による研究論文が発表されている。(生活経済学研究2013年3月(第37巻))

同論文は、結論的考察、と言う題で最終章としてまとめているが、当方ブログは内容を紹介するために次のように要点をまとめる。

「郵政事業の社会目的を、郵便と金融サービスのユニバーサルサービスと提供することであるとして、オーストラリアとニュージーランドとを比較して、どちらが社会目的を実現する為に有効であったかを比較分析した。オーストラリアは公社形態を、ニュージーランドは民営化形態をとった。

制度改革が行われて6年目までを初期段階とすると、ニュージーランドの民営化は明らかに劣化が著しかった。オーストラリアの公社であっても劣化が生じたが、住民のサービス水準に関する限り、オーストラリアの公社化の方が社会目的にとっては有効である。

7年目以降は、単純な比較が難しくなる。ニュージーランドは、郵便局数を回復させ、質的な改善を図り、豪州の場合はネットワーク劣化に一定の歯止めはかかったが、回復には至らずサービス内容の改善は進まなかった。ニュージーランドは、国有維持のままの民営化であり、収益改善を図り、しかも、政権後退をはたして経営方針の転換をはかったという、特殊事情があり、民営化一般に広げて考えることはできない。(小泉首相が、ニュージーランドを訪問して、クラーク首相に民営化されたポストを指さして使われているかと質問して、もうそれはないと指摘されて、恥を話が、巷間に伝わっているが、ニュージーランドが郵政民営化の軌道修正を必死に行っていた頃のエピソードであるが、むしろマスコミ共々、郵政民営化が強行されたことは、国益を失することとなった。)

(公社から)民営化すれば(しても)社会目的は達成される、と言う民営化推進はによって提示された仮説を明確に否定される。滝川好夫教授などが、あえて郵政民営化に反対する(日本評論社)などと主張したことを、今となっては実証している。ただし、長期の政治過程を踏まえての観点からは、いずれの仮説が正しいかは明言はできず、さらなる検証が必要である。」

2012年10月に施行された改正郵政民営化法は民営化の行き過ぎ是正、あるいは民営化の失敗を是正する為に、金融ユニバーサルサービスの義務づけや分社体制の一部見直しなど、郵政民営化による社会目的の劣化をくい止めるための一部の手直しであった。郵政民営化法が、議論されたときには、公社を維持するのか、民営会社に移行するのかが争点であったが、今回の見直しでは、民営会社の形態の変更はないままである。

株式の売却なども、凍結されていたものが見直しされており、むしろ国有の立場を離れることが奨励されるような見直しとなっている。ニュージーランドの場合では、郵政民営化で激しく社会目的が毀損して、ようやく回復させたが、それも国有の民営化であったことからようやく改善できたことを指摘していることは興味深い。郵便貯金と簡易保険を廃止して、似て非なる金融サービスを作り上げ、分社化して株式を売却して、国民資産を外国勢力に移転しようとする陰謀はくいとめられなければならない。

オーストラリアとニュージーランドに於いて先行した、郵政の社会目的の壮大な社会実験の功罪が真剣に学ばれて然るべきである。しかも、日本に於いて実行されている郵政民営化が大失策に至るような縮小が継続しており、ようやく行き過ぎ是正の機運が醸成されつつあるなかで公表された。かなり抑制的な意見となっているが、それだけに良心的な好論文である。

Confrot women issue is only a. War Propaganda and unfounded story should be rectified

Corrutpion, Scandal or Political Struggle?

http://facta.co.jp/article/201305020.html

石破茂幹事長はみるみる顔色を変えた。

「全特(全国郵便局長会)の地方会・OB会は先週、参院選比例代表の公認候補に柘植芳文前会長の名前が発表されて大変驚いています。残念ながら組織の大半は寝耳に水。動揺が広がっていて、肝心な選挙の足腰がバラバラだ。このままでは幹事長、あなたの顔に泥を塗ることになりますよ」

3月12日、自民党本部。信頼するベテラン参院議員たちの思いがけない忠告に、石破氏はその場で黒田敏博全特会長に電話した。

「あなたは組織を全部まとめた上で公認申請したんじゃないのか。中央本部の話だけでは信用できない。こちらで確かめるから、実働部隊となる地方会・OB会の名簿を早急に提出して欲しい。きちんと揃わないなら、あなたは政権与党の幹事長を騙したことになる」

2日後、東京・六本木の全特中央本部に全国12地方会の地方会長が緊急招集され、名簿のとりまとめが ………

会員制の雑誌ファクタに、上記の記事が掲載されている。事実であれば残念至極なことだ。当方ブログとしては、新自由主義の謀略と対峙してきた勢力のひとつとみてきただけに、組織の弱体化と腐敗が惜しまれる。関係者の奮起による自浄作用が求められていることになる。

Kuroshio 91

大日本タブノキ名鑑

 タブノキ(古語では都万麻(つまま))は九州沖縄からクスノキの北限より更に北の三陸の沿岸まで自生する。タブノキは、古来の自然の森の姿を憶い残すべく、利害得失なく植えられた。茨城の息栖(いきす)神社のタブノキ林は人の手で沖洲に植えられた好例だ。森は、鳥や虫、小動物やバクテリアの住処として生命が集まり共同体を創り、地震や火事や大風から生命を守った。阪神大震災で、筆者の小学同級生の花田君が焼死したが、奄美の同胞が居住する神戸市長田区の人口密集地域で、鎮守の森やアラカシの並木が延焼を止めている。六甲山麓の高級住宅街も、広葉樹が根を張って崩落していない。鎮守は拝殿の建物よりも森が優先するから、木偏で杜(もり)だ。鎮守の森は「潜在自然植生」という人間活動に影響されない本来の植生を維持する努力と知恵の証だ。タブノキはまた、イヌグスとも称し、横浜の開港資料館の中庭の木には、玉楠の美称がつく。枝葉に粘液があり、乾燥させて粉にして蚊取り線香などの粘結剤にする。東日本大震災でも大船渡や南三陸町で、タブノキを中心とした広葉樹林はコンクリ防波堤を越えて襲った津波を食い止めた。これは冷厳な事実だ。
 太平記は南北朝の動乱を弔うために人名を羅列するが、その鎮魂の手法に則り、タブノキの所在の一部を記して、黒潮文明の先達に畏敬の念を捧げる。福田寺のイヌグス(愛知県設楽町)、鹿島路のタブノキ(以下「のタブノキ」を省略)(羽咋市)、野槌神社(高知県香南市)、原(南さつま市)、上村家(福井県若狭町)、波崎の大タブ(茨城県神栖市)、高爪神社(石川県志賀町)、高尾神社(島根県雲南市)、地蔵院(埼玉県鳩ヶ谷市桜町)、府馬の大クス(香取市府馬)、津富浦(成田市津富浦)、古里付のイヌグス(東京都奥多摩町古里付)、梅沢のイヌグス(奥多摩町梅沢)、煤ヶ谷のしばの大木(神奈川県清川村煤ヶ谷字古在家)、皇大神宮、江ノ島神社、臺谷戸(だいやと)稲荷(藤沢市)、子安の里(横須賀市)、田子藤波神社(氷見市)、長坂の大イヌグス(同市長坂字前田)、大タモの木(鳥取県八頭町)、仮宿のなげどん(鹿児島県曽於(そお)郡大崎町)、小浜神社の九本ダモ(福井県小浜市城内)、若宮八幡(福井県大飯町名田庄三重)、峰山神社(岐阜県揖斐川町樫原)、梅地(静岡県川根本町梅地)、山宮阿弥陀森大タブノキ(鳥取市)、梶貴船神社(福井県坂井市)、北菅生(福井市北菅生町)、中浜諏訪社(糸魚川市)、才之道神社(舞鶴市)、古森神社(京都府伊根町長延)、香取五神社(滋賀県西浅井町祝山)、森神社(滋賀県高島市新旭町)、報本寺(下田市)、前田氏の大タブ(鳥取県琴浦町出上)、久木迫霧島神社(志布志市)、石田家(石川県珠洲市)、熊谷町(同)、姫宮御前(若狭町)、信主神社(若狭町)、滝ノ入(埼玉県飯能市)、三島神社(伊東市)、山口家(福井県美浜町)、井出八幡(山梨県南部町)、諏訪神社(鳥取県八頭町)、宮分(徳島県神山町)、橋本天満宮(大分県中津市)、秋葉神社(石川県七尾市)、以布利(高知県土佐清水市)、諏訪神社(鳥取県八頭町)、雪見タブ(糸魚川市)、石庭八幡(滋賀県高島市)、阿太加夜神社(島根県松江市)、天満宮(舞鶴市)、厳島神社(香川県三豊市財田町)、荒神堂(宮崎県えびの市)、赤塚(新潟市)、高仏の大タブ(長崎県新上五島町荒川郷)、日吉神社(輪島市)罔象女(みづはのめ)神社(石川県志賀町)、白山神社(加賀市荒木町)、白鬚神社(岐阜県揖斐川町)、洲原神社(美濃市)、天久神社(舞鶴市)、成相寺(宮津市)、狩場(佐賀県有田町)、髙野(福井県高浜町)、千歳(舞鶴市)、上法万のはねり(鳥取県琴浦町)、町屋(福井市)、清涼寺(彦根市)、山長神社、上余戸(倉吉市)、札之尾番所(日南市)、大比田観音堂(敦賀市)、國主神社(鳥取県湯梨浜町)、彦ノ内谷川天満社(津久見市)、大谷神社(珠洲市)、諭鶴羽神社(洲本市)、鎌の宮(中能登町)、島陰白山神社(宮津市)、布勢平神社、幡井神社(鳥取市)、八重山(西都市)、海前寺(能登町)、大楠劔神社(越前町)、貝原塚八坂神社(竜ヶ崎市)、霞(福井市)、長瀬八幡神社(兵庫県香美町)、大宮八幡神社(阿南市)、御前嶽神社(大分県日田市)、金蔵寺(輪島市)、下宮神社(京都府与謝野町)、岩戸神社(宮崎県小林市)、鹿小路(茨城県常総市)、後谷(柏崎市)、西側神社(福井市)、神野八幡(福井県高浜町)、小川神社(若狭町)、知恩寺(宮津市)、利椋(とくら)八幡(敦賀市)、少彦名神社(同)、神子神社(若狭町)、中島神社(米子市)、佐比売山神社(島根県大田市)、六社神社(揖斐川町)、円の谷(津和野町)、蚶満(かんまん)寺(秋田県象潟)、本間家(山形県酒田市)、飛島(山形県)、三崎公園(遊佐町)、住吉神社(鶴岡市)、津川(岡山県高梁市)、滝沢(浜松市)、小牧山(愛知県小牧市)、芝離宮庭園(東京都港区)、浜離宮庭園(東京都中央区)、東江(あがりえ)上(沖縄県伊江島)、明眼(みようがん)の森(徳之島伊仙町犬田布(いぬたぶ))、岩崎武甕槌(たけみかづち)神社(青森県深浦)、船越大島(岩手県山田町)、三貴島(釜石市)、椿島(南三陸町)。八丈島にタブノキ(島名マダミ)の叢林があり、その樹皮で黄八丈の樺色を染める。(つづく)

From the Ruins of Empire

アジアの覚醒についての本が、ベストセラーになっている。初来日した著者の会見の記録である。対馬海戦における日本の勝利が世界に与えた影響について解説する。歴史の書き換えの一端だろう。当方ブログからすれば、生まれ変わったパル判事が来日したような妄想にとらわれたことだった。

Oliver Stone and Hisotry Revised

http://www.nhk.or.jp/pr/keiei/shiryou/soukyoku/2013/03/004.pdf

Corrupt Supreme Court ad Foreign Domination

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-b6ef.html

日本側の資料も公開すべきだ。資料がもしなければ国家の体をもなしていないのかもしれない。

No TPP

Forests

Born Free

「月刊日本」6月号 ,
地震の年の6月号である。復興とは何かを考えさせる記事がネットにあったので、転載する。

     熊野の地で日本を思う

 夜寒で避難所に炊き出しの応援に行く体力に欠けるが、何か出来ないかと、熊野の本宮大社に詣でて日本復活祈願をした。
 四月一五日の早朝から本殿祭が始まった。
 宮司は「大震災があり、祭りの時間を知らせる花火やアドバルーンをあげることを自粛したが、その他の行事は淡々と進めることが大事である。人と自然との共生、東北で亡くなられた多くの方々の鎮魂を祈ります。
 明治二十二年の大水害で本宮大社は壊滅的な打撃を受けたが、僅かに二年の間に今の山間の丘陵地に移築することに成功している。しかも重機がない時代に大がかりな復興事業を成功させている。来年は大水害から一二〇年の節目の年として、社殿修復等の工事を進める」と決意を述べられた。
 先人の迅速な修復に習うためにも、決断して迅速な行動に移して行くことが大事だとの趣旨の挨拶があ...ったが、聴衆の中からは、現下の日本の政治指導者の欠如を想像したせいか、嘆きの声か溜息か、はたまた失笑とおぼしきさざめきが聞こえた。
 午後には、神輿が本宮大社の旧地である大斊原まで練り歩いた。満開の桜の中で、斊庭神事が大斊原で挙行され、熊野修験が大護摩の火を焚いた。復興祈願をするにふさわしい大日本の聖地たる風格であった。
 本宮大社の旧地は熊野川の中州にある。かつては、河口の新宮からの船の往来が今より頻繁で、古代の船着き場があったようだ。
 明治二十二年に起こった大水害は人災であり、明治政府が神社の合祀を画策して紀伊の神社林の巨木を伐採したから、その結果山が荒れて大水害が起きたに違いない。
 南方熊楠の旧宅は田辺に残っているが、隣地に顕彰館が建てられて、約二万五千点に及ぶ資料を整理しているので、帰りに立ち寄った。
 昭和天皇の御製「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」の歌碑が敷地に屹立している。昭和四年六月一日、御召艦長門に六隻の艦船を従えて南紀を行幸した昭和天皇は、熊楠の推奨する神島に上陸して粘菌を観察され、後刻艦上で神島の植物に関する御進講を受けている。昭和三十七年南紀に再度行幸の天皇陛下が、熊楠の思い出を話され帰京後発表された歌である。
 「神島には 一枝も心して吹け沖つ風 わが天皇のめてましし森そ」という熊楠の赤誠の歌碑が、昭和五年に建てられて今に残っている。神島とは田辺湾にある面積三ヘクタールの島である。
 神島と書いて、訓は「かしま」であり、神は建御雷命であるというから、常陸の鹿嶋神宮との関係も容易に想像される。鹿嶋が神島であることを田辺の記念館を訪れるまで知らなかった不明を恥じた。神島は古くから不伐の森であったが、明治四十二年に神島の社が近くの神社に合祀され、森の伐採が計画された。南方熊楠はこれに反対した。
 明治政府は、明治四年の太政官布告で全国の神社の格付けをして、明治九年には神社合祀の法律基盤を固めた。紀州では特に急進的な合祀が行われたとされるが、きっと巨木の利権があったからに違いない。
 南方熊楠が、神社の合祀合併とそれに伴う神社林の伐採を憂えて、長文の論攷を初めて発表したのは、明治四十二年九月である。神社の森がかけがえのない生命の貯蔵庫であることを知り、日本という国の文明の根本が、そうした小島の森や鎮守の森に宿っていることを、大英帝国の博物館での勉学によって知ったと思われる。
 大正七年に至ってようやく、「神社合併は国家を破壊するもの也。神社合併の精神は悪からざるもその結果社会主義的思想を醸成するの虞あるを持って今後神社合併は絶対に行うべからず」との意見が通った。熊楠の反対で、神島の森、熊野古道の野中の継桜王子社の森、那智の滝の原生林などが残ったが、大方の神社林は切り倒されてしまった。明治の神社合祀は、小泉構造改革の破壊とも似た神殺しであった。近代の宗教秩序を導入し、合併によって効率化する発想であった。
 神社合祀の場合には、巨木が利権となり、木を伐ってそれを売ることで、一部の勢力が利益を上げるという構造であった。列島に繁茂していた巨木が外国勢力の手に渡って加工されていったとすれば、現代の構造改革協議という外国金融勢力の支持によってなされた虚妄に限りなく近い。事実、北海道の樫林は外国で酒樽になった。
 神島は天皇が愛でて、南方熊楠とその継承者が厳重に守って保護したにもかかわらず、マツやタブノキの巨木が弱って枯れ、少しずつ荒廃しているという。南紀でも魚つき林は殆ど破壊されたし、神島のある田辺湾や海岸線は、コンクリートによって津波の力を消す浦々を埋め立ててしまった。
 さて、東京に帰り、原発の写真集をみてみると、全部が海岸にあるが、テトラポットを積み上げた形で自然の力をなめきっているように見えた。心して沖津風が吹いたせいか、熊野灘の原発建設の話は立ち消え・中止になっている。

Kuroshio 90

 

「いのちを守る森の防潮堤」を!

昨年に続き三月一一日午後二時から、「東日本大震災で被災した方々の冥福と天地神々の鎮魂、被災地復活と日本再生の祈りを捧げる祈りの日」が、世話人代表を元参議院自民党議員会長の村上正邦先生、実行委員長を医療法人博翔会会長、その他四人の世話人が主宰して明治記念館で執り行なわれた。実行委員長の開会宣言があり、開会挨拶があり、二時四六分には、「六メートルの津波が来ます。早く高台に避難してください……」と防災無線で呼びかける南三陸町の故遠藤未希さんの声が、満員となった明治記念館の富士の間に響き渡った。黙祷をした後に、参加者全員が白菊の花を献花した。尺八の演奏の後に佐藤栄佐久前福島県知事の挨拶があり、福島の学園の東京在住卒業生で編成する「ふるさとを思う女声合唱」が披露された。

休憩をはさんだ第二部では、森の防潮堤をテーマに、植物生態学者の宮脇昭先生と、仙台の輪王寺住職の日置道隆師、元俳優の菅原文太氏が宮脇教授の応援演説をするかのように登壇した。会場受付では、宮脇昭著『瓦礫を活かす森の防波堤』(二〇一三年、学研)が販売され、被災地の沿岸に土地本来の木を九千万本植え「いのちを守る森の防潮堤」を築く構想を提案した。しかも、瓦礫を焼却するのではなく、復興のための資源として土と混ぜ、ゆっくり作用する肥料のように「ほっこり」と土盛りをし、まっすぐ直下に根が入り込むように、深く根を張るタブノキやシラカシの高木などを複数植えていく方式を説明した。被災地の跡を調べると、アカマツやクロマツなどは、防潮林として機能を果たすことなく根こそぎ倒れたが、タブノキやシラカシ、ヤブツバキなどの高木と、その土地本来のマサキやネズミモチなどの中低木は大津波に耐えて生き残ったことがわかった。日本人の頭には、海岸の松、つまり白砂青松がこびりついているが、これは江戸時代に行なわれた防災対策として定着した海岸の景色であり日本古来のものではない。今回の東北大震災で図らずも、江戸時代以来の防潮・防災林としてのマツの限界が明らかになり、単植林は脆弱であり、混生してようやく防潮林としての機能発揮が期待できることが証明された。マツにこだわって他の木を切ってしまっては、防潮林として脆(もろ)いのである。

宮脇昭氏は世界四大文明と呼ばれる、メソポタミア、エジプト、インダス、黄河文明のいずれもが畑作と牧畜を生業とする家畜の民が作った文明だが、現在の地中海、ヨーロッパ、アメリカ、そして漢民族の文明もその延長線上にあり、いずれも土地本来の森を破壊して都市文明を繁栄させたので、結果的にローマ帝国のように滅亡に至るであろうと、植生の調査から結論づけている。日本では、家畜を飼育してその肉を食べる習慣もなく、森を皆殺しにするどころか、牧畜を何とか導入しないで森を草原にしない努力が重ねられてきた。水田耕作を主な食料生産としても、水田は国土の一割にも満たないで、七割はいまだ森と林に包まれたままで、里山に鎮守の森を作って、日本人の生活様式と文化をはぐくむ母胎のような森を温存してきた。むやみに人の手が入ると祟りがあるとして、古墳や祠、神社や寺を建てて、森を守ってきたのである。関東大震災の時に、清澄庭園では、避難してきた二万人を荒れ狂う大火から救っている。明治神宮の人工の森は東京大空襲でも全焼を免れているし、山形の酒田市の大火や阪神淡路大震災でも土地本来の森が「緑の砦」(とりで)となって多くの命を救った。ちなみに明治神宮の森は、日本全国から寄せられた約一三万本の献木により造成され、わずか百年で自然林に近い樹種の構成になっている。昨年、宮脇教授は天皇皇后両陛下に御進講を行ない、そのとき両陛下から「平成の森を作ってください」という御言葉を賜ったという。

登壇した菅原文太氏は、村井宮城県知事が主導して現在、沿岸の一六〇キロ余に渡ってコンクリートの防潮堤を作る工事を進めているが、こんな無駄は即刻差し止めるべきで、むしろ「瓦礫を活かす森の防潮堤」を建設すべきだと舌鋒を鋭くした。村上正邦先生は「祈りの日」に先だちコンクリート防潮堤の建設現場と予定地を視察、愚行と断定した上で、「美しい景色と自然が一体化していることが大切で、コンクリート防潮堤の支持杭が土中に打ち込まれれば森から海に至る地下水脈が断たれ東日本の海は死に瀕するばかりか、海の景観をコンクリートの壁で隔てる防潮堤が、自然と人間のつながりを断ち切ることになる」と指摘、また、「科学的な検討が何一つ加えられておらず、環境アセスメントすら適用を除外され、大津波の被害を防ぐための本格的な議論がなく決定された」過程を問題とした。亀井静香議員は工事中止を求め早速国土交通省と交渉を開始したと報告した。村上氏は「両陛下の御心に添った亀井さんの行動は政治家の鑑で、政治家や役人が早くから両陛下の御心に添っていたら、復興がこれほど遅れることはなかったでしょう。現在の日本の弛緩は、その元凶が、使命感を失った政治家のていたらくにあったと断言せざるをえません」とも結語している。(つづく)

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